月 旦 1 ] 【第 4章】 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 幾度かの危機を乗り越えて出光興産を育て、国際石油資本の 圧力に屈せずイラン石油買い付けを断行した男、出光佐三。 実業界の巨人の事績に触れ 、その揺るぎない理念の源を探る 。 じ 一一 立秀 ωム居 M古間 経営思想評論家。 1 927年生まれ。 早稲田大学卒業後、同大大学院に 学ぶ。 経 済史、経営思惣の研究および評論、評伝などの執筆活動を行 なう。主な著書 に 『ペル シャ湾の日章丸 ~ w アパダ、 ンに行け ~ などがあ る 。 w 評伝出光佐三 士魂商才の軌跡、』 1. 決 断 "でみつ 昭和 2 8年、出光興産(以下、出光と略)が社運を!惜して決行したイラン石 油輸入は、当 H 寺、いわゆる、日章丸事件。として│司際的争訟問題にまで発展 し、内外に大きな反響を呼んだ。石油国有化をめぐってイランとイギリスが 激しく争っていたさなかのことである。iJ"光の行副jは 強 大 な 国 際 石 油 資 本 (メジャー) <註1>に対する不敵な挑戦と受けとめられ、また戦後、独立し て聞もない日本の国際的な試金石として事件の行方が広く注目された。 第 2次大戦後、アジアに燃えあがった民族主義述通i ) Jの 炎 は 中 東 に も 広 が J I凶有化をもたらした。 1 9 5 1年刊行和 2 6 ) 3月、イラン│主│民 り、イランに石Il 議会は石油国有化法案を可決し、国民戦線派の指導折モハメッド・モサデク 〈 註 2>を首相の聞に;tl j lしあげた。 イギリス政府はただちに艦隊をペルシャ j 寄に派泣して軍事的圧力を加え、 のどもと また経済封鎖によってイランの喉元を絞めにかかった。今世紀初めからイラ ン石油を採掘から精製、輸出、販売にいたるまで独, Iî 支配し、莫大な利 ìl~J を 吸いあげてきた A 1 社(アングロ・イラニアン石 ~IIJ 会社、現・ブリティッシ ュ・ペトロリアム二 BP) の利権を守るためである。イギリス政府は A 1社 の最大株主であり、イラン石油の動向は I r ; J1玉|の石 ~III 政策に決定的な影響を与 えるものであった。 イランの国庫は石油│玉l 有化以後、利権料が入らなくなり、たちまち枯渇し 始めた。世界最大のアパダン製油所のタンクにはおよそ 1 0 0 0万 tの石油があ ふれていたが、大英帝│玉│の威光を恐れてか、誰も買い付けに動こうとはしな かっ f こ O 〈註 1>エクソン、ソーカル(シエプロン)、モービル、ガルフ(シエプロン)、テキサコ(以上、米系)、ア ング口・イラニアン(英系、後プリティッシュ・ペトロリアム)、シェル(英蘭系)の 7大石油会社 のこと。「セブン・シスターズ」ともいう。 1 9 8 4 年にガルフがシエプロンに吸収合併され姿を消した。 2 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 出光の社長 ・1 ' : 1 : ' 1光 佐三 がイラン石 i 1 l l の輸入に向 け動き出したのは 2 7年 9月 ころ 。 それまで幾つかのルー トを通じ輸入話が持ちこまれていたが、彼は断 わり続けてきた。イランの石油固有 化 はまだ流動的で国際的承認も固まって おらず、世界の商慣習、商道徳 │ 二受け入れることはできないと考えたからだ。 ところが、その年の 7月、ハ ー グの国 │ 繁司法裁判所がイランの石油国有 化 下し、 を不当とするイギ リス政府 の提訴をまp 9月 に は ア チ ソ ン 米 国 務 長官 〈 註 3>が固有 化 を既成 事 実として承認すると声明した 。 イランの石油固有 化 をめぐる世界の情勢が大きく変 化 し始めたのだ。 佐 三 はそれらの動きを正確につかみ、さ らに詳細な情報を取 って機が熟し たとみるや、ただちにふたりの 重役を極秘にテへラン へ派遣し、 モサデク首 相と N 10 C ( 匡│ 営 イラン石油会社) 首脳と の交 渉に 当 た ら せ た 。難 航 の 末、翌 2 8年 2月、破天荒な好粂件で輸入契約を成立させる 。 1 i l l i格 は 国 際価 格 の約 3害I J 引き、支払い条件は半額米ドル、半額日本円 。輸入 量 はほとんど無 制 限。基 本原 則 として出光 の 「競争的 地位の維持 Jが植われた 。 ところが 、契約成立と同時にイラン石川 l の積み 取りに出航する手はずにな っていたタンカーの用船契約が、その問│際にな って船会社から 一 方的に破棄 された 。 国│ 探石油資本の手がそこまで似lびていたのかも知れなかった。 、 佐 三 は即座 に 自 社 所 有 の 外 航 タ ン カ 一 日 章 丸 (2世 ン回航を決断した 。 そのころ日章丸は日米聞を航行中で、 l万8 0 0 0t)のイラ 光にと っては虎 1 ' : 1 : ' 1 の子のタンカー。これだけが石油製品輸入の唯 一 のパイプであり、国 │ 深石油 資本と戦う、尊い武器。である 。 これは最後まで I~I 社の子中に残 し ておきた か った。 1 章丸がイギ リス海軍に 掌摘される恐れもあ った 。 事実 、前年の 航海 中、1: 5月 、 イ タリアのタンカ ー・ ローズマリ一号がイランか ら原 i 1 l i l O O Otを積ん 1 : 1 : I [ ' j され、アデン港に曳航されている。日 章 丸 で帰る途 1 、イギ リス軍艦に 章 1 のイラン回航は大きな決断であり 、 J h光の社連を左右する n 者けであった 。 ー この 1寺の 心境 を 佐三 はこう 書 きとめている 。 〈 註 2>1 8 80 -1 96 7。 イラ ンの政治家。若 くして法務大臣 、大蔵大臣な どを歴任したが、国王の独裁 を批判 して追放。 4 1年帰 国、民族戦線の指導者と な り、 5 1年石油固有化法案を 可決、首相に就任する 。 5 3 年、ザヘテ. ィ将軍によ る軍事ク ーデター で失脚した 。 3 「……現在の石油大洪水の時代と異なり、 当時、石油資源とつながることは 国家の大事件である。 われわれの前途はまた、 なんとかなるであろう。 ト数 億円の日章丸を担保として大石油資源とつながること、 これが日章丸の生ま れながらの使命である。 一出光を考うべき時ではないとひとりささやいた j (傍点は筆者、以下同じ) 彼の決断の根本は、 つねに一企業の利害を超えたところにあった。 2 ホ傭仰天地に悦じず庁 日章丸が無事アノ fダン港に到着し、出光のイラン石油輸入が公然となった n 寺、佐三は記者会見の席上、 こうのべた。 「……私はこれまで至るところで国際石油カルテルの横暴をいやというほど 見せつけられてきた。戦後すぐ政府当局に、 日本の市場を石油カルテルの支 配と搾取から免れしめよと建言し、業界にもそれを訴えたが、誰も耳をかす 者がいなかった。 のみならず、 それが禍してか、 その後、私の会社はあらゆ る手段をもって圧迫されてきた。 私の主張は、世界の各地から安い石油を原油、製品の区別なく輸入して、 それらを消費者が自由に選択して買う、 つまり公正な自由競争の石油市場を つくるという簡単な言い分である。 ょうやくイランの石油が国際石油カルテ ルの手から離れ、 日本はこれで豊かな産油国と直結する道が聞かれた。 そこ へ出光が出ていったというわけである。 諸君はイラン石油輸入をひどく突飛な離れ業のように考えているらしい が、私に言わせれば、 ひろぴろとした大道をゆっくり歩いているような、極 めて自然な気持ちである。それは四十数年来の歩みから必然的に出てきた結 果であり、私の人間尊重劇の一幕に過ぎない。なんの無理もなければ、 なん の離れ業もない。私の人間尊重主義の自然な流露である」 この言葉の中に戦後、佐三の信念と行動のすべてが集約され、 またイラン 石油輸入の意図が明らかにされている。 〈註 3>ディーン・グーダーハム・アチソン。 1893~1971 。政治家。イエール、ハーバード大卒後、 19~41 年弁護士、 33 年財務次官を経て政界入札 45~47年国務次官としてマーシャル計画を推進、 49~53 年国務長官として NATOの創設に尽力した。 4 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 出 光 佐三 ロ 1 885-1 9 81 I J l i台 ・ 0 I 大正・昭和 1 3代にわたる激励の l 時代に「人間尊重 j を貰き、民 光興 族系 J 最大手の石油会社 ・' 1 11 1 産 を 育 て 上 げ た。(写真提 供 毎日新│間相) イギリス政府はす ぐ外 交ルートを通じて日本政府に厳重抗議し、 A 1社は それ を 「 盗品故買 j として東京地裁に提訴した 。出光は 堂々と受 けて起 った。 「イギリスの A 1社が勝訴するか、日本 の出光が自 社の 主張を貰 いて、 果た して強大な国際石油カルテルの 厚 い壁 に く さ び を 打 ち こ む こ と が で き る か かたず …J 。 人びとは固唾を 呑んで裁判の行 方を見守っ た。 5月 9日昼過ぎ、 第 l回口 頭弁論の幕が切 って落と された 。ちょう どそれ と同じころ、日 章 丸はイラ ン石 油を満載して 川 崎港に帰港していた 。 コ 両者の主張は真っ向から対立し、激しい論戦となった。 A 1社側はイラン の石油国有化そのものを無効とし、日章丸積載の石油に対する所有権を主張 した。出光側は石油国有化の合法性を論じ、 NIOCと正式な契約を結んで 買い付けたものであることを論証してお互いに譲らなかった。 その最中、 A 1社側の訴訟代理人があからさまに佐三社長に対する不信を 表明した。これを受けて裁判長が、法廷に │ 1 5 1席していた佐三に発言を求めた。 佐三は証言席に立つと、一語一語噛みしめるように、 「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私は日本国民のひとりとして {府仰天地に惟じない行為をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします」 とのべ、ほかに何も弁明しなかった。 1 g 1と口頭弁論を重ねたが、 その後、第 2回、第 3 5月2 7日、早くも判決と なり、 A 1社の提訴は却下され、出光の全而的勝訴となった。 A 1社はそれ I を不服として東京地裁に本訴し、また東京高裁にも控訴した。だが、この F 章丸事件は昭和 2 9年末、 A 1社側が訴訟を取り下げ、出光勝訴が最終的に確 定して完全に幕を下ろした。 ところが、この問、イランに軍事クーデターが起こり、石油国有化を断行 したモサテク政権はもろくも倒壊した。代わってザヘディ将軍〈註 4 >が政 権の座についた。 2 8年 8月中旬のことである。出光のイラン石油輸入はまだ 緒に就いたばかりであった。 このクーデターを演出したのは、米国務長官のジョン・フォスター・ダレ ス〈註 5>とその弟で C 1A (アメリカ中央情報局)長官のアレン・ダレスと 防総省にも大きな影響力を持っており、またアメ 言われている。ふたりは│五l リカの大石油資本とも密接な関係にあった。 新政権の成立後、 NIOCは当初、出光との契約で福われた「競争的地位 の維持」の原則を守っていたが、やがてそれを破り始めた。イランの石 i l l lは いったん固有化されながら、こんどはアメリカの主導の下に結成された国際 合弁会社(コンソーシアム)にからめとられ、 NIOCの自由にならなくな 〈註 4 )ファデイ・アラー・ザヘディ。 1 8 9 0 1 9 6 4。軍人・政治家。陸軍大将を経て、 5 1年アラー内閣および 3年パーレビ国王の支持によるクーデターでモサデク内閣を倒し首相となる。 モサデク内閣で内相、 5 6 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 っf この f ご 。 佐三が遠大な構想を描いて決行し継続的な発展を期待したイラン石油の輸 入は、国際石油資本の謀略と強圧によ って次第にメリッ卜を失い終息に向か った。だが、昭和 3 2年 2月までに出光がペルシャ 湾 に送りこんだタンカーは延 べ8 0隻、日本に運びこんだ石油の総量 は1 6 0万 k lに達した 。こ れ に よ っ て 国 際 石油資本が独占的に支配していたわが国市場に 産油国から直接安い石油を供 給し、石油製品の値下げを誘発して消費 者 国民に大きな利益をもたらした 。 効果は物質的な側面だけではなか った。強大な国際石油資本に挑戦してイ ラン石油の輸入を決断し実行した佐三の胆力と行動は、 当時まだ敗戦コンプ レックスを色濃く残していた国民の心を強く打ち、日本人の自信と 勇気 を呼 び、起こした。出光本社内の机上には、 全国津々浦々から寄せられた感謝や激 励の手紙、 電報が山と積まれた 。 出光はイラン石油の輸入によって戦後の 長 い苦境を)J見し、日石(日本石 油)、スタンダード石油に次ぐ第 3の石油会社に躍進した 。 それはまた出光 全社 員の士気 を鼓舞し、みんなをひとつの目的と使命の達成に向けて強靭な ちゅう たい 紐帯で結びつけた。 3.経営理念の原点 出光佐三の経営行動の基底に貫流しているのは、人間尊 重 の理念である。 だが、それは戦後アメリカン・デモクラシーの流入と共に広くわが国に流布 した根なし 草 のそれとはまったく無縁であり、西欧近代ヒューマニズムとも 思想の 土壌が違う 。 それは日本の歴史、精神的風土の中に深々と根を下ろ し、彼の厳しい体験と思索に裏打ちされた 信 念体系である。 彼は戦前、人間 尊重 について次のようにのべている 。 「…・・・小なりといえども出光商会(出光興産 の前身)は創業当時より理想、を 持ち主義を 立 ててきたのであります 。今日とな って商売にもそれが真 の行き 方であったと思われる 。 人聞がつく った社会である、人聞が中心であって、 〈註 5>1888~ 1 9 5 90 政治家。弁護士を経て第 l次大戦中より政府の外交問題担当官。 国連代表、国務省顧 問を経て、 53~59 年国務長官を務める 。 反革命工作・大量報復など対共産圏への強硬政策を推進した 。 7 人I H Jを尊重し自己を尊重するのは当然過ぎるほど当然である。種々の方針や 手段はこれから派生的に出てくるのである。人間尊重は人材の養成となり、 努力主義となり、家族主義となり、温情主義となり、拝金思想、の排斥とな る。常業の方針も投機の排除となり、実力主義となり、実行主義となるので あります。…… J(昭和 1 5年) 驚くべきことは、この平凡な、しかし実行困難な道理を明治末の創業当初 から経営活動の根本理念とし大正、昭和の 3代にわたる近代日本の激動期を 一貫してきたという事実である。それは日本の敗戦という歴史の衝撃を受け ても、微動だにしなかった。おそらく戦前、戦後を通じて人間尊重という言 葉を口にし、それを経営理念の根本として現実の活動の中で貫き通してきた 経営者は、彼のほかにあるまい。 さて佐三の人間尊重を核心とする経営理念はいかに形成され、いかに実践 されていったのか一一。 むなかた あかま 佐三が生まれたのは明治 1 8年(18 8 5 ) 8月2 2日。福岡県宗像郡赤間村(現・ あい 宗像市赤間)に藍問屋を営む藤六、千代の次男として産声をあげ、この地で 幼少年期を送った。 父からは「一生懸命働くこと Ji 質素で、あること Ji 人のために尽くすこ とJの 3つを放しく教えこまれたという。母は家業がドイツ染料の普及で没 落したとき、そのころ神戸高商(現・神戸大)に学んでいた佐三に対して爪 に火ともすような家計のやりくりで学費を送りつづけた。 健康に育っていた佐三少年がどうしたわけか小学校に進んで間もなく、強 渦 度の神経衰弱と眼病にとりつかれた。幼い肉体と精神は、このふたつの} l と戦い続けねばならなかった。その長い苦しい闘病生活の ' 1 'で、どんな苦難 にも耐え抜く強い意志方と、体験を基礎に徹底的にものごとを考え抜くき Uん j A ・ 靭な北I 、索力を養った。 長じて福岡商業から神戸高商に進学したが、佐三の経営理念が萌芽したの はこの時代である。時に日露戦争の戦勝ブームに沸き軍需成金、株成金が大 8 イラ ン石油輸入に賭けた出光佐三 手をふつての し歩いていたこ ろ。佐三は投機、 買い占め、売り惜しみなど消 費者を無視 した商人 の 「 貰金万能主義 j の姿を学窓から垣間見、 それに反感 を抱いた。 と同 f 寺に、胸中 i 菜く 「黄金の奴隷になるな 」 という自戒の信条を 刻みこんだ。 これが人間 尊重の経営理念の原点となる。 彼はまたこの │ 時代 ふたりの恩 師に出会う 。 ひ と り は 高 商 校 長 の 水 島 鎮 や 也。 「謹厳寛容に して識見 高 i 輩、しかも 胸裡に烈々たる愛 国の情熱を湛えた 国土型の教育者 Jと言われた人物だが、慈父のような情愛をもって学生を訓 育する水島の 人格に触れ、「人を 育てる道 Jを学 びとる。 これが大家族主義 の元素となり、 人間 尊重の経営理念に 内包されていく 。 れんき ち ほかのひとりは内池廉吉教授。「黄金の奴隷」 にな らない商 人 の 社 会 的 役 割、存在理由は何かと求めていた時、 内池のスピーチを聞いた。 それに示唆 を得て、 「中間搾取的な問屋を排除し、生産者と消費者の両方に直面して商品 の 円i 骨な供給を図る 。 これが本来の商人の使命であり唯一の社会的存在理由 だjと感得する。これは後年、 「生産者より消費者へ J(後、「消費者本位 Jと要 約)の営業方針となり、 「 大地域小売業」という独自の版売体制を生み出す。こ んにちの流通革命の先駆である。それを明治末、 学生時代に発想したのである 。 こ う して人間尊重を核心とす る経営理念は、彼の若い日に芽生え、 やがて どんな風雪 にも耐える巨木に育っていくことになる 。 でっち 佐 三 は卒業後、すぐ神戸の小さな商庖に丁稚として入底した。当時、神戸 高商といえば東京高商と双壁の名門校。卒業生は ビジネス ・エリー 卜として むろ て 将来を │ 属望され、 一流の銀行や商社から双子をあげて迎えられていた。 だ が、彼の選んだのは小麦粉と機械油を扱う酒井商会という名の、庖員も数 人、いまだに角帯前垂れ式の 古風な商庖である 。同僚や先輩たちの 「学校の 面白にかかわる。母校の面汚しだ」、「出光もパカな奴だ j といった非難や 1訓 笑の声も耳に入ったが、彼はそれらを 柳に風と 受 け流した 。 「いま自分に必 要なことは 、商人として の基礎を身につ けることだ。 それには こういう小さ な庖こそふさわしい。将来、大事をなしとげるためには、 まず小さなことか 9 ら始めねばならぬ」と、そんな覚悟を胸におさめて金ボタンの服を脱ぎ捨て たのである。 入庖すると早速、小麦粉の係に回され、注文取りから配達、掛け取り、伝 票や帳簿の整理となんでもやらされ、早朝から夜晩くまで体を休める暇もな かった。途中幾度も挫折感に襲われるが、それに耐えた。ここで個人商庖の 労苦、難しさを骨の髄まで知らされ、商人としての基礎体験を積んだ。 彼の考えでは 5年ほど修業して独立するつもりでいたが、入唐して 2年ほ どたった時、たまたま帰郷して両親の零落した姿を目撃し、一刻も早く独立 しなければならぬとホゾを固める。だが、独立開業の資金はどこにも出所が なく、悶々の日が続いた。 ロっこん そんな時、思わぬ幸運が舞いこんだ。高商時代から呪懇にしていた神戸在 0 0 0 住の日田重太郎が京都に持っていた別荘を売り払い、その代金の中から 6 円 を ポ ン と く れ た の だ 。 い ま な ら お よ そ 1億 円 に 近 い 大 金 。 佐 三 は 学 生 時 代、日田の子弟の家庭教師をしていたことがあり、卒業後も一種禅味を帯び た人柄にひかれて時折、日間の家を訪ねたりしていた。 0歳代半ばというのにほかに 日間は淡路・仮屋の旧家の出で、当時はまだ3 仕事も持たず、茶や骨董を楽しんで風雅な生活を送っていたが、「この青年 は将来、きっと大事をやりとげる男だ」と、佐三の非凡を見抜いていた具眼 の人物。この l f 寺、彼は、「この金は君にあげるのだから返すにおよばん。む ろん利子など要らん。事業報告など聞いても分からんから、一切しないでよ い。ただ自分の信念を貫徹せい。それからこのことは他言せぬように」と言 っただけであった。 ぜんぷ〈 佐三はこのような日田の全幅の信頼と陰徳に支えられて勇躍、狛立の第一 歩を踏み出す。 4.、大地域小売業庁の展開 明治 4 4年 ( 1 9 1 1 ) 6月22日、佐三は門司市(現・北九州市門司区)東本町 10 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 寺 、 急激な発展途ヒに に日石の特約庖として出光商会を創 業 した 。 門司は 当H あ った北九州工業地帯と筑豊炭田 を背後にひかえ、またわが国経済の西玄関 として海陸交通の要衝を I~Î めつつ あ っ た 。 彼は将来、大陸への雄飛をひそか に夢見て、この 地を選んだのである。 当初、庖 員、丁稚あわせ て数人 。木造 2階建ての応舗は階下の表半分が事 務室兼応接室 、 それも 8畳 ほどの板張りで、そこに粗末な 机 と 椅子が数 l 誌 1 1 、 ~iJ~ の棚に機械油の見本瓶が並んでいる 。 正面 l鴨 居 に 「 士 魂商才 j と 書 かれた ぼっこん 墨痕鮮やかな横額。これは恩師の水島から開業祝いに贈られたもの。 2階は 庖員、丁稚たちの宿舎に充てられた 。 まことにささやかな旗揚げである 。 だ が、彼の志は大きかった 。 佐 三 が最 初、足を踏み入れた の は筑豊鉱業地帯 。 だが、古い業者の地盤は 固く、 容易 に割りこむ隙がなか った。 こんどは北九州工業地 帯 に 転 戦。ここ でも成果ははかばかしくなか った。 しかし、この時、明治紡績の工場に日参 して 貴重 な機械油の勘をつかんだ。そ れはやがて大陸市場に雄飛する基礎と なる 。 彼の目は陸から海上に向けられ、 当時、普及しつつあ った発動機漁船に注 がれた。彼は漁業会社や漁業家 を説得して回り、それまで漁船の燃料油とし て使われていた高価なガソリンや灯油を安い軽油に転換させる。こうして消 費者に直結した 「 大 地 域 小 売 業 j の 枠 を 西 日 本 一 帯 に 広 げ て い き 、 山 村l粧│ (日本水 産 の前身)はじめ大小漁業 家 7害 j Iはどを出光の給油圏下においた。 また計量 器付き給油船を考 案建造し、画期的な海上給油を創始した。 佐 三 が真 に商人道に開眼するのは第 1次大戦中 。大戦勃発時、品不足の起 こることを直感し、得意先に庖 員 を走らせて燃料油の備蓄を勧め、同時に万 全の供給態勢をとった。間もなく予想したとおりの 事 態が起こ ったが、得意 先の漁業家は 1日も休業することなく操業を続けることができた。この時、 今まで観念の中に浮かんでいた商人の使命感が、現実の土壌に根を下ろし、 彼の石雀イ言となる 。 1 1 それよりさき、彼の目はすでに朝鮮海峡を R F!てた遥か彼方に向けられてい た。当時、朝鮮、満州(現・中国東北部)、 I 11 固などではまだ電灯は普及して おらず、照明はほとんど灯油に頼っていた。だが、この広大な灯油市場はス タンダード、テキサス、アジア石油の米英大石 ~Ijl 会社に支配され、彼らの結 んだカルテルその他の手段によって消費者は,也うままに暴利をむさぼり取ら れていた。佐三はその姿を垣間見、「よし、いつかは日本油を大陸市場に進 出させ、外油会社の不当な支配と搾取を打ち破ってやるリと決意した。 1 4 )、苦心の末、満鉄(南満州鉄道株式会社) < 註 6>の車軸 大 正 3年(19 油納入に成功すると、新設した大連支百を大陸進出の拠点として徐々に満 1 1 蒙、中国、朝鮮、台湾へと消費者に直結した「大地域小売業」の販路を 1 1 ば していく。 だが、その道程は決して平坦ではなかった。苦労して開拓した版 路を横合いから乗っ取られたり、出光の進 I 引を食い止めるための策略や圧力 が加えられたりした。それに「大地域小売業」は版路が仲びれば仲ぴるほど はたん 多くの設備費や運転資金を要し、絶えず資金難に陥った。破綻の危機は幾度 も襲い、出光の屋台骨を激しく揺さぶった。しかしその瀬戸際で、佐三は不 思議なほどいつも銀行家に良い理解者を得、危機を乗り越えた。 満州事変〈註 7>以後、わが国の産業経済は急速に蹴しい国家統制の枠を はめられていくことになるが、そのような H 寺代の大きなうねりの中で、佐三 は「法律、組織、機構の奴隷になるなかれ j とH 品道し、激しく抵抗した。人 間尊重の信念から人間や経営の自由な活動、自律性を擁護するためである。 昭和 9年、満州国に石油専売制がしかれようとした時、彼は総務長官の星 野直樹〈註 8>にその非を直言した。また 1 2年 、 商 工 省 が 対 華 石 油 政 策 の 確 立を唱えて国策会社・大華石油を設立しようとした時にも、それに真っ向か ら反対した。それにもかかわらず大華石油はいったん設立されたが、中国に おける「機会均等、門戸開放」を求めるアメリカ政府の圧力が加わり、字垣 かずしげ 一成〈註 9>外相の一声でその直後に解散した。統制に対する彼の抵抗はそ の後も続く。 〈 註 6>1906年、日露戦争により獲得した大連 長春問、奉天一安東県聞の鉄道とその支線、鉄道付属地、 撫1 ) 頂・煙台炭鉱などの付属事業を経営するための半官半民の株式会社としてスター卜。一時は直系 5、傍系会社7 5におよぶ一大コンツェルンとなるが、 4 5年の敗戦により旧ソ連に接収、 5 2年中 会 社1 国に返還された。 12 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 出光の海外支庖 ・出張所も 1 5 年ごろには 5 0を数え、社員も 5 0 0名をこえてい 4年、中輩出光興産 ( 本社・上海)・満州出 た。佐三 はこれに即応してすでに 1 チャンチユン 州 、│ の業務を分 光興産(本社 ・新 京 =現 ・長 春) を設立し、 それぞれ中国と 満 掌さ せた 。 また 1 5年には出光興産 (本社 ・東京) を設立して朝鮮、 台湾など の業務を統轄させ 、 出光商会は総本庄としてそ のまま 門司においた。 太平洋戦争の初期、 日本 の占領 した東南アジア 諸地域に 2 50 0名の 人員 を 配 する民需石油配給の 一大国策会社が設立されようとしたことがある。佐三は その背後に軍の威をかりて広大な 地域に将来のため商権の布石を 打 っておこ て 、ぇ と 考 h ヲv でれ i 一 山 、 不同協 は 要 う11 うとする業者の野心 を見抜き、 また民需石 油の配給業務に膨大な組織や 人員 それを陸軍省当局に進 言 した 。 結局 、 国策会社 案は 出光 の社員百数十名が派遣されることにな った 。 1 7年 7月初 め 、 その先発要 員の 壮行全が帝国ホテルで聞かれたが、 その席 上 、佐 三 はみずから美濃紙にしたためた 「壮行 の辞 Jを彼らに手渡した。 そ の 中にこう 書いてあった。 " [(前略)南 の新天地 は白紙である 。些かの因襲情弊なし。 吾 人 は この 新 天 地 において広大複雑と称せ られる 難事業を 簡単容易に総合統一 し 、 けん 1 1ん もって 人 さじ の真の力を顕現せん とするものである 。 これ単に石油配給上の ー些事と考う ぺ き に 非 ず して、 よっ て も っ て 国 家 社会に対する 一大 示 唆 と な す べ き で あ る 。 しかも 吾 人のみに謀せられたる大使命たるを自覚すべきである。 (中略) 世 の 人 の 批 判 や ー 出光の 立 場 の ごとき これ を 顧 み る の 要 な き は 論 を ま た ぜいげん ず 、 ここに賛 言 を加うるのみである j こ の ~I:I の文 言 は後に 「 人間の 真 に働く姿を現して国家社会に示唆を与え ていかん ょ」と要約され、法律上の定款とは 別 に出光の、精神的定款。 として高く掲 げられることになる 。 1 9年 3月、最後の第 4次派遣まで 1 4 8名の 出光 社 員 が 南 方 に 渡 っ た が 、 彼 らは各部署で組織 ・機構を限界まで簡素化 し 、 少 数 精 鋭 の 威 力 を 発 揮 して 民 、 出光は要 需石 油の配給を全うした 。 その実績と評判は海軍当局にも伝わ り 〈 註 7>1 9 3 1年、関東軍の陰謀による柳条湖事件をきっか け と して開始された日 本 の 満 州 侵 略 戦争のこ と。 8 92-1 9 7 80 政治家・実業 家。東大卒後大蔵省入門し、 3 7年満州国国務院総務長官、 4 0年国務大臣 、 〈 註 8>1 4 1年東条内閣書記 官 長。敗 戦 で A級戦犯となり、釈放後実業界入りする 。 1 3 請を受けて南方の海軍軍政地区にも 1 8名の社員を派遣した。 ひっぽく !被局の逼迫する ' 1 'で、ふたたびI ' :J国大陸に全石 i l業者を統合する大国策会 社の設立計画が進められ、軍当局は佐三をその理事長に推そうとしたが、彼 は「在、の主義方針に反する」と言って断わった。それで国策会社設立案は立 ちH 1えになった。 かくしゅ 5. "出光に繊首はない庁 日本の敗戦は出光が営々と築きあげてきた海外の版売網と資産を跡形もな もくあみ く吹き飛ばしてしまった。元の木阿弥である。後に残されたのは二百数卜万 円の借金と約 1 0 0 0名の社員だけ。その中 8 0 0名 ほ ど は 海 外 に い て 消 息 不 明 で あった。同社の命運はこの H 寺、事実上尽きてしまっていたと言っていい。 0. 1 : 1 三8月1 7日、佐三は焼け残 ところが、終戦の日からわずか 2日後の昭和 2 った東京・築地の歌舞伎座に隣接する出光館に在京の社員を集め、「終戦の訊 勅」を奉読した後、長い訓示をした。その官頭、 r 1、愚痴をやめよ。 2、 │ 止 しった 界無比の 3 0 0 0年の歴史を見直せ。 3、今から建設にかかれJと叱時し、それか じゅん口ゅん ら 1本 の 民 族 と 歴 史 に つ い て 誇 々 と 説 い た 。 最 後 に 出 光 の 行 き 方 に 触 れ 、 臓のもとに自治すなわち自己完成、 「……さてわれわれ出光は人間尊重の旗 l 団結すなわち大家族という主義の行者として 3 0年間終始した。しかして努め て賑難に向かつて自らを練磨してきた。戦前たると戦時中たると、政治や経 済の制度や機構のいかんに頓着なく、終始一貫し変更の必要を認めなかっ た。もちろん今後もこのまま進めばよいのであり、おそらく永久に変わるこ とはないと思う。……」 とのべ、主義方針の不動で、あることを明示した。終戦直後、国民おしなべ て走然自失、不安と混乱の渦 ~I' に投げこまれていた 1寺、このような訓示をな し得た経営者はおそらく佐三のほかあるまい。 それから約 1カ月後の 9月1 5日、彼はふたたび出光館に在京の社員を集め て訓示したが、戦後 1カ月の所感をのべてから、 〈註 9>1 8 6 8 1 9 5 6 軍人。陸軍大将を経て、 2 4年陸軍大臣に就任。 3 7年組閣にあたるが軍部の反対で流産、 3 8年外務兼拓務大臣に就任したが 4カ月で辞任、引退。 5 3年、参議院議員にトップ当選する。 0 1 4 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 1 .. . . . . 事 業 は飛び借金は残ったが、 出光には海 外 に8 0 0名の人材がいる。こ れが唯一の資本であり、これが今後の事業をつくる 。 人間尊重の出光は終戦 にあわてて賊首してはならぬ 」 と言 明した 。それについて彼は後で 「合理的熟考の結果でなく して即興の 、 「 心 の底に潜在している 人の力に対する信頼感 」 がそう 言 わ 直感 Jであ り しめた と述懐 している。 だが、こ の言 明 に対して 重役たちがいっせいに反対の 声 をあげた 。当 時 、 日本の産業経済は長い戦争と戦災によって荒廃の極に達し、企業は解散か縮 小整理に 追 いこまれて盛んに首 切 りを強行していた時代。生産も 流通も麻庫 し、悪性イ ンフ レが抗!戒をふる って街頭にヤミ 市だけか‘にぎわい、失業者が あふれていた。石油は戦後すく GHQ (連合国総司令部) <註 10>によ って戦 略物 資に 指 定され、生産から消費まで厳しい統 制 と監視の下におかれた 。 雀 の涙ほどの 民需用石油の配給業務も石統(石 油配給統制会 社 ) に握られてい た。海 外市場を失った出光がそれらの 状 況下、仕事も 資金も 物 もなく 、重役 たちは 「い よい よ出光の命運もこれまで j と会 社の解散か思い 切 った 人員誰 理 を考 えていたの だ。言 明撤回の到J 識を 出 したのも無理はなかった 。 寺こそ 社 員をしっかり 抱 きかかえてやらねば 佐三はこ れ に対し て 「こんな H ならんのだ。いよいよ会社が駄目になれば、みんなといっしょに乞食する 」 と言 って 、 撤回を拒否 した。海外から社 員が引 き揚げ始めると 、 いったん家 郷に落ち着かせ、みずからしたためた!な労と激励の子紙を彼らに見舞金を添 えて送り 、細か な生活の相談にも釆 って待機させた 。 らち 彼は 再 三 、石統に業界復帰を頼んだが、いっ こ うに坪があかなか った。 と かんしゃ〈 うとう 楠 痛 玉 を 破 裂 さ せ 、石統社 長 に対して、 「もうあなたに頼まん、ただ し実 力で取ってみ せ るから、そう思っておきなさい 」 と1炎H可を切 り、自力復 帰を決意 した 。 と もかく社員に仕事を与えねばならぬ。仕事の種類や難易を問うている場 合ではな い。そう考えて 重役たちといっしょに新規事業の開 拓 に奔走 した 。 〈 註1 0 >第 2次 大 戦 後 の 1 945-52年の問、 日本占領にあたった 中央 管 理 機 構。 最高 司 令 官 は 米 国 の マ ッ カ ー サ一元帥。予算、法律をはじめ重要政策には GHQの事前の許可が必要とされていた 。 15 農業、漁業、印刷、醸造、ラジオ修理販売業など、まったく未経験な事業に 乗り出した。石油に縁があるといえば、 I L I海軍の使い捨てた石油タンクの底 油集積事業くらいなものである。 彼はこうして言明どおりひとりも首を切らず、全力をあげて引き揚げ社員 の全員収容を果たしたのだ。それはまた創業以来一貫してきた理念の実行で あった。 r 6 . 民族資本・民族経営」 佐三の信念は、戦後絶大な占領軍権力を楯にわが国石油市場の独占的支配 を企図する国際石油資本と激突し、みずから苦難の道を選ぶことになる。 連合軍の後を追って日本に上陸してきたのはスタンダード、シェル、タイ ドウォータ一、カルテックス、ユニオンの米英 5大石油会社。いずれも G H かなめ Qの石油顧問団 (PAG) に自社の代表を送りこみ、対日石油政策の要を握 った。賠償使節団はわが国の製油所を「スクラップにせよ」と勧告し、石油 業者を震えあがらせた。政府当局は G H Qの顔色をうかがうばかりで、まだ 何も自主的な石油政策など持ち合わせていなかった。 佐三はこの事態を憂慮、し、すでに昭和 2 1年 9月、「建議書j を書いて「日 本の石油市場を国際石油カルテルの支配と搾取から免れしめよ」と政府当 局、業界に訴えた。だが、彼の提言は身のほど知らぬ暴説として葬り去られ た。それでも彼はたびたび、建議書を書いて訴え続けた。 2 2年 、 G H Qの指示で石油公団が発足した際、その指定業者をめぐって出 光排除の画策が隠然と進められた。出光再起の足場を奪っておこうという同 業者の共同作戦であった。だが、この画策は失敗に終わり、出光は東京はじ め全国に 2 9の公団指定庖を取りつけて、業界復帰の第一歩を踏み出す。 4年、石 米ソの冷戦激化によって対日政策が大きく転換し、石油業界では 2 1>が発足。この時も出光の指定に 油公団に代わって新しく元売会社制〈註 1 対して猛然と反対運動が起こったが、佐三はあらゆる情報をつかみ、機先を 〈 註11>石油公団が一元的に行なっていた石油製品の買い付け、販売業務を複数の民間会社(元売会社)に行 なわせる制度。販売数量や価格には統制の枠がはめられていたが、自由競争化への第一歩となった。 1 6 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 制 して元売会社の指定を勝ち取る 。 これで出光は完全に業界復帰を果たし、 日石など 9社と共に同じスタ ート ラインに立つことにな った。佐三 が 「実 力 で取 ってみせる 」 と自力復帰を 宣言 してから、およそ 4年後のことだ。 だが、出光の前途は多難を極める 。元売会社制の発足と前後して、 GHQ はそれまで閉鎖していた太平洋岸製油所の再開と原油輸入を許可した。 実は そのころまでに日石はじめわが国の 主要 な石油会社は 、米英大石油会社の 差 し出 した原油と資金と技術の 3つの 思恵の前に屈服し、自社の株式、設備、 販売組織を奪われて外資の軍 門に降 ってしま って いたのである 。 国際石油資 本の巧妙な戦略であ った。佐 三 がかねて建議書で訴え憂慮していたことが現 実になったのだ。 出光は 当時まだ製油所を持 っておら ず、また元売会社指定後、日石と の関 係 を絶たれて石油製品の供給源を外油社に求める必要は 他 のどの会社よりも 大きか った。 それで佐三 は他社に先駆けて 2 1 年 ころからカ ルテ ックス、スタ ンダー ド、シェルなどと版売交渉を進めていた 。 だが、 いずれも不調に終わ った。 交渉 過程 で 外 油社 は出光 の 経営権 に ま で くちばしを入れてこ よ うと し、佐三 は出光 の主義方針や経営の 独立をおびやかす一切 の条件を拒絶 した からである 。 こうして 外資提携の 糸をみずか ら断ち 切 った出光は、国際石油資本とその 傘下に入った 外 資 系 各 社 を 敵 に 回 し て 徒 子 空 拳 、孤独な戦いを強いられ、 「民族資本・民族経営」 の険しい道を歩むことになる 。外貨割り 当ての上で 原 油輸 入 の 優 先 、 製 品 輸 入 の 抑 圧 という消費 地精 製 主 義 の 石 油 政 策 に よ っ て、 出光の製品輸入の道は狭く閉ざされた 。各社間で製品を融通し合うジョ イ ン 卜・ユー ス制 〈 註1 2> さえ 撤廃されようと した。 これは 出光にとって i l 技場 で糧道を 断 たれる ようなものである 。 2 6 年 6月、佐三は 「 消費者本位の石油政策 Jを書 いて自己の所信を 世に問 い、政府当局 に製 品輸 入の自由 化 を厳 しく求 めた 。 だが、それが実現す るま でには、 まだ長い悪戦苦闘の日々を余儀なくされた 。 〈 註1 2>元売会社制の施行後、各元売会社の販売力や製品配分比率と貯油施設能力との不一致による供給難 を緩和するため、いったん油槽所在所有する元売会社に払い下げた石油製品を各社の配分比率 にも とづいて転売するようにした制度。 1 7 日本が講和条約の締結によって独立の第一歩を踏み出したころから、佐三 の采配が国際的な軌道を描き始める。外貨編成権その他の石油行政権が GH Qから日本政府に移管し、昭和 27年 5月、出光は初めてガソリンの輸入外貨 j 8 0 0 0t)を駆 割り当てを受けると、新造の自社運航タンカー・日章丸(17 ってロスアンゼルスから高オクタン{日I Iカ。ソリンを輸入。凶 l 付市場ではまだ低 質高価なか、ソリンが売り買いされていた時期で、輸入ガソリンは「アポロ」 のブランドで飛ぶように売れた。 寺、輸入先の石油 ところが、日章丸がふたたびロスアンゼルスに向かった H 会社から「こんどの注文は断わる Jという電報が出光の本社に入った。国際 石油資本の圧力によるものであることは明らかであった。 佐三は!日l 髪を入れず日章丸宛、「パナマを越えてヒューストンへ行け j と 打電した。すでにアメリカ駐在の社員を走らせ、独立系の石 i l 1会社を輸入先 として探させていたのだ。 だが、│間もなくその石油会社も押さえられ、出光はふたたび新しい輸入先 を探す必要に迫られた。そんな時、出光の面前に浮かび、あがってきたのが、 国際石油資本の支配から離脱したイラン石油であった。 7. 飛 躍 イラン石油輸入の経緯についてはさきにのべたが、その道が次第に狭く閉 ざされる ~II で、佐三は次の新しい飛躍の構想を固め、着々と準備を進めてい た。近代的大製油所の建設がそれである。 3 2年 3月、徳山湾に臨む旧海軍燃料廠跡の広大な敷地にめくるめく白銀の 大製油所が全容を現した時、人ぴとはアッと声をあげた。そこはほんの 1 0か ざんが u 月前までは、赤さびた鉄骨とコンクリー卜の残骸を曝した草ぽうぼうの荒涼 とした土地だったのである。当時、「これだけ統ーした設計に基づく最新式 の製油設備を持つ製油所は国内はもちろん世界中にも例がなしづと言われた ほどの近代的大製油所。いかに物量と技術を誇るアメリカでも、これだけの 1 8 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 製油所を建設するのに最低 2か年は必要で、ほかの国だと 3年はかかると 言 0か月でやりとげたのだから、 人びとが われた大工事である。 それをわずか 1 驚いたのも無理はなかった。 この製油所の設計 ・監督に当たったのは、 アメ 3>である。 リカの UO P (ユニ バ ーサル ・オイル ・プ ロダク ト社) <註 1 0年 秋 、 佐 三はみず から渡米して U OPの ベ ネ マ 社 長 に 全 それよりさき 3 し 、 、 自分の構想する製油所の設計 ・監督を申し入れた時、 こう 言 った。 「 私の会社はこれまで人の力を中 心 に事業をやり、 それを力強く育ててきた 会社である。 このたびの製油所建設も、ただ単に建設そのものが目的ではな く、建設を通じて 人 聞の偉大な力を現すこと、これが 真の 目的である。 それ をこんどはあなた方アメ リカ人とわれわれ日本人との国際協力の形で実現し たい 」 と 。 この製油所建設には、佐三の采配の下、 出光の総力が結集された 。 これに 携わった業者たちも出光マンの熱気に動かされ、年末年始の休日も返上して 1 1 0カ月完成 Jに挑んだ。 U O Pから派遣された技師たちも、 ビジネスを度 10カ月完成 」 は 、 こうした日米 外視して夜中でも飛ぴ起き現場に走 った 。 1 協力の成果であった。 徳山製油所の完成は、 m光快進撃の合図となった 。 これで輸 入 ・精 製 ・版 売の 3部門を完備し、 「民族資本 ・民族経営」 の道をまっしぐらに走り始め る 。 もはや窮屈な製品輸入のみに依存する必要はない。 自社のタンカ ー を駆 使して世界の豊富な産油地域から安い原油を輸入し 、 自社の近代的大製油所 で消費者の ニー ズに適合した製品を生産し、 そして独自な「大地域小売業」 の版売網を通じて直接、消費者に製品を供給する。 これは佐三 が創業当初か ら一貫してきた 「 生産者より消費者へ j の理念を、 より徹底した形で実現し たことになる。外資のくびきはま ったく掛かつておらず、 出光の経営行動は 自由であった。 0 年におよぶ 佐三はそれよりさき 3 1 年 8月 、 アメリカのガルフ石油会社と 1 0万 t級タンカ ー 2隻の用船契約を取り 長期の原油輸入契約を結び、 同時に 1 〈 註1 3)シカゴに本拠をお く石油精製技術の開発専門会社。 この分野で の草分 け的存在 であり 、最新 の 技 術 について 積極的な開放主義をとっている こ とで知られてい る 。 19 つけていた。製油所の操業に備えて安定した原油の供給を確保するためであ る。その際、国際石油資本のひとつであるガルフと対等な立場を貫き、出光 の経営権に指一本触れさせなかった。さらに用船契約では USMC (アメリ カ海事委員会)基準レートの 45%引きという破格の低レートを獲得した。こ れは当時、外資提携の新しいあり方を示すものとして大きな反響を呼んだ。 4年 3月、こんどはソ連と向こう 6か年、 8 2 0万 tの原油輸入契 彼は昭和 3 約を結ぶ。国際価格の半値に近い価格であった。 出光がソ連原油の輸入を始めると、外資系各社がいっせいに「ソ連原油の 輸入価格は政治価格だ、赤い石油のダンピングだ」と言って攻撃し、また米 国防総省が出光からのジェット燃料購入を差し止めたりした。だが、佐三は それらの非難や圧力に屈することなく、契約どおり輸入を続行した。 8 . 自由化の戦い 3 7年 1 0月、世界最大のタンカー・日章丸(3世 、 1 3万 2 0 0 0t)の建造は、 マンモスタンカ一時代の幕開けとなった。増大する需要に対応して輸送力の 増強と経済性を求めた佐三の構想と決断によるものである。当時、それは冒 険的な試みであったが、彼は時代の先を読む的確な洞察力を持っていた。 日章丸は就航すると、巨大な浄力くパイプライングとして日本と中東を結 0 0万 k lの原油を運んで石油の安定供給に絶大な び、年間 8、 9回往復し約 1 威力を発揮し始めた。すると、他の石油会社、船会社も競ってマンモスタン カーの建造に乗り出した。 2 1万 t)はじめ次々と 2 0万 t 佐三はその後も時代の先端を切って出光丸 ( 級の超マンモスタンターの建造を推進し、間もなく出光は合計 1 0 0万 tを超 える大タンカー船団を擁することになる。 0 0万坪(約 3 3 0万耐)の敷地を求めて、ここに東洋 彼はまた千葉・姉崎に 1 最大級の近代的大製油所建設を進め、 3 8年 1月に完成させる。この建設は精 製能力、工費共に徳山製油所のそれを 3倍も上回る大工事であったが、工期 20 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 8か月という、これまた徳山の記録を破る信じ難い超スピードで実現したの である。しかもこんどは外国会社の手を借りず、日本の業者と技術だけで達 成した。その背後に、佐三の強い意志と采配があった。 出光はこうして輸入・精製部門を一層強化し、これに独自な「大地域小売 業 Jの販売部門を加えて戦後、国際石油資本に支配されていた日本の石油地 図を大きく塗り替えていく。すでに当時、スタンダード石油を抜き、日石に 次ぐ第 2の石油会社に進出していたが、その後も民族系のトップに立って躍 進を続けた。アメリカの経済誌『フォーチュン』が毎年発表する「世界の大 企業2 0 0社 J(アメリカ企業を除く)の中に出光を数えあげたのは 1 9 6 3年(昭 和3 8 )。その 2年後には「ベスト 1 0 0社」の中にランクした。終戦直後、倒壊 の危機に曝されていた出光は、そのころ「世界のイデミツ Jに飛躍していた のである。 この復活と発展は「日本資本主義史上の奇跡 Jとさえ言われる。それほど 驚異的であった。戦災と占領政策によって壊滅状態にあったわが国の石油会 社は、国際石油資本の傘下に入ることなしに再建不可能と考えられていた。 だが、佐三は不平等な外資提携を屈辱的なものとして厳しく拒否し四面楚 か 歌、孤立無援の中で経営の活路を切り聞き、驚異の復活と発展を導いてきた ので、ある。 7 ところが、この躍進を血むように出光の前面に厚い障壁が立てられた。 3 年 5月に制定された石油業法〈註1 4 > がそれである。石連(石油連盟)が同 法に便乗してすぐに生産調整に乗り出した。 佐三はそれが石油の自由化に逆行し消費者国民の利益を犠牲にするものと して終始、反対し続けた。新鋭の千葉製油所も強制された生産枠に縛られて 充分稼働できず、消費者の需要に応ずるためには他社の製品を拾い買いしな ければならぬという不合理を強いられた。 8年 1 1月、石連 彼は再三、生産調整の撤廃を追ったが容れられず、ついに 3 脱退を決断し、出光独自の生産計画を実行に移した。 〈 註1 4 >貿易自由化に際して、過当競争による混乱を避け石油業の健全な発展を図るために制定された。通 産大臣による供給計画の作成、石油精製業および設備の新設増設の許可制などが盛り込まれている。 2 1 彼 の 不 敵 な 行 副J はホ一匹狼かの異名と共に広く人びとに強烈な印象を与 え、国会でも論議を呼んだ。根本に政府当局の石l i fJ政策を厳しく批判し、そ の変更を迫るものがあったからである。 政府当局はそれにもかかわらず石連の力に押され、出光に対して勧告権を 発動しようとした。その 1寺、佐三は記者 1 ' 1 1 の質問に答え、こうのべた。 「出光が業界の生産調整に従わないという理山で、通産大臣が石油業法にも とづく勧告を mしたとしても、われわれは消費者本位の精神に従って正しく J I Jに気にはとめない。 行動しているのだから、 ; とにかく石油業界に対する政府の干渉は、あまりにも強過ぎる。企業の自 主的な判断に任せておけば、おのずから好ましい業界秩序ができるはずで、 消費者の立場を無視した供給制限をやらせているのは間違いだ J 明治の反骨精神はなお熱く彼の体内を貫流していた。政府当局は彼の強硬 な態度の前にたじたじとなり、勧告権を引っこめて斡旋案に切りかえた。実 は生産調整は独禁法違反の疑いもあったのである。 i l J J i l lは好余山折の末、ようやく昭和 4 1年 1 0月、政府当 結局、この生産調整 l 局がその撤廃に踏み切り解決した。石油業法はその後も生き続けたが、とも l l業界はじI r l l化 へ の 第 一 歩 を 踏 み l H かく生産調整の廃止によってわが国の石 i したのである。それと共に出光は石連に復帰した。 佐三はそれを機に 1 0 )J1日、社長の座を後進に譲り、会長に就任した。 H 寺 かくしゃく に数えの 8 2歳。 だ が 、 そ の 後 も 嬰 擦 と し て 全 m光の'1'心にあった。 9 . "人間尊重 7 0年 庁 4 3年 1月、ソ述日J I 首相!のパイパコフ〈註 1 5 > が来日し、その折、 t l ' l光 の 千 葉製油所を視察したことがある。伎はグリーンベルトに縁どられた美しい近 代的大製油所のたたずまいに日をみはりながら、この工場に出勤簿もタイム レコーダーもなく、それに罰則も権限の規定さえもないことを知って鷲 H 英し た。社会主義の母│司で実現し得なかった姿が、そこに現前していたからである。 〈註 1 5 >ニコライ・パイパコフ。 1 9日 。政治家。 2 8歳で共産党に入党。 4 6年ソ連南・西地区石油工業相、 4 8年連邦石油工業相、 5 5、65-85年国家計画委議長などを歴任。 6 6年より 1 0年間、副首相を務める。 2 2 イラン石油輸入に賭けた出光佐三 視察を終えてから出光会館でパーティーが聞かれたが、 その席上、彼は 「私たちはこの 1 7日間の滞日中に各地の工場をいろいろ見てきた。ほかのこ l rで‘出光の とは専門家でないからよく分からないが、今まで見てきた工場の r 製油所は日本訪問の最後を飾る、ずば抜けて立派なものであった」 と賛辞を 呈した後、 こう質問した。 「ただ私にはどうしても理解できないことがひとつある。こんな大きな工場で 罰則や権限の規定がなくて、どうしてあんなに人を働かせることができるのか」 これに佐三が即座に答えた。 「私はこれまで一度も社員を全杜の利益のために使うとか働かせようなんて 考えたことはない。 どうしてみんなを立派な人間として育てるか、 それが私 のいつも心掛けてきたことである。人を育てるのに罰則や権限の規定なんか 要らない。 その根本は社員に対する信頼であり愛情だ。 そこから自然に人間 の真に働く姿が現れてくる。 お金や規則で、縛って人を働かせようなんて、 と んでもない。 それは人間侮辱というものである」 すでに一般にも知られているように、 出光には明治末の創業以来、 出勤簿 もタイムレコーダーもなく、賊首、定年制もない。さらに罰則や権限の規定 もなく、労働組合もない。 このないないづくしの中にあるのが、社員の相互 4年の伊勢湾台風〈註 16) や 3 9年 信頼と活力であり、 強固な結束力である。 3 の新潟地震〈註 17) などの災害時に、真っ先に給油所を復旧しタンクローリ ーを走らせたのは出光であった。 このしミわゆる 「出光の 7不思議」に象徴さ れる社風、個性は、 むろん佐三の人格の投影であり信念の所産である。 6年 3月 7日 、 9 7歳の天寿を全うし、波乱に満ちた信念の生涯を閉 佐三は 5 0年におよぶ経営行動の軌跡には、「士魂商才」と共に「人間 じたが、 その 7 尊重」の文字が深く刻みこまれており、不滅の光芭を放っている。 それは危 機的状況の中にあって現代の経営を担うビジネスリーダーたちに対して、絶 えず大きな示唆と激励のメッセージを送り続けるに違いない。 〈註 1 6 )9月26-27日。九州をのぞく各地に風水害と高潮をもたらした台風 1 5号のこと。全国の被害は死者・ 行方不明 5 1 0 1名、建物倒壊 1 5万棟と戦後最悪のものとなった。 〈註 1 7 > 6月1 6日午後 l時 1分発生。震度 M7.5。新潟市を中心に被害は死者2 6 名、住家倒壊 1 9 6 0 棟におよ んだ。 2 3 主要参考文献資料 『我が六十年間.1 ( 3巻、追補 l巻)出光佐三著、非売品 『人間尊重五十年』出光佐三著、春秋社刊 『出光五卜年史J(正・統)非売品 『ペルシャ湾上の日主主丸』非売品 『評伝出光佐三』高倉秀二著、プレジデント社刊 〔。高倉秀二 編集・制作・発行:株式会社プレジデント社〕 24
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