21 .12.07 北 九 州 市 集 会 講 演 記 録 拉致被害者救出の3条件 西岡 力・救う会会長代行 ◆今一番人権侵害を受けている人の声を聞いてほしい まず、一つ残念だったことを申し上げます。先ほど、今日開催される「北九 州市人権週間記念講演会」のちらしを見せていただきました。二つの講演の一 つ「 拉致 問題」 の 講 師が 蓮池 透さん だ っ たこ とで す。 蓮 池透 さん は 帰 国し た 蓮 池薫 さん のご兄 弟 で す。 しか し、去 年 か ら家 族会 ・救 う 会の 活動 に つ いて 、 大 変批 判的 な話を 全 国 でさ れて います 。 ま た、 今の 日本 政 府の 「北 朝 鮮 に圧 力 を かける」という方針を批判しています。 ごく最近もこの北九州市で、労働組合等が主催する集会に来られて、講演さ れた と聞 いてい ま す が、 そこ では朝 鮮 総 連の 人が 来賓 と して 挨拶 し て いま す 。 朝 鮮 総 連 の 人 が 今 、何 を 言 っ て い る か と い う と 、 「 拉 致 問 題 は 解 決 し た 」と い う ことです。 「 北 朝 鮮 は 2002 年 に 拉 致 を 認 め た 。そ し て 生 き て い る 人 を 全 員 返 し た 。そ れ 以 外 の 人 は き ち ん と 調 査 を し た 。そ れ な の に 日 本 は 、 『死んだ人を生き 返らせろ』という無理なことを言っている」ということです。 そ し て 、 北 朝 鮮 か ら 朝 鮮 総 連 に 対 し て 、 今 年 ( 平 成 21 年 ) の 7 月 に 、「 民 主 党政 権に なった ら 労 働組 合を 使って 日 朝 国交 正常 化の た めの 世論 作 り をし な さ い」 とい う指令 が 来 たこ とが 確認さ れ て いま す。 労働 組 合が 主催 し て 、朝 鮮 総 連 が 来 賓 で 挨 拶 す る 。そ こ に 講 師 と し て 呼 ば れ た の が 蓮 池 透 さ ん だ っ た の で す 。 何 よ り も 人 権 と い う こ と で 考 え る な ら ば 、今 一 番 人 権 を 侵 害 さ れ て い る の は 、 横田 めぐ みさん や 田 口八 重子 さん、 松 木 薫さ んや 増元 る み子 さん 等 、 帰っ て こ られ ない で北朝 鮮 で 苦し んで いる人 た ち が人 権を 侵害 さ れて いる こ と です 。 帰 ってこられた人たちは苦しみを受けましたが、今は帰ってきています。 そして、被害者に会えないまま、去年は市川修一さんのお母さんが亡くなり ま し た し 、松 木 薫 さ ん の お 母 さ ん も 、め ぐ み さ ん の ご 両 親 も 、も う ご 高 齢 で す 。 帰 り を 待 っ て い る 方 々 も 大 変 な 人 権 侵 害 を 受 け て い ま す 。に も か か わ ら ず 、 「拉 致は解決した」と言っているような人が来賓で来る集会で講演をした人が、北 九州 市の 人権週 間 の 講師 とし て呼ば れ た ので す。 色々 な 経緯 があ っ た こと は 先 ほどうかがいましたので理解できないわけではありませんが、しかし残念だと 思っています。 そこで、北九州市の皆さんに、今一番人権侵害を受けている人の声を聞いて いた だき たいと 思 い 、同 じ日 に、時 間 を ずら して 、近 く の会 場で 、 家 族会 ・ 救 う会と救う会福岡の主催で今日の集会を開催させていただきました。市役所か らも 、ま た市議 会 か らも 多数 の方々 に 参 加し てい ただ き 、大 変嬉 し く 思っ て い ます。 2 つ目に残念だったことは、 「 北 九 州 市 人 権 週 間 記 念 講 演 会 」の ち ら し に 、 「人 権 週 間 」 に つ い て 、 昭 和 23 年 12 月 8 日 に 国 連 総 会 で 、「 人 間 の 尊 厳 と 自 由 」 などが世界人権宣言が採択されたことを記念して開催することが書かれていま す。人権 週間に つい て取 り上 げて いた だ いた ので すが 、実は 4 年 前に 、わ が 国 は「 北 朝 鮮 人 権 法 」を 作 っ て い ま す 。そ の 中 に 、 「 地方 自治 体 は拉 致問 題を は じ めと する 北朝鮮 人 権 問題 につ いて啓 発 事 業を しな けれ ば なら ない 」 と 書い て あ る の で す 。そ の 期 間 は 、国 連 が 定 め た 人 権 週 間 の 次 の 週 で 、12 月 10 日 か ら 16 日となっています。 北九州市でも数年前には、北朝鮮人権週間中に写真パネル展を開催されたと 聞いていますが、今年はそうではなく、一般の人権週間の中の一つになってし まったことも残念でした。 今、家族の話を聞いても分かりますように、拉致問題は他の人権問題とは性 質が違います。ですから別途法律を作り、別途週間も決めています。一番大き な問題は、人権問題であり、そして主権の侵害でもあることです。外国が、日 本の領土内から日本人を連れて行って、未だに返していないということです。 だから、 「 金 正 日 が 憎 い 」と か 、外 国 に 関 わ る 名 前 が 出 て き ま す 。差 別 の 問 題 で、 「 日 本 国 内 で 差 別 が あ っ た 方 が い い 」と 公 然 と 言 っ て い る 人 は い な い と 思 い ま す 。し か し 、北 朝 鮮 政 府 は 、拉 致 問 題 に つ い て「 解 決 済 み 」と 言 っ て い ま す 。 偽 の「 遺 骨 」を 送 っ て お い て 、 「 あ れ が 本 物 だ 」と 言 っ て い ま す 。 「日本政府は、 『死んだ人を生き返らせろ』という無理なことを言う」と言っています。拉致 問題 は、 国家と 国 家の主 権が かか っ た 重 大問 題で もあ る ので す。 だ か ら別 途 法 律もあるのです。来年の行事を考える時は、国会で与野党一致で通った北朝鮮 人権法の趣旨を踏まえて、北九州市でも拉致問題の啓発活動をしていただきた いと思います。 ◆拉致被害者をどう救出するか さ て 、私 に 与 え ら れ た テ ー マ は「 北 朝 鮮 に よ る 拉 致 被 害 者 を ど う 救 出 す る か 」 で す 。 私 は こ の 1 年 く ら い 、 全 国 で 講 演 を す る 時 は 、「 拉 致 被 害 者 救 出 の 3 条 件」について話しています。 拉 致 問 題 の 解 決 の 3 条 件 で は な く 、救 出 の 3 条 件 で す 。救 出 と 解 決 は 一 つ で はありません。拉致はある意味で国家による人質事件です。まだ人質は国家の 手元にあります。人質事件でまずしなければならないことは、犯人と交渉して まず人質を解放することです。そして、犯人が「逃げ道を準備しろ」とか、ハ イジャックならば「別の国に行く飛行機を準備しろ」と言う中で、全員の人質 解放が優先ということで結果的に犯人の逃走を助けることもあります。第一優 先は人質の解放です。 しかし、人質が全員解放された後、何もしないわけではありません。犯人を 逮捕し、法の裁きを受けさせなければなりません。また被害の交渉をさせなけ ればなりません。それで初めて問題解決になります。 北 朝 鮮 に よ る 拉 致 問 題 は 、30 数 年 間 、ま だ 人 質 の 解 放 さ え で き て い な い み じ めな状態です。そこで今日は、 拉致被害者救出の 3 条件についてお話します。 1.世論を背景として、政府が全員救出の体制を作る 第一条件は、世論を背景として、政府が全員救出の体制を作ることです。こ れま で、 これが な か った ので す。ア メ リ カの よう な普 通 の民 主国 家 で あれ ば 、 世論 がな くても 、 自 国民 が外 国の工 作 機 関に よっ てさ ら われ たと い う 事実 が 明 らかになれば、全員救出の体制が作られます。しかし日本は、我々の経験則に よる と、 世論が な け れば政府 は そ の体 制 を 作 らな かっ た ので す。 日 本 政 府 の 認 定 被 害 者 で 一 番 早 く 拉 致 さ れ た の は 1977 年 の 宇 出 津( う し づ ) 事 件 で す 。市 川 さ ん 、増 元 さ ん や 田 口 さ ん は 78 年 で す 。松 木 さ ん は 80 年 で す 。 77 年 、 78 年 に 拉 致 が 集 中 し て 行 わ れ た の で す が 、 そ の 時 日 本 政 府 は 拉 致 だ っ たこ とを 実は知 っ て いた ので す。 少な く とも 7 人 につい ては 、拉 致が 行わ れ た 直後から、日本政府は知っていました。 20 02 年 1 2 月 に 、 読 売 新 聞 が そ の こ と を 特 ダ ネ で 書 き ま し た 。 当 時 警 察 庁 の 幹 部 で 、 朝 鮮 半 島 の 工 作 活 動 を 担 当 し て い た 人 が 、「 私 は 『 北 朝 鮮 に よ る 拉 致 』 と い う 政 府 の 内 部 の 報 告 書 を 書 い た 男 だ 」 と 200 2 年 の 夏 に 、 イ ン タ ビ ュ ー に 応じ て答 えてい ま す 。匿 名の イン タビ ュ ーで 、既 に退 職 して いる 人 で す。 そ の 人がどこに住んでいるか後で読売新聞の記者に聞きました。 で は な ぜ そ の 人 が 「 拉 致 だ 」 と 書 け た の か 。 日 本 の 警 察 は 、 19 70 年 代 、「 北 朝鮮が工作船を日本近海に頻繁に送ってきている。そして工作員を多数日本に 上陸させたり、帰国させたりしている」ということを掴んでいて、全国各地に 電波を傍受する施設を作っていました。日本の警察は優秀ですから、北朝鮮の 工作船が使っている電波の周波数を掴んでいました。もちろん暗号で書かれて いま すの で、傍 受 し ても 何が 書かれ て い るか は分 から な いの です が 、 ある 周 波 数の 電波 が日本 海 や 東シ ナ海 を飛ん で い て、 工作 船と 日 本に いる ス パ イが や り とり して いた電 波 を 傍受 して いま す。 複 数の 場所 で傍 受 する と位 置 が 分か り ま す。位置が分かると関係の県警に、警戒しろ、との極秘の指令が出ます。当時 それを警備警報と言っていたそうです。 19 78 年 の 夏 は 警 備 警 報 が か か り っ ぱ な し だ っ た そ う で す 。7 月 7 日 の 七 夕 の 日に福井沖に船が来ていると警戒していたところ、結納をすませたアベックが い な く な っ た と の 報 告 が 上 が っ て き た 。7 月 31 日 に は 、柏 崎 で 、レ ポ ー ト を 書 き 終 え て デ ー ト に 行 っ た 二 人 が い な く な っ た 。8 月 12 日 に は 鹿 児 島 で 夕 日 を 見 に行 った アベッ ク が いな くな った。 み ん な船 が来 てい た ので す。 そ し て冨 山 で 8 月 15 日 、未 遂 事 件 が あ り ま し た 。4 人 の 男 に ア ベ ッ ク が 襲 わ れ た 。ゴ ム 製 の さる ぐつ わをか け ら れ、 しん ちゅ うの 手 錠を かけ られ 、 足を 縛ら れ て ずた ぶ く ろに 入れ られた 。 林 の中 に連 れて行 か れ たの です が、 人 の気 配が な く なっ た と ころで、自力で逃げました。その時の残留物のゴム製のさるぐつわを韓国当局 に鑑定を依頼したところ、韓国でつかまった北朝鮮スパイが持っていたゴム製 品と同じ品質だということが分かりました。 「 3 件 6 人 の 失 踪 と 1 件 2 人 の 未 遂 事 件 、 そ し て 77 年 の 宇 出 津 事 件 の 9 人 ( 未 遂 を 除 く と 7 人 )は 北 朝 鮮 が や っ た 」と 報 告 書 を 書 い た と 、20 02 年 に 、当 時の 警察 庁幹部 が 読 売新 聞に 話して い ま す。 分か って い たの です 。 し かし 世 論 が な か っ た 。で は な ぜ 世 論 が 起 き な か っ た の か 。197 9 年 の 初 め に 、警 察 庁 が 秘 密会議をやっています。そこで、このことは公開しないことが決められた。こ の こ と も 、会 議 に 出 席 し て い た 彼 が 話 し て い ま す 。 「電波を傍受していることを 公開することは時期尚早」ということになったそうです。そこで世論は何も起 き な か っ た 。産 経 新 聞 だ け は 独 自 取 材 を し て 1980 年 に「 拉 致 の 疑 い が 大 き い 」 という記事を書きましたが無視されました。 しかし世論は起きなくても、政府は拉致の事実をつかまえていたのに何もし な か っ た の で す 。 そ し て 10 年 が 経 ち 大 韓 機 爆 破 事 件 が 起 き ま す 。 テ ロ さ れ た こと が分 かって い て もテ ロと 戦わな か っ たの で、 拉致 被 害者 はテ ロ リ スト の 教 官 と し て 使 わ れ て し ま い 、テ ロ リ ス ト が 日 本 人 に 化 け て 115 人 の 韓 国 の 人 を 殺 す犯罪が起きてしまったのです。 大 韓 機 事 件 は 87 年 に 起 き ま す が 、 金 賢 姫 が 生 き 残っ て 、 88 年 に 記 者 会 見 を し て 、日 本 の 記 者 に は 日 本 語 で 話 し ま し た 。 「 私 の こ の 日 本 語 は 、日 本 か ら 拉 致 され 、リ ・ウネ と 呼 ばれ てい る拉致 被 害 者に 習っ たの で す」 と話 し ま した 。 会 見 2 か 月 後 の 3 月 の 参 議 院 予 算 委 員 会 で 、当 時 の 治 安 の 最 高 責 任 者 で あ る 梶 山 静 六 国 家 公 安 委 員 長 が 、3 件 6 人 の ア ベ ッ ク 失 踪 事 件 に つ い て 、 「北朝鮮による 拉致の疑いが十分濃厚」との歴史的答弁をしました。 と こ ろ が 、そ れ で も 世 論 が 起 き な か っ た 。今 度 は マ ス コ ミ が つ ぶ し た の で す 。 朝日 、読 売、毎 日 、 NH Kは 、国会 で 治 安の 最高 責任 者 が北 朝鮮 と い う国 の 名 前まであげて「拉致の疑いが濃厚」と言っているのに報道しなかったのです。 なかったことにしてしまった。しかし、政府は国会で答弁しているのです。 先ほどの第一条件、 「 世 論 を 背 景 と し て 、政 府 が 全 員 救 出 の 体 制 を 作 る 」で す が 、本 当 は 救 出 の 体 制 が そ の 時 で き て も よ か っ た の で す 。そ の 後 ど う な っ た か 。 そ の 2 年 後 の 90 年 に 金 丸 ・ 田 辺 訪 朝 団 が 自 民 党 ・ 社 会 党 を 代 表 し て 金 日 成 に 会ったのです。そこで、金丸さんも田辺さんも、日本の与党と野党の代表が、 拉 致 問 題 を 出 さ な か っ た 。2 年 前 に 国 会 で 政 府 が 、 「 拉 致 の 疑 い が 濃 厚 」と 言 っ ている問題をこちらから出さなければ、向こうは無視します。分かっていたの に何もしなかったのです。マスコミと外務省と政治家がつぶしたのです。 そ し て さ ら に 10 年 経 ち ま す 。 韓 国 に 亡 命 し た 工 作 員の 証 言 等 で 、 韓 国 政 府 から横田めぐみさんの拉致の情報が伝わった。これも実は、韓国政府が日本の 警察 に伝 えたの で す 。日 本の 警察の 担 当 者は 、そ れを そ のま ま机 の 引 出し に 入 れていて全国の警察に連絡しなかった。だから新潟での横田めぐみさん失踪事 件と韓国からの情報がイクォールだと分からなかった。 当時私が編集長をしていた、 「 現 代 コ リ ア 」に 、朝 日 放 送 の 石 高 記 者 が 情 報 を 書き まし た。そ し て 当時 の私 の上司 の 佐 藤所 長が 新潟 出 身で 、当 時 失 踪事 件 が あったことをうっすら覚えていて、調査したところ情報がぴたり一致したので す。そして横田めぐみさん拉致事件が明らかになり、政府もその後認めたので す。認めたということは現場情報があったということです。 事 件 発 生 か ら 20 年 間 、 政 府 は 最 初 か ら 分 か っ て い た の に 、 世 論 が な い と 何 も動 けな かった の で す。 2. 北朝 鮮が日 本 に 接近 せざ る を えな い よう な内 外の 情 勢が でき る 第二条件は、北朝鮮が日本に接近せざるをえないような内外の情勢ができる こ と で す 。実 は い ま ま で チ ャ ン ス が 2 回 あ っ た の で す 。1 回 目 の チ ャ ン ス が 9 0 年の 金丸 ・田辺 訪朝 の時 です 。あ の時 冷 戦が 崩壊 し、 その 2 年前 にソ ウル オ リ ンピックが成功していて、中国とソ連がなだれをうって韓国承認に走ったので す。 東ヨ ーロッ パ も そう でし た。そ れ ど ころ かソ 連と 東 ヨー ロッ パ は 倒れ て し まった。北朝鮮は孤立を恐れてアメリカと日本に接近せざるをえなかったので す。向こうの方が必要だったのです。それで自民党と社会党の代表を呼んだの です。 第 二 条 件 は 成 熟 し て い た の に 、こ ち ら が 出 さ な か っ た か ら 何 も 起 き な か っ た 。 本当は、小泉訪朝の時のことが、金丸訪朝で起きてもよかったのです。向こう が苦 しか ったの で す から 。国 交正常 化 交 渉を しよ うと 向 こう が言 っ て きた の で す。 しか し、世 論 が なか った ために 、 第 一条 件が 満た さ れな かっ た 。 残念 で す が 、そ れ で も 増 元 さ ん の お 父 さ ん は 、 「 日 本 を 信 じ ろ 」と 言 わ れ ま し た 。日 本 政 府の あり 方だけ を 考 える と「 日本を 信 じ ろ」 とは 言え な くな りま す が 、家 族 会 や救う会、そしてここにおられるような国民の皆様の力を全部合わせて「信じ ろ」ということだと私は思っています。 20 年 経 っ て 家 族 の 人 た ち が 立 ち 上 が り ま し た 。世 論 が な け れ ば ダ メ だ と 。 「北 朝鮮は何の関係もない人をさらっていくような国だ。証拠隠滅のために、名前 を 出 し て 運 動 し た ら 、向 こ う に い る 被 害 者 が 殺 さ れ て し ま う 」。実 際 に 外 務 省 や 警 察 は 、一 部 の 家 族 に 、 「 静 か に し て い た 方 が い い で す よ 」と ア ド バ イ ス し て い た と 聞 い て い ま す 。確 か に そ の 危 険 性 は ゼ ロ で は な い の で す 。し か し 、20 年 間 何 も 起 き な か っ た 。 こ こ で 名 前 を 出 し て 訴 え な け れ ば 、 あ と 20 年 間 同 じ こ と が続 くか もしれ な い 。親 はみ んな死 ん で いく だろ う。 被 害者 も、 北 朝 鮮に 連 れ てい かれ たとい う こ とす ら明 らか にな ら ない だろ う。 一 定の リス ク は ある け れ ども、名前を出して訴えよう ということで運動が始まったわけです。そして私 たち専門家や心ある国民が、 「 家 族 を 孤 立 さ せ て は な ら な い 」、 「家族が血の決断 を し て い る の に 世 論 が 盛 り 上 が ら な か っ た ら 日 本 は 国 で も な ん で も な い 」。そ し て各地の人たちと一緒に救う会運動を始めたわけです。 当 時 私 は 拉 致 問 題 の 専 門 家 で 、 家 族 会 が で き る 6 年 前 の 1991 年 に 、 月 刊 雑 誌 に 拉 致 の こ と を 書 き ま し た 。言 わ れ た の は 、 「 身 の 危 険 は な い で す か 」で し た 。 日本人が日本の雑誌に書くと危険という雰囲気だったのです。先ほど青木先生 の話にあったように、 「 福 岡 の 会 」立 上 げ の 時 は 、テ ロ に 遭 う か も し れ な い と 言 わ れ 、 警 備 の 警 察 の 人 が 、 我 々 集 ま っ た 人 よ り 多 か っ た の で す 。 わ ず か 13 年 前の 話で す。 しかしそういう緊張関係の中で、家族の人たちは、自分は被害に遭うのはい いと 、親 たちは 身 代 わり にな れるの な ら なり たい と思 っ てい るわ け で す。 し か し、 向こ うにい る 人 質に 危害 が加え ら れ るか もし れな い とい うリ ス ク はあ り な がら も、 世論に 訴 え ると いう 決断を し た ので す。 そし て 、私 が言 っ た 第二 条 件 が も う 一 度 満 た さ れ る 時 が 来 た の で す 。 そ れ が 2002 年 の 9 月 で す 。 あの時は、前の年に同時多発テロが起きました。ブッシュ政権はテロとの戦 争を宣言しました。そして始まったのがアフガニスタンの戦争です。今も続い て い ま す 。そ し て 、200 2 年 1 月 に 、ブ ッ シ ュ 大 統 領 は 、議 会 で 有 名 な「 悪 の 枢 軸」 演説 をしま し た 。そ の演 説のテ キ ス トを 見て みる と 、世 界中 の 国 の中 で 、 どの国がいいとか、悪いとか言ったのではありません。テロとの戦争のゴール が 2 つあ ると言 いま した 。一 つ は、テ ロ リス トと その 基 地を 叩き 潰し て、彼 ら に正 義の 審判を 下 そ うと 。二 つ目は 、 テ ロ支 援国 家が 大 量破 壊兵 器 を 持っ て 、 アメリカやアメリカの同盟国を脅かしたり、大量破壊兵器をテロリストに渡す ことを防ぐと言いました。 当時北朝鮮はテロ支援国リストに入っていました。 「北朝鮮が核やミサイルを 開 発 す る こ と は 、戦 争 を し て も や め さ せ る 」、ま た「 や め さ せ る こ と が 戦 争 に 対 す る 防 御 だ 」 と 言 っ た の で す 。 北 朝 鮮 は ど う 受 け 止 め た か 。 実 は 199 4 年 に 核 開発がばれてしまって、 「 凍 結 す る 」と 言 っ て 表 面 上 止 め た こ と に な っ て い ま し た 。 そ の 見 返 り と し て ブ ッ シ ュ 政 権 の ア メ リ カ か ら 毎 年 50 万 ト ン の 重 油 を も らっていたのです。もらいながら彼らはパキスタンから濃縮ウラニウムを作る 技術 を導 入して 核 開 発を 続け て いた の で す。 そのことをアメリカが察知しました。なぜなら、アフガニスタンとの戦争の 時、パキスタンはアメリカの同盟国になりました。アメリカは、パキスタンか らア フガ ニスタ ン に 米軍 を発 進させ て い まし た。 アメ リ カが パキ ス タ ンに 入 っ てやったことの一つは、 「 お 前 た ち は 核 を 持 っ て い る だ ろ う 。そ の 技 術 を だ れ か にやっていないだろうな。まさかアルカイダに渡していないだろうな。誰に渡 したか教えろ」という調査をしました。 そ れ を や っ て い た の が ボ ル ト ン 前 国 連 大 使 で す 。ボ ル ト ン 大 使 は 、 「パキスタ ンの 核開 発の父 と 呼 ばれ るカ ーン博 士 か ら聞 いた 」と書 いて いま す 。 そし て リ ビ ア 、 イ ラ ン 、 北 朝 鮮 に 出 し て い た こ と が 分 か っ た 。 カ ー ン 博 士 は 10 数 回 北 朝鮮 に行 ってい ま す 。金 正日 の立場 か ら する と、 アメ リ カを だま し て 重油 を も らいながら秘密で核開発を続けていた、ということです。しかし、教えてもら っていた人が向こう側に行ってしまい、完全な証拠をアメリカに握られた。ア メリカは確実な証拠を握って、ブッシュ大統領は「悪の枢軸」として、北朝鮮 とイラク、イランを名指ししました。 根拠があるのです。誤解ではありません。誤解なら話せば分かるのですが、 だましていたことがばれてしまったのです。これは重大な危機です。その時彼 らが考えたのは、極東におけるアメリカの二大同盟国である韓国と日本を、ア メリカから引き離さなければ危ないとうことです。ところが韓国は金大中政権 で し た が 、20 02 年 は 大 統 領 選 挙 の 年 で 、盧 武 鉉 大 統 領 が 当 選 す る と は 誰 も 思 っ ていなかったのです。もう一度保守政権になると思われていました。 田 中 均 元 ア ジ ア 局 長 は 、「 北 朝 鮮 が 日 本 と の 秘 密 交 渉 を 提 起 し て き た の は 、 2001 年 10 月 く ら い だ 」 と 言 っ て い ま す 。 ち ょ う ど ア フ ガ ニ ス タ ン で 戦 争 が 起 き た 時 で す 。 そ し て 1 年 間 秘 密 交 渉 が あ り 、 2 002 年 9 月 の 小 泉 訪 朝 に な り ま した 。し かし 、残念 だ っ たの は 、私た ち が 5 年間 運動を して きて、一 定程 度 世 論を 盛り 上げる こ と はで きま した が、 当 時は 「拉 致疑 惑 」と 言わ れ て いて 、 マ ス コ ミ は 、拉 致 が「 あ る 」と「 な い 」 の 両 論 併 記 で し た 。 「 あ る 」と 主 張 し た の は、産経新聞だけでした。そういう中で、政府の中に、全員救出の体制ができ ない まま 2 回目 のチ ャン スが 来て し ま い まし た。 小泉総理が平壌に着いた時に、本会談が始まる前に、田中局長のところに北 朝 鮮 が 赤 十 字 の 名 前 で 、 13 人 の 名 前 を 書 い た 紙 を 持 っ て き ま し た 。「 我 々 は 拉 致 し ま し た 。こ の 13 人 で す 。そ の う ち 8 人 は 死 亡 、5 人 は 生 存 」と い う も の で す 。全 員 救 出 の 体 制 が 政 府 に あ れ ば 、 「 死 亡 の 根 拠 は 何 で す か 」、 「遺骨を持って 帰るのでお墓に案内してください」と。向こうが言ってきたのです。向こうの 公 式 文 書 で す か ら 。5 人 が 生 き て い る と い う な ら 、 「じゃあ連れてきてください。 特別 機が ります か ら 連れ て帰 りま す。 あ なた たち は拉 致 した と言 っ て いる の で しょう」と言うのが普通だと思います。 当 時ど ういう こと が起 きた か を 5 人の 被害 者か ら直 接聞い たこ とが あ り ます 。 朝、平壌のマンションに、蓮池夫妻、地村夫妻、ヘギョンさんがそれぞれ分か れて待たされていた。曽我さんは呼ばれなかった。そこに梅本さんという外務 省のイギリス公使が行った。しかし、カメラも持っていかない。ビデオカメラ もな し。 何も持 っ て いか なか った。 そ し て蓮 池薫 さん と 、地 村さ ん が 、最 初 に 一言、 「 う ち の 両 親 は 元 気 で す か 」と 聞 い た 。す る と 、日 本 政 府 代 表 は「 分 か り ませ ん」 と答え た の です 。梅 本さん は ロ ンド ンか ら来 ま した ので 分 か らな い の です 。彼 はその 年 の 初め まで 、東京 で 北 東ア ジア 課長 を やっ てい ま し たが 、 そ の 後 ロ ン ド ン に 行 き 、ロ ン ド ン か ら 直 接 平 壌 に 来 た の で す 。だ か ら 分 か ら な い 。 し かし 、地村 さ ん のお 母さ ん は 、その 年の 5 月 に亡く なっ てい たの です 。そ のことも伝えられないような、子どもの使いのような人を、カメラもなしで派 遣さ せた のは田 中 局 長で す。 蓮池 薫さ ん は一 生懸 命ズ ボ ンを まく っ て 、足 の 傷 を 見 せ ま し た 。彼 は 小 学 校 の 時 に 交 通 事 故 に 遭 っ て い ま す 。 「自分が蓮池薫だと いう証拠は、この交通事故の傷だ」と言ったのですが、外務省は事前に家族か ら本人の特徴について何も調べていなかった。家族会と救う会は国会の議員会 館で待っていたのですが、外務省から話があり、外務省の施設である飯倉公館 に 来 て く れ と い う こ と で し た 。そ の 理 由 は 、 「暗号のかかっている電話を平壌に かけ られ るのが そ こ だけ だ」 とい うこ と でし た。 それ な ら電 話を か け て、 小 学 校の 時に 交通事 故 に 遭っ たか 聞けば よ か った ので す。 家 族は そこ で 何 をし て い たか とい うと、 N H Kの ニュ ースを 見 て いた だけ で何 も なく 、そ れ ぞ れ呼 ば れ て「 亡く なりま し た 」と 言わ れ たの で す 。 しかし、死亡の確認作業はしていない。確認できたのはヘギョンさんだけな の で す が 、ヘ ギ ョ ン さ ん は め ぐ み さ ん の バ ト ミ ン ト ン の ラ ケ ッ ト を 持 っ て き た 。 この ラケ ットが 本 物 かど うか を確認 し な けれ ば、 めぐ み さん の娘 さ ん かど う か 分からないわけです。本物でも別の人に渡している可能性がありますが、まず 本物かどうかの確認が必要です。しかし、そのラケットを日本政府の代表は持 って帰ってこなかったのです。写真も撮ってこない。だから死んだかどうかは 何も 確認 できな い 。 ただ 紙が 一枚 来た だ けで す。 それ な のに 家族 を 呼 び、 官 房 長 官 や 副 大 臣 が 、「 亡 く な り ま し た 」 と 断 定 的 に 伝 え た の で す 。 これらを仕切ったのは外務省の田中局長です。全員救出の体制ができていな かったのです。彼は平壌宣言にサインすることを優先したわけです。最近ある 情報 によ ると田 中 元 局長 が首 相官邸 に 出 入り して 総理 大 臣に 外交 問 題 をブ リ ー フィングしているとのことですが、大変危険なことだと思います。せっかく第 二条件が満たされたのに、2 回目のチャンスも一部の人が帰ってきただけで終 わってしまった。 し かし 私は、 3 回 目の チャ ン スが 来る と思 って いま す。 な ぜな ら、 2 回 目の 小泉訪朝以来の交渉は、日本にとっても失敗でしたが、北朝鮮にとっても失敗 だったからです。彼らは人質の一部を返して拉致を認めたのです。ところが身 代 金 は 取 れ な か っ た 。死 亡 台 帳 で だ ま し て 国 交 正 常 化 ま で 持 っ て い こ う と し て 、 田中局長はその前に動いていたのですが、世論がそれを許さなかった。 平 壌 宣 言 に は 、拉 致 の「 ら 」の 字 も 入 っ て い な い の で す 。 「日本国民の安全に 関 わ る 問 題 に つ い て 再 発 防 止 を 約 束 し た 」と な っ て い ま す 。 「再発防止を約束し た」ということは、1 回目の処理は済んだということです。そういうものに総 理がサインをしてしまったのです。 しかし、鉄工所のおじさんとか、辞めた銀行員の夫婦とか、林業に勤めてい て辞 めた おじい さ ん たち が記 者会見 し た ら、 世論 は変 わ った ので す 。 北朝 鮮 は それ が分 からな か っ た。 北朝 鮮では 最 高 指導 者が サイ ン すれ ばす べ て やら ね ば ら な い の で す 。 我 々 は 、「 死 亡 の 根 拠 が な い 」 と 必 死 で キ ャ ン ペ ー ン し ま し た 。 そして、死亡の根拠があるかないかが次の勝負になったのです。結局彼らは偽 の遺骨しか出せなかった。 今 、 に ら み 合 い が 続 い て い ま す 。 彼 ら は 、「 13 人 を 拉 致 し 8 人 死 亡 し た 」 と 言っているのですが、 「 8 人 死 亡 」も 嘘 だ し 、 「 拉 致 被 害 者 は 13 人 だ け 」も 嘘 だ と言わせなければならない。それが次のポイントです。 ではなぜ、彼らは拉致を認めたのに、生きている人を「死亡」と嘘をつき、 偽の遺骨を二度まで出してきたのか。嘘にも動機があるのです。なぜ嘘をつい た か 。 実 は そ の こ と に つ い て 、 今 週 金 曜 日 ( 21.1 2.11 ) に 開 催 さ れ る 国 際 シ ン ポジ ウム で、救 う 会 とし てこ の間研 究 し てき た成 果と し て分 析の ペ ー パー を 出 そうと思っています。 一 言 で 言 う と 、金 正 日 の 責 任 を 認 め ら れ な い と い う こ と で す 。拉 致 は 、 1976 年に金正日が拉致指令を出して組織的に行ったのです。韓国でも漁船の拿捕を 除 く と 、 戦 後 の 拉 致 の 50 % 以 上 が 77 年 、 78 年 に 集 中 し て い ま す 。 世 界 の 1 2 か 国 で 拉 致 し て い る と 我 々 は 調 査 報 告 を し ま し た が 、 日 本 、 韓 国 を 除 い た 10 か 国 の 拉 致 は す べ て 7 8 年 で す 。日 本 政 府 の 認 定 被 害 者 は 17 人 で す が 、ヨ ー ロ ッ パ で 日 本 人 ( よ ど 号 犯 ) に 拉 致 さ れ た 3 人 を 除 く と 14 人 で す が 、 そ の う ち 13 人 が 77 年 、 78 年 に 拉 致 さ れ て い ま す 。 76 年 に 金 正 日 の 拉 致 指 令 が あ り 、 7 7 年 、 78 年 に 工 作 員 の 現 地 化 教 育 の た め の 教 官 拉 致 が 行 わ れ 、80 年 か ら 現 地 化 教 育 が 始 ま り 、そ の 作 品 の 一 人 が 金 賢 姫 だったのです。最近の金賢姫の証言で、横田めぐみさんも、金賢姫の同僚の金 淑姫(キム・スッキ)という工作員に日本語を教えていたことが明らかになり まし た。 それら の 全 体の こと を命令 し や らせ たの が金 正 日な ので す 。 大韓 機 爆 破事件も、その一つなのです。 し かし 、北朝 鮮社 会で は、 金 正 日の責 任は 認め られ ない の です。本 人以 外は できない。それが彼らの体制の本質です。 膠着状態はお互いにとってのにらみ合いですから、日本にとっては北朝鮮の 独裁者が、 「 自 分 は 嘘 を つ い た 」と 謝 罪 を し な け れ ば な ら な い 。独 裁 者 に は 、北 朝鮮 の組 織では 、 誰 も首 に鈴 をつ けら れ ない ので す。 本 人が 本当 に 苦 しい と 、 自分 のぜ いたく な 暮 らし が維 持でき な く なる と思 って 初 めて 、自 分 か ら一 歩 譲 歩し てく る可能 性 が あり ます 。話合 い を した から と言 っ て、 北朝 鮮 の 外交 官 や 工作機関の幹部たちが、 「 あ な た の 責 任 を 認 め る シ ナ リ オ を 出 し ま し ょ う 」と は 言えないのです。言ったら収容所送りです。だから圧力しかないのです。圧力 をかけて日本国中が起こっているぞと、死亡したという嘘やもういないという うそは通じないと思わせない限りだめなのです。 ところが、 「 今 の や り 方 は 強 硬 す ぎ る 。北 朝 鮮 が 言 っ て い る こ と に も 一 理 あ る のではないか」という世論が日本にもあると金正日が思っている間は、それに 期待 して 新たな 譲 歩 はし てこ ないで し ょ う。 つま り、 日 本の 世論 を 戦 場に し た 戦いは、家族会ができて以降ずっとやってきましたが、まだ続いています。世 論 を 背 景 に し て 、政 府 に 全 員 救 出 の 体 制 を 作 ら せ る こ と で す 。飯 塚 代 表 は 、 「秘 策はない。愚直にこの道を行くしかない」と言われましたが、全くその通りだ と思 いま す。 3.北朝鮮急変事態に備えて、拉致被害者救出計画案の作成を 最後が第三条件です。今の第一条件と第二条件は、金正日政権が続いている こと が前 提です 。 あ るい は、 金正 日が 死 亡し 、後 継政 権 が平 和的 に 権 力を 継 承 することが前提です。去年夏に、金正日が倒れた後、北朝鮮の政情は大変不安 定になっています。金正日が倒れて死んだり、権力が維持できないくらい重病 になった後、金日成が死んだ時と同じように政権委譲が安定的にいくかどうか 分かりません。大混乱が起きる可能性があります。それを、北朝鮮急変事態と 韓国 では 呼んで い ま す。 急変事態が起きた時、韓国軍と米軍は、北朝鮮に軍隊を送る。韓国軍は治安 を維 持し 、米軍 は 核 兵器 を確 保する と い う軍 事作 戦計 画 を練 って い ま す。 決 断 す る の は ト ッ プ で す が 、し か し 軍 隊 は 色 々 な シ ナ リ オ を 作 る わ け で す 。し か し 、 中国もそれを黙って見ていない。中国軍も介入する色々なシナリオを作ってい ます。では日本はどうするのか。 北朝鮮急変事態が起きた時に、一時期は被害者が危険な状態に置かれること があ りま す。証 拠 隠 滅( 拉致 被害 者の 殺 害) を本 当に す るか もし れ な い。 北 朝 鮮急変事態に備えて、拉致被害者救出の計画を極秘に作っておくことです。こ れは公然と言っても向こうが場所を移してしまうようなことをしますので、情 報を取って、どうするのか。自民党政権時代もそういうことを水面下でやって いたと承知していますが、きちんとやってもらわなければならない。それを公 開する必要はないですが、問題意識をもってもらわなくてはならない。 以 上が 、私が この とこ ろ言って い る被 害者 救出 の 3 条 件で す。そし て私 た ち がやることは何かというと、世論を盛り上げることです。全員取り戻すのだ、 被害者は死んでいない、もっともっといるのだ、そして日本人は全員帰ってく るまで怒りを解かないことです。自国の領土から自国民がさらわれて帰ってき ていないのに、仲良くすることはできないというのが、我々の主張する経済制 裁の本質です。当たり前のことを言っているだけです。付き合いをしないと言 っているだけです。それも解いてしまったら、怒りがないと思われて、馬鹿に されてしまいます。 世論を盛り上げることには意味があります。世論というのは、坂道を大きな 鉄の球を持っていくようなものです。少し手を離すと落ちてしまいます。しか し 、一 歩 一 歩 動 い て い ま す 。動 い て い る こ と が よ く 分 か ら な い の で す が 、10 何 年 も 経 つ と 、高 い 所 ま で 来 た な 、と 思 い ま す 。2002 年 以 前 は 、普 通 の 人 権 集 会 で拉致問題の講演なんかなかったのです。冒頭苦言を呈しましたが、人権問題 に 拉 致 問 題 が 入 る こ と が 許 さ れ る よ う な 雰 囲 気 で は な く 、 言 え ば 、「( 拉 致 は ) 事 実 じ ゃ な い 」と 、 「 朝 鮮 総 連 の 人 た ち の 人 権 を 侵 害 す る の か 」と 、我 々 が 人 権 侵害派のように言われていました。 最近、集会が行われるようになったこと自体は、やはり世論は変わりつつあ る と 自 信 を 持 つ べ き だ と 思 っ て い ま す 。そ し て 、3 回 目 の チ ャ ン ス は 必 ず 来 る 。 しか しそ のため に は 、世 論が 下がら な い よう に、 もっ と もっ と盛 り 上 げて い か なければならない。是非皆様と共に戦っていきたいと思っています。 以上
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