1974-08-01【創価学会のこと】 (於:志賀高原熊ノ湯 夏季研修会) 「正法と現代宗教」と申しますが、むしろ皆さんの方が現代宗教の方は詳しい人々の方が多い と思いますが、私は宗教のことは全く素人で、何も分かっておりません。 この中にはいろいろ「南無妙法蓮華経」「南無阿彌陀仏」、中には「天にまします神世のなん とか」というのがありますけれども、しかしみんなが他力信仰であります。 我々はそういう他力信仰を通して、宗教というものは何か成り立っているように思いますが、 しかし人間は他力信仰というものによって本当に救われるかというと、救われたといわれる人達 は、恐らく、そういう信仰を通して、「自分が一生懸命に人間らしく生きて来たからだ」、こう 結論づける以外にないと思います。 ちょうど昭和四十二年に、私のところに創価学会の本部に勤めておられるところの部長とか或 は教授とか言われるところの段階の皆さんが大分押し寄せてきました。 そして私に『あなたの兄弟は皆な創価学会に入っているのに、あなただけが入らないのはおか しい』、マ、折伏(しゃくぶく)にまいりました。 ところが、私は自分自身が本当の信仰というものはどういうものであるか、非常に現代宗教に 疑問を持っておりましたために、彼らにその理論に対して質問をしました。 ところが質問に対して彼らは、正しい納得のいく解答を私に与えてくれなかったのです。 そうしましたところが、『あなたはテンマだ』というんですね。テンマというのは、ところが つい私たちは宗教的な用語がわからないのですね。 そこで「羽根の生えたお馬さんですか、天馬」 『とんでもない』 それは魔である、悪魔、僕のことを天魔っていうんですね。 私は、僕はこんなに人のいい人を、ホー悪魔って言うのかなって(爆笑)。 まじめに働いて僕は一生懸命に生活しているのに「天の魔」天魔というんですね。 『これは人間の最高の魔である』 「どうしてですか」って言ったら 『日蓮正宗、聖法を誹謗する者は無間地獄に落ちるのだ。しかもまた、そういうことをやる心 の人たちは一番の悪党である、悪魔である』って言うんですね。 ホーそういうもんかナって思いまして、何せわからないですから。 なんせ人間に生まれまして、お馬さんに羽根がはえて天を飛ぶ天馬であったかと思っていたと ころが、トンでもないことになりまして。 そこでこの天魔ではないということを実証しなければならないと思いまして、たまたま聖教新 聞の編集の連中が来ていましたものですから「私は今からいくつかの予言をします、もしこの予 言がいくつか当たったなら、皆さんは私を天魔だとは言わないでしょう」 『それはその通り、まず聖教新聞に記事として出たならば、聖教新聞は天魔を絶対に通さない からそれは当然なことだ』と言うわけですね。 「ホー、それなら申し上げましょう。あなたがたの現在一番崇拝しているところの指導者は現 在、日本にはおりません、こう言ってもあなたがたは皆知っているでしょう。僕は残念なことに 何にも知らないんです。 この方は現在、フランスのパリのロイヤルホテルの三百三十号室に住んでおり、現在、四人で お互いに話をしているんだよ」 彼らはあっけにとられて、なにしろ天魔のいうことですから(笑い)。 『そんな馬鹿なことがあるわけはないじゃないか』 「それならば、あなたがたは聖教新聞に書いてあったことを読んで僕が言っているだろうと判 断するだろうとあなたがたは推測するだろう。 しかし、今からは話をしていることを教えてあげよう。 三百七十数億のお金をかき集めたその利息で、山梨に会館を造ろうとして今話しているんだ。 残念なことにこれは十一月の新聞に、あなたの書いた新聞に出るんです。 出たらどうだ天魔かどうか」 『絶対に天魔じゃない。これは大したもんだ』って言うんですね。 「そうですか、ただ一つじゃあなたがたは偶然だというでしょう。科学的の面から言うならば、 例題が多ければ多いほど科学的と人は言う。それ故にもう幾つか予言をしょう。あなたがたは今、 私のところに来ているけれども、あなた方は池田大作会長から首になるんですよ」と言ったんで すね。 そうしたら彼女たち彼氏たちは、『これが真実ならば、あなたと一緒に地獄まで落ちたってか まいません』って言うんですね。 「あなた本当ですか? あなた方は今それで月給をもらって生活をしているんですよ」 それは十一月三日までの間に、あなた方は全部首になります。竹入という第三総合本部の部長 から首になるんです。 これはいやな予言だが「これを密告して混乱させた男、この方は死にます。まだ二十歳代です、 部隊長とか何とか言っている男です。それ以外に三人この世を去るでしょう。それは直ぐ結論が 出ます。三年以内にこの世を去るでしょう。なぜならば正しい道を説く人達の前に立ちはだかっ て、彼らは間違ったことを人に忠告するからなのです」 このように幾つかの予言をいたしました。 十一月に入りましたところが、本当に聖教新聞に出てしまいました。言った通りです。 部長さんと称する皆さんは本当に出たんですから、部屋番号までまったく同じ場所なんですか ら、いよいよ一つが当たったものですから、話の内容が当たったものですから、サー今度は自分 の首の番です。(笑い) 案の定、十一月に入りましたところが渡辺という婦人部長が当時やっておりました。 「あなた達は、東京の大森の高橋という自宅に行ってはならぬ」と、その日から全部一人に三 人位ずつスパイがつきました。 私のところへ連絡をこさせると即座に大騒ぎになりまして、信濃町の本部です。十二月のこと です。 このようにしまして、言われたとおりに、彼らは皆職務を剥奪されました。私は早速、内容証 明を出しまして 「池田大作殿、あなたは自分の可愛い弟子たちをナゼ首にする。彼らはそれで生活をしている のです。あなたが真に仏道を行(ぎょう)じ道を知っているならば、あなたの可愛い弟子たちを解放 しなさい」 そして私の書いた一冊の本と一緒に送りました。 彼らも読んだんでしょう、三日目の日に元通りに復帰はしましたけれども、もう全然要職には つけなくなりましたが、給料はちゃんと貰えるようになり、今も貰っているようです。 これでもやはり自分自身は正しいものであっても、彼らには罰が当たるという。 皆さん、罰というものはバチ、皆さん自身の兄弟たち、可愛い子供たちへ両親が不幸になるこ とを祈る人がこの中にいますか、いません。 いわんや盲目の人生を送って人生の苦楽を体験しているところの修行者へ誰が神が罰を与えま すか、罰は自分自身の想うことと行うことの片寄った想念と行為がつくり出すものなのです。 それゆえに彼らは、一生懸命に南無妙法蓮華経を拝んでいれば救われるんだと思っているんで す。とんでもないことです。 東京越谷の講演会のときに何人か幹部の方が来ていて「質問がありますか」と言いましたら手 を上げて、そうしたところが『あなたの説いているものには拝む対象物がない、私達はちゃんと 曼荼羅、(曼陀羅、マンダラ)を持っている、それについてあなたは答えられますか』と私に質問を しました。 「はーそうですか、マンダラという拝む対象物がなければいけないのですか。それではあなた に質問をいたします。あなたは産まれて来たときにマンダラを持ってきましたか?」と聞いたん です。 『イヤ、それは違う、創価学会に入ってから曼荼羅をいただきました』 「それはおかしい、じゃあ産まれてきたときに、あなたは男性ですけれども、産まれてきたと きにブラ下げてきたものは一体なんですか、それを言いなさい」 彼はしばらく考えていましてわからない。それで「あなたは男ではない。それが本当に神様が 必要なら生まれてきたときに、それをちゃんとブラ下げてきます。違うんじゃないですか、人間 が作ったものは。こんなものを信じません。 マンダラ、偶像、仏像など人間が作ったものです。それを拝む対象物がない、それについてあ なたはどのように考えているかと言われるが、GLAには題目なんかありません。人間の心と行 いはカクあるべしと教えています」言ったら 『私たちは日蓮大上人のお蔭で、南無妙法蓮華経があります』 「では、あなたは産まれてきたときには、一般の人と違って「南無妙法蓮華経」と言って産ま れてきたんでしょうね、僕はオギャーといって生まれてきたと思います、あなたはどうですか」 『私も同じです』 「その辺の山に飛んでいる鶯ならホーホケキョ(註・法ー法華経の意)って鳴きます。それでホー ホケキョやるなら僕はネー納得できるんです。それを皆がオギャーと産まれてきたのが、南無法 蓮華経を拝まなければならないという理由はないじゃないかな」ということでチョンになりまし て、続いて『もう一つ質問がある、今私たちの教団で問題になっているのは板マンダラが本物で あるかニセ物であるかということです。それをあなたはどのように考えますか?』というんです ね。 「冗談いうんじゃないよ、板であろうが紙であろうが、そんなものは関係ないんだ。なぜなら ば我々は健全な肉体と精神を持って、この地球という神の体の中で、神様のこの地球の中を調和 し、人々の心と心の調和を説いた平和なユートピアをつくると同時に、盲目の人生の中からより 豊かな自分自身を作るということが本来、人間に与えられたところの目的と使命なのです。それ ゆえに私達にはマンダラが板であろうが紙であろうが、こんなことには関係ないことなんです。 そういうことに執着することはおかしいことです」 それ以上彼らは質問しなくなりました。 このように一つの信仰というものを捉えてみても非常に矛盾があるわけですね。ところが一般 はメクラですから、私たちはお題目をあげれば人間は救われるんだと一生懸命に題目闘争をする と救われるというんですね。 「ナンミョーホーレンゲキョウ、ナンミョーホレンゲキョウ」と街中でやっているわけですね。 ところが不幸になると「あのかたは信心が足りないのよ」 病気をすると「信仰が足りない」といわれると「そうかな」と街中で昼日中からなお一層「ナ ンミョウホーレンゲキョウ、ナンミョウホウレンゲキョウ」とやっております。 一体弱いものはどうしたらいいんでしょうか、それで人間は救われるんでしょうか、こういう ように一つの信仰を捉えてみても矛盾が一杯あります。 或はまた、「ナンミョウホウレンゲキョウ」を上げているうちに、次元の違った方からささや いて「われこそは稲荷大明神なるぞ」とそのようなことを聞いた人達は、神の声を聞いたぞと鬼 の首でもとったかのように早速、喜んで、或者は夢枕に立った観音様、或は竜神、こういうもの を見て、少しボツボツ霊感がつきだしますと、当たらなければいいんですが、地獄霊も人の心を 見るので当てますから、そうするとあそこは当たるわよとなって、一つの教団、新興宗教ができ あがるわけです。 最初のうちは真面目にやっているが欲望が段々出てきて、心が外へ向きだしますから物に対す る執着を持ち始めると信者を食いものにしていきます。 そこで神様というものは絶対にこの地球上のお金を要求しません。だまされてはいけません。 お天道様を見てください一秒間に莫大なる熱光のエネルギーをただで、無所得、無報酬で一銭 のお金をとらないで黙って与えております。 ところがこの地上界の人間は、それを暑いの寒いのと不平を申しますが、お天道様は変わりの ない熱光を平等に与えております。 ところが人間の作った神様は、お金や地位や名誉によって変わってまいります。サアこれを皆 さんどう思いますか。疑問を持ってください。 真の自然が与えている大自然の恵みというものは、全てに平等な筈です。平等だということこ そ慈悲の現われでないでしょうか。 慈悲の心というものは無所得、そして決してまた要求もしない、これが本当の正しいものでは ないでしょうか。 マ、一方は大変いろいろな神様がおりまして、人間は正しいという基準がわからないために、 霊的な力を通して、それを正しいと思っております。 生活を通し、いろいろと苦しみを体験し、いろいろな肉体的な不調和を来して、家族は大変な ことになるので頼るということをどこかに求め、そこに宗教が「あの方は霊感があって神様が降 りて教えてくれるそうよ」と体験を通し、人間はそういうことを通し「神様、私はこういうこと で苦しんでおります」と頼る心になったりしている内に、『余はそなたの先祖なるぞ』なんて言 われますと「そうですか何代前の」 『わしは七代前の』となりますと、七代、十代というと、もうわかりませんから「ハハーッ」 となつて、『お前が不幸になっているのは先祖を粗末にしているからだ。よき戒名を上げてワシ を供養せよ』と、そういわれると幸せになりたいものですから「あなたが幸せになるためには最 低ウン十万円のお金が必要です」と、そのうちにと塔婆や因縁切りと、何も知らないからだんだ ん深みにはまっていくわけです。 ところが、中には勇気のある人がありまして疑問をもちます。「なぜこんな事をしなければな らんのか」 正しい解答がないのですから『神のお告げじゃ、出入りならぬ』と殿の名残があるのでしょう、 こうして、信心が足りないとなって、あっちの神様、こっちの神様へと深入りしてゆくわけです。 自分自身が正しいという基準を持って疑問と回答、回答と疑問を追及して生活して行けば、つ いには「神理」という人間自身が入ることのできない本当のものにぶつかるのです。 ところが、それを忘れてしまって、バチが当たるといわれれば「それは大変」 そしてそれ以上のものは無いと思っているから、不平不満のまま、疑問だらけでありながら続 けて行くわけです。これは信仰ではなく逃避です。こんなものは信仰ではないですね。 こういうわけで仏教だけでなく、神道(しんとう)でも同じですね。 我々は子供のころから鉢巻、或はタスキがけで、いろいろなところに神社がありますから、お 参りに行きます。 戦争中ともなりますと、一日と十五日というと神社も忙しくなります。「武運長久」といいま す。 神様が戦うことを何で祈るんだろう、戦って勝つことだけを祈ったら負けた人はどうなるんだ ろうという疑問がわからない。 皆やっているんだから仕方がないという考えも戦争に負けちゃつたから、神社の方も静かにな っちゃいましたが、特定のところは別ですけれども。そして本当に神社というところに神様はい るんだろうかと、僕は疑問だらけでした。 初めて心の窓が開いて神社というところへ行きましたところ、確かに神様はおりました。ただ しその神は、本当の神・ゴッドの神ではないということです。 氏神様というのはこちらの、人間の思う神です。 神というのはいろいろな字がありますね。 こちらは八百万(やおよろず)の上(かみ)、こちらはゴッド(GOD)の神ですね、ペーパーの紙、 いろいろありますけれども、発音は同じです。 そこで私は「拝んで出てくるのを神というのかね」と申しますと『皆さんは信じておりますの で神と申しております』「どっちのカミだ」と聞いたら、『こちらの上(かみ)です』「皆さんを余 り不幸にしてもらっては困りますよ」『へへーつ』と。 皆さんも心の窓が開かれると、みなわかるようになりますよ。私達が、私だけが特殊能力があ るのではありません。人間は誰も皆、力を持っています。 正しいという心の基準を持って生活をすることです。思うこと行うということ、これをしっか り自分が片寄らないで自分というものを知ってください。おのずから皆その能力を持っておりま す。 皆さんの心の中にはあらゆる体験をもっております。そこにあるテープレコーダ、ビデオレコ ーダと同じように皆さんの心の中には転生輪廻の体験をみな全部持っております。 これを仏教では「宝塔」、宝の塔といっております。パニャパラミタともいいますが、人間は 形を造りまして、神社仏閣に行きますとそういう宝塔がありますね。 あるいは新興宗教の中には「法刀」といって「エイ!」と言って九字を切れば人間は救われる、 或いは天打ちの業をすれば人間はそういう力を持つ、救われるといいますが、お上(かみ)さん(奥 さん)がご主人に、そういうことをして諌(いさめ)るのは許されますが、神様は絶対にそういうこ とはしません。罰を与えないのです。 お金の高によって救われるのではありません。自分の心をしっかり知り、周辺の人々に対して も本当の太陽のような無所得の慈悲、愛の心が大事なのです。 正法というものは本来すでに、主は人類がこの地上界に出たときにその道を説かれているもの なのです。 この法則というものを近きにおいては、今から二千五百年前のインドの地において、ゴーダマ シッタルダー、この方がやはり人生というものに対する心と、行いのあり方というものを説いて おります。 ゴーダマシッタルダー、釈迦牟尼仏は、小さな出城(でしろ)のカピラバーストというところにお ります。小さいときに母親に死に別れ、しかもまた、いつ敵から襲われ、いつ寝首をかかれ、毒 殺をされるかもわからん、そのような生きるということ自身にも大きな人生の苦しみを通して、 人生とは一体何か。 当時においてはバラモン教という教えがあります。さらにヴェーダーやウパニシャードを通し て、それぞれの八百万世(やおよろずよ)の神々であるアグニー、マドラ、キンラマ、マゴラとか、 日本で言うお稲荷さんや天狗とか仙人とか山の神とか川の神とか人間が作り出したる、あらゆる 信仰体系を祭って生活しているところのバラモン種という種族、「バラモン」というのは聖職と いって神につかえる種族です。 しかもその神に仕えるべき種族が自分たちを保存するために、彼らは厳しいカースト制度とい う体制を作り出します。日本で言う士農工商という武士を守るためにつくられた封建制度です。 これと同じような、上の方にはマーハー・バラモン、大バラモン、この中でも低いバラモン、 さらに「クシャトリヤ」という武士階級、この武士階級の中でもラージャという王、マーハー・ ラージャといわれる大王、さらに小さな足軽のクシャトリヤまであります。 さらに「ベッシャー」といわれる商工業者、その中でもマーハー・ベッシャーから小さな商人、 「シュドラー」といわれる奴隷階級まであります。奴隷にもいくつもの階級があります。この「四 制」という制度の中では、下のものとは絶対に結婚は許されません。それも実は、聖職ともいう べき神に仕えるバラモン自身の地位を守るために厳しい体系制度があります。 ゴーダマ・シッタルダーは、そういう社会体系制度に疑問を持ちます。 お天道様はすべてに平等です。城の中におけるところの優雅な生活、外にいったん出ればシュ ドラーという奴隷階級の厳しい生活環境、「人間はこれでいいんだろうか、真に神があるならば 全てに平等でなければならないはずだ」ということを感じていきます。 人生というものに対する、苦しいこの苦しみを解脱するにはどうしたらいい、人間の苦しみは、 全てが自分自身の思うこと行うことの中から、生まれて来る。 そしてその中に生老病死という人生の大きな苦しみの原因を取り除くためにはどうしたらいい か、それには自分の心と行いのあり方を修正しなければならんのだというのを悟ったのは三十六 歳の年の初めでした。 例えてなら、城の中での優雅な生活、或は厳しい六年間の山中におけるところの肉体やあらゆ る修行を通して、この極端なものを捨てて、自分のものの考え方というものを正さなければなら ないというのを知るのでした。 自然の姿を見れば万生万物が全て相互関係の中にあって安定している。動物も植物も鉱物も、 その自然界は全て単独で存在しえない。やはり人間は自分を中心にしたものの考え方を持っては ならんのだ。 そのためには自分自身の心というものを相手の気持ちにもなり、相手自身の行為をしっかりと 判断して、ものの見方を片寄らない中道ということを発見していったのです。 初めて自分の苦しみと悲しみの原因というものは、目で捕らえ自分の欲望というものが、良い ものは欲しい、自分のものにしょう、或は自分のいやなことを聞けばそれに反発をする。 「なぜいやなことを言われたのか、その原因はどこにあったのか」、そういうことを、だんだ ん段々と自分の心と行いを通して集積し、「ナゼ母親は、一週間で死んだのだ、その理由はどう して、自分自身が大衆の中で苦しみを除くために、人生は何であるか、何をなすべきかという一 つの疑問を残すために母は犠牲になったのだ。その母の苦しみを通して、多くの人たちの苦しみ を持っている人達を解脱しなければならない、それが私の与えられた使命だ」、ということを知 って、そうして自分に与えられた天命ということを知って、そこに自分に与えられた使命と感謝 の心を持つようになったのであります。 このようにして人間が五官という目で見たもの、耳で聞いたもの、或はまた口で語って相手自 身を混乱させたもの、或はまた悲しませたり喜ばせたりする口も、自分のこちらに大きく影響す ることになるが、正しく語るという中道の道が大事である。 人間はこうして「眼・耳・鼻・舌・身・意」という目や耳や鼻や口、体、そうして心というも の、想う、こういうものから色々な苦しみをつくり出して行くということを、その結果、自分の 歩んできた足跡を、間違った分野を消し止めなければならないと、ゴーダマシッタルダーは生ま れて来た三十六年間の一つ一つを、片寄らない中道という物差しをもって修正していきます。そ のために、あらゆる自分自身の苦しみの原因は、自分自身で作っていたということに気がつきま す。 当然、心の中の曇りはきれいに晴れていきますから、宇宙というものが自分の中に入って、禅 定(ぜんじょう)しているうちに自分の体が宇宙大に大きく拡大し始め、そうして肉体を持ったもう 一人の自分が遥か自分の膝元に在る、こうして心というものが拡大されて調和されてくるにした がって、神の光によって満たされて来ます。 心に曇りがありませんから、その心に比例しただけ宇宙大に拡大していきます。このとき初め てゴーダマ・シッタルダーは、「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」、宇宙は自分であるということを 発見していきます。 皆さん自身が自分の心の曇りを晴らして、そして神の光に満たされていったなら、同じような 体験をするでしょう。そして、自分の体の中にこの地球自身、一つの細胞になっている姿を発見 するでしょう。さらに次元を超えた世界まで自分の意識が拡大されることを体験するでしょう。 こうして本当の正しい信仰というものは、ゴーダマシッタルダーも矢張り、バラモンの説く他 力ではなく、自力によって初めて他力の偉大なる光明を得ることができるのだということを悟っ て行ったのです。 多くの弟子たちはこのようにしてこの神理に付き、「アラハン」、心の窓が開かれて行き、多 くの人々はその道を説いて行き、迷っている苦しみの人たちを勇気付け救われていきます。 こうして奇跡の宗教はどんどんどんどん、ブッダサンガーといわれまして、ゴーダマ・シッタ ルダー、釈迦牟尼仏の教えに帰依して行きます。 八十一歳、四十五年間説いた神理は、やがて中国を通して日本に渡って来るという、こうゆう ことは全て当時は、わかっております。なぜなら未来のことまで見通す能力があります。 般若心経の中に観自在菩薩という名称があります。これはインドのバラモンの言葉で、アポロ キティシュバラ・ボサタといいます。過去、現在、未来を見通す能力のある悟られた方、観自在 菩薩でありますからゴーダマ・シッタルダー、釈迦牟尼仏は、そのような力を持っておりますか ら、遠く未来の地球上の事もわかります。 チベットから先の方を当時はマンディア・ディッシャーといいますが、マンディヤ・ディッシ ャーという国にあたり、ケントマティー・ジャブドーバーというところに広がり、ジャブドーバ ―というのは当時の言葉では、東の国、東方ということであります。 しかし途中において、仏教というものは段々だんだん難しくなってきて、中国に渡ってから特 に哲学化され、口伝えにされて行ったものですから、それと丁度、二世紀の頃にナラジュルナと いわれる人が中心になって、五つに分類して、阿言(アゴン)、華言(ケゴン)、 涅槃(ネハン)、法華 経(ホケキョウ)、こういう区分を、さらにまたドンガンといわれるお坊、中国のものが入って来て、 その結果が段々と仏教というものも本質を失って変わって行ってしまい、ゴーダマ・シッタルダ ー、釈迦牟尼仏が亡くなってすでに九十日目のときに、ブッタサンガーの中にも教えを変える人 間が出たのです。 初めて小乗仏教というものも破ってしまう人も出てきてしまうのです。小乗仏教というものも やがてまた、大乗仏教というものに変わって来ます。現在の日本の仏教というのは大乗仏教です。 非常に知だけが発達して、行いの方がどっか行ってしまったら知恵は、得た知識というものは 実践をしてこそ智慧に変わるものです。その体験がないから、段々だんだん頭でっかちになって、 仏教は大衆の思うようにならなくなってきたのです。 こうして日本の仏教は亡くなった先祖にお経を上げることが仏教なんだというようになり、と ころが本当の仏教というものは、仏弟子というものは生きている人間に宇宙の神理、これを諸法 無我といいますが、あらゆる神理というものは人間の知識によって変えることができないもの、 諸々の神理というものは人間の我がはいらない。 太陽が東から西に沈む、春夏秋冬、動物、植物、鉱物を通して全て万生相互関係の中に安定し ている大自然の姿、無所得のままに全て人間がこの環境に生活できる一切のものを与えている、 こういう自然の姿というものを通して教えられているものが本来はこの諸々の諸法、この諸法こ そわれわれの人間としてカクあるべしということを教えているのです。 なぜならば人間は、この地上界の環境に、もし太陽がなかったならば瞬間に凍結します。永遠 に人間は生きて行くことはできません。逆にまた、地球の地磁気が等しかったらどういうことに なるか、暑いか寒いかどっちかです。 またその中で、我々は生存することもできません。ちゃんとしたルールの中に我々が肉体を保 存することの環境の一切を与えてくれていることに対して自然は何を教えてくれているでしょう。 生かされているということに対して感謝せよということです。感謝せよということは報恩とい う行為によって、その感謝の意義を表せということです。ところが、一方通行です。口の中で「あ りがとうございます」だけです。 浅草の私のビルから見ますと、そういうところがあります。最近は少なくなりましたが「あり がとうございます」「ありがとうございます」と、言っている人達がいます。 「ありがとうございます」と言うのなら、その時間に仕事をすれば良いのです。そういう時間 があったら、正しく仕事をすることが大事です。そして、気の毒な人々に太陽のような無所得な ままの慈愛を施してやるのが大事です。このように自然は我々に教えています。そうして人間と いうものは、まさに大自然のごとく片寄ってはならない中道であるということを教えております。 皆さんは太陽の熱が、もし四十度、五十度、十度以上あがったらどういうことになるでしょう、 皆さんは果たして生活ができるでしょうか。 あらゆる自然環境を通して我々の生活できる一定気圧、一定温度、こういうものを、ちゃんと コントロールしながら体温と見合ったように我々の生活環境を整えて与えております。しかも酸 素も十分に与えております。我々はその自然の環境の中で肉体保全の調和を与えております。 こうなれば、やはり自分一人ではない、人間同士助け合って行かなければならない、しかも最 近は宇宙船というものを通して地球を見るようになった。あの機関と同じように宇宙の中にこの 地球号を見ている。 そして宇宙という一つの我々の船上の中に、地球号という大きな宇宙船という中に我々も生か されているということを知ったならば、主義主張、いわば間違った自我、不平というものは人間 の道ではない。 こういうように真実の諸法無我というものは、宇宙の法、自然法というものは人間自身の知や 意によって変えることができない。ところが仏教はいつの日かわからなくなってしまって学者や お坊さんたちが変えてしまった。 そのために或る宗教家のように「南無妙法蓮華経」を一生懸命拝んでおれば良いというように なって、もうすでにインドのお釈迦さまは過去の人である、日蓮こそ絶対である。過去の事なん てもういいんだと言いながら、「爾時世尊従三昧安詳而起告舎利佛」(にじせそん、じゅうさんま い、あんじょうにき、ごうしゃりほつ)、といいますが、爾時世尊とは一体誰か、それはお釈迦様 だろう。それでは舎利佛とは誰か。日蓮なら爾時世尊と言わなくても日蓮がと言えばいいことで あって、舎利佛と言ったら日蓮の弟子を一人位上げればいい。ところが間違いなくインドのお経 を使っている、おかしいものですね。 こういう矛盾だらけのものが、いわば現代の宗教的環境を形作っている。このように長い歴史 を通して、仏教というものは変えられてしまった。正しい信仰というものがこういう他力化して 変えられてしまった。 人々は本当の道を求めて色々な神々を訪ね、或いは修行と称して肉体業を、滝に打たれて一生 懸命にやって行くうちに、「こんなにやっているのに、ちっとも良くならネエ」に段々おかしく なって、「こんなことしていたらあかん、バチが当たるで」と自分を自分で納得させて、こうし て疑問だらけであってもどうにもならん。 「ナムアミダブ、ナムアミダブ」をいくらやっても無駄です。そういう時間があったら少しは 良い事をやったほうがいい。こうして、いつの間にか仏教というものは化石化してしまって。本 当の正法というものは実践です。その法を通し自然は、宇宙の人間はカクあるべしと、自然は教 えている。その自然を通して人間のあり方、このように生活をすればいいというのが、本当の道 なんです。 恐らく、偉いお坊さん方は本当は分っているのでしょうが、生まれた環境、習慣を通して「こ んなことを言うと皆から仲間外れにされると。まぁ、GLAの勇気のあるお坊さんは一杯おりま すから、そういう事にはくじけないで、堂々とやっておりますけど、自分の名誉や地位を追いか けている専門屋さん、こういうことは辛いでしょうね、大学の教授あたりもそう思います。本当 のことを言うとオマンマの食い上げになります。まぁ、そういう人達は本当に弱い人たちです。 仏教の本質というものは生老病死という苦しみを解脱することを実践する道を説いたものです。 決して亡くなった人たちに戒名をあげて、そして一生懸命にお経を上げろということは一言も書 いてありません。もし書いたとしたならば、後の人達が色々ご事情が有りまして、書かれたもの だと思います。 正法というものは、片寄ってならない中道の道を説いたものです。インドのゴーダマ・シッタ ルダーはこのようにして慈悲ということを説いたが、本当の愛という道は説いておりません。 次元の違うあの世へ帰ってから、色々な事情がありますので、そういうことから愛の道を説か ずに帰ったために、後にベルシャナーといわれる方が出られて愛の道を説きます。さらにそれか ら実在界の原理によってイエス・キリストといわれる方が出られて愛という道を説かれたのです。 次元の違う世界では、キリスト教も仏教も、そのようなものは一つも無い、神理は一つなので す。ただそれによって生活している人達が長い歴史の中に間違ったものにして行ったものです。 仏教の中でもそうです同じ南無妙法蓮華経の中にも、あれが本山だ、こちらの方が本山だとや っております。仏教は一つです、キリスト教も一つです。ただし教えている中身は同じです。 それを我々は「仏教の方が非常に哲学的だ」とぬかしている人もいるが、とんでもないことで す。仏教自身も、或いはキリスト自身もまったく同じ仲間なのです。上々段階・光の大指導霊で す。同じ協力者達なのです。皆さんも心の窓を開けばそれ位のことはわかるはずです。地球は一 つ、人類はみな兄弟です。 皆さんは「袖すり合うも他生の縁」という諺を知っているでしょう。何十億万年も転生輪廻を 体験している過程の中において、皆さん自身はみな知っているのです。ただ、皆さんが現代乗っ ている肉体舟の人生体験を通して、他人様のように思っていたり、錯覚を起しているだけなので す。長い転生の中には、それぞれ、色々な縁を通して皆さんは今あるのです。 こういうことが分れば、現代宗教というものの中の矛盾、正しい真実のもの、これを皆さんは 知っているのです。ただ、それが自分の心の中に記憶されたままのビデオテープ、テープレコー ダーのスイッチの入れ方がわからないだけなのです。 そのスイッチの入れ方を皆さん分って来たら「なーんだ、私達はこういうものなのか、人生と いうものは、永遠に我々は一つの道を歩いているんだ」、そして、今の環境の中に厳しい経済的、 精神的の厳しい中においてでもそれを学習の場として自分が甘んじてより豊かな心を作るための 勉強なのです。 そうなってくると経済的に恵まれている人達は、その中で環境を通して恵まれない人達には暖 かい手を差し伸べてやろうという本当の道があるのです。 ところが末法という世の中になりますと、人間の目的と使命がわからなくなって、分らなくな って来るから、勉強をして英語や数学やドイツ語、そういうものができれば、もう立派な社会人 として学校さえ出ていればズーッと未来が約束された世界ですから、心なんてどうでもいいいよ うになっている。そうなりますから目的が分らなくなってしまう人達はノイローゼになります。 長く苦しんで、本来我々は、そのノイローゼ自身も、長い地上界の生活の中で道を失った人達 がこの世を去って、地獄界という世界を起し、その人達は何とか救われたい、或いはまた、彼等 の世界はみなさんがテレビジョンを見ているよりかもっとハッキリと、この地上界を見通してお ります。 心の中で動揺が起こってイライラしている人ですから地獄霊が、同じ仲間ですから語ります。 最初の頃は肉体をつかれさせなければならないのですから、夜眠らせません。地上界の想念が、 どんどんと発信されている時には、よう出てきません。彼等も我々に見られるのが恐ろしいので す。 それゆえに地獄の住人たちは寝静まった頃ゴキブリのようにゴソゴソ、ゴソゴソ出てきます。 ですからノイローゼの皆さんが夜寝られないのがそこなんです。この辺(胸辺りを指される)から耳 元から、いろいろ語ります。 最初の頃はまことしやかに、「俺は神の子だ、お前をちゃんとしてやる。家族の言うことも聞 いちゃいかん。大体お前は、お父さんもお前が小さいとき、お風呂にも入れてやらなかった位だ から、お前を粗末にするのは当然なことだ。今日お前に文句を言ったのも、お前を子供と思って いないからだ。母親を恨め」などと耳元で囁くわけです。 そうすると本人は聞いたことを親にそっくり言うわけですね。お父さんも、子供が二歳、三歳 のことをいわれるものですから面食らうわけですね。 まぁ、地獄霊は一杯煽り立てます、怒らせるようにね。子供は本当のことは知らんものですか ら「親父は本当にとんでもない奴だ」なんてね。 地獄霊にしてみれば、怒らせた方が都合がいいものですから。同じ波長が合うし、苦しい世界 から、生きている人間に憑依した方が楽ですしね。そのようにして人を苦しめます。 或いは耳元で「お前の友達にこういうのがいるけれど、あれはお前の悪口ばかり言っている。 アレの言うことは聞いちゃいけないぞ。あいつを徹底的に憎め。そうしないと殺されてしまうぞ と言うから、喧嘩を吹っかけてしまう。隣近辺の人が悪口をいっている悪口をいっていると地獄 霊が言いますから、一人が二役、三役になってしまうものですから、地獄霊は肉体といっても光 子体ですから原子肉体を通さなければ言葉にはなりませんから、生きている人間を通してやりま す。 ですから皆さんが、電車に乗っているときブツブツ言ってニヤニヤッと笑っている人を見たこ とがあるでしょう。気違い病院ではこういう人はタヌキといって、多いでしょう。気違い病院の 先生には見えないけど、私達には見えるんです、そばに仲間が一杯来ているんです。 「GLAの講演会へ絶対行くな」と、行く寸前になって足止めを食っちまって心臓をわざわざ 圧迫します。お医者さんへ行って診てもらいます。「心臓はちっとも悪くないんですから気分で はないんですか」 レントゲンでも結果が出ない、そのうちに心電図をとっても分からないのですから。「気のせ いかな」ということになります。ところが憑かれている本人にとっては、胸を締められノドを締 められ、呼吸を止められるのですから怖くてしょうがない。ところが、それも全て地獄霊が死と いう恐怖心をその人に与えるんです。 そのために生きている人間で、病気になっている人が正しい基準を知り、そういうことを聴か ないように、話し掛けても無視して、絶対に語らないようにすればいいんです。 その内に段々だんだんと自分自身が憂鬱になって来る。「死んだがいいよ、そんなことで生き ているよりか死んだほうがいいよ」 死ねば同じ場所(地獄界)に住むようになってくる。仲間がまた一人増えるわけです。 そしてまた同じような心の人に憑いて、あちらの人、こちらの人へと同じようなところへ行っ て憑いてしまう。このように段々だんだんと末法という人間の心を失って行くにしたがって、そ ういうような地獄の世界に生きてゆくようになってくる。 ですから題目闘争、折伏闘争、闘争、闘争という、そういう宗教家たちは、その周辺に協力し ているものをアシュラーといいます。ですから聞く耳はもちません。 或いは「ワッショイ・ワッショイ」、我々の学生時代は角帽をかぶっていたのが、最近は鉄棒 を持っちゃう。そういう連中、これをアシュラーという。普通の人間じゃありません。それをふ つうの人間だと思って会話するから、彼等は歯止めが効かなくて過激に走る。 まっとうな本当の人間の道を教え、生きている人生の目的と使命はこうなんだということを理 解し始めれば、私のところには全学連の前科何犯というのが、今は変更して一生懸命にやってい ます。 過日、「私たちの仲間に、どうしてもこれを教えたいんです、大学へ行って彼等に教えます」 というから、「お前は殺されるぞ」と止めさせております。 真に人間同士が本来、闘争と破壊はすでに人類の魂は体験をしてきて、卒業してきている万物 の霊長です。それが肉体という舟を持ってしまうと、この地上界の長い歴史の中に引き込まれて いる自分自身を失ってしまう。そうしてあの世へ帰ってから殆んど「しまった」という人ばかり です。 いまだかって「私はやってきました」という人は一人もいません。せめて神理を知って生活を している人なら、自分自身が出てくるときに或いはあの世からお母さんのお腹から出てくる前、 送られてくる時は「まぁ、まかしといてよ、今度は絶対やるよ」と、うまいことをいう。 ところが環境に慣らされてお母さんの方も末法の世ですから、何もわからない、わからなくな っちまっているから、さあ、わかりませんよ。ですから、そんな約束をホゴにしてしまって、環 境や教育、思想や習慣にすっかり慣れてしまって自分の本質を忘れてしまう。 そうして使命をある程度持った連中は、実在界から協力をします、霊感を与えます。「今日は 三―六で競馬が当たったぞ、パチンコが三十六番で出た、俺は霊感があっていつも神様が協力し てくれる」なんて言う内に、段々力がついてくる内に、人々に道を説くようになる、力があるか ら段々だんだん増長慢になってくる、ついには神様になってあの世へ帰っちまうんですね。 これですから末法という世の中で、真に自分自身の本性を知って、人生を正しく生きて、多く の人々に本当の真実の道を正して帰るということは誇りなんだということです。 メクラが、僕等はスイカ割の大会を海岸でやっております。手拭いで目を隠して二、三回体を グルグルッとまわすと、平衡感覚を無くしてとんでもないところを叩くように、それよかもっと 難しいです。 人間の一生というものに対する目的と使命を知って、正しいという基準を知って帰るというこ とは本来、それは皆さん自身の心の中にピシッとあるんです。ところが神様の体である地球とい う環境に出てしまうと、もう分らないんです。次元が違う世界から肉体を持ってしまうと、分ら なくなってしまうのです。それを手探りの中で苦しみもがいて、本当の光の道はどういうもので あるかということを発見してゆくのです。 皆さん自身の心の中に偉大なる教えがあると言うことも忘れて、人は遠くの方まで神様を求め て行きます。真の信心というものは皆さんの心と行い、皆さんの一番の、一番の船頭さんである 自分自身に有るということがある。 ネズミの話がある。お日様が一番だろうというので、お日様んところへ行ったら、「いやいや 雲だろう、雲にワシも隠されてしまう」 そこでネズミのお父さんは雲さんの処へ行った。そうしたら、雲さんが「私なんか風さんに簡 単に吹き飛ばされてしまう。一番強いのは風さんだろう」ということになって、風さんちへ行っ た。 「いやいや壁さんだろう、壁に簡単に止められてしまう」 壁さんを訪ねたら「ネズミさんにはかないませんよ、簡単にかじられて穴をあけられてしまう」 結局、ネズミさんということになった。 同じように、神さまを訪ね歩いたところで、皆さん自身の肉体を支配しているところの皆さん 自身の魂、その中心にある心そのもの、ここに本当の正しい法という中道の道を皆さんが実践す る、その中に本当の信心があるのです。 さあ、こうなると無視はできませんね。GLAには売り物がないんですから。神様が創ったも のでなければダメなんですから。或る教団のようにペンダントの近代的に作ったいいのが、一丁 三百円、うちの会社でつくれば三十円で出きるんですから。でも良い殿堂ができます、当然なこ とです。 でも、その罪は自分で償(つぐな)わなければならない。それだけに、正しい道というものは、自 分自身の心というものを通して、絶対に自分に嘘のつけない心がある。皆さんは、自分に嘘のつ ける人があったら大したものです。 人には嘘をつけます、都合が悪いから。自分の心は絶対なる善です。その善なる心のままに皆 さんが勇気を持って、心が外に向けば人間は矢張り欲望という苦しみをつくり出すのです。 内に向いて正しい判断をしていれば、そして、その結果がどのように出て来るのか、それには 常に自分を振り返りながら、正しい自然法を捉(とら)えて、人間は中道の道、インドのゴーダマ・ シッタルダーの説いた八つの正しい道、正しく聞き、正しく見る、正しく語る、正しく思う、正 しく念じる、そして正しく仕事をする、正しく自分を見る、正しく道に精進する、そうして禅定、 自分を振り返って、神の光によって満たす。 このような八つの道を自分が生活の中に実践したときに初めて道が開くんです。それは一秒一 秒の積み重ねです。ところが、ナンミョウホウレンゲキョウ、ナンミョウホーレンゲキョウと拝 むうちに、こちらの方から子供が「お母さん御飯まだ」「うるさいねー、今、忙しいんだから、 ナンミョウホウレンゲキョウ、ナンミョウホウレンゲキョウ」その内にご主人が帰ってきて「何 だまだ夕食も出来ていねーのか」と夫婦喧嘩が始まるようでは残念なことに、そんな信仰をいく らやってもダメです。 大事なことは、「ナンミョウホウレンゲキョウ」という意味が、どういうものであるかという ことです。法灯は宇宙の法、神理を心の物差しとして我々の肉体は、あの泥沼のような肉体、体 からは汗、大小便、そのような泥沼のような中におっても、私達は本当に正しい宇宙の法を己の 物差しとして生活をしたならば、あの蓮の花と同じように調和された境地に到達することができ るのだと。そのための行為が必要だと、拝むことではなく、実践したとき人間が初めて「南無妙 法蓮華経」の神意がでてくるのです。 こうして私達の心というものを中心とした生活行為の中に信心はあるのだということ、ここで 他力と自力、本当の現代宗教と正法の違いが有るということです。 長い間ご清聴ありがとうございました。
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