地球優先主義への転換 - 南山宗教文化研究所

ジェ!ムス・ ハイジック
vsa 岡崎なん同
地球優先主義へ の転換
私たちが地球という惑星について持つ考え方や話題が、二十世紀の後半になって著しく
変化したことは疑う余地がない。ごく普通に言うならば、その変化は三つの覆しようのな
い認識に重点がおかれている。
第一に、少し前まではただ想像するだけであった地球の姿を今は実際に見ることができ
るということである。かつては、自分たちが動いている球体の上に生きているということ
を、見ることができなかった。先生は生徒にその事実を何とか理解させようとして、地球
儀を回転させながら見せたものであった。しかし今日では、成層圏の彼方から送られてく
る人工衛星の画像を誰でも見ることができる。私たちは自分たちの住む地球が、私たちの
営みをよそに宇宙の暗闇の中に、あたかも青白い宝石のごとく浮かんでいるのを見るので
ある。したがって、私たちが﹁全地球﹂という時には、その言葉は新しい現実性を帯びる
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パネルデイスカッション 1
ようになったのである。
第二に、地球は巨大かつ不動の岩であり、人間はその上に自由に文明を築くことができ
るという考え方をやめたことである。地球は今では、互いに関連し合うさまざまな生命体
からなる生きた有機体であると考えられている。人間の存在も、自然を超えたものとは考
えられなくなった。私たちは自分たちを、万物一切が免れることのできない進化の長い物
語の中のもっとも新しい章に出てくる種の一つと見なすようになった。私たちが顕微鏡で
一個の原子から発達し今や自分自身を見ることができるまでになった原子
原子を観察している科学者を見る時、私たちは単に物質を観察している科学者の知性を見
るのではなく、
について考えるのである。
第三一に、人間は自然のバランスを破壊するほどの力を自らが持っていることを、人類史
上はじめて理解したことである。その力の及ぼすところは、現在進行している漸次的な破
壊もあれば、ある日突然、自然の運行に壊滅的な変化を与え、地球を居住不可能にしてし
まうこともある、だろう。核エネルギーの利用や猛毒細菌の抽出により、思いのままに新兵
器の開発が可能となり、戦争の本質は変貌してしまった。私たちのつくり出した武器によ
り、戦争は個人や集団が他に対する意思表示というレベルの問題ではなくなり、人間の知
恵対地球自体の存亡を懸けた戦いとなってしまったのである。
このような認識は、過去何世紀かの聞に前例がなかったわけではない。歴史上の哲学や
宗教、神話や魔術などの中に類似のものは散在している。今目新しく見られる点は、その
認識が集団認識の中に広く行きわたっていることである。地球は銀河系の宇宙的な砂嵐の
中の一粒の砂であるとか、生物が紡ぎ出す相互依存の網の目であるとか、私たちが負わせ
た傷のせいで苦しんでいる生命体であるなどという考え方は、今日では人類の常識の一部
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発 表 3 地球優先主義への転換
になったが、そのようなことは以前にはなかったことである。問題はこの新たな常識に、
私たちはどのように対処すればよいのか。それを知るものが誰もいないのである。
何かをしなければならないことは、明らかである。新たな地球観が普及したことと、そ
の地球観と国際的な文化の台頭との関係を見れば、地球が破壊されているという反駁を許
さない警告的な証拠のためだけであっても、人類にとって新しい倫理的規範を形成する必
要があることが分かる。文明が拡大の方向を転換するとして、人類はこの根本的認識に基
づき何をすればよいのであろうか。私たちは科学的方法論が、そのための決定材料を十分
に持ち合わせていないことに気づいて久しい。﹁私たち﹂とは、科学の道から外れた所業
を道徳的であると説教する高学歴の専門家たちをさしているのではない。今や全人類の問
題である。科学や技術は発達したが、結果として自ら解決できない問題まで発生させてし
まった。これもまた、今では常識なのである。
社会生活を送る上で基本的に必要とされる事柄については、私たちは当然のこととして
さまざまな面で科学に頼り続ける。また、何をすべきで何をすべきではないかという選択
に際して、さらなる事実や理論を提供して私たちを啓蒙することを科学に期待するのであ
る。しかしその期待は、決して満たされることはない。何をすべきかという倫理的な結論
を科学的な議論から引き出すことは無理である。科学はその性格上、私たちが人間として
の本質上で価値をおいているものに対しては、極度に低い評価を与えるものだからである。
個人的な魂の救いのみ、または、組織の拡大のみに専念してきたような宗教でない限り、
宗教は人聞があまりに多くのものの価値を切り捨ててしまう傾向を持つことや、それと同
時にもっと多くのものを大切にできる能力を備えていることに気づかせてくれる声の一つ
で あ る 。 中 世 の 大 聖 堂 の ドl ム の よ う に 、 宗 教 は 私 た ち の 視 線 を 日 常 の 雑 事 よ り 高 い と こ
2
9
I
ノT
ネルテ。イスカッション
ろへと引き上げ、私たちがより大きな絵が得られるようにと導いてくれるのである。原始
ユダヤ教やキリスト教はこの大きな絵を人の言葉で定義しようと試み、原始仏教は人間に
焦点を当てつつもその原理においては、知覚を有するすべての生き物にまで動航して説明
したのである。
今日の私たちは、この絵の中に一般の宗教が今までおおよそ無視してきた足下の大地と
頭上の空を含めなければならなくなった。これらを含めるためには、皆の心を転換しなけ
ればならい。それは人類全体が、人間中心から地球中心に転換することである。自然界は
文明が利用するための資源貯蔵庫ではなく、世界の宗教が共有する聖堂であると見なすべ
きなのである。最近になって、伝統的な組織から離れたところで宗教や霊的なものに対す
る関心が復活してきているのは、人々のニ lズに古典的な教義・教理が対応しないことに
対する多くの人たちの苛立ちの表れである。地球をどのようにすべきかの具体的な質問に
対して、宗教に具体的な回答は期待しないが、どの質問が重要かつ努力に値するかを決め
るアドバイスはぜひしてほしいと思う。そのような意味で、それぞれの伝統宗教には地球
し勿ぞ
に関する新たな常識をつくり上げることができるように、私たちを励ましてほしいと思う
のである。私たち人聞がその絵の中から退き、自ら自然界にその地位を譲ることはない。
このことだけは、はっきりとしているようである。
共通の言語と創造神話を二本の柱として、伝統的文化が構築されてきたことを考えると、
一と Oの二つの単語からなる言語を
新しい世界文化の基礎はすでにできあがっていると言える。その一つは共通のネットワ 1
ク上で世界中のコンピューターの通信を可能とする、
駆使し、世界中で流暢な会話がなされていることであり、もう一つは人類の起源を進化論
で説明することが一般に受容されていることである。私たちの地球に対するイメージが人
ユ ダ ヤ 教 紀 元 前 回 世 紀 頃 か ら 発 達 し 、 モ 1セ
の律法を基とし、唯一神ヤハウェを信奉するユ
ダヤ人の宗教。ユダヤ人を神の選民と自覚し、
イエスを救い主と認めず、神の国を地上にもた
らすメシアの到来を信ずる点でキリスト教と対
。
立。主要聖典は旧約聖書とタルム lド
仏教紀元前五世紀(一説に六世紀)インドで
釈迦が聞いた宗教。この世を苦しみ・迷いの世
界と見、正しい実銭によってそこから脱け出る
こと、迷いに沈む生きとし生けるものを救うこ
とを目指す。
進化鎗生物は原初の単純な形態から次第に現
在の形に変化したとする自然観。十九世紀後半
にダl ウィンらによって体系づけられ、諸科学
に甚大な影響を与えた。
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発表 3 地球優先主義への転換
類共通の故郷であるというとらえ方からすれば、この世界文化は開放的でこれまで社会が
伝統的に閉じこめてきた人種や領土の偏見から解き放たれた文化ではないであろうか。し
かしこの方向性で進むことも、やはり人間の優位性という前提を保持する道を行くことに
なる。優位性を持った私たち自身を生み出すために自然も文明も私たちに道具や能力を授
けたのではなく、人間の優位性という前提は生来のものであるようである。
最終的には、地球も全体としての自然もまさに﹁環境﹂のままであり、その存在価値は
それが取り巻くもの、すなわち私たち人聞に委ねることになるであろう。地球の歴史から
人間の文明を削除すれば、結果は議論するまでもなく明らかである。人間という種の進化
は、宇宙というより大きな議題の中ではミクロな相にすぎず、哲学的には人間は時ととも
に消え去る運命にあると考えることは可能である。しかしそのような知識は、人間として
の私たちにはどうでもよいことである。今のところ人聞は、自分たちに役立つ自然界につ
いての認識を提示する作業で手一杯なのである。
この基本的な見方に基づくならば、この広い宇宙を人間の文明にとっての潜在的対象物
であると見なしていることにも驚くことはない。近隣の惑星に移住したり異星人による植
民地化ということは、かつてはサイエンスフィクションであったが、今では科学が真剣に
取り組んでいることである。人間をはじめとする種の進化を遺伝子操作し、管理すること
もしかりである。他方では、人類が地球の資源を消費する速さが私たちのあらゆる努力の
上に暗い影を落としている。自然のバランスは崩れ、世界各地に台頭する文化に平等な経
済力を持たせたいとする私たちの崇高な理想も、危ぶまれるようになってしまった。
私たちはこのように困難な立場にいるのである。一方では環境を文明化し、有効利用し
たいという欲求があり、他方では人間の本性に基づく私たちの行動に、地球が耐えられな
遺伝子操作遺伝子を人工的に組み換えたり、
大腸菌などの宿主細胞に導入して増殖させたり
すること。遺伝子工学の基礎となる技術。
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1
パネルデイスカッション 1
くなってきているという事実がある。そこからは、根元的な疑問が湧いてくる。地球に対
するひどい扱いを止めさえすれば、その理由など地球にとってはどうでもよいのではない
のかという疑問である。
その答えが﹁イエス﹂ であることは、 はっきりしている。オゾンホールを埋めるのは、
絶滅の危機に瀕する種を保護し、私たち自身の健康と次世代の幸せを望むからであると
ニ一一口ったところで、現に絶滅しつつある生物にとってはそのような理由などどうでもよいこ
となのである。テクノロジーのさらなる使用を禁止するという決定も、それがファシスト
の独裁権力によるものでも民主的決定によるものでも、どちらでもよいことである。テク
ノロジ l の制限を受容する理由も、個人的な啓発によるもの、宗教的な信念に基づくもの、
大衆宣伝に盲従するもの、罰されるのがこわいからというものなど人によってさまざまで
あるが、そのようなことはどうでもよいのである。これらの理由は人間の感性には訴える
かも知れないが、人間以外の世界には全く重要性を持っていない。
もしも地球に関して唯一大切なことが差し迫った災害の予防であるのなら、地球優先主
義への転換は世界的規模で、その予防のための法律を絶対に強化するべきであるという意
見を正当化することになるであろう。しかし、地球は歴史を有する全体としてのシステム
であると考えるならば、人聞がどのように扱われているかが大きな重要性を帯びてくる。
人間の持つ意識は、単に自然が生んだ自然界の申し子というだけではない。それは地球の
歴史上、考えうる最高傑作なのである。人間の存在抜きでその親たる自然がうまくいくな
ど、考えることさえ難しい。言い換えれば、人間はある時例外的に創造された種であると
考えて行動し、人間と地球は家族的紳で結ぼれているという根本的信念に従い、地球を大
切にする道徳的決意を囲めなければならない。信念という言葉を使ったのは、それが正し
ル
マ
82gr︼ 成 層 圏 の オ ゾ ン 層
オゾンホ I
に形成されるオゾン激減部分。特に南極上空で
著しく、近年は北極や中緯度地域でも生じてい
る。オゾンには紫外線の吸収作用があるが、オ
ゾンホ l ルを通過した紫外線が、生態系に被害
をもたらしている。例として皮膚ガンの急増が
見られる。
︼ファシズムを信奉する人。
ファシスト︻FRE
7 7 Yズム (
ESE) は第一次大戦後に現れた
全体主義的・排外的政治理念、またその政治体
制。一党独裁による国粋主義をとり、反共を掲
げ侵略政策をしいた。イタリアのファシスト党
にはじまる。
3
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いかどうかをほかから判断することができないためである。また根本的と言ったのは、そ
う言わないと私たちは、私利私欲に抗してまで行動を起こすことができなくなるからであ
徳的基盤を模索する際には、しばしば境界線を越えることがある。また、この外見上中立
このような立場のものにとっては文化を隔てる境界線はあまり意味を持たず、高遁な道
おぼろげにしか理解されていないのである。
の当然の責任を果たすという動機も、明確にしていかなければならない。この点は、まだ
その行動を起こす動機も大切となってくる。地球優先主義への転換の中では、家族として
憎たる結果を招くことになる。その意味では地球にとっては、惑星地球を守るのみならず、
上げた多くの作品の中でも特異な傑作であり、もしそれをなくしてしまえば長期的には惨
値、自ら光り輝く宝石﹂とはなり得ないかも知れないが、地球上においては地球がつくり
道徳的良心と善意、それは広範な宇宙の前ではカントが主張したように、﹁無条件の価
しようとする生命の持っている側面の一つと言えるであろう。
がることは大切な意味を持ち合わせることではあるが、家族の一員がほかの家族の世話を
である。このように考えると、人聞がオゾン層の崩壊を食い止めるために意識的に立ち上
行うこともある。これを全体としての地球という立場で見れば、すべては家族聞の出来事
持つなどの不正を行う。またそれに反して、互いにあるいは広く人間集団に対して正義を
ている。人間は時にはほかの人間に肉体的な拷問を与える。また、異文化に対する偏見を
ら地球上に棲息している。しかし私たちの親戚ともいうべき生物種が、絶滅の危機に瀕し
アリュ 1シャン列島で保護されているシダや短尾アホウドリなどは、人類よりも古くか
る
的立場から発する世界倫理が、実際には世界主義者の言語で語る特定文化の価値の言い換
EB)
アリュ lシ ャ ン 列 島 ア リ ュ lシャン(邑E
は﹁アリュ lト族の﹂という意味。アラスカ半
島からカムチャツカ半島の方向に弧状に分布す
る列島。東からフォックス、7ォ l- マウンテ
ンズ、アンドレアノ7、ラァト、ニア諸島の順
に並ぶ。火山性の島々が大部分で活火山もあり、
樹木はなく、強風、渡霧に見舞われる。一七四
一年にロシア人によって発見されキャサリン列
島と呼ばれたが、一八六七年のアラスカ購入に
ともないアメリカ合衆国領となった。ロシア人
毛皮猟師や商人の流入により、動物群および二
万五千を数えた原住民アリユ lト族の人口は急
減した。漁業や狩猟などが中心産業である。第
二次大戦中の日米の激戦地アッツ島とキスカ島
が列島西部にある。
カ ン ト セEBZ5こ ハ 自 品 ( 一 七 二 四 1 一八 O
四)ドイツの哲学者。自然科学的認識の確実さ
を求めて認識の本性と限界を記述する批判哲学
を創始。これにより合理論と経験論とを総合す
るとともに﹁コペルニクス的転回﹂を果たす。
また、実践的観点からの形而上学の復権を図り、
ドイツ観念議に決定的刺激を与えた。主著﹃純
粋理性批判﹄など。
3
3
3 地球優先主義への転換
発表
パネルディスカッション 1
えにすぎないことも多い。そこで地球優先主義への転換は、
一つの知的伝統がほかの伝統
を侵略するのではなく、真に心の転換を目指すためのものであるために、文化の中の武装
解除に努力することや自己批判的なものであることを要する。
私は冒頭で、私たちの地球に対する新しい認識はなかば常識であり、もはや覆し得ない
と述べた。さらには、それは地球優先主義への転換を必然的にともない、ひいては人間に
よる自然界の略奪を制限する新たな決意を私たちに突きつけるとも書いた。常識から転換
へ、転換から決意へという段階的推移は、自動的に行われるものではない。宗教や哲学が
長い間教えてきたように、既存の知恵や世間の見方は旧来の考えが山積みされたものにす
ぎず、真理にとっては障害物でしかないのである。
人間の文明を相手に地球が正当な主張をしていることに気づかせてくれた世紀は、同時
にイデオロギーによって集団意識が組織的に犠牲に供されていく過程に、歴史上もっとも
注目した世紀でもあった。技術革新、経済構造、マスメディア、民族的政治的利害、文化
的習慣、そして言語さえ常識という名の下に、いかに不当で意味のないことを私たちに受
け入れさせたかを理解するようになった。この時代の子として自分が信じていること、信
じさせられたことを区別してみようと思うが、その望みもそれを追究するとイデオロギー
になるという点で、時代の意識を継承したものとなる。私たちの常識と常識を超えようと
する試みとは、区別するのが難しい形となってしまっている。転換も道徳的な選択も、か
つてないほどに難しくなっているのである。
以上に述べたようなことが一方にあり、もう一方には私たちが傾注すべき地球の主張が
ある。それは並の歴史的、イデオロギー的批評を超える存在となっている。地球自体が破
滅の危機にあることが分かっているが、これは生活の質の改善を図るための文書化や分析
イデオロギー︻(ドイツ語)ESF明町内︼社会集団
や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)
において思想・行動や生活の仕方を根底的に制
約している観念・信条の体系。歴史的・社会的
立場を反映した思想・意識の体系。観念形態。
また、一般に政治的・社会的な意見、思想傾向。
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をするような一般の問題と同列に扱ってよい問題ではない。地球の存続は生命体の生きる
条件そのものに関わることであるから、自由な意志を働かせる余地はないのである。私た
ちは、理性的であるべきかどうかを決めることができないのと同様に、何をするべきかを
決めることもできない。まして決断しないと決めることなどできないのである。人は人聞
が生態系に与える被害の深刻さを大げさに誇張していると感じ、脳裏から払いのけようと
するかも知れない。しかしその危険が、差し迫った事実であることが分かると、ウィリア
ム・ジ工 lムズの言った﹁強制的にいかにするかを決めなければならない現実の重大な選
択﹂の場に放り込まれてしまうのである。もはや私たちには、選択しないという道を選ぶ
自由は残されてはいない。ある根元的な選択を迫られれば、やむを得ない選択をするとい
う、まさにこのようなコンセンサス (合意)が人々の間で至るところに育ってきているよ
うに思う。地球優先主義への転換がこれほど緊急を要する時代は、未だかつてなかったの
である。
ここで言う転換は、ただ特定の運動に参加することではない。また危機的な現実を大衆
一つひとつ、心を転換させていくことであり、これまで慣れ
に教えて回ることでもない。むしろ集団的メタノイア(回心)の努力をし続けることなの
である。己の盲点や野望から、
すぎていて見ていなかったことに目を転じていくことである。また見すごしがちなものを
改めて大切にしていく理由をいっしょに探していくことである。この過程において、地球
の現実と私たちのおかれている立場を人々に教育していくことは前提条件ではあるが、教
育さえすれば転換はしなくてもよいというものではない。
また同様に、世界に多大な被害をもたらす資源を有する大企業が、会社の方針を転換す
ることは必須条件となるが、それも一人ひとりの転換によって支えられていなければ根な
ウ ィ リ ア ム ・ ジ ェ l ム ズ { 司 王EEYEZ}
(一八四二 1 一九一 O) アメリカの哲学者・心理
学者。純粋経験から出発する根本的経験論を唱
え、その立場から心理現象や意識の流れを分析。
パl スとともにアメリカ・プラグマテイズムの
代表者。著書﹃心理学原理﹄﹃宗教的経験の諸相﹂
なと。
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3 地球優先主義への転換
発表
1
ノf
ネルデイスカッション
し草にすぎない。教育および市民社会の法律なしでは、時とともに知識の蓄積がなされる
ことはない。世代が大いなる努力の末に得た独自の認識は、次世代には常識となる。もう
一度言うが、これこそ地球優先主義への転換の生む重要な成果なのである。しかし、すベ
ての宗教の改宗同様に、転換は一人ひとりによってなされるべきことである。それなしに
は、転換の実現はない。今転換しないと、地球が存在するのは当たり前であると思い、地
球を危機に陥れるような現在の習慣をさらに推し進め、地球を危機から救う手でてはなく
なってしまうのである。
人類の文明と自然環境との調和をいかに維持していくのか。これらに関して私たちが、
多くの技術的問題を次世代に残していることはよく承知している。しかし、分かっていな
いこともある。それは問題に何としても取り組んでいこうとする熱意もいっしょに伝えら
れるかということである。新しいミレニアムを前に地球との関係を火急に考え直さなけれ
ばならない時に、これも急を要する課題の一つである。
私たち自身のために言っておかなければならないことがある。それは私たちは、どのよ
うにすればよいのか分からないでいるが、少なくとも分からないということだけは分かつ
ているということである。このことの認識は、惑星地球に向かって心の転換を図る私たち
が、知恵を見出すはじまりとなるかも知れないのである。
=gEZE︼ 千 年 間 。 キ リ ス ト
ミレニアム︻E
教でキリストが降臨して地上を統治する千年王
国を善一一ロう。一九九九年という千年最後の年にあ
たり、二 0 0 0年から新しい千年がはじまると
いう意味で用いられる。
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