道徳法則・自律・自己決定

2006/07/08 熊本大学生命倫理研究会
道徳法則・自律・自己決定
――カントと生命倫理、その隔たりについて
八幡英幸(教育学部)
1
カント倫理学の基本構造――定言命法を中心に
1.1
道徳法則から定言命法へ
不完全な人間の意志は道徳法則には必ずしも合致せず、強制が必要となるため、道徳法則の
表象は命令となり、その命令の方式は命法とよばれる。(Kant, 1785, 4.413-414)
仮言命法は、ある行為が何かある目的のために手段として必然的であることを示すのに
対し、定言命法は、ある行為がそれ自体必然的であることを示す。(4.414)
1.2
定言命法の根本方式
定言命法の概念を考えると、その根本方式は以下のようになる:「汝の格率が普遍的法
則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうし
た格率に従ってのみ行為せよ。」(4.420-421)
1.3
普遍的自然法則の方式
自然は法則の普遍性によって成り立つため、定言命法は次のようにも言い換えられる:
「汝の行為の格率が、汝の意志を通じて、普遍的自然法則となるかのように行為せよ。」
(4.421)
4つの事例への適用 (4.421-424)
①「生きていても辛いことばかりなら、自殺する」という格率は、普遍的自然法則と
して成り立たない。
②「困ったときには、できない返済の約束をしても金を借りる」という格率は、普遍
的自然法則として成り立たない。
③「自然素質を発展させるよりも、現在の満足に耽る」という格率は、普遍的自然法
則となりうるが、そうなることを意欲することはできない。
④「困窮した人がいても、何も援助しない」という格率は、普遍的自然法則となり
うるが、そうなることを意欲することはできない。
1
1.4
目的自体の方式
目的は意志の規定に役立つが、人間を含む理性的存在者は、それ自体が絶対的価値を
もつものとして、あらゆる理性的存在者に妥当する目的として存在するため、法則ま
たは定言命法の根拠となる。(4.428)
それゆえ、人間の意志に関する定言命法は次のようになる:「汝の人格やほかのあら
ゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段
としてのみ扱わないように行為せよ。」(4.429)
4つの事例への適用 (4.429-430)
①「生きていても辛いことばかりなら、自殺する」という格率は、自分の人格を単な
る手段と見なしている。
②「困ったときには、できない返済の約束をしても金を借りる」という格率は、他者
の人格を単なる手段と見なしている。
③「自然素質を発展させるよりも、現在の満足に耽る」という格率は、目的自体とし
ての人間性を維持することとは両立しても、促進することとは両立しない。
④「困窮した人がいても、何も援助しない」という格率は、目的自体としての人間性
と消極的に合致するだけで、積極的には合致しない。
1.5
普遍的立法(目的の国)の方式
格率の普遍化を命じる第一の方式と、理性的存在者を目的自体とする第二の方式とが
合致するためには、それぞれの理性的存在者の意志は普遍的に立法する意志であると
いう、第三の条件(最上の条件)が必要である。(4.430-1)
理性的存在者が共同の法則によって体系的に結合し、彼らの個人的な差異が捨象され
るなら、目的自体としての理性的存在者とその諸目的との全体、つまり目的の国を考
えることができる。(4.433)
目的の国では、価値は相対的価値と内的価値つまり尊厳とに分かれ、目的自体の存立条件
は尊厳をもつ。(4.434-5)
すべての価値を規定する普遍的立法、つまり自律こそが人間(およびあらゆる理性的
存在)の尊厳の根拠である。(4.436)
普遍的立法の方式の再定式化:あらゆる格率は自らの立法に基づいて、自然の国とし
て可能な目的の国を目指して調和すべきである。(4.436)
2
参考:J.ロールズのカント解釈
「私の狙いは、例えばロック、ルソー、カントに見出されるような、周知の社会契約
論を一般化し、抽象化の水準をより高次にするある一つの正義(justice)の概念を提示す
ることである。(...)それらは、自分自身の利益の増進に関心をもつ自由で合理的な人々
が、彼らの連合体の基礎的な条項を定義するものとして、平等な初期状態で受け入れ
るであろう諸原理である。」(Rawls, 1971, p.9)
「原初状態(original position)を、経験論の枠内におけるカントの自律概念と定言命法
の解釈とみなしてもよいだろう(...)。目的の国を支配する原理は、この原初状態におい
て選択される(...)。このような考え方は、もはや純粋に先験的なものではないし、人間
の行為との説明可能な関連を欠くこともない。というのは、原初状態という手続き的
概念により、私たちはそのような関連を作り出すことができるからである。」(p.198)
1.6
定言命法に関するまとめ
道徳法則=自由の法則
(直観化)
普遍的自然法則の方式
定言命法
根本方式
+
(適用)
目的自体の方式
義務の体系
対自・対他
↓
完全・不完全
自律=普遍的立法の方式
定言命法の各方式は、同一の法則の三つの方式であるが、主観的には相違があり、その
ことが道徳の理念を私たちの直観や感情に近づけるのに役立つ。しかし、道徳的な判定
に際しては、もっとも厳密な、定言命法の根本方式に従うほうがよい。(Kant, 1785,
4.436-7)
(以上、第1節)
3
2
生命倫理原則とその理論的背景――自律尊重原則を中心に
2.1
生命倫理原則の成立 (香川, 2000)
2.1.1
『ベルモント・レポート』(1979)の3原則
①人格尊重(respect for person):インフォームド・コンセント(以下、ICと略記)
②恩恵(beneficence):リスク・便益の評価
③正義(justice):被験者の選択
2.1.2
ビーチャム・チルドレス『生命医学倫理の諸原則』(1979)の4原則
①自律尊重(respect for autonomy):自律的な個人の意思決定能力を尊重すること
②無危害(non-maleficence):他人に危害を与えないこと
③恩恵:危害を避け、便益を供与し、リスクと費用に対して便益を均衡させること
④正義:便益、リスク、費用の人々の間での適切な配分
2.1.3
フェイドン・ビーチャム『インフォームド・コンセント』(1986)
自律尊重:その人の能力とものの見方を尊重し、個人的価値観と信念にもとづいた見
解をもち、選択をし、行動する権利をもつことを認めること。
自律的行動の定義:以下の条件でXが行動したときにのみ、Xは自律的に行動する。
①意図をもって、②理解して、③何らかの影響下にはなく
「カント哲学に表現されているように、自律的人間の目的は自分の運命を自分で決め
ながら、自己実現することであり、人はたんに他人の目的のための手段としてあつか
われるべき存在ではない。」(p.8)
「ICに関する主要な道徳的、概念的問題は公正にもとづくものではなく、また社会
的公正の問題に直接くみするものでもない。」(p.16)
2.1.4
生命倫理原則と定言命法、その隔たり
①自律と正義(社会的公正)の分離(普遍的立法の方式の分解)
②他者の手段化は制限するが、自己手段化は無制限(目的自体の方式の部分的採用)
→自律概念の個人主義化
③恩恵と正義に関する普遍化(根本方式の社会的解釈:功利主義、社会契約説)
④自然との類比の欠如(普遍的自然法則の方式の不採用)
→倫理学理論の人間中心化
4
2.2
生命倫理原則の理論的背景
2.2.1
理論レベルでの多元性、原理レベルでの収斂?
ビーチャム『生命医学倫理のフロンティア』(1999)
「1970年代と80年代の大半において、功利主義的ならびに義務論的アプローチが生命
医学倫理の文献や論述に大きな影響を与えました。(...)しかし、これらの理論が生
命医学倫理の領域で担う重要性はずっと小さくなってきました。単一原理の功利主義
や義務論が格下げされた理由は、道徳の全領域をたった一つの最高原理で意義づけよ
うとするアプローチが有する不便さにあります。」(p.72-3)
「われわれは、国とか文化ごとに倫理理論レベルの哲学的思想には開きがあっても、
共通の中間次元に位置する原理レベルにおける反照的な倫理分析では、収斂が起きて
いるとみています。
」(p.66-7)
2.2.2
生命倫理成立期における原理選択:3原則か4原則か
義務倫理学
人格尊重
自律尊重
自由主義...
ミル的自由主義
無危害
医の倫理
恩恵
功利主義...
恩恵
社会契約説
正義
正義論...
2.2.3
正義
+ 共同体主義?
原理選択の根拠:受容効用
原理レベルの「収斂」があるとすれば、それは現代の社会状況や研究状況を背景とし
た、受容効用(acceptance utility)による原理選択の結果なのではないか。
cf. ミル『自由論』(1859)の構造:二層理論 (Hare, 1981)(伊勢田・樫, 2006)
功利原理
(効用の最大化)
→
自由主義の原則
(+危害原則)
→
事例への適用
(飲酒、賭博など)
「人類が不完全である以上、様々な意見があることが有益であるように、さまざまな
生活の実験があること、他人に危害を及ぼさない限りにおいて多様な性格に自由な活
動の場が与えられること、そして、さまざまな生活様式の価値が、それを試みようと
思う人があれば、実際にやってみて証明されることが有益である。」(Mill, 1859)
5
2.2.4
対話の成果
カント倫理学から見た、生命倫理の理論的課題
①自律と正義の関係の再検討
②自己手段化への批判
→個人主義化した自律概念に対する契約説的、徳倫理学的修正
③恩恵や正義とは別の普遍化の観点の導入
④自然との類比の復権
→倫理学理論の人間中心化に対する修正
多元的世界の倫理である生命倫理については、倫理的考察において(多くの場合、暗
黙のうちに)指導理念として働く、受容効用による原理選択がひきつづき事実的規範
とならざるをえないだろう。
しかし、その一方で、非功利主義的な視点から理論的統一を追求する立場との対話も
やはり重要であり続けるだろう。それは、そうした対話により原理選択の幅が広がり、
原則の受容効用がさらに高まることが期待されるからである。
これは功利主義の勝利と考えるべきか、それとも形骸化と考えるべきか。おそらくは
その両方、つまりその自己消去的貫徹なのであろう。
(以上、第2節)
6
3
自由の欠如としての弱さ、愚かさ?
3.1
(補論)
実践理性、すなわち理性による意志規定
「たんに『存在すべきもの』を認識するだけではなく、理性がその認識に基づいて、
それだけで『意志を規定できる』というところに、実践理性の実践的たるゆえんがあ
り、これが狭義における『実践的』の意味である。純粋理性が実践的であるというこ
とによって、理性の立法が可能となり、またこの場合にのみ意志は自由でありうる。」
(弘文堂『カント事典』
、「実践的」
、新田孝彦)
3.2
意志概念の多義性
(八幡, 2000)
行為の文脈全体を規定する 意 志
※格率として表現される
随 意 的
行為を構成する動作を行なう 選択意志
(基礎行為)
欲求能力
目的を実現する能力を伴わない 願 望
不随意的
3.3
自由概念の多義性
(八幡, 2000)
自然の因果性に支配されず、行為を構成
する動作を行なう 超越論的自由
自
任意の目的による規定
由
を行なう 消極的自由
感性的な衝動に支配されず、行為の文脈
全体を規定する 実践的自由
義務による規定を行な
う 積極的自由
3.4
自由の欠如としての弱さ、愚かさ?
①ある人は、いつも衝動に支配されており、自らの行為を支配する格率を持たないか
もしない(実践的自由の欠如)。
②ある人は、ある種の格率に基づいて自らの行為を支配しようとするのだが、それを
構成する動作を行なうことができないのかもしれない(超越論的自由の欠如)。
③ある人は、ある種の格率に基づいて自らの行為を支配してはいるのだが、その格率
は普遍化可能なものではないかもしれない(積極的自由の欠如)。
7
< 引用参照文献 >
(Beauchamp-Childress, 1979) T. L. Beauchamp, J. F. Childress, Principle of Biomedi-
cal Ethics, Oxford U. P., 19791 ; ビーチャム・チルドレス,『生命医学倫理』(第3版
の翻訳), 成文堂, 1997.
(Belmont Report, 1979) The Belmont Report: Ethical Principles and Guidelines for
the Protection of Human Subjects of Research, 1979, in: (Reich, 1995) pp.27672773.
(Faden-Beauchamp, 1986) R. R. Faden, T. L. Beauchamp, A History and Theory of
Informed Consent, Oxford U. P., 1986; フェイドン・ビーチャム,『インフォームド・
コンセント』, 酒井忠明・秦洋一訳, みすず書房, 1994.
(Hare, 1981) R. M. Hare, Moral Thinking: Its Levels, Method, and Point, Oxford U. P.,
1981; ヘア,『道徳的に考えること』, 内井惣七・山内友三郎監訳, 勁草書房, 1994.
(Kant, 1785) Immanuel Kant, Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, 1785; I.カント,
『道徳形而上学の基礎づけ』, 宇都宮芳明訳, 以文社, 1989. [抜粋・対訳参照]
(Mill, 1859) J. S. Mill, On Liberty, 1859; ミル,『自由論』, 塩尻公明・木村健康訳, 岩波
文庫, 1971.
(Rawls, 1971) J. Rawls, A Theory of Justice, Harvard U. P., 1971; J.ロールズ,『正義論』,
矢島鈞次監訳, 紀伊國屋書店, 1979.
(Reich, 1995) W. T. Reich ed., The Encyclopedia of Bioethics, Revised Edition, Macmillan, 1995.
*
(伊勢田・樫, 2006) 伊勢田哲治・樫則章編,『生命倫理学と功利主義』, ナカニシヤ出版,
2006.
(香川, 2000) 香川知明,『生命倫理の誕生 人体実験・臓器移植・治療停止』, 勁草書房,
2000.
(ビーチャム, 1999) ビーチャム,『生命医学倫理のフロンティア』(講演原稿の翻訳), 行人
社, 1999.
(八幡, 2000) 八幡英幸,「カントの自由概念 その多義性と行為への関係」,『熊本大学教
育学部紀要』, 第49号, 人文科学編, pp.295-306
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