河野 俊行

アジ ア 太 平 洋 文化 への 招 待
文化多様性条約草案の
起草にかかわって
河野 俊行 九州大学法学研究院教授
© Aris Munandar (Indonesia)
ユネスコは、最近積極的に条約を策定
りアメリカ映画が台頭し始め、やがて世界
に、国際貿易機構(I T O)を設立する目的
するようになりました。過去5年ほどの間
市場を席巻するようになります。1913年に
で行われた多国間交渉においても映画は
に、水中文化遺産の保護に関する条約、
3千2百万フィートにすぎなかったアメリカ
重要項目の一つでした。I T Oの設立の基
無 形文化遺産の保護に関する条 約がユ
映画の輸出は、1925年には2億3千5百万
礎となるハバナ憲章※2(1947年)も、一定
ネスコ総会で採 択されていますし、今年
フィートに達するようになります。南米、ア
の条件下で映画のクォータを認めていま
2005年秋の総会にはいわゆるアンチ・ドー
ジアを含む世界市場の8割のシェアを押さ
した(19条)。しかしハバナ憲章はアメリカ
ピング条約草案、そして文化多様性条約
え、特にヨーロッパ向け輸出はこの間に5
議会の反対にあって日の目を見ず、その代
草案が提出される予定です。いずれも重要
倍の伸びを示しています。当然のこととは
わりに憲章の一部であった関税と貿易に
な条約・条約案ですが、この中で、もっと
いえ、ヨーロッパ諸国は危機感を抱きまし
関する一般協定(G AT T、ガット)が暫定
も背後の利害が複雑で、条約として成立・
た。アメリカ映画の寡占状態が続くと、映
的なものとして1947年に成立します。その
発効した場合に大きい影響を諸方面に与
画製作のために投資してもそれを回収す
ガット4条がやはり映画フィルムのクォータ
える可能性のあるのが文化多様性条約草
るチャンスが小さくなり、ひいては映画製
を例外的に認めています。つまりガット加
案です。文化教育の機関であるユネスコが
作自体を萎縮させかねません。またアメリ
盟国は、国際取引において露出済み映画
つくる条約に、なぜ複雑な利害対立があ
カ映画の普及によって「ヨーロッパ的なる
フィルムを特別扱いすることを決めたこと
るのでしょうか、また今後どういう影響を
もの」が失われていくことへの恐れもあり
になります。
与える可能性があるのでしょうか。
ました。前者が経済的な理由であるとする
しかし米欧対立はこれで解消というわ
と、後者は文化的な理由といえるでしょう。
けにはいきませんでした。新たにテレビ番
そこでヨーロッパ諸国は自国映画を保護す
組をめぐって摩擦が生じたからです。映画
るために種々のクォータ(量的輸入制限)
フィルムにクォータを認めるガット4条はテ
を導入します。その仕方には種々あります
レビ番組にも適用されるのかが問題となっ
このことを知るためには、まずは18 85
が、もっともポピュラーなのは、自国映画
たのです。アメリカは反対、カナダは賛成、
年12月2 8日に遡る必要があります。この
と外国映画の劇場における一定の上映比
フランスは判断先送り、とガット締約国の
日は、フランス人のリュミエール兄弟が、パ
率、たとえば自国映画1に対し輸入映画10
意見はなかなかまとまりませんでした。他
リのグラン・カフェにおいて、世界で初め
という割合を定めることでした。
方、ヨーロッパ共同体( E C)は放送のヨー
て映画の商業上演を成功させた日なので
第二次大戦によってヨーロッパは消耗し
ロッパ文化における重要性に気づき、種々
す。この後フランス映画は隆盛を極め、世
つくしますが、その復興策の一環として、
の施策を独自に打ち出していきます。その
界市場を席巻します。しかし第一次大戦は
映画の自由貿易を持論とするアメリカは、
最も著名な例が1989年に出された「国境
ヨーロッパを疲弊させ、それはヨーロッパ
アメリカ映画振興に有利な2か国間協定を
なきテレビ指令」とよばれる指令で、これ
の映画産業の衰退に直結しました。戦費
結ぶことに成功します。それには、対ソ連
は加盟国に娯楽番組の放送時間の51%を
調達のためにヨーロッパ諸国はアメリカに
を意識したアメリカ文化のプロパガンダとし
「ヨーロッパの」番組用に確保するよう求
資本依存する必要が生じ、アメリカは債務
ての役割が映画にひそかに込められてい
めています。
国から債権国に立場を変えます。このこ
たことを忘れてはなりません。同時に戦後
とと軌を一にして、ヨーロッパ映画に代わ
のブレトン・ウッズ体制※1を確立するため
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※1
2
ACCUニュース No.351 2005.9
ブレトン・ウッズ体制: 1944年連合国側によって決定されたブレトン・ウッズ協定、IMF、世界
銀行、GATTを基礎とした国際経済体制。
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で交渉が続けられたことになります。
この時の紛争解決パネルも、その上訴審
このようにアメリカとヨーロッパはオーディ
ともいうべき上級委員会も、経済的観点か
オ・ビジュアル産業をめぐって70年以上に
らのみ議論し、文化的側面に配慮しません
わたって対立してきました。これは、映画
でした。これはカナダをして、現在のW TO
こういう状況を背景として、ガット・ウル
を経済的な物品・サービス以上のもので
のシステムは自国文化の保護という観点か
グアイ・ラウンドが開始します。これは暫定
はないと考えるアメリカ流の考えと、文化
らは有効ではない、ということを思い知ら
的な性格をもっていたために問題の多かっ
の一ジャンルと考えるヨーロッパの発想が
せることになりました。
たガットから世界貿易機関( W T O)へ発展
根本的に異なっていたことが背景にあり
拡充するという野心的な交渉でした。
ます。
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従来のガットのもとでは物品の取引のみ
が念頭に置かれていましたが、W T Oの新
協定ではサービス貿易も取り扱うことが求
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められていました。その交渉の中で、EC、
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このようにハリウッドに代表されるアメ
リカの大衆文化の浸透に対して、ヨーロッ
カナダは、「文化」を根 拠として、自由貿
文化多様性という観点からもうひとつ忘
パ、カナダが対抗するという構図はとりわ
易の原則に対する例外措置が取れるよう
れてはならない重要な国にカナダがありま
け第二次大戦後鮮明となっていました。
求めました。これが「文化的例外」の議論
す。カナダは強大な隣国アメリカと同一視
1990年代になって、これにもう一つの対抗
です。先に述べたガット4条もヨーロッパか
されることを嫌い、自国の文化的独自性を
軸が加わります。それは南北問題、すなわ
らすれば文化のためにする自由貿易の例
如何に保つかに腐心してきました。そんな
ち発展途上国とりわけアフリカ、南米諸国
外、ということになりそうですが、あくまで
中、カナダにとって痛恨の事件がありまし
とアメリカの関係です。1990年代は経済の
それは露出済み映画フィルムに限定された
た。アメリカで出版されているスポーツ雑
グローバル化がひときわ進んだ時代でし
ものでした。これをサービス貿易において
誌のカナダ版(とはいえ内容の大部分はア
た。それはアメリカ圧勝の10年でもありま
もっと一般的な形にして採用したいという
メリカ版と同じ)に税金を課し、高い郵便
した。この間にアジアは高度の経済成長を
わけです。当然のことながらアメリカはこ
料金を適用していたカナダの政策が、アメ
果たしましたが、アフリカは取り残されまし
れに強く反対します。この対立は解消でき
リカによってガット違反としてW TOに提訴
た。経済が停滞すれば文化的活力も衰え
ず、結局テレビ、映画を含むオーディオ・ビ
されたのです。カナダの反論はW T O紛争
ます。最近の韓流ブームをみれば、多くの
ジュアル部門はウルグアイ・ラウンド交渉か
解決パネルおよびその上級委員会の容れ
国が、自国の文化産業を保護育成して経
らはずされることとなります。これが1993
るところとはならず、1996年にカナダは敗
済発展につなげたいという希望をもつこと
年のことです。
訴します。つまりカナダの出版物を優遇す
は自明といえましょう。文化多様性条約草
この翌年にはWTOを設立するマラケシュ
る措置をとることはできないこととされた
案交渉にあたってヨーロッパやカナダ等の
協定が成立しますから、ぎりぎりの時点ま
のです。
推進派が、発展途上国の支持を幅広く集
© Shen Hanhao (China) ※2 ハバナ憲章: 1948年、国際貿易雇用会議で採択された、国際貿易機構(ITO)憲章。貿易の自由
化や国際投資ルールなどを含めた当時としては先駆的な内容と言われたが、発効しなかった。
© Pisit Senanunsakul (Thailand) ACCUニュース No.351 2005.9
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ア ジ ア太 平 洋 文 化 へ の 招 待
めることができたのも、また中国が積極的
して何よりもガッツ2条の最恵国待遇義務
ず、どんどん多数決に付していくという采
な推進派であることもこういう文脈で理解
(すべて国のサービスを平等に扱わなけ
配振りでした。推進派の国々はきわめて連
できるわけです。
ればならないという基本的義務)に認めら
携よく、多数決でアメリカ提案をどんどん
フランス、カナダ等の推進派は、途上国の
れている義務免除が2005年に期限を迎え
葬り去っていきました。アメリカが最終日に
このような関心をうまく取りまとめ、各国文
る、という事情が大きいのです。つまりドー
会議終了を待たずに会議場を後にしたの
※3
化相の非公式グループである I NCP (Inter-
ハ・ラウンド の進展によって自由化圧力
も理由がないわけではありません。
national Network of Cultural Policies)
が大きくなる前に、ウルグアイ・ラウンドで
このようにして文化多様性条約草案、正
を立ち上げ、文化政策に関する国際ネット
失敗した「文化的例外」をユネスコに場所
確には「文化的表現の保護および促進に
ワークを築いてきました。ユネスコ総会で
を変えて実現したい、という意思が強くは
関する条約」草案は出席国多数の賛成で
2001年に文化多様性に関する世界宣言が
たらいていた、といえるのです。
採択され、10月のユネスコ総会に提出され
る運びです。もっとも秋の総会で再度実質
採択された後、わが国が無形遺産条約採
択に向けて努力している間にも、文化多様
性条約推進派は20 05年総会における条
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的な議論が再開される可能性がないわけ
ではなく、それによって条約の文言が修正
される可能性はゼロとはいえません。それ
約草案提出を求める多数派工作に成功し
ています。今回の条約交渉が2005年とい
こういう背景の下に、私は、2003年12月
ゆえ現段階での草案の文言に対する法的
う時間的目標を設定されていたのはそれ
から20 05年6月の間に、合計7回の会議
評価はもう少し時間をおいてすべきであろ
ゆえなのです。
に出席しました。会議全体を通して、アメリ
うと思っています。しかし現行草案の文言
しかし、そもそもなぜ2005年なのでしょ
カ対その他、という構図が鮮明となりまし
は、定義や保護措置等の観点から、W T O
うか。それはやはりW T Oと関係するので
た。アメリカは大代表団を送り込み、交渉
との整合性を慎重に検討する必要がある
す。先に述べたガット4条は、映画に関する
に本腰を入れていることが明らかでした。
ように思われます。他方わが国にとっての
量的輸入制限の特例を定めていますが、
しかし振り返ってみると交渉は今年2月の
メリットがありうるとすればそれは何か、と
他方同条d項は、加盟国はそれを制限 撤
会議でクライマックスを迎えていたといえ
いう観点からの検討も必要でしょう。
廃するための再交渉の義務を負う、と規定
るかもしれません。このときは全体会合の
いずれにせよ交渉全体を通じて推進派
しています。またガットに比べて義務の程
ほかに非公式ワーキンググループがいくつ
の結束は強く、この草案がユネスコ総会で
度が緩やかなサービス貿易協定(GAT S、
も設置され、わが代表団も分担して各会合
は圧倒的多数で支持を受けることは明ら
ガッツ)も、
「漸進的な自由化のための交
に張り付かねばなりませんでした。私もあ
かといえますから、これがそのまま条約と
渉義務」を加盟国に課しています。つまり
る作業部会を受け持ちましたが、2つの単
して採択される可能性は極めて高いといえ
加盟国は自国市場を自由化するための交
語の挿入を認めるか否かで、EUやブラジ
ると思います。
渉をすべき義務を負っているわけです。そ
ル代表と5時間議論が必要なほど厳しい
振り返ってみると、戦争の反省から生ま
交渉でした。全体的に議論は膠
れた自由貿易体制が、半世紀あまりを経て
着状況に陥ったと思えるほどで、
制度疲労を起こし始めた、といえるかもし
今後どのように進んでいくのか
れません。私は、自由貿易体制が文化によ
先が見えない感がありました。こ
って揺らぎはじめたその歴史的瞬間に立
れが変わったのは、南アの元文
ち会えたのかもしれないのです。
化相アスマル全体会議議長に負
うところ大です。いい方向に変わ
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ったのかどうかは評価が分かれ
京都大 学法学部 卒 、同大 学 院 修了。1986年九州
大 学 法 学部 助 教 授、9 7年より現 職 。専門は国 際
私法、国際民事手続法、国際文化財保護法など。
2003年秋に成立したユネスコの無形遺産条約及
び文化多様性条約の起草に専門家及び政府代表と
して参加。
るでしょう。今年5月の第3回政
府間会議ではコンセンサスとい
© Subimal Das Swapan (Bangladesh)
うユネスコの慣行にもかかわら
※3 ドーハ・ラウンド: ドーハ開発アジェンダ。2001年11月にカタールの
ドーハで行われたWTOの多角的貿易交渉。21世紀の世界貿易のあり
方を検討し、新たな規定を決めるための交渉を開始しようとするもの。
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ACCUニュース No.351 2005.9
写真はすべて2000年ACCU 写真コンテスト"Living
in Harmony (
" 「平和−違いを超えて」)
入選作から