1 氏 名 ( 本 籍 ) 武 田 恵 理(東京都) 学 位 の 種 類 博 士 (文化財) 学 位

タ ケ
ダ
エ
氏 名 ( 本 籍 )
武
田
恵
リ
学 位 の 種 類
博
士
(文化財)
学 位 記 番 号
博
美
第 106 号
学位授与年月日
平 成 14年 3 月 25日
学位論文等題目
〈作品〉京都大学総合博物館蔵
理(東京都)
重要文化財「紙本着色聖母子十
五玄義・聖体秘跡図」の再現模写
〈論文〉京都大学総合博物館蔵
重要文化財「紙本着色聖母子十
五玄義・聖体秘跡図」の再現模写と描画技法の研究
論文等審査委員
(主査)
東京芸術大学
(論文第1副査)
聖
(美術学部)
歌
田
学
〃
(文 学 部)
坂
本
(作品第1副査)
東京芸術大学
〃
(美術学部)
坂
本
一
道
(副査)
〃
〃
(
〃
)
佐
藤
一
郎
( 〃 )
〃
〃
(
〃
)
三
浦
定
俊
( 〃 )
東京国立博物館
保存修復課長
神
庭
信
幸
徳
大
教
授
眞
介
満
(論文内容の要旨)
【研究概要】
昭 和 5 ( 1 9 3 0 )年 大 阪 府 高 槻 市 で 発 見 さ れ た 「 聖 母 子 十 五 玄 義 ・ 聖 体 秘 跡 図 」
( 以 後『 マ リ ア 十
五 玄 義 図 』 と 呼 ぶ ) は 、 1 6 1 4 か ら 1 6 2 5年 の 間 の 作 と さ れ る 軸 装 絵 画 で あ る 。 図 像 中 の I H S の 文
字 な ど か ら イ エ ズ ス 会 *1信 徒 の 作 品 と み ら れ る 。 本 作 品 の 再 現 模 写 に よ り 画 材 や 描 画 技 法 を 考 察
する。
【歴史的背景】
天 文 12 ( 1 5 4 3 ) 年 に 、 中 国 の 商 船 に 乗 っ た 3 人 の ポ ル ト ガ ル 人 が 種 子 島 に 漂 着 し て か ら 、 寛 永
16( 1639) 年 の 鎖 国 ま で 、 数 々 の 西 欧 の 知 識 が キ リ ス ト 教 と 共 に 伝 来 し た 。 イ エ ズ ス 会 東 方 巡 察
師 ヴ ァ リ ニ ャ ー ノ *2( 1577来 日 ) は 、 西 日 本 各 地 に 、 セ ミ ナ リ オ 等 の 教 育 機 関 を 設 置 し た 。 こ れ
ら の 教 育 機 関 で は 、教 課 と し て は 神 学 、哲 学 、法 律 、語 学 、数 学 、天 文 学 、地 理 学 な ど を 教 え た 。
併置されたと思われる工房では、絵画、銅版画、オルガンなどの楽器、時計などを製作し、さら
に絵画や音楽の実技を習得させ、クリスマスなどには宗教演劇も上演された。イタリアからは画
僧 ニ コ ラ オ * 3 が 来 日 し 、 教 会 祭 壇 画 の 制 作 や 画 学 生 の 指 導 に あ た っ た 。 文 録 2 − 3 ( 1593 − 1 594)
年 度 の イ エ ズ ス 会 年 報 *4に よ る と 、 八 良 尾 の セ ミ ナ リ オ で 学 ぶ 画 学 生 は テ ン ペ ラ 画 8 人 、 油 彩 画
8 人 、 銅 版 画 5 人 い た と あ る 。 彼 ら は 天 正 遣 欧 使 節 ( 1590帰 国 ) が ヨ ー ロ ッ パ か ら 持 ち 帰 っ た 絵
画 を 模 写 し 、 彩 色 や 形 態 を 学 ん で い た と も 記 さ れ て い る 。 慶 長 8 ( 1603) 年 の 日 本 司 教 *5の 報 告
書 で は 、諸 教 会 に 信 徒 作 の 油 絵 や 壁 画 が 多 く 飾 ら れ 、多 く の 卓 越 し た 画 家 が い た と 記 さ れ て い る 。
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ルネッサンス様式の絵画は写実的であり陰影法や遠近法が駆使されている。それらは、当時の日
本人に強い印象を与え、布教効果が高く需要も多かったという。しかし、その後二百数十年にお
よぶキリスト教の禁教で、これらの作品のほとんどが消滅あるいは隠蔽された。したがって現存
する当時の西洋画法による宗教画の作品数は非常に限られている。そのため当時の技法を知るに
は、残された作品の研究によって描画技法がどのようなものであったのかを考察、推察するしか
ない。
【近年の研究】
一方、この時代に制作された南蛮趣味の世俗画として、南蛮屏風や南蛮洋風画と呼ばれる作品
群がある。坂本満氏により、この中に宣教師達が献上物として大名や権力者へ贈るため、上記教
育 機 関 で 修 練 を 積 ん だ 画 家 に 描 か せ た 物 が あ る と 指 摘 さ れ て い る *6。 従 来 、 保 存 ・ 修 復 家 に よ っ
て、これらの作品の中に膠だけで描かれたものとは発色や質感、耐水性が異なる作品があるとさ
れ て き た 。 ま た 筆 者 の 観 察 で も 、 北 川 民 次 *7の テ ン ペ ラ に 共 通 す る 、 膠 だ け で は 得 ら れ な い 肌 合
い を 持 つ 作 品 が あ っ た 。 平 成 10( 1998) 年 度 、 神 庭 信 幸 氏 に よ り 、 本 研 究 の 対 象 作 品 で あ る 『 マ
リ ア 十 五 玄 義 図 』 が 調 査 報 告 *8さ れ た 。 絵 具 表 面 の 質 感 、 艶 、 亀 裂 の 生 じ 方 か ら 、 油 か エ マ ル ジ
ョ ン の 展 色 剤 を 使 用 し た 可 能 性 が 示 さ れ た 。平 成 1 1( 1 9 9 9 )年 度 に は 、岡 墨 光 堂 に よ り 宮 内 庁『 萬
国絵図屏風』の絵具試料の分析が行われた。油と膠の双方を含む事が報じられ、膠と油を混ぜた
展色剤を用いたか膠下地上に油性絵具で彩色した可能性をあげている。
【研究テーマと目的】
日本では従来、膠と顔料でできた水性絵具が使われた。また中国から一種の油絵である密陀絵
技法も伝来している。これら伝統的描画技法を考慮しても、膠と油分が同時に含まれた展色剤を
用 い た り 、双 方 を 併 用 す る 描 画 技 法 は 特 殊 で あ る 。こ こ で 展 色 剤 の 違 い で 描 画 技 法 を 油 画 、膠 画 、
テンペラ画の3つに分けて考えてみる。油画の画肌は光沢があり透明な印象を受ける。膠と顔料
を練り合わせた絵具では、画肌に光沢が無く不透明な印象の絵になる。テンペラ画はこれら油画
と膠画との中間にあたる。水性と油性の液体を混合すると溶け合わず、どちらかあるいは双方が
コロイド状に分散して乳濁液になる。この乳濁状の展色剤と顔料を混合した絵具を用いた絵画を
テンペラ画という。仕上がった作品の画肌には、やや光沢があり半透明の印象を受ける。テンペ
ラ技法の代表的なものに卵テンペラがある。西欧では、より簡便で表現の応用幅の広い油画技法
が 考 案 さ れ る 15世 紀 ま で 、 卵 か 卵 に 乾 性 油 を 加 え た 卵 テ ン ペ ラ が 、 主 た る 絵 画 技 法 で あ っ た 。 こ
れら油画、膠画、テンペラ画の技法の差異は、作品表面の光沢、発色、質感としてあらわれる。
日 本 で は 禁 教 と 共 に 油 画 や テ ン ペ ラ 画 と い っ た 西 洋 画 法 も 廃 れ た 。 享 保 11( 1726) 年 、 八 代 将 軍
吉宗の命でオランダからもたらされた油画ロイエン作「花鳥図」が江戸の評判となるほど、西洋
画は珍しく特殊なものとなっていたのである。
本研究では、当時使用された可能性のある材料を用いて展色剤を作成し、塗布実験を行った。
その結果から、描く対象物と何を表現するかで、膠と少量の卵黄を混合したテンペラ、卵白テン
ペラ、卵黄に荏油を加えたテンペラの3種類の展色剤を使い分けていると推定し、これらを用い
て『マリア十五玄義図』の再現模写を行った。
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17 世 紀 初 期 に 描 か れ た 本 作 品 は 、 描 か れ た 当 初 の 状 態 を よ く 残 す 稀 有 な 絵 画 で あ る 。 本 作 品 描
画技法の研究により、我国で制作された西洋画に対する認識も広がるであろう。描画技法や作品
への深い理解が適切な保存につながると考える。
*1
カトリック系修道会
*2
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
*3
ジ ョ バ ン ニ ・ ニ コ ラ オ 。 ナ ポ リ 王 国 ノ ラ 出 身 の イ ル マ ン 。 1583年 に 来 日 。
*4
ペドロ・ゴメスによる。画学生の技術は申し分ないものであったと記録している。
*5
日本司教・ドン・ルイス・デ・セルケイラ
*6
坂 本 満 、 1990。
*7
北 川 民 次 ( 1 8 9 4 − 1 9 8 9 )。 ア ラ ビ ア ゴ ム と リ ン シ ー ド を 用 い た テ ン ペ ラ 作 品 を 制 作 。「 子 供 の 絵 と 教 育 」
より。
*8
神庭信幸・小島道裕・横島文夫・坂本満「調査研究活動報告
調 査 、『 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 研 究 報 告 』 第 7 6 集 、 1 9 9 8
3
京都大学所蔵「マリア十五玄義図」の