復興の最前線に立つ たつ お ― 参議院議員 平野達男 の国政報告 ― 東日本大震災により、亡くなられた方々に深く哀悼の意を表します。 永遠に、御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。 目 次 挨拶に代えて…………………………………………………… 1 写真で見る国政活動…………………………………………… 2 激動、震撼の六年間…………………………………………… 21 大臣として、復興の最前線に立つ…………………………… 28 六年間の主な活動実績(震災前)… ………………………… 47 挨拶に代えて 参議院議員として二期目、政策の実現、与えられた職責を果たすため、一所 懸命の活動をしてまいりました。皆様方からのご指導、お力添えをいただきな がらの、六年間でした。 そして、この六年間は、我が国の憲政において、そして歴史において極めて 大きな出来事の連続でした。 政権交代による民主党政権の誕生。 マニフェストで掲げた政策の実行に取り組みました。実現できたもの、実現 できなかったもの、明暗を分けました。 困難なゆえに先送りされてきた、社会保障と税の一体改革について、道筋を つけました。しかし、党分裂という大きな代償を払うことになりました。 3年3ヶ月後の総選挙による敗北、下野。厳しい国民の判断が下されました。 そして、2011.3.11東日本大震災。 巨大地震、大津波、そして深刻な原発事故、三つの事故が重なりました。国 内は言うまでもなく、世界を震撼させた未曾有の大災害です。 私は、被災直後から、被災者支援、復旧・復興の最前線に立ちました。 現場では、復興への懸命の取り組みが続いています。 本報告書は、私の参議院としての二期目、六年間の概略の活動報告です。 目を通していただき、ご批判を賜れば幸いです。 引き続きのご指導、ご叱咤の程、よろしくお願い申し上げます。 2013年4月吉日 参議院議員、前復興大臣 −1− 写真で見る国政活動 被災地を歩く 現地を知る。復興の基本です。 津波、地震被災地、そして福島には、頻繁に赴きました。実態把握につとめるととも に、自治体との意見交換、被災された方々との懇談などを重ねました。在職中の出張 は、140回、151日に及びました。 被災後の状況(大槌町、11.3.14) 町では大津波が原因で火災が発生。山火事へ拡大しました。まだ鎮火しておらず、下草があちこち燃え、煙 が濛々とたちこめる山道を自衛隊のジープで移動し、高台にある臨時の役場に行きました。そこから見た状 況です。町の中心部は、津波で破壊され、市街地で発生した火災による煙がまだくすぶり続けていました。 文字通りがれきで埋め尽くされ、海水も十分に引ききっておらず、この段階では、まだ町中に入ることはで きませんでした。 釜石市内の被災後の状況(11.3.13) 町の中心道路には、がれきや被災した車が多数ありました。商店街は、二階まで浸水し、津波の勢いで、多くの建 物が流失、あるいは全壊状態でした。道路の通行を確保するため、道路上のがれきの撤去作業がすでに始まってい ました。こうした迅速な取り組みが、全国から、続々集まってきた自衛隊、消防隊、警察などの救援活動に大いに 役立ちました。 −2− 大槌町の臨時の役場にて(11.3.13) 町役場も被災し、高台にある町の体育館施設に、臨時の役場 が設置されました。町の幹部職員に、現状についての説明を していただきました。 大槌の吉里吉里にて(11.3.14) 津波によって町は、壊滅的な被害を受け ていました。出会った町民の方に「よく きてくれた、頼むぞ。」と、腕をポンと たたかれました。 避難所にて(11.3.14) 高台にある吉里吉里小学校の体育館が、 被災者の方々の避難所となっていまし た。大勢の方々が身を寄せ合って避難さ れていました。自治会組織が中心とな り、食料や日常品の配分などにあたって いました。仮設住宅の建設には、時間を 要することから、避難所の環境改善は、 急務の課題でした。私の強い要望で、 3月17日に設置された被災者支援本部 (事務局長平野達男内閣府副大臣)が、 こうした任にあたることになります。 −3− 仙台港にて(11.4.24) 津波は、港湾施設にも甚大な被害をもたら しました。加えて地盤沈下と液状化によっ て岸壁などが大きく損傷。湾口の防波堤な ども倒壊しました。港湾は、流通の拠点。 特に、重要港湾の機能停止は、被災地の復 興はもちろんのこと東北全体、日本全体の 経済活動にも重大な影響が出ることが懸念 されました。道路の復旧とともに、港湾機 能の回復は特に急がれました。港湾局等の 職員はよく対応したと思います。 遠野市長と(11.3.13) 遠野市は、地震によって市庁舎が、全 壊状態となるなど大きな被害を受けま した。しかし、沿岸の津波被災地への 支援体制の立ち上げ、被災者の受け入 れ、被災地への物資の供給、情報収 集・提供などを行っていました。遠野 市のこうした取り組みは、今後の広域 防災のモデルとなります。 釜石市内にて(11.6.11) 菅総理の現場視察に同行しました。 宮城県亘理町の倒壊した海岸堤防の視察(11.7.24) 現地で、早期復旧・復興への要請を受けました。 −4− 倒壊した防潮堤背後にできた巨大な「運河」(宮城県亘理町、11.7.24) 巨大な津波は、防潮堤を乗り越え、被災地を襲いました。津波は、堤防を乗り越えると、堤防背後の砂地の 地面を大きく洗掘しました。それが原因となって堤防の内部の盛り土が流出し、堤体が崩壊していったと考 えられています。写真中央にある運河のようなものは、その洗掘によってできた溝に水がたまったもの。津 波のもつ破壊力の大きさがわかります。写真右側は防潮林で、黒松などは、地下水位が高いため、根が垂直 に深く張らずに水平に張っていたこともあり、成長木は、ほとんど根こそぎ倒木しました。 津波は第一波、第二波・・と繰り返し襲ってきます。越波しても倒れない堤防、根の張った強い防潮林であ れば、巨大な津波による被害も軽減できます。防潮堤の復旧にあたっては、堤防背後の一定部分をコンク リートで被覆するなどの対策をとった「ねばりづよい堤防」を設置します。防潮林については土盛りをして 地下水位を下げ、植栽として黒松に加え広葉樹も入れます。 陸前高田市、道の駅高田松原にて(11.9.10) 野田総理の現場視察に同行しました。 大槌町にて(11.10.12) −5− 野田村にて(11.11.5) 宮城県南三陸町にて(11.11.20) 地盤沈下した漁港 (女川町、11.11.20) 巨大地震時のプレート移動に よって、太平洋沿岸は広域で 地盤沈下が起こりました。宮 城県の女川町は、最も地盤沈 下の著しい地域で、約1mの 沈下がおこりました。満潮に なると海水は内陸へ上がって きます。この地盤沈下地域の 再生には、土盛りが必要で、 女川町では、高台移転建設で 発生する土砂を盛り土材とし て活用する計画です。また、 地盤沈下によって、港湾、漁 港での荷揚げ、荷下ろし作業 にも支障を生じることから、 全体の復旧に先立ち、岸壁の かさ上げが急がれました。 −6− 陸前高田市広田にて(12.5.25) 広田漁港では、水産物の集荷施設が応急復旧し ており、そこで作業する皆さんから復興に向け ての激励をいただきました。 大船渡市の仮設商店街にて(12.4.15) 本格的な商店街の復活を待つ間、仮設店舗 での営業が再開されています。仮設による 商店街が形成され、休日には市外からもた くさんのお客さんがくるとのことでした。 一日も早く、本来の商店街が再生されるこ とを願いつつの営業です。 防災集団移転促進事業造成工事起工式 (12.7.14) 宮城県岩沼市では、沿岸部の津波被災地から の内陸部への移転計画を策定し、約10haの造 成工事に着手しました。本格的な高台移転工 事の初めての着工です。 高台移転計画の現地予定地区での意見交換 (陸前高田市、12.8.4) 市街地がほとんど流失した陸前高田市では、 高台移転を中心とした住宅再建をめざしてい ます。平場の少ない陸前高田市では、山を切 り崩しての宅地造成となります。 −7− 田野畑村の高台移転用地で進む埋蔵文 化財調査を視察(12.8.24) 高台移転用地では、縄文時代の遺跡な どが多数見つかります。造成工事に着 手する前に埋蔵文化財調査が行われま す。仮設住宅に入居されている方々が、 一日も早い新住宅の完成を待ちわびて おられることから、調査は通常よりも かなり短期間で行うことにしました。 この現場では、竪穴式の住居跡の調査 が行われていました。この調査が終わ りしだい、造成工事に着手されます。 三陸沿岸道路(吉浜~釜石)起工式での挨拶 (13.2.25) 自動車専用道路の三陸沿岸道路は、復興道路 と位置づけ、復興の象徴、命の道路として、 工期を大幅に短縮することにしました。財源 は、復興財源を充当します。 水揚げされる海の幸 (宮古漁港、13.3.11) 漁船、漁港、市場、製氷施設 などが復活し、魚があがって きます。沿岸の定置網もほ ぼ復活しました。 釜石湾で進む湾口防波堤の復旧に向けた準備(13.3.11) 釜石湾では、湾口防波堤の建設に向けた準備が進んでいま す。背景にあるコンクリートが、旧湾口防波堤の一部。ほか の部分は、倒壊しました。越波しても防波堤が壊れなけれ ば、湾内の被害は軽減されたはずです。私は、国交省にこのこ −8− とを、いち早く指摘。こうした指摘を踏まえ、大津波でも倒れ にくい構造をもった防波堤が建設されることになっています。 仮設住宅に入居されている方々との懇談 仮設住宅に入居されている方々との懇談会も、できるだけ開催しました。復興の推進への要望などと合わ せ、物置の設置、水道管の凍結防止、風呂の追い炊き機能の追加、勉強部屋の確保など、仮設住宅の住環境 の改善に関する要望も多数いただきました。高台移転には一定の時間必要で、仮設住宅での生活の長期化も 視野に入れつつ、要望には沿った対応をしました。 石巻市内の避難所にて(11.8.21) すでに、避難所におられた多くの方々は、仮設住 宅、借り上げ住宅などに移っておられました。仮設 住宅への移動を前に、働く場の確保についての強い 要望をいただきました。 福島県南相馬市にて(11.7.24) 田野畑村にて(12.8.25) 釜石市にて、野田総理と(12.7.14) −9− 福島 知事、関係自治体首長などとの意見交換 (福島市内、11.9.8) 除染などへの取り組み状況を説明し、意 見交換を行いました。 飯舘村での説明会(11.4.16) 飯舘村、川俣町の一部地域は計画的避難区域 に指定され、区域の住民の方々には一定の期 間内に区域外への避難をお願いすることにな りました。福山官房副長官、松下経済産業副 大臣と両村の住民の方々への説明会に出席し ました。つらく、厳しい事態にもかかわら ず、整然と話を聞いていただきました。発災 後、これが私にとって初めての福島県入りと なりました。ここから、津波・地震被災地域 への対応に加え、原発事故による避難者対応 が私の任務となってきます。 県外へ避難されている方々との懇談 (山形市内、12.6.23) 放射能への不安から、小さなお子さんがいる お母さん方をはじめとして、約6万人の方々 が福島から、山形県、新潟県など全国各地へ 避難されています。こうした方々との懇談も 重ねました。避難先での生活支援、賠償、除 染など幅広いテーマにわたっての要望、意見 が出されました。 東電福島第一原発の敷地内にて(12.9.17) 完全防備での視察です。背後のタンクは1つが千㎥。この中 には、プラント内で発生した汚染水から、セシウムなどを除 去した汚染水が入っています。その量は増え続けており、こ れからも増えます。その処理が大きな課題となっています。 − 10 − 双葉町役場からの見た晩秋の街並み (12.11.10) 双葉町は第一原発に隣接する町です。 放射線のレベルが高く、帰還のめどが 立っていません。紅葉が鮮やかな晩秋 の風景ですが、一年半以上人の住まな い町の劣化は急速に進みつつあり、言 葉を失いました。町の再生、復興には 時間がかかりますが、まずは、説得力 のある復興計画の策定が不可欠です。 野草が繁茂する田圃 (大熊町、12.11.4) 耕作者をうしなった田圃には、野 草が容赦なく侵入してきます。こ の時期は、もともとは外来種であ る、セイタカアワダチソウが大繁 茂していました。 警戒区域内にある住宅の内部 (大熊町、12.11.4) プラント周辺の住宅は、事故発生後1年半程 度で、劣化が著しくなっていました。特に、 地震で屋根の一部が崩壊し、雨漏りが放置さ れていた住宅は、カビ繁殖、木材の腐食が著 しく進んでいます。外見は異常が認められな くとも、内部では、ねずみが繁殖し、家中が 糞だらけ、という住宅もあります。人が住ま ない住宅の深刻な状況は、将来の帰還計画に も大きな影響を及ぼす。私は、すぐに実態調 査を指示し、帰還するまでの間の住宅の管理 方策の検討を命じました。 大熊町のオフサイトセンター内部にて(12.11.4) 原発事故発生から、全員避難までの間、関係職員は、この場所 で徹夜で、情報収集や、国、県との情報交換、避難指示などの 任にあたりました。ボードには、当時の状況を示す書き込みが そのまま残されており、机の状態もそのままでした。当時の緊 迫した状態が、伝わってきました。 − 11 − 台風12号による被害状況の視察 (11.9.6) 9月3日に上陸した台風12号は、 広い範囲で記録的な大雨をもたら しました。特に紀伊半島では、降 り始めからの総降水量が1800㎜ を超えました。山腹崩壊、地滑り が多発し、河道閉塞も発生しまし た。死者・行方不明者が94名、多 くの住家被害をもたらしました。那 智勝浦市での視察の様子です。 平成23年7月新潟・福島豪雨による被害状況の 視察(11.7.31) 11年は大災害が多発した年でした。7月27日か ら30日にかけて新潟と福島の会津を中心に大雨 となりました。新潟県では、五十嵐川などの信 濃川水系で、福島では只見地方で河川の氾濫、 地滑りなどで大きな被害が発生しました。三条 市内にて。後ろは泉田知事。 桜島国際火山砂防センターの視察(12.1.22) 桜島山麓の砂防対策の現状を視察しました。うしろは、 噴煙をあげ、活発な火山活動をつづける桜島。 − 12 − 復興庁の開庁、復興大臣に就任 (12・2.10) 復興庁設置法は11年12月9日、 第179回臨時国会で成立しまし た。本格化してくる復興を強力 に推進するためには、新たな組 織の設立が不可欠との認識の 下、復興庁の設立が決まりまし た。この成立を受け、私は設立 を急がせました。 12年2月10日復興庁が開庁され、 私は初代復興大臣に就任しまし た。 県内の方々との懇談 岩手県内からも多くの団体、グループなど の皆様方に、復興庁に来ていただきました。 復興推進に向け、さまざまな提案、要望、 激励をいただきました。 岩手県商工会議所の皆様と(11.9.14) いわておかみかいの皆様と(12.3.5) いわて生活協同組合の皆様と(12.6.5) − 13 − 各国の防災担当大臣などとの面談 東日本大震災には、世界中から人的支援、物資の支援などをいただきました。 また、各国の防災担当大臣、国際機関の責任者の方々が、現状のヒヤリングと復興への取り組みへ の激励に駆けつけていただきました。東日本大震災の教訓は、日本から世界に向かって積極的に情 報発信し、共有しなければなりません。 ワルトストロム国連事務総長特別代表 (防災大臣室、11.9.9) ローゼンタール・オランダ 防災大臣 (復興庁、11.10.17) 世界経済フォーラムにて (バンコク、12.5.31) 東日本大震災の概要、復興の現状 と課題などについて基調講演をし たあと、パネル討論に参加。日本か らは私のほか竹中平蔵氏が出席しま した。 − 14 − 野田内閣の発足 初閣議後の「雛壇」。私は、東日本大震災復興対策担当大臣として、菅内閣に引き続きその任にあた ることになりました。12年2月10日に、復興庁の発足により、初代復興大臣となりました。野田内 閣は、二回改造を行いますが、私は、交代することなく復興の最前線に立ちました。 − 15 − 東日本大震災などをめぐる国会活動 衆参の本会議、予算委員会、復興特別委員会などで、たびたび大臣答弁を求められました。野党か らは、復興が遅いとの厳しい指摘を繰り返しいただきました。その一方、建設的な意見、提案も数 多くいただき、それらは、政策へと反映させました。また、復興関連法案は、国会では、最優先で 審議いただき、復興庁の位置づけ、特別会計制度の導入など、いい形での法案の議員修正もなされ ました。外交問題、特例公債法案を巡る攻防など、政局をにらんでの与野党間の駆け引きが激しく 展開される中、復興に関しては発災直後から、与野党の垣根を越えた取り組みがされました。 参議院本会議(11.11.1) 衆議院本会議(11.7.15) 衆議院本会議(11.11.24) − 16 − 衆議院予算委員会(11.7.6) 参議院予算委員会(11.7.21) 子供国会での演説 (12.7.30) 参議院の行事として全 国から子供を招待して の、子供国会が開催さ れました。テーマは復 興。委員会形式で議論 し、検討結果を本会議 において委員長が報告 する模擬国会となりま した。様々な提案が出 され、その提案と聞い た後の復興大臣として の見解を述べることに なりました。演説を聴 いた同僚議員、「平野 さん、めずらしく相当 力が入っていた」。 − 17 − 民主党成長戦略・経済対策PT総会 (11.3.3) 国家戦略担当副大臣として、内閣の成 長戦略への取り組みについて説明しま した。(議員会館会議室にて) 衆議院農林水産委員会にて答弁 (11.3.10) 農業戦略についての質問への答弁。 衆議院内閣委員会(11.3.23) 地域活性化担当の片山大臣の所信表明 演説に担当副大臣として出席。防災服 のままの国会出席。 参議院災害対策特別委員会での答弁(11.11.4) 防災担当大臣として、台風12号関係の質問への答弁に立ちました。 − 18 − 農林水産員会における委員長挨拶 (09.3.4) 委員会開催にあたっての冒頭挨拶で す。 鳩山内閣、参議院での初めての予算 委員会(09.11.6) 与党筆頭理事として、質問に立ちま した。与党議員としての初めての質 問となりました。人口減少社会にお けるマクロ経済政策などについて議 論しました。 予算委員会における委員長挨拶(10.8.4) 委員会開催に当たっての冒頭挨拶です。 − 19 − 衆議院復興特別委員会(11.10.5) − 20 − Ⅰ.激動、震撼の六年間 政権交代 2007年7月29日の参議院議員選挙で、私は県民の皆様方からの大きなご支援 により二回目の当選をさせていただきました。この選挙では、民主党が大躍進 をはたし、参議院における与野党の議席が逆転しました。参議院の国会運営 は、民主党を中心とした野党主導で行うことになりました。 そして、2009年8月30日の衆議院議員総選挙。マニフェスト選挙とも呼ば れ、民主党は、予算の大胆な見直しや、政治主導の政策運営などを掲げ選挙を 戦いました。結果、大勝利によって、民主党は308議席を獲得し、悲願の政権 交代が実現しました。 鳩山内閣が誕生し、菅内閣、野田内閣と続きます。 この間、予算の組み替えによって、高校授業料の無料化、農業者戸別所得補 償制度の導入、子ども手当の創設、診療報酬の見直しなど、マニフェストに掲 げた政策を次々と実行に移していきました。行財政の無駄の削減などにも大き な実績を残しました。しかし、一方で、公約として掲げた、高速道路の無料 化、ガソリンの暫定税率の廃止などは、財源が見つからず実現できませんでし た。また、沖縄の普天間基地の移設問題は混迷し、八ッ場ダムの建設などをめ ぐっては方針転換を余儀なくされました。 リーマンショックを契機に、米国では個人の過剰債務とともに、大きな財政 赤字をかかえる連邦政府の財政が問題となります。2008年財政危機といわれる ものです。財政問題は、欧州に飛び火し、ギリシャの国家財政破たんへの懸念 から、欧州の債務問題が深刻化してきます。こうした中、巨額の累積債務を抱 えたまま、毎年、債務を増やし続ける我が国財政について、民主党政権は危機 感を持ち始めます。消費税をめぐる議論が動き始めた背景には、巨額の債務を 放置しておくことへの強い警戒感が世界においても共有されはじめたことがあ ります。それは、党を2分するに至る厳しいテーマでした。その厳しさゆえ、 自公政権がひたすら先送りしてきた課題でもあります。 菅内閣の下で行われた2010年夏の参議院選挙は、この消費税を巡る菅総理の 発言などへの反発から、民主党は大きく議席を減らし、自民党の躍進を許して しまいます。この結果、参議院では、前回の選挙とは逆の与野党逆転が起き、 国会は再びいわゆるねじれ国会となりました。 2010年9月17日、菅改造内閣で私は、内閣府副大臣(国家戦略等担当)に就 任します。エネルギー政策、規制改革、環太平洋パ―トナーシップ(TPP)、 − 21 − 農業政策、人口減少社会の諸問題の整理と対応方針といった幅広い分野を担当 しました。 未曾有の大災害、東日本大震災、そして復興大臣就任 そして『あの日』がやってきます。 2011年3月11日14時46分、突然強い横揺れを伴った大きな地震が東日本一帯 を襲いました。 モーメントマグニチュードMw9.0という巨大な地震で、その直後M7を超 える地震が立て続けに発生しました。そして、この地震が、大津波を誘発した のです。三陸沿岸をはじめとして、高さ20メートルを超える巨大津波が押し寄 せました。湾口防波堤や海岸の防潮堤を、あっという間に乗り超え、市街地、 住宅地、農地などを飲み込みました。被災地域は、すべてが流され、ガレキの 海と化してしまいます。たくさんの方々が犠牲となりました。 そして、福島沿岸にある東京電力福島第一原子力発電所では、地震と押し寄 せた津波によって、原子炉の冷却に不可欠な電源をすべて失うという非常事態 に陥ります。やがて、炉の内部の燃料棒が、メルトダウンを起こし、3月12日 15時36分、1号機で水素爆発が起こりました。その後、3、4号機でも爆発が 起こり、建屋が大きく吹き飛びます。セシウムをはじめとした大量の放射性物 質が東日本一帯に飛散し、大汚染事故になってしまいました。 巨大地震と、大津波、深刻な原発事故という三つの災害が重なった、まさに 未曾有の大災害となってしまいました。 3月12日の朝、私は、官邸からの指示で、各省の災害担当職員とともに防衛 省の屋上からヘリで岩手に向かいます。岩手県政府現地連絡対策室長という役 に任命されての派遣でした。 この日から、1年9ヶ月、私は、大臣、副大臣として復旧・復興の最前線に 立つことになりました。 岩手県における被災の状況を見た私は、被災者支援のための対策本部が政府 内にないことに気づき、設置を強く官邸に要望します。当時、官邸は、東京電 力福島第一原子力発電所事故の対応に追われており、津波・地震被災地域への 対応は、各省に任せざるを得ませんでした。 3月17日、内閣府に被災者生活支援特別対策本部(以下、「被災者支援本 部」という。)が設置され、私は、副本部長兼事務局長を命じられました。岩 手を離れ、東京を本拠地として、被災現地の実情を見ながらの仕事に取り組む ことになりました。被災者支援本部は、被災者への物資供給といった役割だけ ではなく、ライフラインの応急復旧、仮設住宅の建設、ガレキ処理など初期の − 22 − 震災対応の統括本部となりました。テーマに応じて関係各省からなるチームを 立ち上げ、その運営と実施の監理にあたりました。 同本部は、その後、東日本大震災復興対策本部(11.6.24発足)、復興庁 (12.2.10開庁)へとつながっていきます。 2011年7月5日、私にとっては「青天の霹靂」といえる事態がおこります。 体調不良で松本龍大臣が職を辞したのです。代わって、私が、東日本大震災復 興対策担当大臣を拝命、防災担当大臣も兼務することになりました。 その後、復興対策担当大臣は、2012年2月10日の復興庁の発足にともない復 興大臣へと衣替えし、私が、初代大臣となります。 津波被害、原発被害の甚大性、特殊性に鑑み、これまでの災害復旧制度では とても間に合わないことから、先例にとらわれない、法的な枠組み、制度の構 築が必要でした。初期の応急対応がやや一段落してくるとともに、復興に向け た新たな制度設計や法律の制定に、関係各省との連携のもと取り組みます。現 場に合った、必要とされる制度の構築には、現場の実態把握とともに、声を聞 くことが基本になります。このため、被災地に頻繁に赴き、自治体、被災者の 方々の意見、要望を聞くことに努めました。 被災企業の復旧制度、漁業および関連施設の復旧制度、高台移転制度、特別 交付税を活用した基金制度、復興交付金制度、二重ローン対策などこれまでに ない制度を次々と創設しました。仮設住宅などでの避難生活の長期化が予測さ れる中、被災者の心のケアについての体制整備にも取り組みました。国の支援 制度にかかる被災自治体の負担も事実上なくしました。特区制度など法律の枠 組みも整備しました。 増税をお願いし、確保した復興財源です。自治体負担をなくしたこともあ り、災害時に異例なこととは承知しつつ、国、自治体の職員を問わず、コスト 意識の徹底を図りました。 私の在任中に、復興に必要な、主たる道具立ては一応揃えたと思っています。 しかし、それで万全ということでは、もちろんありません。制度は、これから も実態に応じた見直しと改善が必要です。復興の進捗状況によって、新たな制 度も必要になってきます。不断の取り組みとして、継続しなければなりません。 被災自治体の膨大な仕事量の増大に対応するための対策も急務でした。様々 な事務手続きの簡素化などに加え、民間の力を積極的に活用するため、事業の 発注方式の大胆な見直しなども行いました。さらに、絶対的な人手不足(マン パワー不足)に対応するため、総務省と連携しながら、知事会、市長会、町村 − 23 − 会などに人員派遣の強化をお願いするとともに、まちづくりに精通した外郭団 体、OBの活用など様々なルートによる人材の確保に奔走しました。 これから、復興の現場では、生業の復活に加え、住宅の建設、街の再生事業 が本格化してきます。計画、調整の段階から、実施の段階に移っています。用 地の確保、権利関係の調整といった土地問題、自治体職員、建設技術者といっ た人手の確保、重要が急増する資材確保がこれまで以上に大きな課題となって きます。現場の実情を踏まえた弾力的な対応と、県民をあげた取り組み、国の 強力な後押しが不可欠です。 社会保障制度と税の一体改革をめぐって 毎年の予算編成では、新規国債40兆円以上を発行しながら予算編成しなけれ ばならないのが我が国の財政の実態です。ここ数年は、税収を超える新規国債 を発行しながら予算編成を続ける「異常な状態」が続いています。その一方 で、高齢化が進行する中で、30兆円近くに膨らんだ社会保障費は、当面自然増 だけでも毎年1兆円ずつ増えていきます。将来の世代をにらみつつ、人口減少 社会に即した社会保障制度の確立と、財源の確保に筋道をつけることは、待っ たなしの状況です。 このことは、国際的にみても、対GDP(国内総生産)比率において他の先 進国をはるかに超えた、巨額の債務を抱える我が国には避けて通れなかったと 思います。特に、欧州の債務危機、米国における「財政の崖」問題が大きな テーマになっていた状況の中では、尚更です。問題を問題として認識しない日 本、先送りを続ける日本、そして経済成長も弱まり、ゆっくり衰退していく日 本。外国の主要メディアではこうした論調が顕著になってきています。高齢化 の進行、人口減少、社会保障制度改革、経済再生、膨らむ国の債務など、同様 な問題に直面する、あるいは直面しつつある先進国にとって、日本は反面教師 にさえなってしまいました。かつて、大きな経済成長と変化を遂げ、世界の 先進モデルと言われた日本が、「こうなってはいけない国」のモデルと成り下 がっているということです。あまり他党のせいにしたくはありませんが、困難 な課題の先送りを続けてきた自公政権の政策運営の結果でもあります。次の世 代に軸足を置き、こうした負の遺産の、これ以上の先送りは許されない、との 判断をしたのが、野田民主党政権でした。 こうして、社会保障制度と税の一体改革は、大震災からの復興と並び野田政 権の重要課題となりました。しかし、同時に、消費税の増税という国民の負担 増を伴うだけに、政権運営という観点から見れば、きわめてリスクの高い決断 でした、実際、このことを巡り党内は、大混乱となりました。 − 24 − 消費税の引き上げはマニフェストになく、約束違反である。税の議論をする 前に、財政の無駄の排除などやるべきことがある。社会保障制度の具体的な解 決策を示さず増税だけを先行させるのは、許されない――といった反対論が党 内で続出します。 一方、財政の無駄の排除は不断の努力で行う。社会保障制度の具体的な改革 には国民的な議論が必要で時間も要する。財源についての筋道をつけること は、財政運営、特に国債管理政策上急がれる。との観点で野田総理の決意は動 きませんでした。党執行部は、自民党、公明党の協力を得て社会保障制度と税 の一体改革におけるいわゆる三党合意に至ります。 消費税法の改正を含む社会保障・税の一体改革法案(一体改革法案)は、 2012年6月26日衆議院で採決、可決されます。しかし、民主党からは反対、棄 権の議員が続出します。こうした議員の中から、衆参合わせ50人が民主党を離 党し、民主党は分裂します。岩手選出の国会議員3人が小沢一郎先生と行動を ともにし、新党結成へと向かいました。 与党議員として復興の最前線に 厳しい状況でしたが、財政再建に向けた筋道を早期につけることは、これま での私の議員活動の中の主要課題でした。様々な議論があることは充分承知し ておりますが、社会保障と税の一体改革には賛成です。ただし、消費税をめ ぐっては、景気の動向を見極めること、被災地、低所得者へのしっかりとした 配慮が必要であることは言うまでもありません。 また、被災地の置かれた状況を常に目の前にして、復興大臣としての職を辞 し、復興の現場を離れるということは、ありえない選択でした。復興最優先 は、誰もがそう思っていたはずです。たとえ大臣でなくとも、復興に直接責任 を持つ与党議員である間は、与党議員として復興にかかわることは、被災地選 出の国会議員として当然の責務であると確信しておりました。 黄川田徹、階猛両議員もそれぞれの決断で、民主党に踏みとどまりました。 共通していたことは、復興推進を担う与党議員として、いかなる理由があろう と復興の現場は離れられないとの、復興へ取り組む堅い決意でした。 県議会にも動きは波及していきました。佐々木博県会議長をはじめ13人の 県議は私共と行動をともにし、民主党岩手県連も大きく二つに割れました。大 変残念な、しかし、お互い譲れない決断の結果でした。 「近い将来に国民の信を問う」 野田総理が、一体改革法案の参議院採決をめぐる混乱の打開に向け2012年8 − 25 − 月8日開催された三党党首会談の席上、野田総理が発した言葉です。この会談 によって一体改革法案は参議院で可決成立します。 解散総選挙、そして下野 野田総理の発した「近い将来に国民の信を問う」とは、一体いつなのか。マ スコミや国会の注目もこの一点に集中するようになります。 そうした矢先の2012年11月14日の国会における党首討論、自民党党首は谷垣 氏から安倍氏へと変わっていました。この場で、野田総理は意を決し、突如 (としか、わたくしにも言いようがありませんでした)、16日解散と発言しま す。懸案となっていた平成24年度予算にかかる特例公債法の成立などを条件と しつつでした。 自民党はこれを受け入れ、総選挙は12月4日公示、16日投開票と決まりま す。 総選挙の公示日、民主党の議席は前回選挙時獲得した308議席から230議席ま でに大きく減っていました。一体改革法案の衆議院採決をめぐり党が分裂した 後も、離党者が後を絶たなかったからです。 選挙結果は、歴史的な敗北でした。民主党の議席は、57議席と激減。かろう じて野党第1党の位置だけは確保しました。民主党の政策実現力に対する不信 感が原因との指摘があります。確かに、マニフェストで掲げた政策の中で実現 できなかったことがあります。謙虚にかつ重く受け止めなければならない事実 です。しかし、高校の授業料の無償化や、診療報償の見直しなど、人に着目し た政策は、予算全体を組み替える中で財源を確保し、実現しました。予算・行 政の無駄の排除、外郭団体の改革もかなりの成果をあげています。さらに、自 公政権が先送りを続けてきた社会保障と税の一体改革に道筋をつけました。 民主党の敗北の最大の原因は、党運営の稚拙さにあったと私は考えていま す。党内で、政策をめぐって激しい論戦が交わされることは、望ましいことで す。しかし、議論が白熱化する一方で、お互い妥協を全く許さず最後までまと めようとする姿勢が出てこない。特に、議論が膠着した場合、党が選んだ代 表、総理の考えを尊重するということもできない。こうした状況が続く中、政 府と党の一体感を、国民は感じることはできなかったのだと思います。 決定的であったのは、政権与党でありながら分裂、その後も離党者が後を断 たなかったことです。党の統治能力、ひいては政府の統治能力についての国民 の信頼性が大きく損なわることにつながっていきました。政策以前の政権運営 の根本的な問題だと思います。 − 26 − そうした中、岩手県においては1区階猛氏、3区黄川田徹が厳しい選挙状況 の中、再選をはたし、4区に急遽擁立した及川敏章氏も善戦しました。民主党 岩手県連の分裂により、厳しい、そして、多くの支援者の方々が戸惑う、つら い選挙でしたが、県民の良識に支えられた結果でした。 12月26日、官邸で閣議が開かれ、野田内閣は総辞職。復興大臣としての任も 解かれました。これが、最後の閣議となり、3年3ヶ月に及んだ民主党内閣も ここに幕を降ろしました。 参議院議員選挙に向け 自民党が大きく議席をのばし、政権復帰を許してしまいました。 安倍政権が打ち出した金融緩和によるデフレ脱却政策は、円安を呼び込み、 輸出の伸びへの期待からか、今のところ、株価も上昇しています。しかし、実 態経済が変わっていない以上、総選挙を契機とした今の状況がいつまで続くの かについては大きな不安が常につきまといます。 しかも、安倍政権の政策は、とりあえず、夏の参議院選挙で勝利し、国会の ねじれを解消することに主眼を置き、復興需要で建設市場が相当タイトになっ ているにもかかわらず、公共事業予算の上積みを主体とした補正予算を組むな ど国民受けするような政策を打ち出しています。 私にとっては、これまでの国政活動と、これからの私の政治姿勢を県民の皆 様方に問いながらの、三期目への挑戦となります。 − 27 − Ⅱ.大臣として、復興の最前線に立つ ―大津波災害からの復興を中心として― ●内閣における復興担当の役職 内閣府副大臣 岩手県政府現地連絡対策室長(11.3.12任命) 被災者生活支援特別対策本部 副本部長兼事務局長(11.3.17任命) 東日本大震災復興対策本部本部長補佐(11.6.27任命) 東日本大震災復興対策担当大臣及び防災担当大臣(11.7.5任命) 復興大臣(12.2.10任命) はじめに 東日本大震災について、何か書こうとすると、どうしても筆が止まってしまい ます。現場で接した多くの方々、その時に感じたさまざま思いが複雑に交差し、 一挙に浮かんでくるからです。 被災者、原発事故からの避難者、被災自治体の首長そして職員、ボランティ ア、自衛隊員、消防団員、警察官、全国からの派遣職員、医療関係者、国の職 員・・・・・・様々な立場、いろんな職種の方々が震災からの復興にかかわって います。そうした方々に接する中で、悲しさ、つらさ、怒り、挫折、祈り、感 動、勇気、使命感、決意、希望といった思いが切々と伝わってきたことが鮮明に 思い起こされます。 私は、東日本大震災発災直後から1年9ヶ月、大臣、副大臣として復旧、復興 の最前線に建ちました。この間、ほとんど休むことなく、一所懸命、職責を果た すことに専念して参りました。 東日本大震災からの復興、それは、巨大地震、大津波という自然災害からの復 興、そして、福島の復興、すなわち、東京電力福島第一原子力発電所の事故災害 からの復興、という2つの大きく性格を異にする災害からの復興です。 課題の多さ、範囲の広さを前に、苦悶することもありました。問題の大きさに 立ちすくむこともあり、精神的に追い詰められた時もありました。が、そうした ことを表に出す時間もありませんでした。 課題には、時間をかけず、できるだけ迅速に答えを出さなければならなかった からです。被災現場は、私を先頭にした国の復興担当者の長々とした議論、躊躇 − 28 − を待っていられません。東日本大震災仕様の必要な復興制度を作り上げる、法 律を制定する、人員不足、土地の問題、高台移転計画の具体化、効率的な発注 方式など膨大な事業量と実施の困難性を想定し、先手、先手と対策を講じる、 こうしたことに全力を傾けました。 復興はまだ道半ばであります。 これから加速させていかなければなりません。 復興については、関係者の地道な努力によって、着実に進んでいるものも多 くあります。例えば、水産業をはじめとして、働く場の復活は確実に進みつつ あります。三陸の復興は、まずは、海が支えると確信しています。 しかし、同時に、狭い仮設住宅などでの生活を余儀なくされている被災者の 方々がたくさんおられます。そして、二度目の冬が過ぎました。被災者の方々 が聞きたいことは、これまで何をやったかではなく、復興の槌音が大きく聞こ え、その姿がはっきりと実感できることです。 このことを思うとき、復興途中の段階で、1つの区切りをつけるような形 で、私が何か語るようなことは、まだ早いように思います。 しかし、その一方で、私が、大臣として何をしたかについて知りたい、との 要請が支援者の皆様方の間にあることも事実です。国政における活動報告をす るにあたって、これまでの私の人生にとって、最も重い役割となった震災復興 に触れないわけにはいきません。できるだけ、客観的に記述することを心が け、まとめることができれば、簡単なものであっても、今後の復興を考えるう えで、ささやかな参考になるかもしれません。 こうした、相反する思いがある中、私と復興との関わりについて、テーマを しぼって、思いつくままにまとめてみることにしました。 なお、本報告は大津波からの復興を中心としてまとめております。 福島の復興については、きわめて簡単な記述にとどめさせていただきました。 東日本大震災 あらためて、東日本大震災について振り返ってみたいと思います。 2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするモーメントマグニチュードMw 9.0という巨大地震が発生しました。それに引き続き、M7.0を超える強い地震 が40分間で立て続けに3つ発生します。東北の沖合深くでは、北米プレートの − 29 − 下に、太平洋プレートが潜り込んでいます。このプレート境界域が、南北約 450㎞、東西約200㎞にわたって動きました。 ちなみに、日本列島は、上記2つのプレートに加え、ユーラシアプレート、 フィリピン海プレートという4つのプレートがぶつかっているところにできた 弧状列島です。そのため、地震が発生しやすく、火山活動も活発です。 ゆっくりとした横揺れの地震が長く続くという、プレートが大きく動いて発 生する海溝型地震の特徴をはっきりと示す地震でした。しかも、短時間の中 で、立て続けに3つの余震が発生したため、揺れは、極めて長く続いたという 感じをもたれた方も多かったと思います。 そして、この地震が、大津波を引き起こします。地震発生から約30分後、ま ず、岩手県を中心とした三陸地方を襲います。宮城県の閖上地区など震源から 離れている地域には、約1時間後に津波が押し寄せました。津波は、場所に よっては20メートルを超えました。湾口防波堤を乗り越え、それを破壊し、さ らには、海岸の防潮堤を簡単に乗り越え、それも破壊し、住宅街をあっという 間に飲み込みました。巨木が根元で真っ二つに折れる、ビルの壁面を壊し大き な穴を開ける、鉄筋コンクリートの支柱が大きくえぐられて中の鉄筋が露出す るなど、すさまじい破壊力を持った津波でした。 地震によって、多くの建物が破壊されるとともに、ダム、河川堤防の決壊が 起きました。関東地方を中心に地盤の弱い地域では液状化が発生し、家が傾い たりしました。さらに、沿岸部では、地盤沈下が広範囲にわたって起こり、沈 下は最大1メートルに及ぶところもありました。 地震、津波によって多くの方が犠牲となり、地域によっては町全体が壊滅状 態となるような極めて甚大な被害を受けました。 福島の東京電力福島第一原子力発電所では、深刻な事態に陥ります。原子炉 は、地震発生直後に自動的に発電を停止しました。しかし、核燃料棒を冷やす ために必要な電力を送る送電線の鉄塔が地滑りによって転倒、送電ができなく なってしまいます。さらに、予備電源として動いていたディーゼル発電機が、 津波につかり使用できなくなります。全電源喪失という異常事態となり、核燃 料棒の冷却システムが作動しなくなったのです。1~3号機では燃料棒のウラ ンは大量の熱を発しつつ核分裂を続け、やがて燃料棒自体がとける炉心溶融 (メルトダウン)を起こします。 1、3、4号機では、発電所内にたまった水素が爆発し、発電所建屋が吹き 飛び大量の放射性物質を放出します。東北、関東にかけての広い地域が放射能 によって汚染されました。 第一原発を中心に半径20㎞以内、及び年間放射線量20mSvを超える区域か らの退去が、国によって命じられました。広域に及んだ放射能汚染は、住民の − 30 − 健康不安をもたらす一方、観光、農林水産物などに深刻な風評被害を広げまし た。そして、我が国のエネルギー戦略に、根本的な見直しを迫ることになりま した。 巨大地震、大津波、そして原発事故、これら3つが重なった複合災害が東日 本大震災でした。まさに、我が国の歴史においても、「未曾有」の災害となり ました。 被災者支援、応急復旧 3月11日、深夜、テレビ報道による津波被害の大きさに呆然としたまま、議員 会館からの帰宅途中でした。私の携帯に、福山官房副長官から電話が入ります。 「明日、政府の団長として、ヘリで岩手県に入ってもらいたい。」 二つ返事で了解しました。 なぜか、この時、次から次へと、どうしようもなく涙があふれ出てきまし た。大津波が家々を飲み込んでいく映像など、生々しい被災地の様子がテレビ の画面に映し出されていました。しかし、受け入れられずに、どこか遠くで起 こっている災害、そんな感覚だったかもしれません。 現地に行くことになり、それらが、突然現実のものとして私の前に広がり、 それまで、抑えてきた何かが、堰を切ったように出てきた、そんな感じだった と思います。 岩手県政府現地連絡対策室長、私に与えられた役職でした。 12日上空から陸前高田市、13日陸路により釜石市、14日大槌町と回りまし た。そのときの状況は、鮮明に私の頭の中に焼き付いています。 被災現場や避難所を歩き、対応にあたっていると、すぐに、国からの食料、 医薬品、燃料などの被災者への物資提供の体制の不備を痛感します。まず、窓 口がはっきりしない。各部局がばらばらに動き、統制がとれていない。後でわ かったことですが、官邸はこのとき福島の原発対応に追われていました。私 は、被災者支援の窓口の一元化と体制の強化を、官邸に強く要望しました。 3月17日、被災者生活支援特別対策本部(以下「被災者支援本部」という。) が立ち上がりました。各省から精鋭が送り込まれ、私が事務局長となり、全体 の事務の統括を担当することとなりました。 ここが、必要な物資の購入、被災地への配送などの新たな本部となりました。 プライバシーの確保など、避難所の生活改善も重要な任務となりました。 さらに、被災者支援本部は、ライフラインなどの応急復旧、仮設住宅の建 設、ガレキ処理などの統括本部としての役割を担いました。ガレキは、宮城、 − 31 − 岩手を中心として、津波被災地域を中心に2700万トン以上発生し、その処理が 当初の最大課題のひとつとなりました。自治体単独では対応仕切れず、その処 理計画は、国が主導して作ることが必要でした。その役割を担うことになった のが廃棄物行政を担う環境省でした。しかし、環境省は廃棄物の処理について は規制、許認可、監督といった仕事が主体であり、処理そのものに自ら参画し たことはありません。このため、当初は、被災者支援本部が中心となり環境省 を後押しする形での検討が進められました。特に、散乱するガレキの処理だけ ではなく、陸に上がった船舶の処理、所管がわかれる半壊状態の公共施設の取 り壊し制度の一元化、所有者不明の有価物の取り扱い、など各省との連携・調 整が不可欠でした。 仮設住宅は、国土交通省と各県との共同作業で進められましたが、全体の進 行管理は被災者支援本部が担当しました。仮設住宅より借り上げ住宅の方が、 対応しやすいとの被災自治体の要望により、借り上げ住宅の賃料負担も災害救 助法の適用対象としました。風呂の追い炊き機能の追加など、住環境の整備も できる限り細やかにおこないました。 道路、水道、下水道、ガス、電気などのライフラインの応急復旧は、各省、 各自治体、企業の主体的な取り組みと支援によって迅速な対応ができたと思っ ています。特に、水道関係をはじめとして災害時の自治体間連携の体制がすで に出来上がっており、それがしっかりと機能したことは、今後の震災対応を考 えていく上で、重要な示唆を与えていると思います。 医師会、歯科医師会、看護士会など医療関係者との連携により、医療体制の 整備にも取り組みました。特に、原中勝征会長(当時)を先頭に、医師会をは じめとした医療関係団体による、一丸となった体制を作っていただき、被災地 の医療にあたっていただきました。また、仮設住宅などでの避難生活の長期化 が予想される中、その対応に向けた議論にも着手し、心のケアセンターの設置 など厚生労働省による対応へとつなげていきました。働く場の復活までには一 定の時間を要することから、厚労省を中心として、その間の雇用確保対策にむ けた大胆な基金の創設もしました。 対象となる被災家屋数などが極めて多く、被災者生活再建支援制度にもとづ く支払い体制を急ぎ強化し、迅速な給付をさせました。 被災地域が複数の県に及ぶ災害は、義援金制度ができてから初めてであり、 日本赤十字社から、集まった義援金の配分方法について相談を持ちかけられま した。民間が対応すべきこととして、渋る厚労省を解き伏せ、その調整にあた らせ、義援金の配分を急がせました。 また、政府でも義捐金(寄付金)を受け入れられるよう内閣府に仕組みを導 入しました。 − 32 − 津波被害の甚大性を踏まえた復興制度の創設に向けて 復興に向けた支援制度の創設も急がせました。 制度設計にあたっては、東日本大震災の実情をよく踏まえなければなりませ ん。まず、なんと言っても桁外れの津波被害であったことです。加えて、地 震、地盤沈下、液状化による被害も広範に発生しました。特に、津波で発生し た大量のガレキの処理、流された住宅の再建、街並の再生、液状化からの復旧 などは、これまでの災害復旧制度では対応ができないものでした。さらに、水 産業、製造業をはじめとした働く場の、すべて流されている極めて厳しい状況 を前に、特別なものを用意する必要がありました。また、産業の復活に向けて は、二重ローン問題が出てきます。被災地域の自治体が、財政力の弱い自治体 であることにも、充分配慮する必要がありました。先例にとらわれない大胆な 制度の創設が求められました。 また、津波が、これまでの想定をはるかに超えた大津波であったことから、 復旧・復興に向け防潮堤などの高さを設計するのに必要な設計津波水位は、慎 重に決める必要がありました。さらに、この経験を、被災地域のみならず全国 の防災に生かさなければなりません。これらについては、中央防災会議のもと に専門調査会を設置し、ここで議論をいただき、基本的方針、方向性などにつ いての提言をいただくことにしました。 特に、大津波に対しては、堤防など構造物による対応には限界があることを 目の当たりにしました。次の津波は昼ではなく夜にくることも想定しなければ なりません。このため、被災された方々の多くは流された場所に住宅を再建せ ず、高台移転を希望します。地域がそっくり移転をするということです。商店 街などの再生は、地盤のかさ上げをしての区画整理での対応が必要となりました。 復興は、再生ではなく、街、集落の全面的な改造をともなっての、極めて困 難な、しかし、極力、短時間で成し遂げなければならない大事業となりました。 こうした中、再生利用の推進を含めたガレキ処理と半壊状態の建物の取り壊 しのための災害廃棄物処理事業制度、仮設店舗、仮設工場設置への支援制度、 製造業など被災中小企業の再生に向けたいわゆるグループ補助金制度、漁業及 びその関連施設の再生に向けた支援制度が、各省と復興本部との連携のもと 次々と創設されます。高台移転については、従来の制度を強化した防災集団移 転促進事業や、拠点市街地の再生に向けた被災地の全面買収制度などが創設さ れました。また、町全体の面的な復興が求められる中で、従来の災害復旧制度 では対応できない各省所管の各種事業制度を1つに束ねた復興交付金制度を創 設し、その担当を復興庁にしました。特別交付税(特別の財政需要が出てきた とき国が自治体に交付するお金)を活用した、使い道の自由な復興基金制度を − 33 − かなりの規模で創設しました。国の補助事業にかかる自治体負担については、 その全額を特別交付税で処置することとし、この面における自治体負担を事実 上全廃しました。 二重ローン問題について、内閣府副大臣在任中、私が主導で、産業復興機構 を創設しました。その後、この体制を補完、強化するために与野党議員主導に よって東日本大震災事業者再生支援機構が創設され、車の両輪で対応すること になりました。 このほか、多くの制度が創設されましたが、いずれも、制度の体系、補助率 など多くの面で、これまでにない制度であります。東日本大震災対応仕様の制 度といえます。大方の道具立てはしましたが、万全ではありません。現場に即 した不断の見直しが必要不可欠です。 こうした制度の創設で、法律の手当が必要なもの、例えば、復興財源の確 保、手続きの簡素化・規制の緩和・税制特例などを盛り込んだ被災地特区制度 の創設、復興庁の設置、福島復興のための特例制度などについては、野党各党 からの全面的な協力を得ながら、新たな法律を制定しました。(各省も必要な 各種の法律改正、制定を行っています。) また、制度設計や復興の推進にあたっては、民間委員からなる復興構想会 議、その後に設置された復興推進委員会から貴重な提言をいただきました。 なお、インフラの本格復旧に関しては、関係各省に指示し、2011年11月に は、事業計画・工程表を公表させました。今、このスケジュールに沿った復旧 が進められています。 人手不足への対応 これまでの災害対応法制、有事法制は、基礎自治体の対応を踏まえて、県、 国が動く体系となっています。「自治体自体が被災する」ことは、想定されて いません。しかし、大槌町、陸前高田市、南三陸町、女川町では、自治体の建 物が大きく被災し、職員も亡くなられています。大槌町では町長が亡くなられ ました。 その一方、まずは、被災者への支援、インフラなどの応急復旧、ガレキの処 理など、被災直後から一気に自治体の業務が増えました。現地では徹夜体制が 続きました。人的支援は急務でした。片山総務大臣が先頭で対応にあたり、 国、全国の自治体からの緊急の職員派遣がなされました。 さらに、被災自治体の復興計画の策定にあたっては、都市計画や土地利用調 整などの専門職員が必要になってきます。扱わなければならない仕事量の桁外 れの大きさ、高台移転、区画整理事業など高度な知識と専門性を有する事業の − 34 − 質的性格から、被災自治体のマンパワー不足は数、質において深刻化すること が明らかでした。さらに、土地の買い上げ、区画整理などに伴う関係者の調整 など土地関連の業務量が極めて大きくなること、所有者不明、土地境界の不確 定など困難な課題が、出てくることから、土地関係制度の見直しも急ぐ必要が ありました。 このため、官庁OB、民間職員、外郭団体、民間コンサルなどの活用をはじ め、CM(コンストラクション、マネイジメント)方式の導入を含む発注方式 の見直しなど早い段階から関係省庁への検討を急がせました。また、まとまっ たものから順次実施に移しました。また。全国の自治体からの職員派遣を拡 大、継続していただくため、知事会、政令市長会、市長会、町村会などには私 が出かけて直接お願いをしました。総務省をはじめ各省にも主体的に動いても らいました。 さらに、事務手続きの簡素も必須でした。補助金申請、繰り越し手続きの簡 素化などについてはかなり大胆な簡略化をしました。様々な土地関係を含めた 法による規制・手続きについても、特区制度の活用による特例措置を設けるな ど規制の緩和、手続きの不要、もしくは大幅な簡素化をしました。 こうした簡素化などについては、複雑な状況に直面しつつ、事態を打開して いかなければならない現場からの声、要望に、これからもしっかりと応えてい かなければなりません。また、復興の進捗によって、これまで見えてこなかっ た問題が顕在化してくることもあります。復興庁内に、関係省庁の担当者を含 めた専門のチームを設置し、常時の実態の把握と、意見聴取を行い、弾力的な 対応をする体制をつくりました。このチームが主体的、能動的に動くことが、 復興のひとつの鍵をにぎっています。 ボランティア活動 NPOなどによるボランティアの活動は、被災直後から、被災者支援、復 旧・復興に大きな役割を果たしています。被災直後は、被災者への炊き出し、 物資の供給、津波被災住宅の泥の撤去、ガレキの後片付けなどに全国から、多 くのボランティアが駆けつけました。さらに、仮設住宅の建設後は、被災者の 心のケア、孤立化防止などに活動の範囲が大きく広がりました。コミュニティ づくり支援、復興に向けたまちづくり支援などの面でも、ボランティアによる 活動は、復興推進の重要な担い手となっています。 このほか、個人レベルでも数え切れなどの様々な取り組みがあったと思いま す。その、一つ一つに被災者は励まされ、勇気づけられました。 復興庁としても、各復興局にボランティア担当を置き、NPO等が活動する − 35 − うえでの支援を行っていく体制を整備しました。 人と人との絆、地域レベルの絆、全国との絆が復興を支え続けています。 国の職員への指示 私自身、できるだけ被災地に入ることに努めました。毎週のように赴き、被災 地の状況を確認するとともに、自治体の方々、仮設住宅の入っておられる方々と の意見交換、懇談を重ねました。復興に向けた様々な制度の創設、できた制度の 実態に応じた見直しなどは、こうした取り組みの積み重ねの上に、おこないまし た。 国の復興担当職員へも、とにかく被災現場を歩くことを指示しました。特に、 自治体との意思疎通を図ることを徹底させました。復興交付金の交付にあたって は、自治体の考え方をよく聞くことは当然として、全体の復興計画づくりに復興 庁、及び各省の担当職員を参画させ、共同で計画を策定するよう命じました。計 画が具体化され実施できる段階で、復興交付金を交付するようにしました。当初 は意思疎通がうまくいかず混乱した局面もありました。しかし、国、自治体の担 当職員の努力と工夫により、両者が一体となった作業として機能していくように なったと考えています。 また、あえて、コスト意識の徹底を求め、実態に即さない過大な計画、メイン テナンスを考えない施設の建設、単価の高い計画は徹底して見直しをさせまし た。復興を急ぎたい、しっかりとした町づくりをしたい、という切実な思いが自 治体にある中、国のこうした対応ぶりに、当初反発がでました。しかし、復興と はいえ、その財源は国民の税金です。お金を使うことに一定の節度があることは 当然です。こうしたことは、議論をきちんと尽くすことで、大方の理解は得られ たと思っています。 住宅、街の再建 津波によって流された住宅の再建を、どうするか。津波被災地の復興の根幹と なる、しかし、同時に最も困難が伴う課題がこの住宅再建です。多くの方々が選 択したのは、津波の来ない高台に移転し、新しい住宅街、集落をつくるというこ とでした。 絶対大丈夫といわれた堤防。しかし、大津波はそれを簡単に乗り越えてきまし た。巨大な破壊力によって、家々が流される様子を目の前で見ている被災者に とって、高台移転は、やむを得ない、しかし、つらい選択であったに違いありま せん。 − 36 − 戸別住宅にするのか、集合住宅にするのか、どこに移転しどのような住宅街 をつくるのか、費用負担はどうなるのか、こうしたことについて、被災者の 方々の合意形成を図るには、ある程度時間をかけながら、丁寧に行っていく必 要があります。また、移転先の土地の確保に当たっては、地権者の了解を得な ければなりません。売買単価などをめぐり、合意に至るまでには、時に大変な 困難が伴い交渉妥結には時間を要します。 中心市街地などの街の再建については、土盛りによる嵩上げを前提とした区 画整理事業を軸とした再建が進められています。ここでも地権者、住民の街づ くりについての合意形成が必要になります。 しかし、同時に、こうした作業に、あまり時間をかけるわけにはいきません。 すでに、狭い仮設住宅などでの避難生活は、二度目の冬を越えました。長い避 難生活には精神的にも限界があります。働く場の復活、商店街の再生などにつ いて、先行きの見えない不安から、町を離れる被災者の方々が増えてくること も考えなければなりません。高台移転や街の再建は時間との戦いでもあります。 復興には迅速な対応が求められます。しかし、被災者の方々の権利調整や、 土地を巡る調整には、どうしても一定の時間が必要です。このはざまに立っ て、できるだけ早期の住宅再建、街の再建をめざし、粘り強く計画の策定の先 頭に立っているのが、自治体の首長さん、職員です。自らこうした高台移転や 街の再建などの被災者の説明会に何百回と出席し、計画の合意形成を図ること に一所懸命努力されている首長さんもおられます。こうした、関係者の地道な 努力によって、高台移転をはじめとした住宅再建計画の策定は一歩一歩進み、 これから基盤造成工事の着手も相次ぎます。今年は、復興に向かって動いてい る姿が、よりはっきりと実感される年になるはずです。 住宅の建設にあたっては、県産材の利用を積極的に推進すべきです。森林協 同組合さんらと、体制づくりについて意見交換を続けてまいりましたが、その 具体化を図っていかなければなりません。 大切なことは、被災者の方々に、具体的な住宅の再建計画が明確に伝わるよ うにすることです。そのためには、地区ごとの、具体的な実施スケジュール表 を入れた住宅再建工程表を提示し、その実施状況についても詳細な情報提供を していくことが基本です。 復興庁には、この作業を急ぐよう指示するともに、国交省など関係省にも強 く要望しました。高台移転の戸数、地区数が多いため、自治体にとっては、こ れ自体が大変な作業になりますが、私は、現地で行われた被災自治体との意見 交換の場で、この作業の重要性を繰り返し力説し、作業を急がせました。(こ の工程表は、今年3月にまとまり提示されました。) − 37 − しかしながら、年を越して改めて仮設住宅などを回っていますと、まだま だ、被災者の方々への情報提供は進んでいない、というのが実態のようです。 住宅がどうなるか。このことが見えないことは、被災者にとって大きな精神的 負担となっています。自治体、復興局にさらなる努力をお願いするとともに、 背後にある人手不足問題の解決に、私も、引き続き取り組んで参ります。 土地収用法の活用や、特例法の制定など法の力によって、土地の確保や権利 調整が早く進むのではないかとの指摘もたくさんあります。不在者財産人管理 制度の運用など土地制度の見直しは、関係者に入念にやらせましたが、国は、 これからも復興現場の状況を踏まえた弾力的な対応をすることが必要です。そ のためにも、現場で土地問題の調整にあたっている自治体職員の切実な声には しっかりと対応していくことが基本です。ただし、何回にもわたる権利関係者 との顔と顔をあわせたやりとりが土地問題解決の基本であるということを忘れ てはなりません。 被災地域は、被災前から、人口減少、高齢化が進みつつあった地域です。被 災はこうした傾向に拍車をかけると考える必要がありますし、すでに現実化し ているところもあります。働く場の復活、住宅の再建を急ぎ、できるだけ、こ うした動きに歯止めをかけることが基本となることは言うまでもありません。 しかし、同時に、人口減少や高齢化はある程度進むとの前提で、復興を組み立 てて行く必要があります。高齢者にやさしいまちづくり、というコンセプトを 復興に大きな柱にすえ、それに沿ったまちづくりをめざすということです。 地域が主体的に取り組み考えていくことが基本ですが、復興庁がいくつかの モデルを検討し、提示することも急がせたいと思います。高齢者にやさしいま ちづくりをしっかり形作ることができれば、それは、人口減少社会、高齢化社 会に入っている我が国の先進地域になります。このことをしっかり念頭におく べきです。 あわせて、省エネルギーシステムや新エネルギーなどを取り入れたまちづく りも目指す動きもあり、具体化に向けた支援を強化しなければなりません。 生業(なりわい)の復活 三陸沿岸の産業の中心は、水産業です。 カキ、ホタテ、ワカメ、昆布などの養殖。ウニ、ホヤ、アワビも豊富です。 定置網漁も盛んで、時期になれば鮭が大量にあがってきます。大船渡漁港 は、サンマの水揚げが盛んです。 養殖施設、定置網、漁船、製氷施設、貯蔵施設、加工施設、流通施設など水 産業に関連する施設は、大津波によって壊滅的な被害を受けました。 − 38 − しかし、あれほどの被害を受けながら、漁師さんや、漁業協同組合の皆様方 の再開にかける意気込みは、盛んでした。「海によって奪われたものは、海か ら取り返す」。そんな、気迫を感じました。 「ワカメの養殖に間に合わない。国は何をやっている。早く支援制度を作っ てくれ。」。被災現場で漁協の組合長さんから、激しく叱咤されました。 こうした、漁師さんの気迫に後押しされるかたちで、水産業復活に向けた国 の支援制度を次々と打ち出しました。その際、被害の甚大性に鑑み、国の負担 を最大限大きくしました。 被災地に赴くたび、養殖施設数が増えていることに驚くとともに、安堵感を おぼえます。漁船数も回復しています。定置網も復活しています。 水産物が上がれば関連施設も動き出します。製氷施設、冷凍施設、貯蔵施設 など新鮮さを保つ施設が再建され再稼働をしています。加工施設、流通施設な ども再建が力強く進んでいます。漁港は、主要漁港から復旧工事が進んでいま すが、小さな漁港にまで手が回るには少し時間がかかりそうです。 三陸は、これまで、何回となく津波に襲われ、甚大な被害を受けました。し かし、そのたびに沿岸の住民は立ち上がり、復活し、発展を遂げてきました。 その鍵は、海にありました。世界に誇るべき三陸の漁場とそこで展開される 水産業。東日本大震災からの復興も水産業が基礎となりますし、海ある限り三 陸は確実に復活すると信じます。 製造業、サービス業、小売り店舗などは、グループ化補助金と言われる制度 を活用して復活への取り組みが進んでいます。民間企業の被災支援に補助金は 出さないことが、これまでの国の暗黙の基本方針でした。しかし、今回の災害 は、これまで当然視されてきた考え方を、根本的に変えることを迫りました。 被災企業が一定の用件を満たせば、復活に必要な資金の4分の3を国が補助す るという制度は、革新的なものです。また、国の支援をあまり必要としない大 きな企業の復活は、早いスピードで進んでいます。一方で、用地などとの関係 で本格的な再開までに時間がかかる場合には、まずは、仮設施設、仮設店舗な どで復活に向かって力強く歩み始めている方々もたくさんおられます。 新規企業立地に向け、被災地に特化した支援制度も用意しました。積極的な 活用が期待されます。 企業の復活再生にあたっては、過去の債務が大きな足かせになる場合があり ます。こうした二重ローン対策については、産業復興機構と事業者再生支援機 構の両輪で、地元商工会議所、商工会、金融機関などとの緊密な連携をとりつ つ、被災事業主と向かいながら精力的に取り組んでいます。 しかし、こうした一方で、被災地域の土地利用計画が決まらないことから、 − 39 − 事業の再開目処が立てられないという状況にあるところも少なくありません。 土地利用計画の策定が急がれることはもちろんでありますが、事業再開を急ぐ 事業者には、自治体の弾力的な判断によってこれを優先させることも必要です。 働く場が見つからないことなど今後への不安から、止むにやまれず、被災地 を離れ、内陸部へ移住する方々もおられます。働く世代を中心とした人口減少 が進み、復興への大きな足かせになることが懸念されます。新規企業立地を含 む具体的な復興計画の樹立と、被災者の方々への詳細な情報提供、迅速な工事 の実施が急がれます。ここでも、復興は時間との戦いです。 原発事故からの復興(福島のこと) 福島には、独特の思い入れがあります。 私の大臣、副大臣としての復興への取り組みの過半は、福島でした。福島に どう向き合い、どう対応するか、私の頭は、それで満杯ということもありまし た。被災三県の中で、福島へはもっとも頻繁に赴きました。 原子炉がどうなるのか、大きな関心が集中しました。 全電源喪失による炉のメルトダウン、水素爆発、大量の放射能の放出と連鎖 していった事故が、さらに拡大するのか、いつ、収束し、安心できるのか、国 民の多くはかたずをのんで見守っていました。きわめて過酷な環境のもと、自 衛隊、消防隊、東電職員などによる決死の取り組みにより、まずは、冷却水の 供給システムの構築によって、核燃料が制御不能から再臨界に達することがな い状態、すなわち冷温停止状態を達成します。 この状態を維持しながら、これから解体に向けた取り組みが始まります。最 先端の技術を結集しての、数十年を要す長い困難な取り組みになります。 突然の強制退避。この事故によって、プラント周辺を中心として、多くの住 民が強制的に退去を命じられました。事故発生後、プラントから半径20㎞以内 は、避難指示区域、そこからさらに、10㎞は緊急時避難準備区域と指定されま した。さらに、事故発生から約一か月後、放射性物質で汚染された地域で、年 間放射線量20ミリシーベルト(mSv)を超える地域を計画的避難区域として 設定し、避難をお願いすることになりました。 放射性物質の拡散は、福島の内陸部をはじめ広い地域に及びました。県民の 間に、健康不安がひろがりました。こうした中、特に、小さなお子さんを抱え るお母さん方の間に、子供に与える健康への影響への懸念から、県外に避難さ れた方々も少なくありません。 − 40 − 福島では、約15万人の方々が避難生活を余儀なくされています。そのうち約 10万人は、避難区域からの避難者です。約6万人が県外に避難されています。 家族がばらばらになってしまったご家庭も少なくありません。 基準値を超える放射性物質が検出され、事故発生以来、生産、操業の停止に 追い込まれている地域、海域があります。農林水産物、観光などに与える風評 被害の拡大も深刻です。 原発事故には国の責任がある。支援ではなく、国が前面に出て、国の責任に おいて復興を進める。この体制づくりが、まず必要でした。復興庁がその中心 となることは当然でした。 避難者の帰還、自立にむけた政策の実施と、復興全般の統括を復興庁の任務 としました。具体的には、避難者の方々の実態や意向調査、帰還計画の策定 (公共インフラの復旧計画策定と実施の調整を含む)、双葉郡などプラント周 辺地域の復興計画の策定、帰還までに長期間を要する地域からの避難者のため の災害公営住宅建設の計画策定、実施調整(いわゆる「仮の町構想」を含む) などは、復興庁直轄の任務として、そして、賠償、除染、中間貯蔵施設の建設 計画の策定、避難者受け入れ自治体への財政的支援、健康管理など各省が所管 する事業の総合調整を担うこととしました。 避難指示区域及びその周辺地域の復興をどう実現するか、避難者の帰還、自 立に向けた支援をどうするか、復興庁の最も重い任務としました。 広い範囲にわたって、強制的に避難をさせ、長期にわたる避難ののちに帰還 していただく、という取り組みは、あのロシアのチェルノブイリ事故時でもな かったことです。 双葉郡は、原発を頂点とした産業体制となっていましたが、事故で根底から 崩れました。その、代替の産業をどう構築するか。地域によって帰還の時期が 異なることも考慮に入れなければなりません。復興庁でまとめたグランドデザ インで基本的な考え方は示しましたが、具体化にあたっては、帰還計画との整 合性が必要です。 ライフライン等の劣化した公共施設の復旧を、除染事業の実施と連携しつつ、 避難指示区域の指定の解除に先駆けて、実施していかなければなりません。帰 還が比較的早期と見込める区域を対象として、実態調査を踏まえた実施スケ ジュールの策定を急がせました。 帰還計画の策定には、帰還可能な時期、地域の具体的な復興計画を明示した 上で、避難者の方々の意向調査が不可欠です。そして、本格的な意向調査の実 施には、まず、賠償全般について、一定のめどが立つことが必要です。帰還を − 41 − 希望する方、別の町での再出発を望む方、決めかねている方、それぞれおられ ます。その割合は、町村によって異なります。帰還を望まれるのはどのくらい か、その年齢層などによって帰還計画、復興計画は変わってきます。また、時 間の経過とともに、避難者の方々の意向も変わってきます。このことも勘案し なければなりません。 復興庁内にチームを設置し、町村ごとの基本的な意向、実態調査に入らせま した。一部手探りをしながらの、取り組みになりますが、帰還を心待ちしてい る方々が大勢おられます。こうした方々の思いに応えることは国の義務です。 一方、帰還までに長期間を要すると見込まれる区域からの避難者の方々に は、仮設住宅から移っていただくための災害公営住宅を用意することにしまし た。すでにその対応が始まっています。合わせて、介護施設の新設など、受け 入れ自治体の要望にも応えていかなければなりません。 甚大、かつ深刻な被害をもたらした原発事故。迅速な賠償が大きな課題とな りました。対象となる個人、戸数、事業者など膨大で、かつ、その内容は複雑・ 多岐にわたります。賠償は、東電の責任において行われます。ただ、賠償の基 本的な考え方は、専門家の意見をベースに、国がまとめることとしました。復 興担当大臣として、経済産業省の担当者と何度も議論を重ね、まとめました。 農林水産省の役人時代に学んだ、公共事業にかかる補償制度の知識と実践経 験が大いに役立ちました。農林水産物の価格低下、観光客の激減など風評被害 への対応の遅れが指摘される中、東電の社長に直接掛け合い改善もさせました。 除染は、放射性物質が付着したものを取り除く、という、根気のいる作業が 必要です。その効果は、はっきりと表れますが、同時に限界もあります。効果 だけではなく、限界も示せ、と強く主張したのが私でした。現実直視は、すべ ての基本です。担当の環境省は、測定データとして公表しました。 除染の結果として、大量の放射性の廃棄物が出てきます。それを特定の場所 に集め、長期にわたって保存・管理するのが中間貯蔵施設です。施設の建設自 体が巨大プロジェクトになります。事業経験のない環境省の直轄事業となった ことから、復興庁も総合調整を行うため計画策定から、地元調整まで幅広く関 与することになりました。ここでも、ダム建設の現場責任者など農林水産省時 代の経験が大いに役立ちました。 福島全体の経済再生のための企業立地補助制度の導入・運用、子供の医療対 策、災害関連死の実態把握、事故後「特定原子力施設」と命名された原発の安 全問題など触れておきたいテーマは、たくさんありますが、今回はこの程度に − 42 − とめたいと思います。 福島については、時機を見てじっくりとまとめてみたいと考えています。 佐藤知事、関係市町村長さんをはじめ自治体の方々、県外を含めた避難者の 方々とは何回も意見交換をさせていただきました。「話を聞く」、これ自体が私 の大切な役割でもあったと思っています。 こうした方々に様々な思いが交錯する中、やり場のない「怒り」を強く感じ させられることがたびたびでした。もちろん、その原因のひとつは、私を先頭 にした政府の対応にあったと思います。「絶対安全」といわれた原発、それを 信じ裏切られた憤りもありました。しかし、そんなことでは言い尽くせない、 根源的な怒りであったようにも思います。 関係各省の担当者とは、山積する課題について頻繁に議論を重ねました。そ の多くは、私が課題提起をして、議論をするというものでした。当初、随所 で、関係省庁の消極姿勢、無関心を装う姿勢が感じられました。深刻な原発事 故など、誰も経験がなく、何をすべきかわからないということが背景にあった と思います。しかし、そうした雰囲気に、私は冷静さを失い、元来、頭の沸点 が低いこともあり、時に担当者との間で激しい議論となりました。そうとは気 づかないうちに、避難者の方々のあの怒りが、少なからず私に乗り移っていた のかもしれません。 福島のことを思い起こすとき、こうした対応を巡って発生した熱の余熱がま だ私の中に残っていることを強く感じます。この余熱の正体が何なのか、それ 自体が一つのテーマとなりそうです。しかし、福島について、具体的に何かを 書くには、どうやらまずこの余熱を冷ますことが必要かもしれません。 東日本大震災の検証、次の災害への備え 防災担当大臣(11.7.5~12.2.10)の役割は、国土交通省などの関係 省庁との連携を図りながら、主として自然災害に備えた体制の見直し、法的枠 組みの見直しを不断に行うことです。 東日本大震災では、これまでの想定を大きく上回る規模の大津波が東日本の 沿岸地域を襲いました。このため、湾口防波堤、防潮堤などの設計津波水位や 構造など抜本的な見直しが迫られました。また、発災直後の気象庁から発表さ れた地震・津波情報の精度、情報の出し方、伝達方法、地域における津波の避 − 43 − 難計画と避難実態など多方面にわたっての検証、見直しが必要となりました。 2007年に中央防災会議が想定した宮城沖地震と東日本大震災が、災害想定、被 害想定においてなぜ大きく乖離したのか、それ自体も検証の対象となりました。 まずは、被災地で何が起こったのかについての事実検証が、必要になります。 このため、松本龍防災担当大臣(当時)に中央防災会議のもとに専門調査会を 設置するよう要請しました。防災会議は、私の直接の所管ではありませんでし たが、大臣は快諾し、2011年4月27日に専門家からなる、『東北地方太平洋沖 地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会』が立ち上がります。こ の専門調査会には、休日、平日を問わず精力的に大変熱心な議論を行っていた だきました。委員の間で、ある種の危機感が共有されていたように思います。 震災の検証、そこから得られた教訓、それを踏まえた今後の対策など、幅広 い分野にわたっての提言をいただきました。津波は、いつかまた必ずやってく る。堤防など構造物に過度に依存するのではなく、逃げること、避難すること を基本とした「減災」を柱として、大震災を踏まえた様々な提言がされました。 この専門調査会には、私もできるだけ出席しました。そして、現場で聞いた 話や、実感をもとに積極的に発言をしました。委員から「こんなに発言する大 臣ははじめて」と、驚きの声(非難の声?)が上がるほどでした。こうした委 員会参加などを通じて、災害については、かなりの素養を積み上げたと自負し ています。 こうした検証は、テーマに応じ、これからも続ける必要があります。今後の 災害に備えるという意味だけではなく、国の危機管理のあり方の再検討を迫る 様々な要素がこの検討から出てくるからです。 なお、原発事故についての検証は、プラントに着目した様々な観点からの検 証としては、複数の主体によって進められました。しかしながら、避難者、被 災者という観点での検証はほとんど手つかずのままでした。私は、これを、経 済産業省(旧原子力保安院)にやらせようとしましたが、実現しませんでし た。結局、復興庁でやることが早道と考え、津波被災の検証で尽力いただいた 学識経験者を中心とした検証チームを立ち上げました。検証は同チームによっ て進行中です。原発事故の発生後のプラント周辺住民への国、自治体の対応、 避難者の行動の分析は、時間をかけてでもできるだけ詳細に行うべきです。そ こには、国という立場からだけ見ても、反省すべき点、学ぶべきものが、山積 みされているはずです。原子力発電がもつリスクとは何かを再評価する上でも 重要です。 また、発生確率が高いとされる首都直下型地震、東海・東南海の連動地震に ついても、その想定規模など抜本的な見直しと、それに伴っての対策の再構築 も必要となりました。このため、それぞれに専門調査会を立ち上げました。検 − 44 − 討は鋭意進んでいます。なお、首都直下型地震に関する専門調査会の座長に は、増田寛也野村総研顧問(前岩手県知事)に就任していただきました。 防災担当大臣のもう1つの役割は、大きな自然災害が発生した場合、いち早 く現場に駆けつけ、被災状況を把握し、各省への対応を指示することです。私 の在任中、2つの大きな災害が発生しました。2011年7月の新潟・福島豪雨、 同年9月に紀伊半島に上陸した台風12号です。いずれも、災害発生後速やかに 現地に赴き、被災状況を視察いたしました。 東日本大震災からの復興を担当するかたわら、防災担当大臣を兼務すること は、かなりの重圧となりました。このため、2012年2月10日の復興庁発足に伴 う復興大臣への横滑りに伴い、防災担当大臣の任からは離れました。ただし、 震災に関するさまざまな検証は、引き続き担当したかったことから、東日本大 震災総括担当という大臣ポストを用意していただき、その任にあたりました。 なお、東日本大震災の記録を後世にきちんと伝えるため、各方面で様々な取 り組みがされています。すばらしいことだと思います。国においては、各省が それぞれに取り組みをするとともに、私自身担当閣僚としてその指揮をとって きました。特に、国立国会図書館との連携をいち早く打ち立て、同図書館が中 心となった「東日本大震災アーカイブ」を構築することにしました。 さらに、復興の最前線へ 豊かな海が広がる三陸。 三陸の歴史は、津波との闘いの歴史でもあります。しっかりとした記録が 残っている明治以降だけでも1896年明治三陸地震津波、1933年昭和三陸地震津 波、1960年チリ地震津波などがあります。 津波の猛威にさらされ、町の人口の半分が、亡くなったこともありました。 交通網、情報網も整備されていない時代、被災者が直面した艱難辛苦は、我々 の想像を超えるものであったに違いありません。 しかし、それでも三陸は復活し続けてきました。不屈の精神が、三陸にはや どっています。豊かな海がそれを支えてきた、そのようにも感じます。 ある避難所でお会いした、おばあさんがおられます。中学校の体育館でし た。大津波で被災されていました。 わたくしが、話しかけようとすると、きちんと正座され、もの静かな気仙言 葉でこういわれました。 「遠いところ、来ていただきありがとうございます。津波で、家も何もかも なくしました。それでも、こうしてここにおいていただき、本当に感謝してお − 45 − ります。」 そして、手をつき丁寧に礼をされました。 あまりの気丈さと、こころの強さに圧倒されました。三陸の人々の不屈の精 神を、ここにも垣間見た思いがいたします。 未曾有の大災害となった東日本大震災。 不屈の精神が、三陸の復興を必ず成し遂げる、そう確信します。 しかし、道のりは決して平坦ではありません。 空前の規模で行われる高台移転、かさ上げをしての区画整理、そして街づくり。 三陸の復興は、再生・復旧ではなく、街を根本的につくり変えるという、歴 史的な難事業でもあります。多くの困難がある中、渾身の取り組みにより、現 場では、計画、調整から実施の段階へと確実に進んでいます。 実施の段階では、土地、人手不足がさらに顕在化するとともに、資材不足も 問題となってきます。こうした問題を、根気強く、時に大胆に解決していかな ければなりません。そのためにも、さらに、被災地を歩き続けながら現状を把 握し、私の中に蓄積されてきた、これまでの現場知識と経験も踏まえ、復興庁 などに具体的な提言、直言をして参ります。 復興の最前線に立ちつづける、それが、わたくしの願いです。 − 46 − Ⅲ.六年間の主な活動実績(震災前) 農業者戸別所得補償制度の創設 第168臨時国会(07年9月開会)に農業者戸別所得補償法案を民主党が提 出しました。そのとりまとめ、国会の対応を一手に担ったのが私でありました。 米、麦、大豆などのいわゆる土地利用型作物の生産にかかる費用(生産費) と農家の販売価格に差があることから、作物ごとにその差額を一定の考え方で 国が補填するもので、欧米では早くから定着している「直接支払い」制度の日 本版の導入をめざしました。 法案は、参議院からの審議となり、年を越した第169通常国会の衆議院での 審議と合わせ、30時間の審議となりました。野党提出の法案としては、極めて 異例の長時間にわたる審議となり、与党自民党などとの間で激しい議論が連日 交わされました。法案は野党が多数を占める参議院で可決、しかし残念ながら 衆議院で否決、廃案となりました。 しかし、2年後政権交代によって誕生した鳩山政権のもと、農業者戸別所得 補償制度は、予算措置として実現します。その基本的な考え方は、本法案がも とになっていることは言うまでもありません。 実施当初は、混乱もありました。現場の実態に対しての十分な目配りがな く、作物によっては、収入が減ってしまう事態が出てきました。転作作物とし て雑穀を導入し、成果をあげているJA花巻は、この事態にいち早く気づき、 是正を強く要望してきました。私が中心となり、JA花巻と調整のうえ、制度 の趣旨に沿った運用ができるよう調整しました。 農業者戸別所得制度は、4年目を迎えますが、ほぼ定着しました。農家の評 価も得ていると思います。この制度について、状況の変化に応じた弾力的な見 直しを不断に行っていくことは、当然必要です。しかし、基本的考え方を拙速 に変えるようなことがあれば、農業振興に大きな影響が出るだけではなく、現 場に大きな混乱をもたらすことになりかねません。本制度については、引き続 き、しっかりと見て参ります。 汚染米事故の追及(米トレーサビリティ法の制定) 米の輸入義務として位置づけられているのが、ミニマムアクセス米。輸入段 階でかび等の発生により食用に適さず、工業用の加工米などとして安価に販売 されていた米が、流通段階で食用に転用されていた実態があきらかになりまし た。「汚染米事故」といわれたこの事件は、流通段階で義務づけられている国 − 47 − の検査の甘さが背景としてありました。この実態解明の調査を党のチームリー ダーとして実施しました。 主食である米の安全にかかわる重大な事件で、第170回臨時国会(08年9月 開会)での、主要テーマの1つとなりました。 この間の議論を通じ、ミニマムアクセス米の流通段階での検査の徹底が図ら れるようになりました。そして、米に関するトレーサビリティの必要性の認識 が高まり、2年後の米トレーサビリティ法の制定へと結びつきました。 参議院農林水産委員長(09.1.5~10.26) 委員長は国会役員でもあります。役員のトップは参議院議長で、以下副議長、 各委員会の委員長で構成されます。役員は国会運営の責任者であり、委員長は それぞれ担当の委員会の運営を司ります。 国会の開会は天皇陛下御出席の下に行われます。通常は閉じている国会正面 玄関が開かれ、陛下はそこから入られます。玄関から入られた陛下を整列して お迎えする、お見送りするのも議長以下国会役員の役割です。 初めての委員長就任ですが、無難にこなせたと思っています。野党議員であ りながら、委員会などで質問に立てないという制限があります。 農地法の政府改正案の修正(耕作者主義の堅持) 第171回通常国会(09年1月開会)にて、農地法制定以来の改正といわれる 農地法が改正されました。実際、第一条の目的規定から変える大改正であり、 改正によって、一般法人(株式会社)の農地の賃借による営農が認められるこ とになりました。ところが、当初の政府の改正案は、一般法人に農地の所有権 までを認めることの法的な足がかりを作ることを巧妙に意図したものでした。 一般法人に農地の所有を認めることは、まだまだ時期尚早というのが私の見解 でした。私は、この法案の意図を見抜き、農地法に詳しい大学の先生の助言を 得ながら、政府案の修正案を作成しました。 私は、参議院の農林水産委員長でありましたが、政府案の問題点を指摘しつ つ、民主党主導で衆議院農林水産委員会の段階で修正させ、農地所有を一般法 人に認めることを意図した条文を削除させました。 農地の所有に関しては、耕作するものが農地所有をするとの、いわゆる「耕 作者主義」が、戦後農地法改正以来の根幹的考え方です。今日、この考え方を めぐっては、様々な議論がありますが、わたくしは、まだまだ変えることので きない大原則と考えております。 − 48 − 私は、農業をやりたい、継続したいという意欲を持っておられる方は、経営 規模、経営形態、年齢にこだわらず、基本的には、しっかりとした支援を行っ ていくべきであると考えております。こういった観点で、農業者戸別所得補償 制度も制度設計を行いました。しかし、人口減少社会に入っている我が国、特 に農山村においては、農業者の減少が加速化されつつあります。農地を、誰が 引き受けるか、は、農業、農山村の維持にとって大きな課題となっています。 農家、生産法人、一般法人を問わず、担い手の確保については、国は、これ まで以上に、強力に取り組んでいく必要があります。こうした中、一般法人に 農地法の賃借権を認める農地法改正は、時宜を得たものでした。 新農地法が有効に機能することを期待したいと思います。 参議院予算委員長(10.7.30~10.9.21) 鳩山政権下、予算委員会の与党筆頭理事として、活動しました。ちなみに予 算委員会の筆頭理事は野党時代に続いての二回目の就任となりました。 予算委員会の野党筆頭理事は、野党質問者の追求を後押し、必要に応じて戦 略的に委員会審議を止め、有利な答弁を引き出すことが役割となります。私 も、委員長に詰め寄り、たびたび委員会を止めました。一方、与党筆頭理事 は、委員会審議をいかに円滑に進めるかが役割となります。この場合は、野党 側が委員会審議を止めようとすることをできるだけ防がなければなりません。 委員長に詰め寄る野党理事をでるだけ制止しました。時に、答弁に窮した閣僚 に、答弁アドバイスすることも、与党筆頭理事の大切な役割です。 こうした経験の上に、第175回の臨時国会においては、予算委員長となりま した。予算委員長は国会の各委員会の委員長の中でも、議院運営委員長と並ん で最も重要なポストいわれております。通常、経験年数が豊富で、閣僚経験者 が就任するのが通例ですが、私にその役割が回ってきました。委員長は農林水 産委員会で経験済みですが、予算委員長は、さすがに緊張感をおぼえる役職で した。短い期間の在任でしたが、貴重な経験となりました。 内閣府副大臣(10.9.21~11.7.5) 菅改造内閣のもとで、内閣府副大臣を拝命しました。 副大臣室は、総理官邸の正面、通りをはさんだところにある旧総理府の建物 の三階の、見晴らしのいい部屋をいただきました。仕事は、国家戦略担当大臣 などを補佐し、財政政策、エネルギー政策、農業政策、規制改革、地域活性化 など、各省にまたがる案件の企画、調整などです。人口減少社会に入った我が − 49 − 国が、これから直面する課題と対応についての整理は、私が、最もこだわった テーマでした。専門家からの意見の聴取から始めて論点整理を行い、時間をお かず、内閣の主要課題にするつもりでした。 もっとも困難な仕事は、環太平洋経済連携協定(TPP)でした。TPPは、 菅総理大臣が、内閣の重要課題と設定したことに端を発します。TPPとは何 なのかについて、党内はもちろんのこと、国民にも情報すらいきわたっていな い中で、交渉への早期参加を掲げる総理の考え方は、簡単には受け入れられな いものでした。TPPとは何かについて、まずは政府及び党内での情報共有を し、その内容、我が国にとってのメリット、デメリットをできるだけ詳細に整 理する、まずは、こうした段取りが必須だからです。 ところが、この「整理する」という仕事の事務局が、国家戦略室に回ってき ます。私は、農林水産業のことが頭にあり、かなり逡巡しましたが、結局引き 受けます。 外務、財務、経済産業、農林水産の副大臣と関係局長からなるチームを立ち 上げ、わたくしが座長となりました。当初は、私の部屋で毎週のように会議を 開き、まずは、米国を中心として行われてきたTPP交渉のこれまでの経過、 現状、今後の方向性などについての客観的な把握を行いました。まず、注目さ れたのは、すべての関税をゼロにすることを原則としてかかげていることでし た。我が国農林水産業にとって受け入れることのできない極めて厳しい内容で す。一方で、投資、政府調達、知的所有権、労働条件、環境など幅広い非関税 分野も交渉の対象としており、我が国にとってメリットが見込める分野もあ ります。(ただし、関税ゼロという原則は、あくまで原則で、農産品について は、米国などは品目によって高い関税を維持しており、国内農業を守るためこ うした関税は死守するだろうと、直感していました) 私は、外務省、経済産業省を通じて、TPP交渉参加国からできるだけ情報提 供を得るよう指示し、職員を各国に派遣しました。特に、非関税分野に関して は21部門にわけてそれぞれ局長をヘッドとするタスクチームを立ち上げ、情報 分析と対応検討を急がせました。しかし、交渉参加していない我が国が、情報 収集することには、かなりの困難がありましたし、まして情報開示について は、情報提供国との関係から一定の限界がありました。 こうした中、関係閣僚を先頭に、各地で意見交換会の開催への取り組みも始 まりました。 しかし、私のTPPに関する政務としての役割は、ここで突然途切れることに なります。国家戦略担当副大臣の任も事実上停止しました。 東日本大震災が起こったのです。 − 50 − (環太平洋経済連携協定(TPP)について) 国内に資源が乏しい日本は、世界との貿易を大きな拠り所にして経済を維持 してきました。その我が国にとって、モノ、ヒト、お金、サービスなどが国境 を越え、より活発に動く状況をつくることは国益にかなうことです。 この観点から、米国、豪州など11カ国が貿易の拡大をめざし、太平洋地域の 新しい通商・貿易ルールをつくる交渉を続けているTPPは、我が国にとって も無視できるものではありません。 TPPは、関税のみならず、投資、政府調達、知的所有権、労働条件、環境な ど幅広い分野に及んでいます。一方で、現在行われているTPP交渉は、米国 内においてさえ、最も透明性の低い貿易交渉との批判も上がるなど、その全体 像はおろか、細部にわたっての情報は限られているというのが実態です。ま して、我が国は、交渉に参加しておらず、国民が知りうる情報はより限られ ます。ことの性格上、やむを得ず各分野の方々が、自分でTPPの中身を想定 し、賛成、反対と議論している面があることは否めません。 しかし、限られた情報の中ではありますが、TPPには、大きな懸念があるこ とは明らかです。 最大の懸念事項は、全ての関税を撤廃することを前提としているらしい、と いうことです。しかし、それは、後述するように、建前でしかありません。現 行のWTO(世界貿易機構)や、これまで我が国が締結してきたEPA(経済連 携協定)、FTA(自由貿易協定)よりかなり高度な次元での関税削減がテーマ になるということです。 我が国の農業、特に米などの土地利用型農業や、酪農(生乳を除く)など は、国土の制約などから、諸外国との農産物とは価格競争では太刀打ちできま せん。このため、関税と直接支払いなどの補助金によって、こうした農業は守 られています。豪州など広大な土地を活用し、粗放的農業を行っている国は 別として、自国の農業を関税と補助金で守るというのは、欧米では当たり前と なっています。まして、我が国においては、将来にわたって堅持すべき基本的 な政策です。 貿易立国として、我が国は自由貿易の拡大にGATT(関税と貿易に関する一 般協定)、WTOなどで積極的に活動してきました。また、鉱工業品について は、世界に先駆けて関税を下げてきました。農産品を除けば、最も開かれてい る国と言っても過言でありません。ただし、農産品については、ミニマムアク セス米の受け入れなど妥協をしつつも、日本農業の特質を訴えながら、米、 麦、砂糖、乳製品など主要品目に関しては一貫して関税を守ってきました。 WTOのドーハラウンドにおいてもこの姿勢は変わっていません。我が国の農 − 51 − 業条件からすれば、当然のことです。 一方、人口減少社会にはいっている我が国においては、国内需要の低下、労 働者の減少が現実的な問題として意識される中、海外との物、人、サービスの 交流は今まで以上に拡大する必要があります。そのためには、日本は、非関税 障壁を含め、日本にとって交易の拡大の障害となるものは、できるだけその ハードルを下げていく必要が確かにあります。 しかし、同時に、こうしたことが、日本の農林水産業、農山漁村の犠牲の上 に成り立つことは、受け入れられることではありません。守るべきものは守 る、ということです。農林漁家、農林水産関係の組織、団体が、TPP交渉参 加にも強い懸念と拒否感を示すのは当然のことです。 安倍総理は、TPP交渉への参加を決断しました。ただし、「TPP交渉参加」 は、「TPP参加」ではありません。 一般論として整理すれば、交渉参加は、ルールづくりへの参加を意味しま す。交渉は、政府の専権事項です。交渉の結果、まとまった条約文を、受け入 れられると内閣が判断すれば閣議決定します。もちろん閣議決定しない場合も あります。ルールづくりがうまくいかなかった場合で、交渉決裂を意味しま す。TPPに関しては十分あり得ると思っています。 仮に閣議決定されると、ここでTPPの全貌は初めて公にされ、その内容がつ まびらかになります。私は、TPPをめぐる本格的な国内論議は、ここから始 まると考えております。 こうした議論を踏まえ、条約を、国として受け入れるかどうかは、国会がき めます。 安倍政権には、守るべきものは守るという決意は感じられません。経済利益 というものを数値にして、全体でプラスであれば国益に沿うといいかねないと さえ思います。 そもそも「例外なき関税撤廃を前提としたTPPには反対」とした自民党さん の公約自体にも大きな疑問がありました。一つには、すべての関税の撤廃を原 則としてはいても、それはあくまで原則であり、米国はじめ交渉に参加してい る各国は、例外をつくることに躍起になっていることです。ですから、例外な き関税撤廃は、もともとTPPでもあり得ないということです。二つ目は、そ れでは、どこまで例外を設けるかです。最も重要なことですが、これは、交渉 参加することでしか答えが出ません。つまりは、この公約は、最初から交渉参 加する、ということを公言していたようなものです。その意味では、皮肉な言 い方ですが、安倍総理は公約を果たしたともいえます。 − 52 − しかし、交渉参加に反対と主張されていた方々には、「反対」の文字が入っ た自民党の公約は別に映っていたはずです。こういう姿勢には、あやうさを強 く感じます。「守るべきものを守るとの決意が感じられない」との大きな理由 は、この点にあります。 TPP交渉は、記述のように、関税のみならず、その他20分野にわたるルール 作りの作業です。その他分野では、メリットが見込める一方、懸念もありま す。こうした分野についても、しっかりと見ていくことは当然です。しかし、 私にとっての基本は、TPPは、農林水産業や農山村の衰退につながりかねな い内容を含んでいることを、明確に意識し、そのことを踏まえた政治姿勢でな ければなりません。 農林水産業、農山村を守ること、私の政治信念の岩盤です。その先頭に立っ て活動してまいりました。我が国の農林水産業、農山村の衰退につながる TPPは、断固として阻止しなければなりません。その先頭にも立ってまいり ます。 − 53 − 発 行 元 達 山 会 住 所 〒024–0061 岩手県北上市大通り4丁目1番30号 T E L 0197–65–2775 FAX 0197–65–2776 U R L http://www.tatuo.jp/ − 54 −
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