≪1 月 22 日祈祷会から≫イザヤ書 4 章 2~6 節 ※( )の数字は節を示す。 2 章から 4 章にかけてイザヤは、「その日には」、 「その日には」と語るところ で神の御自身の民に対する裁きの言葉を繰り返してきました。しかし、ここに きてイザヤは、同じ言葉をもって神の救いを語ります。それは二つの異なる神 の御業のことが言われているのではありません。神が裁きを行われるとき、同 時に神の救いが与えられるのです。神の裁きの時は、神の救いの時でもあるの です。 イスラエルは、神が御自身の民として自分たちを選ばれたという信仰を与え られていました。けれども、自分たちの社会や王国が破局を迎え崩壊を経験す ることを通して、神は御自身の民であるイスラエルをその罪のゆえに裁かれる という信仰をも与えられていきました。 「残りの者」という思想は、そういった 神の自由な選びとイスラエル自身の回心との緊張関係の中で出てきたもので す。そして、このような信仰における緊張関係は、私たちの信仰にも受け継が れているのです。 イザヤは、 「イスラエルの生き残った者」に対して、主が若枝を生えさせ地の 結ぶ実をもたらすと告げます(2)。主みずからが御自身の恵みをもって、彼らを 喜び楽しませてくださるのです。それゆえに、彼らは「聖なる者」と呼ばれ、 「エ ルサレムで命を得る者」として書き記されると言われます(3)。主に背き続けて きたエルサレムの人々が、主のために主によって取り分けられるのです。主を 礼拝する者とされ、神の民の将来に向けての礎とされるのです。そのところで、 これまで神の民の罪とその悲惨をさらしてきたエルサレムもまた、命を得る者 を宿す場所として回復されるのです。 そのために、主は裁きを行われます。「必ず」(4)と言われるほどに、主は強 い決意をもってエルサレムを清められるのです。そのところに、昼も夜も主の 守りに覆われたエルサレムと神の民の集会が姿を現わします。昼の「雲」、夜の 「煙」や「燃えて輝く火」(5)は、出エジプトしたイスラエルの群れに伴われた 主の導きの事実を想い起こさせます。その主の守りの記憶は、残りの者である 人々にとって内的で精神的なものにとどまりません。主が御自身の民を守られ るという恵みは、ごく当たり前のように見える日常の小さな場面にも現れるの です。日中の厳しい暑さを防いだり、激しい風雨から逃れるための仮庵一つに も、神の民は自分たちを守ってくださる主の慈しみを見出す者とされるのです。 神の自由な選びに与かったイスラエルは、その歴史を歩む中で自分たちの共 同体の崩壊や破局を経験しました。しかし、まさにそのただ中から真の共同体 を生み出される主の御業と、契約に誠実な主を仰いだのです。 (藤井和弘)
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