放浪作家の冒険

放浪作家の冒険
西尾正
ぞうし
や
きしもじん
″
その時も尚パリの裏街、︱︱︱貧しい詩人や絵描きや音楽
たど
私が或る特殊な縁故を 辿 りつつ、雑
司 ヶ谷 鬼
子母神 裏
あたか
家や、そしてそれらの中の埋もれたる逸材を発見して喰
じゅあ ん じ ろ ぞ う
り、賭
場 モンテカルロですっからかんになると、突然日
ろうおく
屋 の放浪詩人 陋
樹庵次郎蔵 の間借部屋を訪れたのは、 恰 いものにしようとする飢えたる狼の如き、卑しい利得一
たけなわ
も秋は 酣 、鬼子母神の祭礼で、平常は真暗な境内にさま
点張りの本屋や画商やが朝から晩迄 犇 めき合う雑然たる
樹庵次郎蔵、︱︱︱無論仮名ではあるが、現在この名前
すくな
″
を覚えている者は尠 い。が、 On a toujours le chagrin.
︵
﹁人にゃ苦労が絶えやせぬ﹂︶︱︱︱こう云う人を喰った題
本に郷愁を感じたものか、再びもとの懐しい 紡縷 を纏 う
ひし
ざまの見世物小屋が立ち並び、嵐のような参詣者や信者
長屋区域Q街の一隅の屋根裏の部屋にとぐろをまいてい
あしおと
名の道
化芝居 が一九三×年春のセイゾン、フランス一流
て、孤影 瀟然 として帰来したのである。
ろう
の群の 跫音 話声と共に耳を 聾 するばかりの、どんつくど
た頃、 次郎蔵の懐ろに巨額の上演料が転げ込んで来た。
のヴォドヴィル劇場O座によって上演せられ、偶然それ
かくて樹庵次郎蔵は、約一年間、フランシス・カルコ
たちま
んどんつくつくと鳴る太鼓の音が空低しとばかりに響き
で彼は 乃 忽 ち仲間の放浪芸術家たちを呼び寄せ、カフェ
が当って一年間ぶっ通しに打ち続けられたことのあるの
ばりの憂愁とチャアリイ・チャップリンばりの 諧謔 を売
いんしん
を、読者は記憶しておられるかも知れぬ。この作者がわ
りものにわが国のジャアナリズムに君臨していたが、天
そこ
渡る、 殷賑 を極めた夜であった。
が樹庵次郎蔵であった。
成の我儘な放浪癖は窮屈な文壇にも馴染まず、一時の名
と ば
しょうぜん
てんがい
ちょうど
こむそう
ろ
まと
かいぎゃく
ぼ
会﹂を催おし浩然の気を養った挙句、単独でモナコへ渡
からカフェへ居酒屋から居酒屋へ、久々で盛大なる﹁宴
幼少時代から身寄り頼りのない生来の漂泊者樹庵は、
声も陽炎のようにたまゆらにして消え去って行った。
ピュル レ ス ク
その青年時代の大半をフランスで送った。皿洗い、コッ
私が訪れた夜は 恰度 彼樹庵は、見すぼらしい衣を身に
ぜげん
ク、自動車運転の助手、職工、人夫、艶歌師、 女衒 、な
うご
纏い、 天蓋 を被った蒼古な 虚無僧 のいでたちで、右手に
なりわい
どなど、 これらの 生業 と共に社会の裏側に 蠢 めき続け、
3
4
但し、文中の地名は、或る必要から曖昧にした。
と云うわけで、以下はとりもなおさずその再録である。
ぞ!﹂
センスだ。さあ、お御酒がまわったから一気にしゃべる
浪作家の冒険﹄てんだ。名前は勇ましいがなかみはナン
﹁︱
︱︱そんなにききたいならはなしてもいい。題して﹃放
つかせながら云った。
に変わり、 どこかこう、 映画俳優の So-jin
に似た 瑰琦 な、不敵の、反逆の、そして太々しい好色の瞳をぎょろ
官に浸透するに 伴 れ、暗鬱な無口が次第に滔
々 たる 饒舌 テエブルに向い合った。彼の最も愛好する安酒が彼の五
的太鼓の音の響いて来ない、或る支那料理屋のがたがた
三十分の後、樹庵と私とは往来は雑踏ではあったが比較
喜捨でも乞いに行かんかなと云うところであった。
一管の笛、懐ろにウィスキイを忍ばせつつ、さて境内へ
ふうの、ロシヤ人らしい青二才とひっついていて、おれ
のやつ、もみあげのながい赤いワイシャツをきた絵かき
ジョア気分でも味おうと思っていったのだが、リュリュ
と
た詩の原稿料で、近所のカフェにはたらいている Lulu
いう女をつれだし、ひさしぶりでどこかのホテルでブル
まって腹立たしくなるうえに、じつはめずらしくはいっ
に肌をとおす底びえのする寒さだった。寒いとおれはき
がやき、まるでね、陽気が日本の冬のように、音をたてず
の断片さえもみえぬたかい夜空が白日のように皎々とか
と、VホテルやN寺院やE門やの壮麗な建物の屋根々々
屋根裏に寝起をしていたが、窓からそとをのぞいてみる
そのころおれは、Q街の陶物屋のあたまのつかえそうな
らも、残っていないあんなところへ、だれがゆくものか。
やな晩だった。でなければもはや、どんな空想の余地す
うがないが、あの晩はとくべつ、淋しく腹立たしい、い
グ
ロ
じょうぜつ
のほうはみむきもしないのだ。 業腹 だった。のみすけの
とうとう
そう、あの晩はばかにむしゃくしゃした晩だった。もっ
おれのことだからべつにやけ酒じゃないのだが、端から
つ
とも、おれのようになんのあてもなく自堕落な生活をお
みたらそうとれるかもしれぬ。ともかく相当あおってそ
ごうはら
や尖塔に、寒月が水晶のようにかたァく凍りついて、雲
くっているものに、むしゃくしゃしない日なんかありよ
5
さけてひとつところによどんでしまう。表通りはふつう
賑わうほど、裏側にはどぶどろや 塵埃 やかすが、人目を
る。表に文化の花のほこらしげに爛漫とさきにぎわえば、
で、ひととおりは 婬惨 で、不潔で、犯罪むきにできてい
んでおくが、東京でいえば川向うの世界のようなところ
りまえのはなしだ。そこはまあ、仮にX街の裏通りとよ
どこのどんな文明国にも表があれば裏のあるのはあた
ものを求めようとする人間の、よわいあえぎかもしれぬ。
誘惑のようなものから、なにかめずらしい冒険のような
じめつけるようにきびしく、ロマンティックで、反撥と
空にひっかかった月からがして、何かこうおれたちをい
る裏街区域へすっとばすことにした。腹
癒 せもあったが、
わたって一時間たらずのところに一画をなしている、あ
こをでてからタクシーをねぎって、Q街からS河の橋を
り、ある小さな飲み屋ふうの家の戸口のところでとまっ
くばりながらあるいてゆくおれの足が、こつんとそれき
そういう女たちを尻目にかけ、それとなく左右に眼を
婬惨で、なさけないくらいの 栄 養 不 良ぶりだ。
いと、とよびかけるのだが、その声がまたぶきみなほど
つんとひびいて、その気配に売れのこりが、ちょいとちょ
こちこちの 木煉瓦 の路地をあるくおれの靴音がこつんこ
水にむかってへどをはいているという始末⋮⋮。かたい、
へんにものかなしい亡命的な小唄を 口吟 んでいたり、下
情熱もうしなったように、煙草のけむを輪にふきながら、
があっちの窓こっちの戸口にうろうろしていて、 職業 の
いっときのようにひやかしもながれていず、お茶っぴき
んな遊び場に夢をもつような男はいなくなったのだろう、
景気だ。なにしろ、めずらしい寒さではあるし、もうそ
じんあい
はらい
の薬局や八百物屋や雑貨店などのせわしげにたちならぶ
てしまった。その家のまえにたってじっとおれの近づく
ベレー
しょうばい
商店街だが、その商店と商店との間にもうけられたほそ
のをまっている女が、なんと日本娘じゃないか。毛皮で
くちずさ
い路地へ一歩はいりこむと、そこはもう別世界だ。そこ
はあったが、もはやところどころの抜けおちたみすぼら
もくれんが
がそれ、君だって先刻御承知のところだろう。
しい黒外套に、ふちのみじかい真赤な 帽 を真黒なふさふ
いんさん
着いたらすでに夜もおそく、どうしたわけかばかに不
、
、
、
、
6
な紅
毛 女のエキゾティシズムに
口紅やいたずらに Actif
はあきあきしている矢先とて、柄にもなく日本へのノス
じまいの無雑作なところが、ちぢらし髪やどくどくしい
おしろいけのない、一見 し ろ う と女にもみえる、そのみ
こにでもころがっている下らぬ女には相違ないのだが、
し、日本人としてもとくに鼻もひくく眼もほそすぎ、ど
ものだ。売れのこりだからいずれにしても美人じゃない
まった肌や黒い眼黒い髪がとつぜん恋しくなる時がある
めしがくいたくなるように、 産毛 のはえていない肉のし
になるほどおれも若くはないが、なにかのはずみで米の
ということにべつだん不思議はないし、センチメンタル
た。日本の女がよその国へきてこういう種類の女になる
オい電燈の灯をあび、さそうような 幽艷 さをたたえてい
をかさねて入口のドアによりかかっているすがたが、青
かるがるとのせて、両手をポケットに奥ぶかくいれ、足
さした、眉のかくれるくらいまでにあふれた髪のうえに
になったの﹂
ことがあってね、いまじゃこんなところではたらくよう
﹁それまでどこにいた﹂
﹁いいえ、ついさいきん﹂
﹁まえから、ここにいたのか﹂
してもいられないから、ね、おねがいするわ、ね﹂
﹁︱︱︱今夜はこんなに不景気だし、いつまでここにこう
こうはいうものの少しもうれしそうではないのだ。
﹁あら、あんた日本人なのね。うれしいわ﹂
みせて、ささやくような日本語で応じた。
度は淫売婦どくとくのふてぶてしい人をくった冷淡さを
声のいくぶんか訴えるような、かなしげな、そのくせ態
はずしすっくとたちなおるようにして、声だけはつくり
すると女は、にこりともせず、ただかさねていた脚を
﹁今夜はばかに不景気だな﹂
はっきりしたわれわれの言葉で、はなしかけてみた。
こうもう
ゆうえん
タルジアを感じさせたのだろう。おれは奇態なほどその
女はさらに近より真白な両手をだしておれの右手を
うぶげ
女にひきつけられてしまった。おれはなかばこころに決
ぎゅっとにぎりひきよせようとした。
﹁ある絵かきさんのモデルをしてたんだけど、いろんな
めかけながら、しかし声のわるいのだけはごめんだから、
、
、
、
、
7
気な色電気が路地から路地へさしこんでいるのみで、さ
月は表通りの屋根にかくれ、ただたちならぶ娼家の不安
でもない。しばらくはおれと女の靴音が虚無にひびいた。
がそのままずるずると女のあとにしたがったのはいうま
小猫のように音もなくさきにたってあるきだした。おれ
クではあったが、くいいるようなながしめをあたえつつ、
中をむけると、相変らずその眼は不愛想でニヒリスティッ
チャンぶりをはやくも洞察したのであろう。くるりと背
て、おれの脳神経をあまずっぱく刺戟した。女はおれの甘
むろん正常じゃないが、婬惨な、ダダ的な情欲がながれ
をもつかしらぬが、ひとりの日本の淫売婦がたっている、
くらい色電気のながれた異国の暗黒街に、どういう過去
線へかけてくりくりしまった素敵な肉づきなのだ。ほの
くとたった姿かたちが、胸のふくらみからゆたかな腰の
声も耳ざわりのいい東京弁だが、それにもましてすっ
してるとこをみつけられると 煩 さいんだからさ﹂
﹁︱︱
︱ね、そんなことどうだっていいじゃないの。こう
角にあるのではなく、両隣とうしろがおなじような家々
いったい幾間あるのか見当もつかない。この家は路地の
つぜんこづくようにおれを左手の小部屋におしこんだ。
うな風がわりな構造にあっけにとられていると、女はと
らに廊下が前方にのびているらしく、それ自身迷路のよ
右手に階段があって、それをのぼりきると 踊り場 からさ
このアパアトメントふうの家を女について二三間ゆくと、
るところをみると、今がラッシュ・アワアであるらしい。
男のしわぶきやひそひそばなしが陰々としてきこえてく
その廊下の両側が女たちの居部屋であるらしく、 時折、
つづいていて、 つきあたってなお右左にわかれている。
ノリュウムばりの廊下がにぶく光りながら前方にながく
い三間ぐらいだろうと思われたが、うすくらいなかにリ
路地からみかけたところでは階下も二階も二間かせいぜ
すぶしんではあるがとほうもなくひろいということだ。
上ってだいいちにおどろいたことは、その娼家が、や
路地のあいだに吸われるようにかくれた。
うる
きへゆく女のすがたが闇のなかにきえるかと思えばまた
と密接しているので、ことによったらそれだけの大きな
ランディング
ふうわりと浮びでて、みえつかくれつ、さいごにとある
8
﹁うれしいわ、うれしいわ、うれしいわ﹂
な し なをしてまといついてくる。
つかしくてたまらぬといったあんばいで必要以上に濃厚
本人にであったというよろこびを誇張して、さもさもな
度とはうってかわって、わびしい異郷にあっておなじ日
部屋へはいると女は、さっきの水のようなつめたい態
思った。事実こういう家は日本でもめずらしくない。
家を、外観だけ三軒ないし四軒にわけたのかもしれぬと
いるおれにとって、それはまるで泡みたいなものだ。お
うつ寂
寥 と孤独と絶望の波をたえず頭からひっかぶって
にもたよるべき家郷をもたぬ永遠のヴァガボンド、よせ
なんのための養生だろう。摂生といい養生といい、どこ
なまじいはらおうとも思わぬ。なんのための摂生だろう。
みこんでいて、五年や十年の摂生でははらえそうもない。
おくっている体には、ながねんの夜露が骨のずいまでし
でもないだろう。ひるよる逆のまるで 梟 のような日々を
おれの体があまり健康でないということは説明するま
ふくろう
などといいながら部屋のまんなかで、首にだきついて
なじ泡なら泡盛のほうがいい。ヴェルレエヌじゃないが、
せきりょう
ぐるぐるまわったりするので、すくなからずおれは面喰っ
外が死のようにしずまりかえって、家がひろすぎたりし
だろうが、おれの聴覚はドビュッスイのように鋭敏だ。戸
う会話がきこえてくる。のんきな人間にゃきこえないの
をとおして、えへんえへんとのどをきる音やぼそぼそい
じいっと耳をすますと隣室やほうぼうの部屋々々の壁
は腹だというとばかにするが、なかなかどうして、こい
だろう、きたないはなしだが、下痢でない日はない。人
ン・コップで腸の壁面をすっかりただらせてしまったの
日本にいる時からとんがらしをぶっかけた牛シャリやワ
以外の病気はたいていわずらった。なかでも業病は腹だ。
散らう落葉かな﹂というわけで、自慢じゃないが婦人病
﹁げに我れはうらぶれて、 ここかしこさだめなく、 飛び
て、なにかこうおっかない事件がおこりそうな、場所が
左っ腹が、大腸とかいうところがしくりしくりといたみ
つがもてあましもんなのだ。酒の気がきれるときまって
場所だけにひどくぶきみな思いをした。
た。
、
、
9
屋がふたつ、むかいあってならんでいる。たしか左の部
階段をあがっていった。廊下をはさんでおなじような部
うなので、なんとかなるだろうという気で、眼のまえの
よくある。まごまごすればよけいまよいこんでしまいそ
いがさめたためにかえって勝手のわからなくなることは
なにぶんひろい家なので、ここだと確信はできない。酔
んで、 さいしょの階段ににかよったところまででたが、
きまがった角がわからなくなってしまった。とにかく か
さて部屋にかえろうと廊下をもどってゆくうちに、さっ
腹がさっぱりするまでかなりながい時間がかかった。
たつかせて廊下をつたっていった。
くりかえしながら、 蹠 にひんやりするスリッパの音をぺ
ろだというややこしい返事なので、そいつを口んなかで
て廊下を右にいって、つきあたってから左へいったとこ
じめた。便所はどこだと女にきくと、そこの階段をおり
ことだけはパンクチェアルに、しくしく便意を催おしは
だす。で、その晩もアルコオルがきれたので、こういう
のトム﹂をきどりつつ、が、その場合にかぎりおもしろ
をしらない場合の隙見ほどおもしろいものはない。
﹁隙見
四五分の隙間があいている。相手がのぞかれていること
がそうで、ドアとドアの接する壁との合わせ目の下方に、
そのまま動かなくなる時があるものだ。ちょうどその時
めたつもりでもわずかではあるがななめの隙間をつくり、
ゆるんだドアのボタンが穴にきっちりはまらないで、し
的にドアの隙間に吸いついた。たてつけのわるい 蝶番 の
ぶされたようにひびいてくる。おれの眼はほとんど本能
しているうちにも苦悶の吐息は遠慮会釈もなく、おしつ
かがっていようかと、ちょっとのま思案したが、そうこう
違ないと直感したのだ。もどろうか、そのまま様子をう
まった。なにか殺伐な事件がなかでおこりつつあるに相
同時に、ドアのノブにひっついたまま動かなくなってし
まさにあけようとしたおれの手ははっと息をころすと
さあ、これからがはなしだ。
たまげた。
、
あしうら
屋だったと、無造作にあけようとした瞬間、その部屋の
いなどという余裕のある気持でなく、 むしろ機械的に、
きそくえんえん
ちょうつがい
なかから、気
息奄々 たる女のうめきがきこえてきたから、
、
10
はないか。
うだ、そのベッドのうえでは殺人がおこなわれているで
をみるために必死の横目をつかったもんだ。ところがど
り、そっと体をずらせてななめに顔をおっつけ、女の顔
るのだろうと、もちまえの好奇心が湧然とむらがりおこ
たまま微動だにしない。いったいなにごとがおこってい
みつめているらしく、二本の足が脚立のようにつったっ
とりの黒服をきた男が、女の奇妙なありさまをじいっと
はねている。しかも、おれののぞいている鼻のさきにはひ
な下半身が陸にあげられた魚のようにぴょんぴょんとび
ドのなかばがみえ、そのうえで縄でしばられた女の真白
底辺三尺くらいの三角形にくりぬかれ、正面の壁際にベッ
つきあたりの壁まで約四間はあり、視野が隙間に応じて
いうのは、そこは畳数にしていえば十二畳余のひろさで、
なかは一瞥して自分の部屋でないことがわかった。と
心中は 戦々兢々
と、その堺い目に吸いついてしまった。
思わずあっとでかかる息を力まかせにおさえつけた。
相はよくわからなかったが、じいとみつめているうちに
をみだし、そのうえさるぐつわをかまされているので人
うめく。半裸の肢体は荒縄でたかてこてにしばられ、髪
させ、バンドをしめるたびに、女はううん、ううん、と
縞のパジャマをまとうている。満面を※
々 のように充血
和なことに、柄にもなく衣裳だけはりっぱな、ふとい棒
を日本の職人のように角苅りにしていて、まことに不調
刑務所からでてきたばかりなのか、まだのびきらぬ頭髪
え際がつづいていると思われるほど額がせまく、しかも
ししっぱなで、唇はあつく前方につんでていて、眉と生
いうのだろう。眼がぎょろりとしていて、樽柿のような
るようなやつで、生得の殺人者とはああいう男のことを
くる兇暴無類の囚人ガアジンという男もかくやと思われ
とがない。ドストエフスキイの﹁死の家の記録﹂にでて
かも兇悪無惨な、おれはあんな人相のわるい男をみたこ
らなかったが、奇型といいたいほどの極端な小男で、し
せんせんきょうきょう
その女こそさっき迄おれの部屋にいたあいかたじゃな
ひ
加害者は台上に膝をついて女の首にズボンのバンドを
いか。いったいこの部屋でなにがおこなわれているとい
ひ
まき、ぐいぐいしめつけているので、確実な身長はわか
11
いん⋮⋮という暗示的なスウィッチの音とともに、 まっ
ばゆいくらいに煌々とかがやいていた電燈が、︱︱︱ぱち
しまったとばかり、ぴたりと息をころすと、それまでま
音をたてて、五分以上もただしい位置にあいてしまった。
動きのために、かすかではあったが、︱︱︱ことん⋮⋮と
それまでからくもささえられていたななめのドアが、身
室内にはもうひとりの別人物がいたのだ。 と同時に、
﹁そうだ、もっとしめろ、もっともっと﹂
すみからとつぜん男の陰気なバスがこういった。
ねばならぬ。ながいは無用と腰をあげたとたん、部屋の
ぬ。まごまごしているととんでもないとばっちりをくわ
のんな状態にいるかに気がついた。こうしちゃあおられ
んなことを考えているうちに、自分がいま、いかにけん
花瓶がおいてあったりして、︱︱︱などと、ばくぜんとこ
かけがさがっていたり、王朝ふうの蒼味をおびた椅子や
えば部屋の模様もなんとなくへんだ。妙に古めかしい壁
せ、それを身動きもせず見物しているのだろう。そうい
たっている男はだれだろう。どういう料簡で人を殺害さ
うのだ。むろん人殺しだ。眼のまえの脚立のようにつっ
ていたというわけなのだ。大急ぎでみじたくをととのえ、
気をつけてみると前後に階段があるので、右左が逆になっ
手の部屋のドアをあけた。そこがおれの部屋だったのだ。
させたまま、一進ごとに念をいれて廊下をはえずり、右
ので、蟻ほどの音もたてぬよう全身をよつんばいに凝固
めきもきえていた。にげればにげられるぞとかんづいた
こらしているのだ。もはや天国にたびたったのか女のう
かえって身動きのけはいすらきこえない。やつらも息を
らにとって不利だとでも思ったのか、しいんとしずまり
だが、この家でこれ以上のさわぎをおこすことはやつ
眼のまえのドアのひらかれるのを今か今かとまった。
らこいという身がまえで、しかし多分にびくつきながら、
首にも魔手をのばしてくるに相違ない。よオし、くるな
るべき秘密をしられたやつらは、うむをいわせずおれの
て極端にいやがり、半ごろしにするくらいだから、おそ
られぬ。たんなる隙見だけでも、こういう家の風習とし
かんづいたのだ。さあこまった、一刻もゆうよはしてい
くらになった。とりもなおさず、やつらはおれの隙見に
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めた。ところどころでさびしい灯を鋪道にはわさせてい
つつ、ねしずまった深夜の 街衢 をとことことあるきはじ
なれている。おれは頭のなかで、克明に道順をかんがえ
二時間ばかりだからたかがしれているし、それに夜道は
より道がない。あるいてかえったとて、おれの下宿まで
シーが一台もみあたらぬ。こうなったらあるいてかえる
人事件と関係があるとは思えないのだが、客待ちのタク
ところがどうしたことだろう、あながちにさっきの殺
こきざみに表の商店街のほうへはしっていった。
しいことだがぞオっとして、 路地を足ばやにかけぬけ、
されるところをみてしまった、とこう思うと、ばかばか
この妖街の一隅で、おれのあいかたがころされた、ころ
根々々をひるまのようにさえざえとてらしている。ああ、
にのぼって、きた時くらかった路地々々やはげおちた屋
う、相変らず青水晶のような透明な月が魔窟のてっぺん
外へとびでた。夜半はいまその高潮にたっしたのであろ
最初の階段をおりて出口へで、ネクタイもむすばずに戸
指図をしていたという点からも、こうかんがえられない
現場に、加害者のほかにふたりの男がいて、なにやら
きいたことがある。
うもない女をことさらねむらせてしまうというはなしは
業の女たちへのみせしめから、さきざきあまりかせげそ
うのは損得からいっていかにもあわないはなしだが、同
能なあの社会で、こっちから手をくだしてあやめるとい
てはいけない。脱走がぜったいといってもいいほど不可
ためには、やけならやけなりに、もっとほがらかでなく
走すらしかねまじい反逆的な女だ。柔順につとめあげる
女は、他国にいて、ああいう社会には適さぬ、いかにも脱
をきわめたものであるかに思いあたった。なるほどあの
いう特殊な社会の脱走者にたいする刑罰が、いかに苛酷
てはなんとなく秘密ありげな女だったが、ふっと、ああ
らないかという理由だ。不愛想で、陰気で、みようによっ
まず、なぜあのじごくがあの家でころされなければな
くの奇態な殺人事件を、もういちどかんがえてみた。
行がらくで、ひととおり背後をふりかえってからせんこ
ち
る立飲屋で、アタピンをひっかけちゃあ元気をつけてあ
ことはない。たぶん、抱主か土地ゴロに相違あるまい。あ
ま
るいてゆくうちに、さむさはさむいが風がないだけに歩
いるのだ。おれはそこにたたずんだまま、しばしはせん
とし、いまやS河は、奇っ怪千万な深夜の溜息をはいて
ものうげにゆれている河面にゆめのような華彩の影をお
に架せられたあまたある橋のあかりが、青黒い、暗愁の、
寺院の壮厳なすがたや、点々とちらばる対岸の灯、前後
の首みたいなE塔の尖端や、河中にもうろうとうかぶN
のような白雲がのろのろとながれ、左岸にそびえる 騏麟 鏡のようにすみわたった大空にはいつあらわれたのか丘
夜半の洋々たるS 河の なが めは思った より よかった。
いじょぶだと、おれの足はいっそうはずんできた。
やっとたどりつくことができた。ここまでくればもうだ
やがて、みおぼえのあるS河にかかるM橋のたもとに、
くなからず腐りつつ夜の街をあるいていった。
結婚記念に贈呈をうけたイニシアルJ・Jときざまれた
というのは、ひと月ほどまえクリスチャンである友人の
おれはとんでもないしくじりをしでかしてしまった。
ない、ないんだ、 お れ の万年ペンが。
て、あわてて体じゅうのポケットをさぐった。
んやりつぶやいているうちに、はっとあることに気づい
ンはどうかな、万年ペン、万年ペン、万年ペン⋮⋮とぼ
もしれぬ、その証拠物件にはなにがいいだろう、万年ペ
ルではあるが微細に描出すればすぐれたロマンになるか
て容疑者に擬せられる、こういう恐怖心理もトリヴィア
た娼家に﹁その夜の男﹂がなにか持ちものをおきわすれ
もないこうでもないとかんがえはじめた。人殺しのあっ
traquéばりの犯罪夜話をでっちあげるかもしれぬぞと
思い、それとなくその散文のアトモスフェエルを、ああで
はなしてやれば、器用な先生のことだから、
あ、とんでもない女にかかわってしまったもんだと、す
こくの戦慄もうちわすれ、河よ、いかなれば汝、かくも
総銀製大型の万年ペンを、問題の家におきわすれてきた
幻想にひやくしていって、今夜の事件はカルコあたりに
″
L’homme
くるおしくわが肺腑をつくぞ、とせりふもどきでつぶや
ことをその時はじめて気がついた。いや、おきわすれた
きりん
きつつ、 淼漫 たる水のながれをながめていた。たかい月
のじゃない、それまでどこへゆくにもその万年ペンだけ
すいまん
がおれの頭のうえにあった。するうちに気分がだんだん
、
、
、
″
13
14
るけと必死にあるいてゆくうちに、道がつきあたってふ
シーはないかと前後をみすかすがまず絶望だ。あるけあ
はやのんきに夜道をうろついている気分じゃない、タク
てもたってもいられぬ気持で、足ばやに橋をわたり、も
が﹁その夜の男﹂にならぬともかぎらぬ。するともう、い
ちうったが、こうなると、万年ペンから足がついておれ
あたりまえだと、はるかM橋の欄干からX街の屍体をむ
ざまあみろ、そういう手癖のわるいやつは殺されるのが
こされたまぬけさ加減に身ぶるいするほど腹がたった。
ような気がし、こころからすまなく思われ、女にせんを
たのだ。場所が場所だけに、神聖な友人夫婦を冒涜した
で故意にまといついたりして、そっとすりとってしまっ
て女の注意をひいたらしく、よほどの貴重品と思いこん
つしたつもりだったのが、そのぶきような動作がかえっ
ら、相手の気づかぬうちにすばやくべつのポケットにう
まれた時、くれくれとせがまれるのも煩さいと思ったか
はしょっちゅうもちあるいていたのだが、部屋へおしこ
がじゃまでやせられないほどの骨皮筋右衛門だが、骨格
だって場数はふんでいるし、剣道には自信がある。喧嘩
口をふさぐためここまで尾行してきたに相違ない。おれ
反射した。 あれからのちのおれの行動を監視していて、
きにつれ、鋭利なジャック・ナイフがきらきらと月光を
しめつけていた例の兇漢ではないか。右手のにぶいうご
こそ体にあわぬパジャマをき、まっかになって女の首を
る。すかしみて、野郎きやがったな、と思った。その男
たらしたままじいっとこっちをねめつけてつったってい
斜めにさしこむわずかな月光のなかに、両手をだらんと
うしろをふりかえると、外套も帽子もないずんぐり男が
憶病 なはなしだが、ぞオっと水をあびせられたように
﹁おい⋮⋮おい、ちょいとまちな﹂
ひっかかった。
とつぜん、陰にこもった底力のあるよび声がおれの耳に
たすた闇のなかへもぐりこんでゆくとね、 うしろから、
た。この食堂の右の道をはいればもうわけなしだと、す
きあたりが工事中の軽便食堂らしいかまえのところへで
もまんざらきらいのほうではない。体はもうこれ以上骨
おくびょう
と看板の
たまたにわかれ、右手に Postes Télegraphes
かかった郵便局、左の角が三階建てのくろい事務所、つ
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わした。と、どすうん、というものすごい音とともに男
れは、まぶたの危険にとずるがごとく、ひらりと体をか
たりにとびかかってくるのとが、ほとんど同時だった。お
おれがこう答えるのと、男の体がはやてのように体あ
﹁みた﹂
おすようにいった。
声で、眼は依然おれをねめつけながら、ゆっくり、念を
男はやがて、おしつぶしたような、かさけのある 嗄 れ
﹁︱
︱︱みたか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁なにか用か﹂
おれはできるだけおだやかに答えた。
くるに相違ない。わるくするとおだぶつだ。
はなし、犯行をしられているだけに必死にとびかかって
うけられるのだが、この場合無手ではなし、しろうとで
には自信がある。相手が無手なら三人まではらくにひき
る た ん ぼ うを両手ににぎって力まかせの﹁胴﹂をいれた。
りにおっかぶさってきた。おれは体をかがめたまま、 ま
なげた。案の定敵は、ドスを頭上に 晃 らせつつまえのめ
骰子 を
はや一刻のゆうよもない。おれは い ちか ば ちかの う敵しがたい。そのうちにもじりじりとせまってくる。も
だが、このままではよほど相手がうぶでなければいっそ
る隙にやつはけもののように突進してくるに相違ないの
こまねばならぬ。身をかがめてその棒きれをひろいあげ
ぬ。はらえないまでもせめて相手の体の一部分でもうち
相手の切れものを、なんとかしてはらいおとさねばなら
ている。おれとしてはふたたびきりこんでくるであろう
おれの右手三尺のところに腐った ま る た ん ぼ うがおち
ばかりの沈黙があった。
ている。あたりは依然として死のような静寂、︱︱︱十秒
白な息をはき、胸が波のようにふくれたりちぢんだりし
ろう、とがった口から血をぽたりぽたりとたらしつつ真
いて相対した。男はいまの空撃でよほどまいったのであ
激突した。ふたりは瞬時にしてふたたび二間の距離をお
ひか
、
、
さ
、
、
、
、
、
、
、
、
しわが
ははずみをくらって、それまでおれがうしろだてにして
その手は男のドスよりもはやかった。男がうめきつつ地
、
い
いた工事場の材木に骨もくだけよとばかり、空をきって
、
、
、
、
、
16
さて、その翌日から、おれの新聞をみる眼が局限され
ばとんだ災難にあわぬともかからぬと思ったからだ。
チュエエションが非常にきわどいので、へたに口をわれ
にふれることができなかったというのは、おれ自身のシ
り密行の不審訊問にあったが、どうしてもその夜の事件
そろそろ花の都パリがうごきだしていた。途中二度ばか
はもはや夜明けにちかく、ほのぼのと白まってゆく空に
それから急遽表通りへで、Q街の屋根裏にかえったの
へ吸いこまれた。
あたかもはなたれた兎のごとくまたたくまに暗闇のなか
と、前方へつきとばした。男は二三度こけつまろびつ、
﹁勝手にゆけっ﹂
るやつを、俵でもかつぐようにもちあげて、
よほどくるしい吐息のしたからきれぎれにこう哀願す
﹁かん⋮⋮かんべん⋮⋮だ、だんな、かんべん⋮⋮﹂
た。
﹁さそい﹂の一手が効を奏したのだ。
くいきおいで馬のりになり、めったやたらになぐりつけ
上によこだおれになるがはやいか、猟犬が獲物にとびつ
んしたはなしだが、自分が真犯人のような錯覚をおこし
うに暗躍しているのではないかと思うと、じつにむじゅ
や田舎もんに変装した何十人という刑事が、四ほう八ぽ
うが可能性がありそうに思われ、いまごろはあそびにん
自分がよわみをもっているだけ、どうもあとの場合のほ
をめいじているのではないか、という疑いだ。ところが
いはまた、当局はすでにかぎつけていて、記事さしとめ
れず、暗々裡にかずをかさねているのではないか、ある
らであまりにだいたんであるがゆえにかえって人目にふ
り、ああいう場所のああいう殺人事件は、手口が大っぴ
たってしまった。するうちにこんな考えがうかんだ。つま
が、そうこうして、なんの発展もみずに半月ばかり日が
ばフランスの警察制度の こ け んにかかわるというわけだ
屍体の始末などもふてぎわで、おそらく発覚されなけれ
しろうとのおれにすら隙見されるような仕事なのだから
どうしたわけか一向に表ざたにならぬ。 あんなどじな、
達がまちどおしいくらいひそかに気づかっていたのだが、
会面のトップにとびでるのではないかと、まいにちの配
てきた。
﹁X娼家街売笑婦殺人事件﹂という大見出しが社
、
、
、
17
のばあやが、
ている時だった、みしりみしりと階段の音がして留守番
もかれこれひるちかかったが、朝昼けんたいのめしをくっ
その日はおれがめずらしくはやおきをして、といって
て、とうとうおれのおそれている日がきた。
こうして、病的にいらいらしているうち五日ばかりたっ
がそれ病気だね、無心で交番のまえがとおれない。そう
ずらしいことではないかもしれぬ、とこう思うと、そこ
が真犯人にされちまうというくらいの逆は、かくべつめ
ちな野郎が大きなつらのできる世のなかだ、 無辜 の自分
がおこなわれている、悪党が善人づらで通用するし、け
めるのだが、どっこい、この世のなかにはいろいろな逆
そうむちゃな結果になるとは思えぬ、とみずからなぐさ
しれぬ。なあに、でるとこへでて逐一事実を陳述すれば
れとおなじい状態におかれたものでないとわからぬかも
一種の強迫観念にせめられるじゃないか。この気持はお
て、きょうはのがれたがあしたは捕まるといったふうに、
し、売っても値にならないために詮方なく鼠のかじるの
するかと思ったら、部屋じゅうの押入れをひっかきまわ
ではいってきて、巡査にみはらせておいて自分はなにを
巡査ともども、たいへん紳士的な、ものやわらかな物腰
山高帽をかぶった黒服のでっぷりふとった男が、官服の
かけのパンをむしゃくしゃほおばりはじめた。ところへ
ればどうってことはない。ゆうゆうと座にもどってくい
事がつったっていて逃げ口をふさいでいる。もうこうな
まい路地々々のそれぞれのぬけ道のまえには、べつの刑
ところが、哀しい曇影のよどんだ貧乏長屋のたてこむせ
やく寝巻をきかえて、 トトトッと裏手のテラスへでた。
つはよたもののスロオガンだが、こう決心すると、すば
なわれるところだ。ずらかれるだけずらかれ、︱︱︱こい
た。くどくもいうとおり、この浮世はどんな逆でもおこ
といっしょにぐうっとのどもとへ逆もどりをしやあがっ
たばかりのやす油であげた豚肉のおくびが、すっぱい水
れた、晩秋のわびしい光をかんじ、いま胃袋におさまっ
みるとQ署の刑事だ。きたなっ、と思ったとたん、虚脱さ
といい、よちよち一枚の名刺を眼のまえにさしだした。
む こ
﹁ムッシュウ・じゅあん、お客さんですよ﹂
18
と、人をばかにしたようなことをいうのだ。こっちと
すかね﹂
はかくのをやめにして、ひとつ本格的にいったらどうで
﹁じゅあん、君のロマンはおもしろいぞ。くだらんもの
て、
官服私服の刑事や巡査がいれかわりたちかわり首をだし
取調べはまだかまだかといらいらしながらまっていると、
留置場で、ごろつきや窃盗やよっぱらいといっしょに、
りこまれてしまった。
いる。こうしておれは至極順調に、Q署の留置場にほう
おろして、紫のけむりをはきながら、にやにやわらって
と口をかみきると、隅のがたがたベッドにずしんと腰を
といい、ポケットからふとい葉巻をつまみだしてぷい
﹁食事を終えたら、ではそろそろ、でてくれたまえ﹂
いたが、
ときた。ないと答えると、まだ疑わしそうな顔をして
﹁ほかにもう隠し場所はありませんかね﹂
たりしだいにひんめくった挙句
にまかせっぱなしのわずかばかりのおれの蔵書を、てあ
ううぉうと虎のようにわめきながらあばれ放題あばれく
たちどまって、よほどのもてあましものなのだろう、うぉ
してしまった。というのは、前方におおぜいの人たちが
てゆくと、こんどはもうすこしなまなましい光景に直面
しろ狐につままれたようなあんばいで署の廊下をつたっ
のは、客観的にみて、あたりまえのはなしなんだが、なに
︱︱︱こういうわけで、おれが無事に放免されたという
だな。さあさあ、かえってもいいですよ、大威張りでね﹂
いんだぜ。これからはせいぜい、疑われんようにするん
まったのだ。とんだ迷惑をおかけした。だが、君もわる
つきでいうのだ﹁︱︱︱人ちがいでしたよ。真犯人がつか
かれは意外にもてれくさそうな、すまないといった顔
﹁やあ、失敬々々、ムッシュウ・じゅあん﹂
な人がはいってきた。
いよくドアがあいて、官服のあからがおをしたえらそう
やしながら小半時もまっているとね、とつぜん、いきお
てまたされたっきり、いったいどうなることかとひやひ
なかなか順番がまわってこない。そのままぽかあんとし
したらはやく本格的に取調べてもらいたいところだが、
然として、うぉううぉうとひびいていたよ。
署外へとびだしてしまったが、ガアジン先生の怒号は依
なるべくふれないようにすばやくはしりぬけて、匆
々 に
らにもとうとう年貢のおさめどきがきたのだ、とおれは
なじ管轄の署内で再会したのも思わぬ偶然だった。やつ
れとわたりあった﹁真犯人﹂なのだ。やつらがおれとお
れ坊主をみた時、そいつが例の角苅りの、くらやみでお
ておしこまれてくる。すれちがいざま、せんとうのあば
の夜の共犯者なのであろう、この三人がこっちにむかっ
ぱらいやアネスト・タレンスのような暴漢が、つまりあ
のような伊達者やアルベエル・プレエジャンばりのよっ
らじゅずつなぎで、髪をぺったりわけたジョオジ・ラフト
おさえつけている、それらの一団をせんとうにうしろか
るっているひとりの男を七八人の巡査がよってたかって
ひっくりかえしたり、本格的なものをかけとからかったの
オ ル ・ ド ・ コック だ と 疑 わ れ た わ け だ。 刑 事 が 蔵 書 を
れたというのも平常から素行が不良で、おれが日本のポ
から足がついたのかどうかわからぬが、おれがひっぱら
目的であったと思えばうなずけるし、はたして万年ペン
かざりのほどこしてあったのも、写真撮影がほんらいの
室内の電気がやけに煌々とかがやいていたことや蒼古な
えるのだったら、 なにも客のいる時をえらぶ手はない。
ち殺人にしてはあまりに不用意だ。脱走者に処罰をくわ
かにも不自然だというふしぶしをまとめてみた。だいい
と思わずつぶやき、あの一夜の場景が殺人にしてはい
﹁なんだばかばかしい、殺人じゃなかったのか﹂
ばしあっけにとられた。
い書籍出版の結社であるとつげているのみで、おれはし
そうそう
は、
も、あとで考えればうなずける。事実この Pornographie
″
︶
Bibliothéque des Curieux︵ collection illustrée
翌日と翌々日の新聞は、それぞれふたつのちがった結
Volume 13.という標題のもとに、あの夜の 演 技が挿入
されて、いちぶの人士間に流布し、おれもふとした機会
末を報じておれをおどろかせた。というのは、翌日の朝
刊は下段にちっぽけな活字で、これらの逮捕された一団
からながれながれた品物をげんにこの眼でみたことはみ
、
、
が暗黒街にねじろをもつ大規模なある種の、いかがわし
″
19
20
りきっていた女の心臓がじっさいにはれつしてしまった
つけているうちに、まえまえから悪病でむしばまれよわ
んのわからぬふうてんだから、つい度をあやまってしめ
気で力をいれてバンドをしめさせたところ、男は手かげ
ほんとうらしくするために、男のほうにある程度まで本
殺人はほんらいの目的ではなく写真の効果をできるだけ
かし、かれらの陳述がいっぷうかわっているのだ。つまり
うちになかまのひとりが犯行を自白したというのだ。し
がまえに逮捕された結社の一派で、余罪を追及してゆく
はいした屍体が発見されたというニュウスで、この犯人
る幅わずか二三尺のどぶのなかに、ひとりの日本女のふ
というのは、X街の娼家と娼家とのあいだにながれてい
字でこの事件のもうひとつのかくされた面をばくろした
翌々日の新聞が、こんどはまえよりもいくらか大きな活
い お りのようなおもくるしい懸念をいだいているうちに、
のはいささか大仰ではないかと、なにかまだ腑におちな
までつけてきて、ドスをぬいてきりかかってきたという
たかのしれた犯罪の口ふさぎのためにおれを河をこえて
たので、この事実にうそはないらしいが、しかし、こんな
た。 もういちどこういう目にもあってみたいと思うが、
ろで命びろいをしたわけだが、いい退屈しのぎにはなっ
のだと思ってみた。いま考えると、おれもあぶないとこ
つあるれっきとした証拠物など、ちょっとめずらしいも
ているのはぶきみだが、殺人のいままさにおこなわれつ
結末として写真に思わぬ凄味が烈々として、もりあがっ
ていっせい検挙となった次第だ。
から、たかをくくって出版してしまい、ために悪運つき
であるやつらは、その日その日の酒にことをかくところ
ないか。そんなことをしてまでも悪事には不感な変質者
らも発見されなかったというからうかつなだんどりじゃ
りおれがよばれた日までは殺人のあったことも、屍体す
たのがうまくいって、本職のほうで足がつくまで、つま
いる下水のふたをあけて、そのなかにほうりこんでおい
れでなくとも不潔なたえずなまぐさい腐敗臭をはなって
いう。屍体の始末にはこまったが、さいわい家の裏の、そ
たと気づいた時、屍体をとりかこんでおいおいないたと
すがのかれらも可愛いい日本娘がほんとに死んでしまっ
という次第だから、わるふざけはするもんじゃない。さ
、
、
21
ぬ、つまらぬ。
健全な日本ではとうていおこりっこはないから、つまら
おわ
こう語り了 ったわが樹庵次郎蔵は、大きく高く両腕を
天井に突き出してのびをするように立ち上ると、大ぼら
でも吹いたあとのような清々した顔附で、折しも騒擾の
極に達した往来へ跳び出して行った。彼は年老りの信者
から一挺の太鼓を借り受け、躍り込むように行列に加わ
ると、尺八を逆しまに持ってどんつくどんどんつく南無
妙法蓮華経と歌い出し、肩を弾ませ、脚を上げ手を振り
た。
こうふうせいげつ
まま
︵一九三六年十二月︶
他愛ない冒険譚の節々を、しばし 彳 んだ 儘 思い起してい
たたず
かこう羨しげな気持で、物凄い音響の律動を夢見心地に、
のは畢
竟 、淡々たる光
風霽月 の境地なのであろう、と何
ひっきょう
る樹庵の姿を見、持前の感傷癖から、彼のイデヤするも
した群集のなかに、見えずになった。私はこの 飄々乎 た
ひょうひょうこ
腰を揺ぶり、揺れるような人波と一緒にいつか も あ んと
、
、
、
底本:
「幻の探偵雑誌 4 「探偵春秋」傑作選」光文社文庫、光文社
2001(平成 13)年 1 月 20 日初版 1 刷発行
初出:
「探偵春秋 第一巻第三号」春秋社
1936(昭和 11)年 12 月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号 5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2006 年 10 月 17 日作成
青空文庫作成ファイル:
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