我が国における2つの構造技術論争について

工学院大学都市建築デザイン学科小野里研究室 2003 年度卒業論文梗概
我が国における 2 つの構造技術論争について
D2-99081 藪崎 寛奈
1. はじめに
造をとる方法しかないであろう。剛性と靱性とを兼ねそなえ
本研究で取り上げる二つの構造技術論争は昭和初期におけ
た構造物の構造法は構造物の耐震性に対する重大な決定的要
る地震力に対して建築構造が剛いのがよいのか柔らかいのが
因になる。ポテンシャルエネルギー量の大きなものを建てる
よいのかの論争、および戦後の回復期に建設されたリーダー
ことで弾性範囲内で地震に抵抗できる力が大きくなる。粘性
ズ・ダイジェストビルの構造の妥当性に関する論争である。
的なポテンシャルエネルギー量の大きなものは弾性を超えた
前者は当事者だけでなく関係研究者を巻き込み、また後者は
範囲において地震に抵抗できる力が大きい。靱性材料ほど耐
デザイナーや評論家をも巻き込んだ論争として特筆すべきも
震的であり、脆性材料ほど耐震力の弱いものと考えられる。
のであった。私達が構造工学の発展の態様を考えるとき、ま
地震波のなかには多くの短周期の小波が混じっていて 0.2 秒
た構造技術者や構造エンジュニアのあるべき姿を論じるとき、
~0.3 秒の自己振期をもつ通常の構造物に多くの被害を起こ
私達に多くの問題と教訓を与えてくれている。これがこの二
させると想像させられる。
つの構造技術論争を卒業研究のテーマに取り上げた理由であ
内藤
る。
剛く構造して周期を 1 秒あるいはそれ以下にして地震を避
2. 剛柔論争
剛柔論争は海軍省の真島健三郎博士と東大教授佐野利器博
士を対立軸として、これに学会の指導的立場にある研究者ら
多仲(建築雑誌
[7])<剛論>
けたらよい。鉄骨鉄筋コンクリート構造は耐震構造の可能性
につながる。
2.2 現在の構造工学の立場から
を巻き込んだもので、公開された論文[1]~[15]は 1927 年から
当時は十分に信頼できる長周期の建物をつくることは技術
1936 年に渡っている。柔らかく構造することがよいと主張す
的に不可能であったと思われる。しかし現在の技術において
る真島博士と、剛柔論争は建築を耐震設計するにあたって構
は超高層建築物を建てることが可能となり、免震構造以外に
造を剛くすることがよいと主張する佐野博士との間に紙上お
も長周期で安全性の高い建物がつくられている。
よび学会の場での質疑応答の形でなされている。
2.1 各主張の要点
真島
健三郎(建築雑誌 [2][3][6][10])<柔論>
地震波の卓越周期について当時は変位計で測定されていた
ため実際の周期よりも長くとらえられていた傾向がある。こ
のため多くの研究者が地震波の卓越周期を 1.5 秒またはそれ
架構をある程度の柔らかさに設計しておき、不足している
以上としている。このように地震の卓越周期を誤ってとらえ
剛性は壁体で補うという構造がよいとする。壁体に大きな損
られることにより今の議論とかみ合わないことが多々ある。
傷を負っても架構のみで地震力に抵抗できる柔構造である。
ただし、棚橋氏はより短い周期であると解釈しており地震波
減衰の作用は算定の建物周期を延長するので、柔らかくつく
の実体を正確にとらえている。
るのがよい方法で、大震の被害は主として主要動の初期に発
地震波の実体が十分に解明できず、また構造物の強度と靱
生しその後の負傷は常に軽微であったと考えられるので最も
性についての知識も十分ではなかった当時では結論の出せな
剛い時期が一番危険であるとする。
い論争であった。しかしこの論争を通じて建築分野での振動
佐野
利器(建築雑誌 [1][8])<剛論>
地震の震源が遠くなると長い周期の振動は数多く続く傾向
がある。建物の周期を長くしておくことは最初はよくても後
論の研究が促進されたのは確かであり、問題提起をした真島
健三郎の功績は評価されるべきである。
2.3
剛柔論争結末
になって危険になるので建物の周期は決して大きくすべきで
柔構造側の問題提起に対して剛構造側は十分な対応ができ
はない。鉄骨にして 1 秒半以上の周期をもちながら他の故障
ず、柔構造側もまた相手を論破するだけの決め手のないまま
を予想するような構造方法案はありえない。
うやむやのままに第二次世界大戦により停止した。棚橋氏の
武藤
清(建築雑誌 [4][5])<剛論>
筋違いを用いて剛い構造にして地震に対抗するのがよい。
ポテンシャルエネルギーの考えが示されたところで区切りが
つき、これは後の振動論の研究に大きく役立つことになる。
柔らかい構造にして周期を 2 秒あるいは 3 秒につくることは
しかし現在も争点の異なる剛柔論争が継続されている。
好んで長時間の共振を求めることになり振幅の増大を避けら
3.
れない。
棚橋
ダーズ・ダイジェスト論争
リーダーズ・ダイジェストビル(千代田区)は 1951 年に出
諒(建築雑誌 [9][12][13][15])<剛論柔論いずれで
版社リーダーズ・ダイジェストの東京支社として完成した(設
もない>
計:A・レーモンド、構造:P・ワイドリンガー)。論争の主
十分に信頼できる長周期の構造物をつくるためには免震構
題は、我が国で慣用的に用いられている壁を多用した矩形ラ
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ーメン構造とは無縁な静的骨組に近い開放的な構造の耐震性
3.2 構造の決定
の評価についてである。東大教授坪井善勝博士および建築研
究所部長竹山謙三郎博士と構造設計者 P・ワイドリンガー氏
建築家 A・レーモンド氏は構造の決定について次の三つの
主要条件を考慮している。
との間でなされた。またこれに加えて建築家伊藤喜三郎氏、
①
材料が高価で熟練労働力が低廉なこと。
東大助教授池辺陽氏および建設官僚森田茂介氏らが論争を依
②
耐震構造であること。
頼された形で参加されている。
③
外壁を軽くし、開放的かつ伸縮性あるフロア・プラン
3.1 リダーズ・ダイジェストビルの構造
であること。
図 1.(a)
(b)にリーダーズ・ダイジェストビルの平面図と
3.3
断面図を示し、構造概要を次に記す。
①
②
③
④
論争の経緯
リーダーズ・ダイジェスト論争は建物が建てられた後に行
一本の長方形の RC 柱から両側に約 8m.突き出た 2 層
われた論争であったもので構造家 P・ワイドリンガーの新し
と R 層の RC 梁の先端を尐しだけ傾斜させた鋼管柱が
い構造原理を否定する坪井氏・竹山氏の反論が飛び交った。
支持している構造。
我が国で多用されていたラーメン骨組とは極めて異質である
この骨組が 12 セット桁行方向に 5.5m.間隔に設けられ
構造、また日本の RC 構造に見られる壁体、袖壁をつとめて
60.5m.×16m.の床面積を支持している。
除き、計算上は梁間方向については中央 RC 柱、梁、および
中間にある階段廻り、水廻りの壁は可動な軽量間仕切
細筋管柱が構成する骨組だけが地震時せん断力を担うものと
りとしている。
することが争点になった。普通の技術者の示す態度は常に新
梁間方向梁を支持する鋼管の両側はメカニックなピン
しい、前例のない構造概念に対して否定的であると P・ワイ
構造。
ドリンガー氏は述べている。
4.
おわりに
過去に論議された二つの構造技術論争を半年に渡り(前期
では構造設計コンペに参加)追ってきたが両論争ともに論議
すべき題材のなかに人間の感情がかなり混じりこみ、時には
論文上の言葉尻の不腹についてにやりとりが見られる場面が
16m
多くあった。構造技術論争とはいえ、熱く論議されている最
中は人間同士の口喧嘩と同じようであり、また他分野にも論
議される場というのはこれと似たようなものがあると感じた。
改善や発展を促進するために意見をぶつけ合い議論される
場では感情が入るにせよできるだけ本題からそれずに最良の
60.5m
(a) 平面図
5.5m
結果を出すことに力を注ぐことが大切だと思う。今後の更な
る構造技術の発展のためにこれからもよい論争が繰り広げら
れることを願う。
8m
2層
GL
(b) 断面図
図 1. リーダーズ・ダイジェストビル
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<参考文献>
[1] 佐野利器:耐震構造上の著説 建築雑誌 1927,1
[2] 真島健三郎:耐震構造問題について 建築雑誌 1927,1
[3] 真島健三郎:佐野博士の耐震構造上の著説を読む 建築雑誌
1927,4
[4] 武藤清:家屋の耐震設計方針について 建築雑誌 1929,11
[5] 武藤清:真島博士の柔構造への疑い 建築雑誌 1931,3
[6] 真島健三郎:柔構造論に対する武藤君の批判に答え更に余論を
試み広く緒家の教えを仰ぐ 建築雑誌 1931,5
[7] 内藤多仲:耐震構造最近の姿勢 建築雑誌 1931,7
[8] 佐野利器:耐震論 建築雑誌 1931,11
[9] 棚橋諒:地震の破壊力と建物の耐震力に関する私見 建築雑誌
1935,5
[10] 真島健三郎:棚橋君の新説「地震の破壊力と建築物の耐震力に
関する私見」を一読して感想を述べる 建築雑誌 1935,10
[11] 河野輝夫:剛構造論を支持する 建築雑誌 1935,12
[12] 棚橋諒:真島博士の評論に答える 1936,2
[13] 棚橋諒:河野輝夫氏の「剛構造論」を支持せず 1936,6
[14] 河野輝夫:剛構造論について棚橋氏に答える 建築雑誌 1936,7
[15] 棚橋諒:再び河野輝夫氏に答える 建築雑誌 1936,10
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