特別講座『永青文庫と熊本 ∼細川文化の宝庫』 はじめに 皆さん、おはようございます。 今日は、こちらの歴史文化の講座の中で、何か話してくれということですので、とりあえずテーマ を「永青文庫と熊本」といいますか、加藤の文化、細川の文化に関連することを中心にお話ししなが ら、やがてオープンいたします永青文庫の常設展示、このことを含めてお話をしていきたいと思って おります。 今、わたしどものほうでは、ルネサンス県民運動ということを別途やっておりますが、この中でも 永青文庫の話を取り上げたり見学したり、いろんな形で皆さん方に親しんでいただく、知っていただ く、そういう機会をつくっておりますので、すでにこの中に参加し、勉強をしていらっしゃる方も多 いと思いますので、ある面ではダブルかもしれませんが、ゆっくり聞いていただければありがたいと 思います。 この本丸御殿のチラシですけれども。裏のほうは永青文庫になっているわけです。4月20日に本 丸御殿がオープンします、それから裏のほうは、4月25日永青文庫がオープンいたしますと、こう いうようなチラシになっているわけです。新聞等では何回か出ておりますが、永青文庫のほうは、2 5日というのはご存知でなかった方もいらっしゃるかもしれませんが。4月の20日と25日。それ ぞれ熊本の中心地に伝統を生かした新しい文化が生まれるという、そういうことをぜひ多くの人に知 っていただくように、皆さん方もお力添えいただければ大変ありがたいと思っております。 市のほうでも4月の20日以降は、恐らく 押すな、押すな で大変だろうと言っております。皆 さん方のなかにも見学された方がいらっしゃると思います。すごいといいますか、本物の良さを実感 いたしました。恐らく4月の20日からしばらくの間は大変賑わって、熊本の文化の発信になると思 っております。 今日は、中心は永青文庫の話しをしたいと思っておりますが、熊本城は加藤清正が築いたというこ とは、誰に聞いてもみんな知っています。 1.加藤家二代 44年 加藤清正は、1588年熊本にやってくるわけですが、加藤清正と忠広と2代続きます。特に加藤 清正の時代には、素晴らしい干拓をはじめ、熊本城も築城します。清正は20年しか熊本にいないの に、しかも7年間は朝鮮の役でほとんど韓国のほうに行っているのに、よくもまあこういうたくさん の事業ができたなと思います。 ほとんど今話題になっているのは、清正のこの20年間のうちにできた事業が圧倒的に多いわけで す。清正の後継は、息子の忠広がその後の20年を治めるわけです。しかし、清正が亡くなったとき 忠広は、まだ10歳で跡を継ぐという格好になるわけですから、大変なことだったと思います。清正 の時代は、清正がリーダーシップを発揮してやっておったのですが、二代目忠広が藩主になると藩主 が小さいからということで、5人の家老を配置することになります。ところが実際、5人の家老の皆 さん方は、なかなか意見が一致しない。かなりの部分が内輪揉めみたいな格好で、この後の20年間 とていうのは本当に揉めて、幕府の裁きを受けるとか、調停を受けるということになるのです。結果 的に徳川幕府は、加藤家は豊臣秀吉の家臣だからという思いがあったのかもしれませんけれども、2 0年たって、七癖つけられるような格好で改易になります。忠広公は、出羽庄内に流される。非常に お気の毒な話ですが、忠広公が亡くなったときは、熊本から持っていったものは、幕府から没収され る。同田貫であろうが何であろうが全部チェックされて、幕府の検視を受けて全部没収です。だから 残ってないのです。 孫の光正公は、飛騨高山に流されます。もう親子ばらばらですね。飛騨高山は、今は観光地になっ ておりますが、岐阜県の山奥です。通説としては1年後に亡くなったというように言われております。 飛騨高山の法華寺に預けられて、そこで亡くなったということです。その法華寺さんは、それから3 70年間、これまたびっくりするぐらい大事に大事に法要を繰り返しておられます。 これまた余談になるかもしれませんが。3年ぐらい前ですかね。潮谷知事さんが全国の知事会が岐 阜県の高山であったことがありました。わたしは当時の県庁の秘書課長さんに、高山だったら、加藤 光正公にお参りしてこられるといいなと思って電話したのです。翌日、夜、知事さんから電話があり まして、びっくりしましたということでした。 知事は、何でびっくりしたかというと、実は岐阜県の県庁の方が知事会の始まる前、席に座ったと ころ、熊本はこちらと関係がありますねとおっしゃったが何のことか分からない。会議が終わるころ、 県庁のほうから連絡が来て、法華寺は加藤光正公が眠って、370年間大事に法要されているとのこ と。あぁ、そうかということで、お寺さんのほうに行ったそうです。 ところが、これがまたびっくりすることに、その日がちょうど光正公の祥月命日で、住職さんはじ め門徒の皆さん方が結構集まって法要があって、それが終わったころだったそうです。そこへ知事が 突然おいでなったものですから、今度は向こう側がびっくりして、さすが熊本県の知事さんだ、光正 公の命日にこれを選んでわざわざ来ていただいたと。知事は「実は知りませんでした。けれども、こ ういう理由で、お参りさせていただこうと思ってまいりました。」ということを言ったそうです。それ でも皆さん喜んで、歓談をしてきたそうです。そこにたまたま、400年前、熊本から持って行った いろいろの宝物を一時名古屋の美術館に貸し出しておって、それが帰ってきて、ちょうどお寺さんの 中に、置いてあったそうです。それもまた見ることができたということで、本当に良かったというこ とを知事は言っておりました。 2代続いた加藤家の後は、今度は細川家となります。細川家は朝鮮の役を含め、加藤家とは非常に 連携といいますか、仲が良かったわけですが、そういう点ではすんなり受け入れられた面があると思 います。肥後に最初に入ってきたのは、細川忠利ですけれども、忠利は、西大手門から入るときも、 一旦駕籠を下りて、そして今から清正殿のお城をお預かりいたしますと礼を尽くし、また、天守に上 って、あとは中尾山、今の本妙寺に向って、お預かりいたしますと礼を尽くしたということです。そ れを周りで見ておった加藤家の皆さん方も安心されたということがよく言われております。 これは脈略前後しますけども、細川家というのは面白いもので、加藤家をずっと大事にしています。 細川時代になってからも干拓したそのところには、普通は、先代の殿様の神社あたりを建てるってい うことはなかなか許さないが細川家は、八代の干拓の跡にしても大きな加藤神社を建てる。それだけ じゃなくて、細川家自体が自分の屋敷の中に加藤神社を建てる。江戸の屋敷の中にも加藤神社を建て ています。それが今もちゃんと残っているのです。東京の明治座のすぐ近くに浜町公園があります。 この一帯は細川家の屋敷があったところなのですが、その中に加藤清正を奉る神社を十代斉茲の頃に 建てています。明治になってから、藩の屋敷は、東京都の公園になっておりますが。神社だけは加藤 神社として残っております。そういうことで加藤家を大事にして、そのことがまた肥後藩を治めるに はもっとも大事だということを思われたのでしょう。 2.細川氏は足利の一門で700年 さて、細川家は肥後藩に入ってから、11代・240年続いております。11代続いて、明治を迎 えておりますが、この、11代ということだけでは、永青文庫を理解することができにくいなと思い、 皆さん方の手元に細川家の略系図があると思います。これは『芸術新潮』に載ったものを参考に作っ たものです。 『芸術新潮』が、細川家700年の歴史を昨年の10月に特集いたしました。これは一時、 熊本の書店ではほとんど売り切れになってしまいました。しかし、また増刷されまして、一部の本屋 には残っているようです。この中で、水前寺公園をはじめ、熊本城など諸々がたくさん収められてい ますので、もしゆっくり細川文化、永青文庫をというような皆さん方は、これをご覧になるといいか と思います。 細川家というのは足利の一門です。ずっと足利を名乗っておられたわけですが。足利義季の時代、 義季が三河の国、今の愛知県ですけれども、愛知県の岡崎市に細川町があります。そこで、足利から 細川を名乗ろうということで細川を名乗ったのが始まりです。それから細川が始まるわけですが、こ の当時は分家すれば、必ずその地名を名のる一色村に行けば一色を名乗る、あるいは畠山村に行けば 畠山を名乗るというように、それぞれ子どもがたくさんいるようなところは一族が守護になると、そ の兄弟は行ったところの地名を名乗るというのが一般的だったわけです。吉良家もそうだし、一色家 も、斯波家もそうだし、畠山家もそうでした。全部、足利一門なのです。その中の一つが細川家です。 細川郷に行ったから細川姓を義季が名乗ったことから始まるわけです。やがて足利尊氏が将軍になる。 その足利尊氏が将軍になるころから、細川一族で、特に力をつけてきたのが、長男・頼之とその弟・ 頼有です。この辺からが大きな役割を果たすようになっていきます。 今の細川家はこの頼有を、遠祖と言っております。この頼有から中世8代にわたり細川は続くわけ です。この頼有以降の菩提寺が京都永源庵になります。永青文庫の「永」はこれから取ってあるわけ です。 そういうことで、この頼有の2つ違いの兄さんが頼之。頼之が本家を継ぎます。この頼之のほうは、 足利家将軍を助ける一番重要な役割である管領になるわけです。管領というのは、今で言うなら首相 みたいな役目で、足利幕府の将軍は大統領みたいな立場です。 3.近世初代 細川幽斎(戦国時代から江戸へ) 中世の細川家が頼有から八代続いて八代目の元常のところに養子に行くのが藤孝(のち幽斉)です。 テレビあたりも出てくるのは、このへんからでございます。そのころは、足利幕府が倒れそうになっ たころでして、あとに誰が出てくるのか。みんなが群雄割拠していますが、やがて織田信長が出てき ます。藤孝が最初に織田信長からもらった小さいお城が青龍寺城という小さなお城です。今の京都の 長岡京というところにあります。永青文庫の「青」は、この青龍寺城の「青」からとっています。細 川家はこの永源庵の「永」と青龍寺城の「青」を取って「永青文庫」と名づけているわけです。 藤孝が信長からもらったお城が長岡京市の、青龍寺城ですが、せいぜい2万石ぐらいのところなの ですが、非常に交通の要衝になるということで、いつも戦いの重要な場面になっておったといいます。 藤孝が、近世の初代と、細川家では言っております。信長から始まって、秀吉、家康とずっと仕えて いくことになりますが、それの始まりです。藤孝は12代将軍義晴の子であると言われております。 そういうこともあって安土桃山、江戸をつなぐような形でのいろいろの将軍、その後の総大将の側近 につながって、情報の交換をやれるような立場にあったのではないかと言われております。 特に、将軍の子と言われる藤孝の母は、清原家から来ているわけです。この清原家というのは清少 納言が生まれた家でして、学問を大切にする家で、お父さんは大学者で、小さいときからこの母方で 育つのです。藤孝は後々、学問についても非常に秀でて特に、古今伝授の伝授者になっていきます。 清原家の母方で育ったことが、文に明るい藤孝の大きな要因になっているのではないでしょうか。文 武両道に努めた藤孝が、細川家の近世になってからの基礎を固めていくわけです。 そして、それからが江戸時代に入っていくわけなのですが、藤孝から始まって、忠興、忠利、肥後 藩に入国する忠利までの近世の「細川三代」といって一番活躍する場面がこの三代になります。藤孝 が最初にもらったお城が、先ほど申し上げた京都の長岡京にあります青龍寺城。ここにおおむね10 年余りいます。その10年余りいるうちに息子である忠興と明智光秀の娘玉ガラシャ夫人が結婚をし ます。今はこの長岡京の青龍寺城に二人の記念碑等が建っております。細川家にとっても大変貴重な 原点になっているような気がいたします。 そして、10年余りいて、丹後のほうに行きます。丹後に行くときも、この幽斎とガラシャ夫人と 結婚をした忠興も一緒に行くわけです。丹後に行ってから、わずか2年後に、例の本能寺の変が起き ます。明智光秀の娘、玉、ガラシャ夫人を迎えておった細川家としては大変なことです。明智光秀の 一族はほとんど亡くなってしまいます。しかし、玉は、ガラシャ夫人のほうはすでに丹後のほうに移 っているものですから、丹後のすぐ近くの、味土野に幽閉といいますか、そっと隠す。実際はかなり の家臣を付けながら蟄居をさせて、2年が過ぎます。2年が過ぎたころに、天下がようやく治まって、 秀吉の天下になってくる。それからガラシャも許しを得て、普通の生活に戻っていくわけなのですが、 2年間というのが、ガラシャにとって大変苦痛な時期であったろうと言われています。 細川家の歴代殿様の中で、何と言っても、幽斎と忠興の時代が一番激動といいますか、変化の激し い時期です。豊臣秀吉が天下を取って、治めておったかと思うと、朝鮮出兵その他で大変苦境に立っ て、そして次には亡くなる。一体、天下がどうなるかというとき、次は関ヶ原の戦いが始まります。 ここでまた細川家が苦境に陥るわけです。このとき、一番に大変な時代になるのがガラシャ夫人です。 当時は大阪のほうに屋敷を持っておりました。大阪の玉造の屋敷です。忠興は上杉討伐に出かける家 康についていく。ところが、石田三成のほうは、大阪のそれぞれの屋敷にいるご夫人たちを人質に取 ろうという作戦に出るわけです。ガラシャ夫人は人質取りに石田軍が来ても頑としてそれに応じず、 すでにそのときはキリシタンの洗礼も受けております。だから、自殺はできません。とうとう最後ま で拒み続けて、そこで自ら家に火を点けて、そして家臣の小笠原少斎に胸を突かして果てて亡くなり ます。 しかし、石田軍は石田軍で、ここで怯んでは勝運が回ってこないと1万5,000の軍勢で宮津、田 辺に向かいます。宮津城も田辺城も残っておったのは、言わば隠居している幽斎だけなのです。だか ら幽斎は、両方に残っているそれぞれの家臣を集めて、それでも500にしかならない。もうすでに 1万5,000が攻め込もうとしているのにどうするか、本当に苦労したと思います。そのとき女性軍 がずいぶん活躍します。500の兵で守っても、恐らく3日もつか、4日もつかと言われておったけ ども、これが1ヶ月たっても落ちない。2ヶ月たっても落ちない。そうこうするうちに関ヶ原の戦い は、もう刻々と迫ってくる。そういう中、500で守っている幽斎は、ここまで守れたけれども援軍 はもう無理だ。もう500で守りきれない。援軍が来るだろうと思って、やったけれども無理だとな れば、自らは死を覚悟、少なくとも『古今伝授』八条の宮へお返ししたいと『古今和歌集』の秘伝の 一件書類を全部天皇家へお返しします。びっくりされた後陽成天皇は、それでは困るということで、 勅使を出して、両軍に和解を働きかけられます。しかし、最後は勅命ということで結局、双方和解に なります。そしてお城が解放されて、500人も解放されています。しかしそれが関ヶ原の戦いのわ ずか2日前なのです。その1万5,000は関ヶ原には間に合わない。石田三成は、大変な面で誤算が あったと思います。間に合っておれば、軍勢としては石田軍が優勢です。それにさらに1万5,000 が加わるなら、大変な数です。これは大きく勝利に結びついたかもしれませんが、そういうことで結 局間に合わない。徳川家康としては大変結果的に得したわけです。石田軍を足止めにした細川家の功 績は大きく、それがまた大きな勝利に結びついたということで、12万石から、その翌年は豊前小倉 の39万9,000石に転封になります。そうやって細川家は九州に来るわけです。 さらに肥後熊本の加藤家が、二代目忠広の時代になって、徳川幕府の加藤家潰しともいえる措置で 改易になるのです。その後に豊前小倉から細川忠利が熊本の領主としてやってきます。幸い、加藤清 正と細川忠興、忠利親子は仲がよくて、朝鮮の役でもよく連携して戦っており、関が原の戦いでも同 じ東軍として戦ってきているのです。特に細川忠利は、熊本城入国の際も清正が築城したお城をお預 かりしますといって礼を尽くし、加藤家の家臣も抱え、一貫して加藤家を大切に遇していることが分 かります。 文武両道の忠利は熊本をよく治め、あの剣豪・宮本武蔵を客分300石で迎えます。武蔵は、5年 間熊本で暮らし、単に兵法師範だけでなく、五輪書始め多くの文化遺産を熊本に残してくれました。 今のNHKの千葉城の屋敷で62歳の生涯を閉じたのです。 五代細川宗孝の時代に大きな事件が起きます。宗孝が江戸城の厠、トイレで板倉家の一族から切り つけられ、翌日亡くなるのです。板倉家の内紛に巻き込まれて、板倉家と細川家の九曜の家紋が似て いることからの人違いだったのです。 急遽、次を選ばねばなりません。重賢は、自分はまさか殿様になるはずはないということで、部屋 住みでした。要するに跡取りでない者は部屋住みで、貧しい中で暮らしています。質札も残っておっ たというぐらい、大変細々とした暮らしをしているわけですが、非常に学問好きな一面がある。貧乏 しながら学問好きであったということが、急遽、殿様になったけれども、それが大きく役立って、次々 と改革を進め、熊本の再生につながっていくわけです。宝暦時代なので、宝暦の改革といってこれが 肥後藩の再生につながっていきます。 しかし、いつの時代でもそうかもしれませんが、改革は自分1人でやるわけじゃない。この宝暦の 改革に人材をどう見出すか。殿様の下にはご家老がいる。ご家老のほうにはそれぞれ奉行がいると。 それぞれランクがあるのに抜擢なんて、藩政が混乱します。しかしそれを、2年3年様子見ながら、 本当に改革ができるのは誰かということを選びながら、堀平太左衛門勝名という、当時は500石で す。それを抜擢して奉行にする。徐々に大奉行にする。最後は家老にすると。こういうような形で改 革をやっていくわけです。 その改革がよく言われるように、時習館をつくり、次の時代の人を育てる体制を取るということで 時習館をつくるのです。お城の中の二の丸公園の中に時習館跡という看板が出ていますが、あそこに 時習館をつくったのです。次から次に増やして500人。又、当時は若死にが多かった。医療関係も 悪いということもあったのでしょうが、医者をもっともっと養成したいということで再春館という医 学校をつくる。これも300人ぐらいになるわけですから、日本一なのです。今、熊本大学医学部が 2、3年前に250周年という式典をやりました。何も大学医学部が250年になったわけでも何で もなくて、この宝暦の改革で再春館をつくってから250年ということです。時代が変わってもその 精神、体制がずっと引き継がれて、250年になったということです。 宝暦の改革では産業も盛んにします。櫨、養蚕、絹織物、和紙、陶芸などを盛んにして生産増強を はかっていくのです。特に櫨の増産には力を入れています。その名残ともいえるように、今も、水俣 方面や、玉名、阿蘇へ向う沿道などに櫨の古木が残っています。櫨増産の象徴的なのが、熊本城内に 櫨方門が残っていることです。櫨方とは、櫨の振興局ともいえる櫨の役所だった、その役所の門が残 っているのはおそらく熊本城の他はないと思います。それ程に櫨の振興には力を入れて大きな成果を あげてきているのです。 水俣の侍地区には、櫨木が15,000本ぐらい残っており、おそらく日本一ではないかと思って おります。 今も櫨を採って、四国や瀬高で一次加工をした上で水俣でもろうそくを作っているのです。昔は櫨 の木から蝋をとる製蝋所という加工場が、水前寺、高橋、そして八代などにもありました。熊本財政 に大きく寄与してくれたのだろうと思います。 江戸中期になると行政組織が、特に肥後藩の場合はしっかりしてきます。大干拓でも地方でやろう と思えば、庄屋さんでやれます金がなければ、簡単に言えば基金から融資しますということです。八 代の干拓あたりは鏡、千丁、八代市、あのへんはもう全部、宝暦の改革以降、文化、文政になってく るころできるのです。惣庄屋さんとは、庄屋さんの大きいのが惣庄屋ですが。この惣庄屋さんたちが いくつか力を合わせて、あの干拓をずっとやっていくわけですが。恐らくこれも最初は、100町升 干拓。100町は100ヘクタールですから、大変なことなのですが、次は400町そして700町 と、八代郡、八代市で干拓が進みます。干拓も一連の宝暦の改革の余波といいますか、流れの中で大 きい干拓がずっとできております。明治の流れの原点は、この宝暦の改革の文教、そして産業、この へんに負うところが非常に大きいのです。 細川家は、遠祖の頼有から8代続きますが、近世になってからも藤孝(幽斉)から現当主・護熙(元 知事・総理大臣)氏で18代となります。遠祖からすると26代になりますが、この26代にかかる歴 史の積み重ねが永青文庫には残っております。遠祖・頼有からの肖像画は勿論、兜、甲冑にいたるま で残されているところは極めて少ないのです。 細川家700年の長い歴史の最も重要な部分は、京都と熊本です。江戸時代のほとんどは、熊本に なります。11代240年にわたり改易されることなく明治を迎えるのです。明治の熊本は、五高は 立地するし、電灯は九州で最初に灯るというように九州一の大都会となっていきます。 永青文庫には、国宝は何点ありますか、何点きますかなど聞かれることがあります。国宝は8点、 重要文化財が31点と、6,000点余りの美術工芸品がありますが、これらは全部まいりますと話 すのです。一度に展示できるわけではありません。これから10年以上かけて一巡するようなことだ ろうと思います。重要な古文書も43,000点残されておりますので、これらを組み合わせて、日 本や熊本の歴史に物語をつけて見るような形になると思いますが、今後の展示会を楽しみにしてくだ さい。 古文書は、熊本大学へ43,000点、無償で寄託されています。細川家の肥後藩主時代の240 年の関係文書だけでなくて、細川家700年に及ぶ古文書が含まれる貴重な史料が残されているので す。おそらく、今日残されている古文書としては、日本国内でも1、2位を争うほど、貴重で膨大な 資料が残されています。 熊本大学に寄託してから50年になります。熊本大学で、目録作りから始め、調査研究にあたって いただいておりますが、一部進んでいるものの、資料が膨大にあるだけに今後の目録整備と研究が待 たれているのです。できるだけ早く研究が進み、日本の歴史、熊本にかかる細かなふる里歴史が明ら かになっていくことを期待しています。永青文庫の古文書の研究が進めば日本の歴史まで塗り替えら れるところがあるのではないかといわれています。 幸いなことに、永青文庫の調査、研究そして修復等を目的とした基金が熊本県庁に設置されました。 熊本県立美術館に永青文庫常設展示室が設けられたことに伴い県立美術館へ預けられている美術工芸 品で調査、修復が必要なものへの対応や、熊本大学へ寄託されている古文書の整理、研究に当てられ ることが期待されています。 この基金には、熊本の文化財を活かそうという意味で、地元経済化のトップを切って肥後銀行から 5年間で3億円の申し出があっているようであります。大変すばらしいことだと喜んでおります。 おわりに 永青文庫は、大きな拠点が東京と熊本になりました。熊本には加藤清正が築いた名城熊本城のほか に細川家11代240年に残された多くの文化遺産があります。永青文庫はその中の中核となって熊 本から魅力を発信してくれることでしょう。 皆さんの御支援をいただきながら熊本の魅力発掘と魅力発信に精一杯努めてまいりたいと思います。 今日は、長時間にわたってご静聴いただきありがとうございました。 終了
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