シリーズ● 身近なミクロ組織を読む 爽快な切れ味、T字型安全カミソリ 住友金属工業㈱社友 工学博士 大谷 泰夫 出勤前の気分の引き締まる朝、休日ののんびりする朝、一日のスタートは爽やかな髭剃りに始まります。さ て、切れ味のよい安全カミソリの刃はどのような材料なのでしょうか。 はじめに 安全カミソリは1903 年に K.C.Gilletteより製品が販売されて以来、インジ ェクター方式、2枚刃・3枚刃の装着、首振りやサスペンショ ン機構の導入など進歩を遂げてきました。安全カミソリのライバルは 電気シェーバーですが、最近は特に若者に安全カミソリへの回帰がみ られ、その使用率は50% 以上にも達するという調査結果もあります1)。その 理由は、ヒリヒリ感が無い、肌に優しい深剃ができる、産毛もき れいに剃ることができる等々らしい。 爽快な切れ味を生むために、前処理用の化粧品も一大商品を形成し つつあるようです。 刃の種類と材質 安全カミソリの種類を写真1に示します。 (a) 片刃:安価な使い捨て用は、1 枚刃の高炭素鋼が使用されて いますが、ステンレス鋼を用いた2枚刃も販売されています。 写真1 T字型安全カミソリの種類 (b) 両刃:歴史の古い型ですが、最近はインジェクター型に押さ れてきているようです。ネジの締め具合で剃加減を調節でき る点に依然として愛好者が多くいます。 (c) 2枚刃:2枚や3枚の片刃を装着した型で、最近特に需要が増加しています。深剃できる点と刃の装着の容 易さが受けているようです。 (b)、(c) はいずれも高炭素13%クロムステンレス鋼が使用されています。これらの化学成分を表1 に示します。 いおう(S)レベルが極めて低く、MnS などの非金属介在物を少なくする配慮がなされていることが分かります。 写真2に示すように、細線を巻いた横滑り防止機構のついた製品も販売されています。 表1 カミソリ刃の成分分析結果 種類 化学成分(mass%) 厚さ(mm) 重さ(g) 刃先の硬度 (HV0.01) - 0.10 0.22 686 0.001 12.95 0.10 0.56 699 0.002 13.10 0.15 0.28 673 C Si Mn P S Cr (a)片刃 1.26 0.29 0.42 0.008 0.001 (b)両刃 0.68 0.30 0.74 0.021 (c)2枚刃 0.67 0.29 0.74 0.020 写真2 横滑りガード付T字型安全カミソリ 写真3 刃先の研磨状況 2) 刃の製造工程 ①熱間圧延、焼なまし、冷間圧延、焼なましにより製造された鋼板から刃の形を打ち抜く。②焼入・焼戻をした 後、③刃を切り離し、④刃付けをする。刃先の研磨状況を写真3に示す。⑤スパッタリングにより清浄な金属面 を形成し、クロム、プラチナ合金、ダイヤモンドライクカーボン(DLC) 等を刃に薄く蒸着する。この目的は刃の形 状を整え、切れ味をよくするためである。写真に示すように、刃先の先端約20μm 程度は、研磨の筋の凹凸が 少なくなっていることが分かる。さらに使用時の肌との摩擦抵抗を低減する為に樹脂をコーティングする。これ らの皮膜はきわめて薄いので使用後は水洗いだけで、こすらないように注意書きがついている。 刃の組織観察 刃の断面を写真4に示す。刃付けはいずれも両側研削であり、その角度は10度~12度である。 使い捨て用片刃の光学顕微鏡写真を写真5(a) に示す。基地は焼戻しマルテンサイトであり、小さな粒状析出 物が多数分散している。 写真6に示すように電子顕微鏡組織観察によれば0.3 ~ 0.5μm 程度の焼入れ時に残存した球状セメンタイ ト(Fe3C)と200 ~ 300℃での焼戻し時にマルテンサイトから析出した微細なセメンタイトが確認された。炭素鋼 の刃先は焼戻しマルテンサイトであるが、刃の中央部には写真7に示すように不完全焼入れの下部ベイナイト が一部に観察された。 ステンレス製2枚刃の光学顕微鏡写真を写真5(b) に示す。高炭素鋼の刃と同様に焼戻しマルテンサイトの基 地に粒状の炭化物が分散している。その形状は炭素鋼の場合より形状が不揃いである。これは写真8の電子 顕微鏡組織観察で明らかなように、(Fe、Cr)23C6 の炭化物であり、軟化焼なまし時にFe3C より球状化が難し いのであろう。焼戻し時に析出した炭化物は写真9に示すように微細なセメンタイトであった。 写真 4 刃先部断面のマクロ組織 写真5 刃断面の光学顕微鏡組織 写真6 片刃[高炭素鋼]の粒状炭化物(Fe3C) 硬度分布 図1に刃先からの硬度分布を示す。刃先はいずれの材料も HV650 ~ 700 程度である。刃先から1000μm の位置でステンレ ス鋼はHV650程度であるが、高炭素鋼は硬度がHV550 程度とや や低い。これは焼入れ組織が100% マルテンサイトではなく、ベイ ナイトが混在していることに起因している。この理由は不明である が、機能にはあまり関係が無いと思われる。刃の打ち抜き時には 軟らかい鋼材が必要であり、フエライト地に球状炭化物が分散した 組織が望ましい。焼入れ時(1100℃くらい)には炭化物は基地に一 部固溶するので大きさは小さくなるであろうが、使用時の耐摩耗性 を確保するためには、硬い炭化物の微細分散が必要である。 図1 刃先の断面硬直分布 あまり大きい炭化物や不均一な形状は刃先の形状に影響を与え て、剃り味が劣るであろう。この精密な材質制御には溶解、圧延、熱処理の各工程に極めて高度な技術が要求 される事がわかる。 写真7 片刃[高炭素鋼]の中央部に見ら れた下部ベイナイト組織 写真9 2枚刃[13Cr ステンレス鋼]の 焼戻し時に析出したセメンタイト 写真8 2枚刃[13Cr ステンレス鋼]の粒状炭化物(Fe,Cr)23C6 おわりに 男性にとっても、また女性にとっても必需品となっている安全カミソリは、極めて清浄な鋼と高度な技術で製造 されています。刃の1枚当たりの価格は高額ではないものの、重さは僅か0.2 ~ 0.5g であり、重量当りに換算 するとその鋼材価格は鉄鋼材料の中でも超高級材料の一つです。 世界の人口の約1割の男女が毎週1 枚ずつ替え刃を使用するとすれば、その重量と鋼材価格はどれくらい になるか?一度計算されては如何でしょうか。きっと驚かれることと思います。 【参考文献】 1) 日経ビジネス:2002年7月15日号、P130 2) SMT「つうしん」:1994年、No.2
© Copyright 2024 Paperzz