水林 彪報告をめぐる質疑応答

水林 彪報告をめぐる質疑応答
(第22回:2013年1月13日)
的」という言葉の中に,
「世俗的」・「世俗化
発言者一覧(発言順)
する」という意味もまた含まれているように思
われるが,この点はどうお考えか。
高 橋 利 安(広島修道大学)
○水林彪(報告者・早稲田大学) まったくご
山野目章夫(早稲田大学)
指摘の通りである。ここでは,民法との関係が
水 島 朝 穂(早稲田大学)
出てきたため,civil を「民事的」と訳すこと
蟻 川 恒 正(日本大学)
にした。しかし,本来は,civil という語を一
語に置き換えることはほとんど不可能である。
○高橋利安(広島修道大学) まず,言葉の問
civil には,religieux(宗教的)ではないと
題として,英語で言えば civil という語を,水
い う 意 味 も あ る。1791年 憲 法 に は, 婚 姻 は,
林先生は報告において「民事的」と訳された。
contrat civil であると規定されているが,これ
この点について,例えば,私の専門のイタリ
は要するに,婚姻は宗教的なものではなく世俗
アの選挙法をみると,有権者の要件を定める規
的なものであるというニュアンスである。さら
定では,年齢の他に,
「civil and politic rights
に,civil は,militaire( 軍 事 的 ) で は な い,
(diritti civili e politici)」を有していることが挙
criminel(刑法的)ではない,commercial(商
げられている。イタリアの研究者はこれを「市
法的)ではないという意味もある。
民的および政治的権利」と訳すことが多いもの
しかも,civil の中には,政治性もまた一定
の,私はこの訳は誤訳だと考えている。むしろ,
程度含まれている。1791年憲法で言えば,確か
この civil は,「民事上の権利能力者」
,つまり
に参政権的なものは droits politiques に含まれ
「民事上フルに権利を行使することができる者」
てはいるものの,基本的人権として我々が理解
と 理 解 す る 必 要 が あ る の で は な い か。 こ の
している表現の自由などは,droit civil と表現
civil という要件に加え,多くの場合は,国籍や,
される。それゆえ,日本の民法という観念が狭
所得制限その他について「political」という要
いこともあり,civil を「民事的」と訳すこと
件が挙げられている。その意味で,水林先生が
もまた,狭く限定しすぎて,適切とはいいがた
civil を「民事的」と訳されたことは,私は賛
い。このように,civil は本当に訳すことが難
成である。
しく,
「civil な権利」と言うほかないくらいで
そこで進んで,この市民革命の時期において,
ある。
civil という語には「世俗的」という意味があ
○高橋 civil に政治性があるということから
るのではないか。イタリアにおいても,この革
言えば,civitas 系の言葉が歴史的展開の中で
命期には,市民社会の中にある宗教的な権力・
civil となったことからすれば,国家・公権力
秩序を破壊するという意味からいえば,
「民事
を commonwealth 系の言葉とは異なるものと
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し て 用 い た の が マ キ ャ ヴ ェ リ で あ っ た(lo
置づけられるのか。
stato)
。そうすると,水林先生が「原型」と指
また,市民革命後の国家をどう捉えるのかと
摘された当時のフランスにおいては,この国
いう問題について,1791年憲法の段階は,封建
家・公権力はどのような形で議論されていたの
制は崩れたものの新しい経済秩序の過程である
か。
という指摘が今日の報告でもなされていた。例
○水林 マキャヴェリのいう stato は,フラン
えばマルクス主義法学のような観点から見ても,
ス 語 で 言 え ば,État で あ る( 英 語 で 言 え ば
それを近代の原型とすることは可能なのか。
State である)。état には「身分」という意味
○水林 まず,ベルギー憲法やカディス憲法に
もあるが,絶対主義期においては,単数・大文
ついては全く知識がないので,残念ながらお答
字の État は絶対主義国家のことを指すように
えできない。
なった。しかし,政治社会のことを人権宣言や
次に,「近代」という語は,それ自体として
1791年憲法は,État という語を基本的に用い
は内容を欠いているものである。私の言う「近
なくなる。人権宣言や1791年憲法では,asso�
代」は,我々が通常「近代」と思っているもの,
ciation politiques や société という語で,政治
「近代憲法」と思っているもの,あるいは,そ
社会が指示されるようになる。1791年憲法には
う思ってきたもの,を指している。「近代憲法」
État が登場するが,立法権力によって強く統
の意味をそのように定義するならば,フランス
制された執行権力の長としての国王に関連する
の1791年憲法がその典型であることは,皆さん,
場面で,限定的に登場するにすぎない。
異論がないのではないか。
それゆえ,政治社会という語で抽象的に一括
資本主義というシステムを起点にして考える
する場合には,絶対主義期までは État という
ということになれば,そして,資本主義法が近
語が,革命期以後は société という語が「政治
代法であるという定義をすれば,今日取り扱っ
社会」に対応することになる。その société は
た1791年憲法や人権宣言は,近代法ではないと
civil そのものであるので,我々の言語体系を
いうことになるだろう。
相当変えない限り,なかなか理解が困難かもし
通常,1789年人権宣言や1791年憲法は「近代
れ な い。1791年 憲 法 に つ い て, 憲 法 学 者 が
憲法」と言われており,その意味では「原型」
droit civil を訳すと「市民的権利」となるが,
と想定されてきた。しかも,通常,1789年人権
民法学者の手にかかると「民事的権利」と訳さ
宣言と1791年憲法が「国家からの自由」という
れることになる。もともとは civil という一語
形で問題を立てたという理解がなされている。
であるにもかかわらず,日本の法学のある種の
しかし,それは果たしてそうだったのか,真実
役割分担関係の中で,そのように訳し分けられ
はそうではなかったのではないか。今日の報告
てきた。しかし,繰り返しになるが,civil は
の主題の一つは,そういうことであった。
もともとはそのように訳し分けられるような言
○高橋 フランス1791年が近代憲法の原型であ
葉ではない。
るという今日のご報告に対して,私としては,
civil という語は,日本語で「民事的」と訳
「実は,そうではない。フランスは例外である」
しても,「市民的」と訳しても,あまりにも零
と言えるよう今後勉強したい。というのも,
れ落ちるものの多い根本的な概念ではないかと
ヨーロッパ大陸においても,ドイツ型ではなく
考えている。
とも,スペインのカディス憲法や,ベルギー憲
○高橋 言葉の問題から離れると,報告では,
法も,ひとつの有力な「型」であるということ
1791年憲法体制がA型,近代の原型であると位
を,今後勉強して問題提起してみたい。
置づけられた。そうであれば,ベルギー憲法や,
○山野目章夫(早稲田大学) 1946年日本国憲
スペインのカディス憲法などは,どのように位
法の奴隷的拘束の禁止や児童酷使の禁止を,ど
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のように深めて読むのかという観点からすると,
用説を採られる。国家は人権侵害を行うものと
憲法は基本法,民法などは具体化法という今日
しては最も恐ろしい存在であるという観点で,
の水林先生の報告のテーゼは,いろいろ気付か
議論が組み立てられているように思われる。そ
される点があった。
れは,山野目先生のご指摘のことに対する懸念
同時に,今の日本のここ何ヶ月かの政治情勢
が,大きいためではないだろうか。
と重ね合わせたときに,
「憲法は国の基本を定
○水島朝穂(早稲田大学) 日本国憲法の認識
める法である」という言い方の附随的な効果と
はAC型であるとされたが,解釈論として C
して,この議論は,
「憲法を変えて『美しい国』
型の比重を上げすぎると厄介な事態が生じかね
という理念を書き込もう」とか,
「憲法には国
ないということもある。
民の権利ばかり規定されており義務が規定され
例えばドイツ基本法は,ナチスに対する Ge�
���
ていない」云々の議論に,水林先生が意図して
gen-Verfassung であると同時に,ヴァイマー
いないとしても利用される恐れがあるのではな
ル憲法に対する Gegen-Verfassung でもあった。
いか。憲法が定めることの所管事項の「膨張」
ボン基本法は,社会権条項を持たず,直接民主
という方向を利するものにされてしまうならば,
制を拒否し,大統領の権能を抽象化した。そし
非常に残念なことであると案ずる。
て今日の関係で重要なのは,経済過程への国家
○水林 まったくご指摘の通りである。我妻栄
の介入ルートをあまりにも特定してしまうと,
先生の憲法論が,1954年からややトーンが変わ
「憲法の過剰」,つまり,経済の問題について国
り今日に至っているのも,それを懸念したから
家が介入しすぎる事態が生じるので,ある程度
なのではないかと思われる。今日の私の報告は,
一般的・大綱的な社会国家を掲げるにとどめ,
「歴史的作品としての日本国憲法はこのような
共同決定や労使間の問題をはじめとして社会権
ものであった。したがって,解釈論としても,
のようなものを憲法で定めることを敢えてして
その通りにすべきである」ということまでも,
いない。
主張するものではない。歴史を勉強している者
もちろん,そのようなものを憲法で定めるこ
として対象を正確に認識しようとすると,今日
とを期待する向きもあった。そして,世界には
のような議論になるというまでである。歴史家
そのような憲法ももちろん存在する。その白眉
としては,そのような懸念があったとしても,
は,1917年メキシコ憲法であろう。そこでは,
やはり歴史それ自体を曲げて描くわけにはいか
女性の授乳時間に至るまで事細かに定められて
ないということである。
いる。ヴァイマール憲法より2年前に,労働組
我妻先生が,戦後直後に主張していた議論,
合の要求書を憲法化したようなものが誕生した。
つまり,生存権的基本権とか協同体理念を強調
今日も話題になったベアテ・シロタ・ゴードン
する議論からその後トーンを変え,古典的な自
も,社会権にかかわる仔細なものを執筆したが,
然権思想や自由主義を強調する議論を行うよう
制定過程において大半は削除された。24条はい
になったということは,やはり重要な事実であ
まのようにシンプルな形になったものの,多く
ると思われる。今,山野目先生が指摘したこと
の問題に24条は対応できていると思われる。こ
は,おそらく多くの人々が懸念していることで
のように,憲法が事細かに「〜すべきである」
あろう。それゆえ,日本国憲法を歴史的に見た
という規定を置くという「憲法の過剰」の付随
場合の「本来の像」とは異なった解釈論が,一
的効果もあることは忘れてはならないと思われ
般的に行われているのではないか。例えば,芦
る。
部先生の教科書は,本来の近代憲法は,国家と
そこで,質問したいのは日本国憲法18条の理
国民の関係だけを規律するものではなかったと
解についてである。基本的に,この18条は,自
しつつ,実際の私人間効力の解釈論は,間接適
由権効果として奴隷的拘束からの解放や,例え
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ば徴兵制などに対する批判の論理として苦役か
か判別がむつかしい場合がある。というのも,
らの自由として議論されてきた。
奴隷も賃労働者も,生産手段を有していないと
今日の水林先生の報告では,奴隷制と見紛う
いう点で共通しているからである。封建制下の
賃労働制の禁止まで言及された。27条において
農奴と賃労働者・奴隷は極めてはっきりと区別
児童酷使の禁止は規定されているが,そのほか
可能である。前者は,生産手段を有しており,
に,一般労働者についてもいわば酷使が禁止さ
他人に従属せずとも生きていくことができる。
れていると指摘された。しかし,一般の労働者
これが封建制の下でのお百姓であった。これに
について,例えば労働基準法のように,一般に
対して,賃労働者と奴隷は,生産手段を持たな
は法律レベルで規律されているような,どの水
いがゆえに,必ず他者に従属することになる。
準の賃金であれば「酷使」に該当するのかとい
そういう点で,共通している。したがって,そ
うことまで憲法で述べていると理解してしまう
の間の境界線がよくわからなくなる場合がある。
場合には,逆に,そこには問題が生じることに
例えば『蟹工船』の描いた世界が,奴隷なのか
なるのではないか。
賃労働なのか。あのような状態にある人は,か
この問題に関連して,ドイツで,1950年代に
りに奴隷ではなくとも,「奴隷的拘束」状態に
社会的法治国家論争が行われたことが想起され
あるとは言えるだろう。GHQ は,戦前の日本
る(この点については,参照,
「森英樹報告を
資本主義のもとでの労働者や,地主制下の小作
めぐる質疑応答」季刊・企業と法創造6巻4号
人について,「奴隷化」された状態と見ていた。
179頁〔水島朝穂発言・森英樹発言〕
)
。その論
たとえば,GHQ の「農地改革覚書」(1947年12
争において,ボン基本法は社会主義的なるもの
月9日)には,「数世紀にわたる封建的圧制の
にまで開かれており資本主義をまるごと保障し
下,日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打
たものではないとして,社会国家的な解釈論に
破するため」というような表現が出てくる。
基づいて生産手段の私的所有に厳しい規制を加
1946年という時点においては,「奴隷的拘束」
えることも可能であるという議論があった。
は,社会科学的意味での奴隷制それ自体という
これに対して,日本国憲法の場合には,社会
よりも,それと見紛うような賃労働・小作人の
権について一歩踏み込んでおり,25条や,27条,
状態を指していたのではないか。そういうもの
28条が規定されている以上は,純粋なA型の憲
として連合国は,18条を定めたのではないか。
法とは異なっている。しかし,18条を水林先生
当時,純粋な奴隷制が社会的に問題となってい
のように強く読み込めるのかということが疑問
た時期ではないということも考えて,先のよう
である。やはり,18条は自由権として読み,水
な指摘をした。
林先生のような議論は27条で,法律レベルにお
さらに,「どれだけ詳細に憲法は規定すべき
いて行われるべきではないか。
か」,「どれだけ法律に委ねるべきか」という問
○水林 18条について言えば,憲法の教科書で
題と,「そもそも憲法に規定されることが適切
は,18条は憲法が直接適用を念頭に置いた条文
か」という問題は,やはり異なる問題であろう。
のひとつであるとしている。だとすれば,今の
ベアテ ・ シロタ ・ ゴードンの草案を見ると,極
質問は,「奴隷的拘束」の意味内容の問題とい
めて細々としたことまで書き込まれており,こ
うことか。
れは法律で書くべきものとはっきりと分かるも
○水島 18条全体の位置づけということになる
のまで書かれている。日本国憲法は,確かに,
かと思われる。
その草案をそのまま採用することはなかった。
○水林 奴隷制と賃労働制との,経済史学ない
しかし,質的には,社会的なあり方について指
し社会科学分野での理論的区別は明確であろう
示している条文として,18条その他は残った。
が,歴史的実例について,実際にはどちらなの
これは制定過程から見れば明らかではないだろ
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うか。日本国憲法は,旧体制との闘争のための
うことである。これは,職業選択の自由という
文書であった。農地改革は29条違反ではない,
憲法上の権利が実質化していく過程であるとも
むしろ,公共の福祉による財産権の制限という,
言える。それが,フランスの歴史において,民
この条文の趣旨にそっているものであると,我
法典の中で進んでいった。
妻先生は熱弁をふるったところでもある。
このことを,民法典であれば憲法改正に係ら
以上のように考えると,18条を法史学的立場
ないということも睨みながら,水林先生の描く
から読むならば,今日お話したようになると思
ような圧倒的な「本源的」世界像において憲法
う。今日の段階で,憲法解釈学としてこの条文
的な原則が民法で規定されていたということの
を解釈する場合,いろいろの考慮事項があるの
可能性につなげて考えると,民法典の持つ憲法
だろうが,少なくとも,歴史的作品としての日
的潜在性ということについて,その今日的意義
本国憲法18条は,今日私が述べたような意味を
を考えずにはいられない。このような考え方に
担っていたということは,銘記されるべきでは
ついて,水林先生のお考えを聞きたい。
ないかと考える。
○水林 実は,今日の報告では,時間の関係上
○蟻川恒正(日本大学) 以前,水林先生の
その論点をすべて割愛せざるを得なかった。そ
「近代民法の本源的性格─全法体系の根本法と
の部分を少し補足することにしたい。今日,フ
し て の Code civil ─ 」
(
『民法研究』第5号
ランスについては,1791年憲法が制定された瞬
〔2008年〕所収)を読んだときに,衝撃を受け
間における憲法と民法との関係をお話した。そ
たことをとてもよく覚えている。この論文で,
の瞬間では,憲法が基本法,民法はその具体化
とりわけ強く私の印象に残ったのは,近代とい
法として構想されていた。しかし,実は,それ
う言葉を使うかどうかはともかくとすれば,初
には重要な続きがある。
期近代のフランス民法には,およそ今の感覚で
1791年の憲法制定者は,憲法は,本来は統治
言えば民法とは観念できないような憲法的な原
機構を定めるだけのものであると考えていた。
則に関する条文が存在したということである。
これに対して,人権宣言の言葉で言えば droits
この論文では,水林先生は「本源的」という言
de lʼhomme et du citoyen,あるいは1791年憲
葉を用いられたが,法の本源性を考えるとき,
法の言葉で言えば droits naturels et civils は,
そこには,昨今の政治が容易には「利用」する
民法が規律するものであると,憲法制定者は考
ことのできないものを持つということに対する
えていた。ただし,1791年憲法は革命期の憲法
思索の芽があるように思われる。
であるので,統治機構を定めることを主目的と
そこで,民法に憲法的なものが規定されてい
するものの,統治機構を革命的に再構築する事
ることの意味は,先ほどの山野目先生の議論か
業のそもそもの目的である人権についてもする,
らしても,とても重要ではないかと思われる。
とされた。しかし本来,constitution は,統治
憲法は,衆議院・参議院の3分の2と国民投票
機構のみを定めるものであり,その目的たる
の過半数で「動かせる」のに対して,民法は,
droit civil は民法典に規定されるべきものであ
まさに法律専門家の粋を集めた法制審議会で変
ると,考えられていた。革命的状態が落ち着き,
更される。フランス民法の歴史をひもとくと,
憲法は統治機構のあり方を定めるだけのものと
それまで無能力とされていた妻に対して1938年
なり,droits civils つまり人権は民法に規定さ
の法改正を重要な転機として行為能力が認めら
れるということになる段階が来れば,民法が
れるに至り,その重要な指標として妻は夫の許
société civile の基本法であり,憲法がその具体
可を得ずに職業に就くことが可能になった。注
化法になるというのが,1791年憲法制定者の構
意すべきことは,このことが,capacité civile
想だったと考えられる。さきほど話題になった
(民事能力)の概念のもとに規範化されたとい
日本国憲法29条3項は,フランス民法の545条
225
に相当する。なぜそのようになっているかとい
えば,droit civil が,フランスでは,人権と考
えられていたからである。そういうものとして,
フランス民法典は構想されたといえる。
今日は,そこまで議論をすると非常に込み
入ってしまうと考えられたので,その部分は割
愛したが,今,蟻川先生のご指摘を受けて補足
をすると,以上のようになる。
今日話題になった,憲法は政治的な手続で改
正できるのに対し,民法はそう簡単にはいかな
いということを考えると,民法はもう少し憲法
的なことを担って欲しいという議論は,魅力的
だ。
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