第7章 無意識的知覚

第7章
無意識的知覚
これまで、この本は完全に意識的知覚の問題に捧げられてきた。だが、無意識の知覚に
関する興味深い問題があり、それはあたかも意識が本当は大したものではないかのよう見
せる現前の意見の風潮のためより優勢になった。この雰囲気のなかで人間の最も重要な
精神的プロセスや活動は無意識であるとみえるようになることができ、なおはっきりとしてい
ないままだが、意識の機能は近きや思考のような認知活動を含む人間の活動を、企てたり、
始めたり、実行したりするというより、規制したり、監視するものであるようになりがちである。
この章は第一義的に無意識的知覚に関心をもつが、また他の種類の無意識的行為のよう
な無意識的心理現象も議論するつもりである。(1)
第1節 無意識の短い歴史
科学であろうと哲学であろうと、私たちは意識と無意識の関係の適切な説明を知らない。
正確に何がその問題なのか?いくつかの問題があるが、それに入る最も単純な方法はそ
の問題の歴史を議論することである。無意識に反対する議論はこのように進んだ:デカルト
などの哲学者たちは精神状態は本質的に意識的だと示した。実際意識的であることは精
神状態に本質的なものである。無意識的精神状態の概念はそれゆえ無意識的意識の概
念である。これは単純な自己矛盾である。精神のデカルト主義の定義において、字義通り
数世紀間、知的生活を支配した定義はどんな無意識的現象をありえなかった。19世紀は
じめ、この概念に挑戦し、無意識的精神現象の考えを擁護した人々がいた。三人の例は、
文学におけるドストエフスキー、哲学におけるニーチェとショーペンハウエルである。フロイ
トは確かに無意識の概念を発明はしなかったが、誰よりもそれを広めた。フロイトが知的生
活に及ぼした巨大な影響を修復することは今日困難である。ウィスタン・オーデンはそれを
この様に描いている:「私たちにとって、彼は単にひとりの人なのではなく、今日意見の全
思潮である」(2) フロイトの無意識の概念は人々が知っているより複雑である。(3) だが手短
にいえば、フロイト主義の概念は、前意識と無意識の区別を必要とするということである。全
意識は、ワシントンはアメリカ合衆国の初代大統領だったというわたしの信念のように、そ
れについて意図して思考していない現象からなる。前意識の概念に対立するフロイト主義
の無意識の概念は、苦痛のため意識に現れない精神状態の概念である。たとえば男の子
の母との性交を欲望し、父親を殺す欲望は抑圧された「無意識的」同期の形式とフロイトに
よってみなされる。なぜならその欲望は認めるにはあまりに苦痛であるが、それにもかかわ
らず子供の動機の一部として存在するからである。
今日ではフロイトは知的に時代遅れで、彼の理論はもはや無意識の正しい科学的な概
念とはみなされないと私は思う。だが20世紀後半、認知的認知的無意識と呼べそうな別の
無意識の概念が出現した。単に神経細胞的であることに対して純粋に精神的でありなが
ら、、意識に原理的にアクセスできないあなたの脳の中で起こる諸プロセスがあると考えら
れた。もちろんそれは神経細胞学的に「実現されるか、実装される」。だがそのプロセスを
理解するのに本質的である記述のレベルは無意識的精神のレベルであり、神経生物学的
レベルでも意識的レベルでもない。その考えは、意識的でなく、意識的にありえさえする種
類のものでさえないが、やはり神経生物学のレベルより高次の脳の中で起こっている純粋
に精神的プロセスの存在を仮定にしなければならない人間の認知を説明する考えである。
だから、3つの説明のレベルがあることが仮定されている:ときには軽蔑的に「民間心理学」
(folk psychology)と呼ばれる志向性のトップレベル、神経細胞学のボトムレベル、そして認
知科学(Cognitive Science)が操作できる―と解釈される―中間レベルである。
この三層の概念のふたつの例は視覚と、言語の獲得と使用にある。視覚の場合、その考
えは資格情報の処理を説明するため、私たちは無意識であるにも関わらず単に神経生物
学の問題ではない概念レベルを仮定しなければならない。古典的なテキストはマーの本、
『視覚』(邦訳、『ビジョン―視覚の計算理論と脳内表現』)である。(4) マーは3つの異なる
分析のレベルを仮定する。彼が計算手順的的レベルと呼ぶトップ・レベル。これはシステム
がその問題を解決するレベルである。そのため、たとえば、視覚システムはモノの形を意識
的に検出する。ボトムレベルには、このすべてが起こる神経生物学がある、だがマーのユ
ニークな貢献、そして実際に心の計算理論的概念の貢献は、問題解決のトップレベルと神
経生物学のボトムレベルの間の中間レベルを仮定することである。この中間レベルには、
システムの「ハードウェア」によって実装されるアルゴリズムがある。なぜこれが重要なの
か?それは志向性主義的な心理学でも、神経生物学的でもない、視覚の科学があること
を意味する。中間的なレベルがあり、視覚の科学は、脳に実装されているコンピュータ・プ
ログラムを計算することによってエージェントが従うアルゴリズムを計算することでそのレベ
ルで進む。
わたしがこの考え全体が混乱していると考えることに、この本の読者やわたしの以前の著
作の読者には驚くことではないだろう。志向性のレベルはある。実際いくつかのレベルがあ
る。志向性の神経生物学的実現のレベルがあり、実際いくつかのレベルがある;だが心理
学に実在的だが、無意識的なアルゴリズム的処理のレベルはない。その考えは中間レベ
ルのこれらの精神的プロセスは完全に無意識的だが、心理学的に実在すると仮定してい
る。それは人が意識できる種類の物ではないが、視覚システムのオペレーションの科学的
説明を提供する。なんらかの心理学的実在がコンピュータのインプリメントのレベルにある
という考えにいかなる明確な意味も与えられていない。あなたはどんなコンピュータ用語を
使ってでもなんらかのシステムを記述できるのと同じく、コンピュータ用語で脳を記述するこ
ともできる。だが、問題のコンピュータ・プロセッシングは、すべて観察者相対的である。そ
のような計算手順はどんな外部の観察者による計算手順的解釈の割り当てにもすべて相
対的である。こういうことも時には有用である。たとえば、あなたは胃がどれくらいの特定の
化学物質をある消化可能な摂取を攻撃するのに使うか計算する時、胃を計算に従事して
いると扱うことができる。
深い無意識の心理学的に実在するレベルがあることに反対する議論は、単にいかなる
志向性も、この本で繰り返し述べてきたように、様相的形態を必要とするということである。
表象は常にある様相か他の様相の下にある。だがシステムが完全に無意識的であるときそ
の様相的形態の実在とはなにか?ともに心理学的実在的でありえる、水に対する無意識
的欲望と H2O に対する無意識的欲望の違いはなにか?エージェントは水がH2Oだと知
らないかもしらない。彼は誤って誤って、H2Oは何かいやなもので、水は飲みたいが、H2
Oは飲みたくないと思っているかもしれない。彼にとってどんな事実が、まったく無意識で
あるとき、無意識が、彼にある欲望をもたせたり、他の欲望をもたせたりするのか?答えは、
私は明快だと考える。私たちは潜在的に意識的である何かの表記法念として無意識的精
神状態の会念を理解している。あなたはエージェントにたずね、そして彼は彼の欲望と嫌
悪を意識にもたらすことができるかもしれない。だがマーの計算手順的レベルのケースで
はこれを意識にもたらす見込みはない。なぜなら、意識的思考プロセスの一部となりえる種
類の物がないからである。(私はこの議論を後でさらにするつもりだ)。
さて、それではなぜ脳は他のどんなデジタル・コンピュータのようではないのか?脳は他
のようなただのコンピュター的メカニズムではありえないのか。その答えはこうである:そのよ
うなすべてのケースで、計算手順は、観察者相対的である。それは計算手順が実在しない
ということを意味するのではない;反対に、私たちは実行を望む計算手順を実行するコン
ピュータを作り、プログラムするのに多額の金をかける。だがそれはハードウェア内の電気
回路や電気状態の変化が本来的で観察者独立的である仕方で計算手順は本来的―観
察者独立的―プロセスを名付けないことを意味しない。そうではなく、ハードウェアはプラ
グラムされた時、私たちが云々の仕方でそれを「解釈」できるようにデザインされている。わ
たしはこの点を強調して指摘したい:算術的問題を行ったり、計算を実行したりする意識的
エージェントはつねに観察者相対的である。
人間の認知の説明で因果的に機能する無意識的精神現象の第二の例は、言語の獲得
と使用である。子どもが言語を使える仕方、彼が言語的刺激を処理できる仕方、そして彼
が文を生み出すことができる仕方は、単に無意識的ではなく―だがフロイト主義の無意識
とは違う―エージェントが意識的になりえる種類の物ではない精神的プロセスの問題があ
ると考えられる。問題の精神状態は計算手順的状態である。ひとつの理論でそれを表現
するとしたら、それはコンピュータ・プログラム、あるいはさらに典型的には認知心理学者や
言語学の専門家によって用いられる一連のテクニカルタームとしての考えでなければなら
ないだろう。 言語学者が子どもは「アルファを動かす」(move alpha)という規則を適用すると
言うとき、その子が何かギリシャ語のアルファベットの習得者であるという含意はない。この
考えは単に子どもの脳内の無意識的精神的プロセスを表現する言語学的な方法なのであ
る。
この説明において、視覚も言語も計算手順の問題である。私たちは精神状態を計算手
順的状態を本質的に計算手順的状態と考えるべきであり、計算手順的レベルは神経生物
学のレベルと「民間心理学」のレベルの間で起きる。それは心理学的に実在的だが、意識
的でもなく、意識にアクセス可能な物ですらない。
認知革命とともに、転換が起きた。無意識を難問あるいは問題のあるものと、普通の精神
生活の形態を意識と考える代わりに、「認知科学」の学者たちは、無意識が説明の標準的
様式となったのに反して、科学研究の範囲を超えて、意識を謎めいた神秘的な物と考え始
めた。この転換の説は、このパラダイムにおいて、私たちは脳をデジタル・コンピュータとし
て、心を一群のコンピュータ・プログラムとして考えるべきなのである。認知科学の誕生とと
もに、少なくともその初期には、人間の認知の説明の科学的に妥当な様式を生産するとい
う熱望があった。だが科学的説明は内観的心理学の問題でも行動主義の問題でもあって
はならない。認知科学は少なくとも部分的には、行動主義への反動で築かれた。当時圧
倒的に魅力的だとみえたそのモデルは計算手順的なパラダイムだった。私たちは脳を、神
経生物学のレベルではなく、精神のレベルであるたくさんの計算手順を遂行するものと考
えるべきだった;だが同時にそれは常識ないし「民間」心理学の問題ではなく、完全に無
意識的あった。
私は認知科学の最初の何十年の特徴だった無意識の精神的処理の考えに対し手攻撃
してきた。そして私はこの章の初めでいくつかの議論を素描した。第一に、私たちは一方
で無意識的精神状態が、原則的に私たちが意識できるようになる種類のものである皮相な、
ないし普通の無意識と、他方で無意識的精神状態がエージェントが意識できるようになる
種類のものでさえない深い、あるいはアクセス不可能な無意識を区別する。深い無意識は
意識にアクセスできない。なぜなら、問題の規則は意識が意識的に操作できる形式を持つ
ことさえないからである。たとえば意識は、0と1の非常に長いシーケンスとして記述すること
ができる、非常に複雑な計算手法の規則の問題である。だがそれは意識にアクセス不可
能な記号操作を表現するただの理論家の方法でしかない。
この意識、深い無意識の概念は哲学的に誤った推論であるようにみえる。わたしは様相
的形態(aspectual shape)のについての議論を発展させることを約束する。それはこうだ:精
神状態の概念は充足条件を表象する何かの概念であるが、すべての表象はある様相の
下にある。それはすべての表象―これは私たちが知覚で手に入れる種類の現前を含む―
は、いくつかの様相的形態をもたなければならない。わたしはその角度ではなくこの角度
からイスを見る。わたしは記述「H2O」の下ではなく、記述「水」の下で何かを欲する。すべ
ての志向性は様相的である。だが状態が完全に無意識である場合、神経生物学的現象し
かない。無意識的精神状態のレベルでは様相的形態はない。だから「人は無意識に水を
欲するが、H2O は欲しない」と言うことにどんな意味がありえるのか?わたしは人は意識に
もたらされることができる精神状態をもつと仮定することによってこの意味を理解する。あな
たは「水がほしいかい?」という質問をすることでそれを意識にもたらすことができる。そして
彼は言う。「はい」。そして彼に尋ねる。「君は H2O がほしいかい」?そして彼は言う。「いい
え」。だから私たちは無意識的精神状態の概念の意味をはっきりさせることができるが、原
則的に、意識へのアクセス可能性との関連においてだけである。人は多くの理由で―たと
えば、抑圧、脳の損傷、単に忘れっぽさ―意識に無意識的精神状態をもたらすことができ
ないことがある可能性はある。だが無意識的精神状態は、原則的に意識にアクセス可能で
ある「種類の物」でなければならず、初期の認知科学者が仮定した無意識的精神状態は
そうではない。現在の議論に関して、要点は意識にアクセス可能ではない無意識的精神
状態の概念は、すべての志向性の様相的形態を説明できないため、誤った推論である。
第2節 意識についての懐疑
深い無意識の拒否をしてさえ、やはり、人間の行動や人間の認知の理解に純粋なレベル
として意識に関する懐疑がこの数十年あった。意識が人間の行動や認知で付随的役割し
か果たさず、知覚や自発的行為の重大な多くの形態が本質的に無意識的か、意識によっ
て監視され、指導されえるが、その開始は無意識であるという懐疑がある。この議論はコン
ピュータのメタファーのイデオロギーによって操られているのではなく、確実な実験結果に
基づいている。
わたしはそれらの結果のいくつか例を検討する。
1.盲視(blindsight)
第一に、おそらくもっとも有名な例は、ローレンス・ワイスクランツ(Lawrence Weiskrantz、
英)によって初めて導入された「盲視」の概念である。(5) ワイスクランツは、視野の一部を結
果的に盲目にした形の脳の損傷(Visual Aria 1)をもったただ一人の患者を初めて発見した。
実際患者にとって、視野の一部は存在しない。左下の四半分(quadrant)で安宅のその領
域が彼の頭の後ろのそれようであった。彼はそこに黒さを見るのではなく、そこには何もな
かった。ワイスクランツは興味深いことを発見した。彼の目前のスクリーンの十字の線の中
に目を固定するよう求め、彼が盲目である左下四半分に「X」か「O」を直ちに点灯し、かつ
刺激に反応して目を動かすことができないほど短時間しか点灯しないようにした場合、彼
が起きたことを報告できるのをあなたは発見する。あなたは彼にうながさなくてはならない:
あなたは尋ねる。「何が見えた?」。彼は次のように言うだろう。「わたしは何も見なかった。
ご存じの通り、わたしは脳が損傷している」。(実際は、患者は問いにいらだちがちである)。
だがうながしていると患者は言うだろう。「X があったように見える」あるいは「O があったよう
に見える」・この1週間後、ワイスクランツの患者はそのとき90%以上正答するようになった。
盲である患者の視覚フィールドの部分で受けられる情報の志向的形態の何かがあきらに
ある。ワイスクランツはこの現象を「盲視」と名づけた。
これはいくつかの理由で私たちの研究に重要である。ひとつの理由はこの実験が、意識
されない志向的知覚の形態があることを明確に示していることである。ワイスクランツはこの
現象の最も興味深い側面は視覚システムにひとつの神経的抜け道以上のものがあり、す
べての抜け道が意識的ではないことを示すと考えた。
ミルナー(Milner)とグッデイル(Goodale)によるさらなる研究は脳にはひとつ以上の視覚シ
ステムがあり、すべてのシステムが意識的なのではないという考えを支持した。(6)
2.準備電位(readiness potential)
第二無意識的情報処理の形態は1970年代ドイツでディッケ(Deecke)とコルンフーバー
(Kornhuber)による初めての研究で明らかにされた。その後20歳期末サンフランシスコで
ベン・リベットによる再現された。彼らの研究の発見は行為の開始は無意識である、すなわ
ちエージェントは何かをすることを意識する前に開始されることを示すように思われる。
実験装置は次のように設置された:主体は手を伸ばすとかボタンを押すとか何らかの単
純な行為を行うよう指導される。主体はその後時計を見て、彼がボタンを押すと決めた時
計の瞬間を正確に見るよう言われる。その時そこで、行為中の意図が始まる。研究は補足
運動野の活動の増大と行為の開始の主観の気付きに訳350ミリ秒の時間の遅れがあるこ
とを示した。ディッケとコルンフーバー、リベットがこれらのデータから描いた絵は、主体の
脳は主体が決心するのに気づく前に、ボタンを押そうとしているということだった。そしてこ
の「準備電位」は補足運動野における活動の増大によって示される。その場合は主体はボ
タンを押そうとするのに気づくようになり、この気付きを研究者に告げる。だが実際に主体
の意識は単純に乗り遅れているのである。ボタンを押そうという決定はすでに完全に無意
識である仕方で脳によってなされている。
この実験全体のパラダイムと結果として出た議論は、意識がなんら重要性をもたないとお
決まりのように仮定する私たちの現在の知的風潮の不適切を明らかにした。実際、その議
論は単に悪い哲学を明らかにしただけでなく、悪い実験計画も明らかにする。もっとちゃん
と知るべきであるすべての人々は、リベットの実験が自由意志を反駁し、私たちの行動の
は実際決定されていることを示したという。おそらく自由意志は偽であるが、リベットの実験
はその種の何も示さない。最近の研究は(8)実験結果が主体が時計を見つめることを要求
している結果である可能性を示唆する。おそらく準備電位を生むのは時計である。もしあな
たが主体に動かないと決める同じ事件を行うなら、同じ「準備電位」が起きるだろう。
準備電位の議論の全理論やそれに由来する自由意思の可能性についての華々しい結
論は現代についての知的不適切さについての非常に深刻な何かを暴いた。よく知った多
くの人たちは、リベットの実験から、私たちが自由意思を持たないと、自由意思は反駁され
たと結論した。それらすべてが示すのは、主体が気づく前に行為の開始以前に補足運動
野で活動の増大があるということである。だがそれは、このすべてが行為を行うと決定する
前に主体が時計を見るめる結果であることに変わった。リベットの実験の誤解に基づいて
いることは、すべての悪い哲学や悪い神経生物学すべてに共通しているのは興味深いだ
ろう。表面的価値を受け入れてすら、それは自由意志の不可能性について何もないことを
示すとつねに主張してきた。
3.反射神経
意識的に気づく前に行為を始めることに関する証拠があるとたくさんのいつはや科学的に
実証された事例がある。熱いストーブに触ったことがある人はだれでも、熱さに気づく前に
ようになる前に、手を引っ込めることを知っている。どんな有能なスキーヤーも体が動いた
のに気づく前に地形に体が自動的に合わせることに気づいている。見事な例はまたプロス
ポーツ選手に見られる。時速145キロ以上で投げられたボールに直面する野球のバッ
ターは、ボールに気づける前にスイングをはじめなければならない。彼の身体がボールに
完全に気づくのを待っていたら、すでにボールはキャッチャーミットの中だろう。類似の例
は、サーブに気づく前に、それを受けるスイングをはじめなければならないテニスプレイ
ヤーによって与えられる。もう一つの有名な例は、銃声が鳴るのを意識的に聞いくまえに
実際に動き始める経験豊富な陸上ランナーによって提供される。銃声はランナーの動きを
始める仕方で脳を刺激するが、実際の聴覚システムの処理はランナーにとって、スタートし
始める前に銃声が鳴るのを意識的に聞くまで待つにはあまりに遅すぎるのである。
これらのすべてのケースで、主体は意識的地下がある前に身体的運動を開始したのに
気づかない。その場合、どのように私たちは彼らが実際身体的動きを始めたことがわかる
のか?典型的な答えは、私たちが意識を生み出すのに入ってくるシグナルを処理するの
に脳がどれくらい時間がかかるかを知ることである。これは約0.5秒らしい。だから訓練さ
れた身体はその長さを待てず、だから意識的知覚の前に動きを始めるのである。
そのような種類の事例は意識が本当にそれほど問題ではないことを示唆する研究の氷
山の一角である。リベットの考えでは、意識は私たちの行動を「監視」するが実際にはそれ
を始めない。行動の開始は無意識的になされ、意識的心はその場合それを開始しないか、
実行するか拒否できる。かつてリベットが言ったとおり、私たちは「自由意志」(free will)はも
たないが、「自由反意思」(free won't)をもつ。意識はそうしなければ起きるだろう行為を拒
否できる。
マーク・ジーネロッド(Marc Jeannerod)の本『運動性認知』(Motor Cognition) (11) は、私
たちが素朴に意識的精神的処理と考えているものが活動を実際に実行している無意識的
精神的処理を仮定することによってよりよく説明されるという考えを提供する。
これを書いている時代、21010年代、現れる構図は、意識が人間の行動において本物
だが、より小さな役割しか果たさないということである。私たちの知覚情報は無意識に達せ
うされ、おそらくほとんどの私たちの行為の多くは、無意識に始められる。意識は私たちの
行為を指導するある種の警官として機能するのかもしれないが、実際の運動性の人間の
認知や行動は無意識である。わたしはこの主張は完全に誤りであり実験のエビデンスよっ
て支持されないと考える。渡すがすぐなぜか説明したい。
第3節 意識は重要か?
これらすべての興味深いデータについて私たちは何をすべきか?それらは意識は重要で
ないことを示すのか?脳は決心に気づく前に、何かをする決心をするのか?私たちは、あ
なたが十分実際意識的に見ていないと結論するのか?実際わたしはそれらはその種のこ
とを何も示していないと考える。それではひとつづつ見て行きたい。
もっとも興味深いケースは、ディッケ、コルンフーバー、リベットの準備電位にかんする実
験である。たとえその実験が完全に正しいとしてもその結果は自由意志が存在しないこと
を示したのではないだろう。主体は何かをすると決心をしていた―私のジャーゴンでは、彼
は事前の意図を形成していた―だが、行為の前の状況は行為を引き起こすのに十分なあ
り方であるという示唆はない。すなわち、これが自由意志を反駁するエビデンスはなにもな
い。だがもちろん実験装置全体はふたつの変数、時計を見ること、腕を動かすことがあると
いう事実によって無効である。
私たちの知的環境において、多くの人は自由意志は存在せず、意識はそれほど重要で
はないと思いたがるのは明らかだ。わたしは自由意志が存在するかどうか知らないが、意
識は非常に重要だと確信している。たとえばわたしがこの本を無意識に書いているのを想
像してほしい。
いくつかのケースは反射神経である。なんらかの意識的決定の前に、動き出すことがで
きる経験を積んだ野球のバッターやテニスプレーヤーだけだということに注意してほしい。
わたしはなにか反射神経のようなものがこれらのケースで働いているのは明白だと考える。
わたしは経験を積んだスキーヤーであり、変化に気づく以前に地形の変化に自動的に身
体が合うという、スキーでは非常にありふれたこの経験をわたしはもつ。私のスキーはコブ
をはね、私の膝は自動的に調節され、そしてそれが起こったあとわたしはコブとそれへの
私の反応に気づく。反射神経の概念は、やはり、これらのケース活動中の反射のような何
かである。
ふたたび盲視のケースは興味深いが、それは知覚の非常に周辺的なケースである。だ
れも盲視だけを使って自動車を運転したり、それについて本を書いたり、映画を見たりは
できない。
もう一つのありふれた誤りはたとえば何かを見るように実際なることによって処理されるほ
とんどがそれ自体非-意識的神経生物学的プロセスであるため、それゆえ視覚を生む脳で
進行する無意識的精神的プロセスがあると仮定することである。これは以前指摘した深刻
な誤りである。だからたとえば、視覚の神経生物学における研究は V 1(視覚エリア1)から
外側膝状核(LGN)への大量のフィードバックが存在することを示す。だからLGNから V 1
へ信号が進むば、その後LGNへの大量のフィードバックがある。わたしが指摘している点
は、これらのプロセスは視覚経験の産出に本質的であり、このレベルではなんであれ心理
学的実在はないのである。どんな精神的実在も全くない一連のニューロンの発火だけがあ
る。これらは「無意識的精神的プロセス」のケースではない。これらは「非-意識的神経生物
学的プロセスのケースである」。そしてもちろん私たちがなんらかの知的行動すべてを行う
ために大量の非-意識的神経生物学的プロセスがある。だが、ケーキかける粉砂糖のよう
な意識を生む無意識的精神的実在のいわば氷山の一角のようにこれらを見るのは大きな
誤りである。わたしが何度も指摘してきた点を繰り返せば、何かが無意識的精神現象であ
るためには、意識可能な種類の物でなければならない。さもなければ心理学的実在はなく、
様相的敵対はなく、施工内容もない。そしてそれはわたしが引用してきた非-意識的心理
学的プロセスでは真である。
この議論の結論は、私たちが脳の活動や心の活動について現在何らかしている限りに
おいて、意識は知覚や認知一般のどんな議論でも絶対的に中心的な重要性をもったまま
である。実際表層的、無意識的精神状態があり、これらはしばしば、特に人間の動機付け
の問題で、深刻な重要性がある。だが深い無意識のようなものはない。さらにどんな知覚
経験でも進行する大量の神経生物学的な処理はあるが、これは精神的実在の候補では
ない。なぜならそれはまったく非-意識的だからである。たとえば V 1とLGNのフィードバッ
クのメカニズムは意識的視覚経験の創造に重大であるが、それらは心理学的実在をもた
ない。それらは心理学を創造するが、それらは何ら精神的地位もつ物自体ではない。それ
らは無意識ではなく、非-意識である。
1. この章の議論は、Searle, John R. The Rediscovery of the Mind, Cambridge, MA: MIT Press, 1992
の無意識の説明に大きく頼っている。
2. Auden, W. H. "In Memory of Sigmund Freud" Another Time. New York: Random House, 1940.
3. Freud, S. "The Unconsicous," in The Standard Edition of the Complete Psychological Works of
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4. Marr, David, Vision: A Computational Investigation into the Human Reoresentation and Processing
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7. Deecke, Luder, Berta Grözinger, and H. K. Kornhuber, "Voluntary Finger Movement in Man:
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10. Searle, John R. "Can Information Theory Explain Consciousness?" The New York Review of Books
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