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 ― 第二巻 文学散歩―
ロサンゼルス徒然草
浜 崎 慶 嗣 第二巻 目次 岡山が生んだ鬼才『内田百閒』 はじめに/生い立ち /エリート 百閒
………………6
………………
………………
………………
………………
………………
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ペンネームの由来/借金王 百閒/美食家 百閒
酒豪 百閒/鉄道マニア 百閒/パラドックス 百閒
エロと百閒/漱石と百閒
「天分は感受性の池に咲く花」作家の生涯と代表作
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
「ペンネーム」考(1) 「ペンネーム」考(2) 「ペンネーム」考(3) 101 94 85 65 41
目次
創作 歌謡ドラマ 別れに「星影のワルツ」を歌おう 創作 歌謡ドラマ「ラブレター」 ………………
………………
………………
………………
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人生劇場「痴情」 童話 三ちゃんとダイヤの指輪 注:この本は故人の作品を遺族が出版したものです。昭和中期の年代
に執筆されたものであり、そのため、かな遣い、送り仮名等、現代使
われているものと若干異なる場合もあります。今回はできるだけ往時
のままの記述で編集しております。ご了承ください。
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
まえがき
「實説艸平記」
「百鬼園随筆」などの著者として有名である岡山出
名随筆集「阿房列車」
身の作家「内田百閒」
。
果たして、彼はいかなる人物であったのであろうか……。
残された作品に記述されている言辞を考察しつつ、その人物像に迫ってみたい。
なお、蛇足ながら本稿は「随筆」であり、評伝ではない。
はじめに
世の中には、勲章を欲しがる人は多い。特に晩年になると、冥土への土産か、自分への
今日までの社会的功績に対する評價を求め、文化勲章だとか、芸術院会員になることを欲
したがる傾向がある。
ところが、先方が呉れるというのに、これを自分から断った「阿呆」がいる。(因みに、
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
「阿房列車」は彼の代表作、また他に、ずばり「阿呆の鳥飼」がある)勿体ない話である。
芸術院会員に推挙されながら、これを辞退した作家「内田百閒」その人である。
しかも、断った理由がまたふるっている。
「いやだからいやだ!」
いかにも彼の権威嫌い、反骨漢ぶりを示すエピソードである。
それでは、岡山県出身の鬼才(鬼は彼の好むところと見え、ペンネームにも使用されて
いる)内田百閒とは果していかなる人物であったのだろう。以下彼の自叙伝や他の作品か
らその人物像を探ってみたい。
生い立ち
彼は、明治二十二年(西暦一八八九年)五月二十九日、岡山県岡山市古京町で、代々続
いた造り酒屋の一人息子として生まれている。造り酒屋と言っても、父久吉の代で既に廃
業しており、家には往年の名残を留める醸造の廃品しか残されていなかった。本名内田栄
造。この名前は祖父と同名で、祖父としてはこの孫に造り酒屋を再興して欲しいという願
望があったのだろうか。
「反骨漢」を絵に画いたような男だったが、幼少の頃の百閒は、ユーモ
晩年の百閒は、
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アのある明るい子供だったらしい。
そして、俗に「栴檀は双葉より芳し」と言われる通り、文筆を好み、投書雑誌「文章世
界」によく投函し、入選することもあったらしい。
また勉強のよくできる悧発な少年だったようである。
エリート百閒
近松秋江 太宰施門 蒲田泣菫 土師清二 正宗白鳥 吉行淳之介
竹久夢二
岡山県は、数々の著名な作家や詩人や画家を排出しているが、次に掲げるのは、その主
な作家である。
江見水蔭 内田百閒 岡山出身の作家
ここに列挙した岡山出身の主な作家が、小中学卒又は中退を覗いて、早稲田か東大出身
であるのは興味深い。その中で、官学の雄東京帝大を卒業しているのは、内田百閒ただ一
人である。
(戦後、詩人飯島耕一氏が東大を卒業している)
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
しかし、秀才百閒と言えども、何の苦労もせず、わが国最高学府帝大まで卒業できたわ
けではない。それは將しく彼の血のにじむような苦闘、試験地獄の末の成果である。
試 験 地 獄 な ぞ と 云 ふ 事 は 当 り 前 の 話 で あ っ て、 試 験 極 楽 な ん て 云 ふ 事 が あ っ て は な
らぬ。
(
「学生の歌」昭和十三年)
かくして彼は、旧制岡山中学から六校(旧制岡山第六高等学校)を経て、東京帝大(東
京大学)独文科に学び、そこを卒業した後、陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学でド
イツ語の教官として教鞭をとっている。
なにしろ、当時東京帝大卒と言うと、高文(高等文官)試験が免除され、法科卒の場合
そのまま外交官や弁護士になることができ、医学部卒業の場合、「帝大卒医学士」として
医術開業試験が免除されて、そのまま医院を開業でき、また私学の医学博士より上位と見
做されていた。それほど権威があったのである。このことを裏付けるように、文豪で軍人
であり、医者(軍医総監)でもあった森鷗外(林太郎)は、いみじくもこう喝破している。
「誰にでもなれる医学博士より、医学士のほうが遥かに高尚である」
つまりこういうことである。帝大出でなくても、学位の欲しい者は誰でも帝大に学位請
求論文を提出し、審査さえ通過すれば医学博士になれたのである。ところが学士号は、明
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治三十年学位令が改正され京都帝国大学が出来るまで東京帝大のみが学士号を取得できる
唯一の大学であったというわけである。因みに鷗外は、明治十七年に東京帝大医学部を卒
業している。從って鷗外は、そのことを誇示するかのように自分の蔵書には凡て既に取得
していた医学博士でなく「医学士森林太郎」の印を押捺していたと言われる。いかにも鷗
外らしいエピソードである。
また、夏目漱石も明治四十四年文部省からの「学位令」
(勅令)によって発令された「文
学博士」の学位記を辞退している。その理由は、平たく言うと「博士の学位」を押しつけ
られることで、文部官僚の恩恵を受けたくない。また、文部省は学位の授与によって学者
なにがし
をコントロールしてはならない。学問が少数の「博士」の占有物になることを怖れる。
たてまえ
私はあくまで「夏目 某 」として学者の道を進みたい。そしてこれは私個人の主義、主張
ほんね
(自由主義)の問題である。と述べているが、しかしこれはあくまでも建前で、どうやら
本音は鷗外同様「俺は東京帝大卒の文学士である。そんじょそこらの文学博士とは格が違
う!」と言いたかったのではないだろうか。
それほど当時の東京大学卒業生にはプライドがあった。文豪と科学者という人種は変な
プライドに固執するものだという見方もあるが、因みに現在活躍している東京帝大(東
大)卒の著名作家や詩人は、
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
古賀照一 飯島耕一 荒 松雄 昭和三十四年
昭和二十七年
昭和十六年
根村才一 昭和二十二年
広江純一 昭和三十一年
長部舜二郎
昭和三十年
昭和十八年
丸山一郎 福田章二 〔作家名〕 〔卒業学科〕 〔本名〕 〔卒業年度〕
阿川弘之 国文科 阿川弘之 昭和十七年
池田小太郎
昭和二十七年
昭和二十八年
堺屋太一 経済学部 佐野 洋 心理学科 庄司 薫 法学部 丸谷才一 英文科 海渡英祐 法学部 黒井千次 経済学部 新谷 識 文学部 宗左 近 哲学科 飯島耕一 仏文科 などいるが、現在の雲霞の如き作家集団の中においては決して多い数ではない。また阿
川弘之、新谷識意外は凡て専攻外であることも興味深い。
いづれにしても、現在の東大卒もさることながら、明治時代の東京帝大卒には付加價値
的権威があった。
その日本の最高学府東京帝大を卒業した内田百閒のアカデミックな前半生は、やはりエ
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リート中のエリートと呼べるだろう。
ペンネームの由来
けん
」を「間」とせず、「間」の正字「閒」(夜
内田百閒のユニークなところは、百閒の「間
分、戸の隙間から漏れる月の光の義。これがいつしか「日」に変わってしまった)を使用
していることである。彼の「本物志向」の意固地なまでの性格を表わしていると言えるか
もしれない。
そして、かれが初めてペンネーム「百閒」を用いたのは、旧制岡山第六高等学校の校友
会誌に発表した「老猫」からで、当時百閒十九才。以後、よ ほどこれが気にいっ たと見
え、生涯彼はこのペンネームを使用している。複数のペンネームを持つ作家の多い明治・
大正時代の文壇の中にあってこれは稀有なことと言えるかも知れない。
因みに、文壇で最も多くペンネームを保持している作家は森鷗外で、「鷗外」の他「観
潮楼主人」
「ゆめみるひと」
「SSS」など、なんと七十二個。永井荷風は「断腸亭主人」
など居号を入れて六個。夏目漱石は「糸瓜先生」の外 四個。その他、自分の年齢 に合わ
せ 三 十 一 才 か ら 毎 年 ペ ン ネ ー ム を 変 え、 三 十 四 才 は「 死 」 に 通 ず る こ と か ら こ れ を 敬
遠、三十五才でこれを打ち止めとしてた直木三十五。(なぜ三十五で止めたかと言うと、
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
三十六とすると「三十六計逃げるに如ず」とまぜっかえす奴がいるから」とは本人の弁明)
など、文壇には職業柄日本語の語彙にたけていることをこれ幸いと、やたら奇をてらって
(?)ペンネームを変える作家(鷗外などペンネームで遊んでいると言ったほうが正しい。
ひろし
かん
中には税金対策にこれを悪用している作家もいると聞く)の多い中で、菊池寛同様生涯こ
きみふさ
むねしげ
れを変えなかった作家は希少の部類に入ると言えよう。(もっとも菊池寛は本名の寛を寛
きよはる
やすすけ
たけし
と音読しただけで本名と言ってよく、この種の本名音読型は他に安部公房、川上宗薫、松
本清張、五味康祐、開高健など九名いる。
ところで百閒は、生涯このペンネームを変えなかったと言ったが、実はこの外ににもう
せっちん
りゅうせき
一個ペンネームがある。
(岡山中学時代に使用した「雪隠」や「流石」は勿論作家デビュー
おん
前でペンネームとは言えず子供の遊びの部類に入る)それは「百鬼園」である。しかしこ
れは百閒の音をばらして、それぞれに漢字を当てたもので、百閒の類型と看做される。
さて、ペンネーム百閒の由来であるが、これは彼の生まれ故郷である岡山市の郊外にあ
る「旭川」の放水路(岡山の城下で大火が発生した場合、近隣への類焼を防ぐため掘削さ
れた側溝)である「百間川」に因んだもの。百閒は子供の頃、よくこの百間川で遊んでい
たらしい。
かれは百間川についてこう説明している。
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は水が流れてゐない。川底は肥沃な田地であって、両側の土手に仕切られ
百間川えに
んえ ん
くばん
た 儘、 蜿 蜒 何 里 の 間 を、 同 じ 百 間 の 川 幅 で、 児 島 湾 の 入 り 口 の 九 蟠 に 達 し て ゐ る。
(
「阿房列車」
)
借金王 百閒
誰でもそうであるが、学校出たてのサラリーマンの生活は苦しいものである。当時の生
活を彼は「實説艸平記」の中でこう述べている。
大正五年、市ヶ谷の陸軍士官学校に奉職して独逸語の教官になった。当初の俸給は
月額四十円で、いくら諸式の安かった当時でも非常な薄遇であった。
ちなみにこの直後、富山県の漁港魚津町の主婦の間から発生し、全国に波及した「米騒
動」が勃発しているが、当時米は一升が四十銭だった。巡査の初任給と市電の車掌がほぼ
同じ三十円。これに比べ東京帝大を出て四十円はやはり安い。そのため彼は方々から金を
借り、原稿料を貰うようになってからも「今日は錬金術をしに参りました」と言っては出
版社からの原稿料の前借りをしたという。
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
それでいて自尊心は人一倍高く、
お 金 を 持 つ と 言 ふ 事 は、 そ の 人 間 を 卑 小 に し、 排 他 的 た ら し め、 ま た 独 善 的 に す
る。
「無恒債無恒心」
(
「百鬼園随筆」昭和八年)
とか、
百鬼園先生思えらく、恒債なければ恒心なからん。(前出)
とうそぶいている。これは孟子の「無恒産者無恒心」を真似たもので「いつも借金してい
る者でないと、常に変わらぬ道義心はない」とは借金奨励ともとれ、片腹痛い。しかし、
の
自分が汗水たらして儲からず、乃ち他人の汗水たらした金を借金する。その時始め
て、お金の有難味に味到する。
(同前)
は、本心だろう。
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おん
「内田借金」となり興味深い。
また「百閒」はその音が「借金」に通じ、
さて、後年彼は作家として名声を得、原稿料がどしどし入り、プロレタリアからブル
ジョアへの仲間入りを果すのだが、
「初心忘れず」の言葉通り自分に対する自戒なのか、
「成金」仲間を皮肉っているのか、ブルジョア批判的言辞を発している。
金 持 ち が 貧 乏 人 に な る の は い い 趣 向 で す ね。 し か し、 貧 乏 人 が 金 持 ち に な る の は
みっともない(
「四方山話」昭和十四年)
貧乏人が急に金持ちになると、身の処し方がわからず、やたらわがままになり、金にあ
かして散財し、威張り散らすことを戒めているのかも知れない。
美食家 百閒
金のない者に限って、おいしい物を食べたがる。(自戒)
しかし、百閒が美食家だったという説は勿論、大正十一年に刊行された短編小説集「冥
土」が一部の反響を呼び、その後昭和八年に発表され、随筆ブームの先鞭となった「百鬼
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
園随筆」が爆発的売れ行きを示し、流行作家として生活が安定してからのこと。
しかし彼が残した作品を瞥見すると、かれは食に対し虚勢と思えるほど淡白である。
肉 感 の 中 で、 一 番 す が す が し い 快 感 は、 空 腹 感 で あ る。(「 第 二 阿 房 列 車 」 昭 和
二十八年)
これは戦後十年近く経って、人々の生活が豊かになった以降の感慨であり、いつでも食
べようと思えば腹一杯食べられる飽食の境遇にあることからこそ、このような不遜なこと
が言えるので、私など戦時中飢餓地獄を味わった者にはむしろ「肉感の中で一番苦痛で耐
え難いものは空腹感である」となり、百閒のこれは死んでも言えない言葉である。
空襲の当時と違ひ、何でも食べる物はあるから、何も食べなくてもいい。御飯を食
べるのは、惰性にすぎない。
(同前)
食事を惰性とは、なんという思い上った暴言だろう! 今世界は貧困や飢餓など地球規
模で構造的暴力に堕っている。ボスニアの難民など今世界で飢餓地獄にあえいでいる人達
がこれを聞いたら何と言うだろう! そしてわれわれにあの怖ろしい飢餓地獄が、再び
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襲って来ないという保証はないのだが……。
おいしい物しか食べぬは外道也。
しかし、次の言葉は百閒が食事にこだわり、食通、とりわけ美食家であったことを示
す、唯一の証言と言えるかも知れない。
(
「御馳走帖」)
おいしくない物を好むのはなお外道也。
酒豪 百閒
酒豪と呼べるほどの大酒飲みであったかは定かでないが、彼が酒好きであったことは、
彼の作品から充分窺える。中でもこのことを端的に証明しているのは、次の言葉であろう。
ち
昨夜気分が進まず、飲み残した一合の酒を一升壜のまま持ち廻った。これだけはい
くら手がふさがっていても、捨てて行くわけには行かない。(「新方丈記」)
け
酒飲みの意地汚さや吝嗇臭さがよく表われ、一升壜の底に残った飲み残しの一合の酒が
捨てきれず、鞄や土産物などで手がふさがっているのに、それを持ち歩く酒好きな男、百
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
閒の一面が見事に吐露されている。
また、彼はこうも言っている。
楽しみに、又は道楽に酒を飲むなど、飛んでもない不心得である。お酒を飲むと言
ふ事は、そんなどうでもいい話ではない。
(
「青葉しげれる」)
私も晩酌など「たしなむ程度に」酒を飲むが、本当の酒飲みに言わしたらこれは不心得
者で、酒を飲むということは、そんな生半可ないい加減な飲み方ではいけないらしい。
ぐっと腰を据え徹底的に飲み乾さなければ、酒を飲む資格はないということか。
また、酒を呑むということは、酔いが体に廻るまでを楽しむことであるという。
これは一理あり、納得できる。
酔ふのはいい心持だが、酔つてしまった後はつまらない。飲んでゐて次第に酔つて
来る その移り変りが一番大切な味はひである。(「新橋御馳走帖」)
なにか酒場で酒飲みの自己弁護と講釈を聞かされている感じである。しかも、酒はいつ
も飲んでいる銘柄がいいものらしい。
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平 生 の 口 と 味 の 変 は る の が い け な い の だ か ら、 特 に う ま い 酒 は う ま い と 云 う 点 で わ
たしの嗜好に合はなくなる。
(前出)
酒飲みの屁理屈か。うまい酒にケチをつけられたら、もう勝手にしろと言いたくなる。
同じ酒飲みでも、葛西善蔵の方がよほど素直で、しかも風刺が効いていて好感がもてる。
酒はいいものだ。
実においしくて
毒の中では、一番いいものだ。
(
「漫談」
)
しかも百閒に言わせると、酒飲みには二種類あるらしい。
大体酒飲みには、二種類ありますね。
(
「百鬼園座談」)
酔いたい人と、飲みたい人とです。
げ
これもどうも解せない。酔いたいから飲むのではなく、おいしい酒をおいしく味わうこ
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
とによって、結果として酔うのであって、酔いたいた めに飲むのは、上司に怒ら れ、そ
の不満からくだを巻きつつ飲む「ヤケ酒」以外ないと思うのだが、いかがなものだろう
……。
いづれにしても、酒が彼、内田百閒の毎日の生活のストレスを解消させ、また新しい創
作上の発想のヒントを生み、事実、酒場は人生の縮図と呼べ、様々な過去を背負った者同
志が、夜ごと新しいドラマを展開している。また無限な創作意欲を生み出し、その結果、
歴史に残る数々の名作や名随筆を生んだとしたら、彼にとって酒は「たかが酒、されど
酒」である。
鉄道マニア 百閒
彼は、暇ができると用もにないのに汽車に乗り全国どこへでもフラッと旅をするのが好
きだったと見え、名作「阿房列車」を生んでいる。
歩いて行くよりは、汽車に乗った方が便利であるが、実際の場合、汽車さへなけれ
ば大阪へ行く用事なんか起らないであろう。
(「乗物雑誌」)
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つまり、汽車が主で、用事が從ということになる。用事があるから大阪へ行くのでな
く、汽車に乗って大阪へ行きたいため、わざわざ大阪に用事を作るという寸法。彼の鉄道
マニアぶりが顔前に彷彿とする。從って、
交通機関が便利になるほど、どこかへ出掛けなければならない用事が出来る。(「学
生の家」
)
のである。しかも彼の汽車に乗る目的は、各地の名所や旧跡を訪ねるということではな
いようだ。
遺跡とか名所旧跡と云ふものに対して、私は不感であるのみならず、どうかすると
反感をいだく様である。
(
「第三阿房列車」
)
温泉場は、人がゐるから行きたくない。又、どの土地でも宿屋でも、人が来るのを
また、各地の有名温泉を訪れ、湯治するためでもない。むしろ彼は温泉宿場を毛嫌いし
ていたようである。
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
待っている。向ふがそのつもりでゐる所へ、だれが行ってやるものかと思ふ。(「阿房
列車」
)
あまのじゃく
かなりの偏屈、人間嫌い、天邪鬼である。そのペンネーム「百鬼園」の通り、百閒の心
体には本当に百匹の鬼が住んでいるのかも知れない。普通ここまで考える人は少ないよう
に思う。その結果、
人の大勢行く所へ行きそびれて、そのまま何年も経つと、何となく意地になってそ
んな所へだれが行くものかと思ふ。
(
「無絃琴」昭和九年)
ようになるものらしい。昭和九年というと百閒まだ四十六才。この頑固さ、七十、八十才
の老人に匹敵する。するとこれは生来の性格か。
いづれにしても、彼の汽車に乗る目的は、早く目的地に着くためではなく、汽車に乗る
こと自体にあるようだ。
大きな、飛んでもない大きなソナタを、この急行列車が走りながら演奏している。
線路が東京から新潟に跨る巨大な楽器の弦である。(「第二阿房列車」)
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日本の鉄道線路を弦楽器の弦に見立て、その上を緩急に走る汽車の走行を、第三楽章の
奏鳴曲(ソナタ)に模した発想は雄大で、詩的ですらある。よほどの列車マニアでないと
このような発想は浮ばない。
そして、車窓から景色を眺める際、一面に点在する広告塔もさして気にならないと言
う。否、その広告塔があるから逆にその景色に目が向くと言う。前出の意固地さに比べ、
この寛大さはどうしたというのだろう。
沿 線 の 広 告 は、 人 を 怒 ら せ な が ら、 景 色 を 見 さ せ る 仲 立 ち を し て い る 様 で あ る。
(
「つはぶきの花」
)
広告塔があるからこそ、同時にあたりの景色に目が向くのだと言っている。同感。
そして、好きな列車は、清潔な電気機関車でなく、勿論、 あの黒い煙をもうもう と吐
き、鼻の穴は煤で真黒になり、トンネルにでも入ろうものなら「トンネルを抜けるとそこ
は雪国だった」でなく、
「そこはアフリカだった。あたりの客は、いつの間にか黒人と入
れ替わっていた……」という。あの昔懐かしい蒸気機関車の方である。
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
電気機関車は何の風情もないが、蒸気機関車には表情がある。(「第三阿房列車」)
しかも、乗るのは一等車か三等車で、二等車には乗りたくないと言う。
汽車で一番いいのは一等であって、その次にいいのは二等でなく三等である(同前)
「折角用事を作って出かけるのだから、汽車の一等車に乗りたい」(「阿房列車」)気持は
よくわかる。しかし「二等車より三等車がよい」というのがよくわからない。どうやら
乗っている二等車の客の顔つきが気に喰わないらしい。
三等よりは二等が高いから、高いだけのいい所もあるけれど、だれも乗ってゐなけ
ればいいが、ぐるりとゐる二等客と云ふものがよくない。大体その顔つきが気に食わ
ない。
(同前)
一等には、それなりの品格と財のある者が乗っているが、二等には成り金の商人でも
乗 っ て い て、 そ の 傍 若 無 人 の 威 張 っ た 態 度 で も 気 に 喰 わ な い の か、 い ま な ら さ し づ め
別 として問題になりそうだ。
デスクリミネーション
差
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いづれにしても、内田百閒がいかに列車好きだったか、「乗物雑記」(昭和十三年)の
外「特別阿房列車」
(同二十六年)
「阿房列車」
(昭和二 十七年刊)、「第二阿房列車 」(同
二十八年刊)
、
「第三阿房列車」
(同三十一年刊)と連続四部も刊行していることでわかる
が、出版社としても売れ行きがよいので連作刊行したものであろう。また、古くから「文
は人なり」というが、この名作「阿房列車」を瞥見しただけで、いかに百閒が俗物嫌い
で、逆に権威嫌いで天衣無縫な天邪鬼であったかがわかる。また列車は、彼にとって彼の
知的好奇心をくすぐる最大の媒体だったと言えるかもしれない。
なお、岡山市では、彼の生誕百年を記念し「百鬼園祭」を企画、平成元年(一九八九)
五月二十七日の夜、東京駅より岡山市に向け、彼の随筆の題名と同じ「特別阿房列車」を
発車させている。
パラドックス王 百閒
はす
は 誰 で も、 年 齢 を 重 ね る ご と に 意 固 地 に な り、 天 邪 鬼 に な り が ち で、 殊 に
エイ人
ジ・ディスクリミネーション
( 年 齢 差 別 を 承 知 で 言 わ し て も ら う と ) 老 人 に は こ の 傾 向 が 著 し い が、 百 閒 の 場 合
三十才台から、否、十二、三才の中学生時代から奇を衒い人生を斜に眺める傾向が見られ
る。例えば彼のペンネームである。
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
「おい栄造君(栄造は百閒の本名)君のペンネーム、『流石』と書いて『さすが』と読む
んぢゃねェーのか」
「いいんだよ『りゅうせき』で……」
と言った按配である。
そして年を重ねるごとにこの傾向は著しくなるが傑作は昭和四十年、百閒七十五才の時
に発表された「馬は丸顔」であろう。言うまでもなく馬の顔は昔から「長顔」と決ってお
り、それを敢えて「丸顔」と言うところに、彼の偏屈ぶりと、人の意表を衝こうとする天
邪鬼ぶりが窺える。また昔から「金貸し」は悪辣で、金に困っている人に高利で金を貸
し、取立の際は血も涙もなく強引に取立て、悪役の代名詞のように言われているが、これ
を、
金貸しが悪辣であるのは当り前の話で、あいつは悪い奴であって人格が下劣だから
金を借りてやらないと考えても始まらない。
(「鬼苑漫筆」昭和三十一年)
と、昔貧乏していた頃、世話になった恩義からか、これを弁護し、また高利貸に金を借り
るのは昔から貧乏人と相場が決っているのに敢えて、
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ち
高利貸に金を借りるのは、金廻りのいい者に限っている。(「百鬼園浮世談義」)
と言ってみたり、そして借りる当人も、
た
質のいい方
道 楽 の 挙 げ 句 だ と か、 好 き な 女 に 入 れ 揚 げ た 穴 埋 め な ど と 云 ふ の は性
で、地道な生活の結果、脚が出て家賃が滞り、米屋へ払えないと云ふのが最もいけな
い。
(
「阿房列車」
)
などと、世間の常識で「悪い奴」
「 気 の 毒 な 人 」 を ま る で 逆 に 言 う。 將 し く 彼 は 逆 説 を 愉
しんでいる感がある。
しかし、考えてみると、彼の言うことには一理ある。百閒に言わせると、なぜ前者より
後者が悪いかと言うと、
「返す当てがないから」だそうである。
地道に暮す生活ぶりは正しく、昔の修身の教科書にでも載りそうで、それ自体真摯な生
き方には違いないが、その「カスカス」の生き方をして尚「足が出て」高利貸から金を借
りざるを得ないということは、その生活設計自体に根本的欠陥があり、彼の指摘する通
り「最もいけない」のかも知れない。これに反し道楽や女遊びで金を借りるのは、生活自
体余裕があるから道楽や女遊びが出来るのであり、從ってその道楽や女遊びさえやめれば
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岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
た
ち
ほう
生計は充分成り立つわけで、彼の言う通り「性質のいい方」おいうことになるかも知れな
い。道義性は別として、合理的考え方である。
また「高利貸に金を借りるのは、金廻りのいい者に限っている」も、その意味で正し
い。なぜなら絶対に金を返せる当のない人には、高利貸と言えども金は貸さないし、返せ
ない場合を想定して相応、又はその價値を上廻る担保を取っているからである。昔だった
ら若い娘の体、正しくは将来娘が接客業などで稼ぎ出すであろうその労働力が対價として
担保となる。從って「金廻りのいい者」を「金の返せる当のある者」と読み替えたらよい。
いづれにしても、人の表意を衝く言辞を用いながら、その実「真実」を語る論法は、さ
すが帝大独逸語科出のエリートで「ゲルマン合理主義の権化」と言ったら褒め過ぎか。
アテンション
この、始め「なに? なにーッ!」
「そんなバカな……」と思わせ読者の注意を引き寄
パラドックス
レトリック
せ、よくよく後を読むと「なーるほど」と頷かせる逆説や巧みな修辞(悪く言うと「詭弁」
ともとれる言いまわし)は、百閒の最も得意とするところで、彼の作品の随所に見られる。
一体風流と云ふ事は、不自由から始まる。
(「戻り道」昭和十九年)
古来「風流」とは、人の生活の余裕から生まれるというのが常識とされて来た。なぜな
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ら「風流」とは、世俗を離れて趣味の道をたしなむことであるからだ。つまり「旦那」
「ご
隠居さん」の領域である。日々の生活をカスカスに生きている人間に、生計に直接何の足
しにもならない風流など生まれる隙間はない。風流と言うと想い出すのが、次の図である。
「武士は食わねど、高楊枝」
生きら
バカ言っちゃいけない。あれは単に虚勢を張っているだけである。人が食わずに
だんびら
れるものか! さもなくば、先刻町人の家に押入り「オイ、メシを出せッ!」と刀をちら
つかせて威圧し、タラ腹喰った後、奥歯にはさまった残滓を楊枝でくじり出しながら見栄
をきっている姿だ。それを「高潔な武士の姿」として鼓舞するところに昔の教育の誤謬が
ある。
また、百閒はこうも言っている。
何事によらず、明日にのばせる事は、明日にのばした方がよい。(「阿房列車」)
これも全く逆である。われわれは、
明日ありと思う心の仇桜
夜半に嵐の吹かぬものかわ
30
岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
と教わり、明日やる事柄でも今日できることだったら今日済ませなさいと教わったもので
ある。明日の花見の予定が、今日夜中に急に嵐になり、 花が全部散り、折角の花見 がオ
ジャンになっても、それはそれで諦めろと言うことか。「人生無理をするな」ということ
であったら、これまた真理であるが……。
そして、次の言葉は、將しく百閒流パラドックスの極と言えそうだ。
社会に出て役に立たぬ事を、学校で講義するところに、教育の意味がある。(「学生
の家」昭和十三年)
これは、次の石川啄木の「林中書」の一節と軌を一にする。
日本の教育は、教育のミイラである。
転載を殺す断頭台である。
我等の人生と無関係な、閑天地である。
ただ啄木の場合、旧制盛岡中学をカンニングで中退(自主退学)させられ、村人からは
31
「ちびで嘘つきで見栄っ張り」とさげすまされていたのに、当人は自分を天才だと信じ込
んでいたところに、この言葉の「臭さ」と悲劇がある。
片や中学中退、一方は帝大卒。いづれも教育現場にたずさわっていた者同志(啄木の場
合、小学校の代用教員だが)今自分が教えていることが、実際には社会に出てもちっとも
役に立たないと言っているところが興味深い。特に啄木の場合「教育の形骸化」を訴え
「没個性教育の非」を嘆き、
「教育現場と実社会との隔絶の矛盾」を訴えているが、因みに
啄木の「林中書」が発表されたのが明治四十年、約百年も前に既に啄木によって教育の根
幹に関する非が指摘されていることは、驚嘆に値する。
私事ながら私自身、三十年に亙る自己の教職の体験から、この啄木の指摘を今なお痛切
に感じている。
「社会に出て役に立たないことを学校で教えるところに教育の意味があ
さ て 私 は、
る 」 と い う 百 閒 の 言 葉 を、
「 百 閒 流 逆 説 」 と 言 っ た が、 考 え て み る と 過 去 わ れ わ れ が 学
校で学んだことたどれだけ実世界で役に立っているであろうか。大学卒、大学院卒は、
学校で学んだ知識が会社の入社試験の問題回答の一助となっていることは否定しない
ま で も、 入 社 後 あ る い は 実 生 活 に お い て ど れ だ け 実 際 に 役 に 立 っ て い る だ ろ う か。( 強
JEOPARDY
WHEEL OF FORTUNE
い て 言 え ば、 当 地 の テ レ ビ の ク イ ズ 番 組「 危 機 や「 幸 運 の 輪 」 又 は 今 最 も 人 気 の 高 い
WHO
WANTS
TO
BO
A
MILLIONAIRE
「誰が百万長者になりたいか」に出場し、学校で習った知識を駆使し百万長者になれるメ
32
岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
リットもあるが、これとて最近の国際情勢や政治問題などが出題された場合、昔の知識は
あまり役に立たない)やはり百閒の言う通りかも知れない。ただ教育の凡ての意味を否定
し、極論するところに百閒流パラドックスの妙味(?)がある。
エロと百閒
百閒は、パラドックスを巧みに用いる皮肉屋の反面、ユーモア感覚にあふれた作家だっ
た。彼はエロチシズムについて、こう述べている。
エロといふものは、隠すことだ。
出してしまっちゃ色気ない。めくるんだね。(「百鬼園座談」昭和五十五年)
これは至言である。また同時期、同郷岡山の後輩作家である吉行淳之介も、「女の歳時
記」で同じようなことを言っているのは興味深い。
光の中の裸体というものは、エロチシズムがあると言えても、色気があるとは言え
ないだろう。色気は隠すところから現れる。
33
これは恐らく吉行がストリップショウを観た際の感興であろう。ここで注目されるのは
E R O T I C I S M
SEX APPEAL
吉行がエロチシズムと色気を完全に区分していることである。一般に前者は「性的興奮」
と和訳され、後者は「セックス・アピール」と英訳されている。この違いは微妙なところ
だが、我説で敢えてこの違いを述べると、前者はズバリそのもので、直接男性自身をエレ
クトされるもの。後者はその一歩手前で、言うに言えぬホンノリとした性的刺戟を伝える
ものということになりそうだ。
ところで吉行の「女の歳時記」が発表された昭和五十四年と言えば、ストリップ全盛時
代で、どちらかというと日々露骨になり検挙が相次いだ時期に当る。吉行は、狭い埃の立
ち混める超満員の劇場の中で、スポットライトに照り出され浮び上るストリッパーの裸体
には、エロチシズムは感ずるが、色気は感じな い と 言 っ て い る。 吉 行 は「 全 ス ト・ シ ョ
ウ」でも観ているのだろうか。百閒が言う通り「出してしまっちゃ色気はない」男性をし
て、その女の裾をめくってみたくする「チラリズム」こそ、女性の色気の本源と言ってい
るようである。
(もし私に蛇足が許されるとしたら、これに加えて「女の恥じらい」がな
いと色気は感じないと思うのだが、いかがなものだろう)
いづれにしても、百閒も吉行も「
『エロ』や『色気』は隠すところから生まれる」といっ
ているが、蓋し「至言」と言えよう。
34
岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
とまれ、戦後の特長に「性の解放」がある。当時「ストリップ・ショウ」は一世を風靡
し浅草はまさにそのメッカだった。その頃はまだ「トップ・レス」だけだったが、青春の
真只中にあった私にとって光の中で乱舞する若い娘達の裸体は「まぶしく美しく」私を直
ちに桃源郷へと誘い込んだ。それは単に、エロスの鑑賞というより、躍動する女性の「性
の解放」であり、戦前、戦中逼塞していた女性を、世に解き放った「女性解放」であり、
「人間謳歌」だった。
テレビ作家の早坂暁氏の外、元文化庁長官で作家でもある三浦朱門氏ですら、東大の学
生服のまま(彼は昭和二十三年に東大文学部を卒業している。当時は終戦直後で新宿帝都
座に片山マリ、ジプシー・ローズなどの「額縁ショウ」(巨大な名画の額縁の前に半裸体
の女性が静止ポーズをとり、それを眺めるというショウ。昭和二十二年一月十五日初演、
作家丸木砂土こと秦豊吉帝劇社長の発案によるといわれる)が出現し話題となったスト
リップショウの創生期に当る)浅草ロックを徘徊し、映画やストリップショウを鑑賞して
いたらしい。
私も、大学の授業が教授の都合で休講となると、新宿や池袋、渋谷の映画館街を徘徊
し、興が向くとストリップのメッカ、上野や浅草まで遠征し、軽演劇やストリップを鑑賞
したものである。
そして休憩の際の客の入れ換え時など、一席でも前の、できれば「カブリツキ」(最前
35
列席)に席を取ろうと、必死になって、人の頭を飛び越えて突進し、ストリッパーの裸体
を最近かで鑑賞した(正しくは彼女らの股間を見上げた)ものである。
当時彼女らの股間には、
「スパンコール」と呼ばれるキラキラ輝く逆三角の布片が貼り
ついていたが、彼女らが空中に張ったロープを渡る際など、股間とスパンコールの間から
さが
観音様が拝めないものかと目をこらしたものである。嗚呼……。
「げに、男の性、哀れと言うも愚かなり」
今ではもう「全スト」が普通らしいが、百閒ぢゃないが「出してしまっちゃおしまい
よ」
。深く切れ上がったドレスのスキットからチラッとのぞく白く豊満な脚線美に胸をと
きめかす方が遥かにスリルがあり、真の女性の色気やエロチシズムを感ずる。
吉行は、後年あるストリッパーに熱を入れ上げ、同棲し(?)、彼女は確か彼の作品に
も登場したと思うが、ロック座や浅草座の楽屋に足繁く通いストリッパーの踊り子達と懇
意になっていた晩年の永井荷風といい、どうやら作家とストリッパーは因縁が深いようで
ある。
漱石と百閒
百閒は、早くから文豪夏目漱石に私淑しており、旧制六高から東京帝大独文科に合格し
36
岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
上京した際、漱石の門を叩き、遂に念願の漱石門下生となる。
門下生としては、異色の存在だったようである。というのも、師漱石の出版原稿の校正
をするのが主な仕事で、時にはその口述筆記も受持っていたようである。
師の出版本の校正や口述筆記というのは、なかなか骨の折れる仕事である。私自身、大
学卒業後母校の教授の家に住み込んで、教授の出版原稿の校正や著作の口述筆記、それに
大学院生に対する講義録や、裁判所へ提出する控訴趣意書や上告趣意書を大病後の教授に
代り執筆したものである。
また教授が健康の頃は、教授が喋る内容を必死になってメモ用紙に書き写し、それを原
稿用紙に聖書して教授に差し出すのだが、たいがい真赤になるほど直され、またそれを清
書して差し出すと、又直されるという次第で苦労したものである。それは私の文章力の問
ゲ
ラ
題と言うより、教授自身で喋ったことが、原稿用紙に清書され、改めて読み直してみると
文章の不備やアラが目につくという次第で、出版社から戻された校正刷の校正も全く同じ
で連日際限なく、深夜までつづけられた。從って、文章のコツや、師特有の表現のアヤは
自然と修得するが、よほど根気がよくないと続かないものである。
相手は重度の胃潰瘍で、センシティブとなっており、ただでさえ口やかましい大文豪夏
目漱石である。自分の体験に照らし、ご苦労のほどがしのばれる。
ところが、さすが百閒、ちゃんとモトをとっている(?)のである。
37
百閒が漱石の門に入り、師の仕事を手伝っていた時期は、明治四十三年前後、漱石が
「門」を発表した頃で、また彼が胃潰瘍に苦しみ、修善寺温泉で大吐血を起し、生死の境
をさまよっていた時期でもある。
当時百閒は、大学を卒業した後、陸軍士官学校や法政大学の教授をして教壇に立つ傍ら
「第一次漱石全集」の編集や校正に携わっていたが、同時に漱石がその二年前に発表した
「夢十夜」を私かに真似た、夢に関する短編小説を書きつづけ、それをまとめて大正十一
年二月、短編小説集「冥土」として刊行しているからである。
「昭和」と改元された後も「旅順入城式」
「山高帽子」など幻想的短編を書いているが、
百 閒 が 作 家 と し て 名 声 を 得 た の は、 昭 和 八 年 に な っ て か ら で、「 百 鬼 園 随 筆 」 の 刊 行 に
よって、その軽妙洒脱な語り口による随筆が、読者の爆発的人気を呼んでからである。
人生何が幸いするかわからない。百閒の生来の天分は充分認めるとしても、彼が作家と
して認められるようになったのは、元はと言えば、漱石の門下生として師の原稿の筆写校
正をする傍ら、師の文章のコツを私かに学んでいたからに外ならない。
また、百閒は随筆家としてより、幻想の世界を通じて人間の本質に迫ろうとする「冥
土」を代表とする短編小説こそ彼の本領であり、百閒文学の中核をなすものであるとする
見方もある。
(私個人は、随筆文学こそ百閒文学の中枢であると考えるが……)
いづれにしても「師、漱石あっての百閒」と言うべきであろう。
38
岡山が生んだ鬼才『内田百閒』
パロディー
作 吾輩は猫であ
なお、百閒には、恩師漱石の名作「吾輩は猫である」をもじった「贋 る」がある。
百閒の、師漱石の作品に対する斜傾ぶりが窺えようというものである。
むすび
晩年の百閒の顔を写真で眺めると、短く刈り上げた白髪、一見厳格そうなその風貌は、
黒ぶち眼鏡からのぞく人を刺すような眼光によるものか。しかし、ちょっとゆがめた口許
は、同時に「いたづらっぽさ」と「皮肉屋さん」をごっちゃまぜしたような風貌をしてお
り、好々爺の面影すら漂わしている。その顔には、過日の秀才の面影は、もう既にはない。
その顔は、文豪と言うより、やはり「鬼才」と呼ぶにふさわしい。
この数々の名作を生んだ鬼才百閒にも、遂に終焉の日は訪れた。
昭和四十六年四月二十日
内田百閒こと内田栄造
老衰により逝去。享年八十一才。
39
「詭弁はよし給え。つまらんパラドックスは自分で自分を不幸にするようなものだ」
(明治四十三年刊)の中の一節である。
これは、永井荷風の「ふらんす物語」
私は、内田百閒の数々の随筆集の中にちりばめられた言辞は、パラドックスではあって
も、決して詭弁とは思わない。その言辞には一見人の意表を衝こうとする意図は窺える
が、決して詭弁ではない。よくよく読むと真実を述べていることがわかる。
これこそ、鬼才百閒の鬼才たる所以である。
軽妙洒脱で、辛辣な社会風刺と、巧妙な逆説をちりばめた随筆の数々。骨格正しい日本
語によって無意味な幻想的世界を織りなす短編小説の数々……。
その作家内田百閒。彼こそは、風光明媚な岡山の風土が生んだ鬼才と呼んでよかろう。
その文名は、数々の名作や名言と共に、大正・昭和文壇史に燦然と輝き、その光芒は永
遠に失われることはあるまい。
40
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
「天分は感受性の池に咲く花」
(1)
―作家の生涯と代表作―
『才能』って一体何だろう」と考えることがある。
私は、最近「
それはきまって、書き物の構想に行き詰り、独り閑居、呻吟している時だ。
そんな時、慰めになるのは菊池寛が、里見弴との論争「芸術と天分」で述べた次の言葉
である。
「富士山の上には、平凡人でも登れる。普通の人には登れないからといって丸太棒
が高いというわけではない。普通の人に登れるからといって富士山が低いというもの
でもない」
つまり、
「芸術の仕事は、その天分に関係なく誰でもできる。しかし、それが誰にでもでき
るからと言って、決してその芸術が安易だというものでもない」
ここに言う「芸術」を「文学」に置き換えたいところだが少々口巾ったいので謙虚に
と言っていると解される。
41
「雑文書き」に言い換えると、今まであれほど苦しんでいたのがまるで嘘のように気持が
「スーッ」とし、何でも書けそうな気がしてくるから不思議だ。
そして、この「天分」とか「才能」とか「素質」と呼ばれているものは、平常は「学問」
とか「教養」とかに押し潰されているものらしい。これは広津和郎の説だが、吉行淳之介
も同じような意味のことを言っているからどうやら、これは真実と解してよかろう。
「人間の才能というものは、その人自身も知らないで眠っている場合がある。眠っ
たまま一生を終る場合もあり、偶然のキッカケでそれが自覚され、みごとに開花する
こともある」
(
「硯」
)
この場合、菊池の言う「天分」も、広津の言う「素質」も、私や吉行の言う「才能」も
「持って生まれた能力」という意味において同一と考えることができる。従って「持って
生まれた」つまり、
「先天性」というニュアンスを生かす意味で、以下「天分」という言
葉を使うことにしよう。
ところが……いや、全く悲しいことに、この「見事に開花するであろう天分」というも
のは、どうやら二十才台後半から、三十才台前半に開 花するものらしい。なぜ なら、古
来、世の中には星屑と紛うが如く作家は輩出しおれど、その代表作と言われる作品、つま
42
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
り「天分が開花した時期」を調べてみると、その殆どは作者の創作活動初期に限られてい
るからである。
後はその花をいかに持続させるか、腐心しているに過ぎない。
勿論、中には異質の花を咲かせたり、その花を大輪に育て上げる人もいるが、多くは異
口同音、
「 初 花 」 の 感 動 を 凌 駕 し 得 る 作 品 に 逢 遇 す る こ と は 極 め て 稀 れ で あ る。 そ し て こ
れは当然のことながら、その「初花」が大輪であればあるほど、このことは言える。それ
は恰も、
「初夜」の感動に比肩されよう。以後、いかなる技巧を用いようと「初夜」に勝
る感銘を得ることは至難の技と言うものだ。
さて、私は先日、日経コミニティーで上演する劇の脚本の製作を依頼されたが、その
際、ここアメリカにも、菊池寛の「父帰る」が居る筈との発想から同書の翻訳劇「アメリ
カの父帰る」を書いた。
六十枚ほどの小品で、三幕ものだが、執筆に先立ち、改めて原書を読み返し驚かされ
た。細部については、長男の心の葛藤、特に父に対する敵意が次第に柔らいでいくあたり
に若干、生硬さや、唐突さが感ぜられるものの、全体として、菊池寛のドラマツルギー、
つまり劇としての構成のうまさ、無駄のない台詞、計算し尽くされた劇的葛藤、古さを感
じさせないテーマなど、改めて目を見張る思いだった。いや、もっと驚かされたのは、こ
43
れが大正六年、つまり菊池の二十九才の時の作品だということである。やはり「天才は早
熟」ということだろう。
次の瞬間、あの短躯、肥満体、鼻ヒゲ、金ぶちメガネなど、愛すべきブ男の全景が私の
眼前を横(ヨ)切ると共に彼の非凡な才能に改めて感服した次第である。
「天分の開花」の時期というものが、作者自身の「ライジング・ジェネレーショ
そして、
ン」にあるのだという確信を深めた次第。
やはり「天分とは、みずみずしい感受性のハス池に咲く純白な大輪の花」なのだろうか
……。
では、以下「作家の生涯と、その代表作」との関係について考察してみよう。
まず、古いところで、言文一致を実践した近代文学の先駆者「二葉亭四迷」から参ろう。
二葉亭四迷こと、長谷川辰之助は、元治元年三月十日、江戸市ヶ谷にあった尾張藩上屋
敷で生まれている。
二葉亭四迷という一風変わった講釈師か落語家と間違いそうな名前は、父親から「お前
みてェーな奴は、くたばってしめェー!」と言われたのでそれをもじってつけたと巷間で
は言い伝えられているが、これは話としては面白いが、多分、後世の人がもっともらしく
デッチ上げたものだろう。
44
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
むしろ私は、四迷が「式亭三馬」に斜傾していたことから彼の名にあやかったものと考
える。なぜなら、彼には「あやかり癖」があったと思われ、かの有名な「浮雲」を発表し
た際のペンネーム「坪内雄蔵」は、七才先輩で師でもある坪内逍遥の本名である。もっと
もこれには理由がある。全く新人では本が売れないであろうという出版社の配慮から当時
既に有名であった逍遥の名前を用いたものであろう。逍遥自身の序文から内容が二葉亭四
迷の作品であることは間違いない。
四迷は、明治十四年、十七才の時、東京外国語学校、ロシヤ語科に入学しているが、五
年後、合併した東京商業学校を中退している。その頃逍遥と知り合い、逍遥の援助で「小
説総論」を、続いて名作「浮雲」を発表するのである。時に四迷、二十三才。四迷はロシ
ヤ語を専攻したことも手伝って、ツルゲネーフの「猟人日記」を「あひびき」と改題し
「国民の友」に発表したり「めぐりあひ」を「都の花」に発表したりしているが、正宗白
鳥を感嘆せしめた言文一致の翻訳が、名作「浮雲」に深く影を落としていることは間違い
ない。四迷の告白によると「浮雲」第一編(二十年)では式亭三馬、饗庭皇村ほか、第二
編(二十一年、逍遥共著)及び第三編(二十二年、二葉亭四迷の名を初めて用いる)では
ドストェフスキーの文体や筆致をまねたとのこと。
いずれにしても四迷は後年「余が言文一致の由来(三十九年)や「其面影」(同年)な
どを発表しているが、彼の「天分」が「浮雲」という作品によって、二十三才の時に開花
45
したことをわれわれは看過してはなるまい。
四迷は、明治四十一年、四十四才の時、朝日新聞のロシヤ部特派員としてペテルスブ
ルクへ赴くが、ロンドン経由で帰国の途上、肺結核に肺炎を併発して、ベンガル湾上で
四十五才の生涯の幕を閉じている。
(2)
「わが心は、かの合歓(ネム)の木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす」
異常なまでに昂揚した感受性……。否、むしろ、それは臆病と呼ぷにふさわしい。その
病的な他人の言動や刺戟に対する怖れ、戦(オノノ)き ……。官史としてドイツヘ 留学
し、舞姫エリスとの恋愛を通じ、近代的自我の目覚めと挫折とを体験する主人公、太田豊
太郎の言葉である。
そう、二葉亭四迷の「浮雪」が出ると、どうしても近代文学の夜明けを告げる名作、森
鷗外の「舞姫」を出さないわけにはいかない。
46
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
森鷗外
本名、森林太郎。文久二年二月十七日、島根県鹿足郡津和野藩の藩医の長男として生ま
れる。
明治十四年(十九才)東京医学校(現、東大医学部)を卒業。(因みに、同医学校予科
に入学する時、年をごまかしているため、卒業時同級より二才若い。ここらに既に彼の秀
才の片鱗がうかがえる)
。二十二才の時、陸軍省よリドイツヘ官費留学を命ぜられる。彼
地の衛生制度や、軍隊衛生学研究のためであるが、ベルリンのコッホ衛生試験場などで、
約四年間の研究生活を送っている。
帰国後、医者である父のすすめもあって陸軍に入り、明治二十六年三十一才で軍医学校
校長となる。同三十二年、第十二師団軍医部長となるが、任地が九州小倉であるところか
ら、いわゆる左遷時代と呼ばれている。同三十五年、東京に呼び戻され第一師団軍医部長
となる。四十年、四十五才の若さで陸軍軍医総監・医務局長就任。軍医として最高の地位
に登りつめ、大正六年、五十五才の時、最終官職である宮内省帝室博物館総長、兼図書頭
に就任している。
わが最も傾倒する作家の一人「明治時代きっての知性派、啓蒙家、鷗外の経歴を語る時
三人分の人生を語らねばならない。言うまでもなく、医者として、また軍人としての林太
郎の生涯。文豪としての鷗外の生涯である。つまり人の三人分の人生を一人で生きたこと
47
になる。しかも、それぞれその道の頂点を極めたのだから彼を天才と言わず誰を言おう
……。世の多くが禄な経歴も残さず徒労のまま土に埋もれるこの人の世においておや!
……。
さて、作家、鷗外の経歴も又きらびやかで、その作品を選列するだけで紙巾が尽きてし
まうが、ここで彼の天分をいかんなく発揮した代表作を独断と偏見で列挙すると……
訳詩集「於母影」
「志がらみ草紙」
(二十七才)
。「舞姫」
「うたかたの記」
(二十八才)。「即
興詩人」
(三十才)
。
「ヰタ・セクスアリス」
(四十七才)。「青年」
(四十八才)。「雁」
(四十九
才)
。そして五十才台にさしかかると多くの作家にみられるように歴史小説を手がけ、「興
津弥五右衛門の遺書」
「阿部一族」
(五十一才)。
「山椒太夫」(五十三才)。そしてかの有名
な「高瀬舟」
(五十四才)となるのである。
そして多くの人が、鷗外の代表作はと言うと「高瀬舟」を挙げると思うが、(実際医者
として日々死に頻してうめき苦しんでいる重病患者をその日で見た苦脳を作品に写したと
いう意味で、また「安楽死」の是非を問う問題作としてその作品を推すことにやぷさかで
ないが)私は、ドイツ留学からの帰国直後、清新なヨーロツパの空気を胸一杯に吸い込
み、その感性のおもむくまま書き下した二十八才の時の作品「舞姫」を推したい。つまり
鷗外の「感性の池に咲いた花」は二十八才の時ということになる。
鷗外は、関東大震災の前半、つまり大正十一年七月九日、六十才を一期としてこの世に
48
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
終りを告げている。
細いが一重瞼の人を射る知的な眼光。無精とも見える独特な鼻髭。贅肉のない精悍な体
蠣…。どんな作品を残すか、後十年は生かしたかった作家である。
鷗外の同年代の作家に、夏目漱石がいる。と言っても年は鷗外より五つ若いが、鷗外の
創作に刺戟を与えたいわばライパルである。と言うのは鷗外がいわゆる「小倉落ち」から
帰京後、短歌を始め新詩社系の歌人と親交を持ち、一時創作活動から遠ざかった時期があ
るが(つまり、明治三十五年「志がらみ草紙」の後身「めざまし草」終刊から同四十二年
「昂」
(スバル)創刊までの間)鷗外をして再び「ヰタ・セクスアリス」などの創作に駆
りたてたのは、漱石の文筆活動に刺戟されたためだと言われている。「ヰタ・セクスアリ
ス」が発表されたのが明治四十二年だから、その直前の漱石の作品と言うと、彼が朝日新
聞に入社前後の作品、つまり「坊ちゃん」
「草枕」「二百十日」(三十九年)。「野分」「虞美
人草」
(四十年)
。
「夢十夜」
「三四郎」
(四十一年)ということになる。つまり漱石が最も
油の乗りきった時期に当り、これでは鷗外ならずともライパル意識から(?)創作意欲を
駆り立てられたとしても不思議はない。
夏目漱石
漱石こと、夏目金之助は、慶応三年二月九日、当時江戸と呼んでいた東京は牛込馬場下
49
横町の町方の名主の家に生まれている。その後、内藤新宿門前名主、塩原家に養子に出さ
れるが二十一才で復籍している。
(余談ながら、漱石の経歴を調べる際、便利なことが一
つある。それは作品の発表年度がわかれば彼の何才の時の作品であるか判るということ
だ。例えば、明治三十八年に発表された「吾輩は猫である」は彼の三十八才の時の作品と
いうことになる)
漱石は明治二十三年に東京帝国大学、文科大学、英文科に入学、大学に籍を置いたま
ま、東京専門学校(現、早稲田大学)の講師を勤めている。そして二十八年に東京高等師
範学校から松山中学へ、その後第五高等学校(熊本)の教授となる。そして中根鏡子と結
婚。三十三年から二年間、留学のためイギリスヘ渡っている。
これも余談ながら、先日、日本語テレビ番組「なるほどザ・ ワールド」を観てい たら
シャロック・ホームズの家なるものが紹介されていたが(勿論これは架空の小説上の住
所)その際、この近くに夏目漱石のイギリス留学時代の下宿屋があったと言っていたが、
一口に漱石のロンドンの下宿屋と言っても熊本時代同様その引越し癖は直らず、到着して
二ケ月間に三回引越し、最後はフロッデン・ロードの三階建ビルの最上階に移り住み四ヶ
月暮らしているが、どの建物を指したものだろうか…。
さて、だいぶ本稿の主題から横道にそれてしまったが、果して漱石の「天分」は、いつ
頃開花したのであろう……。前稿で、著名作家の「天分の開花は、感受性の豊かな二十才
50
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
台後半から三十台前半」と述べたが、どうやら漱石に限ってこれは例外のようだ。
と言うのも彼が「掉尾(チョウビ)を飾る」晩年型作家だったからである。つまり、「吾
輩は猫である」や、
「倫敦塔(ロンドントウ)
」を発表したのが既に三十八才。「坊ちゃん」
や「草枕」が三十九才。
「虞美人草」が四十才。「三四郎」が四十一才。「門」が四十三才。
「彼岸過迄」と「行人」が四十五才。新聞小説「明暗」に至っては、死の年の四十九才。
しかも、十二月九日の作者の逝去により未完となっている。
「あるほどの菊投げ入れよ、棺の中」
花なら遅咲きの花、漱石。たった二年間の英国生活が、生涯の凡てを決めてしまった英
国趣味の伊達男、漱石。書画をよくした八字髭の文化人漱石。凡人なら垂涎のまととなる
文学博士号の授与を個人の自由からこれを拒否した意固地な自由人、漱石……。
彼はいま、好きだった菊の花に抱かれ、東京は雑司ケ谷の墓地に寂として眠っている
……。
(3)
51
「会社員の津田には、れっきとした妻、延(ノブ)子がいる。しかし彼は心の底では昔別
れた婚約者、清子のことが忘れられず日々悶々とした生活を送っている。ところが、ある
日入院した津田は温泉療法を装って清子に会いに行こうとする。そこは女の六感! うす
うす感づいているが黙って津田を送り出す延子。遂に津田は湯河原で念願の清子との再会
を遂げる……」
果して、清子に会った津田は延子との間を清算し、清子との新しい生活に入るのだろ
か。はたまた清子とは一時の逢瀬で再び延子のもとに帰って行くのだろうか。この三角関
係の行くえやいかに……。
ところが物語が佳境に入った百八十八回をもって続きが現れないのである。それもその
筈。作者が逝去したのだ。
大正五年に朝日新聞に発表された新聞小説「明暗」は、作者夏目漱石の死去により未完
に終ってしまった。誰しも気になる古くて新しいテーマ「トライアングル・ラブ」の行く
え……。
ところが七十五年後にこの続きが現れたのである。表紙も、装丁も、活字も、仮名使い
も、文体も、そっくりそのまま、漱石の本文との継ぎ目がわからないという「ソックリさ
ん」
。出版したのは筑摩書房。題名もズバリ「続 明暗」。そのつなぎ目はざっとこんな工
52
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
合だ。
百八十九
座敷は何時の間にか片附いてゐた。朝、絵葉書を書く時に小机の前で使った座蒲団
が庭を正前に、座敷の真中に火鉢と共に整然と据ゑられてゐる。
まさか漱石が雑司ケ谷の墓地から這い出して書くわけはない。作者は、本村美苗女史。
日本の商社のアメリカ支店に勤務する父親に連れられ、十二才の時渡米。十五年間ここア
メリカで過したという、いわゆる「帰国子女」。子供の頃はアメリカ社会にはなじまず母
親の蔵書、
「日本文学全集」を持出し日夜読みふけったという文学少女。高校卒業後、イ
エール大学の仏文科に入学。さらに大学院に進んで博士課程を終了。昭和六十二年からプ
リンストン大学で日本文学を講義しているというのだからハンパじゃない。筆者が感心す
るのは、この「明暗」の結末につき過去、幾多の文学者があれこれ推測しているに拘らず
実際にこの続きを書いた作家がいないのに目をつけ、「なぜ誰も書かないのだろう」と不
審に思い「よし、それなら私が書く」と実行に移した着眼点と大胆な行動力である。勿
論、誰も書かなかったのには理由がある。原作の味、文学的価値を毀損してはならないと
いう日本人的配慮だ。しかしそんなことにこだわらないところに案外アメリカで育ったと
53
いう帰国子女の本分、
「ドライ」さがあるのかも知れない。このことは「無名の新人が作
家として普通の小説を書いても忘れられちゃうでしょう。でもこれなら、漱石の名前に
くっついて長く生き残れるんじゃないかと考えて……」という彼女自身の言葉によって充
分に裏づけられているように思える。蓋し「卓見」である。勿論、未完の名作を完結させ
たという点では、井上ひさし氏の前例もあり、彼女を嚆矢としないが、文学作品としての
価値は別として「ソックリさん」という点では誰しも脱帽せざるを得ないと思う。なぜな
ら漱石の凡ての作品を読みくだし、それを充分に咀嚼し、その筆致を完全に把握し、漱石
本人になりきらないことには誰にでも真似の出来るというシロモノではないからだ。
いずれにしても、未完の名作を完結させようと考えたことは、まさに「名案」と言って
よい。いや、これがほんとの「明暗」だ……。
さて、夏目漱石の絶筆「明暗」の主人公、津田は湯河原で湯治しているが、ところが小
説ではなく実際に肺病のため湯河原で湯治した作家がいる。
沖の小島に雲雀があがる
雲雀すむなら 畑がある
畑があるなら 人が住む
54
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
人が住むなら 恋がある
(詩集「抒情詩」
)
そう、名作「武蔵野」の作者。いわずと知れた明治ロマン チシズムの旗手、国木田 独
歩、その人である。
国木田独歩
明治四年八月三十日 千葉県銚子生まれ。本名、哲夫(幼名、亀吉)。明治二十一年、
早 稲 田 の 前 身、 東 京 専 門 学 校 に 入 学。 二 十 才 の 時、 植 村 正 久 牧 師 よ り 洗 礼 を 受 け る。
二十二年東京専門学校中退。国民新聞社に入社。日清戦争従軍記者となり「愛弟通信」を
発表。同三十年、四年がかりで書いた「欺かざるの記」を発表。
さて、本シリーズのテーマであるが、独歩の「天分の開花した時期」はいつであろうか。
(二十七才)を発表、その翌々
独歩はこの「欺かざるの記」の翌年、かの名作「武蔵野」
年、つまり彼の二十九才の時「鞠水」のペンネームで「驟雨」を書き「万朝報懸賞募集」
に応募、見事一等に入選しているが、どうやらこの二十才台後半が独歩の「天分の開花」
の時期と言えそうだ。
他の作者の場合も言えることだが、作品とその作者の私生活とは不可分である。独歩の
55
作品を考察する上で看過してはならないものに「女」と「キリスト教」の問題があり、独
歩はこの二つの大きな洗礼(試練)を受け、これが作品の上にも彼の人生観にも深く影を
落すことになる。まず二十九年四月十二日起った妻、佐々木信子の失踪であるが、その悲
嘆ぶりは痛々しい。
「一昨日の信子の失踪以来、吾が苦悶、痛心殆んど絶頂に達せり……」
と嘆き、
「鳴呼信子、信子、吾が愛足らざるか」
とその愛の破綻に苦しみ、そして、
「面白くもなき世なるかな。哀れなる人の運命。今の今この心に希望と生命とを吹き
込み得るものは何ぞや……」
と、神に不信を抱きやがてキリスト教をも捨てるのである。
また、この信子に裏切られた際の悲しみは女に対する「不信」「憎悪」となり以後、死
の間際まで彼の胸中に深く刻まれ、次の言葉を吐かさせるのだ。
「女という動物は二月(ミツキ)たつと十人が十人飽きてしまう。夫婦なら仕方がな
56
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
いから結合(クッツ)いている。然し、それは女が欠伸(アクビ)を噛み殺して送っ
ているに過ぎない」
(
「牛肉と馬鈴薯」
)
「女は禽獣なり。人間の真似(マネ)をして活く。女を人類に分類せるは旧き動物学
者の謬見(ビュウケン)なり」
(
「病牀録」
)
この小気味よいほどの暴言! 今だったら肺病病みの独歩の細い首などとっくに「女権
拡大運動家」達によって絞め上げられていることだろう。しかし、これは同時に彼が信子
をいかに愛していたか。つまり信子の失踪が独歩にとっていかに痛手であったかを物語る
証左とも見倣し得よう。
独歩のその他の作品としては「フランクリンの少壮時代」「たき火」(二十五才)「まぼ
ろし」
「忘れ得ぬ人々」
(二十七才)
「帰去来」
「独語」
「牛肉と馬鈴薯」
(三十才)
「富岡先生」
「酒中日記」
「空知川の岸辺」
「運命論者」
(三十一才)
「別天地」
「非凡なる凡人」
「因果物語」
「正直者」
「女難」
(三十二才)
「岡本の手帳」
「あの時分」
「運命」
(三十五才)などあるが、
この頃より肺結核に侵され「恋を恋する人」
「窮地」「余と自然主義」(三十六才)を発表
すると共に『濤声』を刊行(この時期、湯河原で湯治している)翌年「竹の木戸」
「二老人」
「病牀録」を発表の後、二月茅ヶ崎の南湖院に入院、その年の六月二十三日、三十七才の
若さをもって夭逝している。
57
晴れ上った前額、太い眉毛、太い八字髭、小柄で華奢な体軀……明治四十一年、つまり
彼の死の年、病状の悪化を知り南湖院に見舞った、岩野泡鳴、真山青果、田山花袋、正宗
白鳥らに狭まれ、黒マントに身をつつみ瓢々としている独歩の写真を見ると、私事なが
ら、幼時、恐わごわと覗いた、あの隠居の床の間の欄間 に飾ってあった、長年教 職にあ
り、陰陽博士でもあった明治の気骨と厳格を絵に描いたような母方の祖父「別府長右衛
門」の顔が彿彿として甦る……。
と こ ろ で、
「 早 咲 き の 花 は な ぜ、 こ う も 早 く 散 る の だ ろ う ……」 三 十 七 才 の 独 歩 の 死
は、まさしく夭逝と呼ぶにふさわしい。
「疾病は死に対する営業税ならば好し。什か(イカ)なる苦痛、什かなる悪戦にも猶(ナ
オ)忍ばん。されど死に対する所得税、付加税なりとせば、人は什かにすべき……」(「病
牀録」
)治るべき痛なら、いかなる苦痛にへ耐えよう。だが、死に至る病を得たこの身の
不幸……。どうしたらこの苦痛に耐えることができよう……。
この独歩の悲痛な叫び! 彼の無念さは読者の身に痛いほど滲みる……。
かくして、かの浪慢主義作家は、自然主義作家として、その終焉を迎えるのである。
58
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
(4)
「……芳子の肉と霊……その全部を一書生に奪われながら、とに角、その恋について
真面日に尽したかと思うと腹が立つ。そのくらいなら……、あの男に身をまかせてい
たくらいなら、何もその処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出し
て性欲の満足を買えばよかったのだ…‥」
妻子のある、いま売出し中の中年作家、竹中時雄は、彼を慕って弟子入りした美貌の文
学少女、横山芳子に密かな恋心を抱く。だが師の立場として絶体に手出しすることはでき
ない。
(すぐ手を出したがるそんじょそこらの師とは師が違う)。ところが日々悶々と過す
時雄の前に、田中秀夫という眉目秀麗な若い青年が現れる。そう、その秀夫こそ、実は芳
子の恋人だったのである。やがて芳子は、秀夫について時雄の家を去る……。
「とんびに油揚げ」とはこのことか。蓄生ッ!…… 純心無垢、可憐な処女だと思うか
ら手出しをしなかったものを……。身も心もあの男にまかしていたとは……。毎晩、隣室
の「蒲団」にくるまって寝ていた芳子。その気になればいつでも性欲の満足を得るチャン
スがあったのだッ。クヤシィーィッ!……。
59
秀夫に対する嫉妬と、芳子に対する身をも焦がす恋慕に狂った時雄は、芳子がいつ
も使っていた「蒲団」を敷く彼女の身につけていたビロードの夜着をまとい、その上
に臥わる。そしてその際立って汚れている襟もとに狂ったように顔を押し当て、恋し
い少女の体臭を心ゆくまで嗅いでいる……。
「ふとん」
。写実主義、自然主義文学の先駆者「田山花袋」の名
そう、その題もズバリ、
作「蒲団」のクライマックスの一節である。
(仮名使い及び内容の一部脚色)
作者自身の体験(芳子のモデルは、花袋が三十三才の時、彼の家に下宿した津田英語塾
学生、岡田美知代と思われる)を文学的レベルまで高めた写実的私小説。処女崇拝のロマ
ンの香りと、フェティシズムの狂気の織りなす異様な雰囲節は、読む者を一種異様な興奮
のルツボヘと誘なう。
「抒情」
(因みにこの言葉は花袋によってもたらされた)的自然主義
作家、国木田独歩とは、二十五才の時知り合って以来、東京麻布の西洋料理店「龍土軒」
に彼と「龍土会」を起こすなど、同じ自然主義文学の仲間として生涯の友となる。(両者
は同年だが、花袋が三ケ月遅れて弟分)
田山花袋
明 治 四 年 十 二 月 十 三 日 群 馬 県 邑 楽 郡 館 林 町 外 伴 木 に 生 ま れ る。 本 名、 録 弥( ロ ク
60
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
ヤ)
。 明 治 二 十 一 年、 十 七 才 の 時 上 京 し て 東 京 神 田 の 日 本 英 学 館 に 入 学。 二 年 後、 柳 田
国男、大田玉茗と知り合う(後に玉茗の妹「リ サ 」 と 結 婚 ) 二 十 才 の 時、 尾 崎 紅 葉 を、
二十五才の時、国木田独歩と島崎藤村を知る。
「 ふ る さ と 」( 二 十 八 才 )「 重 右 衛 門 の 最 後 」
以 下 そ の 作 品 を 年 代 順 に 羅 列 す る と、
(三十一才)そして三十三才の時、博文館より刊行される「日露戦争画報」取材のため私
設写真班主任として日露戦争に従軍。翌年その体験をまとめた「第二軍従征日記」を発
表。ついて翌年、同館より「文章世界』を創刊。その編集主筆となる。そしてその翌年、
つまり三十六才の時発表したのが前掲の名作「蒲団」で、この作品により彼は作家として
不動の地位を築く。
以後「一兵卒」
「件」
「妻」
(三十七才)
「田舎教師」
「小説作法」
「インキ壷」
(三十八才)
「縁」
(三十九才)
「別るるまで」
「渦」
(四十一才 なお同年博文館退社)
「春雨」
「残る花」
(四十三才)
「山荘にひとりゐて」
「時は過ぎゆく」
「合歓の花」
(四十五才)
「一兵卒の銃殺」
「東京の二十年」
「残雪」
(四十六才)
「ある僧の奇蹟」「花袋歌集」(四十七才)「女の留守
の間」
「恋草」
(四十九才 なお、この年「文章世界」終刊)
「花袋紀行集」
(五十一才)
「花
袋全集」
(五十二才)
「源義朝」
(五十三才)
「通盛の妻」「残る花」(五十五才)「愛と恋」
「百夜」
(五十六才)とつづく。そして、昭和五年五月十三日、五十九才を一期として東京
は代々木の書斉で逝く。その屍は東京郊外の多摩墓地に葬られている。
61
「感受性の池に咲いた花袋の天分の開花の時期は?……」
さて、本稿のテーマ、
二 十 才 の 時 発 表 し た「 瓜 畑 」 や、
「 花 袋 」 の ペ ン ネ ー ム を 始 め て 用 い た「 落 花 村 」。
三十一才の時の「重右衛門の最後」などあるが、やはり名作「蒲団」の発表された三十六
才の時ということになろうか。やヽ遅咲きと思われるも、初花が「蒲団」なら誰も異存は
あるまい……。
それにしてもゴマ塩頭の角刈り、小型の丸眼鏡をチョコンとかけ、当時流行の鼻ヒゲを
たくわえた一見豪放磊落とも見える大柄な「花袋」に(もっともこれは晩年のプロフィー
ルだが)このような繊細な感受性が秘められていようとは……人は決して見かけだけて判
断してはならない。そして「蒲団」より約四ケ月前に「太陽」に発表された「少女病」に
みられる「少女崇拝」
「処女進行」の狂信的ロマン。屈強な男ほど、馬齢を重ねた中年男
ほど、可憐な少女に、その純血に限りない憧憬を抱くものなのだろうか。少女のあまりの
美しさに見とれ電車にふり落されて死ぬ主人公や憐れ! いや本望か……。「耽美」こそ
人生の極致であるからだ。
それにしても昔よく色街あたりで、恰幅のよい旦那が、触れれば折れそうな華奢な美女
を従えて散策している姿を見かけたものだが、なぜ太いものは細いものを、強いものは弱
いものを、屈強な荒くれ男は、か細い女を好むのか……。生物界の生態系のバランスの妙
を見るようで興味深い。
(ホント。太っちょが太っちょを求め結婚するとその相乗作用で
62
「天分は感受性の池に咲く花」―作家の生涯と代表作―
世の中「デプの山」
。その反対だと「ガリの山」また美男が美女のみ求めたらアンさん世
の中、残ってるのは「ブスの山」ですセ。ミジメーッ!)
さて、余談はさておき、われわれが小説を読む楽しみの一つに、小説は多くの場合、登
場人物が作者の分身であり、その話す言葉は作者の声を代弁し、従ってそこから作者の性
格、趣好性、物の考え方を類推できるという楽しみがある。「蒲団を通読すると、花袋が
女性に対して「面喰い」であったこと。
(
「女性には容色〈キリョー〉というものが是非必
要である。容色の悪い女は、いくら才があっても男が相手にしない」)〈花袋先生、明治の
御代に生まれていてよかったネ。いまだったらまずシコメに「トリカブト」かなんか飲ま
され殺(ヤ)られているよ〉
。精力的で多分に「女好き」であったこと。(絶えざる欲望と
生殖の力とは年頃の女を誘うのに踏躇しない」)
。反面、淋しがり屋でよく遊廊などに遊び
に出かけた。
(三十四、
五才。実際この頃には誰にでもある煩悶で、この年頃に賤しい女に
戯れる者が多いのも畢竟その淋しさを医(イ)やすためである」)。そして一旦女にふられ
ると極端に悲観的となり(
「若い鳥は若い鳥でなくては駄目だ。自分等はもうこの若い鳥
を引く美しい羽根を持っていない」
)
。女性に対し懐疑的になり(「年若い女の真理は容易
に判断し得られるものではない」
)
。あげくの果は「方丈記」などの「無常観」など持ち出
し(
「行く水の流れ、咲く花の凋落、この自然の底に蟠(ワダ)かまれる抵抗すべからざ
る力に触れては、人間ほど儚い、情ないものはない」)などと、さっきの元気はどこへや
63
ら、尾羽打ち枯らし泣き言を並べている。若い女弟子を愛する中年作家、竹中時雄の苦
衷、片想いの煩悶が読者の胸中に手にとるように伝わってくる……。
きっと花袋自身、屈強な外見に似ず、非常に繊細な感性とロマン。それに一途な情熱を
心の奥深く秘めた、心やさしい男であったに違いない。
64
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
「思索は行動を規制する」 ―自殺作家その死生観―
「美人は、花のさかりの年頃に死ぬのがよく、作家は、程よい年頃で自殺する方が賢
い」
これは、作家、大仏次郎が「砂の上」の中で述べた名言(?)だが、なるほど芥川龍之
介が三十五才、大宰治が三十九才、ちょっと遅れて有島武郎と三島由紀夫がともに四十五
才。みなほどよい年頃と呼べそうだ。つまり大仏の言う「賢い作家」ということになる。
しかし、川端康成の七十三才はちと遅すぎる。ここまできたらあっさり天寿を全うした
方がよかったのでは………。
も っ と も、 川 端 自 身、 自 殺 す る に は そ れ な り の 事 情 が あ っ て の こ と だ ろ う。「 女 中 さ
ん」との件が取沙汰されたことがあったように記憶するが、そんなことを言うと「死者が
残した謎を解いてはならない。忘れることだ。(
「真夏の盛装」)」と怒られそうだ。まして
や死人を責めたり、反省を求めたりしてはいけない。
「 死 が 最 後 の 反 省 だ。
(
「地獄」
)
」 か ら で あ る。 つ ま り 、
「死んだ人のせいで思い煩うの
は、死んだ人をののしるのに似て、はかない間違い。(「千羽鶴」)」であり、
「死んだ者の
罪を問わないのは、今は生きていて、やがて死ぬ者の深い真理。(「虹いくたび」)」なので
65
ある。
従って、自殺した人に対して、あーでもない、こーでもないと言うのは愚の骨頂、そっ
としてやるのがわれわれの務めということになる。
川端は、昭和四十七年四月十六日神奈川県逗子市の仕事部屋でガス自殺を遂げた。遺書
はなく、枕元にはウイスキー瓶とコップだけ置いてあったと言う。結局、自殺の本当の動
機は本人以外誰にもわからない。
「十羽鶴」や「虹いくたび」の書かれた、死の二十年も前、つまり昭和二十四
しかし、
年から二十六年頃「おれが死んでも、おれの死を責めるな」「死の原因など詮索するな」
と言っているのは興味深い。彼は将来、自分が自然死でなく、横死、つまり「自殺」する
ことを予言していまいか。しかもその横死が、「ガス自殺」によるものであることまでも
……。と言うのは、ガスに対する愛着を作品の中にほのめかしているからである。
「ガス代は、税金の十分の一にもならないが国家はガス・ストープほどわれわれを温
めてくれるか。疑問だね。しかし、ガスは確実に私を温めてくれる。(月も日も)」
稼ぐ片っ端から情容赦なく税金を取り立てる国家への不信。それにくらべたらガスの方
がよっぽど私にはマシだ。なぜならガスは確実に私を温めてくれるからだ……。冷たい国
家。温いガス……。川端のガスに対する愛着と、彼のガス自殺を結びつけるのは、余りに
短絡とのそしりを受けるだろうか……。
66
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
それにしても、晩年彼が、
「人間の死は、病死でも事故死でも、生きてる人間の力の外です。(たんぽぽ)」
と述べているのは象徴的だ。
「作家の思索、思想、つまり作家が常に作品の中で、その主人公をして述べさせてい
る『ものの考え方』は、多く作家自身の行動を規制する」
なかんづく、その「死の態様」においておや……。
この川端に比べ、虚言を弄し卑怯だったのは、「大宰治」である。なぜなら彼は「私は
書くために生きる」
「 人 非 人 で も い い じ ゃ な い か。 私 た ち は 生 き て い さ え す れ ば そ れ で い
いのよ。
(ヴィヨンの妻)
」と生を讃歌しておきながら自らその命を絶ったからである。
彼の死の翌年、自殺した大宰に寄せて「大宰治情死考」を書いた坂口安吾は「不良少年
とキリスト」の中でこう述べている。
「人間は生きることが全部である。死ねばなくなる……」と。
また恩師、井伏鱒二は、
「書くために生きる、と大宰君は断言したことがある。小説はどんないい小説でも百
点満点ということはない。それなのに小説のために生きるという人間が自殺するとは
生意気である」
67
と「大宰君のこと」の中で述懐している。われわれはこの「女を道連れにした人生からの
逃避者」の行動をむしろ「卑怯」と呼びたい。
それにしても大宰という男は「貧乏」するために生まれて来たような男だった。と言っ
てもその貧乏は決して生まれついてのものではない。父は貴族院議員であったから、貧乏
どころかむしろ裕福な家庭に育った筈である。
大宰治こと、津島修治は、明治四十二年六月十九日、青森県北津軽郡金木村に貴族院議
員津島源右衛門の子として生まれている。県立青森中学から弘前高校を卒業。昭和五年、
東京帝国大学に入学するため上京するが、どうやら彼の貧乏はこの上京後のようだ。貧乏
にあえぐ大宰は「自分など生まれて来なければよかったのだ」などと嘆く。曰く「生まれ
てすみません」
(
「二十世紀旗手」二十八才)。謝られても困るのだが……。
ところで大宰は、この二年前に書いた「逆行」「道化の華」によって芥川賞候補に挙げ
られている。しかし惜しくも次点となった。よほどくやしかったのか、はたまた作家とし
ての名声が欲しかったのか、恐らくその全部と思われるが、昭和十一年二月、直接選考委
員の佐藤春夫に綿々と「芥川賞が欲しい」旨の手紙を送っている。
「 拝 啓、 一 言 の い つ わ り も 誇 張 も 申 し 上 げ ま せ ん。 物 質 の 苦 し み が 重 な り、 か さ な
り、死ぬことばかり考えています。佐藤さん一人がたのみでございます。(中略)芥
68
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
川賞さえもらえば……」
そしてその翌年、大宰は師を今までの井伏鱒二から、佐藤春夫に代えている。その後、
「虚構の春」
「二十世紀旗手」
「姥捨」
「富獄百景」
「女生徒」
(北村透谷賞次席入選)など次々
と作品を発表するが、彼の貧苦はあまり改善された様子はない。
「四十になっても五十に
なってもこの苦しさに増減は無いね」
(
「正義と微笑」
三十三才)と嘆かしめているから
である。そして死さえ決意するのである。
「僕はもっと早く死ぬべきだった。しかし、たった一つ、ママの愛情。これを思うと
死ねなかった。母の生きているあいだは、その死の権利は保留されねばならないと考
えているのです」
(
「斜陽」三十八才)
ところが、そう言ったかと思うと同じ年に書いた作品の中で前出の通り、
「人非人(ニンピニン=人の道にはずれた者。人でなし。罪悪人)でもいいじゃない
の。私たちは生きてさえすればいいのよ」
(
「ヴィヨンの妻」三十八才)
などと大いにその心中は揺れるのである。これは明らかに常用していたパビナールの副
作用(幻覚・幻想)によるものか、麻薬中毒(大宰は生前五回自殺を企て、二回目の自殺
で腹膜炎にかかっている)のもたらすノイローゼによるものと思われる。
いずれにしても東京帝大仏文(中退)出身のこの秀才も結局その翌年、連日の豪雨で満
水となった玉川上水において愛人、山崎富栄と入水心中を遂げるのである。亨年三十九
69
才。三鷹市禅林寺に眠っている。
彼の友人の一人で劇作家の伊馬春部によると彼は口ぐせのように「おれはどうしても
四十才以上生きておれないんだ。なんどトランプ占いをしてもそうなんだ」と言っていた
そうだが将にその通りになった訳である。
いずれにしても彼の功蹟はその代表作「斜陽」によって戦後の混乱期に「斜陽族」とい
う特異な没落階級社会を描き出したことで、彼の名はその流行語と共に生きつづけること
だろう。
「野暮ったい」とか「チグハグな格好」とか「よくない」という意味で現代の若
者が「ダサイ」という言葉を使うが、これが「ダサイ」つまり大宰治の小説の主人公の風
俗から出ているとしたら大宰は現代でも今なお立派に生きつづけていることになる。もっ
とも「大宰治」はペンネームで、本名は「津島修治」である。ではなぜこんなよい本名を
持ちながら太宰治などという「ダサイ」な名前をつけたのだろう。その由来については、
弘前高校時代の同級生「太宰友次郎」からとったとも、京大仏文教授で雑誌などに盛んに
随筆や評論を発表していた「太宰施門」からとったとも言われているが、本人に言わせる
とどうやらそうではないらしい。はじめて「太宰治」のペンネームを用いたのは昭和八年
二月十九日付「東奥日報」の日曜版掲載の懸賞小説「列車」からで、同紙の竹内記者は直
接本人に彼のペンネームの由来を質したそうである。「お前の「大宰治」というのは「大
宰施門」の真似だろう」これに対して彼は「いや、俺のは「天神様の大宰府の大宰」だ」
70
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
と答えたという。
いずれにしても、貴族院議員という上流階級の子に生まれながら、没落し情死するとい
う大宰の運命こそ、ある意味で没落階級社会「斜陽」族の典型だったと言えるかも知れな
い……。
妻、美智子。作家太田治子、津島佑子はその子である。
今でも命日の六月十三日には三鷹の墓前には多くのファンがつめかけ線香や花が飾られ
ると言う‥…。
同じく、東京帝大出身で、睡眠薬ベロナール(バルビタールの商品名)及びジャール中
毒から自殺を遂げた作家に芥川龍之介がいる。
( も っ と も 彼 の 方 が 大 宰 よ り「 先 輩 自 殺 作
家」だが……)
彼の芸術至上主義の境地を説いた名言、
「人生は一行のボオドレェルにも若(シ)かない。(「或る阿呆の一生」)」
はあまりに有名だが、
「人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たようなものである。(「侏儒の言
葉」
)
」
という比喩もわれわれに彼の天才特有の虚無と、狂気と、犀利な人生の洞察者としての一
71
面をまざまざと見せつけてくれる。そして彼も二十三才で既に「死」を身近なものとして
とらえ、
「死を予想しない快楽くらい無意味なものはない。「青年と死」)」と述べている。
彼は毎日新聞特派員として上海へ渡り帰国した大正十年頃(二十九才)より不眠症によ
る神経衰弱に悩むが、その睡眠薬ベロナールの常用が益々彼の体力の減退と狂気に拍車を
かけていったものと思われる。
そして死の前年になると「僕は憂欝になりだすと、僕の脳髄の壁(ヒダ)ごとに颯(シ
ラミ)がたかっているような気がしてくる。
(「僕は」)」 とか「僕を最も 憂鬱にするもの
……それはカアキイ色に塗った煙突。電車の通らない線路の錆(サビ)。屋上庭園に飼わ
れている猿。
(
「都会で」
)
」などと述べ、その狂気は日を追って益々顕著となる。
芥川龍之介は、明治二十五年三月一日午前八時、東京市京橋区入船町に牛乳販売業、新
原敏三の子として生まれている。
(因みに彼は、龍年、龍月、龍日、龍の刻に生まれたた
め「龍」之介と命名された)
。
生後間もなく母が発狂したため、その死後母の実兄、士族芥川道章に子がなかったこと
からその養子となる。大正五年、東京帝国大学英文科卒業。同八年、大阪毎日新聞記者と
なり、二年後、特派員として上海へ渡る。その後不眠症 によるノイローゼが昂 し、昭和
二年七月二十四日未明「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安(「或る旧友に送る手
72
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
紙」
)
」によって東京巣鴨の自宅寝室において致死量のベロナール(十グラム〜)を服用し
自殺を遂げた。亨年三十五才。東京巣鴨の慈眼寺に眠っている。
彼は早くから、人生を洞察した才気と狂気によって、漱石が絶讃した「鼻」
(二十四才)
をはじめ「羅生門」
(二十三才)
「蜘蛛の糸」
(二十六才)「河童」(三十三才)など数多く
の秀れた文芸作品を残している。そしてそれらの作品の中に投影されている作者の分身で
ある主人公の言辞から、作者自身の横死――、自殺を予測することはさして困難なことで
はない。
彼は常に人生に対し懐疑的で、しばしば人生をオリンピックゲームに見立てたが、なか
でも、
「人生というパカバカしいゲームに憤慨する者は、さっさと場外へ去れ。(大正十二
年から死の直前まで書かれた「侏儒の言葉」
)」
と言って自から競技を放棄しさっさと場外に去ってしまったのである。この言葉は芥川龍
之介の人生そのものを象徴する典型的言辞として、われわれの記憶に末永く残ることだろ
う。
さて、家柄の良さではピカ一の自殺作家に、有馬武郎がいる。大宰治が貴族院議員の子
なら、こちらは大蔵省官吏有馬武の長男。母、幸(サチ、のちユキと改める)両親とも三
73
度日の結婚。武郎は明治十一年三月八日、東京市小石川区水道町に生まれる。名乗り(公
家・武家の男子が元服する際に用いる名前は)行正。学習院初等科在学中の十才の時、明
治天皇の皇太子、つまり後の大正天皇の「御学友」に選ばれているのだから家柄の良さも
人柄の良さも「ハンパ」じゃない。彼は学習院中等科卒業後、札幌の新渡戸稲造をたより
札幌農学校予科に入学している。
(因みに「白樺派」の同人、つまり武者小路実篤、志賀
直 哉、 木 下 利 玄、 長 与 善 郎、 そ れ に 有 島 三 兄 弟、 即 ち 有 島 武 郎、 有 島 生 馬、 里 見 弴 ――
ら)の中にあって学習院から東京帝大に進学しなかったのは、武郎と生馬の二人だけであ
る。ついでに言うと武郎は「白樺派」の中にあって最年長でありながら文壇へ本格的に登
場したのは最も遅い大正六年である)
。
明治二十七年、武郎十六才の時に村上浪六の影響を受け「由比ケ浜兵六」などという時
代劇に出て来そうなふざけた名前で歴史小説「慶長武士」を、翌年「勁準生」の名で「比
孤墳」
「斬魔剣」などを書く。三十四年、札幌農学校六科卒業。三十六年アメリカ留学、
ハーパーフォード大学大学院及びハーバード大学に学び経済及び歴史を専攻している。帰
国した三十九年、処女作「かんかん虫」を執筆。その後、今度はヨーロッパ各地を旅行す
る。ここでも特筆されるのは、武郎が札幌農学校本科卒業の際にも宮内府から、光栄ある
皇太子の補佐役に選任されている点である。この時はさすがに武郎、その申し出を断って
いる。曰く「何より苦しきは、余が地球に於ける我同志者と離隔せざる可からざる事な
74
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
り。余は余が酷愛する平民諸君と相絶たざる可からず」と。つまり「私は高貴な富豪の生
れであるが、私の心は常に平民と共にありたいと願っている。皇太子補佐役になることに
よって平民と隔離されることは耐え難い」と。
この彼の「平民志向」がその後の彼の全生涯の運命を決定したと言っても過言であるま
い。明治四十年イギリスから帰国すると、東北帝国大学講師に迎えられ、その後、同予科
教授に就任する。四十三年四月、武者小路、志賀らの「白樺」発刊に弟、生馬、弴らと参
加。同人となる。そしてこの頃より次第にキリスト教的倫理感に疑間を抱き、また社会主
義的人道主義と自己の上級階級出身者としての矛盾に悩み、やがてあれほど斜傾し感化を
受けた内村鑑三、新渡戸稲造らと決別し、札幌独立教会を去ることになる。
大正五年「大洪水の前」六年「惜しみなく愛は奪ふ」「カインの末裔」あたりから本格
的作家生活に入り、
「死」
「宣告」
「小さき者へ」
「生れ生づる悩み」などによって作家的地
位を確立。大正七年「死と其の前後」が芸術座の島村抱月、松井須磨子らによって上演さ
れる。同八年、個性的一女性を描いた「或る女」を完結。その作家的地位を不動なものと
した。
一方、晩年における社会主義者たちとの交流が、やがて「生産の大本となるべき自然物
――、農場は個人によって所有さるべきでない」という社会主義的信念から、羊蹄山のふ
もとにあった百万坪に近い北海道狩太村の「有島農場」を無償で小作人に解放するのであ
75
る。
「人類愛」は、
「生と死の矛盾」「我等が歩いていく到着点が死であ
彼のこの「自然愛」
ることを知り抜きながら、なお力を極めて生きるが上にも生きるが上にも生きんとする矛
盾ほど、奇怪な恐ろしい矛盾はない。
(
「運命の人」大正七年)」 を生み、その矛盾を解決
すべく、また「愛」を完徹すべく。
「愛は掠奪する烈しい力だ。
(
「愛は惜しみなく奪う」大正九年)」
「愛する以上は命と取り代っこする位に愛せずにはいられない。
(
「ある女」大正八年)
」
そして遂に彼は、この信条を実践に移すのである。
大正十二年六月九日の早暁、軽井沢三笠山の別荘「浄月庵」の応接間から中年男女の縊
首死体が発見された。女性は「婦人公論」編 集 者、 波 多 野 秋 子、 そ し て 男 性 は、 有 島 武
郎、その人であった。武郎ときに四十五才。青山墓地に葬られる(後に多摩墓地へ改葬)。
それは「如何に戦っても運命からのがれることはできなかった。(「遺書」)」そして「生
まるべきでない時代に、生まるべきでないところに生まれてきた。(「ある女」)」男、リベ
ラリストで「平民志向」作家、有島武郎の無惨にも哀れな変り果てた姿であった。
この有島武郎の情死の直接の原因は、秋子との情事をその夫、波多野春房に発見された
ためであったが、その死は彼の標榜する理想主義とはかけ離れた矛盾に満ちたものであっ
た。
76
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
しかし、死の三日前、母や二人の子供達に当てた遺書には、自分の自殺、心中という異
常な行為によって取り残される、父を失った子供達の身の上に想いを寄せる熱い親の気持
が行間に横溢している。
「 母 上( 幸 ) と 行 三( 三 男 ) に は お 会 致 し た が、 他 の 二 人( 長 男・ 行 光、 の ち の 俳
優、森雅之。次男、敏行)には会いかねました。私には却ってその方がよかったのか
も知れません。三児よ。父は出来るだけの力で戦って来たよ。かうした行為(情死・
自 殺 ) が 異 常 な 行 為 で あ る こ と は 心 得 て ゐ ま す。 皆 さ ん の 怒 り と 悲 し み を 感 じ な い で
はありません。如何に戦っても運命からのがれることはできなかったのですから、私
は 心 か ら の よ ろ こ び を も っ て 運 命 に 近 づ い て ゆ く の で す か ら、 父 を ゆ る し て 下 さ い。
皆さんの悲しみが皆さんを傷つけないよう。皆さんが弟(画家、有島生馬こと壬生馬
武郎」
六月六日
(ミブマ)
。隆三。作家、里見弴こと山内英夫)妹(志満)達の手によって早くその傷
から立直るよう。只、そのことばかりを祈ります。
自殺――。自らその命を絶つこと……。
(カッコ内、筆者註)
これはなかなか勇気のある行為である。
77
睡眠薬自殺や、ガス自殺のように眠りながら死ぬのはまだしも、自らその腹を裂き、介
錯人に首を斬り落して貰う行為は、さぞ悲惨で苦痛に満ちた行為であろう。
忠臣蔵における浅野内匠頭の切腹目刃。近くは、西南の役に敗れた西郷隆盛の城山にお
ける割腹自害。その介錯人は、近衛陸軍少佐で鹿児島常備隊小隊長、別府晋介であった。
晋介にとって西郷のあの太い首を斬り落すのはさぞ難行であったろう。いずれにしても部
下が切腹しようとするのを見て「腹を切っと痛かど(切腹すると痛いぞ)」と言って止め
ていた痛がり屋の西郷自身、城山に追いつめられ、いよいよここまでという時、木綿の単
衣に着換え、脚絆、草靴姿でヒョッと尻っぱしょりし、「晋どん、ここらでよか」と別府
晋介に介錯をたのむはめとなる……。
現在われわれはこれらの光景を通常、劇として映画かテレビのスクリーンの上でしかお
目にかかれないが、わずか二十数年前、実際にこれを実演した男がいたのだから驚く。言
わずと知れた「三島由紀夫」その人である。
昭和四十五年十一月二十五日、楯の会幹部四人と共に市ケ谷自衛隊駐屯基地本館に乗り
込んだ三島由紀夫は、バルコニーの上から自衛隊員に向って「天皇を中心とする国体の擁
護」と「自衛隊員の決起を促す演説」をぶつ。ところが意外にも隊員の反応は冷静で誰一
人としてこれに呼応する者はない。
78
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
クーデターの失敗を知った三島は、その直後東部方面総監室に赴き、十二時十五分、同
志幹部に介錯を頼み割腹自害し果てたのである。総監室の血の海の中に二つの首が転がっ
た。三島美学の終焉を告げる瞬間であった。昭和の世代と共に生きた男、三島。ときに三
島四十五才。しかも丁度その日は、自殺の予言をなす「豊饒の海―四部作」最終巻「五人
五衰」脱稿の日で、その最終行は、「……庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。
……『豊饒の海』完。昭和四十五年十一月二十五日」と結ばれている。その日付は将に三
島が自害し果てたその日で彼の心憎いまでの演出がうかがえる。文学者で劇作家でもあっ
た三島由紀夫。古典主義から独特の美学を生み、晩年は国家主義に斜傾した三島は、自分
の生涯すら人生劇として自ら脚色、演出しテレビを通して全国民の前で上演してみせたの
である。
まさに鬼才と呼ぶべきか……。法名、彰武院文鑑公威居士。多摩霊園に眠る。
三島由紀夫。本名、平岡公威。大正十四年一月十四日、東京市四谷区永住町二番地に出
生する。父の平岡梓は高級官僚で、元、農林省水産局長。祖父、定太郎は、元、樺太庁長
官というエリートな家系に生まれている。従って、もし彼が作家になることなく学習院か
ら東京帝大、大蔵省のエリ―トコースを選んでいれば、彼の理想主義からして恐らく大蔵
官僚から政治家への道を選んでいたであろうことは想像に難くない。そして場合によって
79
は国家の進路の舵を握る総理大臣のポストも夢ではなく、従ってもっと違った日本国家の
歴史が刻まれていったかも知れない……。
因みに、本名の公威(キミタケ)は、祖父定太郎と同郷で権密院顧問官であった男爵、
古市公威(フルイチ コウイ)の名前からとったもの。このあたりにも子に対する両親の
「政治家志向」への意図が感ぜられる。後はエリート家系の定石、学習院―東京帝大、法
学部法律学科の道を進むことになる。ところがここで人生の選択として予期しない出来事
が起るのである。つまり大蔵省には入った三島はわずか九ケ月で退官してしまったからで
ある。大蔵省の入省はあくまでも両親を安心させるための方便だったのであろう。
「文学」こそは彼の進むべき本道であったと思われる。彼は学習院初等科時代に既に機
関紙「小ざくら」に詩文を発表。彼の詩才に注目した国語教師、清水文雄は昭和十六年、
蓮田善明の同人雑誌「文芸・文化」に三島の小説を推薦している。これが初めて雑誌に掲
載された処女小説「花ざかりの森」である。同年の九月号から十二月号まで掲載された。
(因みに習作は十三才の時、学習院「輔仁会雑誌」に掲載された「酸
当時三島十六才。
模(スカンポ)
」
)
。そしてこの時、初めて「三島由紀夫」のペンネームが用いられた。
その由来であるが、三島がまだ学習院の学生だったため校外の雑誌に本名の平岡公威で
はまずいという清水教師の意見からペンネームが作られることになった。まず苗字の「三
島」は、たまたま同誌の編集会議が修善寺温泉で行われたため、その乗換駅の「三島」か
80
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
ら採ることに一決。名前の「由紀夫」については、修善寺から仰ぎ見た秀峰『富士』にか
かる「雪」から「ゆきを」と決め、三島に同意を求めると彼は、「三島由紀雄」ではどう
かという。これを見た恩師清水は「雄」の字面が苗字にくらべ重すぎるので「夫」にした
らどうか、と言うと「それではこれに決めます」と彼が言い、やっと「三島由紀夫」のペ
しかしこれには異説があり、三島自身の告白によると、名前は別として姓の「三島」
ンネームが誕生したと言う。
(清水文雄「
『花ざかりの森』をめぐって」)。
は、
「 清 水 先 生 の 机 の 上 に あ っ た 何 か の 名 簿 を 繰 っ て 探 し 出 し た 」 と 言 う。 三 島 由 紀 夫
「私のペンネーム」
)
。いずれにしても、三島にとって清水先生は文学の師として大恩人で
あり、彼の目を日本の古典文学へ向けさせてくれたのも、この「和泉式部研究家」清水文
雄であったことが彼自身の口から述べられている。(「私の遍歴時代」)。
学習院から東京帝国大学へ進学。在学中に川端康成の推輓で発表した短編「煙草」で文
壇にデビュー。以下「仮面の告白」
(二十四才)
「愛の渇き」
(二十五才)
「禁色」
(二十六才)
「真夏の死」
(二十七才)
「夜の向日葵」
(二十八才)そして新潮文学賞を得た「潮騒」
(二十九
才)
。岸田演劇賞を受賞した「白蟻の巣」
(三十才)。読売文学賞を受けた代表作「金閣寺」
(三十一才)
。
「美徳のよろめき」
(三十二才。
「宴のあと」「憂国」(ともに三十五才)。毎日
芸術賞を受賞した「絹と明察」
(三十九才)
。芸術祭賞を受けた「サド候爵夫人」
(四十才)
……など、枚挙にいとまがない。しかし「六〇年安保」を機に、彼の作品に一大転換が訪
81
れることになる。つまり「思想家、三島」として国家主義的色彩が作品の上に色濃くかぶ
さってくるのである。
二・二六事件を扱った三部作「憂国」
(三十五才)「十日の菊」(三十六才)「英霊の声」
(四十一才)がその例で、実は三島の自衛隊体験入隊(四十二才)「楯の会結成」(四十三
才)及び自衛隊乱入―クーデターの呼かけ―失敗―白害(四十五才)は凡て彼の思想の実
践であり、それらは一直線に結ばれておりその自害(割腹自殺)は当然の帰結と見倣され
る。そして彼にとって「死」は「甘美な思想の具現」として常に彼の身辺につきまとって
おり〔「死の概念」とは「やはり私の仕事の最も甘美な母である」(「十八才と二十四才の
自画像」
)
〕 そ し て 彼 は 常 に 死 の 分 量 を 見 極 め よ う と し〔
「自分の死の分量を明確に見極め
た人がこれからの世界で本当の勇気を持った人間となるだろう」(「死の分量」)〕しかもそ
の死は「若い」ほどよしとした。
〔「若い奴の死だけが豪勢で贅沢なのさ。だって残りの一
生を一度に使っちゃうんだものな」
(
「若人よ蘇れ」)。「どうしたら若いうちに死ねるだろ
う。それも苦しまずに……」
(
「春の雪」
)
。
「莫迦げきった目的のために死ねるのも若さの
特権である」
(
「盗賊」
)。その上、三島は「来世への蘇生」を信じ、その蘇生は「最後の一
念によって生を引く」
(
「椿説弓張月」
)= こ れ は 源 氏 再 興 を は か る た め 舟 の 戦 い に 出 た 為
朝が、暴風雨に逢って難波。その際厳上で切腹した為朝の家来、高間太郎が述べた言葉を
引用したもの。つまり人間は死際の一念によって、来世に良く生まれるか悪く生まれるか
82
「思索は行動を規制する」―自殺作家その死生観―
決まる、と考えていたものと思われる。そして彼は常に求めていた「甘美な死」ヘの願望
を胸にその翌年自刃し果てたのである。
「天皇を中心とする国体の護持」
「 ク ー デ タ ー の 呼 び か け 」 が「 死 」 と 引 き か え に す る に
は余りにも「莫迦げきった目的」だったか、また「四十五才」が「若さ」の範疇に入るの
かいささか疑間だが、兎に角、彼は自らの信ずるところに従って自害し果てたのである。
いずれにしても三島にとって「自然死」は何の変哲もない「鉛の死」であり、「自殺」
こそ練金術師のようにその鉛を「黄金」に変える「黄金の死」であると考えていた(「盗
賊」
)のであるから、彼自身、自殺は彼にとっては本望だったに違いない。
以上、川端康成、太宰治、芥川龍之介、有島武郎、そして三島由紀夫の五人の横死作家
〔川端=ガス自殺。大宰=入水心中。芥川=睡眠薬自殺。有島=首吊り心中。三島=割腹
自殺)について考祭してみたが、五人に共通しているのは生れ、育ちの良さと、その学歴
の高さである。就中その最終学歴が有島(ハーパード大学)を除いて全員、東京帝大とい
うのは驚異である。
「良家の出でインテリ作家に忍ぴ寄る自殺への誘ない」「作家の家柄と
学歴ははどほどがよい」という教訓か。
いずれにしても、
「思索は行動を規制する」
。われわれは作者が主人公をして語らしめて
いる作者自身の「ものの考え方」
「 心 の 動 き 」 を 窃 み 見、 そ れ を つ ぶ さ に 考 察 す る こ と に
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よって、作者自身の運命――、なかんづくその「死の態様」をすら推測し得るのである。
これはわれわれにとって、読書の楽しみに今一つ、新しい趣きを添えるものと言えよう。
84
「ペンネーム」考(1)
「ペンネーム」考(1)
偽名考
筆者は、十四年ほど前、つまり一九七八年に「偽名考」と題した文章を投稿したことが
ある。
一、偽名とは何か
(氏名をいつわること。つまりニセの名前)
二、偽名の目的と種類
(1)風流を目的として作られるもの
(A)俳人の用いる俳号
(B)書家や画家の用いる雅号
(C)俳優や女優の用いる芸名
(D)作家や文筆家が用いる筆名
(2)アイデンティティの喪失を目的として作成、使用されるもの
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(A)社会的地位のある者が自由な発言の場を得ることを目的として使用されるもの
(著名人の建設的意見書)
(B)悪意によって使用されるもの
(匿名による中傷、誹謗記事)
(3)犯罪者の使用する偽名
(公文書又は私文書偽造などの場合の氏名詐称を目的とする偽名)
などがあり、その具体例を列挙したが、本稿では「偽名考」(二)として、古今の作家
が使用し、または使用されてきた筆名、つまり「ペンネーム」の主なものについて(前記
区分に従うと、二(1)の(D)を分類し、古今作家の「ペンネーム」が、どの範疇に属
し、またそのペンネームがどのような意図、または経過によって作成され、使用されてい
るか、作家自身が著した「私のペンネームの由来」に類する随筆、エッセイなどをひもと
き、以下考察してみたいと思う。
一口に、作家のペンネームを分類すると言っても、作家の顔が一人一人違い、その性格
が各人異なるように、ペンネームのつけ方も千差万別である。つまりペンネームの内容が
一つの属性を離れ、多岐に亘っているということである。
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「ペンネーム」考(1)
「夏目漱石」であるが、後述する通り「漱石」という言葉は、中国の故事より
例えば、
引用されたもの(つまり「夏目金之助」自身の生来持ち合わせている「へそまがり」「へ
んくつ」
「負けず嫌い」
「強情者」の性格を表示している。(つまり「性格表示型」に区分
されるべきものである)
要するに、区分に関しては内容が多岐に亘り一律に規制することのできないもの、また
は、色々な説のあるものもあり便宜的区分であることを予め了承されたい。
では、早速、古今作家の「ペンネームの型」を多い順に列記してみよう。
なお、最も多いのが「本名型」という皮肉な結果になったが、この本名、実は読者の中
にはこれをペンネームだと信じ込んでいる人がいるくらいペンネームと見まがうものもあ
る(例えば、今東光、山口瞳、三浦朱門、阿刀田高、稲垣足穂、開高健、堀口大学など)
ので敢えてここに列記した次第。
本名型
芥川龍之介 石坂洋次郎 安岡章太郎 吉行淳之介 中村真一郎 織田作之助 谷崎潤一郎 豊島与志雄 小島政二郎 西脇順三郎 梶井基次郎 三宅周太郎
小林多喜二 近藤啓太郎(以上五字組)
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赤川次郎 阿刀田高 有島武郎 稲垣足穂 三浦朱門 安部公房 堀田善衛 五味康祐
松本清張 大岡昇平 花田清輝 小島信夫 庄野潤三 遠藤周作 尾崎士郎 小山内薫
川端康成 久米正雄 佐藤春夫 堀口大学 国枝史郎 北原武夫 小林秀雄 横光利一
片岡鉄兵 岸田国士 志賀直哉 高橋和也 寺田寅彦 丹羽文雄 福永武彦 宮沢賢治
村上春樹 広津和郎 柳田国男 武田泰淳 島尾敏雄 梅崎春生 加藤周一(以上四字
組)
原民喜 今東光 檀一雄 長塚節 堀辰雄 山口瞳 石川淳 井上靖 野間宏 開高健
菊池寛(以上三字組)
その他 六字組 二名
久保田万太郎 武者小路実篤
郷愁・望郷型
甲賀三郎 小松左京 堺屋太一 子母澤寛 白井喬二 城山三郎 徳富蘇峰 新田次郎
土師清二 藤枝静男 藤沢周平 正宗白鳥 丸谷才一 岩野泡鳴 巌谷小波 室生犀星
内田百閒 尾崎紅葉 大佛次郎 上林暁 北杜夫 山手樹一郎 (以上二十二名)
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「ペンネーム」考(1)
本名工作型
中山義秀 長谷川伸 林芙美子 泡坂妻夫 山岡荘八 山本有三 吉川英治 佐木隆三
下村湖人 立松和平 手塚治虫 富島健夫 野上弥生子 村上龍 江藤淳 岡本かの子
直木三十五 与謝野晶子 高見順 埴谷雄高 井伏鱒二 (以上二十一名)
洒落・語呂合せ型
阿佐田哲也 早乙女貢 佐賀潜 里見弴 佐野洋 獅子文六 司馬遼太郎 石橋思案 曽野綾子 寺内大吉 樋口一葉 庄司薫 二葉亭四迷 つかこうへい なだいなだ 夢枕獏 (以上十六名)
恩師命名型
佐藤紅緑 幸徳秋水 坂口安吾 夢野久作 結城昌治 小川未明 押川春浪 海渡英祐
木々高太郎 三島由紀夫 泉鏡花(以上十一名)
本名音読型
安部公房 川上宗薫 駒田信二 松本清張 五味康祐 横光利一 吉本隆明 伊藤整 89
(以上九名)
菊地寛 詩歌・引用型
島村抱月 小泉八雲 田沢稲舟 土井晩翠 坪内逍遥 徳富蘆花 伊馬春部 森鷗外 (以上八)
傾倒作家あやかり型
村松梢風 久生十蘭 中里介山 山本周五郎 半村良 江戸川乱歩 (以上六名)
妻名拝借型
(以上四名)
笹沢左保 菊村到 大下宇陀児 三好京三 嗜好性・表示型
(以上三名)
源氏鶏太 石川啄木 吉本ばなな 初恋・未練型
(以上三名)
島崎藤村 水井荷風 国木田独歩 90
「ペンネーム」考(1)
夢想・夢枕型
(以上二名)
海音寺潮五郎 幸田露伴 性格表示型
(以上一名)
夏目漱石 主人公拝借型
(以上一名)
仁木悦子 愛児名盗用型
(以上一名)
胡桃沢耕史 怨念型
(以上一名)
林不忘 91
符牒型
(以上一名)
山田風太郎 雨嫌悪型
秋田雨雀 (以上一名)
〔総計・主要作百八十名)
「ペンネーム」作成の動機
「アイデンティティ」つまり作家の「正体」の隠秘にあることは
ペンネームの作成が、
言うまでもないが、具体的にどのような動機と経過からペンネームは作られるのだろう。
その辺の事情を作者の著書から探ってみよう。
「なだいなだ」と言う作家がいる。俳優の「そのまんま東」同様いくら芸名や筆名が自由
だからと言ってこれでも「人の名か!」と怒りたくなる。第一、全部「平がな」なので、
どれが姓でどれが名か判ったもんじゃない。
(そうだ「みのもんた」という役者もいたナ。
92
「ペンネーム」考(1)
世の中「みんなへんになったもんだ」
)
。
「名代灘」なのかさっばりわからない。「どうせマスコミを
つまり「灘・稲田」なのか、
手玉にとる白痴作家」と思いきやどっこい、
「パパのおくりもの」というベストセラーを
出し、なんと芥川賞候補に六回も挙ったというエライ作家なのだ。それだけではない。昭
和四年、東京生れで慶応大学医学部を卒業した精神科のレッキとしたお医者さんである。
本名、堀内秀。
「ハハァー……」精神科医と言うとすぐ「どくとるマンポウ」の著者で東
北大医学部出身の「北杜夫」を思い出す読者もいることだろう。そう、ユーモラスでペシ
ミスティックな叙情性を秘めた作風と精神科医という点で両者は共通している。いや、実
際に両者は慶応大学病院神経料助手時代知り合っている。
ところでこのペンネーム、実はスペイン語なのである。スペイン語を習った人なら、こ
こで「ハ、ハーン」とうなずく筈である。そう「なにもない。なんにもありやしないスッ
カラカンさ」という意である。つまり「なだ」(NADA)は「なにもない」「い」(Y)
は「そして」
「なだ」は「なにもない」
。
「
(地位も財産も学歴もない筆者を言い得て妙だ。
そうだ、この次から筆者も「二世」っぽく「ナダ・稲田」のペンネームにしようかナ?)
さて、この「なだいなだ」先生、若い頃「ガルシャ・ロルカ」という詩人にあこがれて
彼の母国語、スペイン語を習ったことがあるらしい。しかし、このペンネーム、スペイン
語という以外、全く気まぐれに、でたらめに作ったということである。
93
「ペンネーム」考(2)
彼「なだいなだ」は、自分のペンネームの由来について「パパのおくりもの」の中でこ
う述べている。
「お前たちのママは、
『ルネ堀内夫人』と呼ばれている。また、パパが一時の気紛れから
『 な だ い な だ 』 と い う ペ ン ネ ー ム を 作 っ た た め『 い な だ 夫 人 』 と よ ば れ て 目 を 白 黒 さ せ て
いることもある。それもそうだろう。その名前を作ったパパ自身が『いなだ』が姓か『な
だ』が姓かわからないのである。なにをかくそう、パパは非常な恥ずかしがりやであり、
小説などに本名を出すのは鉄面皮でなければできるものではないと思ったのである……」
まさに、ペンネーム作成の動機を言い得て妙だ。創作の世界で遊びたいという衝動!
しかし本名を出すのは気はずかしい。または、社会的地位がある。そこでいろいろ逡巡し
た挙句、ペンネームを作ることを思いつき、色々作ってみる。(実は、この作業、筆者自
身の体験からみても、とても楽しいのだが……つまり『漢字の表意性』に目をつけた一種
の遊戯ですナ……)この「アイデンティティの喪失」つまり「偽名性」がペンネーム作成
の最大の動機であり、従って「何でも思いきって書ける」というある種のプロフィットを
生んでいると言えよう。
(筆者も最初、つまり「花咲太郎」のペンネームを初めて用いた
94
「ペンネーム」考(2)
十五年ぐらい前までは、その「偽名の効用」を十二分に発揮し、好きなことを好きなよう
に書き散らすことができ、非常に楽しかったのだが、いつしか本名が知れわたり、しか
も、教職であることが漏れるに及んで、最も得意とする(?)「あの方面」の話題が書け
なくなったのは致命的。嗚呼!……「なにをおっしゃいますか。今でもけっこうお書きに
なっていらっしゃるではありませんか」
「いえ、いえ、とんでもございません。本当はあ
んなもんではないんですよ。
『なだ先生』同様私は内心非常な恥ずかしがりやで、あれで
もはやる筆を抑え、遠慮しいしい書いているんですよ」「アラ、本当かしら」……)
「贋金づかい」の中で同じような意味のことを述べている。
芥川賞作家、尾辻克彦も、
「好きで書いたことなのだけど、それを新人賞に応募するとなると、いささか照れくさい
気になる。そこでちょっとサングラスをかけるつもりで、原稿用紙に新しい手製の名前を
書いた。それもいくつか鉛筆で書いては消しゴムで消し、サングラスの色でも変えるみた
いに文字を並び替えた。……色々名前を書いたあげく最後に書いたのが『尾辻克彦』であ
る。この名前も「消しゴム」と接触すれば、すぐに消える運命にあった。だけど特に代案
もないままそれは鉛筆のかぼそい線に支えられて、私の手もとを離れていった……」
案外、筆名の誕生とは、こんなものかも知れない。
「枕遊び」はこのくらいにして、早速、古今作家の「ペンネーム」を以下具体的に類別
95
し、考察してみよう。
「なだいなだ」の言う「恥も外聞もない鉄面皮」の実名作家(失礼! いやこれは「な
だいなだ」先生の言)は除外し、まず、ペンネームの分類上、最も多かった「郷愁・望郷
型」から列挙してみよう。
郷愁・望郷型
甲賀三郎
強そうな武士か、忍者を連想させるペンネームである。事実、このペンネームは彼の郷
里、滋賀県甲賀郡、つまり「甲賀忍者」の里に古くから伝えられている伝説上の勇者「甲
賀三郎」兼家の名を、無断で拝借し自分のペンネームとしたもの。本名、春日能為(ヨシ
タメ。姓に対し少々名が重い)
。 東 大 工 学 部 出 身 の レ ッ キ と し た 農 商 務 省( 現、 農 林 省 と
通産省の前身)技手。職業柄、理化学的トリックを駆使した作品「体温計殺人事件」の外
「手塚竜太」という悪徳弁護士を主人公とした探偵小説シリーズでその名を馳せた戦前の
作家である。昭和二十年、五十二才で逝く。
96
「ペンネーム」考(2)
小松左京
「日本沈没」などという物騒なタイトルのベストセラーを出した日本の代表的SF作
家。三高、京大イタリア語科卒。本名、小松実(松が実るか。ついでに「大松」だったら
もっとよい)
。言うまでもなく、そのペンネームは、三高、京大時代、彼が京都「左京区」
に下宿していたことに因んでつけたもの。大学卒業直後、万才の台本を書いていたという
経歴(京大イタリア語科卒と万才台本作家! いやこれくらいチグハグな取り合わせも珍
しい。昭和二十八年は就職難だったのだろうか。それともその専攻が悪かったのか……)
が示す通り、その作品はユーモアの中に鋭い文明批評が織り込まれている。(これぞ万才
の真髄! 今どきの、やたら相手の頭を叩くのは邪道。ちっともおかしくも楽しくもない)
代表作に、
「お茶漬けの味」
「地球になった男」「少女を憎む」など。
堺屋太一
「団塊の世代」
「峠の群像」などに代表されるように徹底した取材による骨太い作風がこ
の作家の特長。本名、池口小太郎(武士の幼名を連想させるよい名だ)昭和十年大阪生ま
れ。この種の作家にはインテリが多いが、彼も東大経済学部卒のレッキとした元、通産省
役人。勿論、ペンネームの「堺屋」は商人だった先祖の屋号「堺屋」から。名前は本名の
「太の一文字」を残したという意味。このペンネームは、通産省時代から既に使用してい
97
たと言う。
子母澤寛
(映画では、御用役人に取囲まれても、その捕縄を
勝新太郎の「座頭市」の生みの親。
あの独特の白目をむいて仕込杖刀でバッタバッタと切って逃げ切る座頭の市ちゃんも、今
度ばかりは事もあろうにご謹製の白い粉を股間の袋にはさんで隠し持っていたとかいう嫌
疑をかけられ、遂に虜囚の身となり、伝宝の仕込杖も使えず、外見だけは黒っぽい中折帽
に黒いサングラス、口には髭、頬には髯、顎には鬚をたくわえ、さすが役者、ダンディで
勇ましいが、その内心は……。この様子、座頭市の生みの親、子母澤寛先生、あの世から
どのような想いで眺めていることだろう……)
さて、子母澤寛は「座頭市」の外、
「新選組始末記」(懐かしい! 昔、TBSでこのテ
レビ番組を担当した)の幕末もの、
「笹川の繁蔵」や「紋三郎の秀」など任侠ものや股旅
ものに特異の才能を示した作家。本名、梅谷松太郎(めでたい名である。あやかりたいも
のだ)明治二十五年、北海道石狩産。明治大学法学部卒業後、東京日日新聞(現、毎日新
聞)の遊軍記者として活躍。昭和三年「新選組始末記」「戊辰物語」を発表するが、その
ペンネーム「子母澤」は、当時住んでいた大森新井宿「子母沢」に因んだもの。そして名
の「寛」は尊敬する大衆文学の雄「菊池寛」にあやかったという。昭和四十三年、七十七
98
「ペンネーム」考(2)
才で没した。
白井喬二
――「女の心を強くするような話しの種はないかといふのさ」
これを聞くと繁蔵は、チェッとわざと舌打ちして
「真っ平です。熊木様も人が悪い。ジワジワとおのろけをおっしゃるからね」
「いや本当だ。藍竜毒の話しよりも才はじけたお前のことだから、もっと気軽な手み
やげ話でもあるかと思って寄ったのだが」――
大正十三年から昭和二年まで三年の歳月をついやして「報知新聞」に連載された大作、
白井喬二作「富士に立つ影」の一節である。余りに長い連載のため、挿絵画家も最初の木
村荘八から川端龍子、そして河野通勢と三代描き継がれた。作風が異なるため、作品の雰
囲気が若干異なるのも蓋し自然というものだろう。
本名、井上義通(義に通ずるか。いい名だ)
。 明 治 二 十 二 年 横 浜 生 ま れ。 日 大 経 済 学 部
卒。父親は鳥取県の士族、井上孝直。そのペンネームの「白井」は、江戸の遊女「小紫」
に血迷い、辻斬りをしていたかどで捕まり処刑された鳥取藩の武士で歌舞伎や浄瑠璃でお
馴染みの「白井権八」にあやかったもの。いや、単なるあやかりに非ず。彼の母親が「白
99
井権八」の屋敷跡に住んでいたと言うから、血縁的にも少なからず因縁があるように思え
る。名前の「喬二」は、単にその字面の良さから選んだものらしい。中山介山と並び称せ
られる時代劇大衆小説作家の雄。昭和五十五年、九十一才で逝く。長寿作家である。
100
「ペンネーム」考(3)
「ペンネーム」考(3)
城山三郎
城山三郎と言うと、第四十回直木賞受賞作品「総会屋錦城」を思い出す。その徹底した
取材、ダイナミックな書きっぷりは「堺屋太一」に一脈通ずるものがある。本名「杉浦英
一(字面はよいが一が淋しい)
。昭和二年、名古屋市生まれ。東京商大(現、一橋大)経
済学部卒。
(ナルホド読めた。その作品「のっとり」「輸出」「ある倒産」……経済小説の
パイオニアと呼ばれる所以が解けた。
)それも愛知学芸大の講師を務めたというのだから
ハンパじゃない。
さて、そのペンネームだが、これが一風変っている。名古屋城の城下町で、商家の子と
して育った杉浦青年は、独立心など皆無で大学講師となり結婚しても家を出る気配などな
い。
(独立して一家を構えるより親元にいた方が経済的に楽にきまっている)母親に半ば
追立てられるような恰好で両親の家を出た。移転先が名古屋の東郊外「城山」の地で、
移った月が三月だったので「城山三郎」としたと言うのだ。もし五月だったら「城山五郎」
になった筈である。気まぐれと言えばこのくらい気まぐれなペンネームもない。
101
徳富蘇峰
徳富蘇峰と言うと、まず「長寿作家」というイメージが浮ぶ。白髪、白髭、中折帽にス
テッキという出で立ち……。それもその筈、蘇峰は九十四才まで生きた。恐らく古今の文
壇における長者番付ナンバーワンではあるまいか。同じ長寿作家、武者小路実篤や、白井
喬二より三年長生きしている。勿論これは男性作家の話で、女流では昭和六十年に亡く
満で九十九才。数えで百歳だ!
なった武者小路実篤と同年生まれの「野上弥生子」 がいる。(名前がよい。「弥世に 生き
る」長命の名だ)その死亡時の年令を聞いて驚く勿れ!
いやこれくらいで驚いちゃいけない。寝たきりの植物人間ではたとえ百歳までも生きて
もただ気の毒という気持の方が先で素直に長寿を祝うという気にはなれない。しかし彼女
の場合、死の直前まで「新潮」に明治女学校時代を素材にした「森」を執筆していたとい
うのだから驚く。仮に「口述筆記」だったとしても脱帽、最敬礼である。彼女には六年ほ
ど及ばなかったが蘇峰、長寿作家としての面目躍如!
彼は文久三年、肥後、上益城郡杉堂村(現、熊本市秋津町)に生まれている。本名、徳
富猪一郎(猪(イ)一(イ)名だ)
。熊本生まれと聴いた瞬間「蘇峰」のペンネームが「霊
峰『阿蘇山』から来ているナ」と察知した人は賢明な諸君。因みに「阿蘇山は熊本と大分
の両県にまたがる複式活火山であるが、その点に冲する噴煙は、わが郷里、鹿児島から眺
める「桜島」を想い起こす。
102
「ペンネーム」考(3)
「蘇峰」の姓は「徳富」
。五才違いの弟の姓は「徳冨」である。昭和三十二年に没
なお、
する。
新田次郎
山岳小説におけるパイオニアである。
。 明 治 四 十 五 年、 長 野 県 は 諏 訪 市 生 ま れ。 戦 前 の
本名 藤原寛人(ヒロト。いい名だ)
無線電気通信所(現、電気通信大学)卒業。昭和六年に中央気象大に奉職。昭和二十六年
に妻「藤原てい」の「流れる星は生きている」がベストセラーになったのに刺戟され、小
説を書き始める。昭和三十年に富士山の強力の姿を描いた「強力伝」が第三十四回直木賞
受賞(因みに同時受賞が「邱永漢」
。芥川賞の方は上期が「遠藤周作」、下期が「石原慎太
郎」
。戦後文学最大の収穫期と言えそうだ)
。以後、「富士山頂」「槍ヶ岳開山」などの山岳
小説を中心とする多彩な執筆活動を展開する。
さて、そのペンネームの由来であるが、これは彼の郷里長野県諏訪市角間「新田」に因
んだもの。鎌倉末期の武将「新田義貞」とは関係ありません。昭和五十五年、六十八才で
逝く。
103
土師清二
土師清二(ドジ・セイジと読むとハジですぞ)というと、まず古い時代劇作家というイ
メージが浮かぶが、朝日新聞に連載された名作「砂繪呪縛(スナエ・シバリ)」はその初
期の代表作。
お酉(トリ)は、紙とすずりを藤兵衛の前に置いた。
「では、いい?」と、お酉。
「ウム」と、藤兵衛。
一糸もまとわない女!
藤兵衛は紙をのべて筆をならした。お酉は藤兵衛に背を向け、床に向ってすらりと
立った。肩からスルリとあわせが落ちた。
藤兵衛は紙の上に筆を走らせている。見る見る腰から肩までの線の起伏が紙の上に
浮び上ってくる……。
昭和初年にしては大胆な描写である。まるで映画の一シーンでも見るように、お酉の裸
身と、筆を持つ藤兵衛の姿が目に浮かぶ。昨今のミもフタもない描写より、よほど清楚な
エロチシズムを感ずる。
104
「ペンネーム」考(3)
本 名、 赤 松 静 太( こ っ ち の 方 が よ っ ぽ ど ペ ン ネ ー ム ら し い )。 明 治 二 十 六 年 岡 山 生 ま
れ。そう「岡山」というと「埴輪伝説」の里。その生まれ故郷岡山県邑久郡国府村土師(ハ
ジ)からそのペンネームはつけられた。ブンや(朝日新聞記者)がブンヤ(文筆家)になっ
たはしり。昭和五十二年、八十四才で逝く。長寿作家だ。
藤枝静男
これまた「お医者さん作家」である。医者と言っても眼科医。したがって「イベリット
眼」
(因みにイペリットは糜爛性毒ガス)や「空気頭」など自分の専門の医学や「眼」を
素材としたものが多い。昭和三十年に発表した「痩我慢の説」と、翌年発表した、北満駐
屯軍の腐敗を若い見習い軍医の目を通して描いた「犬の血」は共に芥川賞候補となる。本
名、勝見次郎(次男坊か)千葉医大卒。小説の神様「志賀直哉」の弟子。
ペンネームであるが、姓の藤枝は出生が静岡県藤枝市であるところから文芸評論家、本
多秋五が命名したもの。名前は、夭折した親友「北川静男」に因んだと言う。
藤沢周平
「藤沢」の生まれです。ただし同じ藤沢でも湘南の藤沢でなく、東北、山形
ご名答! 県鶴岡市郊外の「藤沢」である。名前の「周」は甥の名前から、「平」はなんとなく語呂
105
がいいのでつけたと言う。本名、小菅留治(コスゲ・リュウチと読んではいけません。小
菅刑務所に留置されそうでイケマセン! トメハルです。)昭和二年、鶴岡市生まれ。山
形師範卒。中学校教師、業界紙編集長をつとめながら小説を書き、昭和四十八年「暗殺の
年輪」で第六十九回直木賞受賞。
(同期受賞作家に「津軽じょんがら節」長部日出雄がい
る。
「又蔵の火」
「隠し剣孤影抄」など、時代小説作家として活躍。
正宗白鳥
ペンネームとしては白眉である。いかめしい武士を連想する姓に対し、水面(ミナモ)
に浮かぶ優雅なスワンを思わせる名「白鳥」との取り合せがよい。ところが「スワン先
生」生前このペンネームがあまり気に召さなかったらしい。その気に召さなかった理由が
これまたフルっている。曰く「
『ハクチョウ』という音が『ハクション』と、くしゃみし
ているようでよくない。なんでこんな馬鹿らしい名前をつけたのだろう……」もったいな
い話。もっともペンネームの数では恐らく世界一と思われる七十四個のペンネームをつけ
た「森鷗外」も、その筆名が気に入らず、小倉に左遷されてからは一切これを使わず「鷗
外漁史は死せり」という文を発表しているほどだから、とかく文豪と呼ばれる人達は、我
ままで気まぐれのようだ。第一そのペンネームをつけたのは自分自身であり、少なくとも
最初は気に入っていた筈なのだから……。
「ニヒリストでロマンチストハクチョウ」の真
106
「ペンネーム」考(3)
骨頂を見る思いだ。本名は、正宗忠夫(字面は合っている)。明治十二年、岡山県和気郡
穂波村生まれ。二百余年つづいた旧家の出で、ハクチョウは十人弟妹の長男。東京専門学
校(現、早大のの前身)卒。ペンネームの「白鳥」は、母の郷里が讃岐(サヌキ)の国「今
の香川県)白鳥(シラトリ)なのでそれを音読したと言う。昭和十八年「日本ペンクラブ」
会長。同二十五年「文化勲章」受賞。昭和三十七年、八十三才で逝く。
丸谷才一
藤沢周平と同郷の山形県鶴岡市生まれ。東大英文科卒業後、國學院大學助教授、東大
英文科講師を経て作家生活に入る。昭和三十五年、処女作「エホバの顔を避けて」を発
表後、四十三年「年の残り」により芥川賞受賞。(同期に「三匹の蟹」の大庭みな子が、
また直木賞には陳舜臣と、早乙女貢がいる。文芸評論、 エッセイストとしても 有名。本
名、根村才一。藤沢周平より二年先輩の大正十四年生まれ。さて、そのペンネームである
が、たまたま才一の父が山形県大山の味噌醤油問屋「丸屋」の三男坊であったところか
ら「屋」を「谷」に変えペンネームとしたものらしい。因みに叔父に当る父の兄は「才兵
衛」という名で、その後今日に至るまで「丸屋」の当主は「才兵衛」と名乗っており、丸
谷才一の「才」もこれに因んだもの。筆者も最初このペンネームに接した時、「変った名
前だなァー。それに変った文章だなァー」と思った記憶があるが、いずれにしても「味噌
107
問屋」の一族から学者兼、芥川賞作家が生まれたわけ。決してその文章にミソをつける気
はないが……。
108
創作 歌謡ドラマ 別れに「星影のワルツ」を歌おう
創作 歌謡ドラマ 別れに「星影のワルツ」を歌おう
「エッ! 男といっしょに住んでいるって?……」
「……」
「同棲してるってわけか……」
「
(力なく)そう……」
「いつから同棲始めたんだい」
「ここ一ヶ月ぐらい前からよ」
「つき合い始めてからどのぐらいなるんだ」
「そうネ。一年ぐらいなるかしら……」
「ホー、一年もネ。その間ダブル・デイトしてたわけだ」
「ワタシが悪い。その点、あやまります。ごめんなさい。……でも、私の気持もわかって
欲しいの……。たしかにあなたとのつき合いは長いし、あなたはいい人だけど、結婚なん
てことはまァー無理だろうし……それに私も年とってきたし、そろそろいい人を見つけて
結婚し、落ちつきたいと考え始めたわけ……」
「そこへ彼が現れたってわけだ」
109
「最初、彼がどこまで本気かわからなかったし、初め、浮気のつもりだったの。ところが
最近、私のことでワイフと別れたということがわかったし……」
「どうしてわかったんだい」
「調べたの。私は昔から彼は知っているし、彼女だって古くからの友人だし、住んでいる
家も知っているワ。それで彼女に直接電話して確かめたの」
「じゃ、彼は親戚ってわけだ」
「古いつき合いなの」
「つまり、彼って、昔よくボクに話してくれていた、君の引越しの時手伝ってくれたり、
オーディオシステムを呉れたりして気を引いていた男ってわけだ」
「 今 は、 彼 の こ と に つ い て 何 も 言 い た く な い の。 だ か ら お 願 い。 こ れ 以 上 聞 か な い で
……」
「ボクは決してヤキモチで言ってるんじゃないんだよ。誤解しないで欲しい。ボクは真底
から、君に幸せになって欲しいと思っているんだ。これは本心だ。ボクができなかったこ
とを彼がやってくれるんだったら、ボクは一切文句ない。むしろ感謝しているくらいだ。
しかし、今まで何もしてやれなかったボクにこう言う資格はないかも知れないけれど、ま
た、これが人違いであって欲しいと思うけど、ボクが調べたところでは、その男には離婚
歴や同棲歴があり、しかも現在でもある未亡人と同棲してるって話だ。もしそれが事実だ
110
創作 歌謡ドラマ 別れに「星影のワルツ」を歌おう
としたら今日までつき合ってきた君を引き渡す相手としてとても不安なんだ。つまり単に
遊ばれてやがてポイと捨てられるんじゃないかって不安がネ……」
「いいの。それでも……。やってみなけりゃわからない。だからやってみようと思ってい
るの。相手がワイフと別れてまで私と一緒になりたいと言ってくれるんだったら、私もそ
れに応えてみようと思って……。どこまでやれるか、私は今、賭けてるの。これで大失敗
するかもしれない。それでもいいの。今までの私とは違うワ。今、私は彼に賭けてみよう
と思ってるの……」
「君がそこまで決心したんだったら、ボクは何も言わない……。でもネ。老婆心ながら同
棲だけはヤメた方がいいと思うよ」
「どうして?……」
「どうしてって……。相手が真剣に結婚しようって気にならないからだよ。第一、結婚も
しないで女の家に転がり込むような汚い男は信用出来ないネ」
「だって、私のために家を飛び出して来たのよ。寝る場所もないのよ」
「君を本当に愛しているんだったら、自分で家を買って結婚式を挙げ、正式に入籍してか
ら君を新居に迎え入れるのが順序だろ……。それなのに入籍もしないで女の家に転がり込
むなんてヒモみたいなもんだよ」
「だって、彼は私のために一文なしで家を飛び出して来たのよ」
111
「ということは、部屋代も食事代も、生活費も全部君が払ってるってわけだ」
「困ってる人がいたら助けてあげたいと思うの」
「なるほど。君は立派な天使だ。部屋つき、食事つき、セックスつき……こんなおいしい
話ないネ。男だったらみんなヨダレたらすよ。おまけに何ら法律的制約もないんだから
ネ。とに角、君が何をしようと君の勝手だが、後で単に彼に利用され、遊ばれただけだと
いうことがわかったら、その時はボクだって黙ってないよ」
「わかってます。その時は私の方からちゃんとお願いするワ。私もバカじゃないつもり
よ。私の好意に甘えて彼がいつまでもデーンとふんぞり返ってズルズルに居坐るようだっ
たら、私だって黙ってないワ。もうそれまでよ」
「結婚をエサにちらつかせれば、なんでも言うことを聞く……そんな哀れな女にだけは
なって欲しくないナ」
「ハイ。私もそんなに熱を上げてないつもりよ」
「利口な君のことだ。その辺はうまくやると思うけど……」
「そう。私もダテに年取ってないワ。盲目(メクラ)に だけはならないつもり よ。だか
ら、あなたも彼と会って確かめて欲しいの。彼がどういう男か。信頼できる男かどうか。
あなたが見ればわかる筈よ。彼もあなたと会ってもいいって言ってるワ」
「ボクだって会ったっていいよ。ボクの大事な宝を窃んだ男がどんな顔をしているか確か
112
創作 歌謡ドラマ 別れに「星影のワルツ」を歌おう
めてみるのも一興だからネ……」
「じゃ。明日の晩、七時に家に来てよ」
「でも、間男(マオトコ)された男の馬鹿面(ヅラ)を相手にさらすのもちょっと気がひ
けてネ……」
「そんなメンツにこだわっている場合じゃないでしょう」
「しかし、お古でも、喜んで貰ってくれる人がいるんだから感謝しないとネ」
「失礼ねッ! お古で悪かったわネ。あなたがお古にしたんじゃないのッ!」
「ご、ご、ご免、ボ、ボクが悪かった……」
ある初夏の夏(午後八時頃)
屏風を突立てたような奇岩の景勝地、パロス・ヴェルデス――。
その断崖の、とある木立の下。残照に映える海面を眺めながら肩をしっかり寄せあって
いる男女の影――。
あたりはすっかり薄暗く、背後の人家の灯りが、立ちこめる夕霧の中に燈籠のように
点々と浮遊している。
空には、降るような一面の星、星、星……。
113
あたりに、人影はない。
「はじめてあなたとデートしたのも、この海だったわネ」
「そうだったネ。時間もちょうどこんな頃……ボクがあたりのロマンチックな雰囲気に
すっかり興奮し、君を抱こうとしたら、君がいきなり泣き出したのには驚かされた。二人
ともまだ若かったネ……」
「あなたはいつもせっかちだったから……」
「今日まで、いろんなことがあった……」
「そう。あり過ぎるくらいあったワ」
「いい想い出も、悪い想い出も……」
「今となってはみな懐かしいワ」
「子供まで……」
「それは言わないで……泣きたくなるの……」
「ご免……」
「その一つ一つの想い出を胸に、私はこれから第二の人生に旅立つワ」
「いけない。悪い夢を見たと思って今夜限りその想い出は全部捨ててくれ。この初めて
会ったパロス・ヴェルデスの深海に捨てるんだ」
114
創作 歌謡ドラマ 別れに「星影のワルツ」を歌おう
「できないワ。あんなに愛した仲なのに……(と、ワッと 泣いて彼の胸に顔をう める)
……」
「
(やさしくその背をなでながら)仕方がないんだよ。すべては君の将来のためだ」
「
(嗚咽でとぎれとぐれに)あんなに……好きだった……人なのに……」
「仕方がないよ。ボクは何も君にしてやれなかったんだから……きっと、これが人生って
ものサ。幸福(シアワセ)になるんだよ」
「……(高まる嗚咽……やげて涙でクシャクシャになった顔を上げ彼を見上げ)ウン(と
頷く)……」
「幸福は自分の手で摑むものだ。わかったネ」
「
(かすかに)わかったワ」
やっと彼女、体を起こす――。
「遠くから君の幸福を祈っているよ」
「ありがとう……。じゃ、これで『さようなら』ネ……」
「その『さようなら』って言葉はよそう。哀しくなるから……。その代り、別れに二人で
『星影のワルツ』を歌おう……ネッ」
「そうネ」
「その前に最後の口吻(クチヅケ)を交わそうか」
115
「……いいワ」
薄闇の中の断崖を噛む白い波頭に映えて、涙にぬれた二人の顔……その熱い口吻がいつ
までもつづく……。やがて二人で唱和する「星影のワルツ」が潮騒の間隙を縫うように甘
くせつなく流れてくる――。
〽別れることは つらいけど
仕方がないんだ 君のため
別れに星影のワルツを歌おう
冷たい心じゃ ないんだよ
冷たい心じゃ ないんだよ
今でも好きだ 死ぬほどに
〽一緒になれる 倖せを
二人で夢見た ほほえんだ
別れに星影のワルツを歌おう
116
創作 歌謡ドラマ 別れに「星影のワルツ」を歌おう
あんなに愛した仲なのに
あんなに愛した仲なのに
涙がにじむ 夜の海
〽さようならなんて
いえないだろうな 泣くだろうな
別れに星影のワルツを歌おう
遠くで祈ろう 倖せを
遠くで祈ろう 倖せを
今夜も星が 降るようだ
白鳥園枝 作詞
遠藤 実 作曲
千 昌夫 歌
117
創作 歌謡ドラマ(2「
) ラブレター」
お兄さま
嬉しいお便り、誠にありがとうございました。
きょうか、あすかと、毎日首を長くして待っていましたのよ。とても嬉しく拝見させて
いただきました。
自殺の件、きびしく(?)説教してありましたけど、カコにはその説教が嬉しく、何回
も何回も繰り返し読みました。
〝怒られるのが嬉しい(?)
〟なんてはじめて聞かれたでしょう。カコだけじゃないかし
ら、こんなことを言うの……。
お兄さま。カコはこんなことは書きたくないのです。書きたくはないけど、お兄さまと
お別れしなければなりません。カコにしては、とてもつらいです。
折角、ステキなお兄さまが出来たと言うのに、兄と妹は、そう……今度こそ永久にお別
れしなくてはならなくなりました。
母親になっても、お兄さまとの交友は大切にしたいと思っていたのですが、結婚してし
118
創作 歌謡ドラマ(2)「ラブレター」
まえばいくら夫が理解してくれても、それが長く続くものではありません。お兄さまと
は、年も大分離れていますが、彼にしてみればあまりいい気持はしないでしょう。
いくら実妹のように可愛がって下さっても、私も二十才。恋する一女性にすぎないので
す。
お兄さまから見ると、二十才の娘なんて、まだまだ子供ぐらいにしか思えないかもしれ
ませんが、カコもいつの間に恋慕に狂う〝女〟になっていました。
大人になっていくに従い、カコはお兄さまと交友関係にあるのがこわいのです。
ただの〝兄と妹〟の関係であったとしても、手紙の枚数が増えるに従い、私たちは、言
わずと知れた〝男と女〟です。
たとえ兄と妹の清い文通であっても、それが歳月のいたずらで〝恋〟に変っていくかも
知れないのです。お兄さまは絶対にそんなことはないとおっしゃるかもしれませんが、カ
コの気持が〝愛〟に変ったら、それこそカコはみじめになります。
お兄さま。カコはいつまでも、そう……許されるものなら結婚しないで、私たちの間が
尽きるまで〝お兄さま〟
〝お兄さま〟と甘えて慕っていたいのです。
反面、その裏には、お兄さまを好きで仕方がないのです。
119
三年間の空白の間も、お兄さまからいただいたプレゼントや、お手紙、写真など、現在
でも大切に保存してあるのは、おそらくそういった気持からなのでしょう。お兄さまには
迷惑千万なことでしょうが、お兄さまを慕う気持は、カコの勝手です。ですからカコの気
持を否定なさる権利など、お兄さまにはありません。好きになろうと嫌いになろうとカコ
の勝手です。お互いの年がどんなに離れていようと、そんなこと無関係です。
……でもお兄さま。私たちはこれで終りにしなくてはなりません。カコの裏の気持がお
わかりになったでしょう。表面には兄を慕う妹。裏は一男性を恋する一人の女。……
お兄さま。カコはこわいのです。本当は自分の気持が愛に変ったら、カコは何もかも捨
てて、アメリカまで飛んで行くかも知れません。カコはこうと思いこんだら実行に移す方
なので、先が目に見えてこわいのです。
お兄さま。傷が浅いうちにカコはお兄さまとお別れします。
お兄さま。覚えていますか。カコが初めてお兄さまとお会いした時のことを……。
お兄さまが、会社のバケーションを利用し、取材をかねて南薩の〝坊の津〟を訪れた
時、カコはまだ十七才の高校生でした。そして夏休みに、紺碧の海を臨む小高い丘の上に
ある喫茶店で、ウェイトレスのアルバイトをしていましたネ……。
私がお兄さまのテーブルに注文をとりに行ったとき、お兄さまは、
「この土地を訪れたのは生れて初めてなので様子がわかりません。勝手なお願いかも知れ
120
創作 歌謡ドラマ(2)「ラブレター」
ませんが、もし時間があったら案内していただけませんか」と、遠慮がちに言われ、この
南蛮渡来の地〝坊の津〟の歴史的名所旧跡を案内してあげたのが、お兄さまとの初めての
出逢いでしたネ。
お兄さまがアメリカへ帰られる時、
「 お 願 い、 カ コ を ア メ リ カ へ 連 れ て っ て … … 、 お 願
その後、お兄さまはバケーションの度に当地を訪れ、一緒に映画を観たり、食事をした
り、海水浴に行ったりして、夢のような楽しいひとときを過ごしました。
い! 連れてって! お願い……お兄さまァー……」と、空港で泣いてダダをこね、お兄
さまを困らしたことがありましたネ。そして離れている時は、殆んど毎日のようにお兄さ
まへ手紙を書きました。
やさしいお兄さまからの返事が待遠しく、いつも学校から飛んで帰り、郵便受けを探し
たワ。そして郵便受けにお兄さまの筆跡の航空便を見つけた時の嬉しさ! 狂喜して自分
の室に持ち帰り、鍵を締めてお兄さまのやさしい文章を何べんも読み返したワ……。
お兄さま、カコは短い間でしたけど、とても素晴らしい夢を見せていただきました。
カコにとって、これは生涯忘れることの出来ない想い出となることでしょう。イエ、お
ばあちゃんになっても、お兄さまからのお便りだけは大切に保存しておくつもりです。お
兄さまのお手紙を焼却するなんてカコには出来ません。
お兄さま。カコに最後の我がままを告白させて下さい。
121
カコはお兄さまが好きでした。死ぬ程好きでした。カコが今日までどれほどお兄さまを
慕っていたことか……。カコのハートは、おにいさまへの恋慕の炎で真赤に燃えています
……。
お兄さま。今一度、カコと呼んで力いっぱい抱き締めて下さい。最初にお兄さまがつけ
て下さった私の〝愛称〟カコ、カコ、カコ……。
そして、カコにもう一度、
〝お兄さま〟と呼ぶことを許して下さい。
榊
和子
お兄さま。お兄さま。お兄さま。お兄さま……(ソッと)あなた……。
カコはあなたが死ぬほど好きです。
では、いつまでもお元気でお過ごし下さい。
さようなら
三月二十八日 午前一時二十五分
お兄さまへ
「ラブレター フローム ロスアンゼルス」
〽初めて逢った彼女は十七才
122
創作 歌謡ドラマ(2)「ラブレター」
黒い瞳の燃える 高校生
天使のような その微笑に
時の流れは 立ちつくす
この胸のときめき どう伝えよう
ラブレター フローム ロスアンゼルス
〽初めて逢った彼女は十七才
黒髪ゆれる 高校生
ためらいがちな その瞳に
時の流れは 立ちつくす
この胸のときめき どう伝えよう
ラブレター フローム ロスアンゼルス
〽初めて逢った彼女は十七才
黒い水着のまぶしい高校生
ピチピチした その姿態に
時の流れは 立ちつくす
123
この胸のときめき どう伝えよう
ラブレター フローム ロスアンゼルス
〽初めて逢った彼女も 今は二十才(ハタチ)
妹の仮面を脱ぎ捨て 恋に狂う娘(オンナ)
お兄さま お兄さん あなた……
カコちゃん カコ 和子……
この胸の苦しみ どう伝えよう
ラブレター フローム ロスアンゼルス
(作詞作曲 花咲太郎=著者)
124
人生劇場「痴情」
チジョウ
人生劇場「痴情」
夜、九時ごろ――。
場所は、郊外の閑静な住宅地のモルタル二階建て。
階下はガレージと、四帖半の部屋。その部屋には、公立学校の用務員をしている初老の
男が住み、小さな花畑をはさんだその隣の母屋には、長年高校の教師をしていた未亡人が
オーナー兼マネージャーとして、亡くなった主人が残してくれたこのアパートを管理して
いる。
二階へは急勾配の石段が続き、部屋の中には、二十四、五才ぐらいの小柄な男がパンツ
一枚でベッドの上に腹這いになり、週刊誌をパラパラめくりながら退屈そうに彼女の帰り
を待っている。
六帖ほどの部屋には、窓ぎわにシングルベッドが置かれ、壁ぎわには小型のタンスとラ
ブシートがあるくらいで目立った調度品はない。
ベッド脇のサイドテーブルには、今しがた二人で飲んだと思われるビール瓶と飲みさし
125
のコップが二つ置かれてある。
そこへ、ピンクのネグリジェの上にベージュのガウンを引っかけた二十才ぐらいの、や
や面長の顔をストレート・セミ・ロングヘアーでつつんだスリムな女が勢いよく入ってく
る。その無邪気な顔と色白でピチピチした姿態はまだ、ティーン・エージャーのように見
える。
勢いよく開くドアの音に、男、ガバッと上半身を起し振り向く――。
「オ、お帰り、……だ、誰だったの……」
「ちょっと、おおやさんが……」
「おおやさん?……おおやさんが夜中に何の用だい?」
「部屋代のことで……」
「夜中に、おおやが部屋代の話をするのかい……」
「い、今、外出から帰って来たみたい……」
「そうじゃなくて、本当はオレのことだろう」
「ちがうわよ……」
「ウソつくな。本当はオレのことを言ったんだ。室に他の人を入れるな、とかなんとか
……」
126
人生劇場「痴情」
「ちがうわよ。安心して寝てらっしゃい」
「きっと、オレのことだ。ホテルへ行こう」
「エ?」
「ホテルへ行こう」
「イヤ」
「ホテル・ラブなんて、なんとなく安っぽく見えてイヤなんだろう」
「ウン」
「お前らしいよ。ハッハッハ……。オイ、オイ、いつまでそこへ突立っているんだ。早く
こっちへ入って来いよ。折角、ビールでいい気分になって、これからって時に邪魔者が入
りやがって……」
彼女、ネグリジェ姿でベッドに入ろうとする。
「オイ、その前に電気消して来いよ」
「イヤ」
「また、イヤって言う。本当はオレ、弱視じゃないけど、灯りに対して目が弱いんだ。だ
から消してくれよ」
「イヤだったらイヤ」
「つけた方がいいのか」
127
「ウン」
「どうして消すとイヤなんだ」
「何をされるかわからないから……」
「呆らしくてモノが言えないよ。どうしても消したくないって言うならそれでもいいけ
ど、お前の裸、全部見られちゃうんだよ。それでもいいのか……」
「ワタシ平気……」
「それとも、オレの裸見たいのかい」
「イヤーッ。エッチ……」
「どっちがエッチだい。オイオイ早くベッドに入れよ。カゼ引くじゃないか」
「これ脱ぐの?」
「脱ぎたくなかったら脱がなくっていいんだよ」
「そう言われると弱いワ」
と、彼女、肩のスリップに手をかけスルリと落す。
瞬間、ライトの逆光に映え、彼女の形よい乳房がまるで生きもののようにブルンとはず
んで現れる。
「これも取るの?」
彼女、ピンクのパンティに手をかける。
128
人生劇場「痴情」
「当り前じゃないか。男と女がベッドで何するって思ってるんだい。子供でもあるまいし
……」
――・――
「わかったワ……」
戸外――。
遠くに母屋の灯りが見える外、室外灯もなくあたりは真の闇。その闇の中にうごめく人
の影――。初老の男が二階の手すりに手をかけ窓から必死に室内の様子を息を殺して覗い
ている。
――・――
臆病そうな男の眼が、闇の中に憑かれたように異様に輝いている――。
階下のガレージの陰。
女の、声を殺した怒声に初老の男がうなだれている。
「ガラス窓なんか、ドンドン叩いちゃダメじゃないの」
129
「ス、すまない」
「すまないじゃないワ。折角これから楽しもうっていう矢先に……」
「ご、ご免……」
「ごめんじゃないわよ。あやまりさえすればよいと思ってるんだから……」
「ぼ、ボク、どうしても我慢できなかったんだよ。死ぬほど好きな女が、ほかの男に抱か
れると思うとネ……」
「でも、約束したでしょう。一切邪魔しないって……」
「ウン。でも気が狂いそうになったんだよ」
「あんたとは年が違い過ぎるんだから、自由にさせるって約束でしょ」
「ウン……」
男、悄然と立ちつくしている。
「私、まだ若いんですからネ。あんたみたいな年寄りでなく、生きのいい若い男と遊びた
いの」
「わかってます」
「あんた、だまって、ワタシの遊ぶ金さえ出してくれればいいの。その分サービスするか
ら……」
「ウン、でも、目の前であれほどズバリ見せつけられちゃうとボクだって我慢できない
130
人生劇場「痴情」
よォ……」
「でも、最初、見たいって言ったのは、あんたの方でしょ。お願いだから見せてくれって
……」
「ウン、そう言った。言ったには言ったけど……」
「ワタシだってネ。見世物じゃないんだから、あんなもん人に見せたくないわよ。あんま
りあんたがシツこく泣いて頼むから、彼が電気を消せって言うのを、ワザワザ消さないで
一部始終見せてやろうとしているんじゃないの」
「ご、ご、ご免。ボクが悪かった……もう二度と窓叩かないから許して……」
「今度、窓を叩いたら、もう私、このアパートから出て行くからネ」
「オ、お願い。それだけはやめてェー。こ、この通りお願いだ。あんたの言うことは何で
も聞く。地ベタに腹這いになって足の裏をナメろと言われればいつだってよろこんでナメ
る。だ、だから家を出て行くのだけはヤメてくれ。こ、この通りお願いだ。老い先短い男
を不憫だと思って許してくれーッ!……」
男、地ベタに臥いつくばって泣きながら哀願する。
「ヨーシ。今度までよ」
「ありがとう。ありがとう!」
男狂喜して立上がる。そして何か落ち着かなさそうにモジモジしている。
131
「まだ、何か用なの……」
「アノ……」
「その前に触りたいって言いたいんでしょう」
「ウン」
「ダメよ。彼が帰ってからって約束でしょ」
「ア、そうだった」
「それにしても彼に何と言い訳したらいいかしら……。途中で室を抜け出してきたりして
……」
「アノ……」
「なによ」
「おおやさんが用事だって言えばいいじゃない」
「おおやさんが?……」
「そう、おおやさんが部屋代の値あげのことで話があったって……」
「あんたって、いつもボーッとしているわりには悪ヂエが働くのネ」
「すまない」と、頭かく。
「でも、おかしくないかしらネ。夜中に……」
「おおやが今、外出先から帰って来たって言えばいいじゃない」
132
人生劇場「痴情」
「それもそうネ。じゃ、そう言ってみるワ。……でも、今度のお小遣い高いわよ。わかっ
てるわネ……」
「ウン。仕方がない。好きなあんたのためだ。一食や二食、食べなくたって工面するよ」
「じゃ、一足先に行くわよ」
――・――
と、彼女、石段を一気に二階へ駆け登って行く……。
深夜(十一時半)――。
窓から漏れる薄明りの中に、若い男に刺激されたのか、若い女と初老の男との狂ったよ
うな痴態がいつ果てるともなく走馬燈のように写し出されている――。
アパートの上には、いつ登ったのか、片割れ月が夜霧にかすんで浮き――。
(カメラ静かにズーム・アウトすると――)
まるで何事もなかったように町の全景が静かに横臥わっている――。(完)
133
童話 三ちゃんとダイヤの指輪
さむーい寒い北国の、そのまたズーッと北のはずれに「三ちゃん」というとても可愛い
男の子が、お母さんと二人で住んでいました。
「どうして、お父さんはいないの……」
「お父さんはネ、三ちゃんが生まれてすぐ、ヤマから木を切って村へ運ぶ途中、沢で足を
滑らし、谷底へ落ちて死んでしまったのよ」
三ちゃんの家は、お父さんが木こりだったため、村からズーッと離れた山奥にあり、粗
末な掘立て小屋でしたが、勿論スモッグなどなく、満月の夜などお月さまがお盆か盥(タ
ライ)ぐらいの大きさになり、月のない夜でも星の明かりで本が読めるぐらい、とても空
気が澄んでいました。三ちゃんのお父さんはもともと都会に住んでおり、大きな会社を
持っていたのですが、都会の喧騒とスモッグにイヤになり、三ちゃんが生まれる数年前、
お母さんとこの山奥の田舎へ引越して来たのです。
三ちゃんには、家が村から離れているため、お友達はいません。しかし動物の友達な
ら沢山いました。なかでも仲良しは、いつも遊びに来 る野兎の「ラビッ子」と、 りすの
「ピョン」
、それにお父さんが作った池に住む鯉の「パク」です。
134
童話 三ちゃんとダイヤの指輪
さて、今夜は十五夜です。三ちゃんはさっきから池のふちに腰かけて、お母さんの作ら
れたお供えのお団子を食べながらお月さんをあきずにジーッと眺めています。
池には芒(ススキ)がその長い影を水面に落とし、鯉のパクは風にそよぐ芒の穂影を
追っかけ、遊んでいます。
「ネー。三ちゃん。お月さまの中に兎が見えるでしょう……」
いつの間に忍び寄ったのか、お母さんが「ソッ」と後ろでささやきました。
「どこに?……」
「よーく見てごらん。あの真中あたりを……」
三ちゃんは、お母さんの言われたところをジーッと眺めていると、なんとなく兎のよう
な影が見えてきました。
「でも、どうして兎があんな高い所へ登れるの?」
「それはネー。この世で死んだ人の魂が天に登って兎になるのよ」
「へー。それで兎はあんなところで何してるの?」
「お餅ついているのよ。この世に残っている人達のために、みんなが幸福(シアワセ)に
なりますよーにってネ」
「ホー。じゃ、うちのお父さんもあそこで餅を搗(ツ)きながらボク達を見てるんだ」
「そうですよ。そして、いつかお母さんも行くのよ」
135
「お母さんも?」
「イヤだーッ!」
「いやだーって仕方ないでしょう。誰だっていつかは死ぬんですからネ……」
そのとき、三ちゃんはお月さんを見ていたので判らなかったが、お母さんの頬に銀色の
水滴が光り、流れ星のようにサーッと頬を伝って流れ落ちました。三ちゃんは淋しそうに
お母さんの流れ星の零のあとを眺めています。
〈お母さんが死ぬなんて……〉
三ちゃんにはとても考えられないことでした。
池のふちに肩を並べた三ちゃんとお母さんは、いつしか童謡を口ずさんでいました。
月の砂漠を はるばると
旅の駱駝が 行きました
金と銀との 鞍おいて
二つ並んで 行きました……
いつの間にか、三ちゃんの友達の「ラビッ子」も、りすの「ピョン」も、池の中の「パ
ク」までも、水の中から顔を出し、山の真上に出たお盆のような大きなお月さまを眺めな
136
童話 三ちゃんとダイヤの指輪
がら、さも自分で歌っているように口を「パクパク」動かしています……。
その年の冬でした。三ちゃんのお母さんが重い病気にかかり、床に臥せたのは……。外
は一面の雪景色……戸口には半分以上も雪がつもり、戸を開けることもできません。だか
ら村までお医者さんを迎えに行くにも三ちゃんにはどうすることもできませんでした。お
母さんの額からは焼けつくような熱が出ています。三ちゃんがタオルに雪をつつみ、額に
乗せると、一分もしないうちに融けて、熱いお湯が瀧のようにしたたり落ちるのです。
「お母さーん。苦しい?……」
死んじゃいやーッ!」
三ちゃんは泣きながら、お母さんの肩にしがみついてその顔を眺めています。お母さん
はズーッと目を閉じたままです。
「お母さーんッ!
三ちゃんは必死になってその肩をゆさぶりました。部屋の隅では「ラビッ子」と「ピョ
ン」が震えながらその様子を眺めています。
その時、お母さんがかすかに目を開けました。
「オ、お母さーん!……」
お母さんは、おぼろな目で三ちゃんを見ながら、最後の力をふりしぼって、とぎれとぎ
れにこう言いました。
137
「さ、三ちゃん……ごめんなさい。お母さんは……もうダメです……お母さんが死んでも
……三ちゃんは強く生きるんですよ。……お母さんの枕の下に……封筒があります……雪
が止んだら……山を降り……村のだれでもいい……見せなさい……わかったわネ……お母
さんはこれから……お月さんへ登り……お父さんに…… 会いに行きます……三ち ゃんも
……淋しくなったら……お月さんに向って……何でもお話しなさい……お母さんは……お
父さんといっしょに……いつまでもあなたを……見守っていますからネ……」
そう言うと、お母さんは目を閉じました。
「いやーッ!」
「お母さん、死んじゃいやーッ!」
三ちゃんは、お母さんの腕にとりすがると狂った様にゆさぶって泣きました。すると一
度目を閉じたお母さんが再びかすかに目を開けたのです。そして、
「これは……お母さんが……お父さんと……一緒になったとき……お父さんから……いた
だいた……大事な宝物です。肌身離さず……身につけておくんですよ……」
見ると、それはそれは大きな美しいダイヤモンドの指輪でした。そして、それっきりお
母さんは呼べど叫べど目をさましませんでした。その顔は青ざめ、体は冷たくなっていく
ばかりです。
「お母さーん……おかあさーん……!」
天涯孤独となった三ちゃんの悲痛な叫び声は、窓の外のボタン雪を潜り、山の彼方まで
138
童話 三ちゃんとダイヤの指輪
こだましました。
あくる日、雪が止んだので三ちゃんは山を降りて、村へ行く決心をしました。
白い毛糸の帽子に、首には赤いマフラーを巻き、黒い長靴をはきました。勿論、お母さ
んに言われた封筒と指輪はしっかりタオルに包み、お腹にまきつけてあります。
「さアー、行こう」
「ラビッ子」と「ピョン」が元気よく三ちゃんの後をつけて走ります。半分雪に埋った
なつかしい小屋がだんだん遠ざかっていきます。ところがどうしたというのでしょう。家
を出て十分もたたないのに、止んだ筈の雪がまた降り始め、どんどん積り、風まで出て吹
雪になってしまったのです。それだけではありません。真昼だというのに段々あたりが暗
くなっていくのです。
「アレーッ!」
空を見上げた三ちゃんは腰が抜けるぐらい驚きました。だって、お日さまが少しずつ欠
けていくのです。
「どうして……ェ?」
三ちゃんはお月さまが欠けるのは今までいくらでも見ているが、お日さまが欠けるのを
見たのは生れて初めてです。まるで池の「パク」が丸い麸(フ)をつつくみたいに段々欠
139
けていくのです。
「ラビッ子」も「ピョン」も驚いて空を見上げています。
そうしているうちとうとう三ちゃんの体は腰まで雪に埋り、行くことも引返すこともで
きなくなってしまいました。勿論「ラビッ子」にも「ピョン」にも三ちゃんを助ける力は
ありません。狂ったように三ちゃんの廻りを駆け廻っているだけです。
「お母さーん。助けてーッ!」
とうとう三ちゃんが悲鳴をあげました。
そのときです。全く信じられない光景が現れたのは……。お日さまの真中が真黒に塗り
つぶされ、まわりの光の輪だけになったとき、その丸い光の輪がまるでサーチライトのよ
うに地上の雪原を射したのです。それは丁度、三ちゃんが埋っているあたりです。そのと
きどこからともなく誰かが遠くで呼ぶ声がしました。
「三ちゃん!……」
まぎれもなくお母さんの声です。すると赤い光の輪に乗って三ちゃんが赤いマフラーを
なびかせながら天空へ吸い寄せられて行くではありませんか。きっと雪の中で、ひとりで
凍え死んでいく三ちゃんを憐れに思ったお母さんが天上へ引き寄せているのでしょう。
それは一瞬の出来事でした。やがて、欠けていたお日さまが段々元どおりに丸くなる
と、あたりは又、もとのまばゆいばかりの雪原に戻ったのです。
雪原にとり残された「ラビッ子」と「ピョン」は、はじめ何が起こったのかわからず「ポ
140
童話 三ちゃんとダイヤの指輪
カン」と空を見上げていましたが、やがて三ちゃんが無事お母さんのもとに帰ったことを
知ったのか、うれしそうに跳ねながら、森の中へ帰って行きました。
私たちは金環日蝕の際、次の二つの事項から、三ちゃんが確かに天上に登ったことを確
かめることができます。
その一つは、日蝕の際、三ちゃんがお母さんから戴いた形見の「金色の指輪(ゴールデ
ン・リング)
」を見せてくれること。他の一つは、光の輪の右上に、三ちゃんがいつも首
にまきつけていた「ヒラヒラ」揺れる赤いマフラーの端を見ることができるからです。
141
著者プロフィール
浜崎 慶嗣(はまさきよしつぐ)
1932 年 (昭和 7 年)1 月 1 日、
Fresno California,U.S.A. 生まれ
1932 年 2歳半で日本へ渡る
(日本で教育を受けるため)
小・中・高を鹿児島県南九州市頴娃町(現在)にて終える
1952 年 中央大学法学部入学
1956 年 中央大学法学部卒業
1956 年~
樫田法律事務所に勤務
「検事物語」
(雄揮社・1956 年)
、
「犯罪と捜査」
(石崎書店・
1960 年)の出版に携わる
1961 年 山手 YMCA の(新聞配達少年のための)ボランティアとし
て、「巴里の空の下で」を新宿厚生年金会館にて公演
1962 年 博報堂(瀬木プロ)勤務
1966 年 東映動画(アニメーション)勤務
1966 年8月
帰米
1967 ~ 97 年
日本語学校共同システム(土曜日のみ)勤務
1969 - 97 年
Union Bank(東京 Bank)勤務
1997 年 退職
1995 ~ 97 年 「ひばり追悼公演」をプロデュース、 ロスの日本劇場にて
上演。
そのかたわら、「TV Fan」(日系マガジン)、「羅府新報」
(日本語新聞)
にエッセイ等を毎月 30 年間寄稿
2013 年 11 月 26 日 死去。
ロスアンゼルス 徒然草
第二巻
―文学散歩―
浜崎慶嗣
発 行 2015 年 10 月 30 日
発行者 横山三四郎
出版社 e ブックランド社
東京都杉並区久我山 4-3-2 〒 168-0082
電話番号 03-5930-5663 ファクス 03-3333-1384
http://www.e-bookland.net/
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