社会経済的要因による健康格差

Socinnov
Vol 2
e15
2016.1.12
Series: 地域包括ケアの課題と未来 (29)
社会経済的要因による健康格差
近藤克則
千葉大学予防医学センター教授
経済学、社会学など様々な角度から我が国
の格差や貧困層の拡大が指摘されてきました。
しかし、その中で抜け落ちていたのが、社会
経済的階層間における「健康格差」です。
要介護の新規認定は低所得者に多い
要介護者の増加は、世界一の超高齢社会日
本だけの問題ではありません。将来の世界共
通の社会的・政治的大問題です。解決方法を
考えるには、要介護状態になる原因や危険因
子をどのように捉えるのかが重要です。
要介護状態の原因疾患として1番多いのは
所得は身体的健康だけでなくうつの有無な
脳卒中です。危険因子として高血圧がありま
ど精神的健康にも影響します。うつは自殺の
す。このため、全国の介護予防教室や健康教
原因となります。また、虚血性心疾患など身
室では高血圧予防のための減塩や禁煙が熱心
体疾患の危険因子、予後不良因子でもありま
に指導されてきました。しかし、このような
す。高齢者の所得階層別のうつ状態の割合を
取り組みは、期待したほどうまくいかないこ
示したものが図2です2。3県15自治体の高齢者
とが分かってきました。心理的、社会的な背
(要介護認定を受けていない65歳以上高齢者
景に対する配慮が抜け落ちていたからです。
から無作為抽出または悉皆サンプル)を対象
愛知県にある5つの保険者で、要介護認定を
に、2003年に実施したAGES(愛知県老年学的
受けていない65歳以上の2万8162人を2003年
評価研究)データを分析に用いました。縦軸
11月から2007年10月までの4年間追跡調査し
がうつ状態に該当した人の割合、横軸が所得
1
ました 。介護保険料は、所得に応じて決まり
段階です。すべての年齢層で、所得が少ない
ます。介護保険料で所得を5段階に分け、4年
ほどうつ状態の割合が高くなっていました。
間の死亡と要介護認定の発生割合を比べたの
すべての年齢層をまとめて集計すると、最高
が図1です。男性の最高所得層と最低所得層と
所得層の3.7%に対し、最低所得層では17.2%
の間に、死亡率では約3倍、調査期間中の要介
と約5倍の差がありました。
護の新規認定では約2.5倍の差がありました。
日本は「健康格差社会」であることがお分
女性では死亡率、要介護の新規認定ともに約2
かりいただけたと思います。データは示しま
倍の差が見られました。
せんが、心臓病、がん、外傷、アルコール依
存症、自殺なども、社会経済状態が低い層で
多いことが分かっています。
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かをまとめたのが図4です。多くの経路がある
ことが実証されています。
健康格差が見られる理由
なぜ「健康格差」が見られるのでしょうか。
理由は複合的です。社会的階層が低いほど、
「心理的ストレス」を抱える人が多くなりま
す。こうした人たちは、人間関係が乏しく、
支えてくれる人もなく、うつ状態で生きる希
望を失いがちです。このような人たちが10年
後の健康のために生活習慣を変えようと思え
るでしょうか。実際に調べると、社会的階層
の低い人ほど、運動習慣が少なく、喫煙者が
多いのです。
分かってきました。一部で、減塩指導などの
WHO「健康の社会的決定要因」委員会の勧
告
健康教育に効果があるとした無作為比較試験
2012年の「健康日本21(第2次)」では「健
の報告があります。しかし、一般の人に対す
康格差の縮小」が目標に掲げられました。背
る健康教育の長期的効果については、体系的
景にはWHOの総会決議があります。その元にな
に研究を集めたシステマティック・レビュー
った「健康の社会的決定要因」に関する委員
で否定されています。
会の最終報告書では3つの勧告がなされてい
禁煙や減塩などの行動変容が難しいことも
自覚症状がない段階で病気を早期発見、早
期治療するために健診があります。健診の受
3
診と教育年数との関係を図3に示します 。こ
ます。
第1の勧告は、人々の生活環境や生活条件の
改善です。従来の生活習慣へのアプローチだ
れも2003年のAGESデータを分析に用いました。 けでは不十分であることが分かってきたから
男性では、教育年数13年以上群の未受診率
です。
「社会環境の改善」は「健康日本21(第
14.5%に対し、6年未満群では34.6%と未受診
2次)」でも謳われました。
率が2倍以上でした。
第2の勧告は、富や権力の不平等の改善です。
病気が発症した後も、医療費の自己負担が
これらを放置したまま健康格差だけが縮小す
増えると貧しい人たちの受診が抑制されるこ
るとは考えられていません。社会保障の所得
とが分かっています。
再分配機能を強化する政策などが必要です。
社会経済因子がどのように健康に影響する
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第3の勧告は、健康格差の「見える化」と、
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それを縮小するための行動を起こしてそのイ
への効果を定量的に評価することも、医療専
ンパクトを評価することです。
門職に期待されています。
医療専門職には、身体的な側面だけでなく、
患者や家族が抱えている心理的社会的な困難
文献
にも目を配ることが求められています。その
1
Hirai H, Kondo K, Kawachi I: Social Determinants
際用いることができる心理的な方法として、
of Active Aging: Differences in Mortality and the
例えば、認知行動療法があります。強いスト
Loss of Healthy Life between Different Income
レスを受けると、ものの考え方や受け取り方
Levels among Older Japanese in the AGES Cohort
が歪んで悲観的になり、適切に行動できなく
Study.
なります。認知行動療法は、患者の考え方が、
Research, 2012, Article ID 701583, 2012.
より現実的でバランスの取れたものになるよ
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Current
Gerontology
and
Geriatrics
吉井清子, 近藤克則, 平井寛, 松田亮三, 斎藤嘉
う働きかけるもので効果が実証されています。
孝, 「健康の不平等」研究会: 高齢者の心身健康の
他にも様々な方法が考えられます。社会的
社会経済格差と地域格差の実態. 公衆衛生, 69,
な方法としては、患者会や家族会、医療ボラ
ンティアなど、患者や家族を支える人間関係
145-148, 2005.
3
松田亮三, 平井寛, 近藤克則, 斎藤嘉孝, 「健康の
を構築することがあります。健康保険や介護
不平等」研究会: 高齢者の保健行動と転倒歴: 社会
保険、様々な福祉制度を利用して費用の心配
経 済 的 地 位 と の 相 関 . 公 衆 衛 生 , 69, 231-235,
をせずに医療・介護サービスを受けられるよ
2005.
うに支援したり、従来以上に「国民の健康を
守る」社会保障制度の拡充を世論や政策担当
者に訴えることもできます。さらに、難しい
近藤克則: 社会経済的要因による健康格差. Socinnov, 2, e15, 2016.
ことですが、様々な取り組みの健康格差縮小
© 医療法人鉄蕉会, 社会福祉法人太陽会, Socinnov.
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