私の入院体験

<禅者の闘病>
私の入院体験
三浦
眞風
4年前、私は脳梗塞(の前段症状)で入院致しました。その時の体験を
水曜静坐会(新潟市の一公民館を会場にして、加藤了仙老居士の主宰する
禅と健康のための会)で50分ほどかけて講演いたしました。これは、その
原稿を少し手直ししたものです。
1
経過(平成22年)
1月19日~25日
1回目の入院
2月1日
外来診察
2月3日~17日
2回目入院
2月22日~3月5日
3回目入院
合計1カ月ほどの入院でした。
2
発症から病院に行くまで
1月19日の朝、いつものように起床して、立ち上がりました。ところが、
いつもとは違う体がふらふらする感じがします。押し入れに布団を入れる
時はよろめいて、倒れかかりました。
2階の寝室から階段を下りる時は、足がもつれて壁に手をかけました。
寝相が悪かったせいか足がけいれんしているのだろう、と余り気にかけま
せんでした。次に、新聞を取りに行く時、新聞受けは玄関の外にあります
ので、いったん玄関の土間に下りてサンダルを履かねばなりません。とこ
ろがサンダルをうまく履けない。サンダルはただ環があるだけですから、
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そこに足を通すのは何の造作もないことです。ところが何度試みても足を
通せない。
次に歯を磨こうとして、歯磨きのチューブをつかみました。これがずい
ぶん重く感じる。牛乳1合ほどの重さです。「おかしいな。不思議なこと
もあるものだ」と思いました。
朝食のテーブルについて、ご飯を食べようとして、ご飯を箸に載せるこ
とが出来ない。箸は持てるのですが、ご飯を捕まえることができない。よ
うやく捕まえて口に運んでも、口が開かずボロボロと口元でこぼしてしま
います。ここでようやく、アーッと気が付きました。
障害が起こっているのは右足、右手、全部右側。そして口。
「これが、あの脳卒中か。とうとう俺が脳卒中になってしまった‥‥」
目の前で一緒に食事している妻はテレビに気を取られてまだ気がつかな
い。彼女に何と言おうか考えました。半身不随になったら、まだ80いくつ
の義母がいますから、2人も介護しなければならなくなったら、申し訳な
くてしょうがない。事態を知ったらどれだけ驚き怒ることか。
しかし、いずれ分かることだ。白状するしかない。「実はさっきから右
手足が麻痺している。例のあれらしい」と言ったら、「ちょっと、ちょっ
とう」と叫びました。ちょっと、ちょっと、冗談じゃないよ、ということ
ですね。この「ちょっと、ちょっとう」には万感の驚きと怒りと不安が混
じっていますが、思ったより取り乱すことが無かったのがまだ幸いでした。
実は後で考えると、この朝食中に麻痺は治っていたのです。ご飯は食べ
たし、会話はしています。
麻痺は治りましたが、この病気は急を要するという知識はあったもので
すから、仕事は欠勤して早めに近くの病院に行くことにしました。
症状は軽くても絶対安静にして救急車を呼ぶべきだというのは後で知っ
たことです。
開院時間の9時を目指して、一人で車を運転して出かけました。後ほど
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医師の言うことには、発症から3時間が勝負だそうです。その時間内だと
治療で治る可能性がある。6時30分発症ですから、3時間後だと9時30分。
ギリギリで病院に行ったことになります。
3
1回目の入院
すでに病院の待合には大勢の患者が待っておりました。9時に受け付け
開始。初診用の質問用紙に病状を書いて提出しました。するとすぐ看護師
が飛んできて、車いすに乗れと言います。今までゆうゆうと自力で病院に
来たのに、いきなり重病人扱いです。それはそうですね。絶対安静ですか
ら。
順番で並んでいる患者を通り越して一番で診察室に入りました。
神経内科の担当の医師は推定50歳近い、にこやかで血色の良い、いかに
も信頼できそうな男の先生です。これから話題に出す医師・看護師・患者
の年齢は皆推定年齢です。この病院は先生も看護師も患者目線でとにかく
親切です。
この先生から「これから私が責任もって治療しますのでよろしく」と言
われ、なんとなく安心しました。
私の話から「典型的な一過性脳虚血発作と思う」と診断されました。一
時的に脳の血流が少なくなる病気です。体のどこかで、コレステロールな
どの原因で血栓という塊ができて、それが血管の中を体中回っているうち、
細い脳の血管に達して一時的に詰まる。詰まったけれども、また流れ出せ
ば、正常になる。だから短時間で治るが、
「次にこういうことが起こると、
今度は本当に詰まりますよ」と言う。本格的な脳梗塞の前兆というわけで
す。
これになった人が、次に又起こって本当の脳梗塞になって、障害が残っ
たり、死んだりする確率は3割。残りの7割に入るように頑張りましょう、
と言われました。
ここで、皆さんお分かりのことですがちょっと説明しますと、脳の血管
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が詰まるのが脳梗塞。血管が破裂して出血するのが脳溢血。その2つを合
わせて脳卒中と言います。
そのまま入院し、脳CTと心臓CT(脳と心臓部のX線透視検査)、M
RI(脳断層写真)の検査を受けました。MRIは良く写真や映像で見る、
あのでっかい環の中に体が入っていく器械です。MRI検査で、脳の断層
写真を見せられ、「ここにあるこの白い点が隠れ脳梗塞という以前に脳梗
塞をやった痕跡です。何か身に覚えはありませんか」と聞かれました。
そういえば何カ月か前、いきなりガーンと頭が殴られたような衝撃があ
ったことがありました。
「1週間も入院すれば、あとは自宅で薬を飲んで頂いて、1年もすれば
元の生活に戻れます」という診断でした。
ところが、入院2日目に、ベッドの上で上体を起こしている時、同様の
発作が起こり、それは初回より重症で、右手右足が完全に動かず、言語不
明瞭でありました。呼び出しボタンですぐ医師を呼びました。
両手を水平に上げてみる。左手はそのままですが、右手は持ちこたえる
ことができず、力なく落ちていきます。両足も上げると、右足だけが力な
く落ちていきます。医師が動かす手を視線がついていくか、自分の鼻を人
差し指で指すことができるか、医師の手を力強くにぎり返すことができる
か、そんなことをして診察されます。あと血圧と脈を測る。血圧は200を
超えました。
発作は10分ほどで終わりました。医師としては、自分が処方した薬を飲
んでいて、しかも入院中の患者がさらに病状が悪くなるようならメンツに
かかわります。ちょっとおかしいとは思ったはずです。後日に予定してい
た脳MRA(磁気共鳴血管画像)、心臓・頸動脈(咽喉の両側を通って脳
に血液を送る動脈)のエコー検査を即刻実施しました。
入院した時は、相部屋が空いていないということで個室に入れられまし
たが、強く頼んで相部屋に移動させてもらいました。個室料金が1日5000
円追加ということもありましたが、それよりも相部屋を希望した強い理由
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は、自分の病状について他の人と比較した情報を知りたいということと、
もう1つはせっかく病院に入ったのだから、病院のことを知ろう。病室の
人間模様、つまり同室者のプライバシーをのぞき見したいという思いもあ
りました。
個室に入っていたのは2日、あとの6日間は相部屋に移りました。後の
2回目、3回目の入院もすべて相部屋です。
3日目以降は特に何も起こらず、心電図とホルダー心電図では不整脈は
あるものの特に異常なし。MRA(磁気共鳴血管造影検査)で左脳に血管
の詰まりらしい所が1カ所見つかりました(後で、詰まっていないことが
分かりました)。
その後、血液をサラサラにする飲み薬と点滴で1週間発作が起こらない
ので、治ったと判断され「1カ月ほど強い運動をしないように、その後は
普通の生活をしても良い。ランニングや登山は秋ごろにはできるのではな
いか。但し薬は一生飲み続けることになる」と言われ、1月25日退院でき
ました。
やれやれ、まずは死ぬとか障害者になるのは免れた、と思いながら退院
しました。この時は、入院したことを子供たちや知人には黙っていようと
思っていました。再び入院することになろうとは全く思っておりませんで
した。
職場に行って、1週間の欠勤を詫びながら、上司への病気の説明や、仕
事の整理をしました。また、病気のことをネットで見て、50代検診者の半
分、60代検診者の80%に隠れ脳梗塞があるとの記事を見て驚きました。検
診者対象の数字ですが、それでもすごい数字です。
4~5日は、仕事の他、散歩したり、健康なことを有難いと思いながら
過ごしました。
4
再発、2回目の入院
ところが、2月2日(火)午前中は勤務して、夕方散歩している時、急
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にあられが降ってきたので、駆け足で3車線の道路を横断しました。走る
のは禁止されていましたが思わず走ってしまいました。帰宅後、めまいが
して床に横になり、右手、右足が軽く麻痺し、しかしそれも間もなく治ま
りました。
その翌朝、あぐらをかいて新聞を読んでいた時です。脳から急に血の気
が引いて、いきなり体全体が泥のように崩れ落ちました。これまでで最も
重い症状ですが意識ははっきりしていました。妻は外出中です。手足は左
半分効いても両方効かないのと同じで、這うこともできません。
万一そうなる事態に備えて、携帯電話を常に首からぶら下げていました。
左手で操作して妻に電話をかけました。言葉にならない声を聞いて事態を
察した妻は「すぐ帰る」と言って急いで電話を切りました。
しかし、この「すぐ」が、5分後なのか10分後なのか分からない。でき
れば近所の手前、救急車は呼びたくないと思いましたが、一刻を争うので
仕方なく119番にかけました。
かけてから、玄関や窓のかぎが全部かかっていることに気が付きました。
救急車がきたら玄関のカギを壊して入ってくるだろう。それは困った。玄
関のカギを開けなければ、と多分芋虫のような動作で玄関めがけて転がり
ました。救急車の鳴らす音が遠くから聞こえてきます。幸い、すぐ妻がカ
ギを開けて入ってきました。続いて救急隊も到着しました。
その時は、症状が治っていました。救急隊員から、「歩けますか?」と
聞かれ、起き上がって外の担架まで歩きました。外に出た時、やはり予想
した通り、近所の人が10人ぐらい来ていました。こういう時、どうしたら
良いでしょう。手を振って、「皆さん、お騒がせして済みません」とでも
挨拶した方が良いのか。でも、こちらは病人だ。下を向いて担架に乗り、
救急車に運ばれました。
揺れながら走る救急車の中で、診察していた救急隊員が「血圧215」と
叫んでいました。
前と同じ病院に運ばれました。
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入院している間、数日間に数回、同じ症状の発作が起こりました。1日
に2回起こったこともあるし、2日間起こらなかったこともあり、平均す
ると1日に1回の割合です。
発作が起こるのは、トイレに行った後。電話ボックスで電話をかけてい
る最中。面会中など。電話ボックス内で発作が起こった時は、外から発見
されない恐れがあるので、何とかドアを開けて廊下に出ながら倒れこみま
した。発作が起きないよう、トイレに行くにもそろそろ歩く。10m歩くの
がこんなに難儀なものかと思いました。
薬を服用中にもかかわらず、何回も発作が起こることに、医師は「手強
いですね。どうも並の脳梗塞ではないらしい」と言いました。ベテラン看
護師も「こんな例は見たことがない」と言います。何度も発作を起こすと
脳のダメージで完全に麻痺が残るということでした。
このまま死ぬか廃人になるのに備えて、妻や長男を前に口述で遺言を書
き留めさせました。
その後、半月の間、脳と心臓のあらゆる検査を受けました。
この前にやったが見逃したかもしれないのでもう1度やったというのも
あります。
これらの検査で分かった結論は「静穏時は何ともないが、運動をして体
を大量の血液が流れる時、左脳の血流が少なくなる」ということでした。
「何回も発作が起きるのは理由が分からず、珍しいことである。脳外科
の先生も加えてカンファレンスをしているが、前例が無く、原因が分から
ないままである。てんかん、または自律神経失調症も考えられたがそれは
無い。心臓病でも無い。精神的な理由とも考えられない。偏頭痛かも知れ
ないが、8割方脳梗塞と思われる。しかし、現在症状は落ち着いており、
10分くらいで治るというパターンが固定していることから、それほど心配
する必要はないと思う」と言われ、一応安心いたしました。
そうこうしている間に、発作が出るのは収まりました。
左脳の血流が悪い原因は何なのか、今まで映らなかったもっと細い血管
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が詰まっているのか、それらを調べるために、「原因究明の最後の検査と
して23日に脳血管造影検査をやりましょう」と言われました。
検査日まで、日にちがあることから、ひとまず退院しましょう、という
ことで、2月17日退院しました。17日~21日は自宅で、たまったメールや
郵便物の整理をしました。
ペンを握る力が無く、10分ほど何かするとすぐ疲れるので、文字は書け
ません。ワープロはこういう時、便利です。老師(と支部長)に、近づい
てきた摂心の欠席の連絡をしなければなりません。その連絡も本来自筆で
なければならないのですが、ワープロでさせていただきました。
電話は意外と精神的肉体的に負担がかかるのでしませんでした。
5
看護師さん達
ここで話はわき道にそれて、看護師さん達(皆女性です)の話をしまし
ょう。看護師さん達には夜勤、昼勤と10人ぐらいの人にお世話になりまし
た。そのうち特に関わりの深かった3人について話します。
初めはA子さん。20代前半、若くて可愛い、元気がある、積極的、排泄
の世話など嫌がらず一所懸命やってくれます。
次はB子さん。3回目入院時の主担当。30歳を過ぎているかも。美人で、
落ち着きと知性あり、頼れる。できれば、いつもこの人から世話してもら
いたい。
次のC子さん。20代半ばか、風呂の予約など頼んでも忘れやすく、ドジ。
看護師仲間から「(失敗したのは)また、あなたね」とあきられている。
大事なところではこの人に任せられない。
この3人を中心に、朝、昼、晩と病室に検診にやってきます。そのたび
に、「ハイ手を握って」と両手をきつく握る。手に握力があるかの検査で
す。次に手首をつかんで1分ほど静かに脈を図る。美人に手を握られて、
ぬくもりを感じて悪い気はしない。毎日それが楽しみになってくる。私の
隣の隣のベッドにもう相当のおじいさんがいるのですが、付き添いの奥さ
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ん、といってもおばあちゃんから「毎日、ワケー(若い)看護婦から手握
られてイイべ(良かったね)」と、からかわれているのが聞こえました。
6
3度目の入院、脳血管造影検査の準備
2月22日
3度目の入院。病気の原因をつきとめるための脳血管造影検
査のための入院です。
翌日(火)検査の日。
妻は数時間だけ付き添う予定でしたが、後述するように検査が大幅に遅
れたため、結局朝から晩まで付き添うことになりました。
午前10時ごろ、あのドジなC子さんが来て、陰毛の一部をカミソリで剃
りました。造影剤を通すカテーテルの挿入口は腿の付け根で、毛は生えて
いない所ですが、その周りで邪魔する可能性のあるところは剃っておくわ
けです。
午後3時に、検査30分前ということで尿管カテーテル挿入のためC子さ
んがまた来ました。実は先ほど陰毛を剃りにC子さんが来た時、本番の尿
管カテーテル挿入がドジのC子さんでなければよいが、と思っていました
が、悪い予感が的中しました。
尿管カテーテルは、検査の時放尿しないように、細いビニール製の管を
あらかじめ膀胱まで通して、尿を外部の袋まで通すための導通管です。
私は仰向けになって下半身を出し、C子さんは私の尿道に管を差し込ん
でいきます。
ご存じのように男性の尿道は、いざ戦いというときは直線状になります
が、いつもはだらしなく曲がっています。その中をビニールの管を通すの
は無理があるわけです。まず少し入れた時から痛い。
「痛い」というと「済
みません。我慢してねえ」と言われながら歯を食いしばって我慢している。
ところが彼女はいろいろ苦労しながら手間取っていてなかなか終りませ
ん。そこへ、可愛い看護師A子さんが「どうしたの」とやって来る。しか
し、彼女も通すことができない。
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この2人の看護師の会話を聞いていると、こういうことらしい。カテー
テルは私に合いそうな多分管の太さだと思いますが、12,14,16のサイズ
を3本持ってきた。ところが、C子さんは最初に一番合いそうなのを床に
落としてしまった。いったん床に落としたものは使ってはいけないらしく、
彼女は他のが入らないか、がんばっていたらしい。寸法の合わないのを入
れようとするから痛いわけです。
そこへ今度は婦長さんがやってきて、この婦長さんは40過ぎの女盛りと
いう感じなのですが、婦長さんでも入らない。「別のを持ってきたら」「予
備が無いの」「何棟のどこそこに行けばある」とか話しているうちに、最
後には通関しました。通関するというのは管の先端が膀胱の中に入るとい
うことで、入ると尿が排尿の意思が無くても自然に管を流れ出てくるので
す。尿が出てきて、通関したことが分かるのです。
通関して、やれやれ、ようやく苦しみから解放される、と思ったのは大
間違いでした。とにかく痛い。ベッドの手すりを両手でつかんで痛みに耐
えます。妻は「出産の時の痛みなんてこんなもんではないよ。我慢しなさ
い!」と平然と言い放ちました。
病院の廊下の端に図書コーナーがあって、そこには1年分の文芸春秋も
置いてあり、ひまな私は時々読んでおりました。そこに評論家の立花隆が
しびん
自分の入院体験の記事で、「尿管カテーテルは痛くない。尿瓶より楽」と
書いておりましたが、それは真っ赤なウソ。これほど痛いものはありませ
ん。
午後3時30分検査開始の予定が、前の脳外科手術が延びて延びて、結局
3時間待たされて、6時30分になってようやく呼び出しがかかりました。
その間、ずーと痛さに耐えていました。
7
脳血管造影検査本番
ここで、少し長くなりますがこの検査についての説明文を読んでみます。
「この検査は脳血管造影検査といって、足の付け根から頭部までカテー
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テルという長い管を体の中に入れていき、脳の血管内に造影剤を入れて調
べるレントゲン検査です。血管のなかを造影剤が流れていく様子を連続撮
影します。
CTやMRIの安全な検査ではできない髪の毛より細い血管でも写し
出すことができます。しかしカテーテルで血管を傷つけて出血したり血管
をつまらせて脳に障害がおこる可能性が0.1~1パーセントの確率である、
ちょっと危険な検査です」
検査と言っても、体を切り、血が出ますから手術室で行うのです。
手術室には5~6人のスタッフが居て、脳神経外科医がテキパキと指示
しています。はりつめた緊張感が漂っています。
検査台に素っ裸で仰向けに寝て、動いたりしないよう、手足を固定され
ます。あの痛くて憎い尿管カテーテルは装着したままです。
紛らわしいのですが、ここでは2つのカテーテルがあります。1つは先
ほどから申している尿管カテーテルで、尿を出すための導通管。もう1つ
は今の説明文で出てきたカテーテルで、脳まで造影剤を入れる管です。
続いて読みます。
「カテーテルが奥まで挿入される感覚は無い。造影剤が熱く、ピカピカ
火花が見える(目をつぶっていても見える)。目の奥が痛い。
1時間ほどの検査終了後すぐにカテーテルを抜き15分間圧迫して血を止
めます。体に着いた血をふき、止血のバンドを右足腿で強く締めるので、
右足は動かせない。検査時間は2時間です。」
以上の検査が、夜8時30分ようやく終了しました。
病室に戻ると看護師は夕食を急いで用意すると言いましたが、食欲無く
断りました。昼夕と2食抜いたことになります。
説明文では「検査後約6時間(明日午前2時まで)ベッド上で安静にし、
下肢をじっとした状態にします。排泄はベッド上で行います。」という予
定でしたが、とにかく尿管カテーテルが痛くてしょうがない。
様子を見に来た研修医の先生(若くて話が分かる)に頼んで、しびん(尿
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瓶)にするから、尿管カテーテルを抜いてくれと頼んで、3時間後の11時
にようやく外してもらいました。
それからは、もう痛みが無く、ぐっすり眠っていましたが、深夜2時頃
急に不快になり発汗と手足の脱力。看護師を呼んでの大騒ぎになりました。
空腹による何とかの不足が原因だったようです。その後は朝までぐっすり
眠りました。
止血バンドのために、右腿全体が紫色にうっ血し、それがとれるまで2
カ月ほどかかりました。尿道に傷がついているため、尿をする時も痛くて
それでも我慢して排尿せざるを得ませんでしたが、それも2~3日で治り
ました。
危険で苦しい2度とやりたくない検査でしたが、どこに原因があるか特
定できませんでした。写真を見ると、右脳、左脳の血管がちょうど右左1
本ずつの木の枝ぶりのように見えます。そして、右脳の木は大きく元気よ
く枝が茂っているのに、左脳の木は貧弱に見えます。右脳にくらべて左脳
全体の血管が細くて短い。その細い血管が、大量の血液が流れてくると流
しきれずに一時的に詰まるのではないか、というのが結論です。左脳の血
管が細い理由は、先天的なものなのか何らかの原因があるのか分からない
ということでした。
8
同室の患者さん達
病室のベッドは4つ、カーテンで仕切られていますが、どのベッドから
も外の景色が見えるような作りになっています。以前に私の母が入院して
いた病院では、互いに同室者が仲良くなり、退院した後も年賀状のやり取
り、香典のやりとりがありましたが、自分の場合は同室者同士あまり口を
きくことがありませんでした。男女の違いか、私の性格が悪かったのか。
先ほど言いましたように、相部屋を希望したのは、同室者の観察目的も
あります。それで、できるだけ耳を澄まして周りの会話を聞いていました。
このことは隣の人も同じようで、こちらが会話を始めると、今まで会話し
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ていた隣の人が急に話しを止めるので、耳を澄ましているのが分かります。
隣の患者Dさんについて。深夜救急車で運ばれてきました。40歳代、ま
だ若いです。パチンコしている最中、大当たりで玉が2ケースたまった時、
突然倒れた。翌朝気がついたら、病院に居た。脳梗塞の診断ですが、「元
気になった。今日中に帰りたい」と盛んに看護師に頼んでいましたが、と
んでもない、と結局1週間ほどの入院。職場の健診で血圧が高いとは言わ
れていたが、気にも留めていなかった。こんなことになり驚いていると見
舞客に言っていました。
次にEさん。ヤクザの親分風で大勢の見舞客が訪れました。見舞い客に
「おい、肩を揉め」と命令口調で話し、がやがやと元気で威勢が良い。こ
んなに騒いで大丈夫なのか、と思っていたら案の定、客が帰ってからしば
らくして急に具合が悪くなりました。看護師が数名あわただしくやってき
て、ベッドごと遠くの個室に運んでいきました。あとでその個室の前に行
ってみたら「絶対安静につき面会謝絶」の札が下げられていました。その
後どうなったかは分かりません。
病人は病人らしくおとなしくしていなければいけません。
9
役に立った禅の公案
禅の公案の中に、死に臨んだ時どうするか、病気になった時どうするか、
という問題があります。そういう問題を経験していたためか、死ぬのを怖
いとは思いませんでした。
死ぬのは怖くない、と言うと偉そうに聞こえますが、実は不具になった
り、死んだりするのを悔しいとは思いました。まだ、やり残したことがあ
る。妻に迷惑をかける。自分の不具や死をわらって噂する者もいるだろう。
それが悔しい。そう思うのは修行が足りない証拠だと思いますが。
10
退院後
病気の原因ははっきりと特定できず、従って原因除去はできませんでし
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たが、症状が治まっていることから3月5日退院しました。
その後は、2年ほど前1度発作が起こりました。疲れがたまったのが原
因だったと思われます。
それから後は、再発しないように体調に気をつけながら、平常に過ご
しております。
■著者プロフィール
三浦眞風(本名/勲)
昭和18年生まれ。新潟市で理科教師として40
年私立高校に勤務の後退職。昭和47年人間禅
如々庵芳賀洞然老師に入門。人間禅布教師。
庵号/清涼庵。(新潟支部)
<禅者の闘病>
自業自得の闘病
岡田
不説
初めて人間禅房総道場日曜静坐会に参加したのは平成23年12月でした。
仏像彫刻仲間のYさんから「やってみませんか」という誘いを受けてのこ
となので、動機としては積極性に欠けていたと思います。
翌平成24年4月の摂心会では、円了日前日に師家の金峰庵老師へ入門させ
ていただき初関も授かりました。
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