知求会ニュース 2011 年 04 月 ◎ 第 37 号 博士前期課程、修了おめでとうございます! 2011 年 3 月 24 日木曜日午後 1 時 10 分から国際学部 A 棟 4 階大会議室にて、2010 年度 学位記手渡し式が開催されました。 今年度の修了生は、国際社会研究専攻 石井直子さん、叢 佩傑さん、高橋清人さん、舘 野治信さん、張 君雪さん、中山利之さん、ビー 竟さん、包 福徳さん、苗 苗さん、楊 柳 さん、呂 素素さん、近藤 香さん、神山英子さんの 13 名と国際文化研究専攻 荒井 満さん、 加藤 映さん、チャイ 普光さん、楊 逸如さん、范 喜春さん、胡 涵さん、匂坂宏枝さん、 馬 振さん、バンストーク・ブレンデン・ガブリエルさん、冨田茉莉さんの 10 名、そして、 国際交流研究専攻の第 6 期生 井戸田邦彦さん、角田亮子さん、櫻井留美さん、章 斯思さ ん、張 京花さん、デ ドラ イバザ セシル ルドビナさん、平岡慶子さんの 7 名で、計 30 名でした。 17 年度より、学業優秀者に贈られる宇都宮大学奨学金 (奨励賞)に、国際学研究科の 1 名と して笵 喜春(国際文化研究専攻)さんが受賞されました。 ◎ 博士後期課程 第 1 期生博士号取得、おめでとうございます! 方 小贇(国際学研究専攻・1期生)さんが、3 月 24 日(木)に博士後期課程 第 1 期生の中で、 昨年度の戸川さんに続いて第2号の博士号学位を授与されました。 ◎ 博士後期課程、進学おめでとうございます! 苗 苗(国際社会研究専攻・11 期生)さんが、2011 年 4 月から立命館大学大学院 経営学研究 科 博士課程後期課程 に進学されます。 舘野治信 (国際社会研究専攻・11 期生)さん・范 喜春(国際文化研究専攻・11 期生)さんの 2 名が宇都宮大学大学院 国際学研究科 博士後期課程 国際学研究専攻に進学されます。 ◎ 内山雅生国際学研究科長・国際学部長選出 内山雅生先生が 4 月 1 日から任期 2 年間で選出されました。詳細は掲載記事紹介4を参 照して下さい。 ◎教職員人事異動 岡田 三郎名誉教授 地球文化形成研究講座の岡田先生が 3 月 31 日付で定年退職されました。宇都宮大学には 1989(平成元)年 4 月から在籍され、多くの方が先生にお世話になったことと思います。大 学院同窓会では、さまざまなことで大変お世話になりました。 1 伊藤 一彦名誉教授 国際社会交流研究講座の伊藤先生が 3 月 31 日付で定年退職されました。宇都宮大学には 1995(平成 7)年 4 月から在籍され、多くの方が先生にお世話になったことと思います。大 学院同窓会では、さまざまなことで大変お世話になりました。 杉原 弘修名誉教授 地球社会形成研究講座の杉原先生が 3 月 31 日付で定年退職されました。宇都宮大学には 1971(昭和 46)年 4 月から在籍され、多くの方が先生にお世話になったことと思います。大 学院同窓会では、さまざまなことで大変お世話になりました。 品川 昇さん 2 年間在籍されていた事務長の品川さんが 4 月 1 日付で農学部事務長に異動されました。 後任には、野澤待子さんが着任されました。 大野 和隆さん 2 年間在籍されていた総務係長の大野さんが 4 月 1 日付で総務課法規・調整係長に異動さ れました。後任には、小堀朋彦さんが着任されました。 ◎ 着任教員紹介その 11 松村 史紀(MATSUMURA Fuminori) 専門:国際政治学、現代中国政治外交 前職:大阪国際大学講師 趣味:ジブリ映画の鑑賞 自己紹介:2011 年 4 月 1日より国際学部専任講師に赴任いたしました松村史紀と申します。 専門分野は国際政治学ですが、なかでも中国をめぐる東アジア国際政治を勉強しています。 さて今回、東北関東地域を中心に起こった大震災に被災された方々に、心からお悔やみ・ お見舞いを申し上げます。 私は京都に生まれ、京都に育ちました。大学院に進学するとき、初めて関西をはなれ、 東京にやってまいりました。大学院時代に、日光や鬼怒川温泉に旅行に行ったことはあり ましたが、宇都宮に訪れる機会はこれまでありませんでした。すべてが不慣れであります ので、毎日が勉強になることと思います。 研究においても、教育においても、私は三つの「I」を大切にしたいと思っています。 Industry(勤勉さ) 、Interesting(面白さ) 、Imagination(想像力、さらには批判的精神) です。社会のことを考えるには、語学の習得やデータ収集など、とにかく勤勉さが要求さ れます。その勤勉さを支えてくれるのが、好奇心だと思います。これに加えて、与えられ た社会が公正であるかどうかを、常に問いなおす想像力と批判的精神がやはり必要でしょ う。いずれも、今の私には不足していますが、こちらの大学でそれぞれ身に着けていきた いと思っています。どうかよろしくお願いします。 (2011 年 3 月 22 日原稿受理) 2 大野 斉子(ONO Tokiko) 専門:ロシア文学、比較文化(ロシア-フランス) 、表象文化論 前職:青山学院女子短期大学非常勤講師 趣味:読書、園芸、料理 自己紹介:はじめまして。大野斉子と申します。2011 年 4 月から国際学部で表象文化論、 芸術文化論を担当します。 専門はロシア文学とロシア・フランスの比較文化、表象文化論です。大学時代にもともと フランス語を勉強していましたが、ドストエフスキイの小説『地下室の手記』を偶然手に 取って読んだことをきっかけにロシア研究の道に入りました。 ロシア文学や宮廷生活、芸術、ファッションなどの帝政ロシア時代の文化をフランス文化 との比較の視点から研究しています。現在ではシャネル№5 の調香師と帝政ロシアの香水産 業について研究しています。 ロシアは魅力に満ち満ちていますが、隣国の割になじみのない国かもしれません。ですが 文化は国境を越えて関係しあい、そこには人の営みがあります。授業では私たちもまたそ のただ中を生きているということや、自分の興味を広げ、多角的な視点を持つことを学ん でいきたいと思います。 宇都宮に住むのは初めてです。どんなところなのか、大学ではどんな学生たちが待ってい るのか?宇都宮大学での新生活を楽しみにしています。 (2011 年 2 月 8 日原稿受理) ◎ 2 月入試合格結果 国際社会研究専攻 一般 1 名・社会人 0 名・外国人 2 名 計3名 国際文化研究専攻 一般 0 名・社会人 2 名・外国人 3 名 計5名 国際交流研究専攻 一般 2 名・社会人 3 名・外国人 国際交流・国際貢献活動経験者 ◎ 3 名・ 1名 計9名 合計 17 名 掲載記事紹介 1.放送大学栃木学習センター広報誌『とちの実』第 76 号(平成 23 年 1 月発行)に、 「入試シ ーズンに思う―選抜入学試験のない放送大学の幸せ―」と題して、柏瀬省五先生の原稿が 掲載されました。詳細は、http://tochigi.sc.ouj.ac.jp/backnumber からご覧下さい。 2.下野新聞 平成 22 年 12 月 5 日(日) 朝刊4面に、 「増え続ける外国人児童生徒 早期対応、 保護者支援を」と題して、HANDS プロジェクトの記事が掲載されました。 3.下野新聞 平成 22 年 12 月 9 日 (木) 朝刊 24 面に、 「アフリカの食文化学ぶ 国際理解講 演会」と題して、講演者の阪本公美子先生の記事が掲載されました。 4.下野新聞 平成 23 年 1 月 28 日 (金) 朝刊 4 面に、 「国際学部長に内山氏を選出」と題して、 内山雅生先生の記事が掲載されました。 3 *『HANDS next―とちぎ多文化共生教育通信』のお知らせ 2007 年 9 月 20 日に、ニュースレター『HANDS』第 1 号が発行されました。2010 年度 より宇都宮大学特定重点推進研究グループ通信『HANDS』がリニューアルされ、 『HANDS next』として再出発することになりました。 第4号(2011 年 3 月 4 日) 特集 子ども教育フォーラム 2010 「外国につながる子どもの教育問題を考える」 フォーラム報告① フォーラム報告② 私の体験談 梁 恵林 高校へ進学する息子を持って 石和スワンニー 外国人の子どものための進学ガイダンス主催者交流会に参加しました! HANDS プロジェクト コーディネーター 矢部昭仁 第2回 多文化共生フォーラム報告 内地留学をして学んだこと 国際学部教授 田巻松雄 大田原市立寒井小学校教諭 平田由美子 シリーズ;学生ボランティア派遣体験記2 支援の輪の広がりを願って 国際学部社会学科 4 年 学生ボランティアを受け入れて 戸部直樹 佐野市立城東中学校日本語教室担当 野村智子 事務局便り ・―HANDS プロジェクトからのお知らせ― 『教員必携、外国につながる子どもの教育~基本編~』刊行予定 ・平成 22 年 9 月からの HANDS プロジェクト活動内容 ◎ 平成 22 年度 第2回 各学部等同窓会連絡協議会報告 2011(平成 23)年 2 月 10 日(水)午後 4 時から、大学附属図書館 3 階会議室にて、平成 22 年度第2回 各学部等同窓会連絡協議会が開催されました。出席者は進村武男 学長・馬場 敬信 理事・渡邉直樹 理事・石田朋靖 理事・國友孝信 理事の大学側 5 名と事務局担当者 5 名、吉葉恭行 国際学部同窓会会長・土屋伸夫 国際学研究科同窓会会長・小林春雄 教育学 部同窓会会長・柴田 毅 同副会長・阿久津嘉子 同事務局長・和賀井睦夫 農学部同窓会会 長・笠原義人 同副会長の同窓会側 7 名でした。議事内容は、検討事項として、1.各学部 同窓会の活動報告等について、2.大学に対する要望等について、3.その他、そして大 学の現状報告等がなされました。 ◎ 国際学部だより 1.掲載記事紹介 ・UU now Vol.24 (平成 23 年 3 月 20 日発行) 1~3 頁に、OB.OG.INTERVIEW「世界は変えら れる」と題して、国際学部 OG の小野由香子さんの記事が掲載されました。 (http://www.utsunomiya-u.ac.jp/info/uunow/index.html) 4 ・読売新聞 平成 22 年 11 月 19 日(金) 朝刊地方版に、「海外留学巡りシンポ 宇都宮大」と 題して、参加者の国際学部 1 年(掲載当時)山本海渡さんのコメントが掲載されました。 ・読売新聞 平成 22 年 12 月 15 日 (水) 朝刊地方版に、 「宇大 250 人参加で就職説明会」と 題して、参加者の国際学部 3 年(掲載当時)酒井理恵さんのコメントが掲載されました。 研究室訪問 28 第 9 号から国際学研究科に関係する内外の先生方に寄稿をお願いしたコ ーナーを設けました。第 28 回には、地球文化形成研究講座所属の岡田三郎先生にお願いし ました。 「美学と想い出」 岡田三郎 美学で卒論を書いて四十年余り最近の小文は「ヴィジョンと念願:岡倉天心と柳宗悦の 批評的源泉」 (国際学部研究論集 2011)です。 遍歴托鉢僧の憩うアジアの田舎の光景と下手ものとよばれた日常雜器とがかれらの美と批 評の基準です。これをふたりの本を読みながらそのことばにしたがって引用し覚書き風に まとめました。かれらの視線と考え方が二十世紀の芸術論から孤立したものではないこと に気付きます。 「プラトーン『イオーン』における「ホメーロスについて語る」ということ」 (美学会口 頭発表 1973)からはじめてしばらくギリシアの美学を勉強しました。 朗唱詩人イオーンはホメーロスの詩句の朗唱とともに作品解説のようなこともする人とし て描かれています。その作品解説が技術によるものか inspiration によるものかというのが その対話篇のテーマです。こうしてギリシアの神話的思考に出会います。 二十世紀に帰ってきたのは意外にも神話的な感じ方考え方を媒介としてで「場所への郷 愁:美的環境形成論のために」 (『メタ環境としての都市芸術—環境美学研究—』科研報告書 代表・井村彰東京芸術大学助教授 2000)あたりからです。 人が居場所を変えることを余儀なくされる時代の芸術と批評が nostalgiaに発する様相に 興味をもちました。そのことについてギリシアに半分二十世紀に半分 H.Read と A.Camus の自伝的回想的作品に依りながら作りました。 二十世紀が終わって気がつくと古代にもギリシアにもまたその世紀の英国やアルジェリ アやフランスにも行ったわけではなく今この花の島にいます。その漂流は錯覚だったよう です。ここはここでまたおもしろくて欧米の文化文明の波に洗われてこの島の古層が顕現 します。先にあげたかれらの美学思想の源流をたずねるとすれば中国やインドということ になりますがその先にそれらを超えたここの自然が見えてきます。 以上は2月の最終講義のプリントです。 研究室での仕事は読むことと書くこととの二つでそこに講義や演習の授業が成り立ちま す。時に少人数の大学院の授業は研究室で行いました。学生や大学院生にはたいへん多く のことを教わりました。またたとえば講義の内容についてよく私のわかっていないことや 5 話すのがむつかしいことなどについて勉強しなければなりません。その勉強の契機を与え ていただき感謝しています。 最後になりましたが今回の大地震での犠牲者の方々にたいし謹んでご冥福をお祈りいた します。 (2011 年 3 月 20 日原稿受理) 博士録 11 第 22 号から今後の博士誕生を鑑み、新コーナーを設けました。第 11 回目には 一昨年秋に学位授与された梁 智英さんにお願いしました。執筆者から入稿がありませんの で掲載を見送りました。 知究人 16 第 9 号から特に、国際学部出身者で他大学院へ進学された方に、寄稿をお願 いしたコーナー(ちきゅうびと)を設けました。 第 37 号の第 16 回目は、京都大学大学院に 進学された田巻研究室 OG のグェンティさんにお願いしました。 「弱さの交差点で」 京都大学大学院教育学研究科臨床教育学講座博士後期課程 グェンティ ホンハウ 私は 2008 年の 3 月に国際学部国際社会学科を卒業し、その年の4月に京都大学大学院教 育学研究科の修士課程に入学。それから 3 年が経ち、早くも博士後期課程の二年目に入ろ うとしています。ここで私が専攻しているのは「臨床教育学」 (Clinical Pedagogy)という 少し聞き慣れない若い学問です。「臨床」 (clinical)という言葉を聞いて医療現場を思い浮 、 、 かべる方も多いかと思いますが、この言葉は文字通り「床に臨む」 、つまり「ベッドサイド で」というのが原意で、ここでは医療現場に限らない人間の命の営みを含んだ広い意味合 いを持っています。 さまざまな人間の生の営みは「床」 (ベッド、布団)の上で起こります。人は「床」に横 たわる母親から生まれ、一人では何もできない赤ん坊の時間を「床」で過ごします。そこ で多くの人は母乳を与えられ、おむつを替えてもらい、泣けばあやしてもらい、そうやっ て無条件に他者に受け入れられる経験します。むしろ、そうでなければ生きてはいけない 「弱さ」を持って人は生まれて来るとも言えるかもしれません。 人は、成長し、何歳になっても、病気や怪我をすれば「床」で休み、誰かに世話をして もらわなければなりません。また、人が誕生する、そのきっかけも「床」の上の出来事で すし、多くの人は「床」の上で死を迎え、「床」に臨み大切な人を看取ります。「床」の上 では、人はこのうえなく無防備になり、時には目を逸らしたくなるほどの「弱さ」を曝け 出さなければなりません。また、そのような人の「弱さ」を目の当たりにし、受け入れ、 時には受け入れきれずに、葛藤しなければならないこともあります。 そんな「床」の上で起こる人間の生や性、病や死に臨もうとする眼差し、生まれながら 持っている「弱さ」を忘れず、自らのその一人として「人間」を考えていこうとする眼差 6 し、もしくは、元気で健康で働き盛りの人間の姿だけではなく、生まれたばかりの赤ん坊 や心身の不自由を抱える人、老いてゆく人間の姿を捉えようとする眼差し、そして、生命 と生命がつながり循環していく風景の中で目の前の一人の相手と向き合ってゆく眼差し。 これらが「臨床」という言葉には込められているのです。 私が大学院を志したきっかけに「あかつきの村」という施設との出会いがありました。 そこには、ベトナム難民として日本に来て、異国での慣れない生活や、ことばの問題、き つい労働、孤立した生活、複雑な人間関係から重い心の病を発症した人たちが生活してい ました。私は、その中のある男性の言葉「自分が生きていても社会に何の利益にもならな い。ただその日をやり過ごして死ぬのを待つだけだ」を聞き、どうしたら「そんなことは ない」と応えることができるのか、そのような関わり、社会とはどのようなものかを問う ことが自分の問題であると思うようになりました。そこで私の課題となったのが、他者を 切り捨てることなく関わるなかで形成される人と人の結びつきや、そのような関わりに支 えられて成長していく人間の姿を明らかにしていくことだったのです。 「弱さ」を介して人と人を結びつけ、人が生きていく営みを根底で支えてくれる時間や 存在や関わりがある。そんな時間や存在や関わりが、人が生まれ、成長し、死んでゆく中 で、いかに必要か。なぜ必要か。そんなことを明らかにしながら、改めて人を教え育てて ゆく「教育」の姿を新しく描いてゆくことが「臨床教育学」を志す自分の使命だと思いな がら、私は日々学んでいます。 <参考文献> グェンティ ホンハウ 2009「弱さの交差点で:それでもなお意味がある」日本ホリスティ ック教育協会編『ホリスティック・ケア』せせらぎ出版 (国際学部 国際社会学科 2008 年 3 月卒業生) (2011 年 2 月 17 日原稿受理) 海外だより 10 第 27 号から国際学研究科、国際学部出身の海外在住者からの寄稿をお願 いしたコーナーを設けました。自薦・他薦を問いませんので、海外在住者の積極的な情報 提供を事務局にお寄せ下さい。今回は、ミャンマーに赴任中の JICA 職員である吉田直子さ んにお願いしました。 「ミャンマーよりご報告」 吉田直子 ミャンマーよりこんにちは!JICA コーカン特別区麻薬対策・貧困削減プロジェクトで保 健・教育を担当する吉田直子です。ミャンマーに赴任してはや 2 年半が経ちました。本稿 では、これまでの現場での経験を振り返り、皆さんと共有したいと思います。 本プロジェクトの対象地域であるコーカン特別区は、ミャンマー北シャン州と中国雲南 省が国境を接するあたりの山岳地域にあります。人口は 15 万人ほどで、山間に広がる村々 には、漢族の血をひくコーカン族や少数民族であるパラウン族、ミャウ族などが米やとう 7 もろこし、茶などを作りながら昔ながらの生活を営んでいます。 コーカン特別区の農家は、100 年以上にわたってケシ栽培により生計を立ててきました。 しかし 2003 年にケシ栽培が全面禁止になると、農家の現金収入の道は閉ざされ、食料や薬 を買ったり、子どもの学費を払ったりすることが難しくなりました。そうした中、農家が 再びケシ栽培に戻らないよう根本的な貧困削減をすることをねらいとして、2005 年に農業、 生活改善、保健・教育からなる包括的なプロジェクトがはじまりました。 私の担当する保健・教育では、「子どもたちが健康であり、教育を受けられること」を目 指して、マラリア対策、学校保健、地域保健、教育環境改善、識字教育に力を入れてきま した。また、人と場の両方が大事であるとの考えから、小学校改修やヘルスセンター建設 などのインフラ整備(ハード面)と現場で子どもたちと直接関わる教師や保健スタッフの キャパビル(ソフト面)を組み合わせて活動してきました。 振り返ると山あり谷ありでしたが、上に述べた活動をしっかりと行ってきた結果、現場 の教師や保健スタッフの能力は向上し、子どもたちによりよい教育、よりより保健サービ スを届けられるようになりました。また、一緒に仕事をしてきた政府カウンターパートも プロジェクトで経験を積むことによって成長し、主体的に物事を動かしていけるまでにな りました。これまでの経験から一番大切なのは人であり、人が努力し成長することでプロ ジェクトも成長できたと感じています。 6 年間続いたプロジェクトは 3 月で終わりを迎え、貧困削減の努力はミャンマー政府の関 係省庁に引き継がれます。これからはカウンターパートが中心となり、現場で働く人たち と力を合わせて、コーカン特別区の農家の役に立つ仕事を続けていけることを願っていま す。 (国際学部 国際社会学科 2002 年 3 月卒業生) (2011 年 3 月 23 日原稿受理) 海外留学今昔 03 第 35 号から国際学部出身者および在学者を中心とした海外留学体験 の寄稿をお願いしたコーナーを設けました。自薦・他薦を問いませんので、海外留学経験 者および海外留学中の在学者の積極的な情報提供を事務局にお寄せ下さい。今回は、タイ 王国・カセサート大学に留学経験のある 1 期生 OG・大畑美優紀さんと同じくカセサート大 学に留学していた学部生の田中大地さんにお願いしました。 「タイ国立カセサート大学短期留学」 大畑美優紀 振り返れば、15 年近く前の話になってしまいました。私は、大学 2 年時の 1996 年の 9 月より 1 年間、文部省(現文部科学省)短期留学派遣制度のもと、タイバンコクにある国立カ セサート大学人文学部タイ語学科に在籍しました。 当時は、宇都宮大学とカセサート大学は既に協定校でしたが、実際交流があったのは農 学部と工学部のみ。一方、カセサート大学自体も日本からの留学生の数はまだ少なく、農 8 学部の大学院に数名いた程度で、ほとんどがインターナショナルプログラム(ローカル学生 とは別の英語プログラム) に所属していましたから、私のように文系で、留学期間が1年と 短期、しかもローカル学生と同じ授業を受ける日本人留学生の受け入れは初めてだったよ うです。国費留学生として協定校からの前例のない中での受け入れられただけに、正直カ セサート大学側も私をどう扱っていいのか、といったところだったのでしょう。事実、私 が大学生活を送る上での決まり事はほとんどなく、受講科目に必須や制限がありませんで したので、人文学科タイ語学科に所属したものの、他学部で受けたい授業があれば、指導 教官の計らいの下、受講が可能となりました。 そのような自由度の高い中で、私が前半選択した科目は、教育学部のタックロー(蹴鞠)、 タイ剣舞、タイ舞踊、芸術学科の二胡演奏など(タイボクシングは女性ということで受講でき ず)。留学スタート当時、私のタイ語学習暦は1年半。基本中の基本しか知らない程度での 留学でしたから、最初は友人との意思疎通もままならないものでした。ですから、留学の 前半は、言葉をそれほど必要とせず且つタイの文化を学べる授業に積極的に参加したので す。その後留学生活も後半になると、社会学部のタイ社会についての授業に参加したり、 タイ語学科の授業でも友人の前で自分の意見を発表する機会がだんだんと増えるようにな りました。 私がタイ社会や文化、言葉を学ぶ上で、大学の授業を受講するということは言うまでも なく重要でしたが、一方で、タイ人との人間関係や考え方を学んだのは、タイ人との寮生 活、そして部活への入部を通した、タイ人との共同生活の経験からでした。 留学生活2ヶ月頃まで、私は大学が用意した日本人の大学院生や中国人研究員の住む外 国人寮で生活していました。寮に帰れば日本語が通じる生活。この生活に決別しようと、 タイ人学生寮への入居を希望しましたが、その時期部屋に空きがなく断念。代わりに、指 導教官が、同学科の先輩が卒業までの3ヶ月間、校外のアパートでのルームメイトを探し ていると紹介してくださり、念願叶ってタイ人との共同生活をスタートさせることができ ました。アパートはドアを開ければすぐに部屋、そこにボンとベッドとタンスが置いてあ るのみ。ベッドもタンスも2人で共同利用。まさに正真正銘のルームシェアでした。また、 アパートには、私たち以外にも同大学の生徒、特に女子学生が多く、隣の部屋には一部屋 に4人もの学生が同居していましたから、正直驚きました。その後、ルームメイトの先輩 の卒業と同時に、タイ人寮への入居許可が降りたため、私はアパートを出て、次は4人部 屋の寮へと引っ越し。寮の部屋は、四方にベッドが置かれ、特に仕切りもないので、プラ イバシーゼロの世界。しかし、アパート生活で少し免疫が付いたからか、大勢での生活に それほど抵抗なく馴染むことができたようです。寮での生活は、食事は学食で買ってきた ものを部屋に広げてそれを囲って皆で食べる。もちろん別の部屋の住居人も大勢交じり、 毎日にぎやかでした。女の子ならではの恋愛やファッションの話題も、ひとつひとつがタ イの考え方を学ぶ上で貴重なひと時でした。 そして、ダープ・タイ (タイ剣舞・タイフェンシング)部への入部。この部活動への参加に 9 よって、さらに留学生活が充実したものになりました。当初部活への入部は全く考えてい なく、一授業として参加していましたが、いつの間にか毎日練習に行くことになり、気が 付けば一部員となっていたのですから、縁とは不思議なものです。部活動では、試合のた めのタイ・フェンシング、舞台のための剣舞があり、私は主に剣舞の練習に励み、帰国ま での約9ヶ月間で5~6回ほど舞台を踏みました。剣舞は戦いの舞。ペアとの息が合うま で何度も練習し、舞台近くになると帰宅はいつも22時近くでした。日常の練習は厳しい ものでしたが、部活動を通して、大学祭やロイグラトーン祭(灯篭流し)、部活の合宿や旅行 等、様々な行事に参加することができ、タイ人との共同生活・共同作業の中で多くのこと を学ぶことができました。また、人間関係の幅も広がりました。今までタイ語学科やたま に出入りしていた日本語学科の友人しかいなかった中で、部活動に入部したことで、様々 な学部の友人や先輩後輩と知り合うことができ、さらには今もなお部活の存続を支援する 幅広い年齢層の OB の方々とも知り合いになることができました。今でもその縁は切れる ことなく続いています。 留学を終え、宇都宮大学に戻ってからは、引き続きタイをテーマに修士課程で研究を続 け、社会人になってからは、栃木県内の在日タイ人の支援に様々な形で関わってきました。 特に、家庭教師や宇都宮市教育委員会の日本語講師としてタイの子供たちと関わる機会が 増えるようになってからは、子供たちが抱えている問題を目の当たりにし、子供のメンタ ル面や学習面での悩みをケアしてあげたいと、 「デック学習室」というボランティア活動を 始めました。現在は、後輩の方々が活動を続けてくださっています。留学の目的や、留学 後の道は人それぞれですが、留学で学んだことをどう活かすかは、自分の行動次第です。 現在私は4年前の結婚を機に、一市民としてタイで生活しています。留学当時と比べる と、タイもだいぶ変わりました。1997 年のバーツ危機で建設が中断し廃虚化していたビル も、今では建設ラッシュ。都内にはスカイトレインや地下鉄が各地に伸び、地方にも大型 ショッピングセンターやスーパーが当たり前に見られるようになりました。カセサート大 学も、高層棟が増え、郊外の大学というイメージはなくなったのではないかと思います。 そんな中でも変わらないものがあります。それは、人間関係。10 数年ぶりに再会しても、 その人柄も、人間関係も当時のまま。タイの人たちには、時の流れを感じさせない不思議 な何かがあるようです。 今こうして原稿執筆という機会のもと、タイと関わってきた 16 年間を振り返ってみまし たが、今の自分があるのは、常に私を支え、励まし、導いてくださった多くの方々の存在 があってこそだったと改めて感じています。その多くの方々との出会いに感謝し、これか らもひとつひとつの出会いを大切にしながら歩んでいきたいと思います。 最後になりましたが、後輩の皆さんが、留学を通して、幅広い体験やよりよい出会いに 恵まれることを、心から願っています。 (国際学研究科 国際社会研究専攻 第 1 期修了生) (2011 年 3 月 26 日原稿受理) 10 「タイへ留学」 田中大地 僕はタイに留学することが決まってからずっと1つだけ心配に思うことがあった。それ は留学先の大学で友達ができるかどうかである。新しいモノに触れたい、今しかできない ことを経験したい、そんな期待を胸に留学を決意したものの、自分があまり社交的でない 性格であり、初対面の人が苦手なのは自分が良くわかっていた。しかし、そんな心配もタ イにおいては不要であった。僕は留学中に何度友達に優しくされ、笑わされ、助けられた か分からない。 僕は大学 1 年の時から 3 年の前期まで宇大でタイ語を勉強し、後期からタイのカセサー ト大学に留学した。留学直後こそ友達ができずに悩んだりしたが、農村地方に 4 泊 5 日の 泊まり込みで社会調査をする実習に参加したのをきっかけに友人の輪が一気に広がった。 農村に滞在中、教授は僕に学生約60 人、教授3人の前でその日自分が見たこと、感じた こと、発見したことを毎晩発表するよう課した。教授からしてみれば、タイ語がうまくな い僕にとっても実りのある実習にしてもらいたいという計らいがあったのだろうが、人前 での発表など日本でもほとんどしたことがなく、恥ずかしいのでできればしたくないと思 っていた。結局言われたとおりに身振り手振りも加えてたどたどしいタイ語で毎晩発表し たのだが、学生は皆真剣に僕の話を聞いてくれ、緊張で言葉を詰まらせてしまうと皆「大 丈夫だよ。」と笑って緊張をほぐしてくれた。毎晩の発表の緊張感は日に日に薄れ、学生と の距離も目に見えて近くなっていった。 実習の最終日の夜、学生も教授も皆ホールに集まって打ち上げを行った。学生が各自こ の日のために用意したダンスや出し物を披露して会場が大いに盛り上がったところで、司 会役の学生が気まぐれに僕の名前を呼び、音楽に合わせて 1 人でダンスをするようお願い した。それに合わせて学生、教授も皆拍手しながら僕のほうを見るので、僕は一気に血の 気が引いた。もちろん、僕は事前に知らされていたわけでもなく、ダンス経験もなく、相 当なリズム音痴である。そうなってしまった以上仕方がないので、僕は覚悟を決めそのク ラシック調の音楽に合わせて手足を不器用に振りながら動き回ったが、その日一番の拍手 と笑いをいただき、皆に「ダイチ」という名前を覚えてもらった。 タイの一番の魅力は人の温かみであると思う。自分のことを他のタイ人学生と同じように 面倒を見て、可愛がっていただいた教授の方々、最初は遠慮気味だったが一度仲良くして しまうと心にずかずかと入ってくるタイ人学生には今も感謝の気持ちが絶えない。僕は他 の国ではなくタイだったからこそこのような充実した日々が送れたのだと思う。また、宇 都宮大学のタイ語の講師、マリー=ケオマノータム先生、泉田スジンダ先生のお二人の楽 しいタイ語の授業がなかったら僕は留学を思いつくこともなかっただろう。先生方にはこ の場を借りて改めて感謝申し上げます。 (国際学部 国際社会学科 3 年在学生) (2011 年 3 月 21 日原稿受理) 11 フォーラム 2011 年の卯月を迎えて、皆様慌しいことと思います。(原稿集めに苦労して います。 ) 今回は、伊藤一彦研究室 OB の湯濱さんと名古屋大学大学院国際開発研究科博士 課程(後期課程)に進学された友松研究室 OG のシナヴォン ポンヴィライさんにお願いしま した。 「中国大連の日本語教育とその背景」 SET ソフトウェア㈱ 湯 濱 中国東北遼寧半島の大連に日本語人材が多い、大連は日本人に優しい町だと良く言われ ている。いろいろリサーチした結果、私が就職した会社はそこにオフショア第 1 号の支店 を出した。 2004 年、大連支店が立ち上がった翌年、会長の指名で私は大連へ総経理助理として赴任 し、2006 年 9 月まで約 3 年大連に常駐していた。 大連支店に4つの事業部があり、全部日本向けの仕事を受注している。いわゆるオフシ ョア開発、バッグオフィスの業務形態。当然社員に業務内容によりある程度の日本語能力 を求めている。会社全体の運営において総経理を支えながら、社員の採用・教育をメイン に携わってきた。求めている人材とスキルが以下表 1 の通り。 表1 ポジションランク 部門長 グループリーダー 必須日本語能力 専門知識 日本での仕事経験あり、 ビジネス日本語が堪能 専門知識が高く、指導能力あり 日本語能力試験 1 級 中国で日本向け仕事経験あり、 日常会話が可能 指導力あり 中国や日本での実務経験あり、3 経験者 仕様書・設計者の読み書きが可能 年以上 指導なしで一人でやっていける 新卒 日本語能力試験 2 級 理論知識あれば可 難易度から見ると下から 2 番目までは一番集まりやすい。普通求人広告を出せば、3 日以 内 5 倍から 10 倍の応募が殺到してくる。部門長とリーダーも予想したほど苦労せずに採用 できる。優秀な人材を順調に確保した上、会社業績も年々上昇カーブを描いており、計画 通りに規模拡大ができた。 他の都市と比べ、なぜ大連にこんなに日本語人材が多いのでしょうか?その理由は何で しょうか? まずこれら日本語人材のできた元から探っていきたいと思う。 12 一 基礎日本語教育の普及。大連に中国でも屈指の大連外国語大学日本語学部以外、各大 学、短大、専門学校、職業訓練学校まで漏れなく日本語授業が設けられており、日本語 2 級、3 級ぐらいの基礎を持っている学生が珍しくない。 二 日本語教育における各企業の積極的な推進の結果。当社が入園しているソフトパーク を例にすると、ほとんどの企業が社員の日本語教育に熱心的で、いろいろな形で展開して いる。当社では、毎週の火曜と土曜に大連外国語大学の先生を高い時給で招いて夜間クラ スを何年間も一貫して開設しつづけてきた。このほか、朝礼での発言やメールでの業務連 絡、日報作成も全部日本語でやれとトップダウーンで決められていた。また、参考資料も 日本語資料を多数揃えている。 三 日本からの帰国者が多い。日本で大学や専門学校を出た学生は毎年職を求めてたくさ ん大連にやってきている。これ以外、子供の教育や親孝行などのため、中国へ帰国し大連 に定住するキャリア持つ夫婦や家族もよくある。 四 日本本社への研修・出張者が多い。オフショアに業務移管する上、当然ノウハウの伝 授や業務の引き継ぎが必要のため、研修や出張者はたくさん来日している。数週間や数ヵ 月間日本に滞在・生活していて、自然にビジネス日本語や日本の商習慣を身につけた人も 少なくない。 次に、日本語人材が大連に集まる背景を考察したい。 一 大連市の誘致努力 大連は遼寧半島の端っこに位置し、海の向こうは日本、韓国であ る。この地の利を活かすために大連市は長年に渡り日系企業の投資を積極的に誘致してき た。その誘致の成果としてソフトパークを例にして説明したいと思う。ソフトパークの場 所は元々辺鄙の村で誰も来ない、知らないところだった。1996 年ここにパークができ、2006 年になって全パークの売上合計はなんと 400 億元、従業員は 2 万人以上に達した。前記数 字の 8 割が日本から受注している。この「無煙工業」のお陰で、パーク周辺の町が著しく 発展した。わずか 10 年で回りにたくさんのマンションが開発され、価格も年々値上がりつ つある。大連市は更なる発展を図るため、インフラ投資を拡大する一方、企業への優遇政 策、人材誘致の戸籍・所得減税などの施策を多数出している。 二 一流企業の進出 ソフトパークに世界の有名企業はどんどん支店や子会社を出してい る。日本企業には SONY、松下(現在の Panasonic)、NTT データ、住友電装、日本 IBM、 日本 HP、沖電気、CSK、Livedoor などがあり、アメリカ企業に GE、アクセンチャー、 DELL などがある。これら有名企業が集まり、人材に活躍のステージを提供している。 三 優れている待遇 私の実体験をここで話させて頂く。ある日大連空港からソフトパー クへタクシーに乗った。会社に着いて清算する間、運転手から話をかけてきた。 「ここで就職できて、いいね。きっと月給 2500 元でしょう?」 「え?2500 元?うちでは安 い方だよ」と私は言わんばかりだった。もちろん部門とスキルにより若干差があるが、大 体表 2 の金額が一般的だった。 13 表2 (※いずれも 2006 年のデータ) 14.58 円 / 1 元 人材ランク 部門長 月給 10,000~40,000 元 グループリーダー 5,000~12,000 元 経験者 3,000~ 8,000 元 新卒 1,500~ 2,500 元 表 2 の通り、日本大学卒プラス大手企業の勤務経験があれば、収入はそれほど日本と変 わらない。大連の物価水準を考えると、むしろ大連での実収入が高いと言える。給与以外、 中堅社員とリーダーに 3 か月から 1 年ぐらいの日本研修のチャンスもしばしばある。日本 研修の場合、経費は会社全額負担のため、出張手当も全部自分の収入となる一方、業務ス キルや日本語力も飛躍的に上達している。 こうした市、企業、人材の良い連動と相乗効果で、大連ソフトパークがますまず魅力的 になってきて、大連市、日系企業、人材の 3 者間に Win-Win-Win の関係構築に成功した。 中国人だけではなく、私は 2006 年 9 月大連を離れた時に、約 2 万人の日本人経営者、技術 者及びその家族は大連で暮らしていると聞いた。 (国際学研究科 国際社会研究専攻 第 3 期修了生) (2011 年 2 月 28 日原稿受理) 「近況報告」 シナヴォン ポンヴィライ 初めまして、ラオスのシナヴォン ポンヴィライと申します。2010 年度に栃木県の宇都 宮大学 大学院国際学研究科 国際交流研究専攻の修士修了生です。日本語の能力がたりな いため、宇都宮での勉強はいろいろ大変なことがありましたが、先生方と友達とジュータ と頑張って私は修了できました。皆様と一緒に頑張って下さって頂いて心からありがとう ございました。 私は現在、愛知県の名古屋大学大学院(以下は名大院) 国際開発研究科の博士課程で勉強し ています。2010 年4月から Regional/Rural Development のプロカランに入学させて頂き ました。 2013 年には修了する予定です。私の研究テーマはラオスの農村地域での参加型 開発と文化について研究しています。名大院の授業ではほとんど英語が使われているので 国際的な勉強が出来ます。世界から様々な分野を研究している学生たちといつでも相談す ることが出来ます。非常に勉強になります。例えば専門分野の相談をしながら、国々の文 化を勉強することも出来ます。さらに、国際的会議や、訓練などもよく行われているので、 勉強機会が沢山あります。毎日とても楽しんでいます。 (国際学研究科 国際交流研究専攻 第 5 期修了生) (2011 年 3 月 28 日原稿受理) 14 国際開発研究科(GSID)の詳細は HP をご覧ください。http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/global/ ◎ 国際学同窓会主催 懇親会@東京・新宿 開催報告 国際学部同窓会理事 志村なぎささんより開催報告をいただきました。 平成 23 年 1 月 17 日(月)に、新宿にて国際学部同窓会東京懇親会を開催しました。当 日は、月曜日という平日にもかかわらず、国際学部および国際学研究科同窓生が 14 名も集 まり、大変楽しい会となりました。 そもそもは、北島滋名誉教授を囲む会として計画した新年会ですが、せっかくなので東 京近郊にいる同窓生を集めた会に拡大しようと思い企画した懇親会でした。参加者の募集 に当たっては、北島先生をはじめ、国際学部同窓会 HP での広報や国際学研究科メーリン グリストへの配信など、各方面の方々のご協力をいただきました。短時間の間にこれだけ の参加者を集めることができたのは、北島先生や国際学部同窓会、そして国際学研究科同 窓会のご協力のおかげです。この場をお借りして、厚くお礼申し上げます。 当日は、昭和の雰囲気漂うレストランで、予想外のダンスショーに出くわすなどハプニ ングもありましたが、旧交を深め、新交を築くという当初の目的は達成できたのではない かと思います。出席者は 1 期生から 3 期生を中心としたメンバーでしたが、一般企業から 国際 NPO まで、皆さんそれぞれの場所で活躍されており、いろいろなお話をうかがうこと ができました。名刺を交換し、皆さんの近況報告を聞きながら、あっという間に 2 時間が 過ぎていきました。懇親会終了後には、国際学研究科同窓生の岡本義輝さんがご自身の HP へ写真をアップしてくださいました。ありがとうございます。 私事ですが、懇親会終了後の 2 月に、ABC クッキングスタジオが開催する1day レッス ンに参加しました。レッスンの売上金の一部が国内外で活動する慈善団体に寄付されると いうことで、その時期の対象団体は特定非営利活動法人 ACE(エース)でした。懇親会で 再会した同窓生(国際学部 2 期生、成田由香子さん)が ACE で働いていることを知った別の 同窓生(国際学部 1 期生、渡部さやかさん)が「一緒に行かないか」と誘ってくれたのです。 1day レッスンではバレンタインということでチョコレートケーキを作り、大変楽しい時間 を過ごせました。レッスン後、渡部さんと私は「懇親会を開かず、また成田さんに再会し なければ、ACE という団体も知らなかっただろうし、今日のレッスンに興味を持つことも なかったかもしれないね」と話し、人の縁とは本当におもしろいものだと感じました。 ほんの小さなエピソードですが、こんな風に同窓生との再会や新しい出会いは、みなさ んの人生にちょっと嬉しい変化をもたらすのではないでしょうか。懇親会は今後も年 1 回 をベースに、定期・不定期に開催していきたいと考えています。今回参加されなかった同 窓生の皆さんも、次回はぜひ参加してくださればと思います。 (国際学部 国際社会学科 第 1 期卒業生) (2011 年 3 月 10 日原稿受理) 15 ●編集者のひとりごと 今回の東北地方太平洋沖地震に際し、一万人以上の方がご逝去され、まだ二万人近くの 方々が不明です。ここに謹んでお悔やみ申し上げます。また、不明者の早期の発見を祈念 しています。東北地方には知求会や国際学部の多くの同窓生がいますので、安否が心配さ れます。国際学部同窓会長吉葉氏も仙台で被災されましたが無事です。ただ、まだ生活に 不可欠なインフラの水道・ガスの復旧がまだとのことで、不便を余儀なくされている様子 でした。まずは復旧、そして復興への願いがすべの方々の思いです。さらに創造の生活・ 社会基盤の必要性がジャーナリズムで取り上げられています。 このたびの地震の影響はさまざまなところで起きています。特に福島の原子力発電所が 顕著です。私たちの生活に必要な電力不足をもたらし、計画停電のもと日々暮らしていま す。交通にも影響を与え、運行本数の縮小を余儀なくされています。計画停電のために、 営業時間が変わり買い物にも影響を与えています。 学校関係では、卒業式・入学式の中止が特に影響のあった、そして影響のある出来事で しょう。知求会でも例年、個別に開催される学位記手渡し式に、修了後の連絡先の調査と 記録写真を大学院同窓会発足時から行っています。今年は留学生を中心に、早期帰国のた めに出席者の減少がみられました。30 名の出席者予定に対し、9 名の留学生と 2 名の日本 人院生が欠席されました。2 年間または 3 年間などの在学における、修了生が全員集まれる 唯一の場でしたが、心残りの年になってしまいました。一部の欠席者へは、現在もメール による連絡を試みていますが、一方通行の状態が続いている状況です。 知求会と同窓生の繋がりは、メールアドレスによる通信手段が唯一有効なものと考えて いますが、まだ道半ばの感があります。そんな中で世界に広がっている知求会の皆様には 「ネチケットの大切さ」をお伝えしたいです。ネチケットとはネットとエチケットの造語 ですが、インターネット社会における最低限のエチケットが必要であることをいいます。 メールが正しく届いたかどうか、届いた場合には速やかな返信がマナーであると思います。 昔、ある同窓生が知求会ニュースを配信することを例えて「見えない糸で繋がっている」 ということを言いました。編集者としては、感想をいただけることが最大の願いですが、 せめて着信しているどうかの確証が一番欲しいところです。知求会のモットーである「グ ローバルに考え、ローカルに行動せよ」が、今回の震災後においても、重要ではないかと 考えますが、皆様はどう思いますか?それぞれの場でのご活躍・行動を祈念しています。 編集後記: 2010 年 4 月 26 日から 知求会ニ ュースのバックナ ンバ ーは 国際学部同窓会 HP (http://www.afis.jp)で見られるようになりました。 同窓会会員の皆様へのお願い:住所、勤務先およびメールアドレスの変更の際は事務局へメールして下さ い。[email protected] 宇都宮大学大学院国際学研究科同窓会 16
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