製造物責任に関する企業倫理学的考察: 松下電器石油温風機欠陥問題の事例 An Ethical Study of Product Liability: The Case of Matsushita Electric Industrial Co., Ltd 04-25484 安田香央里 Kaori Yasuda 指導教員 宇佐美誠 Adviser Makoto Usami 1. 背景と目的 1.1 企業倫理とは 企業倫理(B u s i n e s sE t hi c s )は哲学(倫理学)と企業経営 という、本来異質な学問的土壌の上に誕生した学問である。 一般的には、利潤や業績の高低ではかられるビジネスの価値 基準と、倫理的な価値基準を掛け合わせた地点に成立する分 野として理解される。 1.2 先行研究 企業倫理上の文献は、ビーチャム( 2 0 0 5 ) のように様々な倫 理学的な立場から多角的に研究を行うものが多く、一つの事 例を定まった倫理学的な立場から分析を行ったものは少ない。 他方、日本における企業不祥事の事例研究は、藤原(2 0 02 ) の ように、倫理学以外の視角から分析するものが多く、扱われ る事例は 20 0 0年の雪印乳業の事例に偏っており、それ以降の 事例についての研究は、まだ進んでいないのが現状である。 本稿では、2 00 5年の松下電器石油温風機の事例を、規則功利 主義という一つの倫理学説の立場に立って考察を行う。 1.3 目的 19 55年 森永乳業ヒ素ミルク中毒事件 2 0 0 0年以降、日本で 19 68年 カネミ倉庫油症事件 製 造物責任 に関す る 19 85年 ミドリ十字薬害エイズ事件 企 業不祥事 が報道 さ 19 95年 製造物責任法 施行 れ るケース が増え た 20 00年 雪印乳業集団食中毒事件 (表 1 ) 。これは、1 9 9 5 年に施行された「製造 20 00年 三洋電機発電パネル不正販売事件 物責任法(P L法) 」に 20 02年 ダスキン禁止添加物入り肉まん販売事件 より、消費者が製品の 20 02年 協和香料化学無認可添加物使用事件 欠 陥に対し 強い関 心 20 02年 USJ賞味期限切れ食品販売、火薬不正使用事件 を 抱くよう になっ た 20 03年 プリマハム表示義務違反事件 からだと言われる。 こ う し た 影 響 もあ 20 04年 六本木ヒルズ、回転ドア小学生死亡事故 り、企業は製品の安全 20 04年 トヨタ自動車リコール放置問題 性 をより重 視する よ 20 05年 松下電器石油温風機欠陥問題 うになったが、欠陥が 20 06年 シンドラーエレベータ製エレベータ事故 発 覚した後 に企業 が 取る対策は、P L法施行 20 06年 パロマ湯沸かし器一酸化炭素中毒事故 前と変わっておらず、 20 07年 不二家期限切れ原材料使用事件 事 件が社会 に与え る 表1 製造物責任に関する企業不祥事(1 94 520 07 /1 ) 『企業不祥事辞典−ケーススタディ150』より作成 影響は甚大である。 しかし、2 0 0 5年に発覚した「松下電器石油温風機欠陥問題」 では、松下電器は 2 5 0億円という大金を欠陥問題への対処に つぎ込み、テレビ C Mや全世帯へのタウンメール発送によるリ コール告知を行うことで、欠陥のある製品全ての回収を目指 す、という異例の対策を取った。結果、事件発覚後の決算で、 松下電器は第 3四半期としては過去最高の売上高を達成した。 本稿の目的は、この松下電器の取った従来とは異なる製造 物責任に関する企業不祥事への対処方法の優位性を、明らか にすることである。この時、不祥事における主要な利害関係 者の効用を考慮するために、規則功利主義の観点から考察を 行う。 2. 基本視角 2.1 功利主義 功利主義は、 「帰結主義」 、 「善悪の快楽説」 、 「最大多数の最 大幸福」という3つの原則を採用した倫理学説である。この 中で特に最大多数の最大幸福の原理は、功利原理とも呼ばれ ている。この 3つの原則により、功利主義では、帰結におい て関係者全員が最大の効用を得ることができる行為を、全て の人が行わなければならない、と考える。 企業は本来自社の利益のみを追求するが、企業不祥事では 行為における関係者すべての効用が考慮されるべきである。 よって、他の倫理学説(義務論など)ではなく、功利主義の 観点から考察を行うことに、意義があると考えられる。 2.2 行為功利主義と規則功利主義 行為功利主義とは、行為の帰結のみを考慮して功利原理に よる道徳的な判断を行おうという考えである。行為の関係者 が帰結においてどのような効用を得るかを考え、その効用の 合計が多いか少ないかによって行為の善悪を判断する。この 方法には、人間が培った経験やそれに基づいて作られた規則 を活かせない、という問題があった。 この問題に対する解決策となるのが、規則功利主義である。 規則功利主義では、道徳規則を経験的に全関係者の効用を増 大させることが明らかな規則と定義し、行為の善悪を判断す る際は、まずこの道徳規則に従っているかどうかを考える。 3. 事例の分析 3.1 考察の進め方 松下電器の事例において重要な特徴は、(1 ) P L法の施工後 に起きた製造物責任に関する企業不祥事である、(2 )企業が顧 客情報をほとんどもたなかった、( 3 ) 多くの死傷者を出しさら に増える危険性があった、(4 ) 販売個数が 1 0万個以上と多数、 ( 5 )販売範囲が全国規模、( 6 ) 日本人のほとんどが知っている ような大企業の事件、(7 ) 事件発覚後マスコミにより大々的に 報道された、という点である。これらの特徴に最も近く、松 下電器が選択しなかった従来の対処法を行ったのは 2 0 00年 の雪印の事例である(表 1 ) 。したがって、機械と食品や被害 内容・規模などに違いを考慮した上で、本研究では、松下電 器が石油温風機欠陥自己の際取った対策を、雪印乳業の事例 と比較して、規則功利主義の観点から評価を行う。 企業不祥事発覚後、企業が取るべき対策は消費者へのリコ ールの告知である。松下電器と雪印乳業がそれぞれとった告 知方法を比較してみると、表 2のようになる。 表2 リコール告知の方法 告知方法 ①記者会見を行う 雪印 松下 ○ ○ ②テレビで CMを流す ○ ③タウンメールを送る ○ ④主要な新聞に広告を出 ○ ○ ⑤販売店にポスターを貼 ○ ○ ⑥チラシを配布する ○ ⑦直接リコールを知らせ ⑧HPに社告を掲載する ○ ○ ○ 松 下 電器 は 出荷 さ れた 製品 全ての回収 を目指 し たため、告知方法は多岐に 渡る。これに対し、雪印乳 業が とった方法 のうち 、 ①・④・⑤は行政の命令に より行ったものであり、雪 印は 自主的にそ れ以上 の 告知 を行おうと はしな か った。そこで二つの規則は 次のように書ける。 規則 1 (雪印乳業が従った規則) 行政に命令された範囲でリコールの告知を行い、リコー ルに応じるかどうかは、消費者の判断に委ねる。 規則 2 (松下電器が従った規則) 欠陥のある商品全ての回収を目指して、リコール告知を 行う。 3.2 規則遵守とその影響 規則 1と規則 2それぞれを遵守した場合、帰結において、 特にどのような要因により、主要な利害関係者の持つ効用が 変化するのかを考える。そして、松下電器と雪印乳業の二つ の事例において、利害関係者が持つ効用を具体的に比較する ことで、どちらの規則が優位であるかを考察する。 3.2.1 経営者 経営者の効用が変化する要因は、企業経営者としての評価 が低下し、企業から更迭や降格などの処分を命じられること である。雪印乳業の事例では、社長以下 4名の経営者が退職 に追い込まれた。一方、松下電器の事例では、家電担当の経 営者 2名が取締役に降格処分となった。 二つの事例で帰結が異なった最も大きな要因は、事件後の 売上とその利益の変化にある。株主などの利害関係者にとっ て、決算の情報は企業経営者たちを評価するにあたり、最も 重要な情報となる。事件発覚後、松下電器の一週間当たりの 売上は、前年同期比 88 %と落ち込んだが、リコール告知が行 われてからは 10 4 % 、11 8 % と回復し、その後の決算で、松下電 器は 4 9 3億円の当期最高黒字を計上した。これに対し、食中 毒事件後の雪印乳業が製造する乳製品の売上は、リコールの 告知が行われた後も減少し続けた。品物を撤去してしまう小 売店も多かったため、売上の回復は叶わず、事件後の最終決 算で 44 3億円もの最終赤字を計上している。 製造物責任に関する不祥事を起こした企業にとって、リコ ールの告知は売上を早期に回復させる契機となる。これを十 分に行わなければ、消費者が事件を忘れるまで、長期に渡り 売上への悪影響が続くことになるのである。 3.2.2 従業員 従業員の効用が変化する要因は、不祥事を起こした企業に 勤め続けることにより、従業員の社会的な評価までもが低下 することである。この原因は、企業に対する一般消費者のイ メージ、即ち企業ブランド価値が悪化することにある。 企業ブランド価値は、その企業の製品・サービスに対する 信頼性についての一つの指標である。日経リサーチが主要企 業について行った調査では、雪印乳業のブランド価値は事件 前の 2 00 0年には調査対象となった全企業中 5 8位だったにも 関わらず、事件発覚後には 1 1 7位に滑り落ちた。一方、松下 電器は事件前年の 20 0 5年には総合 7位で、これは事件後も変 わらなかった。企業不祥事を起こしたにも関わらず、松下電 器の社会的な信頼が失われなかったのは、少なくとも、被害 を最小限に留める努力をしたからだろう。同社の従業員が社 会的評価の失墜という損害を受けなかったのは、こうして事 件後も企業ブランド価値が維持されたからである。 3.2.3 株主 株主の効用が変化する要因は、所持している株式の価格が 下がることにより、資産が減少してしまうことである。雪印 の事例では、事件が発生した 20 0 5年 7月以降株価が暴落し、 その後約 2年間に渡り低迷し続けた(表 3 ) 。松下電器の事例 でも、事件発生当初に株価は 2日間で 1 3 5円も下落したが、 すぐに回復した(表 4 ) 。 これは決算期前後に通常見られる株価上昇として、解釈す ることはできない。よって、株価がすぐに上昇に転じたのは、 市場が松下電器の取った対策を、企業の価値を維持するもの であると判断したことによると、推測される。 表3 雪印乳業 株価の推移( 20 00 /3∼20 01 /3 ) 「Ya h oo!ファイナンス」 より作成 表4 松下電器 株価の推移( 20 05 /8∼20 06 /8 ) 「Ya h oo!ファイナンス」 より作成 3.2.4 購入者 欠陥商品の購入者の効用が変化する要因は、所持している 製品の欠陥を知らずに使い続けて、その欠陥により被害を受 けてしまうことである。雪印の事例ではリコール告知後も、 多くの購入者がリコール対象の食品を知らずに食べてしまい、 食中毒の被害を受けた。松下電器の事例でも、事件から一年 以上経過しても全製品の回収が完了したわけではないが、リ コール告知の対策を行った後に、新たな被害者は出ていない。 企業が前向きに製品回収に取り組むことにより、購入者が被 害を受けることを食い止めたのである。 最大限のリコールの告知が行われたとしても、リコールを 知らない購入者や、知っていても製品を使い続ける購入者も いるだろう。また、松下電器の事例における被害者が雪印の 事例と比べ少ないのは、欠陥製品の販売数がそもそも少なか ったことや、事故が発生する確率が食中毒よりも低かったこ となどが、要因の一端ではあると考えられる。しかし、少な くとも規則 1より規則 2に従う行為の方が、多くの人々に対 しリコールを知る機会を与えるのは、明らかである。 3.2.5 一般消費者 一般消費者の効用が変化する要因は、不祥事を起こした企 業が販売する他の製品を購入できなくなる(購入したくない と考えてしまう)ことである。不祥事の結果、一種の不買運 動として同じ企業の他製品を消費者が倦厭することもあれば、 店頭から製品が全て撤去されてしてしまうこともある。3.2 . 1 で述べたように、雪印乳業の事例では、同社の売上が長期間 にわたり大幅に減少したが、松下電器の事例では、リコール 告知後には事件の影響が見られなくなった。 このことには、3 . 2 . 2にて述べた企業ブランド価値も深く 関係している。事前に商品を使用することのできない消費者 は、商品の性能や価格といった情報以外にも、商品を作った 企業名を見て、その商品の価値を判断しようとする。製品そ のものの性能が良くても、企業名によって購入をためらうよ うな事態は、消費者にとっても望ましいものではない。 4. 結論 4.1.結論 3. より、全ての主要な利害関係者にとって、規則 2に従っ た対策の方が、規則 1に従った対策より、得られる効用が高 い。よって、規則功利主義の観点から、規則 2は企業倫理に おける一つの道徳規則となるべきであり、全ての企業がこれ に従った行為を行うべきであると言うことができる。 4.2.課題 次の 2点について、考察を行う必要がある。 ・ 3 . 1で述べた( 1 ) から( 7 ) の特徴を全て満たさないような 企業不祥事についても、規則 2を適用できるか。 ・ そのためにはどのように規則を書き換える必要があるか。 主要な参考文献 Thiroux, Jacques P. and Krasemann, Keith W. (2006), Ethics: Theory and Practice, Prentice Hall College Div. 梅津光弘 (2002)『ビジネスの倫理学』丸善. 齊藤憲 監 (2007)『企業不祥事事典―ケーススタディ 150』日外アソ シエーツ. ビーチャム, T.L.= N.E.ボウイ(加藤尚武 訳) (2005)『企業倫理学 1―倫理的原理と企業の社会的責任―』晃洋書房. 藤原邦達 (2002)『 雪印の落日―食中毒事件と牛肉偽装事件』緑風出版 .
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