主化に 着手(ペレ ストロイカ )した。そ れまでは秘 密のベール に包まれて いたソ連 共産党中央委員会にテレビカメラが入り、会議の模様を全国ネットで中継するなど、 情報公開(グラスノチ)を積極的に推進した。 と こ ろ が 、 1986 年 4 月 、 世 界 最 大 と な っ た チ ェ リ ノ ブ イ リ 原 発 事 故 を 西 側に 隠 蔽したため, 改革の不透明さを糾弾された。 その後は更にペレストロイカに力を入れ, その成果として外交面で二っの新機 軸を打 ち出した。 一つ が冷戦によ る緊張緩和 する新思考 外交、そし てもう一つ が東ヨーロ ッパの衛 星国家 に対しての ソ連邦、ソ 連共産党の 指導性の否 定(シナト ラ・ドクト リン)で ある。 緊張 緩 和 の 第 一 は 1986 年 、 ソ ビェ ッ ト連 邦 軍は ア フ ガニ ス タン か ら 完全 撤 退を 表明、翌 1987 年、アメリカ・レーガン大統領との直接会談(レイキャビック会談) を実現させ, SDI 計 画 で 米 ソ が 対 立 し て い た が , この会談で歩み寄った。 第二 に関しては 東側衛星国 家の取り扱 いについて 、全世界向 かって衛星 国家に対 しての 指導制を放 棄したこと を宣言した 。 こうした動きにいち早く連動したポーランドやハンガリーでは自由選挙が行わ れ、旧政権は追放され, ベルリンの壁は壊され東西自由に往来できるようになり、 東欧各 国の共産党 国家は次々 と崩壊し、 自由選挙に よる多党制 国家に変貌 した。 そして一斉に西側ヨーロッパ諸国と国交を回復、経済的にも結び付くことになり、 やがて EU 統合への気運が生まれたのはこの時からだ。 1988 年 (昭和 63 年 7 月)中曽根首相の訪ソ、ゴルバチョフ書記長との会談で領 土問題 が存在する ことを認め る発言をし 、交渉が再 び始まり、 この後、外 務次官ク ラスによって平和条約作業部会が常設されて、協議が進められた。 この時の成果は,1991 年 (平成 3 年)4 月にゴルバチョフ書記長来日、発表された 日ソ共同声明で, 北方領土が平和条約において解決されるべき領土問題であるこ とが文書として明記され, 確認されたことは一歩前進であった。 と ころ が、 帰国 後す ぐに 政局 が混 乱し だし 12 月 、 ゴル バチ ョフ 書記 長失脚 、ソ 連邦崩壊という世界的大事件が発生、振り出しに戻った。 1991 年 12 月 25 日、ソビェット連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任、これ を受け て各連邦構 成共和国が 主権国家と して独立し たことに伴 い、ソビェ ット連邦 は崩壊してしまった。 スターリン時代から世界の二大強国として、東側陣営のリーダーであった強国 ソ連邦 が戦争で負 けたわけで もないのに かくも無残 な崩壊を遂 げてしまっ た原因は 何なの か?ゴルバ チョフ書記 長が壊した わけではな い。 -5-
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