§76. 哲学者の手②抹消線を引く手 ベルクソンが方法論的な〈手〉の第二

§76. 哲学者の手②抹消線を引く手
ベルクソンが方法論的な〈手〉の第二の例を持ち出すのは、偽の問題を解決する
(résoudre)ためというよりむしろ解消する(dissoudre)ためである。ここで問題となるのは、無
(néant)と無秩序(désordre)の有名な批判である。誰かが部屋に入ってきて、その部屋を
「散らかっている、無秩序だ」と判断するとき、そのひとはその判断によって何を言わんとして
いるのだろうか? 彼は秩序ある状態、きちんと整頓された部屋を予想・期待していたが、そ
の予想・期待が裏切られたということを、である。秩序の欠如としての無秩序は、しかしながら、
また別の形で秩序が存在するということを示しており、別の形での秩序の存在様態を示して
いるにすぎない。つまり、秩序/無秩序の概念対が存在しているのではなく、「互いに還元不
可能な二種類の秩序」があるということだ。「或る物の不在を考えるということが可能になるの
は、何か別の物の現前が大なり小なり明白に表象されている場合にのみである」。ということ
は、「否定が狭義の肯定と異なるのは、したがって否定がいわば第二の肯定であるかぎりに
おいてのことである」。したがって無秩序のうちには秩序のうちにある以上の物があることに
なる。というのも、無秩序の中には、まず秩序の観念があり、次いでそれに加えてその秩序の
否定があり(それは時間的・空間的次元における物理的な操作としては廃棄であり、精神的・
知的な操作としては、あれこれの物体の表象の、抽象作用の効果による、無化である)、そし
てこの操作の心理的な動機(例えば失望)がある。ある対象は事後的に、その対象を消し去
る物理的ないし知的な手続きの後にしか非存在となることはできない。非存在はつまり、この
消去の二次的な帰結にすぎない。まさにここで、この方法論的に決定的な瞬間に、非存在と
否定の営為の不可分性、分離不可能性を表現するために、この特権的な比喩、手の例が現
れる。否定することは想像上の一文を抹消線で消すようなものだ――そう信じるのが正当で
あるのは、ただ筆を持ち、抹消線を引く〈手〉の存在を考慮に入れる場合のみである。この存
在という文を一筆で抹消する筆を握る〈手〉を考慮に入れなければ、否定の原因、それによっ
て存在を否定する行為を忘れることになってしまう。
筆を運ぶ手が抹消線を引く一筆と切り離せないようなもので、除去の原因は除去そのもの
から切り離せない。(EC, IV, 736/285)
この純粋に抽象的な抹消線がそれ自身で十分であると信じ、残りのすべての事物から分離
可能である、あるいは独立的、さらには自律的、自足的であると信じるのは、否定の一般的な
プロセスのうちに「無からの創造」に似た何かをあらためて見出せると考えることにほかなら
ない。ラクー=ラバルトが駆動させようとした oblitération という準概念を思い起こしてみてもい
いだろう。oblitérer とは「〔記憶など〕を徐々に消し去る、薄れさせる」ことを意味するとともに
「〔切手〕に消印を押す」ことでもあり、「……をすり減らす、磨滅させる」ことを意味するとともに
「〔訂正や削除の過剰によって〕……を判読不可能にする」ことでもある。したがって、ここでは
原因/結果、物質/生命といった二元論的な観念を断念し、一元論と二元論の対立を超え
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た新たなタイプの一元論によって、連続的な再構成、永続的な組み合わせとしての創造的進
化を見出すのでなければならない。
以上二つの例を通じて、今や知性の sens、二つの意味における sens、すなわちその意義と
使命=方向とともに、ベルクソンが「諸々の生気論的理論の躓きの石」と呼んだものが理解さ
れる。つまり、「自然のうちには純粋に内的な合目的性もなければ、絶対的に断絶した個体性
もないという事実」(530-531/42-43)である。ここには「超個体化」(transindividuation)のシモ
ンドン的存在論の先駆けとなる発想が看取される。だが、この生気論の帰結は本章の結論部
および第四部で追求することにして、ここでは第三にして最後の例に移ることにしよう。
§77. 呼びかけ III――神の手(無限に有限な努力)
さて最後に、第三の〈手〉である。ここで手は、第一作の『試論』においてすでに出会ってい
たビラン的な努力のモチーフとともに現れるが、もはや具体的な例としてでなく、類比としてで
もなく、語のベルクソン的な意味で隠喩として現れている。先程見たばかりの第二の手におい
てすでに――というのも、個体性から離れた文脈において登場してきている以上、それを単
純に人間学的な図式に回収することはできない――、〈手〉は純粋に人間の手と言えるものを
離れていたが、ここでは、非決定性(indétermination)の概念の転回とともに、「神の見えざ
る手」と呼びたくなるようなものにまで近づいている。
ここでベルクソンが「努力」と呼んでいるものは、様々な〈かたち〉へと引き継がれていく或る
〈かたち〉の連続的な創造による有機的世界の進化のことであり、そのうちに表れている生命
の自発性のことである。「或る有機体によって表される生命は、われわれの目には、なまの物
質から何がしかのものを獲得しようとする或る努力と映る」(611/138)。この力、この「胚のひと
つの世代から続く世代へと移ってゆき、成体となった有機体が胚から胚への連結符をなす媒
介となるような、生命の根源のはずみ」(569-570/88)、この「意識の常として、相互浸透し合っ
ている桁外れに多様な潜在性を担いながら物質のうちに貫き入ってきた意識の或る大きな流
れ」(649/182)を捉えるために、ベルクソンはまず有名なイメージに頼る――多くのベルクソン
研究者が、ベルクソンが最終的に放棄したこの比喩だけを集中的に取り上げているのは興味
深い――、「高圧の蒸気でいっぱいになっており、壁にところどころ亀裂があってそこから蒸
気が噴出しているような容器」(705/248)である。だが、彼はこれを「ひとを誤らせるイメージで
あるかもしれない」として断念する。というのも、「亀裂」「蒸気の噴流」「小滴の押し上げ」とい
ったイメージはすべて物理法則に従うものであり、その意味で必然的に決定されたものだか
らである。世界の創造は自由な行為であり、生命は、物質世界の内で、この自由に参与して
いるものだと示すために、ベルクソンは、その最良の例として、〈手〉を、より正確には、努力す
る腕を持ち出す。
そこでむしろ腕をあげるような動作を考えてみよう。そうして腕は放っておかれるとまた落
下するが、腕の中には或る意欲的なものが存続していて、それが腕を生命づけながら持ち上
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げる努力をしていると想定しよう。このように自己解体しながら創造する動作 (geste créateur
qui se défait)というイメージを描くなら、それから得られる物質表象はもうよほど精密なものと
なろう。そのときわれわれは生命活動を見て、そこに逆向きの運動の中にいくらか残存してい
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る元のじかの運動を、解体するものを貫いて出来上がってゆく実在 (réalité qui se fait à
travers celle qui se défait)を捉えることであろう。(EC 705/248, 強調はベルクソン)
、、、
この神の手ならぬ努力する腕、あるいはより正確に言えば、創造主である〈腕〉のメタファーが
孕んでいる利点のひとつは、それが必然的に有限な経験を表象するということである。有限
おもり
な非決定性ないし非決定的な有限性が問題となっているのだ。もし生命が「落下する 錘 を持
ち上げる努力のようなもの」(704/247)、「物質の下る坂をさかのぼろうとする努力」(703/246)
であるとすれば、もし「生命を動物植物にわたる全体としてその本質的な点を見た場合、生命
は、エネルギーを蓄積し、次いでこれを放出して柔軟かつ変形可能な溝を流れさせてその端
に至って無限に多様な仕事を果たさせる、ひとつの努力としてあらわれてくる」(710/254)のだ
とすれば、そして最後に、もし「生命の歴史はそれまでは一貫して意識が物質を持ち上げよう
とした努力の歴史であり、また物質が意識の上に再落下してこれを多少とも完全に押し潰し
たことの歴史であった」(719/264)のだとすれば、「生命に内在する力」はどう見ても無際限の
ものではなく、「あらゆる徴候から見て、生命のこの力は有限である」(615/142)。また、もし
「有機的世界は下から上までただひとつの激しい努力で貫かれている」(603/128)のだとして
も、「有機的世界を貫いて進化する力は限られた力であること、自分を超えようと常に努めな
がら自分の産み出そうとする仕事に対していつも決まって背丈が足りないということは、忘れ
られてはならない」(602/127)。努力する〈腕〉のメタファーが私たちに垣間見せてくれるのは、
このエラン・ヴィタルの決定されていると同時に非決定的な、有限であると同時に無限であり、
連続的であると同時に非連続的であり、自己構築的であると同時に自己破壊的な性格であ
る。記憶がその共存を表現しているような潜在的多様性のあらゆる差異の度合いを現働化し
つつ、エラン・ヴィタルは、有限な差異化の運動として、人類の線を可能なかぎり遠くまで進も
うとする。その線において、エラン・ヴィタルは自らを自覚し、その突端を構成するのが、後に
ベルクソンによって「偉大なキリスト教神秘家たち」と呼ばれることになる人々である。
かくしてエラン・ヴィタルは、ある特殊な「方向」「使命」をもっていることが分かる。以上に引
用した文がいずれも、図らずも、「生命の起源と使命について」や「進化の意義」(これは頁上
のタイトルである)と題されたセクションから取られているという事実は興味深い。「このまった
く特別な意味で、人間は進化の『終端』かつ『目的』なのである」(720/265)。フィヒテにおいて
と同様、ベルクソンにおいても――ベルクソンは、ユルム街の高等師範学校で、アグレガシオ
ンのプログラムに入っていたフィヒテの『人間の使命』(一八〇〇年)に関する講義を行なった
ことがある――、ある生命的で人間的な実在の(非)決定性と合目的性の二重の問いに答え
るべく、ますます頻繁に、ますます厳密な形で、この「使命」という概念が用いられるようになっ
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た。人はいつでも生のために、生に応じて(非)決定的に規定される。それはつまり、「人間が
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様々な努力をする」ということがあるということだけでなく、人間そのものが自然の努力である
ということをも示しているのだ。
やはり生命の sens(意味=方向)が問題となっている。だが、ベルクソン的な〈手〉の努力作
用(efforcement)について言えば、ベルクソン自身が目的論に対して糾弾していたような擬人
的な性格を大なり小なり帯びているのではないのか? たしかに、ある種の humainisme―
―ヒューマニズム(humanisme)のただ中に〈手〉(main)を際立たせたデリダの造語である―
―について語ることができるようにも思われるし、フランス唯心論のキリスト教化する人間学
主義ないし人間中心主義的思考がベルクソンのうちに暴露されているように見えないこともな
い。実際には、それは擬人的であるとか、人間中心的であるといった形容がもはや大した意
味をもたない境位なのであるが、いずれにせよそれがはっきりするのは、『創造的進化』から
二十五年後の、一九三二年に刊行されることになる『道徳と宗教の二源泉』を待たねばなら
ない。そこで、第一次世界大戦とそれに続くいわゆる戦間期の恐るべき体験を経て、あの「延
長の論理」のはるかに問題含みで、はるかに不安を煽る、最終的な帰結が明かされることに
なるからだ。もし J.-P.セリスが示唆するように、『二源泉』がベルクソンにおけるそれ以前の機
械(機械主義、産業主義)と技術の諸関係を延長しているとしても、この「延長」が蒙ったであ
ろう屈折・屈曲についてむしろ自問せねばならないであろう。『二源泉』のベルクソンが「二つ
の身体の理論」を想起させ、要約しているのが「悪の問題」と題されたセクションにおいてであ
ることは決してどうでもいいことではない。私たちが『二源泉』のうちに探し求めるべきなのは、
この有限性の sens(意味=方向)そのものなのである。だが、これはまた後で展開されるべき
別の物語である。(続く)
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