鹿町地区 - GMOとくとくbb

鹿町地区
地区の概要
北松浦半島の中央部西側にあります。山地が海まで迫り平
地が少なく、西側は複雑なリアス式海岸線となっており、北
九十九島の島々が多く分布しています(鹿町地区では 32 島)。
ししまち
1889(明治 22)年の町村制施行時は北松浦郡鹿町村で、特に
ししまち
明治以降、石炭産業により発展し 1947(昭和 22)年に鹿町町と
しかまち
なる頃には人口約 1 万 7 千人でした。1958(昭和 33)年に鹿町町
に改称し、2010(平成 22)年 3 月に佐世保市と合併しました。
多い入り江を利用して養殖漁業をはじめ漁業が盛んで、釣
りや海洋スポーツを楽しめる場所も沢山あります。
人口
鹿町町の人口の推移
※国勢調査より
1965(S40)年 1985 (S60) 年 2005 (H17) 年 2011(H23)年
7,560 人
6,286 人
5,390 人
4,982 人
産業
<農業>
鹿町は面積のおよそ半分が山林と原野が占める、自然
が豊かな土地です。対馬海流の海沿いのため暖かい気候
で、農業は漁業とともに地区の基幹産業です。
鹿町の肥沃な大地と温暖な気候のもと、施設栽培もと
り入れてバラエティ豊かな産物を産み出しています。近
年はアスパラガスやブロッコリーなどの栽培も行われて
います。
☆山間地ならではの農業
鹿町は丘陵が南北に走り傾斜地が多いため、農家一戸あ
たりの経営面積が小さく、長く兼業の収入に依存してきま
した。昭和 30 年代から米作とともに基幹作物としてみか
んを推奨し樹園地を造成、また、近年では船ノ村において、
農薬・化学肥料を軽減した特別栽培米の取り組みが広がり、
付加価値をつけた米づくりを目指しています。
稲作以外でも、農薬、化学肥料の使用量を通常の半分以
下にした農作物の生産方法が広がっています。アスパラガ
ス、葉たばこ、びわ等です。これらの生産農家を通称『エコファーマー』と呼び、長崎県知事から認定を受け
ています。
【畜産と酪農】
畜産・酪農が占める割合が大きいのも本地区農業の特徴です。
昭和 20 年代に黒毛和牛の飼養が奨励され、鹿町では長い間、役牛が飼育されていました。現在は、畜産業の
ほとんどが繁殖農家で、優良系統の導入し高い評価を得ています。鹿町の農業粗生産額では肉用牛が最も大き
く、乳用牛とあわせると全体の 50%を占めています。
<漁業>
県北部の海は、対馬海流が豊富なプランクトンをもたらす安定した漁場
で、特に晩秋から初春にかけて、数・種類ともにたくさんの魚が獲れます。
鹿町の港でも、まき網漁によるイワシやアジをはじめ、実に様々な水産物
が揚がります。
また、昭和 30 年代後半から自然条件を活かした養殖事業が盛んで、海
上に見える養殖場では高級魚の真鯛やトラフグなど様々な魚が育ち、静か
な入江の奥では美しい真珠が養殖されています。
☆『煮干し』づくり
1883(明治 16)年の『北松浦郡誌』に、鹿町の産物としてスルメ、イワシなどが挙げられていますが、現在で
も水産物の加工が盛んに行われています。加工品の第一に挙げられる「煮干し」は、1952(昭和 27)年頃から自
家加工で小規模生産が始まり、乾燥機の導入や漁船の大型化により、大量生産が可能になりました(*)。また、
1955(昭和 30)年頃から加工業者への委託加工も行われています。
*煮干しに加工するのは主にカタクチイワシ。平成 14 年度は 825 トン(5 億 6 千 8 百万円)
☆獲る漁業から育てる漁業へ
近年、全国的に漁獲量は不振傾向にあり、鹿町のまき網漁の漁獲高も減少しています。資源の枯渇や海水温度
の上昇など、その要因は様々に考えられますが、これ以上の悪化を防ぐためには、これまでの「獲る」漁業から
「育てる」漁業への転換が必要であり、鹿町では豊かな漁場環境づくりのために様々な取り組みをおこなってい
ます。
お出かけスポット
鹿町温泉「やすらぎ館」
*市営/土肥ノ浦
な ぐ し や ま
長串山公園
*長串
2001(平成 13)年にオーブンした、大浴場
やサウナ、プールなどがある施設です。天然
温泉は美人の湯とも呼ばれ、ぬるぬるとした
手触りが特徴です。プールは、リラクゼーシ
ョンやトレ
ーニングな
ど幅広く利
用でき ま
す。
渡り廊下
で結ばれた
「しかまち
活性化施設」では、特産品コーナーがあり、食
事や休憩もできます。
標高 234mの長串山の西側中腹一帯にある長串山公園は、北九
十九島が一望できる鹿町を代表するスポットです。特に、ここか
ら見える九十九島と夕日のコントラストは美しく、2008(平成
20)年に佐世保市により「九
十九島八景」の一つに認定
されました。4 月初旬から 5
月初旬まで「長串山つつじ
祭り」が開催され、約 10
万本のツツジ(クルメツツ
ジ、ヒラドツツジなど)が咲
き誇り、屋台やイベントも
あってたくさんの人で賑わ
います。また、アスレチック施設のある広場があり、キャンプ場
も隣接しています。
鹿町町歴史民俗資料室
鹿町海洋スポーツ基地
*下歌ヶ浦
大野台遺跡からの出土品約 100 点のほか、
石炭採掘
の道具や、
昔の漁
具・農具・
生活用品
などの資
料が展示
されています。
36
*下歌ヶ浦
海に面した入り江にあります。
前に鹿町漁港と対岸の岬や小高
い山、九十九島が広がる、最
高のロケーションです。海水
浴場、自然体験館(調理室や
研修室)、キャンプサイト、
シーカヤックなどの施設が
あり、海洋スポーツが楽しめ
ます。
現代の施設
樋口ダム
長崎鹿町ウィンドファーム
*下歌ヶ浦
1999(平成 11)年に完成した長崎県第一号の小規模生活ダ
ムで、堤高 30m、堤頂長
96m、総貯水量 269,000 ㎥
あります。貯水池には
2,200 匹の鯉が放流され、
周囲に「真珠広場」「ちび
あ ずまや
っこ水路」「東屋」なども
あり、家族で楽しめます。
*風力発電所/船ノ村
1 基で 1000kw の発電能力を持つ風車が山の上
に 15 基立ってい
ます。風車の中心
までの高さは
68m、羽根の直径
61.4m で、8,000
世帯分の消費電
力を賄えます。
歴史・史跡
め くら が
標高が高い目暗ヶ原や大観山周辺に旧石器時代以降の遺跡が点在し、御堂池遺跡(深江)では縄文式の竪穴
式住居と土器、土偶も出土しています。
大野台支石墓群
潮音院(蓮華寺)
*深江
江迎湾に注ぐ鹿町川南岸の丘陵地にある、縄文末期
~弥生時代前期の共同墓地です。支石墓は大きな上石
を数個の石で支え、その下
かめ
に石や甕の棺がある形のも
ので、大野台では 70 基余り
が確認され国内最大級で、
46 基が国指定史跡となって
います。副葬品の石器、土
ほこ
器、銅矛(一部)も出土して
います。
*中野
平戸藩主から寺号を授かったとされ、1574(天正 2)
年に現在地に開山しました。江戸時代には藩主の菩提
寺印山寺の末寺、藩の祈願
所として保護されました。
平安から鎌倉期の不動明
かけぼとけ
王像や懸 仏、古文書や江
戸中期の鐘(明治の廃仏毀
釈で廃寺となった印山寺か
らうつされた。市指定文化
財)などが所蔵されています。
潮音院の参道
<中世>
すみもと
16 世紀頃に志佐純元の三男・純忠が深江に住み、「深江」を名乗り、今の松浦鉄道江迎鹿町駅の裏手の丘陵
地に深江城を築いたとされ、現在も深江城の土塁跡が約 250 メートル残っています。
み ね ごろ うひらく
また、17 世紀頃に県北一帯で、平戸松浦の祖松浦峯五郎 披 を祭神とする「鎌倉神社」が 20 社以上建て
られましたが、鹿町には 5 社あります。
※戦国時代の深江城城主深江将監忠昌については「佐世保戦国.com の紹介」の章をご覧下さい
☆江戸時代の干拓
ひろむ
深江新田は、田の面積約 50ha、堤防の全長約 3, 240m と大規模なもので、平戸藩主第 35 代観中公熈 時代の 1809
い きつき
(文化 6) 年に 3 年間の工事で完成しています。特に最後の「潮止め」は最大の難工事で、生月の石工・石山頓平
の「投げ築き」によって、ようやく完成したと伝えられています。
☆キリシタン
明治初めまで続いたキリシタン弾圧により、カトリック信者が西彼杵半島の外海地方や五島から逃れ、鹿町の
しとねざき
褥 崎に移住してきました。褥崎教会が 1916(大正 5)年に建てられ、1967(昭和 42)年に建てかえられました。
☆石炭産業
鹿町での石炭の採掘は江戸時代の天明年間(1781 年~1788 年)に始まり、製塩が盛んだった四国へ釜をたく燃料
として送られました。明治以降、蒸気機関の燃料や製鉄に石炭が使われるようになると、さらに需要が増え炭鉱も
増加し、まちも大きく発展しました。
戦後の改正町村制施行の 1947(昭和 22)年には、人口約 17,200 人(約 3,370 戸)になっていました。その頃、鹿町
には日鉄鉱業、野上東亜鉱業、井華鉱業、麓鉱業などの多くの炭坑と積み出し施設があり、国内で他に比をみない
強粘結炭の生産は年間 28万トンに及び、
町の年間総生産高は約 7,100 万円でした。
商工業や交通運輸も大いに発展し、人口は 1950(昭和 25)年に 2 万人を超えまし
た。
旧日鉄北松鉱業所
しかし、その後、エネルギー革命により昭和 40 年代には全て閉山してしまいま
した。また、炭鉱発展の負の遺産として、河川汚濁や土地の陥没などが進み、そ
の復旧事業は炭鉱閉山後二十数年続きました。
☆明治~昭和初期の役場や議会の状況
(1878 年に郡区町村編成法が制定される)
・1879(明治 12)年、公選で坂本清太郎が戸長に選ばれ、
「戸長役場」を鹿町免蔵置場の同氏方に置いた。
・1883(明治 16)年、役場を鹿町免山川の旧庄屋宅に移転した。
(1889 年に市制及び町村制が新しく施行される)
・1889 (明治 22)年、村長の公選が行われ、村長に坂本清太郎が選ばれた(以後 12 年間在職)。当時の役場は南
向きの草ぶき平屋建の 10 坪位の建物で、入口を入ると長いカウンターがあり、事務室には村長、助役(収入役
兼務)、書記 1 名が事務をとっていた。
同時に、村会議員の第 1 回公選も行われ、12 名の議員を選出した。場所は船ノ村潮音院で、第 1 回村会も同
所で開かれた。
・1905(明治 38)年、村役場を歌ヶ浦の 2 階建て 80 余坪の建物(*)に移転した。
*明治 10 年頃に建てられた民家。もともとは、鹿町側から移転して来た鹿鳴小学校の校舎に使うために村が買い取っていたも
のを、 1904(明治 37)年に小学校が現在地に移したため、それを役場庁舎に転用した
・その後、鹿町は炭鉱業の発展とともに人口が増加し、村会議員の数も 1921(大正 10)年の選挙で 12 名から 18
名に、更に 1933(昭和 8)年には 24 名となり、県下で押しも押されぬ大きな村へと成長していった。1938(昭和
や
そ
ざ え も ん
13)年には、東京で行われた自治制発布 50 周年記念式典で、当時の村長末武弥惣左衛門が全村長を代表して参
列する光栄にも浴した。
・戦後になり、村役場から町役場に変わるなかで、建物も増改築は行われたが老朽化したため、1958(昭和 33)
年に新庁舎の建設にかかり 1960(昭和 35)年に完成した。本館約 210 坪、付属の建物約 45 坪で、当時としては
近隣にない近代的な建築であった。
行事
かずら舞い
かずら舞は、元禄(※1688~1704
年)の頃から、船ノ村などの鎌倉神社
で例祭日に奉納されてきました。
お
み
き
御神酒を飲んで酔っぱらった子ども
達の様子を舞ったものです。
しかまち観光夏まつり
8 月中旬に鹿町支所付近で開
催され、夜は盆踊りや花火大会
など、楽しいイベントが盛り沢
山です。
あやたけ踊り
毎年 12 月に開催され、県
内外から千名を超える参加
があります。入賞賞品は町
の特産品の真珠などで人気
が高い大会で、小学生コー
スやファミリーコースもあ
ります。
あやたけ踊りは、
1873(明治 6)年にキ
リスト教への禁教令
が解かれたことを喜
び踊ったことが始ま
りとされ、140 年間伝
承されてきました。
38
させぼ鹿町町パールマラソン
体験談
-子どもの頃の遊びの思い出(昭和 10 年代頃)-
江口敏夫さん (昭和 3 年 9 月生まれ/旧鹿町村南鹿町免出身(現在の MR 江迎鹿町駅の南南西)/大野地区在住)
川や堤でよく遊んだ。5、6 歳頃から、夏になると家の前の、川(鹿町炭鉱の方からの川と船ノ村からの川)の合流
点に深みがあり、そこで近くの炭住(5、60 世帯か)の子らと 5、6 人で水遊びをした。2 つの川のうち炭鉱から
の川は石炭を洗った水が流れ、水から揚がると墨がついたようになった。下流の深みではよく釣りもした。
一度巨大な真鯉を釣り上げ、喜び勇んで家に持ち帰ったことは忘れられない。船ノ村からの川は水がきれい
で、ツガニやエビ、ウナギなどがいた。中学生の時にはカーバイトランプを持ち夜掘りに行った。
つつみ
小 6 前後には、河野病院近くの堤 で、へこ(ふんどし)姿で泳いだ。
「仏壇のご飯を食べてから泳ぐとガッパ
につかまれない」と言われていたので、いつもそうした。
忘れられない思い出がある。当時、金物屋を営みつつ炭鉱でも働いた父は、二番方(夕方からヤマに入る)のと
きは昼間家に居た。自分は幼時から父親に馴染まない子だったが、ある日、母が「お前が泳ぎに行く時、お
父さんは後をつけて行って、お前が溺れないように見よらすとよ。」
と教えてくれた。おれのことをそこまで思ってくれていたのか、と
父の心を初めて知った気がした。
山でも遊んだ。ヤマモ(山桃)や木イチゴを食べ、マテ (マテバシイ)
の実を集め自分で炊いて食べた。「メジロ落とし」(ワナ)をかけてメ
ジロも捕まえた。
分教場(鹿町小分校 )
炭住の広場や分教場(鹿町小分校)がメインの遊び場だった。当時石
炭産業が盛んで子どもが多く、すぐに 7、8 人集まって遊んだ。喧嘩
ゴマや掛けゴマ(ヨーヨーのようにして振り回す)、ペチャ(メンコ)、ビー玉、鬼ごっこ、
「蹴
り馬」 (*)などなど。田んぼで「棒倒し」(木の棒を地面に投げて刺し、他の者が投げ刺しなが
らそれを倒す)をやったり、小 4 の時に買ってもらった自転車(当時珍しかった)を乗り回
したりした。
*蹴り馬…右図参照。立った人の腰につかまり二人で馬になる。馬の不意をついて飛び乗る。馬に飛 び乗り
損ねて落馬したり、蹴られた人は交代して馬になる。暴れ馬に飛 び乗るのは迫力がある。
祭りも楽しみだった。8 月 23・24 日の「江迎千灯籠まつり」には、小学校高学年
から中学生にかけて同級生と 2、3 人で出かけた。晩ご飯を早く済ませると、当時バスがなかったので江迎
まで 4 ㎞ほどの道を歩いて行った。出店や出しものを見物して回り、家に着く頃には 1 時を回っていた。
11 月 5 日の藤護神社(深江/村社)のお祭りには、村民がこぞって出かけた。馬に乗った神主やお神輿の行
列があり、神輿の下をくぐると病気をしないという言い伝えがあり、子ども達は神輿を追いくぐり抜けた。
今思い出すと懐かしい。(以上)