卒業式 式辞 短期大学部、専攻科、大学、大学院を卒業、修了される皆さん、おめでとうございます。 また、ご家族ならびに関係者の方々にも心よりお祝い申し上げます。 皆さん、日本山岳会の第 4 代、7 代の会長を務め、日本の近代登山に貢献した槇有恒(ま き ゆうこう)氏をご存じでしょうか。槇氏は 1894(明治 27)年に宮城県で生まれ、その後、 慶応義塾大学に進み、1918(大正 7)年、ニューヨークにあるコロンビア大学に留学しました。 そして、1919 年(大正 8)年から 1921(大正 10)年までスイスに滞在しました。 スイスでは槇氏と山岳ガイド 3 人のチームが 1874 年以降試みられていなかった標高 3,975m のアルプスの山、アイガーへの東山稜(ひがしさんりょう)からの登頂に挑みました。 槇氏は著書、 「山行(さんこう)」の中で、アルプス中最も難しいと言われている東山稜から のアイガー登攀(とうはん)は未踏の山頂を極めるものに比べ、華々しくないが残されたもの だけに実際の登攀の困難はまさるとも劣らないと述べています。この一文から難関への挑 戦という言葉が浮かびます。 山頂へ至るルート上の最難関は 200m の岩壁だったそうです。岩壁を登り終えたのは 1921 年 9 月 10 日午後 5 時、この瞬間、チームは達成の喜びを固く手を握り合うことで表 現しました。ブラボーの叫びはなく、ただ 4 人が固く手を握り合っただけと書かれていま す。その後、4 人は午後 7 時 15 分頃山頂に立ちました。無事、下山したのは 11 日の午前 3 時、場所はアイガーグレッチャー駅でした。苦難を乗り越えた後には、村人たちからの祝 福が待っていました。麓(ふもと)の町、グリンデルワルドでは赤い薔薇(ばら)の花束、乾杯、 祝辞、花で飾られたテーブルでの食事、心温まる歓待であったと。槇氏は謙虚に「ありが たいが、私には過ぎたことでもあった」と書いています。 私は槇氏の偉業を達成した後の控えめな姿勢に槇氏の人となりを垣間見たような気がし ます。グリンデルワルド滞在中、槇氏がどのように日常、村人たちと接していたのかはわ かりませんが、きっと村人たちとは親しい関係を築いていたのだと推察されます。それは、 槇氏がグリンデルワルドを離れる時の思いを書き記(しる)した「心厚き人々のグリンデルワ ルドよ、私の第二の故郷、いつかは燕(つばめ)のように飛びかえって、その温かい懐(ふと ころ)に抱かれて物語ろうと」に表れていると思います。 卒業、修了される皆さんは「自立」してこれから新たな世界へ旅立ちます。そこには喜 び、楽しみ、そして、いくつもの壁が待ち受けていることでしょう。壁を自らの強い意志 と仲間の力添えを得て越えてください。槇氏の偉業はブラヴァンド、ストイリ、アマタ― の三人の山岳ガイドの力、さらには、心厚き村人たちの支えによって成し遂げられました。 いざという時に力添えを得るためには日頃からの自らの人に対する謙虚な姿勢、やさしい 対応の積み重ねが肝要です。そこから生まれるものが信頼関係です。社会での一歩を大事 にして下さい。それが次の頂(いただき)を目指すための唯一の手段です。お元気で。 以上、式辞とさせていただきます。 札幌国際大学短期大学部 札幌国際大学 学長 越塚宗孝 平成 27 年 3 月 14 日
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