G.I Show 趣旨:軍事史の蓄積が政策論理の解明に役割を果たすと同時に、 諸領域の成果も軍事史の深化に貢献する。 〔問題意識/意義づけ〕 潮流:軍隊を国家・社会の諸関係とともに捉えようとする脱領域的な研究 (グランドセオリーの限界性への指摘 →軍事史の見直し) 視点:軍事力が平時においても近代社会の性格に影響を与え、「帝国」の成り立ち 自体に役割を果たしてきたことを示す。 ⇒ 分析枠組として自明視してきた国家という前提も捉え直す必要 = 世界的構造と地域研究の複合された視点 課題:個別事例のそれぞれを世界史的な文脈や政治・社会史において位置づける。 【 軍隊教育の中の「白兵主義」 】 設定:「白兵主義」教育 『歩兵操典』 (一八九八年改定版)・・ 『独逸歩兵操典』(1889 年)を底本 ↪「歩兵戦闘は、火力を以て決戦するを常とする」(火力&機動力) 結果:砲弾欠乏&運用の誤り ① 日露戦争・南山の戦い(04・5) 、2 日間で砲弾 3 万発〔大江、76 年〕 ② 榴散弾による要塞攻撃1 ⇔ 補給は(榴弾1:榴散弾6) 〔『日本砲兵史』 、80〕 変化:『歩兵操典』 (一九〇九年) ・・日露戦争後 ↪「歩兵戦闘の主眼は射撃を以て敵を制圧し突撃を以て之を破砕するにあり」 1、教育総監部『歩兵操典草案第 2 部改正理由書』(〇七年九月九日) 「現行操典〔九八年版〕に示せる如く若し火力の決戦を常態なりと認定するときは 火戦に依り勝利の解決を待たんとし、遂に攻撃前進の気勢を失うに至るの処あり。 故に改正草案に於いては決戦の為には、白兵戦の有効にして欠くべからざるものな るを示すと共に、火戦は白兵を以て決戦を求むる点迄接近し得べき戦闘手段なるこ とを占めせり。 」 2、『歩兵操典改正理由書』 (一九〇九年) 「我国古来ノ戦闘法ハ・・白兵主義ニシテ白兵使用ハ我国人独特ノ妙技ナリ 故ニ 益々此ノ長所ヲ発揮シテ白兵戦闘ノ熟達ヲ図ルコトハ我国民ノ性格ニ適シ将来ノ 戦闘ニ対スル妙決」 1 「長岡外史参謀次長宛満州軍参謀井口省吾少将書簡」谷寿夫『機密日露戦史』(原書房、 一九六六年) 、四三〇‐四三一頁。 1 背景:『国防方針の用兵綱領』 ・・ 「攻勢をもって本領とす」 (〇七年三月) 「将来は、強大なる砲兵の威力に依頼せる場合多かるべし。 」 → 将来の編制装備 ⇒ 通信網と一層威力のある火砲 * 歩兵は「地形および時間の如何を問わず戦闘を実行し得る主兵」=他兵科は従属 〔先行研究での評価〕 ・日露戦争の反省は、攻撃面のみにおいてなされ、白兵攻撃の絶対化がなされた。 ・火力への不信感が、砲兵の実績よりも、白兵の実績を重視させた。 ・参謀本部で編纂された『明治三十七八年日露戦史』による失敗事例の成功化 ≪ 【 建軍期の陸海主従問題 建軍過程における人脈と問題 ≫ 】 争点〔制度・編成・教育訓練〕 ① 海の主従論 ② 専守防衛 or 先制・外征(山縣有朋「外交政略論」) ③ 陸軍の基盤をめぐる意見対立 〔曽我祐準「日本国防論」89〕固定的 or 機動的〔山縣「軍事意見書」88〕 Ⅰ 陸軍改革をめぐる意見対立 改革主流派 山縣・大山グループ(山縣・大山巌・桂太郎・川上操六) 反山縣系&反藩閥 四将軍:三浦・曽我・谷干城・鳥尾小弥太2 (親仏四将軍=三浦・曽我・堀江・鳥尾) 堀江芳介・奥保鞏・山地元治・井田譲・原田一道・福原実 支持 :小松宮彰仁親王・有栖川宮熾仁・伊藤博文・井上馨 〔1〕 主従関係 <海主意見> 代表例:有栖川宮威仁「海外軍事視察復命書」&有地品之允「海防意見書」 ↪ 敵は日本の沿岸や島嶼の港湾を占領・根拠地化 →陸軍では対応不可能。 <陸主意見> 1、有栖川宮熾仁「主幹輔翼論」3 ↪ 2 国土と人民のいる限り陸軍の創出は可能&物を主体に構成される海軍が従。 「四将軍事件」=東北巡幸中の明治天皇に政治上奏「北海道開拓使官有物払下事件」 → 軍人訓戒を根拠に予備役編入(但し、この事件の他に四将軍という括りはない) 。 3 平時に貿易・植民地経営などを担う海軍に比し、陸軍は国防の専任だから主! 2 2、曽我「日本国防論」 (20ヵ所の上陸地点) ↪ 七千余里の海岸線を十分に防御できる海軍の建設は費用問題から不可。4 〔2〕 防衛軍 or 外征軍 ・山縣「外交政略論5」=利益線保護(朝鮮中立) ⇒国防&外征に即応できる機動軍 ・三浦「兵備論」 =平時:専守防衛の安価な陸軍 →戦時:一〇〇万の在郷軍 相違点 ①山縣以外の国防計画は、清国の上陸を想定 ②編制(部隊の上部組織)・装備・教育訓練(期間と内容) ・兵役 (多様な作戦に備える師団の訓練は多彩⇔演習の必要がなければ 2 年程度) 〔3〕 国防論 メッケル: 「強大にして且有為の艦隊」 →迅速な自軍の集合(鉄道)6 ヴィラレ:海軍の拡張完備 →迅速な兵力移動(本州横断鉄道)7 三浦梧楼:兵力の一点集中 →現実問題(財政・技術)として不可能8 ↪ 対策: 「所在皆兵」、「護郷兵構想」 →経済的軍備 ⇒ 四将軍派:独・仏の大陸国家的国防論は自国防御には不適合 〔4〕 徴兵論 主流派 :第一等国と並ぶための現役三年制 ⇔ 短縮は二等国の証し(桂・川上) ↪〈背景〉1.自国の国土防衛よりも第一等国に並ぶことに主眼 2.軍事訓練では二年、軍隊的秩序の養成には三年必要(独流) 3.師団に対する機動演習には三年必要 非主流派:軍内経費削減にもとづく兵役短縮 →井上、伊藤、児玉も同意9 【陸軍改革】 師団制=独立して作戦し戦略的任務を担う 年表: 1872 年 1878 年 ⇔ 鎮台を拡大した護郷部隊=国防軍 『歩兵内務書』 参謀本部設置 同 年 『軍人訓戒』 1882 年 『軍人勅諭』 4 列強でも東アジアに展開できる兵力数は三万が限度。日本は一五万(常備:9万・後備6 万)と海岸砲(1000 門)で固定的防御がなせる。 5 山縣の意見は外征から国防までを合わせた構想で、 国土防衛の問題が海外領土獲得と結合 している。国防を優先することを一つの焦点としている陸海主従問題の他の論者たちとは 外征の必要度が異なっていく。利益線を防護できる陸軍 20 万規模の建設に加え、鉄道と電 信の整備は不可欠。 6 メッケル編纂と推測される「日本国防論」 。参照:山中木公男「明治時代わが国防の概念 について」 『防衛大学校紀要』29 輯、481 頁、1974 年。 7 お雇い外国人教師として戸山学校で戦術を教授。離日後『日本』を刊行。 8 1886 年から 1887 年にかけて書いた「戦略戦術書」 。「三浦梧楼関係文書」145 頁。 9 三浦、井上、伊藤は軍備拡張も財政、政策に適合する範囲内でとういう認識で合意 3 Ⅱ 軍制と人事を焦点として 〔1〕 大山視察団 1884 年(M17)2 月、欧州への軍事視察 団長:大山巌陸軍卿 構成:三浦(陸士校長) ・野津道貫(東京鎮台司令官) ・川上(近衛歩兵第一連隊長) ・ 桂(参謀本部管西局長) ・小阪千尋(陸軍大学校) 目的:ドイツ軍制の視察&将校招聘 →ドイツ流に改革 =メッケル陸大教官に (表向きの名目はフランスからの教官招聘)10 〔2〕 「臨時軍事制度審査委員会」による軍制改革 陸相:大山 内相:山縣 顧問:メッケル 委員:児玉・桂・川上・寺内・真鍋斌・小阪千尋・井上祥・長沢六郎・小池正文 原案:メッケル「日本陸軍高等司令部建制論」 1、軍団司令部としての監軍廃止 →師団を戦略単位 = 画一統合 2、全師団の教育訓練を監察する教育統括機関に再編 = 練度均一 ⇒ 軍令・軍制・教育の三元化を主柱とする改革へ11 〔3〕 三浦の「改革意見」 (M18.2 月) ↪ 三浦の陸軍近代化構想(陸軍士官学校校長) ①士官教育の充実(大山陸軍卿への意見書)12 内容:本省、参謀本部と並立する「教育本部」の設立 1.陸軍諸学校の統括「武学校」(→教育総裁設置) 2.陸軍派遣留学生の同時多数留学 ② 能力主義人事の確立(=藩閥人事の打破) ⇒ 教育の一切を管掌、人事・将校の昇進も管掌する「教育の本部」設置。 情実人事廃止(士官学校卒の青年将校との共鳴関係が生まれる)。 〔源泉〕 :検閲報告にみる陸軍の水準 検閲者:曽我祐準(中部監軍部長心得)、三浦梧楼(西部監軍部長) 内容 :軍運用の稚拙、 「将来或は退歩に至らん」(三浦)13 ⇒上級指揮官(旅団長以上)の軍事専門性の欠如を指摘 10 フランス軍制への支持が根強い(四将軍ら) 。また戸山学校フランス人教官・ウエルトの 反発の恐れ。フランス式軍制をもっとも支持した三浦をあえてメンバーとした。 11 メッケルと軍制改革の関係において、桂、川上はメッケルの軍事知識・影響力を独占す る形で軍制改革にイニシアティブをとってきた。この意味においてメッケルは主流派の核。 12 「三浦梧楼関係文書」148 頁、1885 年大山視察団に随行し帰国後に提出。 13 1881 年 6 月付三浦「広島熊本両鎮台管下検閲報告」 、「明治十三年検閲報告書」 (防衛研 究所所蔵) 4 〔4〕 陸海軍統合参謀本部の構想(陸海軍平等の軍制) 一、軍事費削減の必要 背景:財源不足(→16 年度以降軍備拡張 ↪ → →23 年度、1300 万不足の見込) 議会開設も控えているが極東情勢も看過できない。 井上(外卿) 、英か露と同盟して対応&軍備を圧縮(陸を 2 万に圧縮) 二、統合参謀本部案 計画:井上&伊藤 →三浦・曽我・有栖川宮(参本部長)らに協力要請 時期:内閣制度発足(1885 年/M18.12 月) ⇒ 伊藤総理・井上外相、M19.1 月「統合参謀本部案」発議 閣内支持:松方(蔵)・山田(法)・谷(農/四将軍) 陸軍内部:三浦・曽我・有栖川宮 三、統合参謀本部の解体 桂、 「参謀本部条例改正」 (1888 年/M21.5 月) ①参軍(本部長)には皇族をあてる →三浦の就任を封じる ②本部の下部にあった陸・海軍部を格上げ →陸海軍の実質的な分離 * 統合参謀本部を形式的役職に祭り上げ参謀本部を陸軍の軍令機関に戻した14。 「陸軍紛議」 (86 年/M19) 軍令・軍制・教育の三元化をめぐる本省と参謀本部の権限争い ↪(監軍‐師団の上部組織を廃止。教育統括機関「新監軍部」として再編15) ① 検閲条例 :監軍(天皇の権限)を廃止 ② 進級条例改正:成績優秀者抜擢 →陸相管轄に →古参順 * 陸軍省への監軍部業務の移譲(試験・進級) 改革派:進級者は停年順序を以て其序列を定める → 有栖川宮参謀本部長・曽我次長、強硬に反対 反対派:高尚な学術とその遂行能力による評価を求める ↪ 制度的保障は「教育本部」 → 教育総裁のポストには三浦就任の可能性が大 14 参謀本部の実質的な分離を既成事実として、一年もたたずして参軍による管制を廃止。 海軍参謀本部は参謀部に改めて海軍省の隷下に戻した。一人の将官のもとに両軍を統括さ せるのは困難と説明し、陸軍主導による軍令機関を復活(参謀総長:有栖川宮/次長:川 上)した。この流れに関して、海軍は参謀本部の統合を継続したとしても参謀本部長を陸 軍の大・中将が占めるので「陸主海従」関係は変わらないと見て、ならば規定の海軍拡張 の計画が確認された方がよいと判断した。伊藤・井上は、藩閥体制維持のため山縣・大山 との妥協関係を変更できず、統合参謀本部解体にも強く反対できなかった。 15 天皇は閣僚である山縣・大山が新監軍や参謀本部長といった武官職を兼任することを嫌 い、また三浦・谷・鳥尾の監軍就任を希望した。伊藤・井上の三浦らの利用による「軍備 圧縮策」もこの時期。 5 結果 :天皇、陸軍省と参謀本部の折衷案で調停 → 顛末 メッケルに新監軍部の設置を研究させて上奏するよう命ず :三浦(東鎮→熊鎮) ・曽我(参本次長→陸士校長) ・堀江(近歩一旅→歩六旅)が左遷16 Ⅲ 反主流派としての「月曜会」 〔1〕 学術研究会の発足と世代間格差の発生 1874 年、陸軍士官学校が開設 →陸士出身者増加 →武功のみの将校に批判的 =長岡外史、薩長の武勲者によって要路が塞がれている=軍事学のレベルが低い 〔動機〕 :長岡の東京赴任(教導団付) 陸軍内部:薩長の権勢のもと「極端な秘密主義」 ↪ Ex.『独逸軍政全書』に極秘の朱印 =課長以下は閲覧禁止 ⇒学問にまで階級がある現状を打破。 「之が為めには藩や県は考への中に無い」 〔2〕 月曜会(兵学研究) 結成:1881 年(M14)1 月→「月曜会設立趣旨書」 (M17.11 月/会長は堀江) 参加:旧陸士一期・二期の有志17 目的:極秘の『独乙軍政全書』を公開し将校のレベルアップを図る 性格:兵学への実践的要素の導入、近代兵器の研究、藩閥打破(反主流派) 会員:東京・480 名。 地方・1198 名。(明治 20 年末/偕行社を凌駕) 趣旨: 「大政復古に付いては薩長両藩の功の多いことは我々も篤く礼賛するが、 併し是ありしが為めに十年余後の今日、軍部の要路を其朋党で塞がれては 溜らない。18」 → 反主流派的な近代戦研究会 傾向: 「月曜会は揺籃時代から多少薩長土人士に色眼鏡を以て見られた19」 : 「だから月曜会の方の者は、大概薩長以外の者です。 〔中略〕長岡君などは 全く例外だったです。さういふ訳でありますから段々憎まれたといふ訳で はないでせうが、何となしに煙たがられて来た。 (堀内文次郎の述懐)20」 16 三浦らは伊藤・井上の進める条約改正に反対していたため伊藤らも手助けすることがな かった。 17 幹事長:堀江芳介。幹事:長岡、浅田信興、田村怡与造、東条英教、藤井茂太、大久保 春野の 6 名が交代で務めた。 18 長岡、 『外史回顧談』 、九頁。 19 長岡、 『外史回顧談』 、九頁。 20 偕行社編纂部「創刊五十周年記念座談会」、昭和 12 年 7 月号第 754 号、20 頁。 出席:大島健一、日疋信亮、堀内文次郎、尾野実信、加藤倭武、松井庫之助、渡辺満太郎。 6 〔3〕 反主流派としての「月曜会」 1、藤井茂太「将校経済的処世論」&「将校教育ノ卑見」21主流派将校の処世批判。 2、 「敬礼ノ新疑問」と「参謀旅行実施法ノ比較」の2論文はメッケル批判を内容。 〔4〕 主流派体制の確立 〉22 〈 乃木希典、川上操六の意見書 内容:①将校人材は実務経験に基づき教育学術は任務遂行の補助 ②若手将校の自主的兵学研究は「無益」、軍事を論評する「有害」 ⇒軍隊秩序(服従)を教義面にまで貫徹させる必要 〈 主流派の陸軍近代化政策 〉 対策:①四将軍を排斥し陸軍近代化政策の主導権を握る ②外国知識の拡散と軍隊秩序の危機 →兵学研究団体を解散 ↪ 月曜会事件(1889 年)により月曜会は偕行社へ合併 ③将校団教育方式 =抜擢進級を聯隊長以上の評価により認める23 〔5〕 偕行社との合併「解散事件」 一段階:1888 年(M21)春 「合併提議」 ↪ 在京将校は悉く偕行社に入会 →月曜会、砲工共同会(三浦)は拒否 二段階:1889 年(M22)2 月 大山陸相、「合併命令」 【 小括 】 1、四将軍派:三浦・曽我・谷干城・鳥尾小弥太 堀江芳介・奥保鞏・山地元治・井田譲・原田一道・福原実24 * 藩閥批判的性格を持つ四将軍派に、陸軍近代化の構想に若手将校(月曜会)が 共鳴関係を築き「主流派」勢力に反抗 =反藩閥 2、桂(自伝) 「大山陸軍卿が桂を陸軍省総務局長、川上を参謀本部次長に抜擢したことへの非難 に薩長排斥への議論がかさなって物議をかもした。これは、表面的にはドイツ派と フランス派の争いのように見えたが、新進有為の将校のなかの野心家が将官のなか の野心家を利用して陸軍当局に反抗した策謀であった。これに行政整理による経費 削減の問題が錯綜したため、一時は陸軍改革よりも部外者と提携した抵抗に対抗す る善後策に追われた。 」 21 いずれも明治21年の『月曜会記事』に掲載。 乃木希典、川上操六「独逸留学復命書」1888 年 7 月、和田政雄編『乃木希典日記』金園 社、1970 年、855 頁。 23 1889 年陸軍武官進級条例を廃止し、 5 月陸軍武官進級令、将校団教育令と一括して制定。 24 「谷干城関係文書」446 頁。この将官名は月曜会の偕行社合併打診時において、月曜会 側が動向を注目していた人物と基本的に一致。 22 7 「偕行社を唯一の将校集会組織とし『記事』に軍事研究を集中させることに努め、 月曜会からの将校脱会工作と四将軍の予備役編入を進めた。 」 (新書 93 年版)106‐107。 3、陸軍内部の「藩閥」と「反藩閥」 「藩閥」は維新功労者としての第一次世代を中心とした人的結合を指すが、所謂 「長閥」の実態に当たるような事例とは何であろうか? 陸軍長閥とは、長岡ら若手将校から見た陸軍観に過ぎなかったのではないか。。 * 長閥人事とは何を目的とした人事か? →<資料1> Ⅳ 月曜会事件の余波と人脈 1 井口省吾と山県有朋 井口(M20.5~23.11 ドイツ留学)は欧州視察中の山県と 7 回会見 → 陸軍部内に跳梁する「弊害」の除去を要請(M22.3~4) → 山県は井口の留学中止を児玉源太郎に要求(→児玉が庇う?) 2 月曜会事件 ① 四将軍と月曜会 四将軍の共通点:専守防衛、経済優先、藩閥打破、ドイツ軍制化に反対 長岡の思惑 :後ろ盾として四将軍(特に曾我、三浦梧楼)を引き込む ② 月曜会解散 桂・大山による四将軍の陸軍追放(M21.12)&月曜会解散命令(M22.2) → 曽我 軍事優先・大陸進出論の台頭 =井口の旧陸士時代の校長・大阪鎮台野砲兵付時代の司令官 3 月曜会と井口省吾 井口は月曜会に所属(静岡出身) → 月曜会解散(M22.2)直後に山縣に会見。 →反藩閥について進言? 4 井口のドイツ留学(M20.7~23.10) 留学中の交流 → 陸大同期:山口圭蔵、藤井茂太、東条英教 ↪ 日本将校伯林会 =井口、山口、福島安正を中心に発足(M21.7) 【 湖月会の発足 】 〔1〕発足 1 結集 日露開戦を推進する外陸海の有志が料亭湖月楼に集結(M36.5) 2 メンバー(陸軍) 井口省吾(総務部長) 、堀内文次郎(副官)、松川敏胤(作戦部長)、 福田雅太郎(編制動員班長)、田中義一(本部員)ら 8 〔2〕田中の大陸積極策 1 ロシア駐在中の田中 陸軍屈指のロシア通として(M31~M35 までロシア駐在) → 義和団事変後のロシア軍の満州駐留に強い懸念 →「西比利亜に留まり…革命運動の促進に努め、身命を賭して報効を期せんとす」 2 田中の「隨感録」 駐露経験をもとに対露作戦計画「隨感録」を作成(M36.2) → 日本海軍による制海権掌握を前提とした陸軍の攻勢的作戦 →<資料2> <明治 36~39 年 参謀本部主要職務人事> 明治 36 明治 37 明治 38 6.20 山縣有朋 明治 39 参謀総長 大山巌 参謀本部次長 田村怡与造 総務部長 井口省吾 第 1 部長 松川敏胤 第 2 部長 福島安正 第 3 部長 大沢界雄 第 4 部長 大島健一 第 5 部長 落合豊三郎 4.25 松川敏胤 陸大校長 藤井茂太 2.6 井口省吾 10.2 福島 10.12 児玉 6.20 長岡外史 4.11 児玉 12.19 児玉 7.30 奥保鞏 4.16 福島 2.6 岡市之助 4.19 松石安治 Ⅴ 満州軍総司令部設置問題 指揮権委譲問題 ‐決定権の委譲であると同時に下降を示す「前線への権限委譲」‐ 1 児玉・大山ら参謀本部の構想 [1]参謀本部の「遠征する陸軍大総督府編成要領及び同勤務令」(M37.4) → 大総督は出先軍を指揮し天皇より課された範囲内で進級補助の権利を行使 → 井口・尾野実信(参本作戦部員)ら大総督府編成の準備委員に任命 [2]児玉の「皇太子出征構想」 軍事作戦を速やかに終結させるため「皇太子殿下を奉ずるを得ば最も理想的」 ⇒大本営の一部を大陸に派遣し現場で指揮 →最前線への指揮権移譲を企図 [3]児玉の参謀本部改革構想(大本営分割案) 現在の参謀本部を現地に進める 大山‐児玉 → 山縣‐長岡 = 大本営を分割 9 2 陸軍省&山縣は参謀本部案に反対 「かくの如き大なる権能を与うるは実に穏当ならざるものと認む25」 → 「統帥上軽重の秩序を錯乱するの害ある」 → 遠征軍の独走を危惧/政戦略一致のために本国で軍をコントロール 3 満州軍総司令部の設置 編成時(M37.6.20) 廃止時 総司令官 元帥 大山巌 総参謀長 大将 児玉源太郎 第1課長 大佐 松川敏胤 少将 松川敏胤 少佐 田中義一 中佐 田中義一 少将 福島安正 少佐 小池安之 少将 井口省吾 少佐 尾野実信 作戦主任 第2課長 情報主任 第3課長 兵站主任 同 中佐 小池安之 同 中佐 尾野実信 [1]陸軍総督案(参謀本部)vs 作戦軍と大本営の間の中間機関案(山縣) → 児玉は山縣案に反対(桂と寺内が山縣に同調) → 高等司令部説に落着/山縣により司令部の権限は極力制限 [2]旅順作戦をめぐる対立 ↪ 山縣は陸海軍共同作戦となるため大本営直轄を主張 ⇔ 指揮の奪い合い 長岡、桂首相・山縣と激論 児玉、「桂大将が総理大臣たる資格を捨てて、陸軍大将としてかれこれ述 ぶる如きはこれ軍律上宜しからず26」と、辞職も仄めかす = 児玉、長岡、井口、松川らは遠征軍の指揮下に入ることを主張 [3]谷寿夫『機密日露戦史』による評価 桂首相の問題への介入を「無責任な干渉」と批判 → 長岡、井口、松川らの史料を利用しているため参謀本部の視点が重視 ⇒ 指揮権の移譲をめぐる児玉・長岡・井口・松川(湖月会)と山縣の意見対立 25 「陸軍大総督府編制要領及勤務令に関する陸軍省意見」 「大本営陸軍参謀部機密日誌」明 治三七年七月九日の条。 『伝記史料明治軍事史』、一三四三頁所収。 26 『機密日露戦史』 、一八七頁。 10 Ⅵ 樺太占領と陸軍 1 山県の政戦略一致論 「政戦両略概論」 (M38.3) → 速やかなる停戦を求める(日本軍の戦力低下と兵站線の弱体化を反映) → 政戦両略一致(小村、講和交渉)の必要性 2 長岡の樺太占領論 尾野:樺太占領計画を立案(M37.1) →「累を野戦軍に及ぼすことなく、後備歩兵三大隊をもってその目的を達 成し得べし」 長岡:参謀次長に就任後(M37.6)樺太占領論を採用 →「樺太占領は戦局発展の為めと云ふよりも、政略的に必要であり、国権 回復と云ふ上からも是非本戦役中に於て決行せざる可からす」 ⇔ 山縣や寺内「兵力の分散を好ます」 3 樺太占領の決定 長岡:児玉と度々樺太占領を論ず/講和交渉を予測して樺太占領を大本営に具申 → 児玉・長岡、山縣・寺内に樺太占領を積極的に進言 前線の権限拡大を図る児玉・長岡 ⇔ 統制強化を図る山縣・寺内「政戦両略」 【 小括 】 1、陸軍内部の対立は軍制改革以来絶えず続いており、対立構図としては反対勢力の一 層に成功して主流派となった山縣・大山らと、彼らによって後ろ盾を失った旧陸士 以降の世代による対立関係が見てとれる。 2、自発的な若手将校らが独自に影響力を行使する方途を探っていた。 3、右の結果として、参謀本部に新たな活動形態が発生し、またそれが戦時においては 命令系統を二分する高等司令部の出現を結果した。 11 ≪ 軍隊教育の中の「白兵主義」と指揮権委譲の血脈 ≫ 【 部隊運用と独断専行 】 独断専行 1、政治部に対する軍部の優越・独走 2、指揮概念としての行動様式 先行事例: 「普仏戦争」 (=ドイツ形成戦争) 独軍:ナポレオン戦争を教訓に改革=指揮官喪失時の自発性&判断速度の上昇27 →『戦争論』をテキストに殲滅戦・機動戦の徹底 「独陸軍教範」 「演習ヲ實施スルニ當リ各級ノ指揮官ヲシテ獨斷專攻ヲ得セシメンカ爲 メニ許多ノ餘地ヲ存セリ蓋各指揮官ノ獨斷專攻ハ極メテ緊要トスル所28」 ↪ 近代戦闘への対応 ⇒ モルトケ =独断専行を奨励29 仏軍:普仏戦争の教訓から『歩兵操典』 (1875)において独断専攻を導入 評価:部隊運用において伝達速度が遅い場合=「独断」は不可欠 【 仏式建軍 】 導入:『新式歩兵操典』 (1878)30 ↪「生兵之部」第三百二十一条 「教練ニ在テハ正規ニ則リ其順序ヲ定メ軍人ノ階級ニ應シ各権限ヲ守リテ 獨斷專攻シ兵隊ノ各部隊及ヒ総人員互ニ心ヲ一ニシ正規ノ諸件ヲ努テ施行 セシメ」 規定:仏軍『歩兵操典 大隊之部』(1882/仏『歩兵操典』翻訳) ↪ 第八十九条「大隊長ハ各級ノ司令ヲ奨励シテ其ノ獨斷專攻ノ權ヲ發用」 ↪ 第九十条 「緊要ノ性質ハ獨斷專攻及ヒ勇進ノ氣力ヲ弛衰セサルハ勿論却 テ諸長自ラ模範ト為リテ其ノ戰兵ヲ奮進」 ⇒ 命令を待たず中隊長以下も自由動作による全力を実施すべき ⇒ 『歩兵操典』 (1882) ↪「第二部 第三百三十五条」 「各軍人ノ階級ニ相應スル獨斷專攻ノ見識ヲ漸次擴充セシムヘシ」 27 渡辺昇一『ドイツ参謀本部』 (中央公論社、一九七四年) 。 獨逸陸軍省『陸軍陣軌典』第一編。荒井宗道訳(偕行社、一八八七年)。 29 渡辺、一五五‐一五六頁。 30 前原透『日本陸軍用兵思想史』 (国書刊行会、一九二六年)、一〇九頁参照。遠藤芳信は 普仏戦争後の仏軍が独逸軍制を採用したことを指摘〔『近代日本軍隊教育史研究』 (青木書 店、一九九四年) 〕 。 28 12 【 軍制改革 ‐独式への転換‐ 】 背景:四将軍派との対立もあり・・ 改正 1、 『歩兵操典』 (1887) 2、 『野外要務令草案』 (89) 「純然タル獨乙式トナシ其初メニ綱領ヲ提起シテ頗ル獨斷專攻ノ餘地ヲ 大ナラシメ」31 3、 『野外要務令』 (1891) ↪ 軍紀の徹底のうえで、独断専行の適応範囲を拡大(「綱領」) ↪ 命令の伝達時間短縮と簡易化 4、 『歩兵操典』 (91) ↪ 各指揮官の責任範囲を規定 →時機に応じた自主的行動 「有爲ナル獨斷專攻ハ戰時ニ於ケル好成績ノ基礎」32 原因:メッケルの「帥兵術」33 =命令厳守と独断専行の調和34 ↪上級指揮官が「大意」を伝え、その範囲内で独断する 変化: 『歩兵操典』 「戦闘」 ・・散開戦闘(「獨斷ヲ要スル」) ↪「最も拙劣」なのは「地形を応用することに注意せず、常に集団したる肉 弾を以て勝敗を決せんとする」こと。田中、「隨感録」。 〔 日清戦争 〕 傾向: 『歩兵操典』 (98) ・・独断専行の余地拡大 ( 『野外要務令』など独式を継承) ・「歩兵操典 第二部 攻撃及防御 第二百九十九」 「…前衛等ノ先頭ニ在ル部隊ハ此要旨ニ従テ動作シ一ニハ敵ニ先ンシテ展開シ又 一ニハ高等指揮官ノ意図ヲ妨ケサル如ク其度ヲ維持セサル可ラス」 ⇒≪別紙≫ 〔 日露戦争 〕 傾向: 『歩兵操典』 (09) ・・ 「歩兵操典改正ノ為採用シタル根本主義」 方針 ①歩兵中心「地形及時期ノ如何ヲ問ハス戰闘ヲ實行」 ②攻撃精神「忠君愛国ノ至誠/精神・武技/寡ヲ以テ衆ヲ破ル」 ③白兵主義「射撃ヲ以テ敵ヲ制壓シ突撃ヲ以テ之ヲ破摧スルニ在リ」 ⇔「火力ヲ以テ決戰スルヲ常トス」「操典」 (98) 31 陸軍省『陸軍教育史明治本記第二十二巻稿』 (一八八九年)。 『歩兵操典』 、二四‐二五. 33メッケル『帥兵術』大島貞恭編述。 (兵林館、一八九二年)。 34 前原、一三三頁参照。 32 13 *中隊が戦闘単位としての中心(中隊長=「志氣結合ノ基礎」35) 指揮官は中隊長以上・小隊長の権限縮小36 → ↪「小隊教練」項目削除 →中隊教練で小隊以下の教練実施 ⇔98 年 背景:砲兵(攻撃)への不信‐井口省吾の砲撃への苦言(M37.9.6) ↪ 井口は弾薬不足を心配する中で砲兵による乱射に困惑 「砲兵隊概ね成果不明に拘わらず只弾丸を敵地に送ることに汲々たる有様」 「平素教育の結果を俄に戦場に於て矯むることは殆ど失敗」 = 砲撃による成果が確認され難い前線での戦況 ・「歩兵操典 第二部 攻撃 →<資料3> 第三十九」 「…前線ニ在ル指揮官ハ射撃ノ成果其他敵ニ対シテ獲得シ得ヘキ利益ヲ最モ 速ニ判別シ得ルヲ以テ機会ヲ逸セス直ニ突撃ヲ決行スルヲ要ス此際後方部隊 ハ直ニ前線ニ跟随シテ之ヲ推進シ其効果ヲ完ウスルコトヲ図ルヘシ然レトモ 上級指揮官ハ前線ニ在リテ自ラ好機ヲ看破シ突撃ヲ命令シ又ハ後方部隊ヲ前 線ニ増加シ以テ突撃ノ動機ヲ誘起スルヲ要ス」 ⇒ 現行操典においては突撃の実施は後方指揮官の命令によることを本然とする が、改正操典では突撃の主要は前線指揮官(大隊長、中隊長)が好機乗じ、開始 することに改めた。 変化: 「獨斷專攻」の削除!? ↪「其精神ニ於テ服從ト相離ルルコトヲ許サス」 ↪ 上級指揮官(連隊長?高等司令官?)にのみ撤退 or 戦闘の中断の権限 ⇒ 攻撃時にのみ中隊長が指揮官となり、独断専行が奨励される 改正: 『野外要務令』 (09) 「綱領」 ↪「獨斷專攻」は命令を補うためのもの。濫用は慎むこと。 ↪ 口頭で命令を伝達 原則: 「高等司令官ノ軍隊統率上ニ關シテ下ス所ノ命令ハ筆記スルヲ定規」 指揮: 『陣地攻撃』37 ↪ 指揮官の能力次第で部隊の戦力は変化/精良の軍隊ばかりは揃わない *大陸への攻勢(07 年)=戦線・戦域の拡大/機動性/通信技術 の問題 *各国の国状に適した帥兵術の必要(『記事』38) 35 『歩兵操典』 (〇九) 、五五. 「日本歩兵操典ニ就テ」 『偕行社記事』第四三九号(一九一二年二月)、四〇頁。 37 『戦史及先術ノ研究 第一巻 陣地攻撃』(偕行社、一九一八年) 、七四二頁参照。 38「日露戰争ノ初期ニ關スル戦略的及心理的研究」獨逸兵事週報所載。 『偕行社記事』第三 百七十七號。 36 14 < 資料1 >【参謀本部の権限をめぐって】 「陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌」 ① 人事問題の温床 「参謀本部ハ国防計画ノ枢府ナリ然ルニ実際ハ雑務ノ集積所ナリ、勢力ヲ扶植スル ノ足場也」 (明治 35 年の手帳より) 出典:長南政義「史料紹介陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌―日露戦争前夜の参謀 本部と大正期の日本陸軍―」 、 『国学院法政論叢』第 30 輯(国学院大学大学院、2009 年)3 頁。 ② 長閥人事と政治 「余[松川]の大学校長たるを妨くるものは大島1が長派に阿附したる結果なるへ く、さりとて総長、次長の無力なるは唯々呆るるの外無し。抑も大学校長の人選は 総長の全権能に属するものにして陸軍省に於て云為すへきものにあらす。仮令人事 上の遣繰にて陸軍省に意見あるとするも総長、次長2にして鞏固な基盤の上に立ば 陸軍省は之を如何ともする能わさるへし。余にして運動を巧みにする技倆を有する ならは之を打破することを得るやも測られす。然るに余は絶対に此技倆なし。否、 之を為すを絶対に嫌悪す。故に他の運動を見ても之に唾せんと欲す。」(明治 45 年 1 月 15 日の日誌) 出典:同前、12~13 頁。 ※ 大島はこの直後第 10 師団長に新補される。 ⇒ 大島は参謀総長・次長の能力不足、長州閥寄りの大島に嫌気がさし参謀本部の改 革を考えるも、改革は困難の見通し。 1 大島健一。岐阜出身。当時、参謀本部総務部長。 2 参謀総長は奥保鞏(福岡)、次長は福島安正(長野)。 < 資料2 > 【新進部長らによる新しい参謀本部】 ・ロシアが鴨緑口(韓国側)に兵站施設を築くと、田村(参謀本部次長)は井口(総 務部長)に調査を命じ、井口は松川と共に上聞書を作成〔「第二撤兵期ノ前後満州 ニ於ケル露国ノ行動ニ関スル判断」 〕。後日、参謀総長より上奏された。 →この上聞書の内容は、寺内・山本両大臣が行っていた現状認識としてのロシアの戦 力優位という情勢判断を覆し、開戦は早期に行われるほど有利である見解を述べた もので、部長らが自発的に上聞書を作成した最初の例である。 15 ⇒「湖月会」5 月 29 日(陸海軍、外務省の中堅有志の集会39) 「今日ヲ以テ一大決心ヲ為シ、戦闘ヲ賭シテ露国ノ横暴ヲ抑制スルニアラサレハ 帝国ノ前途憂フヘキモノアリ、而シテ今日ノ時機ヲ失シテハ将来決シテ国運恢復 ノ運ニ会セサルヘキ」 →同会では「満場一致」で早期開戦論を展開。 〈 湖月会に対する山本権兵衛海相の意見 ↪ 〉 満州問題における対露交渉に関して御前会議を開催(明治 36 年 6 月 23 日) 「…六月二十四日参謀本部部長会議に、総長は前日の御前会議の経過につき一言も 披瀝する所なき一事である。尚聞く所に依れば、御前会議の際、山本海相は大山総 長に向い、近来若い者が主戦論に熱狂せる由なれば御注意せらるる様との事を述べ たりと。大山総長の答えは知らず。以て当時の献策の価値の程度を仄知されるので 谷壽夫『機密日露戦史』、原書房、1971 年、95 頁。 ある。 」 < 資料3 > 【 日露戦争における砲兵 】 『軍事討究会』 (1926 年) 〔1〕砲撃の僅少な効果 「各兵が横行的に對する照準法を忘れ、概ね直接敵の身體を照準せし結果」 「電信、電話不通の爲め危急の状況を報告するの遑なき場合に於て、師団全般の警 急配備を必要と認めし時は假令警戒部隊長(少くも大隊以上)と雖も自ら其責に任 じて乙種信號を發するを得」 陸軍少将石原應恒「実戦より得たる教育資料」 〔2〕優良なる兵器と豊富なる弾薬の準備が無ければ・・ 「南山の攻撃は未明より開始〔中略〕午後三時か四時には弾薬を打ち藎した〔中略〕 全く補充の途が絶えた。然るに軍司令部や其他高級指揮官よりは、頻々と射撃を督 促して來るも、何分肝心の弾が一發も無いことゝて只氣が焦る計りで何とすること もできず、眞に途方に暮れた〔中略〕夫以來弾薬に對して著しく神経過敏となり、 戦闘と云えば直ちに弾薬のことを思ふようになった。」 某将軍談「日露戦役に於ける砲兵連隊長としての所感」 〔3〕砲撃への評価事例 九連城付近の陣地攻撃 ⇒榴弾砲による不意打ちの成功事例 「砲撃の効果の與て力ありしは云ふ迄もないことである。」 「〔鹵獲して砲を〕奉天戦の終り迄使用したが、其成績は頗る良好」 * 日露戦後は砲兵の研究が焦点となったが、その反省は忘却されていったことは 残念であると吐露・・。 陸軍中将藤井茂太「日清日露两戦役に於ける我軍の砲兵に就いて」 39 斎藤聖二「日露開戦直前の参謀本部と陸軍省」 『日露戦争と東アジア世界』東アジア近代 史学会編。 (ゆまに書房、二〇〇八年)、二七二‐二七三・二九二頁参照。 16 ≪ 連載課題 ≫ 1、 昭和大礼における「不浄の排除」(原宿駅と明治神宮) 2、 奉安殿建設と聖域化と即位礼 3、 外交文書における「皇帝」号の問題化 4、 軍旗の神聖化 * 精神教育を具現化した「軍旗」&天皇との一体化を演出した「観兵式」 〔1〕田中義一、米国の国旗礼拝(1915) 「米国に一つ面白い事がある。即ち斥候隊は毎日国旗を禮拝させられると云うこと である。吾々は妙に感ずるけれども米国としては大いに意味のあることで、何人も 知る通り米国は各州各個に憲法を有し、其統一結合を強固にするには多大の努力を 要するものであるから、未来に米国の運命を擔うべき青年に、北米合衆国の統一を 益々強固ならしむるは自分らの重大なる責任であると云う観念を自覚せしむる趣 向かと思はれる。実に用意周到と云うべしである。40」 〔2〕 軍旗(連隊旗) ① 明治期(軍旗の視覚化開始/1910 年) →「陸軍礼式」 (軍旗送迎式の規定が「歩兵操典」から「陸軍礼式」へ細則化) ② 大正期(神聖化/1916 年) →「陸軍礼式」 「軍旗ノ敬礼ハ天皇ニ対スル時及拝神ノ場合ノミニ限リ」行う =〔 天皇>軍旗>皇族>将兵 〕の関係性 『陸軍沿革史』参照 * 軍旗の他にも「菊花紋章」や「旭日旗」の権威の視覚化が進む 40田中義一「亜米利加の青年教育」 『社会的国民教育』(博文館、1915 17 年)79~80 頁。 天皇を神聖視するのはいつからか? 【 軍旗の位置づけ 】 陸軍幼年学校「訓育提要(1927) 第 12 章 旗章」 「二、軍旗 軍旗ハ、歩兵及ヒ騎兵聯隊成立ノ際、大元帥陛下ノ、勅語ト共ニ親シ ク授ケ給フ所ニシテ、陛下親ラ軍隊ヲ統率シ給フ所以ヲ明カニセラレタルモノナリ 故ニ軍隊ニ於イテハ、軍旗ノ下ニ行動スルハ、親シク、陛下ノ御前ニ於テ鞠躬盡瘁 スルニ異ナラズトナシ、苟モ軍旗ノ存スル所、身命ヲ擲チテコレヲ擁護シ、軍旗ノ 下ニ、衆心一致、精神ヲ集結シテ王事ニ勤労シ、…」 ↓ 陸軍幼年学校「訓育提要(1940) 第 5 章 旗章」 「一、軍旗 軍旗ハ歩兵及騎兵聯隊成立ノ際 大元帥陛下親率ノ軍隊タル御徴トシ テ勅語ト共ニ親シク授ケ給フトコロニシテ軍隊ノ忠誠団結ノ中樞ナリ…錦ノ御旗 ヲ有スル軍隊ハ之ヲ『天兵』ト稱シ萬民ハ皇軍タルヲ認知シ… 奉答 …軍旗ノ在 ル所即チ 天皇ノ御馬前ナリ…」 軍隊教育史料集成』第 4 巻、93、213 頁。 出典:高野邦夫『近代日本 【陸海軍人への勅諭】 ① 陸海軍人ヘノ勅諭(1895/05) 「朕兵馬ノ大権ヲ統ヘ明治十五年陸海軍人ノ制、略立ツニ於テ汝等ニ軍人ノ精神五 箇条ヲ訓諭シ忠節、礼儀、武勇、信義、質素貫クニ一誠ヲ以テスヘキコトヲ告ケタ リ…」 ② 陸海軍人ヘノ勅諭(1912/07)大正天皇践祚 「朕カ親愛スル陸海軍人ニ告ク惟フニ皇考曩ニ汝等ニ軍人ノ精神五箇条ヲ訓諭シ 一誠以テ之ヲ貫ク可キヲ示シ給ヘリ汝等軍人ハ夙夜此聖訓ヲ奉体シ…」 ③ 陸海軍人ヘノ勅諭(1926/12)昭和天皇践祚 「朕カ股肱タル軍人ニ告ク 惟フニ皇祖考夙ニ汝等軍人ニ聖訓ヲ降シ給ヒ皇考亦 申ネテ聖諭ヲ垂レ給ヘリ汝等軍人眷眷服膺シ…」 ④ 陸海軍人ヘノ勅諭(1945/08)終戦後 「朕深ク時運ニ稽ヘ干戈ヲ戢メ兵備ヲ撤セムトス 皇祖考ノ遺訓ヲ念ヒ…」 近代史料研究会編『明治大正昭和三代詔勅集』(北望社、一九六九年) 。 18
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