TOTOにおける光触媒の開発と事業化 渡部俊也・米山茂美 ☆目次 ケース1. TOTO 社内での超親水性光触媒技術の発見と実用化・・・P.1~12 ケース2. 超親水性光触媒技術「ハイドロテクト」の海外への技術移転・・・P.12~20 ケース3. 超親水性光触媒の塗料事業への展開・・・P.20~23 参考・前提知識の部・・・P.24~25 <ケース1.TOTO 社内での超親水性光触媒技術の発見と実用化> 1.TOTO における光触媒研究への取り組み 東陶機器株式会社(以下、TOTOと略す)は 1989 年に光触媒の研究をスタートさせた。先行する松下 電器や日立などに比べて、遅れての研究スタートであった。 TOTOでは、それ以前にトイレの脱臭のための酸化剤の研究が行われており、オゾンを用いた小型脱 臭装置が開発されている(それは 1980 年に発売され大ヒットした「ウォシュレット」と称される温水洗浄 便座に利用された) 。当時、TOTOの基礎研究所のなかの電子材料研究室の研究員であった渡部俊也(後 に基礎研究所・研究主査、現・東京大学先端科学技術研究センター教授)は、その研究開発の過程で光触 媒を知り、それが持つ種々の作用に関心を抱いていた。 この電子材料研究室は、半導体ウエハの固定デバイスやセラミックス・パッケージなどの電子材料を広 く扱っていた。渡部は、その研究の一環として、もう1名の研究員とともに温水洗浄便座の脱臭装置の開 発に関わっていた。その過程で、京都のベンチャー企業(創業者の一人が京都大学教員で、いわゆる大学 発ベンチャー。世界的に数少ない光触媒の事業化を試みたベンチャーの一社であった)がすでに光触媒を 用いた脱臭装置を販売していることを知り、光触媒方式を温水洗浄便座の脱臭に利用することを検討して いたのであった。 ところが、その当時の光触媒方式には2つの問題点があった。その一つは、光触媒自身の脱臭性能があ まり高くなかったこと、もう一つは内蔵している紫外線ランプの寿命が短く、一定期間ごとに交換が必要 であったということであった。特に、後者の問題点は工務店での販売が主で、コンシューマー商品の販路 を持たないTOTOの事業としては致命的な問題点であったため、光触媒方式を断念しオゾン方式を採用 した経緯がある。 しかし、渡部は光触媒の酸化力がオゾンよりも大きく、およそあらゆる有機物を酸化分解できる能力が あることから、何か面白い応用はないかという関心を持ち続けていた。 1 1980 年代において光触媒は世界的に水処理や空気浄化を目的とした応用が進められていたが、そこでは 主に粉体状の光触媒が利用されていた。渡部は、この点にも疑問を感じていた。水中や空気中に三次元的 に分散する量の多い汚染・有害物質を、粉体状の光触媒で分解処理するには限界があるのではないかとい うのが、当時の光触媒の応用に対する彼の考えであった。 ちょうどその頃、東京大学・藤嶋研究室にいた橋本和仁(現・東京大学先端科学技術研究センター教授) は、光触媒が汚染・有害物質を大量に処理するのには向いていないものの、その強い酸化力は少量の物質 を完全に処理するという用途には実用化できるかもしれないというアイデアを持っていた。橋本がそのア イデアを藤嶋 昭(現・神奈川科学技術アカデミー理事長)に提案したところ、藤嶋は賛同して企業と共同 で研究を進めてみようということになった。たまたま藤嶋研究室に籍を置く大学院生であった菊池英治 (現・秋田県立大学准教授)が、高校時代の先輩にあたる渡部を藤嶋研究室に紹介したのが契機となり、 TOTOと藤嶋研究室との交流が始まった。こうしてTOTOは藤嶋研究室と共同で、衛生陶器やタイル などに付着した汚れの分解やバクテリアの殺菌を念頭において、粉体ではなく薄膜コーティングによる光 触媒利用の研究を開始したのであった。 陶器やタイルへのコーティングによる防汚や殺菌は、その表面についたわずかな反応対象物を酸化すれ ばよいという点ではるかに実用性が高いものであった。しかし、問題はその製造プロセスにあった。薄膜 の提案は東大側からなされたが、東大の保有していた薄膜形成技術はスプレーパイロリシス法という方法 で、成膜時間がかかり溶液も高価で大面積への塗布が難しい方法であった。TOTOの社内ではたまたま 全く別のセンサーの用途に利用する目的で酸化チタンのコロイド原料を使用しており、この原料を使用し て薄膜を形成したところ、スプレーパイロリシス法に比べてきわめて高い性能を発現することがわかった。 ただし、この原料を用いたとしても、衛生陶器などの凹凸のある表面へのコーティングは困難であった。 このような技術的な制約も考慮して、製品化のターゲットを平板のタイルに定めた。これ以降は光触媒タ イルを製品化するための研究開発が研究グループの目標になった。渡部は、この頃の取り組みを次のよう に振り返っている。 「タイルに商品化ターゲットを絞り込むまでは、反応対象物の種類や薄膜コーティング できる素材とコーティング加工の方法、さまざまな条件下での防汚性・殺菌性の検討など、技術的検討を 行っていた。新しい技術がいろいろな方向に展開していけるように研究を進め、シーズとしての技術的可 能性を十分に掘り起こしておけば、いずれどこかで商品開発のニーズと遭遇するだろうという感覚で実用 化に向けた研究を始めていった。しかし、いったん商品化ターゲットがタイルに絞り込まれると、以降は 光触媒タイルの実用可能性を検証するための実験が研究開発の中心になっていった」 。 コロイド原料を用いて酸化チタン薄膜のタイル表面への固定化や、コーティングされた酸化チタンの光 酸化作用の検証など約 2 年半に及ぶ共同研究を経て、この薄膜コーティング光触媒の技術は開発された(図 表1参照) 。その成果は 1992 年の「酸化チタン光触媒国際会議」で発表された。 2 2.薄膜コーティング光触媒タイルの開発 その後、薄膜コーティング光触媒のタイルへの製品化のための実験が繰り返された。最初は、厨房用タ イルをイメージして、しょうゆやソースなどで汚れた光触媒表面に光を当てて分解させるという簡単な実 験から始め、また浴室タイルをイメージして、風呂場床タイルの現場実験を試みた。たとえば、会社の独 身寮の風呂場の床タイルに、酸化チタンの塗ってあるものと塗ってないものとを使って比較した。施工直 後はあまり変わらないが、7 ヶ月も掃除をしないで放置しておくと、光触媒の塗っていないタイルは湯垢 がついてぬるぬるしたのに対して、塗ったほうのタイルは汚れがとれて施工したときの新品同様のままで あった(図表2) 。この結果を示すことで、タイル事業部の協力を得ることができるようになった。以降は、 生産技術をタイル事業部主導で開発しながら、試験施工を重ねていった。 また、東京の病院の手術室では壁や床に光触媒を塗ったタイルを張って実験に協力してもらった。手術 室では手術のたびに殺菌消毒をしなければならない。実験の結果、汚れや殺菌に効果があり、いちいち消 毒しなくても水拭きだけで十分であることが分かった。さらに、播州赤穂に程近い赤穂中央病院にこのタ イルを試験施工して、付着菌数の経時的な変化を調べて効果を検証することができた。 3 しかし、こうした実用化に向けた研究を進める中で、渡部はある一つの疑問を抱きはじめていた。彼は、 研究の過程で汚れ防止や殺菌効果を持つ光触媒コーティングの技術が幅広い応用の可能性を持つことを感 じとっていたが、それを社内で実用化していくためにはどうしても自社の事業ドメインのなかに位置づけ なければならない。それでは、せっかく幅広い応用可能性を持つ技術のポテンシャルが十分に活かされな いのではないかと思いはじめたのである。メーカーの研究開発は、その成果を自社の製品・事業に活かす ことがそもそもの目的である。薄膜光触媒によって汚れを防止できる、殺菌できるという研究の成果をT OTOのドメインの中の製品や事業に応用するとすれば、どうしてもタイルなどに限られてしまう。この 制約の中での応用を考える限り、せっかく応用範囲が広い技術であっても用途はあまり広がらない。もっ と面白い展開ができないだろうか。渡部は、このような思いを持ちながら実用化のための研究を進めてい った。 薄膜コーティング光触媒の技術が生み出されてから 3 年後の 1995 年、TOTOはこの技術を用いた初め ての製品となる「光触媒抗菌タイル」を開発、販売を開始した。当初は風呂用タイルとして発売されたが、 翌 1996 年以降は病院の手術室などで使用されるケースも増え、徐々に売上が伸びていった。 3.光触媒の超親水性機能の発見 (1)超親水化現象の発見 光触媒抗菌タイルの開発に向けて研究を進める過程で、基礎研究所の光触媒の研究グループは渡部(当 時・研究主査)をリーダーとして、そのほか 3 名の研究員(計4名)から構成されるようになっていた。 彼らは、抗菌タイルへの実用化にもほぼ目処をつけ、光触媒の研究に見切りをつけようとしていたが、最 後の課題ということで水をはじく樹脂素材と光触媒を組み合わせることに取り組んでいた。そのなかで渡 部たちは偶然にも光触媒についての新しい現象を発見した。それは、光触媒薄膜に光照射すると、薄膜表 面が水にたいへん濡れやすくなるという現象であった。後に光触媒の実用化を大きく加速させることにな る超親水化現象(学術的には「光励起親水化反応)と呼ばれる)の発見である。1995 年 2 月のことであっ た。 樹脂の中には水をはじく性質、いわゆる撥水性を示すものがある。彼らは、それと光触媒との組み合わ せを検討していたが、研究を担当していた千国真一(故人)は実験がうまくいかないという報告を渡部に していた。最初は水をはじくが、光を当てていると水をはじかなくなってしまうというものであった。こ の報告を受け取った渡部は、それは撥水性の樹脂が光触媒の作用で酸化分解されてしまったためであり、 これ以上実験を継続しても成果は得られないかもしれないと思ったが、念のため濡れ性の指標である接触 角は何度になっているかを聞いたところ、千国は3度になっているようだと答えた。通常の環境下での物 質表面の濡れ性はある一定の範囲に収まっており、3度というのは異常値であったため、渡部はこれに興 味を持ち追試をすることにした。追試の結果は、やはり3度という低い接触角が得られていることが確認 された。 前述した薄膜コーティングの光触媒は、光を当てると活性酸素ができる現象を応用したものであったが、 このとき発見した現象は光照射を行うと水接触角が低くなり水濡れ性が著しく高まるという、全く異なる 現象であった。酸化チタンの場合、それを空気中においておくと表面の水接触角(図表3)は約 30 度で安 定化するが、そこに光を当てると接触角が下がり、最後にはきわめて高度な親水性を示した。つまり、水 を一滴たらすと水滴は限りなく濡れ広がる状態になるのである(図表4参照) 。このとき、酸化チタンでは 光を当てるのを止めると元の接触角に戻ってしまうが、その後の研究で酸化チタンにシリカを加えた組成 では光を照射するのをやめても親水性の現象が長期間継続することも明らかとなった。こうして、超親水 4 性を光が必ずしもいつも当たっていない環境下で利用するために欠かせない材料系も見出された。 (2)超親水性光触媒の特性と評価 光触媒の超親水性という新しい技術的な発見は現象的にも面白いが、実用的に見てもきわめて重要なも のであった。たとえば、曇るということはきわめて細かい水滴がガラスや鏡の表面に生成する現象である。 風呂に入っているときに鏡が曇るのは、このためである。ところが光触媒をコーティングしておけば、水 は水滴にならず、表面に薄い水膜となって広がり曇り止めに使うことができる。また、汚れがついたら、 水膜が汚れの下にもぐりこんで浮かせ、水で簡単に洗い流すこともできる。 一時的に親水性の状態を作ることは別段難しい技術ではなく、たとえば石鹸水を付着させることによっ て簡単にできる。ところが、こうした親水性の物質は水に解けやすく分解されやすいため、雨が降ったり、 紫外線が当たったりする屋外などではそうした状態を維持させることは難しかった。それに対して、光触 媒による親水化は、光と水があって起きる反応であるため、親水性を耐久的に維持するためにはその両方 がある屋外のほうがむしろ好都合である。 もう一つの特徴としては、水に対してはきわめて高度な親水性を示すが、油に対しては多少の撥油性を 持つという点があった。たとえば、油汚れのものを水の中につけると自然に汚れが落ちるので、雨が降れ 5 ば汚れが落ちるというセルフクリーニング効果を持つ。前述の光触媒による汚れ分解とは、汚れが防止で きるという点では同じでも、光触媒の汚れ分解機能のほうは汚れに光が当たっているうちにだんだん分解 されてきれいになるのに対して、親水性のほうは汚れがついても水などに濡れればすぐにきれいになると いうメカニズムに明確な相違があった。 両者の違いは、これらの技術を用いた製品を売る立場を考えると大きな意味を持っていると思われた。 汚れ分解では、抗菌タイルのように何ヶ月かが経過して初めてその効果が目に見えるかたちで現れる。そ のため、顧客はそれを買う段階で果たして効果があるのかどうか良くわからない。それに比べて、親水性 の方は、水をかけただけですぐに効果があることが分かる。抗菌タイルの販売にあたっては、その効果を どのようにして顧客に理解してもらうかに苦労したが、親水性という性質はこの点で大変売りやすい技術 でもあった。 この新しい技術は、基礎研究所の報告会で担当役員の吉久保誠一(当時・常務取締役)にも報告された が、必ずしも直ちに経営的評価を得られたというわけではなかった。担当役員からすれば、水濡れ性が良 い材料は他にも数多くあり、本当にこの技術が既存の技術に比べて優位性があるのかどうか、さらにはT OTOの中で本当にビジネスにつながる技術となるかどうかは判断が難しかった。前者は技術的判断に属 するもので、半導体の光励起現象を利用していることを理解すれば、従来技術との比較優位性は見通しが 利く。しかし、ビジネスへの可能性に関しては確かに不透明な部分が多かった。 それでも渡部は、当時の知財部長であった原田 努(現・ベンチャー企業 JASTEX 社長)に協力を求め、 後述するように体系的な戦略の下に特許を次々と出願していった。国際優先権主張という制度を利用し、 1年間にわたる7件の発明をまとめて国際的な特許出願につなげることができた。 ただ、この現象の原理にはよく分からない部分もあった。吉久保の意向もあって、渡部たちは、1995 年 7月に藤嶋研究室に機構解析に関しての共同研究を持ちかけた。吉久保には技術の評価を外部の専門家に させようという思惑があった。藤嶋・橋本らはこの現象の説明を聞くとそれを新規な現象と認め、原理解 明のために酸化チタンの単結晶という純粋な材料を使って光照射時の水滴の濡れ性の変化を研究していっ た。このような研究の結果、表面に特有な構造変化が生じることによってこのような現象が起きることが わかった。この発見は、1997 年に「ネイチャー」誌に掲載された。 4.超親水性技術の実用化プロセス (1)実用化に際しての問題意識 このようにして新しく生み出された親水性光触媒の技術は、水滴ができずに曇らない、汚れが簡単に洗 い流せるというきわめて明快な効果を持つとともに、その効果が半永久的に持続する。そのため、その応 用範囲は、前述の薄膜コーティング光触媒の分解技術と比較してもはるかに広いことが予想された。 実際、「親水性」などのキーワードで検索を行い、関連する用途を拾い上げていくと、「防曇ガラス」な ど関連する多くの言葉が、検索の網にひっかかってきた。そして、それらを用途別に並べなおすと、親水 性技術の多様な用途マップが明らかになった。 このとき、渡部は先の薄膜コーティング光触媒の実用化の経験から、何としてもこの技術の持つ大きな ポテンシャルを具現化できる事業化を進めようと考えた。 「応用範囲が非常に広いこの技術を、通常の方法 でTOTOのドメインビジネスの中に入れてしまうと、タイルや風呂場の鏡ぐらいに応用できる程度で、 他の膨大なフィールドを捨ててしまうことになる。それではあまりにももったいない。せっかく多様なフ ィールドに応用できるのに、それが制約されるというのは経営にとっても機会損失である。なんとかそれ らをカバーする事業化の戦略を立てたい」 。 6 渡部の頭の中には、もう一つ、研究に従事する研究者・技術者のモチベーションを高めたいという意識 もあった。渡部は次のように述べている。 「たとえ、やっている仕事が科学的に非常にすばらしくても、そ れが結果として自社のビジネス・ドメインに入らなければ経済的な成果にはつながりにくく、会社からは 評価されない。研究がうまくいったのに評価されないというのでは、研究開発をしている社員のモチベー ションは大きく阻害される。基礎研究に取り組んでいる多くの企業で、研究者・技術者のモチベーション を維持することができないぎりぎりのところまできているのが現実だと思う」 。 ここで渡部が考えたのは、従来の既存事業での製品化のほか、この技術を利用した新規事業に取り組む こと、もう一つは特許等の知的財産権を利用した技術移転ビジネスという事業展開であった。かりに既存 事業のなかで技術が十分に活用できなくても、新しい事業で利用できれば、その技術のポテンシャルは活 かされる。また、技術を知財として他社に移転・流通することができれば、同様に技術は広く活用される。 多少なりともライセンスフィーが入れば、研究開発に還元できるのではないかという狙いもあった。そし て最悪たとえ利益が出ないとしても、自分の技術が活かされているというだけでも研究者・技術者は救わ れる。 渡部たちは、こうした問題意識に沿って、超親水性技術の実用化を進めていった(図表5参照) 。 (2)特許出願への取り組み 渡部は、このような取り組みを実際に推し進めていくためには、新しい技術を体系的に特許として固め ることが鍵となると考えた。新しい事業を興すにしても、その裏づけが必要である。 「既存事業が 4500 億 円だとすると新規事業でもし 100 億円を売り上げても 45 分の 1 にしかならない。それだけのためにトッ プ・プライオリティで経営資源を割くことはできない。よほどのバックグランドや既存の顧客との関係が ないと難しい」 。優れた技術を特許としての権利化することは、新しい事業を展開していく上で重要なバッ クグラウンドになると思われた。 また、特許などの知的財産権に着目したのには、2つの背景があった。ひとつはこの技術の本質的な特 徴に関係する。親水性を発現するための薄膜の厚さはわずか50μm程度で充分であり、材料コストはほ とんど無視できる。コスト・アプローチで計算すると、プロセス・コストを入れても商品の価格はわずか 7 なものになる。しかし、この技術が提供する機能、たとえばセルフクリーニングなどの効果によって、メ ンテナンス費用が削減できるのであれば、それはコストとは関係なく大きな価値を提供する。この価値に 見合った収益を得ようとするとき、 「光触媒という『モノ』を売っては負けだ」と考えたのである。そのた めに、技術をモノとしてではなく、価値として実現させていこうと考えた。その一つの帰結が、無形資産 としての知的財産権によるビジネスであった。 また、もう一つの背景として、当時議論が進んでいたプロパテント化の動きも大きく関係していた。1996 年は、特許庁が「プロパテント化」政策を採ることを宣言した年であるが、1995 年にはすでにその傾向が 見えていた。渡部はこの流れを捉えて積極的に特許戦略を展開しようと考えた。 まず、発見した現象を発明に見たてて直ちに特許出願した。最初の出願は、その現象の発見の翌月、1995 年 3 月に行われた。その後、継続して一年間発明を充実させ、合計7件の発明をまとめて国際優先権(用 語解説 2 参照)を用いて出願した。続けて各応用分野や関連技術について周辺特許を出願していった。 酸化チタンは昔から顔料としてすでに利用されていたため、酸化チタンという物質そのものの特許は取 れないが、包括的な用途の特許は取得できることに着目してこれに焦点を当てた。基本特許に相当する技 術的な原理から、それを実現するための技術、作用、コーティングの組成物、さらにガラスやドアミラー に使うなどといった用途出願を体系的に捉えて出願した。こうして 1996 年 7 月までに合計 70 件の特許を 出願した。その後、現在までに出願した特許数は約 600 件に及んでおり、光触媒の分野で他社を圧倒する 数にのぼっている(図表6参照) 。 TOTOにおいて、このような特許出願は、1995 年 10 月に発足したワーキンググループによって進め られた。メンバーは、リーダー1 名(渡部) 、技術 6 名、マーケティング 1 名、知財 2 名の計 10 名で構成 された(基礎研究所での光触媒関連研究の組織については、図表7参照) 。 8 ワーキンググループは、国際優先権を用いた特許出願が行われた 1996 年 3 月以降、他社との共同研究の 可能性も探っていった。新技術を早く事業化するためには自社の思い込みだけで研究を進めていくことは 効率的ではなく、市場の情報を入れながら研究開発を進め、さらに特許出願を充実させるためであった。 自社の既存事業であれば、そうした情報も入ってくるが、自社の事業から離れた分野に関してはこのよう な活動が不可欠と思われた。秘密保持契約を結びながら、共同研究の可能性をいくつかの企業に打診して いった。 (3)技術広報の展開 1996 年 6 月になると、担当役員の吉久保の前向きな理解もあり、ワーキンググループはリーダー1 名(渡 部) 、技術 9 名、マーケティング 2 名、知財 2 名のプロジェクトチームに再編成された。その目的は、出願 した特許を幅広くライセンスしていくための技術マーケティングを本格的に展開することにあった。プロ ジェクト体制となることで、技術の広報と試作のための予算が確保された。 これを受けて、TOTOは翌 7 月から積極的な技術広報を行っていった。まず、新聞各紙に「技術広報」 を行った。その翌日には「技術パートナー募集」という一面広告を日本経済新聞に掲載した(図表8参照) 。 また、自社のホームページでもこの技術を紹介し、インターネットで開示していった。通常、メーカーの 広報は、新しい製品が開発された際に行われることが普通だが、このときに行ったのは「超親水性技術を 開発した」という技術についての広報であった。そして、開発した新技術を自社製品にも使うが、積極的 に技術供与するという趣旨の内容を添えた。 特に日本経済新聞が大きく取り上げてくれたこともあり、技術広報の翌日にはさまざまな業界から二百 数十件にものぼる問い合わせが寄せられた。その約 1 ヵ月後の 1996 年 9 月には出願特許を公開。その年末 までに、約 600 件の問い合わせがTOTOにもたらされた。 技術広報に先立ってかなり事前の洗い出しをしていたことから、当初想定していなかった用途分野につ いての打診はさほど多くはなかったが、それでも自動車のヘッドライトを反射して光る道路標識への応用 の可能性など、まったく想定していなかったものも含まれていた。また、当初想定していた用途について も、事前の洗い出しの段階ではそれぞれについてどれくらいの可能性があるのか現実感がなかったが、こ うした他社からの問い合わせの中で実際にどの分野が有望なのかという理解が深まっていった。 9 【グループ討議】 光触媒技術の新聞広告はどのような狙いから行われたのだろうか? またこのよう な技術の公開を行う際、知財部門の視点になった場合のポイントは何かを考えてくだ さい。 10 *ケース1. の続き (4)新規事業部の設立 TOTOは、1996 年 12 月に新組織「フロンティア事業部」を設立した。渡部が事業部次長に就任して 引き続き業務に当たることになった。研究所から事業部へと、技術だけでなく、その開発に当たった研究 者自身が移動するという、いわゆるマン・トランスファーが行われた。 この事業部は、いままでTOTOで手がけていなかった自動車のドアミラー・フィルムなどのコンシュ ーマ製品を新規事業として展開していくことを目的とした組織であった。超親水性光触媒が発見されてか ら 1 年 10 ヶ月。まだそれを応用した製品も開発されていなかったこの時期にこの新規事業の組織が設立さ れた背景には、技術広報に対する大きな反響が密接に関係していた。渡部は、この点について次のように 説明する。 「光触媒の技術がどれほどのポテンシャルがあるのかは、開発時点では経営者、研究開発を担当してい る当事者にとっては実はあまり分からない。商品にもなっていない段階では、良さそうな技術だと言って いるに過ぎず、本当にマーケットニーズがあるかどうかの判断が可能なデータは存在しない。 ・・・しかし ながら、今回のように技術の段階で広報を行い、最終的にはそれをライセンスするという形を取りながら 技術を市場に出していくことによって技術の評価ができる。これは重要なポイントである。特に、新規技 術の場合や違った領域に進出しようとする場合には、研究開発した技術に対する投資の判断の際には、こ のような情報が大変重要になる。特に、多くの引き合いが来て、内容を分析していくとかなり見込がある というときには、事業化への決断が容易になる。研究開発予算が潤沢であれば問題はないが、限られた予 算枠の中で新規事業を検討しようとするときには、このように技術広報を行って反応を見る手法は有効で あると思う」 。 実際、この技術広報の結果は当時の江副社長、重渕副社長(後の社長)からなる経営会議で一定の評価 を受け、新規事業への投資が決定されたのであった。 フロンティア事業部は、1997 年 4 月には 50 名体制に増強され、同年 12 月からドアミラー・フィルムの ほか、自動車ボディーコーティング材、消臭・結露防止などの家庭用品のテストマーケティングを開始、 その後自社製品としての全国の販売店などで販売を行っている。 (5)ライセンス事業の展開 このような新規事業への取り組みの一方で、1997 年にはいくつかのライセンス契約も結ばれはじめた。 最初のライセンスは日産自動車に対するもので、1997 年 4 月に契約された。日産自動車とは、技術広報を 出す前から水面下でのやり取りがあったが、それがこの時点で正式なライセンス契約に結びついた。日産 は、この超親水性光触媒をドアミラーにコーティングし、水滴がつきにくいドアミラーとして自動車に設 置することを目指していた。光触媒をコーティングしたものとそうでないものとでは雨が降った際に大き な違いが見られ、親水化した表面では水滴が防止できクリアな視野が確保できる。 この日産自動車とのライセンス契約は、TOTOに技術ライセンスが事業として成り立ちうるという大 きな自信を与えた。そして、それをきっかけに、TOTOは 1997 年 5 月に子会社「フロンティア・リサー チ株式会社」を設立し、ライセンス事業をスタートさせた。フロンティア・リサーチ社は、TOTOから 超親水性光触媒に関連する特許の専用実施権を受け、ライセンス収入に基づいて運営されるライセンス専 11 門会社として位置づけられた。 TOTOは、日産自動車へのライセンス供与の後も、フロンティア・リサーチ社を通じて積極的にライ センス事業を展開していった。日本道路公団と共同研究を進めていた高速道路の透明遮音壁が 1997 年 10 月に実用化されると、その技術を積水樹脂工業にライセンス供与した。高速道路では自動車の走行による 騒音を防ぐため、それまでは背の高いアルミ製の遮音壁を設けていたが、高速道路沿いになる住宅の日照 権を妨げるという問題から透明の遮音壁が使われ始めていた。しかし、透明にしても、排ガス等で汚れや すく、いったん汚れると日照権も妨げられるため常にクリーンな状態を維持しておく必要がある。ところ がその作業のためには交通規制をしなければならないし、作業も大変である。この透明遮音壁に光触媒を コーティングしておけば、そのセルフクリーニング作用によって常に透明性を保っておけるというメリッ トがあった。 現在では、国内外の 40 社近くの企業に対してライセンスが行われ、それら企業でビル・住宅用ガラスや テント屋根、道路のカーブミラーや反射鏡など、多くの分野でさまざまな製品が実用化されている。 ここからは、上述のフロンティア・リサーチ社がライセンス専業会社として設立されるに至った経緯と、 同社による海外への超親水性光触媒の技術移転を取り上げ、詳細に考察してみよう。 <ケース2.超親水性光触媒技術「ハイドロテクト」の海外への技術移転> 1.超親水性光触媒技術発見当時のTOTOの知財戦略 光触媒の紫外線分解機能がTOTOにおいて本格的に研究され始めた時期は、ちょうど、TOTO社内にお いて特許戦略の重要性が認識され始めた時期に当たっていた。 TOTOの社長代行であった古賀(その後社長)と原田 努(現 ㈱ジャステックス 代表取締役社長)が出 会ったのは、1986年であった。当時、原田は重工業K社で開発業務に携わる傍ら特許に興味を持ち始め、 事業戦略にいかに特許を活用すべきかを自分なりに考え始めていた。古賀と会ったのは、原田が、開発プ ロジェクトが一段落するのを契機に特許の世界に身を投じようとしていた、ちょうどそのときであったの だ。古賀が言うには、TOTO内で、特許活動をどのように推進していくべきか、他社対策はどのように行 えばよいかなど、今いろいろな方策を練っている。しかし、それを具体化し進めてくれる人がいないとい うことであった。 原田がTOTOの出願状況の概略を見てみると(当時は紙情報である)、確かにいくつか気になることが あった。例えば、実用新案を多用しているし(製造方法などの方法の発明とセラミックなどの材料の発明 のみが特許出願であり、それら以外はすべて実用新案である)、出願と同時の審査請求を行っている。こ れらは、当時のTOTOにおける出願の非常に特徴的な点であった。 翌年、原田はTOTOの特許管理部に入り、さっそく実務を担当するとともに、気になっていた上記の点 について、改善策を採り始めた。特に、それまで、主として実用新案を中心に組み立てられていた出願を 特許主体に切り替えることにした。特許とすることで権利を大きく考え、権利期間を5年長くできるから である(当時は、実用新案の権利期間は出願の日から15年であった)。しかし、その一方で費用は余分に かかることになる。 ここで思わぬ反応が発明者から得られた。原田は次のように語る。「出願の掘り起こしのため発明者と ミーティングをしていると、『特許で出しましょう』と言った途端、発明者の顔がぱっと明るくなるんで すよ。技術者が何となく感じている実用新案と特許の「差」があったんですね。特許で出すと言えば、『次 もよいアイディアを出そう。今、自分は大きな発明を、新しい発見をしたんだ。これからも頑張ればでき 12 る』といった積極的な受け止め方を、技術者はしてくれると実感したわけです。彼らにとっては、自分の 発見や発明が“特許になる”ことが嬉しいわけで、ある意味、それが一つの大きな目標でもあるんです。 ですから、実用新案から特許重視の姿勢へと社内の気風が変わってきたことは、今後のことを考えても大 きな一歩だと思いました。自分が何か新しい発見や発明をしたとき、それを特許化するために会社が全面 的にバックアップしてくれる。それは、社内研究者や技術者にとって非常に大きな励みになることなんで す。そうした認識が広がることで、新しいことをやってみよう、挑戦してみようという研究開発部門の意 欲も大きくなり、ひいては、会社全体の活性化にもつながると、私は確信していました」。 き しゅ 1990年、知財関係の担当役員となった来 住 常務を中心に特許戦略をTOTOの事業戦略、ひいては全社 的な戦略(コーポレイト・ストラテジー)の中でどう位置づけるかということが活発に論議されるように なった。 ここにきて、従来の実用新案を中心とした実施技術重視の姿勢から技術の本質を重視する姿勢を鮮明に したのである。つまり、まず製品を製造し世に出すという「プロダクトファースト」から、発見の本質的 価値を把握し、まず出願を、特許を、考えようという「パテントファースト」へと、会社の方針を転換す ることとしたのである。 これを実現する方策として、 1. 発明の本質を見極める 2. パテントマップを活用する 3. 特許情報システムを構築する 4. 特許教育を充実し、各研究開発部門にパテントインストラクターを養成する 5. 発明の評価と補償の改正に取り組む といった諸点に取り組むこととした。 さて、それでは今後、特許を中心に知財戦略を構築するためには、具体的にどうすればよいか。原田は 新しい発見や発明を、できる限り「よい権利に作り込む」ことが大切だと考えた。では、どういった明細 書を書けばその目的が達成されるのだろう。知財部では来住常務を中心に、そういった専門的な特許取得 に関わる研究も行われるようになった。 1990年、原田は米国特許研修に参加する。その目的は、日本法が発明後の保護について規定しているの に対して、発明を生み出す過程にまで踏み込んでいる米国の仕組みを理解し、企業内における発明の奨励、 発掘活動にどのように活かすかを学び取ろうとしたからであった。1991年には部内のプロジェクトで知財 管理システムを開発導入した。当時としては画期的なパソコン通信の導入もなされた。知財部でも開発と いうことがあるのである。 その後1994年に、特許管理部は知的財産部と改称されることとなった。97年に原田は知的財産部長とな り、当時の特許庁長官の荒井寿光氏によるプロパテント宣言を受けながら、「パテントファースト」の社 内定着を目指すのである。こうした知的財産戦略に対する社内の期待は非常に大きく、様々な施策や新し い取り組みに対する各部門の協力も充分であった。ある年、重渕雅敏社長(現・会長)は年頭のあいさつ で、これからは、「プロダクトファースト」から「パテントファースト」であると、全従業員に説いてく れたものである。原田は当時を振り返って、社長以下1万人の社員が、新しい知財戦略に基づいた会社の グランドデザインをよく理解し、一緒に動いているという実感があったと語る。 2.超親水性技術の発見とライセンス専業会社の設立 こうした時期である1995年1月、光触媒に新たな機能が発見された。それは、光触媒を塗布した表面が 13 非常に水に馴染みやすいという「超親水性機能」であった。会社戦略における特許の重要性が認識され、 様々な施策が取られ始めていた時期と光触媒研究の時期はほとんど重なっていたため、超親水性技術がい よいよ発見されたとき、まさに、特許化への社内的な受け皿は整いつつあったのである。 この超親水性機能は、発見当初から、酸化作用を利用して防汚・防菌する光触媒の分解機能より、更に 応用範囲が広い機能であり総合的な技術となりうると目されていた。そこで、TOTOは、この新発見を軸 にした知財戦略を構築し、事業方針と事業計画を立案した。 具体的には、(1)自社事業(特にタイル事業部門)への利用、(2)自動車事業への利用を目指した新 規事業の立ち上げ、(3)ライセンス事業(ドアミラーを中心に他社への技術供与)という区分けをし、こ の3つの柱に基づいて、事業展開を図ることにしたのであった。また、技術ブランドをつけることとし、 「ハイドロテクト」という名称とロゴマークが決定された。これらの事業の方向付けや知財戦略の指導的 役割を果たしたのは、吉久保常務(のち専務)であった。 このうち、ライセンス事業を担当するために、1997年5月、新たに「TOTOフロンティアリサーチ株式 会社」(TFR)が設立されることになった。この会社は「超親水性技術の他社での実用化を促進するライ センス営業活動を行う」という目的のために、TOTO 本社から超親水性光触媒技術関連特許の専用実施権 を受けて活動する「ライセンス専門会社」と位置づけられた。また、運営自体も超親水性光触媒技術を供 与することで得られるライセンス収入に基づいて行われることが決まった。これにより、TFRは、自らラ イセンサーとして活動できる基盤を得、スピードのある活動を期待されたのである。多くの企業では、知 的財産に関する契約事項は、稟議や役員会決裁事項とされるなど、慎重な審査を要する事項とされている が、TFRは専用実施権を得ることにより小回りの利く活動ができるようになったというわけである。 この種のライセンス専門会社を設立したことは当時の産業界としては画期的なことで、新聞にも大きく 取り上げられ、驚きをもって迎えられた。 3.超親水性光触媒技術「ハイドロテクト」の海外展開 (1) 海外展開の機軸をタイルに設定 設立から2年ほど経過した頃から、TFRでは、日本での用途開発を模索するとともに、海外展開も視野 に入れ始める。1999年1月には原田がTOTO本体のフロンティア事業本部副本部長・知的財産本部副本部長 と兼務する形で、TFRの社長になり、海外展開の試みが一気に本格化した。 当時、国内中心で展開されていたハイドロテクトに対して、海外とのコンタクトも東大の藤嶋教授(現 神 奈川科学技術アカデミー理事長)やTOTO本体、また、後にTFRの兄弟会社TOTOフロンティアUSA(TFU) として米国に設立されることとなる米国メンバーを経由して、引き合いがくるようになっていた。アメリ カのPPGやフランスのサンゴバンなどである。両者はいずれもガラスメーカーであったが、原田がさらに 期待していたのは、超親水性光触媒の優れた機能を最大限に活かせそうなタイルでの展開だった。TOTO のタイルにはハイドロテクトがすでに実用化されており、完成度の面からも相手先での事業化が早期に達 成されるものと見込まれた。 (2) TRUのハーベイ・マロイ氏を通じてドイツのDSCB社と接触 後にTFUの社長としてTFRグループに参加することとなるハーベイ・マロイ氏は、タイル業界によく通 じた人物だったが、彼の知己であるチェコ人のペテルカ氏から、RAKOというチェコのタイルメーカーが ハイドロテクトに関心を寄せているとの情報が得られたのは、この頃のことである。ペテルカ氏のバック グラウンドは原子物理学らしいが、以前から光触媒には関心を寄せていたとのことであった。相前後して、 14 「PPG、関心あり」との情報がTOTOの技術者に入り、原田はマロイ氏らと連絡を取り、米国とヨーロッ パを歴訪することとした。 原田は、99年1月末、ピッツバーグのPPGを訪問。その後回るヨーロッパでは、RAKOを見学する予定 にしていた。マロイ氏とTOTOタイル事業部の伊藤事業部長、佐伯らとフランクフルトで合流した原田は、 これからミニバスでドイツを横断すると聞く。そこで初めて、DSCBという会社を見学する手配がなされ ていると知ったのだが、チェコのRAKOを見学するとばかり思っていた原田にとっては、寝耳に水の話で あった。とにかくミニバスは、しんしんと雪の降りしきるアウトバーンを疾走し、田舎道を駈けるのであ った。 実は、RAKOは、ドイツのボン近郊に本社を置くDSCBの傘下企業だった。DSCB自体はコングロマリッ トの形態で、タイル事業を始めその他の建材、建築事業に幅広く展開している会社であった。RAKOの製 造するタイルは、DSCB内のタイル事業においては普及品に位置づけられており、DSCBではそうした廉価 な普及品の他に、傘下企業のアグロブ・ブフタール社でタイルの高級ブランド「ケライオン」を生産して いた。この高級ラインのタイルにペテルカ氏を通じて聞き及んだハイドロテクトを使用し、付加価値を高 めたいというのが、DSCBを率いるシェーファー社長の狙いであった。そのためにTOTOとの接触を希望し てきたのである。 そのときのツアーでは、結局、最後にチェコのRAKO工場の見学が組み込まれており、そこでペテルカ 氏と実際に会ったのであるが、シェーファー社長の戦略との微妙な相違が後々わかってくるのである。 (3) DSCBのタイル工場を見学 こうして、TOTOとDSCBとの間につながりができることになるわけであるが、当時を振り返って、原田 は次のように語る。「あの頃の第一のターゲットは、実は、イタリアのメーカーだったんです。ですから、 DSCBとは、まあ、向こうが会いたいと言うんだったら会ってみようか、といった程度でした。ただ、「ケ ライオン」というタイルブランドは日本のタイル業界でも周知されており、DSCBとは聞き慣れない会社 だが、あの「ケライオン」を作っていたブフタールを買収でもしたのではないか、という声がタイル事業 部内でも上がっていました。それで、ヨーロッパのタイル業界では有名なタイルブランドを持つ会社なん だな、少なくともきちんとした信用できる会社なんだな、といったことはわかりましたが、その程度の認 識であったわけです」。 いざ、DSCBで話を聴き、ドイツ各地に散らばる同社の工場を見学してみると、どの工場も世界最高レ ベルの設備が整っており、押出成形した8ミリ、6ミリ板厚の約1メートル四方のタイルをどんどん焼い ていくという、非常に高度な技術を持つ会社だということがわかった。また、ドイツ国内のシェアも非常 に大きく、タイル部門はドイツNo.1のメーカーであることも判明した。更に、工場で製造工程を詳しく見 せてもらったことで、TOTOのハイドロテクト技術と同社の技術がうまくマッチングするかといったこと についても、ある程度当たりを付けることができ、「これならいけそうだ」という好感触を持つことがで きたのであった。 (4) イタリアのタイルメーカーをアタックするも さて、ドイツとチェコでの工場訪問をとミーティングを終えた一行はイタリアに移動し、海外営業展開 での「本命」と位置づけていたイタリアのタイルメーカーと接触することにした。 イタリアタイルは、その高いデザイン性と優れた品質で世界最高との呼び声が高く、その上、比較的安 価であるために日本にも大量に輸入され、TOTOも採用していた。また、イタリアのタイル製造技術はア ルゼンチンなど各国に供与されており、イタリアのタイル業界にハイドロテクトを売り込むことができれ 15 ば、放っておいてもハイドロテクト技術が世界展開されるとの思惑もあった。 原田らは、まず、イタリア国内の有名タイルメーカー、フィアンドレと他一社にハイドロテクトタイル の売り込みを行った。しかし、残念なことにイタリアのメーカーはそれほど強い関心は示してくれず、原 田をがっかりさせる。 しかしながら、当時、あくまでもイタリアのタイルメーカーを優先的営業ターゲットに定めていたタイ ル事業部と原田は、帰国後しばらくはイタリアからのオファーを待ちつつ、その間に、まだわからないこ とが多かったDSCBについて、更なる調査を進めることにした。 (5) 超親水性光触媒タイルの製造面での問題点 ここで、超親水性光触媒を使ったハイドロテクトタイルの製造法について、少し説明しておこう。まず、 タイル表面に、酸化チタンに代表されるような光触媒でごく薄い層を築く。この光触媒層に水が付着する と薄い膜状になって全面に濡れ広がる。この機能により、タイルに付着する汚れが雨水などに濡れるだけ で、汚れ(油成分であることが多い)を浮かすこととなり、すぐにきれいになるというセルフクリーニン グ力が付与されるのである。このようなセルフクリーニング特性を発揮させるには、光触媒層を最上層に コーティングする必要があるため、必然的に出来上がったタイルの表面に光触媒を薄膜状にコーティング し、再度焼き付けるという作業が必要になる。つまり、二度焼きしなくてはならず、それまで完成品とな る上で全く必要とされなかった工程が一つ増えてしまうのである。これは、当然ながらその分のコスト高 をもたらす。 イタリアの有名タイルメーカーがハイドロテクトにあまり興味を示さなかったことは前述した。その理 由が何であったのかは今となっては窺い知る術はないのだが、おそらく、こうした「従来の完成品の上に、 もう一工程施さなくてはならない」というハイドロテクトタイルの“二度焼き”製法と、それに伴う必然 的なコスト高が大きな障害と見なされた可能性は充分にある。 結局、ハイドロテクト技術を採用するかどうかは、ハイドロテクトタイルの性能・品質を、製造法に伴 うコスト高との対比で、どこまで積極的に評価するかということにかかってくる。この点においてDSCB は、自社の高級タイルにハイドロテクトによりセルフクリーニング機能を持たせ、「従来のタイルより機 能面で格段に優れている」ことが世間に広く認知されれば、更に自社ブランドの評価が高まるであろうと いう前向きな見込みを立ててくれたようであった。 その品質と機能はコスト高を補って余りある、というハイドロテクトタイルへのDSCB側の高い評価は、 TOTOタイル事業部や原田にとっても、非常に嬉しく頼もしいものであった。 (6) 欧州でのターゲットをDSCBに絞り込む このような経緯により、DSCBはハイドロテクト技術に強い関心を示し、TOTOとの技術提携関係を希望 してきたわけだが、この時点で、原田はヨーロッパでの技術供与先を絞り込む必要に迫られた。ドイツの No.1メーカーとは言っても、DSCBとだけ付き合っていてよいのだろうか、イタリアのメーカーも契約の 相手方として可能性を残しておきたい。いろいろ考えるには考えたが、イタリアメーカーのこれまでの対 応を見る限り、今後、急に彼らが方針を転換し、ハイドロテクトに興味を示して導入を考え始めるといっ たことを想定するのは、あまり現実的ではなさそうである。 いずれにせよ、本件はタイル事業部の意向を尊重することが必須である。タイル事業部との協議を重ね、 マロイ氏の意見も聞き、とにかく、今は、もっとも積極的に興味を示してくれているDSCBを大切にして おくべきであろう、と結論を出した。 16 4.DSCBも提携に向けて本格始動 DSCB技術陣来日 (1) 1999年3月初旬、TOTOとの技術提携を前提として、プンマー技術担当常務を始めとする、数名のDSCB 社員が来日した。TOTO側はタイル事業部とTFRから5、6人が出て折衝に当たった。DSCB側は商品の セールスポイントをどうするか、ということへの関心が高く、ハイドロテクトタイルのセルフクリーニン グ力は確実に再現できるのか、そのためには光はどのくらい当たればいいのかといったことを詳しく知り たがった。製造方法や製造装置についても確認したかったようである。そこで、タイル事業部とTFRで視 察コースを設定し、TOTOのタイル生産現場の一通りの見学会が行われた。TOTOのタイル工場の見学は、 DSCBの強い要望を受けて設定されたものだった。 「彼らとの何日もかけての交渉に当たって、今でも印象に残っているのは、『お前たちの中で決定権を 持っているのは誰なのか?』とプンマー氏から訊かれたことです。米国のマロイ氏はなかなか日本人の感 覚がわかる人で、彼が日本では全員で合意して決めるんだと答えると、『あ、ぞー(Ah,so)』と言う。 日本語の『あ、そう』とまったく同じ意味だそうで面白く思いました」。マロイ氏のように欧米感覚と日 本人の思考法の両方を理解する人物は、海外への技術移転といった現場では大変貴重な人材である。 DSCBの移転のケース (2) さて、DSCBへの技術移転のケースを見てみると、DSCBが求めているのは、超親水性光触媒をコーティ ングしたタイルである。しかし、同社の光触媒全般への知識はゼロに等しい。となると、ライセンスはも ちろん必要だが、まずは光触媒コーティングタイルを作る技術とそれに付随する一切のものを導入するこ とが必要となる。材料となる光触媒溶液はもとより、コーティングのための設備からノウハウ全般まで、 その全ての供与を受けて初めて、DSCBの目的が達成されるわけで、ある意味、製品が製造されるまでの 全工程につきTOTOが面倒を見る形の技術供与となるわけである。 更に一例を挙げよう。ハイドロテクトタイルの製造に際しては、釉薬の上に光触媒を乗せるために二度 焼きが必要となること、それがコスト高をもたらすことは先に述べたが、このコスト高の幅を少しでも抑 えるためには、二度焼き工程を短縮化することが必須となる。既にTOTOではその点に着目し、二度目の 焼き時間を短縮・効率化するためのコンパクトな装置と技術の双方を開発していた。DSCBとしては、こ うした効率化のための装置・技術も、当然欲しいわけである。 そこで、装置面では、TOTOが開発した二度焼きのための窯を、DSCB側の設備に適合するように造り変 えて提供することになった。窯の材料と図面を提供してくれればDSCBの方で建造するという話もあった が、当然、この窯の造り方は既に特許も取っていた企業秘密であり、その製造法自体は明かせないもので あった。 このように、製品が出来上がるまで全ての面倒を見るやり方を、原田は「“フルターンキーベース”で のライセンス供与」と呼んでいるが、この手法は確かに手間がかかるが、その代わり技術の核心部分はブ ラックボックスにしたまま供与できるというメリットがあり、この利点は非常に大きなものである。 5.本契約に向けて (1) 「ハイドロテクト」名の独占使用権を与える プンマー技術担当常務が来日した1999年3月の時点で、TOTO、DSCB両社の間で改めて、今回の技術供 与の範囲が確認された。DSCBの目的は、自社の高級ラインタイルへのハイドロテクト技術の採用である。 そのため、TOTO側はハイドロテクトタイル生産技術全般、具体的には、光触媒材料(溶液)、コーティ 17 ング設備、二度焼き効率化のための装置と技術を供与し、その見返りに、技術指導料並びにコンサルタン ト料、ライセンス料を得ることになった。 3月末、DSCBからシェーファー社長が来日し、提携契約締結に向けての基本枠組みが作成された。そ の際、新たに、「ハイドロテクト」という技術ブランド名を、ヨーロッパにおいてはDSCBに独占的に使 用させてほしいという申し出があった。もちろん、タイルの領域においてである。 欧州におけるハイドロテクトの技術移転は、この段階でイタリアのタイルメーカーへの移転可能性が完 全に消えていたため、ドイツのDSCB一社に絞られていた。そこで、この申し出はTOTO側としても比較的 受け入れやすいものであったのだが、一つ問題とされたのは、ハイドロテクトの技術ブランド名をDSCB に独占使用させることは、TOTOがDSCB製タイルに対して一種の品質保証をすることに他ならないのでは ないかということだった。しかし、コーティング溶液も装置も提供し技術指導も行っており、TOTO側の 指導の通りにやれば望まれる品質は必ず発現するであろうし、逆に、指示に従わないで望みの品質が確保 できかったときにはDSCBとしても、TOTOに文句を言える筋合いはないのであるから、一種の品質保証と 見做されたとしても、それはそれでよいという結論になった。また、ブランド名使用は特許が切れた後も、 ブランド名によるロイヤリティーの可能性がありうるので、その点はTOTO側に有利でもある。そこで、 この独占使用権については、DSCBの希望に沿うことになった。 (2) 欧州での宣伝・営業のための技術資料も提供 更に、シェーファー社長からは、高級ラインのタイルにハイドロテクトで付加価値を付け今後展開して いくに際して、DSCBは設計部門を持っているので、そこを有効に活用していく方針であること、つまり、 どういうタイルをどこに使えばよいか、という提案をDSCB側がクライアントに示すことができるので、 そのときに、ハイドロテクトタイルについて詳しい話のできるセールスピープルを30人ほど育てたい。つ いては、彼らの教育にTOTO側の力を貸してほしいという話があった。そこで、TOTOは、実際にハイド ロテクトタイルを使用すると掃除の頻度はどのくらい減るのか、その他にどんな特筆すべき効能があるの か、といったことをDSCBのクライアントにアピールできるようなわかりやすい資料を提供することにな った。 一方、ここにきて、後日聞くところによると、例のRAKOのペテルカ氏からシェーファー社長に、ハイ ドロテクトをRAKOのタイルにも使って欲しいという要望が出されたらしい。ハイドロテクトをそもそも DSCBに紹介する橋渡しになったのはペテルカ氏であったから、普及品と位置づけられたRAKOのタイル とは言え、自分が紹介した素晴らしい技術を使わせてくれてもよいではないか、という強い思いがあった のであろう。シェーファー社長の当初の想定は、 「ケライオン」を中心とした同社高級ブランドへのハイド ロテクト導入による競争力強化であり、RAKOへの導入はしない、ということだったのであるが、結局、 こうしたペテルカ氏の訴えや、RAKO工場の相当数のメンバーからも同様の訴えを受け、RAKOへもハイ ドロテクトを導入することが決定された。 【グループ討議】 東陶機器の知財法務の責任者の立場で、DSCB との間でどのような提携を考えるべきかを 討議してください。結果として以降の契約が行われるわけですが、契約内容の妥当性につ いて討議してください 18 *ケース2.の続き LOI と本契約案文の作成 (3) この3月末時点で、 1)材料(コーティング液)と装置の供与 2)ドイツのDSCBに来社しての技術指導 3)一時金とランニングライセンシーの額 についてそれぞれ決定され、LOI (Letter of Intent:合意趣意書)が正式に作成、手交された。TOTOの重 渕社長とシェーファーDSCB社長との間で署名式と記者会見が行われ新聞にも発表された。 本契約の案文は、このLOI に基づき、DSCBの社内弁護士が、同年5月末の締結を目指し作成すること になった。 5月にDSCBの弁護士が来日したが、契約の細かい条項について調整が難航したため、拙速は避け充分 な話し合いを持とうということになり、5月末を予定していた本契約案文の仕上げは一応諦めることにな った。 7月に原田がDSCBを訪問。このとき、最終的な案文作成に向けて、1週間近くDSCBのオフィスにほぼ 缶詰となり、朝から晩まで集中的に契約案文を作った。シェーファー社長もできる限り同席してくれた。 ここはこうでなくてはいけないのでは?といった案が出ると、向こうの弁護士がすぐに案文を作ってくる。 それを叩き台にして互いに相談しながら案文を練っていく。この作業が繰り返された。 このときの調整で多少なりとも問題となった事柄をいくつか紹介しておく。 1)支払条件…一時金の半分は特許が成立してから支払われるということになった(その間の金利はDS CBが持つということで合意) 2)特許保証… これが一番問題となった。特許保証とは、DSCBがTOTOの指導の通りに作った製品が 第三者の特許を侵害していたときに、TOTOにその責任を取ってほしいというものである (典型的には、第三者の特許を侵害したことによる損害賠償請求が発生した場合には、 TOTOがその支払いに応じる)。この点については、当初、特許保証はしない方針で臨ん だが、最終的には、上限を決めてそうした場合の損害賠償の支払いに応じるということで 妥協した。TOTOとしても、超親水性光触媒が新しい発見であることには自信があったの で、ハイドロテクトタイルが第三者の特許を侵害するといった状況が簡単に生じないとい う、ある程度確実な見通しを付けることができた。そこで、こうした譲歩にも踏み切れた わけである(実際、現在に至るまで、ハイドロテクトの第三者特許の侵害といった申し立 ては行われていない)。 3)アービットレーション…仲裁条項。TOTOとDSCBの両当事者で争いが生じたときの解決手法や仲裁場 所を予め定めておくことである。特に、仲裁機関である管轄裁判所をどこに 置くかで、当初、TOTO側は日本の東京地方裁判所という案を主張したが、 DSCBの意向を汲んで国際仲裁機関を使うことにした。また、仲裁場所は第 三国のパリに定めた。 こうした条項について詳細な詰めを行う必要から、原田は、米国では同様な事例がどう処理されている かを調査した。また、ドイツはもとより、仲裁場所の置かれる国となるフランスの弁護士にもできる限り 19 話を聞いた。日本の弁護士やTOTO本体の法務部にも相談したことは言うまでもない。このときの折衝を 振り返って原田は次のように語る。「契約条件を詰めていく過程で、どの点が有利でどの点が不利かとい うことは、お互いわかってくるわけです。ですから、互いに譲ったり譲られたりしながら、双方が充分に 受け入れ可能と思えるような落としどころに向けて、諄々と話を進めていくことになりますね」 こうした過程を経て、1999 年7月に本契約の案文も決まった。技術ブランド名「ハイドロテクト」の独 占使用権については、その期間は5年とされ、その後は非独占期間ということになったが、独占契約の更 新も可能とされた。シェーファー社長のハイドロテクトタイルへの期待は非常に大きく、このとき既に、 5年を過ぎたら「ハイドロテクト」のブランド名の独占使用契約を必ず更新したい。DSCB としては末永 く、この「ハイドロテクト」のブランド名を使用することにしたいと、希望を述べていたと言う。 <ケース3. 超親水性光触媒の塗料事業への展開> 1.光触媒のライセンスとライセンス利用事業の現況 現在、光触媒事業は国内外の 40 社近くの企業に対してライセンスが行われ、それら企業でビル・住宅用 ガラスやテント屋根、道路のカーブミラーや反射鏡など、多くの分野でさまざまな製品が実用化されてい ることは、既に述べた。 もちろん、以上のような新規事業を通じたコンシューマー製品の開発・販売、ライセンス事業のほかに、 TOTOの既存事業においてもこの技術を用いた製品が開発され、市場に導入されている。トイレやバス ルーム、キッチンでの床・壁タイルといった内装材のほか、住宅の外装壁タイルや外装コーティング材な どの建材などが、その例である。 図表9は、TOTOの現在の光触媒事業の構成を整理したものである。既存事業での内・外装タイルや 建材、新規事業での自動車用品や家庭用品、フロンティア・リサーチ社を通じたライセンス事業、そして 合弁会社での塗料の販売・施工事業など、その製品・事業分野は多岐にわたり、これら事業からの売上は 2003 年 3 月期において合計約 70 億円にのぼっている。 また、2000 年 9 月には、塗料・化学品の製造メーカーであるオキツモ株式会社との間に合弁会社JHC C(ジャパン・ハイドロテクト・コーティング)を設立し、光触媒塗料やコート材の販売、施工も始めて いる。次に、TOTO が既存事業外の塗料分野において光触媒技術を展開した、このオキツモ株式会社との 合弁事業のケースを見てみよう。 20 2.超親水性機能の塗料への利用 TOTOで光触媒の超親水性機能が発見された当時から、光触媒の汚れ分解機能の方に着目した塗料はす でにいくつかの塗料会社で開発が推進されていた。道路際に設置されているガードレール、ポールなどや ビルに光触媒をコートすることにより、汚れを分解するだけでなく交通量の多い交差点などで窒素酸化物 (NOX)を分解できるのではないかということで、各社が試験を進めていたのである。汚れ分解機能に加 えて超親水性機能を活用すれば更なる防汚が実現でき、ガードレールなどの視認性を高め、事故防止につ ながるのではないかと期待された。また、超親水性機能を利用することで、各種の防汚に対し、より応用 の利く自由度の高い製品設計が可能になると考えられた。 TOTO内で超親水性機能の用途開発について議論されたとき、この機能を使って塗料が開発できれば、 現状のものより更に汚れにくい塗料ができるのではないかという話は、既に出ていたのであるが、TOTO にとって塗料は自社事業ではない。一方、専門の塗料会社にとっては、光触媒作用を持つ酸化チタンはも ともと白色ペイントの原料であり、従来から光触媒活性とは無関係に安定して使われていた材料である。 この酸化チタンに汚れ分解機能の他に超親水性機能があるのなら、それも引き出して使おうというのは、 塗料メーカーにとってはごく自然な発想であった。「馴染みのある酸化チタンを使うのだから、自分たち には簡単にできるのではないか」ということで、日本ペイントや関西ペイントなどが超親水性光触媒機能 に興味を示し、TOTOとの情報交流という形で、最初の会社間の「付き合い」が始まった。しかしそれは、 あくまでも「情報を共有する」レベルであり共同開発ではなかった。彼らは、前述のように、塗料専門メ ーカーとして超親水性機能以前に防汚機能の面から光触媒の汚れ分解機能についての研究開発をある程度 行っていたので、超親水性機能については、TOTOからある程度の情報がもらえれば充分であったし、 TOTOとしては、ゆくゆく超親水性機能の特許を使ってもらえればそれでよいというのが、双方の思惑で あった。 3.松下電工の「フレッセラ」 当時、関西ペイントや日本ペイントの他にも、PPG(板ガラスの大手メーカーとして知られるが、実は 世界最大のペイント会社である)との話があった。また、オランダに本社を置く世界No.2の塗料会社であ るアクゾノーベル社ともごく細いつながりではあったが、コンタクトは取っていた。しかしながら、これ ら海外の会社との塗料事業面での提携は結局実現には至らなかった。 ところで、専門の塗料会社の他にも非常に重要なターゲットがあった。それは塗料会社でないけれども 塗料を扱う会社、例えば松下電工(現 松下電器産業)などである。松下電工はハウス外壁塗装の中でセラ ミックス塗装を行っており、その一変形として「フレッセラ」というブランド名の光触媒の塗装を、当時 すでに施工していた。 そこで、超親水性光触媒の特許を扱うために設立されたTOTOの子会社TFRと松下電工の間では、その うちきちんとした形で業務提携できれば・・・、という話が内々では継続的に出ていた。松下電工との業 務提携といった話になれば、それは極めて大きな問題なので、当然、子会社レベルで進められる話ではな かったが、当時、TFRの社長であった原田は、「今思えば、あの頃、松下電工はTOTOと何らかのより緊 密な関係を築きたがっていたように思う」と語る。後日談になるが、その後、松下電工は正式にTOTOと 超親水性光触媒のライセンス契約を結び、現在、ナショナル住宅には標準的に超親水性光触媒塗装が行わ れるようになっている。 4.TOTO 塗料事業に挑戦 (1)提携できる会社を探索 21 さて、TOTOとしては、関西ペイントや日本ペイントとの情報交流を進める一方、自分たちでも塗料事 業を始めてみることにした。 しかし、新事業として自社事業でない塗料分野に乗り出すに当たっては、光触媒特有の次のような問題 があった。すなわち、光触媒塗料を使った塗装では紫外線と塗料が光触媒反応を起こし、塗料の塗り自体 を傷めてしまうのである(酸化作用)。上塗りが傷めば、必然的に基材を保護している下地塗りも傷んで しまう。この問題を回避するためには、上塗りを厚くしたり、下地の塗り方や下地塗料(バインダー)を 工夫したりするしかない。つまり、どの程度の厚さで光触媒塗料を塗れば塗りや下地を傷めず、光触媒の 効果を最大限に発揮できるのかという、上塗り・下地塗りの塗膜形成に関する知識が必須であるだけでな く、基材との密着性を高めて光触媒活性による酸化作用から基材を保護できるような下地塗料についての 知識・開発も必要となるのである。 ところが、TOTOは、一番上の光触媒コーティング部分にだけしか知見がないわけである。光触媒コー ティング塗装を効果的に売り込むためには、一番上に塗る塗料についての知識だけあっても不十分で、上 述のように、下地塗料や塗料の塗り方と塗膜形成についての知識と技術、つまり「塗料と塗装全般」につ いての深い知識・技術・経験が三拍子揃っている必要がある。このことはTOTO側もよく理解しており、 塗料分野に乗り出すならば、関西ペイントや日本ペイントとのような「情報交換」のレベルでは到底足り ず、何としても「技術提携」ができる塗料メーカーを探さなければならないと考えていた。 (2)オキツモと技術提携し合弁会社設立 ちょうどその頃、塗料会社のオキツモが接触を図ってきた。オキツモは耐熱塗料では国内トップシェア を誇るメーカーだが、当時、一般塗料のシェア拡大を目指しつつあったのか、超親水性光触媒機能に強い 関心を示していたのである。 そこで、TOTOはオキツモとの相互の「所有品目」を洗い出してみた。オキツモは塗料については一通 りのもの、つまり、生産技術を含む塗料全般についての知識・技術・経験、それに営業ルートを持ってい る。一方、TOTOは超親水性光触媒の特許の他に、水回り製品の営業ルートを持っているし、何と言って もTOTOの持つ一般に広く浸透したブランド力はオキツモにとって最大の魅力であった。両社は比較的ぴ ったりとプラスマイナスを補い合える。うまくジョイントできそうであった。前述のように、塗料の世界 でやっていくためには、「塗り」全般についてトータルサービス(下地塗りから仕上げ塗装まで)を提供 できることが必要条件である。そのため、TOTOは光触媒についての知見をオキツモに提供する代わりに、 オキツモの塗料分野での技術力と知識・経験を活用することで、「塗料事業」という新分野での活路を見 出そうとしたのであった。 こうして両者の利害は一致し、2000年9月、TOTOとオキツモの合弁会社である「ジャパンハイドロテク トコーティングス(略称 JHCC)」が設立された。このときは、資本金3千万円の過半をTOTOが拠出。 人員はオキツモとTOTOからそれぞれ4、5人くらいずつ出して始まった。オキツモは、TOTOのブラン ド力を信頼してか、対外的にはTOTO主導で構わないということで、TOTO側のリーダーシップを全面的 に認めてくれたという。 この会社の第一の目的は、TOTOと超親水性光触媒特許のライセンス契約を結び、それを基にして、汚 れ分解機能に超親水性機能をプラスしてさらに汚れにくさを高めた、新たな「メンテナンスフリー塗料」 を開発・施工することであった。塗りやすさ、乾き具合といった点で、超親水性光触媒塗料が果たして実 用性のある塗料として出来上がるのか全く未知数であったが、とにかくまずは、トップコートとしてどん な色にも被せられるクリア(透明)塗料と使用頻度の多い白色から開発を始め、クリア塗料が何とか無事 に完成した。その後、白色も完成し、このときの経験を基にして他の色に付いても順次開発を進めていっ 22 た。 塗料開発後は、個人住宅も含め建物の外壁塗装を主な業務とし、営業はオキツモが中心となって行った。 (3)合弁後現在までの状況 超親水性光触媒塗料が開発されたばかりの頃は、塗料の量産体制が伴わず、営業と超親水性光触媒塗料 の需給バランスを取るのが難しいといった問題も生じた。また、光触媒入りの塗料が紫外線と反応して塗 り自体や下地を傷めないようにするためには(耐酸化作用)、どの程度の塗装厚みが必要かを実験で探り、 その厚みを出すための塗り方も教育する必要があった。そのため、超親水性光触媒塗料を扱うための認定 制度を設け、責任を持って研修を行い、研修を終了した塗装店を「認定塗装店」としていくことにした。 これは、なかなか厄介な仕事であったが、超親水性光触媒塗料の信頼性を維持するためには、どうしても 避けて通れぬことであったのだ。 こうした困難はあったものの、それらを少しずつ克服しながら3年ほどでこの会社は軌道に乗り、現在 も「TOTOオキツモコーティングス株式会社」(07年5月社名変更)として存続している。また、塗料とと もに、その後、ガラスへの光触媒コーティングも手がけ、今では、壁・窓・水場とトータルな超親水性光 触媒コーティング展開が可能になっている。 こうした現在の状況から見て、TOTO が光触媒特許を基に塗料事業へと展開したことは、一応成功と評 価できるかもしれない。だが、ある会社で開発された技術が、その会社が深い知見を持つ自社の技術ドメ イン外に出て行くとき必然的に伴う困難が随所に窺えることも、また否定できないところであろう。 【グループ討議】 東陶機器は、事業戦略上、光触媒技術の特許を最大限活用できていたと思いますか? こ の事業をさらに発展させるかあるいは新規な事業を発展させて収益化を図るために、TO TOのとった手段以外の知財戦略がありえるのかどうか、それはどのようなものかについ て検討してください。 23 <参考・前提知識の部> 1.光触媒とは何か 光触媒は、太陽光に含まれる紫外線を吸収して、活性酸素を生成したり、表面に分子レベルの水分薄膜 を形成したりする半導体材料である。活性酸素には、その強い酸化力から、種々の有機物を分解し、細菌 を殺し、臭いを消すという作用がある。また、表面にできる水分薄膜は親水性を高め、水滴を防止するこ とで曇らない、表面の汚れを浮かせ水で簡単に洗い流せるなどの効果を生む。このような特性から、光触 媒は環境分野をはじめさまざまな分野で注目を集め、現在では水処理や空気の浄化、排ガス処理、防汚、 防曇、抗菌、脱臭などの機能を持つ多くの製品・システムへの応用が進められている。 光触媒を用いた新しい製品やシステムの多くは、導入期からようやく成長期にさしかかった段階にあり、 日本における市場全体の規模は 2003 年末時点で約 400 億円とまだ決して大きくはない(図表 1 参照) 。し かし、現在、この技術の実用化には大小合わせて約 2000 社もの企業が関わっているともいわれ、その市場 は 2010 年には 1000 億円、そして将来的には 1 兆円を越える規模にまで成長するという予測もある。 光触媒の開発と実用化では、日本企業が世界をリードしている。そして、日本企業の中でもそれを牽引 してきた企業が、TOTOである。TOTOは 1980 年代末から光触媒の研究を開始し、90 年代半ばまで に光触媒コーティングによる新しい有機物分解技術、それを応用した超親水性技術を相次いで開発した。 同社は、これらの光触媒技術を「ハイドロテクト」という名称で呼び、積極的にその製品化・事業化を進 めてきた。そこには、自社の既存事業における内・外装タイルなどの製品化のほか、新規事業部の設立を 通じた自動車のサイドミラーフィルムやボディーコーティング材等のコンシューマー製品への応用、他社 との共同研究を通じた遮音壁や反射鏡などの道路資材の開発、さらには技術自体のライセンシングなど、 多様な展開が含まれている。研究開発を通じて生み出された優れた新技術をビジネスとしていかに大きく 展開していくことができるか。TOTOにおける光触媒の多様な事業展開は、こうした問題意識に基づい て計画され、実施されていった。 2.光触媒の研究と工業利用の歴史 光触媒に関する研究の歴史は長く、その基礎となる光化学の理論研究を含めれば 1818 年の光化学・第一 法則の発見にまでさかのぼる。しかし、酸化亜鉛や酸化チタンなどの光触媒そのものを対象として、その 24 性質や反応などの本格的な研究が始まったのは、20 世紀に入ってからであった。 酸化亜鉛や酸化チタンは白色顔料として塗料や繊維製品に用いられるが、そこで発生するチョーキング 現象(顔料として用いた光触媒の活性が、塗料などの樹脂成分を酸化分解することで損傷する現象。樹脂 成分が完全に分解すると光触媒の粉だけが残存して、まるでチョークのようになってしまうことからこの ように呼称されている)の理解と対策のために、1910 年代にまずこれら物質の研究が開始された。その後、 1920 年代から 30 年代にかけて、水の中に入れた光触媒に光を照射すると過酸化水素が生成されるという 化学反応や、その際に生じる活性酸素が水中のアンモニア化合物を分解するという作用が確認され、1950 年代以降には光触媒による各種有機物の光酸化、有機合成等の研究が進められていく。 1969 年には酸化チタンと白金を電極とする水の光分解反応が東京大学の本多健一教授(前・東京工芸大 学学長)と当時大学院生であった藤嶋 昭(後に東京大学教授、現・神奈川科学技術アカデミー理事長)に よって明らかにされた(1972 年に「ネイチャー」誌に掲載) 。 「本多・藤嶋効果」として知られるこの発見 は、これまでの一連の研究を結びつけ、光触媒の基本的な原理を示すと同時に、1973 年に始まった第一次 オイルショックの中で石油代替エネルギーとしての水素エネルギーを生みだす画期的な方法として大きな 注目を集め、光触媒を工業利用しようという動きにつながっていった。 こうして 1970 年代半ばに、光触媒はまず光を使って水を分解し、水素を得ることができる「夢のエネル ギー技術」として実用化を目指した研究が試みられた。しかし、光触媒による水の光分解反応に必要な紫 外線は、太陽光中にエネルギーにしてわずか 3%しか含まれておらず、太陽光を有効に利用して大量の水 素を作り出すことには大きな壁があった。そのため可視光を使える光触媒の探索が世界中で行われたが、 水素発生効率の高いものを見つけることはできず、結局、その当時、光触媒のエネルギー技術としての実 用化の試みは大きな進展を見ることができなかった。 1980 年代に入ると、光触媒を水処理に使おうという動きが現れた。すでに述べたように、光触媒から生 成される活性酸素には強い酸化力があり、さまざまな有機物を分解する作用がある。この特性を利用して、 水の中の有害物質を分解・浄化しようという試みが米国を中心に行われた。たとえば、テキサス大学のア ダム・ヘラーは、オイルタンカーの座礁による重油汚染除去のため、光触媒をコーティングした粉体を撒 き、オイルを分解する方法を提案した。ヘラーは、この技術を事業化する目的でベンチャー企業を興した が、厚いオイル膜を分解するには速度・効率が悪く、期待していたような成功には至らなかった。 一方、日本ではその当時、光触媒の空気浄化への応用が進められていた。日本において光触媒の研究に 最も早くから取り組んでいた産業技術総合研究所や松下電器産業・日立製作所などの電気メーカーが 1980 年代にこの分野での研究開発を進め、多くの特許を出願していった。しかし、この空気浄化への本格的な 利用が始まったのはシックハウス症候群が問題となった 1990 年代後半に、空気清浄機に応用されてからで あった。 光触媒は、他の多くの産業技術と異なり、 「本多・藤嶋効果」に代表されるような主要発見が大学等研究 機関を中心に行われたこともあり、膨大な数の学術的な研究が蓄積された一方で、実用化に向けた企業の 研究開発は 1980 年代に至るまで大きな成果を生むことができなかった。日本をはじめ欧米でいくつかの企 業が光触媒の実用化に関わってきたが、その数は 1980 年代末の時点ではわずか数社に限られていたと言わ れている。 25
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