西南の役 大西郷百三十年祭

鹿児島県神道青年会
昭和二十八年五月二十五日設立
祝賀会
次
第
開 会 の 辞
國 歌 斉 唱
会 長 挨 拶
来 賓 紹 介
来 賓 祝 辞
杯
記 念 表 彰
乾 記念事業報告
彌 栄 三 唱
閉 会 の 辞
日
時
平成二十年五月二十八日(水)
午後六時三十分
会
場
レクストン鹿児島
フリージアの間
記念事業
*悠仁親王殿下御誕生記念植樹
*西南の役大西郷百三十年祭
*大久保甲東公遺徳顕彰祭
*自衛隊体験入隊
*神棚用 紙しめ縄DVD製作
祝
辞
…………………
神道青年九州地区協議会
会長
長
友
安
隆
…………………
祝
辞
…………………
神道青年全国協議会
会長
久
富
真
人
…………………
祝
辞
…………………
鹿 児 島 県 神 社 庁
庁長
川
上
親
昌
…………………
挨
拶
…………………
鹿児島県神道青年会
会長
宮
田
昇
…………………
3
2
目
次
西南の役大西郷百三十年祭
………………………………………………………………………………
4
創立五十五周年記念表彰特別インタビュー
…
神具製作師
岩
切
房
義
…………………
宮
田
昇
座談会
〜五年間を振り返りて〜
……………………………
足
立
齊
明
…………………
山
下
建
陸上自衛隊体験入隊
………………………………………………………………………………………
・大久保利通の葬儀はどのように執り行われたか
……
大久保
利
𣳾
…………………
大久保甲東公遺徳顕彰祭
…………………………………………………………………………………
・南洲翁に学ぶ
奄美・龍郷「西郷塾」…………………
安
田
莊一郎
…………………
・父と祖父の思ひ出と南洲先生
…………………………
福
永
眞由美
…………………
5
活動報告(平成十五年度〜平成二十年五月)……………………………………………………………
6
10
14
18
22
32
42
52
56
挨
拶
鹿児島県神道青年会
会長
宮
田
昇
〜 自分自身で考え実践していく力を 〜
人は利便性を追及し、それを永遠に求め続ける生き物である。
日進月歩と申しましょうか、通信機能もさらに高速化され、地球上、瞬時に情報が伝達される。二、三日掛かった事務処理も数時間あれば容
易に仕上がる、といった具合で社会にとって都合が良くなった反面、ネット環境の発達とその利便性の進歩が産み出す悪質な犯罪、テロ行為の
横行は世界各地に至りて頻繁に起こりうる世相であるのもまた現実であります。
恐らく五年後の社会はもっと複雑化して、人の感情も今以上に受動的で、薄っぺらで荒んでしまいかねない。さらに我々はその恩恵に預かり
つつ、日々構築されていく生活過程に於いて、
「良きものと悪しきもの」、「本物と偽物」といった判断を執拗に迫られる事になります。
昔は「十年ひとむかし」と申しておりましたが、今では「五年ひとむかし」の間隔で世の中の様相がガラリと変わっていく。
か かん
現行、神道青年全国協議会をはじめ神道青年九州地区協議会、また各単位会に於いての行事・諸活動等も充実し多様化していく中、当会では
かいこう
山下前会長の「士風の顕彰」を継承し、果敢に実践し行動を起こす事を企図して参りました。
故に当会の本務は日々の神明奉仕の鍛錬を通じ、此の日本の伝統・精神を恢弘し、次世代へ継承するが基本であり、その時々の時世の動きを
察知しつつ、会員ひとりひとりが模索し、変革のバランスを上手く見極め、突き進んで行く事であります。
先人達がどの様なご苦労をし、どの様な思いでこの当会の基盤を培ってきたのか…。
此の度、当会創立五十五周年に際し、記念冊子を発行致しました。今周年事業の御報告並びに過去五年間の諸活動の軌跡を主とし、五十五年
の当会の根元を茲で再確認して頂きたく、今後、純然たる斯界の誇りとその伝統を尊厳護持し、次を担われるであろう溌剌たる若き青年神職の
皆様方が先ずは自分自身で考え、実践行動していく端緒を開く切っ掛けになればと願います。
祝
辞
大和心を受継行かん
鹿児島県神社庁
庁長
我が鹿児島県において、神道青年会が神社界の一組織として戦後発足して以来五十五年に成ると言う。
川
上
親
昌
正に継続は力なりと言うが、発足当時はその文言が当てはまる状態ではなかった。無の世界から発足していった先輩等の、苦労と涙の下に現
在が存在し、そしてその精神が今日まで続いて来ていると想いたい。
と言うのは、あの殺伐としていた時、神も仏もあるものかと言って荒んでいる頃、神社を守り神道精神を貫いて来た先輩等の気迫・努力と教
化を今一度学ぶ時に来ているのではないかと想うのである。
「衣食足りて礼節を知る」「鳩に三枝の礼あり」
と云う。戦後六十三年未だに神道指令の迫害、靖國問題が尾を引いている。御寺に総理その他諸々
が御参りをしてもマスメディアは話題に取り上げないが、神社に総理、知事市長等が参拝すると、さあ大変なニュースとなる。何かおかしいし、
片手落ちの感は拭えないのである。
そこで神青の諸君に希望するのは、一般の人等に神社とはどういうところ、神様とは、鎮守の森の意味の説明、説得できる人材を一人でも多
く若い神職を育成し、祭典終了後の講話の勉強会を立ち上げて欲しい。
今までは先輩等が作り進んできた神道路線をただ進み追って来たのみの感がする。
これからは、世の進みと共に何を考え何を成すべきかを考える必要があるのではないだろうか。
日本は戦後と云っているが戦いは終わってはいない。何故なら北方領土しかり竹島しかり、ロシア・韓国に占領されている現状、東シナ海で
は経済海域の領海で中国にガス油田を取られて、これを見ている政府、これでは国の為、国民の為と云う言葉のみ踊りだし、心が無い。そこで
諸君に若い者として「心」つまり神道の精神を多くの人等に話し語らいてもらいたい。その結果、愛郷土心・愛国心の芽生えとなり、親が子を
子が親を
友が友を殺す不道徳・倫理社会を打ち壊し、真の大和心を持った人等、また青少年等の指導者となって、神の道を語りながら神道人
本来の姿、先輩等の足跡を今一度見直して欲しい。
ガンバレ鹿児島神青「チェスト行け」
今回の記念すべき機会に寄稿させて頂く事を喜び、今後の活躍を期待し、御祝の辞とします。
祝
辞
神道青年全国協議会
会長
久
富
真
人
鹿児島県神道青年会におかれましては、この度創立五十五周年の節目を迎へられましたこと、誠におめでたく、衷心よりお祝ひ申し上げます。
貴会が創立以来、常に青年神職としての誇りと見識を以て、積極的な活動を展開して来られたことに対し、深甚なる敬意を表します。
また、神道青年全国協議会の諸活動に対し、常日頃より特段の御理解と御協力を賜はつてをりますことに深く感謝申し上げると共に、多くの
先輩方に神青協役員・委員として御出向を頂き、御尽力賜りましたことに対しましても、重ねて厚く御礼申し上げる次第です。
さて、貴県出身の英雄東郷元帥は、バルチック艦隊との決戦を前に天皇陛下に拝謁し「誓つて敵増遣艦隊を撃滅し宸襟を安んじ奉ります」と
言上しました。平素からの訓練を怠らぬ彼ならではの決然たるこの言葉に、陪席者は驚きと感動を覚えたといひます。そして日本海海戦時、彼
は敵の砲弾が乱れ飛ぶ中、東宮殿下から拝領した名刀「一文字吉房」を手に、吹きさらしの艦橋に凛として立ち続けます。
正に、南洲公が残された、
「国のため 磨き上げたる白玉を 擲つときは 今ぞ来にけり」といふ確固たる精神です。
この精神こそ、創立以来脈々と受け継がれてゐる「鹿児島神青魂」でありませう。承りますれば、本周年の記念事業として「西南の役・大西
郷百三十年祭」の斎行を始め、数々の事業を積極的に展開されるとお聞きしてをります。
どうぞ、創立五十五周年を機に、鹿児島県神道青年会創立以来の伝統と精神を護持され、愈々御発展されますこと、また会員の皆様の今後益々
の御活躍をお祈り申し上げますと共に、今後も、全国青年神職の範とした活動を展開されますやうお願ひ申し上げまして、御祝辞とさせていた
だきます。
祝
辞
錦江湾に陽は昇る
神道青年九州地区協議会
会長
長
友
安
隆
今上陛下御即位二十年といふ慶節にあたり、九州の雄鹿児島県神道青年会に於かれましては創立五十五周年の節目をお迎へに為られ誠におめ
でたう御座います。神道青年九州地区協議会を代表致しまして衷心よりお慶びを申し上げます。
通年の恒例諸行事を粛々と開催されます中にも、この度は五十五周年記念事業として、西南の役・大西郷百三十年祭斎行・自衛隊体験入隊・
大久保利通命百三十年祭・紙注連縄DVD制作を為されるなど、貴会草創の進取の精神が些かも衰微することなく継承されていることに熱き感
動を禁じ得ません。
近年ではNHK大河ドラマで「篤姫」が取り上げられ、薩摩おごじょの生きる道というものが注目を集めて居ります。社会に在って各個人が
責任ある行動をとることの重要さは今も昔も変はり無く、そしてそれを為す事もまた難きことであるのも古今変はり無く、まして時代が激動期
であれば、尚更に難きこととなります。それでは今何故、薩摩なのか。自己責任という社会秩序の大前提が崩壊し人としての根が枯れつつある
現代に在って、ひとり薩摩には人としての「根っこ」が残っております。四百年に亘り培はれてきた郷中教育の基つ教へ島津日新公のいろは歌
では、先づ「いにしへの道を聞きても唱へても
わが行ひにせずばかひなし」と実践行動を奨励し、親に口答へをするな、幼き者をいじめるな
と続いて行きます。この教へが現代まで伝へられたことに一種の美学をも感じてしまふ。とどのつまりは議を云はず決めたことは死ぬ気でやれ
ということであります。今後若し国家の危急に際会せんときは、やはり錦江湾より陽は昇り、桜島の号砲が響き、そして熱き風は南から吹くも
のと信じております。
この度の鹿児島県神道青年会創立五十五周年といふ節目に際し、諸記念事業を通されまして宮田会長を始め、会員相互の紐帯が更に強く結ば
れまして、鹿児島県神道青年会が更に発展され、会員の皆様の今後益々のご活躍を心よりご祈念申し上げます。
『敬天愛人』西郷南洲翁書
(鹿児島市立美術館蔵)
城山を背に建つ西郷南洲翁像
平成十九年九月二十三日斎行
於:鹿児島サンロイヤルホテル
特の教育法、郷中教育の三本柱、
西南の役
大西郷百三十年祭
「大西郷没後百年祭」に当たる昭
高千穂の間
鹿児島県神道青年会会長を仰せ
者をいじむんな」と云う精神を間
「負くんな」
「 議 を 言 う な 」「 弱 い
その匂いを感じて育ってきたよう
接的ながらに受け入れ、潜在的に
和五十二年、現在不二歌道會鹿児
児島神社名誉宮司山下文弘先輩、
に思います。例えば「負くんな」
島支部山下剛支部長のお父様、鹿
本日ご臨席賜っております川上先
とは、他人に対しての「負けるな」
す。
本 日『 西 南 の 役
大西郷没後
輩等が中心となり、当時の大東塾
つかっております宮田で御座いま
百三十年祭』に際しまして、不二
塾長影山正治先生をお招きして厳
ず、ぱっと聞けば当たり前のコト
歌道會及び九州地方連合会の皆
バ の よ う で す が、 実 に シ ン プ ル な
様、また鹿児島県神社庁庁長川上
此度、不二歌道會様と合同にて
掟の中にも様々な要素が詰まって
はならないと解釈しなければなら
本日の式典を開催する運びとな
います。昨今では、県内外の学校
で は な く、 自 分 に 対 し て 負 け て
輩、当会会員各位、県内外より多
関 係 や 会 社 の 研 修 会、 セ ミ ナ ー 等
うお話をお伺い致しました。
数の御臨席を賜わりました事、ま
り、又節目ある年というご縁に恵
でこの「郷中教育」が生かされ日
粛にも盛大に遺徳を偲ばれたと言
ず以て深謝申し上げます。
名誉に存ずる次第でありますと共
ま れ ま し た 私 に と り ま し て、 誠 に
本人の精神美学が継承されておる
親昌様をはじめ神社庁役員様、鹿
私の所属しております鹿児島県
に、この重大な責務を果たせるか
児 島 県 神 道 青 年 会O B 顧 問 諸 先
神道青年会では大西郷のご生誕
という葛藤で甚だ恐縮するばかり
ます。そして、その三本柱を地で
二十三日、禊研修会を兼ねまして、
行ったのが大西郷であり、内村鑑
(新暦)に合わせました本年一月
扨、我々は常々「大西郷」と一
三の言葉を借りるなら、代表的日
事は非常に喜ばしい限りで御座い
言で申しますが、その崇高偉大な
で御座います。
る実像を残念ながら知る由もあり
奄美大島の地にご鎮座されます南
遺徳顕彰祭を挙行ご奉仕申し上げ
洲神社を訪れ山下建前会長の下、
ました。また先程午後四時半より
間大西郷」であり、現在でも尊敬
本人、国民的英雄、つまりは「人
さ れ、 慕 わ れ る 理 由 で は な い で
小説や歴史書、またはテレビドラ
マや映画でしか想像しうることが
しょうか。
ません。地元先人たちの昔話し、
出来ないわけです。ただ我々鹿児
同ホテル内「高千穂の間」にて厳
百三十年祭」を斎行。図らずも斎
島 人 は 幼 い 頃 か ら、 南 洲 翁、 大 久
三五〇余名の薩摩兵児は薩摩琵琶
く城山では南洲翁を囲み、残った
粛 な 中、「 西 南 の 役
大西郷没後
主を勤めさせて頂き、恙なくご奉
保甲東公が生まれた土地であると
百三十年前の今の時刻、おそら
仕させて頂きました事を茲にご報
同時に、伝統を重んずる薩摩藩独
ちょうど三十年前になります
告申し上げます。
最期の壮絶な戦いがはじまりまし
ら三発の銃声が合図となり両軍
四時、城山を包囲する官軍砲台か
す。明けて九月二十四日明朝午前
の杯を傾けておった事と思いま
を奏で、焼酎を酌み交わし、最期
正治先生と云った純然たる思想家
山満先生、内田良平先生また影山
し訳なく思い、南洲翁亡き後、頭
て西南の役に殉じた先人たちに申
りません。同世代に生きる者とし
と尊厳の希薄さが非常に残念でな
言った事件が相次ぎ、個人の自覚
親 が 子 を 殺 し、 子 が 親 を 殺 す と
で は あ り ま す が、 一 言 御 礼 と ご 挨
申し上げまして、僭越甚だ不慣れ
霊を偲び顕彰致します事をお願い
殉じて散った両軍の先人たちの御
西郷」の遺徳と、この西南の役に
西郷像を想い浮べていただき、「大
方それぞれ心の内にある敬天愛人
最後になりますが、本日は皆様
生死何疑天附興
願留魂魄護皇城
らないと考えております。
た。悲しくも両軍には親や兄弟、
たちに志士の魂とその精神が継承
拶に代えさせていただきます。本
「獄中有感」
縦不回光葵向日
若無開運意推誠
従兄弟と言った身内肉親同士が袂
日は誠に有難う御座いました。
朝蒙恩遇夕焚坑
人生浮沈似晦明
洛陽知己皆為鬼
南嶼俘囚独竊生
を分かち、この国最後の内乱に終
されてきたわけですが、当然我々
)
も引きついで行かねばならず、そ
と り わ け 今 の 世 の 中、「 ゆ と り
合同直会挨拶にて
( 午後八時
の責任と、速やかに誇れる日本を
取り戻し、次の世代に託さねばな
教育」の産物なのでしょうか、学
力や道徳心の低下が著しく、若い
平成十九年九月二十三日
止符が打たれました。
神社 新 報
第二九〇五号
平成十九年十一月五日
福永眞由美 先 生
講演
学校にまいります時は、御神殿にお参りをいたしまして、正座を致
しまして「行って参ります」、それから学校から帰りまして、御神
殿にお参りをして「只今帰りました」
、母が畑で仕事をしておりま
す時は母の姿を捜し回って「只今帰りました」と挨拶を致しました。
それから夜、寝るときもまた御神前にお参りを致しまして、そして
正座をしまして父に「お休みなさい」
、母に「お休みなさい」と挨
拶をしてまいりました。そのような日々を過ごしてまいりました。
毎日毎日一日に何回もご神前にお参りを致します。その度に書斎に
ございます、お二方の写真を拝見致しまして、いつの間にか私には
明治天皇様は良く判りましたが、もう一方はお名前だけは西郷隆盛
先生、西郷南洲先生ということを覚えました。
「どういう方なんだ
ろう」と幼いながらも、明治天皇様と一緒に父が大事に書斎に大切
に飾っている方だから、きっと父が心から敬慕し、尊敬してやまな
い方だろうことが判りました。
私の育ってきた環境の中でいつも和歌や詩の朗詠が降りそそいで
おりましたので、いつか私は南洲先生の詩の一節を覚えました。
「獄
中 感 有 り 」 の 中 の 一 節 で ご ざ い ま す。
「生死なんぞ疑わん、天の賦
与なるを、願わくは魂魄を止めて皇城を守らん」あれ、この方は伯
父ちゃまと同じなんだ、同じ心で生きた方なんだ、そして日本のた
めに生き、日本のために死に、そして今も日本を、私達を守るため
に、見守っていて下さる方なんだ、幼い頃からその思いが胸に焼き
付いてまいりました。
ここで私の祖父についてお話さしていただきます。祖父は、終戦
の年、昭和二十年八月二十五日に父の門下生十三人と共に、東京の
代々木の原で自決を致しました。共同遺書に「我ら十四柱の皇魂誓っ
演題
〜父と祖父の思ひ出と南洲先生
今日は、西南の役・大西郷南洲先生の百三十年祭に御参列させて
頂き、様々な思い溢れて感無量で御座いました。大変有り難く存じ
ました。
今日の記念講演の講師の御依頼を受けましたが、私には荷が重く
て大変恐れ多くて固くお断りしたかったのですけれども、父が亡く
なってから、この世で一番怖い息子から断ってはいけない、お母さ
んらしい話をすれば良いのだからと、それから何か不思議な力に背
中を押されたような気持ちがしまして、お引き受けすることにしま
した。
今日は、
「父と祖父の思ひ出と南洲先生」と題しまして、私の思
い出の中から、父と祖父と南洲先生に繋がります不思議を話させて
頂きます。
私が物心つきましてから、父の
書斎、御神殿の間に二つの写真が
飾られていました。お一方は明治
天皇様、もう一方は大きな立派な
体で遥か遠くを大きな目で見詰め
ておられる方でありました。本当
に堂々とした体格、それから大き
な目、はるか遠くを見詰めている
目。
私は幼い頃から、朝は御神殿に
お参り致しまして、正座を致しま
し て、
「お父様おはよう御座いま
す、お母様おはよう御座います」、
10
て無窮に皇城を守らん」としたため、祖国再建の人柱となったので
ございます。
十四烈士のうち、一番若かった野村辰嗣烈士は数えで十八歳であ
られました。十四人のうち、四人の方が九州出身であります。野村
辰夫烈士と、野崎欽一烈士が鹿児島出身であります。東山利一烈士
が熊本出身であります。鬼山保烈士が福岡出身であります。そして、
自決後に介錯をされましたのが、熊本県出身の東山利一烈士と鹿児
島県出身の野村辰夫烈士であります。そして最後に野村辰夫烈士が
東山烈士を介錯され、最後に鹿児島県出身の野村辰夫烈士が壮絶な
自決をされました。この祭典の前に、東京から御一緒にまいりまし
た同志の方と野村辰夫烈士の碑を参拝させて頂きました。父の字で
書かれました野村辰夫烈士の碑にお参りを致しまして、大変悲しく、
大変懐かしく、そして本当にかたじけなく存じました。
自刃の朝は午前二時、十四日月が皎々と照る下、東京の代々木に
ございました大東塾の玄関に十四士の方は集合されまして、塾に向
かって一礼、東方皇居に向かって一礼、各自の郷里氏神に向かって
一礼、各自の父母それから家族に向かって一礼、お世話になった皆
さんに一礼、
そしてその頃北支に出征しておりました私の父に一礼、
そのころ愛知県豊橋に疎開致しておりました私の母、そして兄、そ
して幼い私にまでこの世の最後のお別れの一礼を下さって、皎々と
照る十四日月の下を列を組んで自刃現場の代々木の原に向かって行
かれたのでございます。
私は、この時一歳半で御座いましたので、もちろん現実の記憶に
御座いません。けれど物心つきましてから毎年十四烈士のお祭りに
は必ず参列を致し、十四烈士のお話は父母から、そして回りの方か
ら聞いて育ってまいりました。特に、母は何時も伯父ちゃまが必ず
見ていて下さるから、伯父ちゃまが必ず守ってくださるから大丈夫
と言って育ててくれました。幼い頃から私にとりまして祖父を始め
とする十四士の皆さんは、いつも私を見守って下さり、そして必ず
助けて下さる、私にとっての神様で御座いました。
着物に袴、白足袋を履き白はちまきを締め、整列をした十四烈士
の皆様が、疎開しておりました幼い私にまで、この世の最後のお別
れの一礼を下さり、皎々と照りわたる十四日月の下を代々木の原に
向かって歩いて行かれました御姿は、現実の記憶にはございません
が、それよりも遙かに強い、遙かに深い、私の魂の、命の記憶の中
にありありと刻みこまれています。
父が、この十四烈士の自刃のことを知りましたのは、一ヶ月後の
戦地、北支に於いてでございます。北支で終戦を迎えた父は、一度
は死を決し、そして神の御心のままに死を超え祖国再建のために生
きる決意をされました。現地復員の父が、その後、天津に住んでお
られました加藤三之輔さん、現在の福岡県に御座いますカネミ倉庫
の会長をしておられた方で御座います。その加藤三之輔さんのお宅
に到着いたしました。この時に父は初めて十四烈士の自決のことを
知るわけです。
奇 し く も こ の 日 は 南 洲 先 生 の 御 命 日 の 日 で あ り ま し た。 九 月
二十四日で御座います。加藤三之輔さんのお宅の御神前で南洲先生
のお祭りをし、そして夜も更け、一人で十四烈士のことを偲び燦々
と涙を流しながら詠まれた父の歌がございます。そして、もし生き
て再び故国の地を踏むことあらば、山河千里必ず歩行して自決され
た十四烈士の御遺族を訪ね、その御霊前に参拝することと、それか
ら諸方、主要神社に祖国再建の祈願をこめることを決意されます。
昭和二十二年四月二十九日、天長節の朝、父は皇居前を出発、千
里行脚の旅に出られました。草鞋履きに杖をつき徒歩で、二百十七
日間、七ヶ月余り、全国三分の二にあたります行程を歩く慰霊巡拝
の旅に出たので御座います。この時私は満三歳で御座いました。生
まれたばかりの私のすぐ下の弟を抱いた母とそれから兄と私とで大
東塾の玄関前から父を見送りました。
父の「千里行脚歌集」、それから「千里行脚の記」の中に、出発
の日に大東塾の岩の大きなツツジの木の前で撮られた私と兄の写真
が載っております。きりっとして可愛い顔をした兄の横で、ころこ
11
ろと太って大きな下駄を履いて写っているのが私で御座いますが、
兄はこの写真を見るたびに、お前は本当にブスだなカボチャみたい
だと言われまして大変傷ついた少女時代を過ごしました。
ここで私が歌を学び始めた時のことをお話させて頂きます。昭和
五十四年五月二十五日、
父は元号法制化を熱祷し奉るとの遺書と「身
一つを
瑞玉串と
捧げまつり
御代を祈らむ
みたまらととも
もと
に」
「民族の
本ついのちの
ふるさとへ
はやはや帰れ
戦後日
本よ」と二首の辞世の歌を残して自決致しました。青梅大東農場の
十四烈士の合同の碑の建っております丘の上で自決を致しました。
その前の年の終わりぐらいから、私の胸にいても立ってもいられな
いような思いが沸き上がってまいりました。父の身に何かあるので
はないだろうか。今、父の志を継ぐものを何か持たなければ一生後
悔するだろうという思いが沸き上がってまいりました。私には歌し
かございませんでした。
幼い頃から詩や絵を描くのが好きで、紙や鉛筆やクレヨンさえあ
れば絵を書き、詩を書いている。そして蝋石があれば道端で一生懸
命絵を描いているような女の子でしたけれども、歌を詠んだことは
ほとんど御座いませんでした。その時、後から後から生まれます歌
を書いて二回にわけて父に送りました。五十首位づつ、百首位だっ
たと思います。父が自決する数日前のことで御座いました。父から
電話が御座いまして、
「お前の歌を読んだが。うん、良いなぁ」と
嬉しそうな父の声でした。そんなふうに父が私を誉めてくれました
のは初めてのことでしたので、私は嬉しくてたまりませんでした。
そして、それが父から私へのこの世の最後のお別れの言葉でござ
いました。私が送った歌を父は大切に封筒に入れて、着物の懐に入
れ、肌身離さず嬉しそうに持ち歩いていたと、後になって、母から
聞きました。父の書斎の机の上には、
封筒に入れた私が送った歌が、
眞由美の歌一、眞由美の歌二と書かれて置かれておりました。この
日から、私は生涯歌を詠み続けていこうと思いました。私の拙い歌
を大切に封筒に入れ、自決する直前まで肌身離さず懐に入れて、大
切に持 ち歩いてい たという父 の姿
を一日 として忘れ たことは御 座い
ません。自分の至らなさ、力のな
さを恥 ずかしく 思 うことも御 座い
ますが、私は一生懸命歌を詠み続
けて、何時の日か父に会いました
ときに「良く頑張ったなぁ」と頭
を 撫 で て 頂 き た い。 そ の 一 心 で 一
生懸命歌を詠んでおります。
五年前から大東会館で文化事業
の 一 つ と し て、 歌 道 入 門 講 座 を 持
ちまして、初心の方に歌のご指導を致しております。大東会館と申
しますのは、十四烈士の遺志継承、顕彰のために建てられまして、
東京・青山に御座います。大東塾、不二歌道会の本部もそちらに御
座います。この大東会館の二階に御神前の間がございます。その次
の間で、私は歌道講座を致しております。この御神前には、十四烈
士や父をはじめとする我らの同志、御霊がお祀りされております。
その私が歌道講座を行っております御神前の間の次の間に、額に入
れ ら れ た 歌 が 飾 ら れ て お り ま す。
「南洲の
巨眼を思う
たまたま
に
卑小の心
沸き出るとき」
「世を挙げて
濁り行くとき
益荒
男は
いよよますます
清らなるべし」幼い頃から父の書斎、御神
前の間でいつも大きな目ではるか遠くを見つめて、私を見守り続け
て下さいました南洲先生の魂がここでも私を見守って下さり導いて
下さっているのだと感じずにはいられませんでした。
今年は、西南の役・大西郷百三十年祭にあたり、そして、又、父
が十四烈士の御遺族を訪ね、諸方、主要神社に祖国再建の祈願をこ
めるために千里行脚の旅を致しました、その千里行脚の旅から六十
年にあたります。今、この大きな節目が二つ重なりました年を大変
不思議に思っております。本日、可愛岳踏破一百里行軍隊の皆様も
御参列されております。この大西郷百年祭に行われました一百里行
12
軍、それを百三十年祭、三十年後の今年に実施しようと志を立てら
れましたのが、大西郷百年祭の年に生まれた青年達であります。そ
して私の息子もこの行軍隊に参加致しましたが、この子は父が自決
致しましたときに、まだ幼稚園の子でありました。そして、それよ
りも若い大東会館の寮生等も、
この行軍に参加しております。父は、
不思議が判らないうちは駄目だと申しました。九百九十九の、目に
見えるものでなく、残りの一つの、目に見えない祈り、大きな深い
祈り、真心というのが本当に人を動かしていくのだと申しました。
父が亡くなりましてから、ただひたすら歌を詠み続けてまいりまし
て、そのことがこの頃ようやく少しずつ判るようになってまいりま
した。不思議の中を命生かされて、今日ここに皆様と御一緒に南洲
先生の百三十年の御祭りに参列をさせて頂き、こうしてお話をさせ
て頂くことになりました
神様のおはからいを心よ
り有り難く存じます。
そして最後に、もう一
つ、不思議の話をさせて
頂きます。西南の役・南
洲先生百年祭の折りに
一百里行軍を立志されま
した有馬辰顕さん、この
方が百年祭の行軍隊の隊
長として行軍をされた方
で御座いますけれども、
この方が昭和六十一年八
月七日にお亡くなりにな
りました。今、思えば大
変不思議なんですが、こ
の時、有馬辰顕さんの分
骨を青梅の大東農場に御
座います大東神社に合祀をすることに御遺族からお申し出がござい
ました。ところが、ご夫人がリュウマチでとても動けないと言うこ
とで、百年祭の隊長をされました有馬さんのご分骨を私がお預かり
にまいりました。その頃、カネミ倉庫の社宅にご夫人が住まわって
い ら っ し ゃ い ま し た。 初 め て お 会 い す る 有 馬 さ ん の ご 夫 人 が 住 ま
わっておられましたカネミ倉庫の社宅を探して尋ねて、そして有馬
さんのご分骨を私がお預かり致しまして、新幹線に乗りまして、大
東神社にお納めいたしました。
新幹線の中で有馬さんのご分骨を膝に大切に抱きながら、座席の
中でずっと有馬さんに話しかけておりました。幼い頃から私が生ま
れる前から父に繋がりまして大変かわいがって頂きました。その有
馬さんのご分骨を私が預かり致しまして、そして「有馬さん有り難
うございました。私も必ず後から一緒に参ります」とお話を致しま
した。その有馬さんが行軍の大西郷、南洲先生が祈りを顕彰する若
者達がその三十年後に、今年行軍を致しまして、この後、ご紹介が
あると思います。
私はこの夏の日々、父、そして祖父を始めとする十四烈士の皆様
に、そして南洲先生を始めとする御霊の皆様に、ひたすらお祈りな
がらこの夏の日々を過ごしました。大きな不思議の中に生かされて、
ここにこうして今日皆様にお会いできましたこと、大変有り難く、
うれしく存じます。本当に今日は拙い話をお聞き頂き有り難うござ
いました。
福永眞由美氏
略歴
元大東塾
塾長・不二歌道會主宰
影山正治氏の長女
現在
不二歌道會中央歌會の選者
また童話作家
13
南洲翁に学ぶ
奄美・龍郷「西郷塾」
奄美・龍郷「西郷塾」 講師
の大島紬業界に生まれ育ち、ビールで足を洗うといわれたほど贅沢
西郷隆盛を学ぶことなどは、考えられもしないことでした。好景気
識のうちに刷り込まれた感情のために、その薩摩の御大将でもある
の黒糖圧政時代の話を子守唄代わりに聞かされて育ちました。無意
なく、誠に感謝の念に堪えません。
めました。これまで南洲神社が同地にあることを知っている人も少
「 西 郷 隆 盛 之 命 遺 徳 顕 彰 祭 」 が 催 さ れ、 明 治 維 新 の 英 傑 の 御 霊 を 慰
は、奄美市名瀬芦花部の南洲神社で鹿児島県神道青年会主催による
生誕百八十周年・没後百三十周年の節目となる平成十九年一月に
安
田
莊一郎
三昧をした最後の世代で、心の修行などとは無縁な世界です。硬我
また命日となる九月には、京セラ名誉会長・稲盛和夫先生をお迎え
郷塾」として開講いたしました。
で、独占欲が強く、あらゆるものを否定するという身勝手な生活を
しての記念講演会を盛況のうちに執り行なうことができました。
奄美群島復帰の年(昭和二十八年)に生まれた私たちは、薩摩藩
続けていくうちに、私は仕事も家庭も失います。
傲慢な「生きる」という観念から「生かされている」というお蔭
チュ)の「自立」を常に問うとともに、一人でも多くの人が南洲翁
逆に南洲翁から与えられたものを検証しながら、我々島人(シマン
西郷塾では、龍郷を中心とする島の人たちが南洲翁に与えたもの、
さまの気持ちが芽ばえてきました。この時に山形・荘内の友人の勧
を身近に感じ、翁に学ぶための裾野を広げることを目的としており
全てを失って初めて、心が真っ白になったのでしょう。
めで『南洲翁遺訓』と出会います。過去の書物でなく、これからの
ます。
(武士たる者、その心境は如何ばかりであったでしょうか?)
助け出され、一人蘇生します。
さて、その南洲翁ですが、僧月照と寒空の錦江湾へ入水しますが、
に、残された手紙から翁の心を紐解いていきます。
クス的状態で、当地に於きましても西郷評価は二分されているため
また、龍郷での三年間は、西郷研究にとりましてもブラックボッ
時代の一番基本となる精神の指南書であり、世界平和構築のための
参考書にも思えました。生き方の基本です。
西郷塾は、
西郷が菊池源吾と名乗り三年余りを過ごした奄美大島・
龍郷町での足跡を学ぶ調査・研究のために、平成十八年五月、西郷
隆盛祖先発祥の地といわれる熊本県菊池市から来島した訪問団との
交流をきっかけに、地元でも簡単なことぐらいは来訪者に対して説
明できるように勉強会を開こうということで、
龍郷町公民館講座「西
14
その後、菊池源吾と変名して奄美・龍郷に潜居します。
から、所帯を持ち、穏やかな気持ちに変わっていきます。また、島
フリムンとは島の方言で、標準語の「バカモノ」の意味です。鹿
民も西郷のことを「大和のフリムン」と呼びますが、このフリムン
島民への侮辱や不信感はまだ根強く、龍郷より逃げ出そうと代官へ
児島でいいますと、「ボッケモン」にあたりますでしょうか。ここ
龍郷滞在六ヶ月位までは、
「この毛唐人の交わり如何にも難儀至極、
移転願いも出しております。初めての島民との接触でもあり、言葉
では人を軽蔑する意味合いでなく、深い親近感を表す言葉だと思い
の言い方こそ西郷との親近感を表す言葉だと思います。
も通じず、垣根越しに西郷を監視するかのような目が、西郷には毒
ます。
気持ちも悪敷
(あしく)
、
唯、
残生恨むべき儀に御座候」と手紙に記し、
蛇・ハブのように映ったようです。
ていったようです。なぜならば、二人で食べる分は、藩から十分に
ところで、島民との触れ合いが深まるにつれ、台所事情は悪くなっ
暴者かと不安で怖かったことでしょう。松の木相手に大声を出す、
頂いているのですが、貧しい人たちへ西郷が分け与えるため、本人
一方、島民からしますと、西郷は、色浅黒く、大柄で、どんな乱
薩摩示現流の稽古でも見た時には、島民こそがそこから逃げ出した
人たちの生活状態が分かっているため、愚痴も言えないし、言わな
ら二人が食べるのは苦しかったようです。妻・愛加那もまた貧しい
その西郷がそれから半年もしないうちに、島娘・愛加那と結婚し
かったようです。当時の黒糖政治による経済的奴隷制度、「家人(ヤ
かったことでしょう。
ます。それも三献の儀式を
奄美・龍郷へ来て二年、西郷、至福の時を迎えます。それは長男
ンチュ)」解放で意気投合して、結婚に結びついた二人というのは、
驚きですが、再婚となる西
の誕生です。菊池一族の流れを汲む意味合いからか、菊次郎(菊池
執り行なった正式なもので
郷が新婚生活を大事にする
を次ぐおとこの意か)と命名します。菊次郎氏も京都市長時代の手
理解できるように思います。
た め に、 代 官 へ 米 と 味 噌、
記のなかで、「父の変名菊池源吾を長く記念するために菊次郎と命
す。この間の心境の変化は
醤油などの台所用品までお
その頃の西郷は手紙に「私にはとんと島人に成り切り」と伝え、
名された」と記しております。
かと思うとビックリすると
三年目にして、ようやく島人になりきった心境に達すると同時に、
願いするのは、彼の大西郷
ともに微笑ましくも感じま
これまでは本土召還を一日千秋の思いで待っていましたが、もう召
当時の手紙のやり取りは非常に困難な時期に、島民のグチや場所
も、これ以上の運動は結構といいます。
還は諦めているのだからと、大久保たちの召還運動には感謝しつつ
す。
こ の よ う に 情 け な く も、
入水の後一人だけ生き残
り、ヤケクソ的な精神状態
15
替え、
食料調達のお願いなどあれほど手紙をだしていた西郷ですが、
当時の婦人が手の甲に刺青
活においても、食べ物など
をしていたのをからかった
島民は絶対の権力をもつ代官に対して、強い意見を述べ得る西郷
の細かい所まで心配したり
菊次郎誕生後の手紙は一年以上も出していません。次に手紙を出す
を不思議がると同時に、
神様のように尊敬しはじめます。家庭にあっ
と、想像するとおかしくも
り、また愛加那との新婚生
ては菊次郎を中心に平和があり、
愛加那ともども至福のときでした。
なりますが、人間西郷が色
のは、島を離れてからです。
西郷に背負うものができ、今後の如何なる試練にも耐えうる心の環
濃く出た、龍郷ならではの
す。
三年間の生活だと思われま
境が整うのです。
文久元年十一月二十日、新築移転祝の夜も明けぬうちに飛脚船が
着いて、藩主忠義公直筆の「直ちに姓名を改めて帰藩すべし」との
親 し み が 募 り、 西 郷 に は な
人間西郷が、見えますと、
島に三年いたことから大島三右衛門と改名し、妻子との別れにのぞ
れなくとも、近づけるので
召還状が届きます。
み、水田一反、畑一反を与えて、生活が苦しむことのないように配
は と 感 じ て も ら い、 年 齢、
西日本新聞
平成十九年二月二十五日
また西郷から島に与えられたものは、一にも二にも学問の大事さ
ちに、生き方を学んで頂けたらと思います。
性別を超えていろんな人た
慮します。
迎え舟として枕崎の鰹船が入港、一旦は出帆しましたが、逆風で
戻され、正月二十九日再出帆、二月十一日枕崎到着、十五日旧職に
復帰し、久光に召出されます。
自暴自棄に陥っていた心に安らぎを与え、平和な家庭生活を送らせ
天道様として尊敬していた斉彬もこの世に亡く、潜居を命じられ、
ます。
して勤務しますが、そこでの仕事振りは鉱業館を近代化に導く事業
台湾、京都での活躍後、郷土・さつま町永野で島津家鉱業館館長と
ております。特に長子であります菊次郎氏は、アメリカ留学を終え、
西郷亡き後、龍郷町からは奄美を代表するような名誉町民が多数出
でしょう。
ると同時に苛政に対する正義感を奮い立たせ、これから訪れるであ
家としてばかりでなく、地域発展の為の政治家であり、教育者であ
このようにして南洲翁の奄美・龍郷での生活は一応の終りを告げ
ろうどんな困難にも負けないような心を整えさせた奄美の地は、そ
り、正しく敬天愛人哲学実践の第一人者ではなかったかと思います。
二次大戦終戦後も、今度はアメリカの物質文明を真似よと走り続け
南洲翁亡き後の我が国は、西洋に追いつけと物質文明に走り、第
の後の中央での活躍と「敬天愛人」思想の礎をつくったといっても
過言ではないでしょう。
島人を「毛唐人」と差別し、
ハブのような性格と酷評したことや、
16
また大戦後に忘れ去ってきたものに気づかされているのではないで
てきたように思います。その結果、
明治維新で忘れ去ってきたもの、
浅い国、地域にはあっという間に負の連鎖となって、犯罪が広まっ
いくのは犯罪などの「負」の部分からです。人としての基本理念が
なったか、理解に苦しむとのメールが入ります。経済界にしても同
ていき、多様化、残虐化します。
終戦直後の教育を受けてきた人たちから、
「歴史、道徳、宗教を
じようなものです。お金があれば何でも出来るという「ホリエモン
しょうか。学校崩壊は当たりまえ、家庭教育なんて過去の話。これ
まともに教えられなかった世代です。そういう連中が中枢にいるの
現象」に見られたように「公」や「大義心」を持たないと知らず知
外国に住む友人からは、日本でなぜそのような事件が起きるように
が現在の日本です。歴史、
道徳、
宗教を学んでこなかった人間にとっ
らずにお金で人を傷つけたり、逆に自分自身がお金に振り回されて
が現状だとしたらどこで「人をつくる」のでしょう。
て何が心の基準になるかというと、儲かるか儲からないかというこ
このような負の連鎖を断ち切るためにも、一刻も早い心の教育、
いて、気づいた時は、後の祭りです。
の必要性は当然だと分かっていても、声にして表すことは本当に勇
宗教心の養成を心がけ、儲かるか儲からないかという物指でなく、
とだけです」という発言がなされるようになってきました。宗教心
気ある行動だと思います。世の中がここまで切羽詰ってきたのでは
金にはならなくとも、世の為、人の為という価値観の物指で図るこ
との楽しさ、豊かさを広めながら、『敬天愛人』思想の実践を行っ
ないでしょうか。
道徳や倫理など心の教育
南洲翁に学び実践することは、終りがないことでしょう。だから
て参りたいと思います。
しやすいのですが、こと宗
こそ代々受け継がれる大きな目標であり、一歩ずつでも神の教えに
の必要性は声を大にして話
教教育に関しては、戦時中
確かに近づくことになると確信しております。
合
掌
の軍国主義教育に悪用され
たたためタブー視されてき
ました。その代わり、
自由・
安田莊一郎氏
略歴
昭和二十八年
奄美群島本土復帰の年奄美大島・名瀬に生まれる
平等・権利などの自分中心
主義が一世を風靡し、好き
昭和四十六年
鹿児島県立大島高校卒業後上京
平成
十八年
奄美・龍郷「西郷塾」講師を務め現在に至る
平成
十四年
敬天愛人思想を普及・実践するためのNPO法人を設立
後、
『南洲翁遺訓』と出会う
平成
元年
家業を閉じ、人生を見つめ直す旅に出る
昭和五十二年
帰郷し、家業の大島紬に従事
勝 手 な 言 動 が 横 行 し ま す。
そして追い討ちをかけるよ
うな国際化。
国際化という言葉は響き
がいいのですが、伝播して
17
18
『為政清明』大久保甲東公書
(鹿児島市立美術館蔵)
甲突川沿いに建つ大久保甲東公像
19
大久保利通公没後百三十年
大久保甲東公遺徳顕彰祭
平成二十年五月十四日斎行
於:大久保利通公生い立ちの地
讀賣新聞
平成二十年五月十五日
20
南日本新聞
平成二十年五月十五日
祭典参列者への記念品(手拭)
21
大久保
利
𣳾
お話しするテーマは何にしようかと色々考えましたが、我が家に
㈳霞会館常務理事
大久保利通の葬儀はどのように執り行われたか
鹿児島県神道青年会がここに創立五十五周年を迎えられたことを
日本古来から伝わる精神文化の伝承が難しくなっている現在、会
型となった神道形式による利通の葬儀についてではどうかと思い、
ていることを思い出しました。神道青年会主催ですから、国葬の原
葬儀の詳細な記録「贈右大臣正二位大久保利通送葬略記」が遺され
員の皆様のお役目が一層必要になってきていると思い、今後ますま
島津義秀氏とご相談して決めました。
喜び、心からお祝いを申し上げます。
すのご活躍を期待する次第であります。
尚、掲載資料は全て同書から引用しました。
伊藤博文は、利通が亡くなった翌十五日に西郷従道、大山巌宛の
さて、本年は曾祖父利通が
亡くなりましてからちょうど
書簡で、利通の葬儀は「…これは国葬である…」と述べています。
国家に多大な貢献のあった人物の葬儀に関して国が主催して行われ
4 4
百三十年にあたり、命日であ
で、鹿児島県神道青年会の皆
る葬儀で、
国葬とは、
様が没後百三十年祭をして下
る五月十四日にふるさと薩摩
さると伺いました時には本当
①
明治時代より大正時代までには政府の審議に基づき天皇の「勅
令」によって「国葬」と指定された葬儀。
に嬉しく思いました。さらに
②
大正時代末期より戦前までは「国葬令」の規定に基づいて「国
葬」と指定された葬儀。
祭典参列と利通にまつわる話
をしてほしいというお招きを
③
戦後は閣議決定によって「国葬」と決定された葬儀。
とぎ や
頂き光栄に存じます。
とされています。
(研谷紀夫
東京大学大学院情報学環特任助教)
22
⬆
西郷、大山宛 伊藤博文書簡(この書簡の中で「国葬」と記されている)
明治十一年(一八七八)五月十四日、利通は午前八時過ぎに太政
官へ出仕する途上、紀尾井町(現ホテルニューオータニ付近)で島
田一郎等に襲われ、馭者(ギョシャ)中村太郎と共に落命いたしま
した。明治天皇は深く悲しまれ、勅使を遣わされたと記されていま
23
す。訃報は直ちに国内は勿論、電信の発達により海外にも送られ、
英国タイムズ紙には二日後の十六日付けで報じられました。
「薩摩のキセキ」日本の礎を築いた英傑たちの真実!/総合法令出版発行より転載
これより日にちを追って当時を振り返りたいと思います。
先ず「葬儀をどのようにして行うか」ということを決めることで
した。
葬儀全般の実施計画、日枝神社との打ち合わせなど諸々の手配が打
太政官、内務省、警視署をはじめ、各国公使館への連絡、そして
その日、命を落とすかもしれないという覚悟を持っていたとは言
たれ、担当者も任命されました。葬儀は五月十七日に執り行われる
五月十四日
え、突然の事が起きたのですから関係者の驚きは尋常ではなかった
事に決まり、準備が進められました。
それぞれの役割分担が決められた
と思います。
こうして大久保利通公の葬儀に関する詳細な実行計画が立てられた
24
五月十五日
午前八時、自邸に斎主以下神官、伶人が集まり、九時に中村太郎
五月十七日
発葬祭、十一時から利通発葬式が執り行われました。午後一時、勅
太政官より陸軍へ儀仗兵、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、楽隊などの
動員が要請されました。
三十分に墓地到着。利通の葬所式、次いで中村太郎の葬所式が行わ
使 の 拝 礼 が 済 み、 一 時 五 十 分 に 出 棺、 青 山 墓 地 へ と 向 か い、 三 時
皆一致協力してその職に尽くすよう諭されたと記録に遺されていま
れ、その後遺族等により埋葬されました。
明治天皇は在京の地方官を召され、
利通が亡くなったことを悼み、
す。また各国公使館へ葬儀日程が通知されました。
午後七時、移霊祭が始まりました。
(移霊式の祝詞と現代語訳は 〜 頁参照)
五月十六日
31
りました。
( 〜 頁参照)
葬儀参列者の心得などが関係先に伝達され、葬儀次第はほぼ決ま
30
手配していた調度類の整頓、皇族、各参議の応接要員、また外国
公使への応接は外務省が受け持ってくれるなど準備が整っていきま
した。
重傷を負っていた馬一頭が十五日に死んだことがわかり、
青山墓地へ
中村太郎と馬の墓(東京・青山墓地)
運ばれました。
殉職した中村太郎、
そして馬が一緒に青山墓地に埋葬さ
れたのはどのような経緯だったので
しょうか。
現在はよくわかりません。
25
29
甲突川沿いに建 つ 大 久 保 利 通 像 の 台 座 の
後にも中村太郎と馬が彫られている
当時の葬儀における神饌品目
28
後を追うように同年暮れ(12月7日)亡くなっている
大久保甲東公墓(東京・青山墓地)
大久保利通公の満洲子夫人の墓
霞ヶ関の自邸に戻り、午後八時三十分に霊祭が執り行われ、無事
に葬儀を終えました。祝詞、式次第の一部は別項でご紹介してあり
ますのでご覧下さい。
このように利通の葬儀は粛々と執り行われ、これがその後の国葬
の原型になりました。
五 月 十 四 日 か ら 十 七 日 ま で の 四 日 間、 そ れ ぞ れ 受 け 持 た さ れ た
方々の心労は並々ならぬものであったことでしょう。改めて葬儀の
記録を読んでみますと、子孫として本当に有り難いことであったと
感謝しております。
最後に貴会の益々のご発展を祈念し、筆を擱きます。
とし ひろ
大久保利𣳾氏
略歴
東京都在住
昭和九年(一九三四)東京生まれ
大久保利通の直系四代目
慶應義塾大学卒業
横浜ゴム株式会社退職後、
社団法人霞会館常務理事
※
本
稿は当初、五月十四日の講演記録として掲載したいと考え
ておりましたが、テープ起こし、原稿校正等の時間的余裕がな
い為、当日の講演の一部を予め原稿にまとめるようお願いし、
ご寄稿して頂きました。
(宮田
昇)
26
南日本新聞
平成二十年五月十四日
27
平成二十年四月二十五日
霞会館にて打ち 合 わ せ
本年五月十四日、奇しくも大久保利通公没後百三十年に
際し、公が幼き頃過ごされた生い立ちの地(鹿児島市加治
屋町)に於て、当会有志二十余名と共に顕彰慰霊祭を挙行
ご奉仕申し上げました。
(この事業に関しては次回の会報に於いて報告を行う)
尚今回、当日顕彰祭にご参列頂いた㈳霞会館常務理事大
久保利𣳾氏より「贈右大臣正二位大久保利通送葬略記」内
大久保公葬儀に関する次第及び祝詞等の文献資料をご提供
頂き、我々当県青年神職にとりましても貴重な資料であり
ますので氏のご理解を賜り、その一部を公開致す所存であ
る。
一
葬穴石櫃ノ石蓋ヘ金井之恭左ノ通大書シ彫附候事
贈正二位大久保利通遺骸
一
馬車ノ儀太政官ヨリ六輌
内務省ヨリ三輌
陸軍省ヨリ二輌
大藏省ヨリ一輌
工部省ヨリ三輌
伊達従二位ヨリ一輌
借用ノ積取極候事
一
得能良助
中井弘
青山墓地ニ至リ夫々心配致シ候事
一
葬送
吉井友實ヨリ陸軍省ヘ報知ス
警視官ヘモ可報知ノ處
右ハ同官協
道筋決定ニ付
議相定候義ニ付別段不致通知候事
送葬道路如左
元傳
馬丁
牛鳴坂ヲ上リ青山通リ新葬地ヘ入ル
大久保邸表門ヨリ右ヘ
裏霞町内幸町通リ虎ノ門ヲ出テ斜ニ右ヘ
琴平宮前通リ右ヘ
工部省表門前ヲ通リ榎木坂ヘ突當右ヘ
田町七丁目突キ當リ右ヘ
六丁目ヨリ壹町目迄
左ヘ表ヲ通リ
一
祭主ヨリ御靈移祭式ヲ出ス如左
御靈移祭式(明治十一年五月十五日)
先
次ノ間ニテ齋主以下祭官祓事ヲ修ス
次
齋主
伶人樂座
以下祭官祭場ニ着座
ニ就ク
次
喪主以下近親着座
次
靈璽ヲ高案上居開扉シテ遺骸ノ方ニ
向ケ奉ル
副斎主奉仕
次
御靈移式
齋主奉仕
ニ セイ
此時警蹕二聲
後取役之
次
再拜短手
次
靈璽ヲ真向ニ居奉ル
副齋主奉仕
次
大玉串ヲ捧ク
齋主奉仕
次
奏樂
次
獻神饌
次
祝詞
齋主奏之
次
四拜八開手
次
喪主以下親戚方玉串ヲ供テ拜禮
次
執事家人等拜禮
次
奏楽
次
撤神饌
次
齋主進テ再拜短手
次
靈璽閉扉
副齋主奉仕
次
齋主以下退床
次
伶人退床
次
發棺
出門ノ際奏樂
28
御葬所次第
先
着棺
入門ノ際奏楽
次
齋主以下祭官着床
次
伶人着床
次
喪主親戚著床
次
執事家人着床
次
會喪諸員着床
次
齋主柩前ニ進テ再拜短手
次
副齋主幣帛ヲ供ス
次
獻饌
此間奏樂
次
祝詞
次
四拜八開手
次
喪主玉串ヲ供シテ拜禮
次
親戚仝儀
次
執事家人同儀
次
會喪諸員仝儀
次
齋主以下祭官拜禮
次
玉串ヲ撤ス
次
撤饌
此間奏樂
次
幣帛ヲ撤ス
次
齋主進テ一拜
次
退手
次
退床
ノ
次
埋棺
喪主親戚随行シテ撮土ス后チ工
夫等著手ス
次
築塚建標
次
塚前ニ供物ヲ陳ネ各拜禮シテ退散
ミコシ タタシ
并
此間別ニ
中村太郎ノ葬祭ヲ修ス
一
祭 主 ヨ リ 發 葬 祭 葬 祭 還 邸 靈 祭 式 ヲ
出ス如左
御發葬祭次第(明治十一年五月十七日)
オワリ
邸ニ於テ修祓次第
オワリ
先
祓主
案頭ニ立チ祓詞ヲ宣リ訖テ大麻
ヲ以テ席中ヲ祓清ス
祓麻
ヲ玄關ニ置キ門内ニ手水所ヲ設ク
葬ヨリ還邸ノ者
門内ニ入リ手水ヲナシテ玄關前ニ立ツ
修祓者進テ大麻ヲ以テ祓フ
靈祭次第
先
齋主以下祭官着床
次
伶人着床
次
齋主進テ開扉シ再拜短手
オワリ
此時ヨリ奏樂
獻饌訖テ止
次
副齋主幣帛ヲ供ス
ニ セイ
此時警蹕二聲
後取役之
次
退手
次
次
先
齋主以下祭官祓事ヲ修シ畢テ著床
チョウダイ
次
齋主
手 靈主ヲ帳臺ニ移ス
進テ再拜オ短
ワリ
副齋主勤之訖テ復床
次
伶人着床
次
喪主親戚着床
次
齋主披前ニ進テ再拜短手
次
副齋主幣帛ヲ供ス
次
獻饌
此間奏樂
次
祝詞
次
四拜八開手
次
喪主玉串ヲ供シテ拜禮
次
親戚仝上
次
執事家人仝上
次
齋主以下祭官拜禮
次
玉串ヲ撤ス
次
撤饌
此間奏樂
次
幣帛ヲ撤ス
次
齋主進テ一拜
次
退手
次
喪主以下退床
※
短手…拍手の略
29
一
ツケ
いつ
ま
や
し
め ひき もとほ
あらごも
大久保 利 通 公 移 靈 式 諄 詞
おくどこ
きよむしろとりしき
ませまつ
はじめ
たへ
しから
いへ
ら
大御代の創の時より退かず怠らず、憂き瀬に耐て勤しみ仕ふる人等
すべ
かれ
のり
ま に ま に かんはふ
くだち
今幾人か在る。あな口惜きかも、あな悔きかも。然ば云ども今更に
せ
みたましろ
いみじ
みたま
いさをし
しず
かくりよ
かれ このことざま
おぎうつ
爲む術なし。故、式の隨々々神葬り治め奉ると爲て今日の夕日の降
これ
のり
是の奥牀を嚴の眞屋と注連曳回し、荒薦の清 筵 取敷て座奉る、
みたまうつし
とほく なが
つく
こひ ねぎ
か へ り まを
みもと
やすら
に 移 靈 の 式 仕 奉 り て、 是 の 靈 主 に 其 神 靈 を 招 移 し 鎮 め 奉 り ぬ れ ば、
みひつぎ
きこしめし
うつしよ
たひら
※參議兼内務卿正三位勲一等贈右大臣正二位大久保利通命の御柩の
あ ま つ かみ
かえ
いは
今より後は遠長く是の靈主をぞ 齋ひ奉らむ。故此事状を平けく安
かけ
前に、齋主權大教正兼氷川神社宮司又日枝神社祠官掛たる正七位平
かしこ
けく聞食て其本つ御靈は定れる道の隨々々、本つ幽冥の神の御許に
いましみこと
伊掛 ま く も 恐 か れ ど、 天 津 神 な
かしこ
山省齋畏みも申さく。あはれ 汝 命
や ま と ごころ
せ
復り坐し現世に立て給ひ、盡し給ひし大き功績の隨々、復命申し給
うけ(え)たま
くし み たま
がら亨得給へる奇御魂の日本心の眞心の深き事は、隼人の薩摩の湍
かくのごとく
ま かがや
かくのごとく
おろが
ゆゑ
かならず
いやじろ
かむつかさ ら いかし ほこの なか とり もち
を始めて眞名子諸親族友
和カ
すめがみたち
へ。 如 是 申し給はば幽冥の神の大前に其事の由をつばらに乞願ぎ
と
ふたかみ
門の底よりも深く、神を敬ひ
おも(おもんずるカ)み さ が
おなじ
つくえ しろもの
のり ほ
わかみや
齋 ひ 申 さ く。 如 此 齋 ひ 申 さ ば、 天 津 皇 神 等 は 必 治 め 給 ひ 安 め 給
すめらがおおみかど
いれ ひも
あめのした まつりごと
すめらがみかど
皇 大 御 門 を重みする御性の高き事は、高千穂のくしび、二上の峯
めさげ
つかへ まつ
いみじ
ひ、高天乃原は目曜く日の稚宮にも到り仕へ給はむ。天下は天神の
はや
つかさびと
や とり
い え び と ら ことごと
かくのごとく
かれ ほととぎす
よりも高く座しければ、既くより遠き大き志を皇朝廷の上に認め、
みこともち
はじめ
しら
ら
す
日隅の宮より天翔り國翔り國をも家をも守り助け給はむ。故、時鳥
もは
いかしみよ
み お さ き
とつくに
ひ
専ら其國の 寄 、島津の君を佐けて仕奉り、天下の太政新まれる是
音に啼く山の夏蔭の露と亂る袖の涙を振拂ひつつも、今日の禮代の
はつくに
たす
の肇國の嚴御代の初より官人に徴上らえて入紐の同心の人共と共に
やそとものを
い なび
かきは
ご
八 取 の 机 代 物 捧 げ 奉 り 置 て、 喪 主 利 加
もののふ
この かげ
いはね
な
物部の八十伴男の御尾前と成つつ、身もたな知ず仕奉らして在けれ
垣家人等 盡 、玉串捧げて拝み奉るが故に、神官等 嚴 矛 中取持て
くぬち
ま はしら
みぎの お ほ い ま ち ぎ み おほき
議 兼 内 務 卿 正 三 位 勲 一等贈 右 大 臣 正
おほまつりごとひと かけ う ち の ま つ り ご と の か み おほき み つ の く ら ゐ いさをの ひ と し な
位 大久保利通命
ふたつのくらゐ
ま
ば、國内の人の心は皆此蔭に依靡き、外國の人等も専ら其御名を仰
如 此 告げ奉り宣祝ぎ奉らくを美らに聞食せと畏み惶みも白す。
このくに
こひのみ
くちをし
うけ つが
うま
ぎ尊びて、是ぞ此國の眞柱、大宮の底つ石根の堅石にも常磐にも立
まさ
おと
ち榮え座む事こそ乞祈て在りしが、今年明治十一年五月十四日は、
あらしまかぜ
くやし
※ 參
ひとむら
まし
如何なる日にか有けむ、一群の 暴 風 雲吹き落し稲妻のきらめく太
たえ
二
その
刀にあたら其玉の緒絶て失ひ坐ぬ。あな悔きかも、
あな口惜きかも。
たた
今よりはも汝命の遠く深く思ほし立しし天下の事は誰かも受継む。
30
り坐し、この世に御存生の時尽くされた偉大な功績を復命なされま
早くより遠大な志を、王政復古した朝廷の姿であるとして追求し、
高邁な御性格は、高千穂の靈峰・二上山の峯より高くていますので、
真心として薩摩の瀬戸の底より深く神を敬い、朝廷を重んじられる
がらも天つ神代以來受け継いでこられた靈妙な徳を備えた大和心を
にかしこみて申し上げます。ああ、汝命(あなたさま)は、恐れな
筵としたものを敷き詰めて安置いたします大久保利通公の御柩の前
これの寝間を厳粛な正室として注連縄を廻らし、荒薦で奉製し清く
児諸親族・友垣・家人等皆が玉串捧げて拝み奉ることを謹んで中取
色々の物を机に供え、捧げ奉りて、喪主利加(和)を始め、公の愛
の 蔭 の 露 の 乱 れ る が 如 く 袖 の 涙 を 振 り 払 い つ つ も、 今 日 の 禮 物 の
守り助けて下さるでしょう。そこで、ホトトギスが鳴く山の夏木立
しょう。天下は、天つ神が日隅の宮より天翔り國翔り國をも家をも
の光り輝く日の稚宮にお着きになり其処でお仕えすることになるで
申し上げれば、天津皇神たちは必ず御得心になり安堵され、高天原
し上げ、祈願をこめてお祭り申し上げましょう。このようにお祭り
せ。そうされれば、神官等は幽冥の神の大前に其の功績を詳細に申
専らそのために島津公を補佐しつつ仕え奉り、天下の大政が改まる
持ちて申し上げます事を満足に思われますよう畏み恐れ乍ら申し上
移靈式 諄 詞
現代語訳
明治の御代の始めより官人としてお仕えし、維新の同士(志士)と
(東京・青山の大久保家墓地敷地内)
神道碑
げます。
(大久保家蔵)
「贈右大臣正二位大久保利通送葬略記」
志を同じくし先頭に立って身を捨てて新政府に仕え奉ったので、國
内の人身は皆この御蔭によるものと慕い、外國人をも大久保卿の名
声を仰ぎ慕う事となりました。これぞ、真の國の柱石、朝廷の基盤
も確かに繁榮するに違いないと祈っていましたが、今年明治十一年
五月十四日、何という日でありましょう、一群の暴漢が稲妻のきら
めくが如き白刃をかざし、あたら大切な御命を失うこととなってし
まいました。ああ、悔しくも口惜しい事。今よりは、汝命の深遠に
図り廻らした天下の事を、誰が受け継ぐ事が出來るのでしょうか。
大御代の草創より退かず、怠らず、窮地に耐えて勤しみ仕える人は
果たして今幾人居ましょうか。ああ、口惜しや、ああ、悔しいこと。
然れば今更なす術もなし。定めの隨に神代以來の葬儀を修めんとし
て今日の夕間暮れの浄闇に遷靈の式を仕え奉り、これの靈代に公の
御靈を招き遷し鎮め奉りましたので、今より後は、行末永く是の靈
代をお祭り申し上げます。即ちこの事に御心を平安に思し召し、公
の本來の御靈は定められた道に従い幽冥(隠れ世)の神の御許に帰
31
陸上自衛隊体験入隊
(平成二十年三月二十五日〜三月二十七日)
第八師団第十二普通科連隊重迫撃砲第三中隊
日㈭
第3中隊
及び広報
常任委員
濱田
良嗣
鹿児島縣護國神社
主
典
3月
営庭
◎隊内生活体験者名簿
日㈬
1250~1300 報告・解散
常任委員
光増
秀昭
霧島神宮
権禰宜
3月
第3中隊
会長
宮田
昇
船魂神社
禰
宜
作業小隊
会員
山下
法文
白山姫神社
権禰宜
衛生小隊
参与
上野
達朗
日枝神社
権禰宜
日㈫
第3中隊
会員
藤岡
敬士
鹿児島神宮
権禰宜
3月
1530~1600 体験試乗
隊内
基本教練(各個訓練)
1600~1700
実技
営庭
25
1700~1730 終礼
1730~1900 食事、入浴
隊員食堂、浴場
整理整頓要領(ベッ
1900~1930
ドメーキング)実技
1930~2210 予備
2210~2230 清掃・点呼準備
予備自居室
2230~2240 点呼
2240~2300 就寝準備
2300
消灯
(就寝)
0600~0610 起床・点呼
隊舎外
0610~0730 食事・洗面・清掃
隊員食堂、外来
0730~0830 朝礼、基本教練、実技 営庭
救急法(心肺蘇生、止
0830~0940
屋上
血)
実技
0940~1030 土嚢の使用方法
野外教場
1030~1100 新隊員課程見学
教大隊舎
野外走(障害等通過
1100~1200
野外走路
要領)実技
1200~1300 昼食(部外者有料喫食) 隊員食堂
26
1300~1500 ロープ訓練 実技
レンジャー塔
体力測定(検定6種
1500~1700
目)
実技 営庭
営庭
1700~1730 終礼
1730~1900 食事、入浴
隊員食堂、浴場
1900~2210 予備
2210~2230 清掃・点呼準備
2230~2240 点呼
予備自居室
2240~2300 消灯準備
2300
消灯
(就寝)
0600~0830 非常呼集(0500) 駐屯地及び周辺
0830~0930 朝食
(運搬食)
・整備 予備自居室
0930~1030 広報ビデオ
史料館
1030~1100 修了所見
27
予備自居室
1100~1200 清掃・被服返納
1200~1250 昼食(部外者有料喫食) 隊員食堂
事務局長
砥綿
茂全
新田神社
権禰宜
各中隊の支
援を受ける
会員
橋口
佳介
鹿児島神宮
雇
員
国旗掲揚塔付近
常任委員
坂本
竜一
向田神社
禰
宜
1500~1530 装備品展示
会員
鈴居熊一郎
新田神社
権禰宜
第3中隊長
常任委員
立元光太郎
三船神社
権禰宜
プレハブ教場
第3中隊
会員
折田
康孝
鹿児島縣護國神社
主
典
担 任
広報
常任委員
肝付
兼光
若宮神社
宮
司
場 所
外来駐車場
予備自居室
営庭
会員
沖
道成
霧島神宮
出
仕
内 容
常任委員
井上
祐信
竹田神社
権禰宜
月日
時 間
1300~1310 到着
1310~1340 被服交付・着替え
1340~1400 報告・全般説明
防衛講話(国防・災害
1400~1500
派遣)
32
午前五時、非常呼集にて起床。
宮
田
昇
まだひと気のない暗がりの市街地を抜け、列を乱す事無く寡黙無心に国分
城山山頂を目指し行進。目的は只それのみ。
歩を進めながら、昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、三島由紀夫
氏が新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室に於いて、彼
の組織した楯の会(会員四名)とともに撒かれた檄文がふと脳裏をよぎる。
『我々楯の会は自衛隊によって育てられ、云わば自衛隊は我々の父であり、
兄である。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であ
るか。顧みれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官として待遇を受け、
一片の打算もない教育を受け、又我々も心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵
外の日本にはない「真の日本」をここで夢み、ここでこそ終戦後ついに知ら
なかった男の涙を知った。ここで流した我々の汗は純一であり、憂国の精神
を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。この事は一点の疑いも
ない。
』
(三島氏がバルコニーから撒いた檄文より)
当青年会十四名の会員は自衛隊員に囲まれ無事山頂を戴き、今まさに昇る
朝日を望んだ。
後に狂人的とも云われ、檄文の言辞を借りるならば、
「忘恩的行為」によっ
て三島氏は決起した。その行動に於いては多々解釈があろうが、氏の唱うる
終戦以降消え去った
「憂国の精神」
を忘れてはならず、退廃しうる戦後体制(レ
ジーム)からの脱却を図らねばならず、この度の体験入隊研修に参加した会
員にとって少なからずその感触に一瞬でも触れ、覚醒し得た事は、大いに意
義あるべきものであったのではないかと思います。
33
上
野
達
朗
当会は先年来活動目的の一つとして士風の顕彰と士道の恢弘を以て愛国の
精神を次世代に涵養せしむる事を掲げ諸活動に取り組んできた。宮田会長は、
就任以来、会員の規律厳守、相互間の協調性、国防意識の啓発、志気の高揚
を目的として陸上自衛隊体験入隊を熱望。私は命を受け動いた。しかしなか
なか現実味を帯びず来季へ先送りかと思っていた矢先の十月下旬、国分駐屯
地広報課より吉報が入った。
「体験入隊を希望されておりますが、平成二十
年三月二十五日より二十七日までの三日間であれば調整できます」との事。
まずは会長へ報告。ただちに役員会召集。役員の賛同を得て神青二回目の陸
上自衛隊体験入隊が実動する事になった。
早 速、 事 務 局 よ り 参 加 者 を 募 集。 会 員 十 五 名 の 参 加 を 得 た。 そ し て 三 月
二十五日の十三時、宮田会長以下会員十五名は陸上自衛隊国分駐屯地重迫撃
砲第三中隊の中にあった。我々の受け入れ先、つまり教育担当である中隊長
の澤田三佐はイラク復興支援第八次派遣隊業務司令官のキャンプ地、及び内
外の身辺警護を主任務とした猛者である。
仕事は命掛け、仲間には優しく、己に厳しく、基本に忠実を心掛ける。基
本教練、救急法、土のう作成、障害飛越、レンジャー訓練、ベッドメーキン
グ、
すべて基本がある。皆、
会員は各訓練に奮闘。特に高架塔のロープを使っ
ての降下訓練では「準備よし」の声のあと降下に移るはずが、なかなか降下
できず、足場を踏みはずし足場にぶら下がった会員。又、降下時にタイミン
グが合わず逆さ吊りになり教官を慌てさせた会員といろいろあったが、皆、
降下成功。体力測定でも三千m 完走、日頃の体力不足がたたり、ほとんどの
者が死にそうなくらい厳しかったはず。顔面蒼白になっている者もいた。中
隊の皆様の温い拍手を受け皆完走、最後は十㎞行軍。突然、朝五時に起床。
戦闘服に着替え、まだ夜も明けぬ内に隊舎を出発、五㎞先の城山公園往復の
行進である。半長靴で、マメが出きた者、靴ずれのひどい者、皆、なんとか
完走をし、すべての訓練のクリアに安堵した。
会員皆の健闘をたたえた。
今回の体験入隊に際し、ご尽力を賜ったすべての皆様に感謝し、隊門を後
にした。
坂
本
竜
一
桜花正に開かんとする三月二十五日、十五名の会員と共に国分駐屯地に集
合、戦闘帽・迷彩服と半長靴を着け、二泊三日の体験入隊を行った。現地で
は、経験豊かで人間性溢れる澤田第三中隊長の下、隊員の皆さんに非常に好
意的に迎えられ、有難くご指導を頂いた。
部隊で出会った隊員等は皆よく鍛錬されており、流石に身体や言動に余分
なものが削ぎ落とされ、指揮系統も規律正しく、若さもあって溌剌颯爽とし
ていた。また駐屯地内は整然とし、特に輸送車両等は数センチの乱れなく見
事に整列駐車していたのが印象的だった。
当然の事ながら、敬礼等隊式動作が全ての行動の基礎にあり、入隊した我々
の行動も、逐一担当官の号令に従い整然と厳しく、そして素早く行われた。
主な教科訓練として、防衛講話、装備品展示説明、輸送車両体験試乗、基
本教練、寝床の作り方、救急蘇生法、土嚢積み、施設案内、軍事障害走(匍
匐前進等)、ロープ結索法やレンジャー塔垂直降下、体力測定(腕立伏・腹筋・
三千m 走)、非常呼集後暗闇の中を城山展望所まで往復十㎞行軍、関係展示
物や広報ビデオ鑑賞、アンケート所感提出等、中には筋肉痛や打撲・靴擦れ
を伴うきついものや、寒さや危険を覚えるものもあったが、自衛隊らしく無
駄なく充実した実に興味深い内容と進行だった。
日常では中々時間的に難しいが、今回の体験入隊を通じて、精神性もさる
ことながら身体的鍛錬の必要性を痛感した。忘れていた何かを取り戻した気
がした。その意味で、自分としては良いきっかけを与えて頂き本当に感謝し
ている。あと一月で四十路を迎えるが、機会あるならば是非再挑戦を!、そ
う強く願う次第である。
34
肝
付
兼
光
防衛省は日本の国の安全を担っています、日本のためにと自衛官、さまざ
まな事態に機敏に対応され国防のためにと活躍がとてもすばらしいですね。
第一日目、私も戦闘帽子に作業服、半長靴に身が重く緊張致しました。国
分駐屯地の説明、自衛隊についての講話、基本教練、気力体力ですね、基本
教練はまさに団体生活の行動に大事な要です。号令によって動く、「前進め」、
「止まれ」
、
「いち いち いちにい 」と足並みを合わせる、「基準 体操間
!
!
安な中で往復致しました。
に重い半長靴で歩かされました。三日目とあって私も足が重くて体力にも不
第三日目は、朝五時号礼で起床と起こされて直ちに十キロ行進。重い水筒
に消灯就寝。
ね。第二日目の夜も明日に備えようと、清掃、続いて点呼と夜更かしをせず
の方々は連帯感が強く、明るい雰囲気をもっていらっしゃる方々が多いです
ないので私は隊内生活の厳しさや、訓練、試験など尋ねて見ました、自衛官
夜は自衛隊の方々と親睦会でした、自衛官の方とも話をする事がめったに
気が思い知らされました。
を使う、すごいですね!これが戦闘訓練となったら体力限界以上に忍耐と根
伏せ、腹筋、三千メートル走に汗を流しました、自衛隊は毎日こんなに体力
休憩時間も少なくあっという間に進む訓練、体力検定、久しぶりの腕立て
プ訓練など自衛隊の教官の先生方に指導して頂きました。
と訓練が続きました。新隊員施設見学や障害走とても体力を使う訓練、ロー
第二日目も起床点呼に始まり、朝礼から、基本教練、救急法、土のう作成
です。学生時代体育の時間や体育祭などで練習した懐かしさもありました。
隔に開け」
、それぞれの動作が皆んなで合った時きれいに並ぶ姿がよかった
!
駐屯地では自衛官の皆様方のきびきびとした動作、大きい声の発声、体力
訓練、挙手の敬礼、朝の国旗掲揚夕方の降納、団体行動のすばらしさ体験入
隊の私よりすごく誇らしく感じました。
三日間にて我が国日本の防衛にいろいろと御指導で勉強になりました。
最後の閉会式までも一つ一つを大事に、三日間の体験入隊の証明書として
修了証は私の一枚の宝物となりました。
陸上自衛隊国分駐屯地の皆様方、今回は大変有難うございました。
35
!
光
増
秀
昭
今回の自衛隊体験入隊は、私に様々な事を想起させた。
私の家内の祖父が、都城から、熊本の加久藤峠を行軍したと聞いていた。
実際自分で行軍をしてみると、半長靴で、足が固定されていて、運動靴で歩
くのとは全然疲労感が違った。また、腰に下げた水筒も腰に負担を掛けてき
は、これに銃を持ったり、装備をしているだろうから、どれだけ大変であっ
た。今回はこれだけの軽装だが、これだけで疲労が重なってくるのに、戦中
先ずは基本教練。
たか。
めに強い意志を
人、また、国のた
を賭して戦った先
祖国のため、命
おかげか、足に負傷はしたものの生還できたとの話を思い出した。
によって、その時居合わせていた部隊の人は戦死し、祖父だけ衝撃で倒れた
また、装備品展示にて迫撃砲を見た時は、家内の祖父が、中国で、迫撃砲
敬礼は最短距離を通って素早く右手の二の腕を水平に、指先を眼尻と帽子
のつばの所へ
先の大戦において、陸軍士官であった祖父より小学校入学前に、先生から
名前を呼ばれたら、腕を耳につけて上に伸ばし、大きな声で返事をする様に
と訓練を受けていた。
実際には担任の先生が驚かれて、そんなに緊張しないで良いからと言われ
たが、この返事の仕方は続いていった。
もって日々鍛練さ
れている自衛官に
集兵に対しては、あなた方より年配の方であるから、それに応じた対応を。』
これも大戦でラバウルに赴いた千葉県の宮司さんから、若手の兵士に『招
いる自衛官が、後
重き勤めを担って
に、国防のために
次に班付きとなった自衛官の方々の懇切丁寧な接し方であった。
との上官の命令もあり、現在言われている様な、殴られたりというものは我
顧の憂えなく活動
敬意を表すととも
が隊ではなかった。との体験談を伺った。
よう神道青年会で
できる社会へ進む
又、城山への行軍。
も活動を行ってい
きたい。
前日に非常呼集がかかるかも分らない。時間は何時なのか分らないので、
身の回りの物をどこに何があるかを把握しておいて、すぐに対応できるよう
にと。
36
井
上
祐
信
平成二十年三月二十五日より二十七日まで神道青年会で国分陸上自衛隊駐
屯 地 に お き ま し て 隊 内 生 活 体 験 を 行 う こ と と な り ま し た。 数 年 前 に も 行 わ
れたそうですが、今回は神道青年会の参与でもあります上野さんが以前海上
折
田
康
孝
去る三月二十五日から二十七日の三日間、約二十数年ぶりの自衛隊体験入
隊が行われた。
神道青年会から十五名の入隊であった。私は若手二番目の年齢であったの
初日は早速、スーツから戦闘服に着替えた。ヘルメットに半長靴姿、普段
で、気合が入った。
御尽力されてくださいました。最近はなかなか簡単に体験入隊などできない
の白衣白袴姿とはまた違う緊張感があった。その後は、防衛講話に始まり、
自衛隊におられたということで、参加の手続きなどしてくださいまして大変
みたいで、ひとえに上野さんのおかげだと感謝しております。神社と自衛隊
基本教練を学び一日が過ぎた。
二日目は、基本教練に始まり、救急法、土のう作成、ロープ訓練、体力測
は関係が深いものであり私も是非と、参加させていただきました。内容は防
衛講話に始まり、体験試乗、救急法の実技、ロープ訓練の実技、体力測定、
夕刻は教官との懇親会があり、現場の貴重な話を聞くことができた。
定と一日中、身体を動かし、さすがに全員一同疲れた様子であった。
動はすべ て整列して団
最終日は午前五時に非常呼集がかかり、起床後、すぐ着替え、そのまま十
十キロメートル行進などが行われました。なかでも生活体験中は駐屯地の移
体行進でした。とても
㎞の行軍であった。さすがに身体に堪えたが、途中休憩時の乾パンと金平糖
三日間と短期間ではあったが、実に内容の濃い体験入隊であった。
規律正しく厳かなもの
われる参進ににている
中隊長が最初に「命を懸けてやっている」と話していただいた。規律・団
に助けられた。
なあ、と感じました。
結力、覚悟の量が違っていた。国を守る事には妥協があってはならないと感
でした。何か神社で行
この生活体験に参加し
我々の務めは、日本の伝統・文化を後世に継ぐことである。形は違えど同
じた。
た。本当に国分陸上自
じ国を守る事である。妥協せず、不惜身命の精神を以って、今後も神明奉仕
て様々な事を学びまし
衛隊の方々にはお世話
に励まなければと強く感じた。
機会があれば是非また参加したいと思う。
になりました。ありが
とうございました。
37
鈴
居
熊一郎
この二泊三日の自衛隊の体験入隊をさせて頂いた事は、私の人生にとって
とても意義のある事だった。
私達の担当をして下さった第三中隊の澤田中隊長はこの体験入隊のテーマ
を「規律」とおっしゃった。
澤田中隊長のおっしゃる「規律」とは部下は上司の言う事には直に従える
ようではならない事、上司は部下が困った時それに対応してあげられるよう
ではならない事、そして団結しお互いが支えあっていく事である。特に死の
危険のある戦場においてはとても重要な事だとおっしゃっていた。
この事が戦場以外の場所、自衛隊以外の立場の人達にとっても大切な事で
ある事は充分に分かった。
この三日間を通して、自衛隊の方々が国を守るという意識を持ち日々厳
しい訓練をされている事も分かった。
私達が安心して暮らしていけるのもこの方々達が命がけで国や国民を守る
為に日々厳しい訓練をつまれている事を忘れてはならないと思った。
藤
岡
敬
士
去る三月二十五日から二十七日までの三日間、私は、陸上自衛隊国分駐屯
地に神道青年会の会員として体験入隊をした。
その中で、基本動作訓練の整列、行進の仕方、敬礼の正しいやり方に始ま
り、正しい野外での救急法や装備品の見学、ロープを使った降下訓練、土嚢
の作り方や使い方、積み方などの様々な訓練をさせていただいた。私が、特
に心に残ったことの一つは、澤田中隊長様の講話であった。澤田中隊長様は、
に参拝をされるということもあり、又、柔道やラグビーで鍛えられたスポー
信心深い方で、普段から、塩を使ってお清めをされたり、毎年、鹿児島神宮
ツマンでいらっしゃって、隊員の方達の信頼も厚い、とても朗らかで、素晴
らしい方であった。
お 話 の 中 で、 自 衛 隊 の 編 制 が、 ま ず、 自 衛 隊 の 定 員 が 十 八 万 人 で 現 在、
十六万人いて、それぞれ、陸上、海上、航空の分野があり、その中でさらに
警備地区があり、沿岸、政経、戦略、旅団と複数の師団、旅団の体制をとっ
ているということであった。ちなみに、沿岸の分野では、整備、補給を担当
していて、旅団、というのは、ヘリコプターの備えなどがある、ということ
も今回初めて知ることができた。
又、災害派遣の状況についてのお話もあり、阪神淡路大震災や、八・六水害、
海外では、イラクや東ティモールでの復興支援のことについて伺った。
それから、自衛隊の方達が平素で心掛けておられる、強い責任感をもって
基本訓練を行い、心身を鍛え、技能を磨くこと、又、ハンドポケットをしな
い、整理整頓、敬礼をする、命令で動く、時間を守る、挨拶、笑顔、熱意さ
らに、海外においてはNGU作戦といって、あきらめずに挨拶、手振りを実
施すること、などのことも伺った。
これら一つ一つは、私にはできていないことが多くあり、三日間の短い期
間であったが多くのことを学ばせていただいた。今後は、この体験入隊で学
んだことを日々の生活や神明奉仕の中で生かしていきたいと思う。
三日間お世話になった自衛官の皆様には本当に感謝しております。この陸
上自衛隊国分駐屯地の体験入隊の機会を与えていただきまして、本当にあり
がとうございました。
38
立
元
光太郎
この三日間の体験入隊で入隊前と入隊後とで自分の中で大きく変化したの
は規律と愛国心です。
初日の訓練は、行進とか右向け右といった基本教練でした。大人数で同じ
動作をするという団体行動は高校時代の体育祭の時以来でしたのでなかなか
頭と体の動きが一致せず初めはかなり戸惑いましたが、回数を重ねるにつれ、
体が自然と動く様になりました。その頃になると今まで感じた事のない一体
感を感じてかなり気持ちよくなってきました。
初日の訓練が終わり全員で国旗に敬礼する頃には夕日も同じ様な位置に落
ちてきて、国旗と夕日が重なって本当に日本に生まれてきてよかったと思う
ぐらい感動致しました。心地いい疲労感の中で皆で味わうその日の食事は格
別でした。
二日目からは無駄な気負いというか変な緊張感も抜けてだいぶ入隊生活に
も慣れてきました。レスキュー体験や土嚢作りや障害走などはゲーム感覚で
リラックスして楽しめましたが、午後からのロープを使って崖から降りる訓
練や体力測定は普段運動をしてない自分にとって体が悲鳴を上げるぐらい苛
酷な訓練で日頃の運動不足を痛感しました。
その日の夜は隊員の皆様との懇親会があり、宴が始まると訓練中とは違う
やわらかい笑顔で接していただき非常に心温まる楽しい夢の様な時間でし
た。
最終日は、朝五時から起きて十キロ歩行がありました。さすがに三日目と
もなると疲れが溜まり歩き終わった頃にはヘトヘトになりましたが、一人も
脱落する事もなく皆の表情には達成感や満足感で満ち溢れてました。
いよいよ最後の終了式になり、修了証を貰って隊員の皆様に拍手で見送ら
れると感無量になって、今までお世話になった隊員の皆様や三日間寝食を共
にし苦労を分かち合った素晴らしい神青の仲間達とお別れすると思うとなん
だか無性に寂しくなって思わず胸に熱いものが込み上げてまいりました。
最後にこの様な素晴らしい企画を考えてくれた上野参与さんやそれを実現
していただいた宮田会長さん砥綿事務局長さん、参加した神青の皆様、もち
ろん自衛隊の皆様に感謝すると共にこの貴重な体験をこれからの神明奉仕に
役立て励みたいと思います。
39
陸上自衛隊国分駐屯地における二泊三日の体験入隊を終えて普段、目にす
橋
口
佳
介
二十数年ぶりに自衛隊の体験入隊を復活させよう、との話があった時は、
ることのない自衛隊員の仕事や隊員生活に触れることができ、大変貴重な経
濵
田
良
嗣
まあ自分は参加しなくていいかな、と思っていた。が、なかなか参加者が集
二泊三日の内容は、実に多岐にわたるもので、かつ中身の濃い実技中心の
験をさせていただいた。
リーズブートキャンプのDVDにて六㎏ ほど絞った甲斐も無くリバウンドを
三日間で非常に興味深かった。中でも装甲車・高機動車の試乗においては、
まらず、上野さんの一本釣によって見事に召集となった。一年ほど前に某ビ
喫した体で大丈夫かと不安を覚えつつ、駐屯地の門をくぐったのであった。
時折街頭を移動する光景を目にするも、まさか自分が試乗できるとは思いも
ロープ降下訓練等は災害派遣や海外派遣のある陸上自衛隊
最初の試練は、貸与された服が合わなかった事だ。急遽上官と同じ迷彩服
さでうまく乗り切った。しかし、二日
だけに、そういった側面を垣間見ることができ大変有意義
せず、とても充実した体験をさせていただいた。また、土のうの使用方法や
目の体力測定では、ごまかしもきかず、
だった。体力測定も行われたが、普段から非常事態時に備
を借りる。気分は古参兵だ。屋外での基本動作の教練は、持ち前の要領の良
散々な結果となり、常日頃の己の怠慢
えて鍛錬を積んでいる自衛隊員の足元にも及ばず、改めて
三日間の体験入隊を終えて、国防の最前線で命を懸けて
が浮き彫りとなった。酒量を減らさね
今回二泊三日の短い期間ではあった
任務に就く陸上自衛隊の必要性や大変さを私なりにわずか
隊員の仕事の大変さ、厳しさを知った。
が、自衛隊の皆さんと交流を深める事
でも理解できたことはとても意義のある三日間になったと
ば。
が出来又規律正しい生活など、有意義
思う。また、隊員の規律正しい生活等は学ぶべき点であり、
と、貴重な経験をさせていただいたことを自身の生活にも
これからの神職としての生活の中でこの体験で学んだこ
この貴重な体験を通じて得たことだと思っている。
な体験入隊であった。
次回までに体を鍛え直し、率先して
参加する事を誓う。次回あればの話だ
が。
活かすべきものは活かしていきたいと感じている。
40
隊編成となり防衛大学より幹部教育を修了したばかりの若い小隊長(三尉)
番で行われた神道青年九州地区協議会研修会においては「郷中教育」の概論
には「大久保甲東公遺徳顕彰祭」を斎行する予定である。また鹿児島県が当
役、大西郷百三十年祭」を執り行い「士風の顕彰」につとめ平成二十年五月
ともに「大西郷遺徳顕彰祭」を、同年九月には不二歌道会と共催で「西南の
東亜戦争戦没者慰霊祭」を、平成十九年一月には奄美大島の地にて禊研修と
年二月には知覧の特攻基地跡において、
九州各県の神道青年会員とともに「大
うの乗組員とともに「日露戦争戦勝百年記念、戦没者慰霊祭」を、平成十八
山公園東郷元帥像の御前にて偶然居合わせた海上自衛隊イージス艦みょうこ
の精神を次世代に涵養せしむる」ことを目標に掲げ平成十七年九月には多賀
年、本事業のテーマのひとつである「士風の顕彰と士道の恢弘を以って愛国
おいて二泊三日にわたる体験入隊を行うことになった。当会においては茲数
創立五十五周年を記念して、その事業の一環として陸上自衛隊国分駐屯地に
研修が行われた。以上のことを念頭におき、この度鹿児島県神道青年会では
国防と領土問題の視点から国家主権を考えるセミナーを開催し防衛省の見学
の定義が薄らぎつつある中、
神道青年全国協議会においては平成十九年の夏、
古来より国家の大事は「祭祀と軍事」といわれているが戦後六十余年、そ
し一体化して防衛を行う様
たものが今は各隊密に連携
衛隊が独自で運用されてい
り従来は陸、海、空の各自
庁から防衛省に昇格してよ
ていかなければならず防衛
世界情勢に対応して変化し
面の革新、防衛システムを
伴う海外任務等役割が多様化していることが伝えられた。そして絶えず技術
ロやゲリラへの対処、阪神大震災を教訓として新たに災害派遣や国際貢献に
能性が薄らいだ反面、中国の台頭や国境を接する離島の防衛、北朝鮮等のテ
ソ連が崩壊し北からの脅威の減少により本土への大規模な地上戦がおこる可
たことが第一日目の防衛講話で話された。講話の中で昭和から平成になって
こられてからはさつま町宮之城の洪水災害に派遣され、その救済に尽力され
澤田第三中隊長はイラク派遣に参加された経験をもち国分駐屯地にもどって
防衛管轄下にあり第三中隊は南薩方面を担当しているということであった。
鹿児島県は第八施設大隊が駐屯している薩摩川内市以外の地は国分駐屯地の
のもと二班にわかれそれぞれ分隊班長(曹)が直接指揮をとる編成となった。
とその実践方法を学び「士道の恢弘」がなされた。近年教育基本法が改正さ
式に変わりつつあることも
砥
綿
茂
全
れその注目度が高まりつつある。そして今回の陸上自衛隊体験入隊は「愛国
話された。
た。
誠に有り難うございまし
貴重な体験を戴きまして
精神を次世代に涵養せしむる」ことを視野において知行合一、当会の中の若
手にも参加してもらい挙行されたことはいうまでもない。
体験入隊配属先である第八師団第十二普通科連隊は警備区域に離島を多く
抱 え る 南 九 州 防 衛 の 要 衝 で あ り、 連 隊 本 部、 本 部 管 理 中 隊、 第 一 か ら 第 四
中隊(第三、第四中隊は機動装甲車所有)重迫撃砲中隊、対戦車中隊併せて
千二百名の隊員から構成されている。宮田会長以下参加者は第三中隊付の小
41
ましてこの五年間に行ってきた活動行事に焦点を当て、また
を行ってきた様に思います。ここはひとつ、その節目と致し
を顧みますれば、これはこれで色彩色豊かな内容の濃い活動
さて、当会におきましては先の五十周年から数えますと早
いもので五年と言う月日が経つわけでありますが、この期間
ら肝に銘じ、現執行部も邁進しておる所で御座います。
しむ事なくご支援頂いております事を、我々会員は当然なが
賜であると同時に、当会に際しまして常々ご教授を頂き、惜
の役員をされ、ご活躍されておられますOB・諸先輩方々の
礎を築き上げて来られた先人をはじめ、現在鹿児島県神社庁
多岐に広げておる様で御座います。これは偏に戦後、当会の
座談会
〜五年間を振り返りて〜
会長
宮田
昇
(第十九代会長
平成十九年度〜)
顧問
足立
齊明
(第十七代会長
平成十五年度〜平成十六年度)
顧問
山下
建
(第十八代会長
平成十七年度〜平成十八年度)
六十周年に向けての折り返しの年、つまりはその時期、さら
に飛躍的に引き継いで行かれるであろう「若き青年神職に向
けて」と言う意味合いも含めまして、当時会長として布石を
受け継がれ、恒例行事となります大麻
会の皇国の精神も先輩方から脈々と
て、この長きに渡る鹿児島県神道青年
本日、ご多忙中にも関わらずご参集賜りましたこと厚くお礼
代・先々代の会長をお勤め頂いた両顧問様におかれましては
今 回 は か ら ず も こ の よ う な 席 を 設 け さ せ て 頂 き ま し た。 先
間の会運営、諸活動について生の声をお聴きしたいと思い、
打たれました足立・山下両先輩に直接お話しを伺い、その期
頒布・北方領土運動、禊等の錬成研修
申し上げます。
動 の 場 を 離 島 を 含 め 県 内 外 の 地 域 等、
の交流会等を中心とし、昨今では諸活
をはじめ、慰霊祭、また隣県青年会と
宮田
こ
んばんわ。本年は「当会創立五十五周年」と相成りまし
宮田会長
42
平成十五年〜十六年
足立
はい、実際四十周年の資料
等を全部ひっくり返しまし
会 長 さ ん の ア ド バ イ ス、 私 が
て、先程も申しましたが森川
宮田
平成十五年四月、森川会長から会長職をお引き継ぎされま
して、当会一代イベントになります創立五十周年記念事業の
事務局をしていた時にいらっ
な先輩方のお知恵をお借りしながら修正したりが多かったで
年度でもあり、重圧やご足労も多大におありであったのでは
足立
私の場合、前森川会長から引き継ぐと言う事で道筋はほと
んど付けておられましたので、結構スムーズに行ったと思っ
す。特に私の中で大きかったのは実際の五十周年の記念式典
しゃいました赤﨑大和さんに
ております。事業と致しまして「CD ロム」(※鹿児島県神
で、やはり県外からも色々いらっしゃって、講演もお願いし
ないでしょうか。
社データベースソフト「ふるさとのお社」
)の製作が一番大
まして、これが本当に成功するかどうかが一番の心配であり
色々ご相談致しまして、一人で決めると言うよりは、いろん
きな事業になったわけですけども、各支部で皆様方のお力を
ました。また式典に先立ちまして物故者慰霊祭を行いまして
式典の挨拶も、いつの間にか終わってしまったような感じ
お借り致しまして資料を集めて頂き、また私共も各支部に参
部にしかない色々なことを学ばせて頂き、こういう機会はな
で、本当に時間が急に流れていった感じで無我夢中だった記
時間的に間に会うんだろうか、そういうことばかり考えて、
かなかないなと、前森川会長と話したことを想い出します。
憶があります。ただやはりその時のスタッフのみなさんに感
ても暖かく迎えて頂いてご協力を頂け
のものを持ってますので、どこに行っ
いかに楽しめるかが大事なことだと思います。それには本当
るかが一番かなと私自身そう思って、神青をやる時は自分が
やはりこの神青の活動はいろんな人を巻き込んで、どんど
んみんなを本気にさせて、どれだけみんなが楽しんでもらえ
謝する次第ですね。
ると、これは一般社会じゃないような
に こ っ ち が 真 剣 じ ゃ な い と 会 員 の 方 も わ か り ま す、 熱 意 を
神青の良いところは、みんな同じ共通
組織ですよね。苦労と言うより有り難
いつも頭にありましたですね。
持ってやってるかというその熱は伝わると思います。それは
ように思います。いろんな人にお会いしてお話しを聞いて、
苦労と言うより私の場合、楽しくて楽しくて仕方なかった
らせて頂きまして、神青以外の先輩方にお会いして、その支
創立五十周年記念誌
い気持ちでいっぱいです。
宮田
特に「0周年記念」と言うことで前回、四十周年の資料等
ご参考にされましたか。
43
足立顧問
行、また四十周年事業『ふるさとのお社』
第二四号)を編纂し「記念誌」として刊
和五十年の創刊号から平成十六年までの
宮田
五十周年記念事業では、平成十五年の
九月に「記念祝賀会」を、
また当会会報(昭
うことだと思います。
面が進化したと言うか進歩したとい
ら。それだけこの五年の間でハード
か ら ア ドバ イ ス を も ら っ た り し な が
たパソコンに詳しくない時代でした
りとスムーズに行った感じです。ま
の「CDロム化製作」等の事業をされま
したが。
足立
費用もかかりました、今だともっ
と安くで簡単に出来ると思います
ながら、上手く変換できないとか、神様の名前に関してはパ
まったく検討がつきませんでした。担当業者の方と打合せし
その後どうなったのかちょっと聞い
ム」がちゃんと活用されているのか、
ご協賛を賜りました。あの「CDロ
が。ただ本当にいろんな先輩方から
ソコンで打ち出せない、文字を作らなきゃいけないとかあり
てみたいところですけども(笑)
。
足立
そ
の当時はまだCDロムとかパソコン自体使える者がいな
くて、打合せの時に坂本君とか来て私共も要領を得なくて、
ました。今はデジカメとかあたりまえの時代になりまして、
他都道府県ではホームページを持っていらしゃって、そこで
山下
この「CDロム」の目玉は神社の
カラー写真を載せられたのがひとつ
と、お社の検索が出来るというところです。…使ってますか
各社のご紹介とかされておられて、日々発展しているのだな
と実感してます。その中でこういう形で残せたのは本当に良
ね、みんな(笑)。地方へ神社の写真を撮りに行ってもそこ
の総代さんとか、宮司さんのご家族さんとか、縁が広がって
足立
その時ですけども、役員会を逆にその支部に持っていって
午前中に行い、午後から写真撮影を行いました。いつも出て
人との出会いは飛躍的に伸びました。
だったかと言うと、ファイル形式のP
来ない人が出席され、会員の掘り起しにもなりました。
て下準備をしてたんだけど、何が大変
DF ファイルで出来るものと思ってい
足立
川内でしたかね、小学校の方が「CDロム」を受けに来ら
れた方がいましたが、そういった小学校、中学校とかで使っ
たが、業者さん、いわゆる専門家から
宮田
当
時、山下顧問様が副会長でいらっしゃいましたが。
山下
足
立さんの就任する前から実は「CDロム」の話しがあっ
かったと思ってます。
CDロム 画面
山下
事業の目的でもありましたが、市町村の役場にも配ったと
思います。
で慌てました。それが決まってからわ
イル形式から変更だったもので、それ
「これじゃ出来ない」
、と言われてファ
山下顧問
44
ていただければ有難いですね。
砥綿
薩
摩支部でも支部内の資料館等にすべてお配りして、非常
に今でも活用しております。
足立
でも、実際は前に作られました「記念誌」(四十周年事業
鹿児島県神社調査誌『ふるさとのお社』
)
、これがあったから
こそ「CDロム」が出来たと思います。元がなければ、文章
から起こすのは大変だったと思います。製作段階で写真とご
由緒を付けて返して下さい、
と各社に送ったら、
ほとんど「記
念誌のままで良いよ」と言うことでした(笑)。
宮田
基
本は先輩方が作って下さった『ふるさとのお社』をベー
スに、
「CDロム」にしたわけですもんね。
山下
ハード面が簡単で性能も良くなってるから、会員の中で詳
しい人がいたらビデオ撮影から編集までお願いしたいです
ね。
宮田
やはり会員の個性と言いますか、理系、文系、また体育系
の人といらっしゃるので、要所要所で組織の中に置いて行く
のは大事な事だと、今現在そう思います。
足立
またこの「記念誌」ですけ
ど、会報の一号から集めるの
に 大 変 苦 労 し ま し た。 先 輩 方
に連絡して、昔の…。それこ
そ「みかん箱に入ってるから、
ら ん 」 と か( 笑 )。 ひ と つ は
勝手に持って行って探してご
足立
当
時は市町村合併が著しく、今となっては鎮座地が違って
きてますけども。
て、修正した記憶もあります
けど、まあ全部集まって良かったです。これを読みますと当
イタヅラ書きしたのもあっ
こ の 話 し を 頂 い た の が 赤 﨑 大 和 さ ん の 時 期 で、 ど っ ち か
と言ったら神社の特殊神事を映像にしてほし
い、という話しだったが、それもなかなか大
時のどんなご苦労があったかと、
本当によくわかる資料です。
しれません。
山下
これの価値があるところは、神職の親子が二世代三世代に
入ってるところでしょう。これこそ「布石」と言うものかも
宮田
これを見るまで、うちの親父が書いてるって言うのも知り
ませんでした。
山下
これでひと財産にね、なりましたですね。
足立
勉
強になりましたよね。その当時まだ人も集まってない時期
もあって、今こういう会員と組織がしっかりしたのと違って。
変 で、 特 殊 神 事・ 芸 能 に な り ま す と、 土 日
お祭りが多いですよね、取材に行ける
日 が 少 な い と、 そ れ が や っ ぱ り 私 た
ちが奉務神社を奉仕しながらまた大祭
等とかそういう時期に行くのは無理
じゃないかと言う経緯で断念したので
すけれども。
おいおいはそういった
「特
殊神事DVD」も鹿児島の貴重な資料
として残してほしいと思います。
45
会報 創刊号
てた記憶があります。
足立
こういう時のすぐに動ける機動力は神青が一番かなと感じ
ました。
宮田
同年十一月には天皇皇后
両陛下がご来鹿あそばされ
さんと打ち解けたような感じで、事務局をさせてもらい参画
私は途中から鹿児島に帰ってきまして自分自身がそうお付
き合いがなく、神青に出させて頂くようになり、はじめて皆
宮田
任期中、二年間を通しての感想を。
足立
反省ばかりでしたが、先程も申しましたが「神人和楽」を
目標として、この二年間やって来ました。
ました。夜、両陛下がご宿
したのが最初でした。
来てもらえる様に活動していました。会則にありますが自己
まず、神青に出てきてもらわないとはじまらないわけです
から、事業を消化するというよりは何でもいいから楽しんで
てきました。
その二年間のテーマとして「いかに自分が楽しめるか」
「ど
れだけ人を巻き込んで楽しんでもらえるか」を置いて活動し
泊される城山観光ホテルに
向かって照國神社の境内か
ら県民が集い、数千の提灯
を振って歓迎致しました。
山下
ホテルの窓から両陛下が
振ってくださる提灯の灯り
が見えました。
研鑽、また親睦も含めて、斯界の中だけでなく、社会の中で
覚としてどれくらいの県民の皆さんが集まるか分かりません
すから、まだまだ出来上がった大人ではないと思うので、そ
めて考えて、その中でひとりひとりが、四十歳以下が中心で
の我々神職が担って行かなければならないことをもう一度改
でしたが、旗を二千用意してました。広報で各団体を回って
れをみんなでレベルアップしていければとの思いでした。逆
足立
急遽、神社庁からお話し
が来たわけですが、実際感
メディアもなかなか乗ってこなくて反応はなかったのです
に自分も育ててもらったような感じです。
宮田
会運営に対して思い通りにならない場面、ジレンマは。
足立
人生もそうですが、百%思い通りに行くとは自分でも思っ
が、当日は数千はいってたように思います。
砥綿
護國の松田さんが司会をされていたようです、なかなか定
刻になっても両陛下の提灯が見えず、みなさんジリジリ待っ
46
てないんですよ。良し悪しにしろ、その方向性に対して、間
違ってる、間違ってないと言う思いはありませんでした。み
んなの意見を聞きながら修正して行くので精一杯でしたの
平成十七年〜十八年
宮田
足立顧問様、有難う御座いま
した。さてこの後、平成十七年
されました。この二年間の山下
で、自分の思い通りになるって思いはなかったです。
会 長 職 は 会 長 と い う 名 前 に さ せ て も ら っ て る だ け で あ っ
て、
その方向を修正して行く機能が出来ればいいかなと思う。
丸は凄まじい勢いがあったよ
四月より山下会長がお引継ぎ
山下会長もおられますが、その当時の夫々の会長の個性もあ
うで御座いますが(笑)
。
した。
と共に副会長として色々と勉強さ
もあって、私も当時赤﨑俊彦さん
では鹿児島県が当番県と言うこと
平成十七年の神青九州地区協議会
宮田
今 も お 話 し に 上 が り ま し た が、
・・・以下略
山下
多かったですねー、九州地区会
長以下(笑)。
足立
あの当時、過激な方が多かった
ですね。
とか言う話になって、就任早々のご出発から度肝を抜かれま
九州地区が二年に一回慰霊祭をしてるとのことで、それを
ど こ に し よ う か、 と 言 う 話 が 最 初 で、
「 竹 島 」 に 行 こ う か、
当に内情がよくわからなかったです。
山下
・・・忙しかったのよね(笑)。足立さんから引き継がせ
てもらって、九州地区の当番県の引継ぎが三月にあって、本
るんですが、その個性を前面に出す方もいるし、私はどうな
んだろう、出したのかな?(笑)
。私の運営方法としては両
副会長と、とにかく役員で話しをしながら、山下副会長は文
章力があり、田上副会長は行動力があり組織としてまとめて
いくと言うのが多かったです。
山下
委
員会で意見や発言を言ってもらったりという自主性を持
たせたのは、実質、足立会長の時からだったと思います。
足立
一
番簡単なのは会長が動けばいいんですよ、みんなひとつ
に従いますから。
しかしそれだと、
一人一人会員のレベルアッ
プにならないと言うか、みんな従うだけじゃ神青の意味をな
さない。委員長、副委員長になったら意識を持って自主運営
させる。その委員会がひとつの会として自分たちで構成して
やってみるのが大事で、逆にそこに任せたらもうそれに従う
方が良いわけであって。
山下
責
任的にも自覚されて、現在も各委員長さんのもとで動い
てらっしゃるようで良いことです。
足立
こ
れから役員になっていく方々に対しては、ひとつの委員
会ごとにまとめて、ひとつの事業として年間を通してやって
みる。それが育てる為に大事な事だと思います。
47
せて頂きました。印象に残りますのが、その年八月に開催され
る予定であった九州地区研修会・同野球大会が当日直撃の台風
により中止と。あれはあれで九州地区はじまって以来の、前代
見門の珍事件じゃなかったでしょうか。
の役員さん方とはその時既にどっかで信頼感が芽生えていた
ように思えてうれしかったです。
もう一点はホテルキャンセル料の損失です。最初は鹿児島
県のみで全部支払うと当たり前のように思ってましたが、そ
で延期になったのは他県にも当てはまる事情であって、今後
の後の九州地区の役員会において、鹿児島での研修会が台風
山下
沖
縄県さんがなさる時に、一日目の研修は出来て二日目の野
球大会が中止というのは何度かあったけど、最初からが出来
またこういう例がどこの県であってもおかしくない事例であ
とになって、結果、良い処に辿り着くものだなと。
じがします。九州地区の二年に一回の慰霊祭も知覧で行うこ
うか。この研修会に関しては自然に「延期」せしめられた感
時だけする所もあるが、どっかでさせない力が働いてると言
最初に『士風を顕彰し
愛国の精神を次世代に継承する』
という研修会のひとつのテーマを決めました。テーマをその
まだまだで、「させられてるのがあるな」と言う感じです。
山下
任期二年間、また会長を辞めて最近まで通して思うのは、
「神縁」というのがやはり基本で、「してる」と思ってる内は
音でありました。
でもそれをやり遂げた山下会長も凄いな!と言うのも私の本
山 下 会 長 か ら 言 わ れ た 時 は 正 直 び っ く り し ま し た が( 笑 )
、
宮田
で、実際我々下の者は夏の段階で鹿児島での研修会は中止
かと思っておったのですが、「三月くらいにしようかね」と
州神青はひとつ」と言う感じでした。
九州地区の「信頼関係」と言うか「絆」と言うか、もっと
言えばOBの皆さんから培った、言い尽くされてますが「九
各県均等に割って下さいました。
るという事で、その補填をどうするか話し合って下さって、
ないんじゃないかと言うのははじめてだったかもしれません。
前準備からホテルも押さえて、
九州地区から会員さん達に、
鹿児島に来て研修を受けたは良いけど、怪我でもして帰れな
いとなったらこれは申し訳ないというのが、ひとつのその中
止を考えた時の様相ですよね。
宮田
研修会前日、我々会員も「明日は八時半に会場ホテルに集
合」との事で。
山下
確か、前の晩入りして準備して飲んでたんだよね。
宮田
はい、
「ガンバルぞー」みたいな勢いで。
(天文館で…笑)
山下
でも、その晩はかなり風が吹いてた。次の日の朝はホテル
会 場 前 の や し の 木 が ブ ン ブ ン 揺 れ て て、 も う こ れ は ダ メ だ
なーと思って、鹿児島から一番遠い長崎県さんに携帯掛けた
らもう出ていると。これは早急に動かなければいけないと、
各県の会長を待たずに当時の九州地区の春木会長さん、長元
副会長さん、当番県の我々執行部と、役員会ではないですが
中止ないし延期の申し出を行い、久富顧問さんに決定しても
らい、緊急的に了承を得ました。
その後、すぐの九州地区の役員会の席で、今回の研修会を
「中止」ではなく「延期」にしてもらえないかと言う事を頼
んだのですが、満場一致で可決頂きました。当時の九州地区
48
川 上 庁 長 が 懇 親 会 の 挨 拶 で
「中止になる処を延期にしてく
れて、今九州からここにこうし
て 集 ま っ て く れ て あ り が と う。
山下君をはじめ、鹿児島の人間
は抜いた刀を鞘に納めんのだ」
と、これ以上の賛辞があるのか
なーと感動しました。やはり九
州地区の他県のみなさんが目
に見えない協力をして下さっ
た賜物だと思います。
宮田
単
位会もそうですが、九州地
区も結束力があるということを感じさせて頂きました。
足立
普
通の会ではないですよね。三月という時期もあり、もう
ないかなと思ってたんだけど、神青+山下会長だったからこ
そ出来た事だと思います。
山下
や は り 良 い と 思 う の は、 昇 君 に な っ て も、『 士 風 を 顕 彰 』
するんだと言うのがずっと続いていて「西郷さんの百三十年
祭」とか、素晴らしい事だと思います。
宮田
慰
霊祭の話しが出ましたが、平成十七年には鹿児島市内の
多賀山公園、東郷平八郎元帥銅像前にて「日露戦争戦没者慰
霊祭」
、又十九年一月には五十五周年事業の一環として奄美
会員で行う祭典奉仕の意味合いについてどうでしょうか。
山下
ひとつにはやはり、『士風を顕彰』の中に、「まつり」以上
の顕彰があるだろうかというのを、みんなが自然発生的に言
われて会員の中で決まって行ったと思います。
足立
それこそ外から観せて頂くと、山
下会長のテーマは「まつり」なのか
なと感じました。
山下
び っ く り す る よ う な 事 を 逆 に
こ っ ち が 戴 け る と 言 う か、
「日露戦
争 戦 没 者 慰 霊 祭 」 の 当 日 は、 偶 然
イージス艦「みょうこう」の海上自
衛隊の方々がいらっしゃってて参
列して下さって、後日、艦長さんか
先人を顕彰するとひとことで
らお手紙を頂いたり。
言っても多岐に渡るでしょう、我々
の会が一番真心をこめられるのはや
はり顕彰祭や慰霊祭であって、みん
なも感じてくれてたみたいです。後
になってOBは呼ばなくてよかった
のかとか、もっとマスコミを通して
広報せんでよかったのかとか、そん
な話しも出るんだけど、企画段階で
全く考えられなかったわけで、弁護
して言えば自然発生的にみんなの声
が上がり、行った感じです。
49
市名瀬の地にて禊錬成研修会開催と同時に同地の南洲神社に
於いて「西郷隆盛命ご生誕百八十年祭」を執り行いましたが、
鹿児島県神道青年会 日露戦争戦没者慰霊祭
平成17年9月30日 於:多賀山公園
神道青年九州地区協議会 英霊顕彰事業戦没者慰霊祭
平成18年2月22日 於:鹿児島県知覧町護国神社
宮田
平成十八年九州地区野球大会では初の優勝を勝ち取りまし
て、…ボウリングでしたが…(笑)
。
ければならないわけですが。
会長に引き継ぐ年は鹿児島当番県が
足立
特 に 九 州 地 区 に は 力 を 入 れ て さ せ
て も ら っ た 思 い が あ り ま す が、 山 下
山下
オチが付くんだけどね(笑)
。はじめての優勝旗もお預か
りさせてもらいました。
に九州があってその中のひとつであ
日の臨時総会に於いての次期会長の挨拶の中でしたが「会長
また他県の方と親睦も出来てすごく楽しかったです。
る と 感 じ ま し た、 九 州 で 良 か っ た と。
い 申 し わ け な か っ た の で す が、 本 当
あ り ま し た の で、 勝 手 に 振 っ て し ま
宮田
任期中の感想を
山下
カッコ良い言い方に聞こえるかもしれないけど、常に会員
のみなさんがいてくれました。足立会長から引き継ぐ二月七
は議長でしかないんだ」と自分にも言い聞かせ、終始一貫し
ました。ひとつのテーマをみんなで叩いて揉
話しでしたが、その諸問題について斯界はど
任 期 中、
「皇室典範問題」が降って沸いた
うか、考えが正統的で真面目で、そういったところから久富
も神青協から九州地区を観ると、すごくまとまっているとい
るかと言えば疑問符が付かざるをえないのだけど、その中で
山下
青
年神職でしか出来ない役割りというのですか、神青協に
は三千三百人くらいの会員がいて、どれくらいまとまりがあ
う対処すべきかと平成十八年一月十九日に東
さんが神青協の会長になられたのは非常に意義深く九州人と
んでもらって終始し心がけました。
京で緊急会議がありました。次の日鎌倉宮に
して誇りあるとこです。
足立
神
青協は組織が大きすぎてなかなか見えてこないところが
あります。東京で会議があって、いろんな事業に関しても全
て青年会会長として廃案祈願をさせてもらい
か、考え思う所がありました。お蔭様で、著しく神威があっ
国に渡るので会員もなかなか参加できない。九州地区だけで
ました。その時に会長としてどうすべきなの
たと言いますか、鹿児島で悠仁親王のご降誕での提灯行列活
すよね、纏まって和やかに話ししてるのは。
る、このままで良いと思います。
から引き継いで来た風土の中で出来る事を自分達の力でや
してるとか関係なくて、今すべきこと出来ることを、先輩達
山下
九
州の中でもわりと鹿児島は良いよなーと言う声もよく聞
きますし、それでどうだと言うことでもないけど、他がどう
動(同年十二月二五日)と、それ以上にないことに運んでく
れましたし、そういう時期の中で「日露戦争戦没者慰霊祭」、
「西郷隆盛命ご生誕百八十年祭」に繋がったと思います。
宮田
会長になりますと、年間の定まった活動行事をこなす合間
を縫って九州地区や神青協との連携を図るべく調整を計らな
50
宮田
今後(平成二十年以降〜創立六十周年に向けて)、当会に
対してのご要望をお聞かせ願いたいのですが。
伝える』というのがあの時の、九州地区研修会の立て看板だけ
に終わってないというのがすごくうれしいことでした。
要望としては経済力をつけてほしい。離島を抱える会でも
力、或いは遷宮や宮中の奉仕とかに旅費の負担が出来るくら
あるし、その有望な人材を主要なポストに据えるだけの経済
人間一生勉強ですので研鑽する機会が大事です。後、宮田会
いの、その程度のことですが、それが出来れば会は活発化、
足立
この神青でしか出来ない活動があるわけですよね、飲み会
も良いですが、
広い視野でその場に即した時局問題の勉強会、
長が一年過ぎてのテーマが私は見えて来ない。みんなに分か
正常化していくものだと思います。
また研究してみて下さい。
宮田
短
い時間でありましたが両顧問様におかれましては有意義な
お話し、また丁重なるご意見をお聞かせ頂きました事、誠に有
るように、とにかく頭を垂れて、まず汗をかいて、自分の後
姿を見せれば自然と人が集まってくると思います。後、年間
の活動が多いのではないでしょうか。毎年懸案になっている
大麻頒布活動等、今後神社庁教化部会と連携を取りながら精
難う御座いました。この先、十年、さらには二十年と続いて行
上げて行くであろう若手青年神職に引き継いでもらうべく、ま
査してみる価値があって良いかもしれませんね。
山下
実際、
会長を退任してからまだ近く、
自分に対する反省もあ
るわけですが、
最近の役員会議事録・レジメ等見せてもらって
た青年神職の育成につきましては諸先輩方のご助言ご鞭撻を賜
くわけでありますが、現会員はもとより、この会をさらに盛り
ますが、「大西郷の百三十年祭」(平成十九年九月)等、しなきゃ
りつつ、今後とも宜しくお願い申し上げまして、座談会を終了
塩竃神社参集所
場
所
平成二十年一月三十日(水)午後六時
日
時
したいと思います。本日は誠に有難う御座いました。
ならない使命感というのを会員のみんながいち早く察知して
くれた事は非常にうれしく誇りに
思います。その中で本年は「大久保
甲東公の百三十年祭」(平成二十年
五月)をするということで、大久保
公のことに関すると賛否両論ある
た れ た 事 で あ り、こ こ に 一 貫 し て
を 顕 彰 」す る と い う 目 的 で 思 い 立
慰 霊 祭 を 行 う こ と は 先 人 の「 士 風
事務局長
砥綿
茂全
立会い撮影・記録
会
長
宮田
昇
聞き手
同
山下
建
顧
問
足立
齊明
出席者
ひ と つ の メ イ ン テ ー マ『 士 風 を 顕
広報委員長
光増
秀昭
立会い撮影・記録
ん で す が、敢 え て 承 知 の 上 で 公 の
彰して以って愛国の精神を子孫に
51
西南の役 大西郷百三十年祭
− 創立55周年記念表彰特別インタビュー −
この道60年に訊ぬ
昭和6年 宮崎県児湯郡
高鍋町生まれ 76才
岩切神具製作所代表取締役
氏
司会
本日は有り難うございます。工
場までお見せいただいて恐縮しており
ます。
*道のはじまり…
とか作ってました。
司会
神具製作に切り替わった一番の
岩切
まあ、一番のきっかけと言えば、
司会
岩切さんは神具製作のこの道何 きっかけは?
岩切
いいや、こっちこそ遠くまで有 年ぐらいにおなりですか。
て、今年でちょうど二十年になります。 誘われたりしたことですな。
神 具 製 作 に 携 わ る よ う に な っ やっぱり皆さんの様な神官さん達から
り難いですわ。汚いところですけんど 岩 切
なぁ。
司会
いつも岩切さんの神棚や祖霊舎 建具職人の弟子入りをしたとが十六才 会長
こういったのを(神具を)作っ
を取り扱わせていただく中で、作業所 の 時 じ ゃ っ た か ら、 そ い か ら す っ と てもらえないか?と言う感じですか?
岩切
そうです。あんたなら作れるよ。
二十年前から、建具からこっちの神具 と言う風でしたな。
のことなど、どのような所かなと想像 六十年になりますわな。
しておりました。
私も、そりゃ出来ると思ったけど、出
来るけど売れないんじゃないかとも正
こと)を先ず作って廻ったですな。
岩切
そうそう。神棚と八足台(案の
廻ったんですか?
司会
最初は主に神棚などを作って
*無欲に生きる…
したわなぁ。
そっからは宮崎県の神社は殆ど廻りま
な さ い っ て、 紹 介 し て く れ た ん で す。
を見せてあげるから、他の神社も廻ん
そいから、神社庁(宮崎)の人が名簿
た。と言う訳ですわ。
さんが別の大きかお宮に紹介してくれ
い出来じゃ。ということで、そん神官
わ。作って見てもらったら、これは良
言われて、始めてお社を作ったんです
俺が買うから是非作ってみてくれよと
岩切
家具専門でした。例えばタンス 直言いましたら、そん時の神官さんが、
司会
それまではどのような物を?
岩切
こ う し て 来 て 見 て い た だ い て、 製作に切り替えたとです。
こっちも安心すっですわ。
職人の
神具製作師 岩 切 房 義
いわきり ふさよし
〜神思うこころと職人の道〜
52
八足台は、折り畳みのやつをね。これ
はもう、みんなからすごく喜ばれまし
たな。当時、こんなの無くて調法がら
れました。これで名前を覚えてもらい
ま し た。 今 ま で の は か さ ば っ て 大 変
好きじゃったちゅうことですわ。お宮んもんを作っとがよ。
信 条
たら、出雲大社のあたりからも問い合
わたしゃ仏は作りませんわぁ。お宮に馴染んどりますから。
だったんでしょ。組立式を考えて作っ
わせがくる位で、こっちの方にも出し
それから、混じりますわなぁ。仕事がよ。
ぶつ
たらどうかとも言われたけど、
いいや、
もう宮崎県だけで手一杯です。なんて
断ったんです。そっちはそっちでやっ いわって私、言ったんですわ。ただし、 し た。 好 き だ っ た と い う こ と で す わ。
て下さい。なんて言ったら、そいなら 名 簿( 神 社 庁 関 係 の ) に は( 広 告 を ) そんなお宮のもんを作っとが。またそ
を作るのが好きですわ。
ばと見本を持って行かれましたわ。そ 載せてもらったわな。カタログ付きで んな(神棚や八足案など)細かいもん
の後いろんな所で作られるようになっ な。まあ、そんなところですわ。
おおよそ注文製作ですか?
会長
お社を一社作るのにだいたい何 が、 見 渡 し て 完 成 品 が あ り ま せ ん ね。
時間くらい必要ですか?
岩切
まあ、一週間くらいあれば出来 岩切
そう。注文ばっかりじゃな。岩
ますわ。八足台なんかは二台じゃれば 切さん、こげんなとが作って欲しいと
司会
岩切さんの、技術面の基礎とい 一日で作りますわ。神官さんたちが紙 電話がくれば大体すぐ作れますわ。在
*
〝こだわり抜く〟
ということ…
たけど、うちが一番最初に作ったんだ
と思いますわ。
そのかわり値段を見るとどこのやつも
値段が倍しますわ。そして外材じゃわ
な。スプルス材でやってるわな。
か。例えば、ご実家が大工職人であら 板があっでしょ。下に敷くやつ。あれ な 大 き か お 社( 銅 板 葺 き 邸 内 社 の 事 )
司会
特 許 な ど 取 っ て お か れ れ ば 良 うことは、どこで修行なされたんです ( 紙 垂 ) を 切 っ で し ょ。 そ ん 時 に 使 う 庫はあんまりもたんわな。特にこげん
かったですね。
すわ。銅板葺きにしてくれっていうの
なんかも何枚も作って、くれてやりま は、長く置けばすぐ屋根が変色すっで
時に、岩切さ 岩切
そうです。うちの爺ちゃんがよ、 した。何人も。
岩切
そうそう。始めて作って見せた れたとか?
ん、あんたこ 指物師でしたわ。それもあるけど、だ あれは銀杏の木じゃな。あれが一番良 は、たまにありますわ。
りゃ特許を取 いたい私は小さい頃からよくお宮にな いわ。銀杏じゃないと後から反ってき
れって言って じんでおりましたわな。そんな頃から てしもうて。銀杏じゃないといかんわ。*祖霊舎と出会って…
下さったんで お 宮 の 色 ん な も ん を 作 っ て み た い な。 目(木目)が無いやつじゃないといか
すわ。神社庁 とは思っておりました。だから、私の んですわ。それかホウの木じゃわ。一 司会
神道青年会(鹿児島県)はこれ
神棚よりも祖霊舎製作の方でお世話に
の人も。けど、 爺ちゃんがそもそも指物大工じゃった 枚やりますから持って帰って使いんな まで、岩切さんにはどちらかと言えば
いいやそこま から弟子入りして習ったもんを、私の さいよ。
でせんでも良 代になってから神具製作に切り替えま 会長
想像よりだいぶ広い作業場です なりました。元々、鹿児島の方ではご
53
祖先の御霊を神棚でお祀りする事が一
般的でした。そこで、岩切さんの祖霊
ませんわ。隙間がないから。どんな大
きなお社作っても、三社作りでも五社
を始められたきっかけはどのようでし
た、岩切さんが祖霊舎と出会って製作
最初、神棚と八足台製作から始められ
り ま す。 か れ こ れ 十 年 前 の 事 で す が、
こう。という事になったと記憶してお
判り、会としてこれを県内に広めて行
形が古く、本来の形であるという事が
るに、やはり祖霊舎は岩切さんの作る
まったんですわ。よう作ってくれたっ いう思いは他にありますか?
も、ある宮司さんに見てもらって、広 の信条として、これだけは譲れないと
岩切
そうですな。それから宮崎の方 司会
岩切さんの神具を製作する上で
当会としても大変嬉しく思います。
が、実は鹿児島県が最初とお伺いして、*譲れぬ思い…
ておりましたが、祖霊舎普及の始まり
ただいたものと思っ
に普及して、その後私たちにご紹介い ふん入っとっでしょ?あれ、ありませ
司会
岩切さんの祖霊舎は最初宮崎県 入りませんわ。お社ん中、ゴキブリの
作りでも、隙間が出来んからゴキブリ
たか。
て、色んな神官さんに言われましたわ。 岩切
いっつも良い物を作るというこ
*〝 正直に生きる〟
ということ…
岩切
これもまた、ある神社の宮司さ
あんたが言うとが本当じゃって。お社 とですわ。注文を受けたら完成する迄、
舎に出会い、それから色々な文献を見
んに指導してもらったんですわ。この
の 中 に 御 霊 を 入 る っ も ん じ ゃ 無 か っ 寝ながらでも考えますわ。材料なんか
からこだわりますわ。やっぱりマキの
んわ。うちんとわぁ。
形が本もとじゃって。それですぐ図面
を引いて早速作って、ある神社のお祭 て他の所のやつは厚さが三十センチあ て。これに変えんといかんって。
りの直会場に持って行って、神官さん り ま す わ。 う ち ん と は 十 五 セ ン チ で 司会
岩切さんの作る祖霊舎や神棚に 木が一番じゃわなぁ。みんなマキが良
たちが大勢おる所で見せたら、その神 作って、何も飾りは付けませんわ。そ は余計な金具などが無いのが特徴です いって言いますわ、神官さん達も。ヒ
官さん達もこれが本当じゃ。御霊はこ ん代わり値段はうんと安いわな。○○ ね。先程は値段の事を言われましたが、 ノキは良いけど、やっぱり値段が高く
司会
良い物を安く。という事も信条
れに祀っとじゃ。この形でないといか ( 某 授 与 品 業 者 ) が 十 五 万 円 じ ゃ っ た 逆に私たちは清々しさを感じて良いと なりますわ。
ん と じ ゃ っ て 言 っ て く れ た と じ ゃ わ。 ら、うちんとは二万五千円じゃわ。他 思っております。
ある人は金具を付ければって言 とされるところでしょうか?
それで鹿児島の神官さんが、岩切さん の人が岩切さん安すぎるよ。ちいと高 岩切
鹿児島にも持って来なさいって言って うせんなって言うてくるっけどよ、私、 いますが、キンキラキンでいかんわっ 岩切
はい。そうですわ。千木やら鰹
か ら 鹿 児 島 も、 こ っ ち の 方( 宮 崎 県 ) わ。
わな。その代わり私のはゴキブリ入り とが。
でしょ。高いのはいかんわ。普及せん わ。好きじゃからなぁ、そげんして作っ
くれました。それが最初じゃわ。それ これでいいわぁって言ってやりました て、私、言いますわ。その分安くもなっ 木まで全部こだわって作っちょります
も広がったわな。ぼつぼつとな。だけ
じゃろ。菊の紋とか。そうすっと高く
よ、色んな金具がいっぱい付いちょる
授与品業者)なんかよ。だけどあれは
ど、他でも作っちょるわな。○○(某
たけど断りましたわ。子供御輿はずい
岩切
川辺仏壇の辺りからも注文あっ
じます。一つ一つに。
ました。魂が吹き込まれているのを感
会長
職人業の数々を見せていただき
頑固もんの
なっですわ。どうしても値段が。そし
54
ぶん作って、方々奉納しましたわ。公
民館なんかにも寄附したりね。
*残すという事の意味…
司会
岩切さんの、その技術やこの作
業所など、そして良い物を安く広めて
美 学
からだん調子ねぇ?
調子は百パーセント良いですわ。
かんとかやって来て、みなさんともも
う十年じゃわ。懐かしいわなぁ。
司会
お身体の調子はいかがですか?
岩切
調子は百パーセント良いです
わ。飲みの方(お酒)も一日二合ですわ。
神官さん達と飲むときは少し過ぎます
わ。でもすぐ眠くなっとですわ。調子
良いですよ。
岩切
七十六になります。一番若いで
会長
御年おいくつになられますか?
神官さんたっと飲むときは少し過ぎますわなぁ。
させて行こうと考えておられますか?
行こうという信条等、どのように後継
岩切
後 継 者 で す か? 近 く に 大 工 を
やっちょる親戚も何人かおって、今こ すわ。そげんして頑張っちょると。若 すわぁ。またそげんして人を助けるつ すわ。同級の中じゃ。まぁ八十まで何
ん な 不 景 気 で し ょ? 仕 事 も 無 い 様 で、 いもんはあんまり考えんけどな、神さ もりで頑張っちょれば、すぐ仕事をも と か 頑 張 っ て、 み ん な を 助 け て 行 こ
親爺よぉ、一つ教えてくれんなって言 まは助けてくれちょるよ。そんな話も らって自然にお金を頂ける。またその うって計画しとりますわ。
う 者 も お り ま す け ん ど、 お ぅ、 い い 若いもんにも随分して来たよ。若いも お 金 で お 宮 な ん か に 寄 附 を す っ と で 司会
この高鍋という海岸縁の素晴ら
よ。俺が作ったもんをそのまんま(残 んは何か事故に遭わんと判りませんか す。お金の事はあんまり気にせんです しい所で、これからもお元気で、今後
して)作れば教えるよ。それから俺が らなぁ。そりゃ見ろっ!て、神さまを わ。祈祷師の人も言いますわ。私を見 とも宜しくお付き合い下さい。今日は
出しとる値段(安く)で出すなら良い 祀っちょらんからよっ!って言うとで て。岩切さん、あんたは金がずんばい 有り難いお話を伺い、本当に有り難う
後
記
岩 切房 義 氏 と出 会 い 早い も ので 既 に 十
年が過ぎた。氏のなす業の巧は言わずも
がな、その人柄に打たれつつ、何時か氏
のもとを訪ね行きたいとの願いが、この
対談の形で叶った。
春まだ浅き平成二十年二月二十一日、
当会より宮田会長、山下参与と共に氏の
工場を訪ね諸々話を伺うにつけ、更なる
感動を戴いた。願わくは更に御健康にて
我が若き等の人生の師と御教導下されん
ことを。
対
談
岩切房義氏
会長
宮田昇
参与
山下剛
司会・編集
山下建
よって、
言ってるんですわ。そしたら、 すわ。必ず助けてくれるんじゃからっ ( 沢 山 ) 入 る 人 よ。 だ け ど、 あ ん た は ございました。
司会
お金の事をあまり気にされない
そのもん達が、そうじゃなぁ、やっぱ て。こりゃあ迷信じゃなかって教えて 全部人にあげる人じゃぁって。
い家族もおるしって、
なかなかですわ。 やりますわ。
岩切
どうじゃろうか。生活費はちゃ
のでは無いですか?
のでは、奥さんのささえも大きかった
*神の御加護と…
食べていかれんといかんしな。うちの
場合は、はっきり言って年金が入って
くっから良いんですわ。母ちゃんと二
人じゃからよ。年金で食べて行かれま 会長
生活をする中で、神さまに手を ん と 入 れ ま す か ら な ぁ。 ど う じ ゃ ろ。
すわぁ。一つにはそれが有るから安く 合わせるゆとりが欲しいものですね。 うーん判りませんわ。でもこれだけは
で 出 来 ま す わ。 以 前( 建 具 工 場 の 頃 ) 岩切
家を建てる時は地鎮祭をしても 言えるよ。今日全部人やら神社に(お
は 従 業 員 が お っ た 事 も 有 り ま し た が、 らって土地の神さまを、それから水の 金を)やっても、明日にはその分の仕
人 件 費 で 成 り 立 た ん 事 に な り ま し て、 神さま、先祖の神さま、お墓やら大事 事 が ち ゃ ぁ ん と 入 っ と よ。 そ り ゃ あ、
今 は お ら ん と で す よ。 だ か ら 一 人 で な神さまが沢山おられるのに、判らん 母 ち ゃ ん も 誉 め て や ら ん と い か ん わ
やっちょるようなもんですわ。それで もんが多いですわ。色んな人との縁も な。でも、もうお父さんにはなんも言
良いですわ。神さまのお助けもあっで 沢山もらいましたわ。お金じゃ無いで わんって言いますわ。まぁ、なんとか
55
平成十五年度
活動報告
【平成十五年】
四月 「神青かごしま」第二十三号発刊
八日 広
報委員会
於
照國記念館
七名
二十四日 第
五十五回神道青年全国協議会定
例総会 於
神社本庁
二名
五月 九日 神
道青年九州地区協議会第一回役
員会
第五十五回神道青年九州地区協議
会総会 於
宮崎市
十名
六名
十三日 会
計監査会 於
神社庁
二十二日 創
立五十周年記念事業第二十回実
行委員会
第一回役員会
於
鹿児島神宮
十三名
六月 十日 斎
田御田植え
於
霧島神宮
十一名
十七日 第
二回役員会
於
照國神社
九名
二十七名
定例総会 於 神社庁
来賓
二名
創立五十周年記念事業第二十一回
実行委員会
於
神社庁
二十七名
七月
三日 創
立五十周年記念事業第二十二回
実行委員会
於
神社庁
二十七名
四日 神
道青年九州地区協議会第二回役
員会 於
宮崎八幡宮
二名
八月十一日 第
三回役員会
創立五十周年記念事業第二十三回
実行委員会
於
照國記念館
九名
二十一日 第
三十回神道青年九州地区協議会
研修会
二十二日 第
二十九回九州各県神道青年親善
野球大会 於
宮崎市
十四名
二十八日 神
青協夏期セミナー
於
神社本庁
二名
二十九日 九月 四日 創
立五十周年記念式典
於
パレスイン鹿児島
来賓
八十三名
会員
三十八名
計
百二十一名
十月 九日 第
四回役員会
創立五十周年記念事業第二十四回
実行委員会 於
照國記念館
九名
十一日 斎
田抜穂作業
於
霧島神宮
九名
十九日 鹿
児島神宮浜下り助勤
於
鹿児島神宮
五名
二十三日 斎
田脱穀精米作業
於
霧島神宮
六名
三十一日 第
五回役員会
創立五十周年記念事業第二十五回
実行委員会
於
照國記念館
十二名
十一月五日 神
社関係者大会
於
鹿児島市
十名
十四日 天
皇皇后両陛下御奉迎行事
於
照國神社境内
二十名
第五回親善野
二十日 第
七回OB交流会
球大会
ホテル満秀・小野グランド
於
十二名
会員
二十九名
OB
十二月五日 第
六回役員会 於
神社庁
七名
団地大麻頒布運動
十二名
星ヶ峯団地他 忘年会
もつ鍋万十屋
二十四名
於
十日 神
道青年九州地区協議会第三回役
員会 於
宮崎市
二名
【平成十六年】
一月二十九日
第七回役員会
於
神社庁
九名
二月 六日 第
神社庁
十五名
八回役員会於
建国記念の日啓発・北方領土返還
要求運動
於 レクストン鹿児島他
十七名
於
牛ちゃん 二
新年会
十二名
三月 八日 福
岡県神道青年会創立五十周年記
念式典
於
福岡リーセントホテル
五名
九日 神
道青年九州地区協議会第四回役
員会 於
福岡市
二名
禊
二十三名
研修会 於
姶良町
来
二名
会員
十六名
賓
二十二日
二十三日
平成十六年度
活動報告
【平成十六年】
四月 「神青かごしま」第二十四号発刊
十二日 広
報委員会
於
鹿児島神宮
四名
二十三日 神
青協創立五十五周年
記念式典
於
明治記念館
二名
二十四日 第
五十六回神青協定例総会
於
神社本庁
二名
五月 十日 神
青九地協第一回役員会
於
熊本市
三名
第五十六回神青九地協総会
於
熊本市
十名
十四日 会
計監査会
於
神社庁
十一名
二十五日 第
二回役員会定例総会
於
神社庁
二十一名
来賓
二名
六月 十日 斎
田御田植え
於
霧島神宮
十二名
二十一〜 神
青協・九地協
北方四島一括返還祈願祭
於
根室市
三名
二十四日 七月十二日 神
青九地協第二回役員会
於
熊本市
二名
二十〜 神
青協夏期セミナー
於
神社本庁
一名
二十一日 八月十八日 神
青九地協第三回役員会
第三十二回神青九地協研修会
第三十一回九州各県
神青親善野球大会
於
熊本市
十四名
九月 二日 長
崎県神青会
創立五十周年記念式典
於
長崎市
四名
十日 第
三回役員会
於
照國記念館
十二名
鹿児島市
七名
顧問会 於
十月 八日 斎
田抜穂作業
第四回役員会
於
霧島神宮
七名
十七日 浜
下り助勤
於
鹿児島神宮
五名
二十一日 第
八回OB交流会
於
ホテル満秀
三十名
第六回親善野球大会
小野公園野球場
二十一名
於
十一月八日 第
五回役員会
斎田脱穀精米作業
神社関係者大会準備作業
於
神社庁
十二名
十一日 神
青全協臨時総会
於
神社本庁
一名
十二日 神
社関係者大会
城山観光ホテル
十名
於
二十五日 第
六回役員会
於
県護國神社
七名
十二月七日 神
青九地協第四回役員会
於
熊本市
二名
十三日 第
七回役員会
於
神社庁
十名
団地大麻頒布運動
於
鹿児島市星ヶ峯団地
九名
神青忘年会
於
鹿児島市
二十三名
【平成十七年】
一月二十
第八回役員会
七日
於
神社庁
十一名
二月 七日 第
九回役員会
於
神社庁
十五名
平成十六年度臨時総会
於
照國記念館
二十一名
建国記念の日啓発・北方領土返還
要求運動他 二十名
神青新年会
於
鹿児島市
二十二名
十五日 神
青九地協第五回役員会
於
熊本市
二名
三月 六日 神
宮神青会交流会
於
鹿児島市
十名
十六〜 禊
研修会
二十五名
十七日 於
吹上町吹上砂丘荘
二十三〜 神
青協神宮研修会
於
伊勢市
一名
二十四日 二十六日 広
報委員会
於
県護國神社
五名
56
平成十七年度
活動報告
【平成十七年】
四月 「神青かごしま」第二十五号発刊
二十五日 第
一回役員会
於
神社庁
十九名
二十七日 第
五十七回神道青年全国協議会定
例総会 於
神社本庁
二名
五月 九日 第
於
神社庁
二回役員会
十日 神
道青年九州地区協議会第一回役
員会 於
鹿児島市
五名
第五十七回神道青年九州地区協議
会総会 於
二十六名
鹿児島市
六月 八日 地
区総会反省会
於
雅集亭
二十二名
十日 斎
田御田植え
於
霧島神宮
十四名
十五日 神
社庁九連大会反省会
於
鹿児島市
六名
二十七日 会
計監査会 十六名
第三回役員会 二十一名
定例総会 於
神社庁
来賓
三名
於
吾愛人
九名
顧問会 七月 六日 神道青年九州地区協議会第二回役員会
パレスイン鹿児島
五名
於
二十六日 第
四回役員会
於
塩竈神社
十二名
神青協
「知ろう・学ぼう・お伊勢さん」
一名
二十七日 親
子体験学習 於
伊勢市
八月二十九日
神青協夏期セミナー
〜三十日 於
神社本庁
二名
九月 一日 第
五回役員会
照國神社記念館
二十一名
於
四日 地
区研修会準備作業
サンロイヤルホテル
十四名
於
五日 第
三十三回神道青年九州地区協議
会研修会
六日 第
三十二回九州各県神道青年親善
野球大会 於
鹿児島市
※台風十四号上陸のため地区研修
会延期野球大会中止
二十六日 第
六回役員会
於
塩竈神社
十一名
三十日 日
露戦争戦没者慰霊祭
於
多賀山公園
二十三名
十月 五日 神
道青年九州地区協議会第三回役
員会 於
熊本市
二名
二十八日 斎
田脱穀精米作業
神社関係者大会準備作業
於
神社庁
九名
三十一日 神
社関係者大会
於
鹿児島市
八名
十一月二十
第八回役員会
八日
於
神社庁
十名
神宮大麻啓発活動運動
於
鹿児島市
十四名
十二月三日 神
道青年九州地区協議会第四回役
員会
神道青年九州地区協議会OB会
於
指宿市
五名
十六日 団
地大麻頒布運動
於
星ヶ峯団地
十三名
新穂花
二十三名
忘年会 於
【平成十八年】
一月十九日 神
政連「拙速なる皇室典範改正を
阻止する決起集会」
於
東京都
一名
二十七日 第
九回役員会 於
神社庁 十五名
二月 七日 第
十回役員会
照國神社記念館
二十三名
於
建国記念の日啓発・北方領土返還
要求運動
レクストン鹿児島他
二十名
於
吾愛人
二十二名
新年会 於
二十二日 神
道青年九州地区協議会英霊顕彰
事業
戦没者慰霊祭
於
知覧町
二十三名
二十三日 第
三十三回神道青年九州地区協議
会研修会
於
鹿児島市
二十四名
三月十六日 神
道青年九州地区協議会
当番県事務引継式
於
福岡市
二名
二十二日 第
十一回役員会
照國神社記念館
十一名
於
二十三日〜 神
青協中央研修会
於
鳥取県
十名
二十四日 二十九日〜 禊
研修会
於
薩摩川内市
二十六名
三十日 平成十八年度
活動報告
【平成十八年】
四月 「神青かごしま」第二十六号発刊
二十日 広
報委員会
於
船魂神社
六名
二十六日 第
五十八回神道青年全国協議会定
例総会 於
神社本庁
二名
五月 九日 神
道青年九州地区協議会第一回役
員会 於
福岡市
二名
十日 第
五十八回神道青年九州地区協議
会総会 於
福岡市
十四名
十二日 第
一回役員会
於
神社庁
十三名
会計監査会
於
鹿児島神社
五名
十七名
十八日 第
二回役員会 二十三名
定例総会 於
神社庁
十四名
顧問参与会 於
吾愛人
六月 十日 斎
田御田植え
於
霧島神宮
十三名
二十四日 神
社本庁野球部交流会
於
霧島市国分
十四名
二十五日 神
社本庁野球部親善野球大会
於
霧島市牧園町
十五名
七月 三日 第
三回役員会
於
縣護國神社
九名
十二日 神
道青年九州地区協議会第二回役
員会 於
福岡市
二名
八月 八日 第
五回神職子弟の集い
九日 於
霧島市
十一名
参加者
三十一名
十七日 神
道青年九州地区協議会第三回役
員会 於
福岡市
二名
第三十四回神道青年九州地区協議
会研修会
十八日 第
三十二回九州各県神道青年親善
野球大会
於
福岡市
十八名
二十九日 神
社本庁研修所直轄専門研修
一名
三十日 於
神社本庁
九月十一日 第
四回役員会
於
神社庁
十六名
二十六日 神
青協夏期セミナー
於
國學院大學
三名
二十七日 十月 三日 宮
崎県・鹿児島県神道青年会
第一回OB交流会
於
都城市
十六名
十日 第
十二名
五回役員会 斎田精米脱穀作業
於
霧島神宮
十四名
十一日 神
道青年全国協議会臨時総会
於
神社本庁
二名
十五日 鹿
児島神宮浜下り助勤奉仕
於
霧島市隼人町
五名
十一月六日 第
二十七名
十回OB交流会 第八回親善野球大会
於
鹿児島市
十六名
二十日 神
道青年九州地区協議会第四回役
員会
神青協中央研修会打ち合わせ会
於
宮崎市
二名
二十八日 神
社関係者大会準備作業 十
二名
第六回役員会
於
神社庁
十四名
二十九日 神
社庁設立六十周年記念神社関係
者大会 十一名
神宮大麻頒布啓発活動
於
鹿児島市
十七名
十二月十二日 第
九名
一回役員選考委員会 第七回役員会 於
神社庁
十七名
団地大麻頒布運動
於
星ヶ峯団地
十六名
十一名
第二回顧問会 雅集亭
二十九名
忘年会 於
【平成十九年】
禊
並びに教養研修会
於
十四名
奄美市名瀬
参
二十名
加者
一月二十三日
二十四日
二十五日
二月 七日 第
十七名
八回役員会 神社庁
二十名
臨時総会 於
建国記念の日啓発・北方領土返還
要求運動
八日 神
青協中央研修会
九日 於
宮崎市
十五名
於 レクストン鹿児島他 二十一名
新年会
江戸ッ子寿司
二十四名
於
十三日 神
道青年九州地区協議会第五回役
員会 於
久留米市
二名
三月
57
平成十九年度
活動報告
【平成十九年】
四月 一日 「
神青かごしま」第二十七号発刊
十九日 会
計監査会及び事務引継
於
神社庁
八名
二十四日 第
五十九回神道青年全国協議会定
例総会 於
神社本庁
二名
四日 神
道青年九州地区協議会第二回役
員会
五月 九日 神
道青年九州地区協議会第一回役
員会 於
長崎市
三名
第五十九回神道青年九州地区協議
会総会 於
長崎市
十名
十五日 第
一回役員会 於 神社庁 十五名
六月
十名
四日 第
三回役員会 於
神社庁
久富氏神青協会長就任祝賀会
於
福岡市
三名
十日 斎
九名
田御田植 於
霧島神宮
十一日 富
山県神道青年会来鹿に伴う親睦
会 於
鹿児島市
十三名
二十日 第
二回役員会 於 神社庁 十四名
神社庁
十九名
定例総会 於
十四名
顧問参与会 於
吾愛人
二十八日 宮
崎県・鹿児島県神道青年会
第二回OB交流会・野球大会
於
鴨池市民球場
十五名
於 ホテル満秀 二十三名
懇親会
七月
八月 三日 第
四回役員会
於
塩竃神社
十一名
九日 第
六回神職子弟の集い
十日 於
日置市吹上町
十四名
二十一日 第
三十三回九州各県神道青年親善
野球大会 於
長崎市
十九名
神道青年九州地区協議会第三回役
員会 於
長崎市
三名
二十二日 第
三十五回神道青年九州地区協議
会研修会 於
長崎市
十六名
二十七日 神
青協夏期セミナー
於
神社本庁
一名
九月十三日 第
五回役員会 於
神社庁
十九名
第三十三回九州各県神道青年親善
野球大会
準優勝祝勝会
於
牛茶屋
十五名
二十三日 西
南の役、大西郷百三十年祭
於
サンロイヤルホテル
十六名
二十四日 南
洲神社例祭助勤奉仕
於
南洲神社
五名
十月 五日 斎
田抜穂作業
於
霧島神宮
十名
十日 第
六回役員会 於 神社庁 十二名
二十一日 鹿
児島神宮浜下り祭助勤奉仕
於
鹿児島神宮
四名
十一月一日 神
社関係者大会準備作業
於
神社庁
十名
十三日 第
十一回OB交流会・第九回親善
野球大会 於
十七名
鹿児島市
二十日 第
七回役員会 於
神社庁
九名
二十九日 県
神青野球部忘年会
十二月四日 神
道青年九州地区協議会第四回役
員会 於
二名
長崎県神社庁
六日 紙
しめ縄DVD製作準備
於
鹿児島神宮
十名
十四日 第
八回役員会
於
神社庁
十一名
団地大麻頒布運動
於
星ヶ峯団地
十三名
二十一名
忘年会 於
飲楽万菜
【平成二十年】
一月二十
第九回役員会 一日
於
神社庁
十四名
三十日 創
立五十五周年記念誌企画対談
於
塩竃神社
五名
二月 七日 第
九名
十回役員会 於
神社庁
建国記念の日啓発・北方領土返還
要求運動 於
天文館
十三名
禊
並びに教養研修会
於
志布志市
十三名
神道青年九州地区協議会第五回役員会
於
長崎市
二名
二十六日
二十七日
二十八日
二十九日
三月 四日 神
青協中央研修会
五日 於
千葉県
二名
十二名
十三日 第
十一回役員会 二十五日 陸
上自衛隊国分駐屯地体験入隊
二十六日 一五名
二十七日 二十八日 第
一回紙しめ縄DVD製作委員会
於
塩竃神社五名
平成二十年度
活動報告
【平成二十年】
四月 一日 「
神青かごしま」第二十八号発刊
会計監査会
十七日 第
一回役員会
於
神社庁
十五名
二十四日 第
六十回神道青年全国協議会定例
総会 於
神社本庁
二名
五月 三日 第
二回役員会
於
塩竃神社
十五名
八日 神
道青年九州地区協議会第一回役
員会 於
佐賀市
二名
第六十回神道青年九州地区協議会
総会 於
佐賀市
十二名
十四日 第
三回役員会
維新ふるさと館 十八名
於
大久保甲東公遺徳顕彰祭
二十五名
二十六日 神
青協神宮奉賛活動
於
三重県
一名
二十八日 第
四回役員会 於 神社庁 於
神社庁
定例総会 顧問参与会
創立五十五周年記念祝賀会
レクストン鹿児島 於
悠仁親王殿下御誕生奉祝記念植樹
鹿児島県神道青年会
創立五十五周年記念祝賀会
日時
平成二十年五月二十八日
午後六時三十分
会場
レクストン鹿児島
フリージアの間
記念表彰
教化活動推進功労
岩切神具製作所
代表
岩切
房義
58
桜島 撮影 平成3年7月24日
午後8時2分噴火
表紙題字
鹿児島県神道青年会
顧問
森
川
弘
樹
(第十六代会長)
高千穂峰
表紙写真
日本写真連盟
鹿児島県副委員長
住 吉 重太郎
鹿児島県神道青年会
発行日
平成二十年五月二十八日
創立五十五周年記念誌
編
集
発
行
印
刷
有限会社国分新生社印刷