1 火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉記述 池田光穂

火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉記述
池田光穂
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【事の発端】5W1H ふうに書くと……
When:
1946 年 10 月 25 日
Where:
英国のケンブリッジ大学キングスカレッジ・ギブス棟H階段3号室(H3号室)
、モラルサ
イエンスクラブという研究会の席上で
Who:
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(LW)とカール・ポパー(KP)
What:
「哲学の諸問題はあるか」というテーマをめぐって両者が口論をした
How:
LW が火掻き棒をいじった後、部屋を出ていった
Why:
̶̶〈議論したい我々の疑問〉̶̶
LW の従者
KP の従者
【ピーター・ギーチ教授の証言】
【ピーター・ミュンツの証言】
(KP の言明は)
「はじめからおわりまで」嘘であ
彼は「ウィトゲンシュタインが暖炉の火のなかか
る。̶̶当日現場に居合わせた LW 派の哲学者
ら、赤く灼熱した火かき棒をとつぜんとりだした
彼の「記憶によれば、ウィトゲンシュタインは火
のを憶えている。そしてポパーの目のまえで怒っ
かき棒を手にとり、それを哲学上の例についてふ
たようにそれをふりかざした。それまでずっと沈
れるなかで使っていた。使いながらポパーに『こ
黙していたラッセルが。口からパイプを離してき
の火かき棒について考えてみたまえ』といった。
っぱりといった。
『ウィトゲンシュタイン、その火
たしかに二人のあいだでは激しい議論のやりとり
かき棒をいますぐ床におきたまえ』。ラッセルの声
がおこなわれていた。ウィトゲンシュタインはゲ
は高く、しわがれたような響きだった。ウィトゲ
ストを黙らせようとしたわけではなく(そこはい
ンシュタインはいわれたとおりにした。そのあと
つもとちがう)、ゲストのほうもウィトゲンシュタ
わずかな間をおいて、かれは部屋から歩き去った。
インを黙らせようとしたわけではなく(このこと
たたきつけるようにドアがしまった」
(エドモンズ
も異例である)。/ウィトゲンシュタインはポパー
とエーディナウ 2003:28)
。
の主張につぎつぎと異論をとなえたが、ついにあ
きらめた。とにかく議論のさなか、ウィトゲンシ
ュタインはいったん席から立ち上がったようであ
る。席にもどってきて、腰掛けたのをギーチが目
撃しているはからである。そのときは、まだ火か
き棒を手にもっていた。とても憔悴した表情で、
椅子の背に大きくよりかかり、暖炉のほうに手を
のばした。火かき棒は炉の床のタイルのうえに、
かたんとちいさな音をたてて落ちた」
(エドモンズ
とエーディナウ 2003:27)
。
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15 de mayo, 2008
【記憶の対立】PK/LW の二項対立
・火かき棒は灼熱していた/冷たかった
・LW は怒りふりかざした/ただ「使っていた」(指揮棒/道具/実例/もてあそぶ)
・部屋を出たのはラッセルとの会話の後/ポパーの火かき棒原則を口にした後
・静かに出た/ドアをたたきつけるように出た
・ラッセルは金切り声をあげた/「吠えた」
LW に関する背景知識
KP に関する背景知識
・LW̶̶ケンブリッジ大学教授、当代きっての花 ・KP̶̶LSE で論理学と科学方法論の上級講師(准
形哲学者
教授相当)
・LW̶̶「ポパー、知らないなあ」ピーター・ミ
・KP̶̶自著『開かれた社会とその敵』の公刊
ュンツの証言(エドモンズとエーディナウ
(1945 年)に自信。同じウィーン出身の改宗ユ
2003:334)
ダヤ人ではあるが、育った社会階層・性格・人生
観において LW と共通点は少ない。著書のなかで
【再現された真相】
LW の秘密主義を批判。他方、LW を評価しケン
̶̶言うまでもなくここでのエドモンズとエーデ
ブリッジに招聘した、バートランド・ラッセルに
ィナウは「素朴実在主義者」たちである(池田コ
深く傾倒。
メント)
。
・ウィトゲンシュタインは、いつも行なっている
【ポパーの自負】
ような反射的しぐさおこない、炉にあった火かき
・哲学における本当の問題は帰納にまつわること
棒を握り、語り始める。彼の言葉の句切りと同時
だった(=ウィーン学団のいう検証可能性の原則
に、痙攣するように火かき棒をつき始める。
(いつ
を攻撃するために帰納の問題を取り上げる。ウィ
もやるようだが、この日はかなり激しく̶̶ゲス
ーン学団の検証可能性は帰納により推論する)。
トから反撃を喰らう機会は少ない)。「火かき棒を
・ポパーによると、意味のあるもの/ないものの
床におきたまえ」との発言は誰かわからない(ラ
区分、科学と疑似科学の区分は、
〈反証可能性〉に
ッセルの可能性は高い)。LW は音節毎に、それを
あり、
〈帰納による検証可能性〉にあるのではない。
突きながら「ポパー、君はまちがっている……ま
【いくつかの哲学問題】
ち・がって・いる!」と話す。
・確率の問題:KP はハイゼンベルグの不確定性の
・次に聴衆がみたのは、火かき棒を投げ捨てた LW
原理、コペンハーゲン解釈における量子力学の主
が立ち上がり、同時にラッセルも立ち上がった。
観主義(=世界にはどうしても知り得ないものが
LW は(今度は)ラッセルに対して「あなたはい
ある)と闘っているつもりでいた(cf.
つもぼくを誤解するね、フラッセル[そのように
遊びはしない̶̶アインシュタイン)。KP は確率
聴衆には聞こえた]」。
というものは認めても、自然には傾向性があり、
・ラッセルはそれに対して「ちがうよ、ウィトゲ
それゆえに確率には確実性があると主張。
ンシュタイン。ものごとをごっちゃにするのは君
・
[カントール]無限の概念をどのように理解する
のほうだ。いつもごっちゃにするんだ」と返答。
かという問題。アリストテレスの潜在的無限と現
・たたきつけられたようにドアが閉まる。LW は
実的無限の区分。アリストテレスは潜在的無限を
出て行った。
理解可能なものとしてとらえることで、ゼノンの
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神は骰子
【LW の不在】
パラドクスは生き残った。カントールはさらに現
・LW が出て行った後も議論が続いていた(それ
実的無限の可能性を示唆した。しかしラッセル
はこの回だけでなく、LW は議論を独占したくな
(BR)によるとトリストラム・シャンディのパラ
いことを理由にしばしば途中で会場を後にする癖
ドクスを招来することになるという、H3教室で
があった)
・ホストのブレイスェイトがポパーに[議論の続
も議論された可能性がある。
【ポパーのメティス】メティスとは「狡知」
(=ず
きである]道徳的原則の実例をあげるように促し
る賢い)のこと
た。ポパーは「ゲストの講師を火かき棒で脅かさ
・セミナーにおいて、LW を挑発して「哲学には
な い こ と 」( エ ド モ ン ズ と エ ー デ ィ ナ ウ
本当の問題など存在せず、あるのは言語的パズル
2003:344)と答えた。一瞬の間の後に、誰かが
だけである」という LW の主張を彼じしんに言わ
笑った。
・質問は続き誰かが「サー、キャベンディシュの
せ̶̶それは PK が最も嫌うものであった̶̶LW
実験ですが、秘密裏におこなわれたものは科学と
と論戦を闘わせる。
言えますか?」
。ポパー「言えない」
。
秘書ワスフィ・ヒジャブのメモ
秘書ワスフィ・ヒジャブのメモ
・
「ウィトゲンシュタイン
・
「ポパー
純粋数学や社会学にし
ウィトゲンシュタインとその一派は、
か、もはや〈問題〉などというものはない。/(聴
予備的なことがらをとらえて、それが哲学だとい
衆、ポパーの実例に納得していない。雰囲気に変
いはっている。その予備的な考察の外にでて、も
化。室内、かつてないほどの激しい議論、声高に
っと重要な哲学の問題を考察しようとしない。/
は な す 者 あ り )」( エ ド モ ン ズ と エ ー デ ィ ナ ウ
(ポパー、問題の実例をいくつかあげる。言語的
2003:341)
。
表面より深くもくらなければ解決できない問題の
例)」(エドモンズとエーディナウ 2003:341)。
【再現の信憑性】あるいは、エドモンズとエーディナウによる根拠呈示
・ウィトゲンシュタインは、道徳的原則の実例をポパーに聞くようなことはしない。
・火かき棒の件については、議事録には記されておらず、それ自体が重要視された形跡はない。
・キャベンディシュの実験の質問は、ギーチの罠である。反証可能性を保証するために「秘密裏に」
真理が発見されても、それは科学とは言えないことを、言わせようとした可能性がある。
・ウィトゲンシュタインを諭したのはラッセル以外にはありえない(当時のクラブそのものが、LW の
信奉者がほとんどであった)
・LW が会合の途中で退席することは稀ではないが、そのことを知らない KP には、異様に映ったよう
に思われる。
・ポパーが自伝に書いたことに対する非難として KP が「老人呆け」だったというのがあるが、これ
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は当たらない(同じ著作の他の部分や、他の著作はまともに記述しているので)。
・なぜなら、ポパーはこの部分に関しては、何度も書き直しをしている。とくに、ケンブリッジを訪
れた理由を「そそのかすため、誘うため、おびきよせるため、挑戦するため」などと書き直し、最終
的に最後のフレーズを使った。
・つまりポパーは実質的には確信犯であった可能性が高い(エドモンズとエーディナウ 2003:352)
・精神科医ピーター・フェンウィックの発言:
「知覚のなかでも、記憶はもっとも逆説的なはたらきを
する。記憶はとても強力で、ごくとりとめのない印象でも保存している。すっかり忘れたと思っても、
数年後に細部まで克明に思い出すことがある。それでいて、まったく違ったこともおぼえ込ませるこ
とができるので、なんとも信頼がおけない」(エドモンズとエーディナウ 2003:354)
。
問題:
この歴史上著名な?エピソードから、我々が学ぶべきことはなにか?̶̶この両派(LW vs. KP)の
コミュニケーションの齟齬について、(i)記録すること、
(ii)記述を読んで想像すること、(iii)想像
したことをもとにその文脈から飛翔した別種の議論をおこなうこと、の意義について考えなさい。
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