エピソードにみる明治のリーダーの面影 03,8月

エピソードにみる明治のリーダーの面影 03,8月
前 坂 俊 之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
1・福沢諭吉 スピーチを「演説」と翻訳したの先見の明
福沢諭吉=天保六年(1835)生、明治三十四年(1901)没。緒方洪庵に蘭学を学
び、のち英学を修め、欧米を視察。慶應義塾を創設して教育に意を注ぎ、『学問ノスス
メ』 などで自由主義・功利主義を唱導した。
一八六七年(慶応3)正月、福沢は2度目のアメリカに行くことになった。ニューヨーク、
ワシントンへ行ったが、仙台藩から鉄砲を買い入れるため預かってきた資金で経済、
歴史、法律、数学、地理から英文法までの大量の英書を買い入れた。
外国の新知識を学ぶことが新生日本に一番必要であると考えたからであった。
翌一八六八年(明治元)5月、上野に立てこもった彰義隊と官軍が戦争を始め、江
戸が戦場になるかどうかの瀬戸際に立った。江戸の人々は逃げまどったが、福沢は
浮き足立つ塾生を諌めた。
「これから日本は始まる。過去の日本は滅びる。将来を背負うお前たちには勉強こそ
大切だ」と大砲の音が響く中を、一心不乱に講義を続けた。
「封建主義を親の仇」という福沢は、印だけの脇差しを一本残して、自宅にあった10
本ほどの刀剣をことごとく売り払ってしまった。
開国を主張して、西洋文明を紹介する福沢を捷夷論者は暗殺の対象としてつけね
らった。
このため、福沢は文久年間から明治五、六年頃までの13年間は暗殺を恐れて夜間
の外出はまったくしなかった。夜は著作と翻訳にいそしんだ。
三田に慶応義塾を作り、住居を併設しがこの時、万一襲われた場合の脱出用に押
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し入れに揚げ板を作って、床下から逃げ出せるようにエ夫した。
「スピーチ」を演説と訳し、文明社会で必要なものは演説であるとして、最初に演説を
始めたのも福沢であった。
このため、明治七年に慶応義塾内で演説会を開いた。翌年には三田演説館を建て
て、演説の普及に努めた。
福沢はスピーチの訓練を行なうために、両国橋の下に舟をつないで大声で練習し、
ジェスチャーも研究した。
『文明論之概略』の中で福沢は個人が独立することによって国家が独立し、世界に伍
していくことができる。「自己の考えを言葉で主張するスピーチが一番大切だ」と訴え
た。
2・大久保利通 「冷たい氷塊」と評され、無口で利欲には全く恬淡
大久保利通 天保元年(1830)生、明治十一年(1878)没。藩主・島津斉彬の幕政
改革の運動に参加。のち公武合体運動を進めた。薩長連合を成立、討幕派の中心人
物となる。版籍奉遷、廃藩置県を成功させた。
内務郷の大久保利通は鶴のような痩身、その容貌は威厳があり、左右にピンと張っ
た漆のような口髭、らんらんとした人を射ぬく鋭い目つきで人々を威圧した。無口でほ
とんど口をきかなかったが、一度口を開けば肺臓を射抜いた。
その無口ぶりは徹底しており、岩倉使節団の副使として欧米の旅にたったが、旅の
間、大久保が口を開いたのは数えるほどだった、という。
福地源一郎は「氷のごとき水」「冷血」「冷たい氷塊」と大久保を評した。
大久保の馬車が役所の構内の砂利をかんで出勤し、廊下にその靴音が聞こえてく
ると、人々は恐れ慄いて、それまでの雑音や笑い声はピタリと止まり、庁内は水をうっ
たように静まり返った、という。
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大久保が事務に当たっていると、庁内は粛然としてあたかも夜の墓場のように声一
つなかった。
当時の外国公使たちは日本と交渉の場合は威嚇や恫喝を常としていたが、大久保
には一切通用しなかった。
部屋に通されて、その威厳ある風采に接すると、圧倒されて「どのようなご用件です
か」とおごそかに大久保が口を開くと、大抵が参ってしまい、話を切り出せずスゴスゴ
と引き上げていった。
明治の指導者たちは西郷を筆頭に多くが親分子分的な人間関係で強く結びついて
いたが、大久保はまったく違っていた。
部下にもそのような関係を求めず、地方官への人事を厳正公正に対処して愛憎好悪
の感情は一切示さなかった。
権力を我がもの顔に乱用したり、国家を私的に利用することなど断じて許さなかっ
た。
大久保は利欲にも恬淡としており、私財を蓄積するということもなかった。
一八七八年(明治11)五月に暗殺されたが、その遺産を調査したところ、現金はわず
か140円しか残っていなかった。家や不動産は全部抵当に入っており、その上に80
00円の借金があった。
そのために親族友人らは鹿児島県庁にかって寄付した8000円を返してもらうこと
になり、遺族はかろうじて生計をたてることができた。
3・伊藤博文 英語力で総理になり、色豪ぶりでもナンバーワン!
一八八五年(明治18)十二月、日本の初代の総理大臣になったのは伊藤博文だが、
その時の総理を選んだ条件は「英語」であった。誰を総理にするか参議たちが集まっ
て選考会議が開かれた。
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長年の身分、階級社会が打破されたとはいえ、平家の藤原一族という名門の三条実
條が自分が指名されるもの、という顔で上座にいる。伊藤といえば貧農のせがれで、
武士になったのは維新の直前という、最も低い身分の出身である。
誰もが門閥を恐れて発言しない中で、井上馨が恐る恐る
「これからの総理は赤電報(外国電報のこと)が読めない者ではだめじゃ」
と口火を切り、山県有朋が「そうすると、伊藤君より他にはいないではないか」と賛成
して、他の参議も反対せず決まった。
伊藤はそれまで英国・ロンドンに半年滞在し、天皇が外国大使と会見する時は、必
ず伊藤が通訳をしており、岩倉大使一行の欧米巡視にも同行するなど、明治政府き
っての英語使いであった。
英語名人の伊藤は欧化主義の積極的な推進者として、鹿鳴館に入れ込んだ。
第一次伊藤内閣の時に鹿鳴館で連日連夜、舞踏会や夜会を自ら主催して「舞踏内
閣」と悪口を叩かれた。
伊藤は無類の女好きで夜の部では、こうした舞踏会や夜会を利用して片っ端から女
を口説いた。
明治二十年四月に首相官邸で主催した派手な大仮装パーティーでは、社交界で評
判の美人であった戸田氏共伯爵夫人を裏庭の茂みに誘い込んで、乱暴していかが
わしい振る舞いに及んだと、新聞が書き立てて、伊藤の好色漢、ハレンチぶりを非難
した。
伊藤の女たらし、色豪ぶりは政治家ではナンバーワン、女性関係の出入りが激しく、
全国行く先々で女がいた。
生涯、金や派閥にはいっさい恬淡としていた伊藤だが、女だけには目が無く、宴会で
は新橋の芸者たちを何人もはべらせて、寝るときも、ふとんの両側に若い娘を寝かせ
て遊んでいた。最期まで毎夜のように女を抱いていた絶倫男だった。
鹿鳴館=洋風建築の社交クラブ。明治十六年(1883)落成。条約改正のために欧化
主義がとられ、内外上流人の舞踏会などが催された。のち華族会館となり、昭和十五
年(1940)に取り壊された。
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4・高橋是清 うっかりサインで奴隷となったは、大酒飲みだった!
高橋是清 安政元年(1854)生。昭和十一年 (1936)没。日銀総裁を経て、原敬
首相の蔵相に。第2次護憲運動の先頭に立つ。軍需インフレ政策を推進し大恐慌の
破局から日本資本主義を救うが、2・26事件で射殺された。
総理大臣二回、大蔵大臣を計七回務めた高橋是清。巨体で丸顔のダルマそっくり
の高橋は「ダルマ宰相」と呼ばれた。
慶応三年(1867)、十三歳のとき仙台藩の米国派遣留学生として是清は米国に渡
った。
横浜在住の米国商人ヴァン・リードの世話でサンフランシスコのリード老夫妻の家で
英語の勉強を始めたが、仕事や用事を次々にいいつけられて勉強するヒマがない。
たまりかねて是清が文句をいうと、「では別の家に代われ」と書類にサインさせられ、
オークランドの別の家に替わった。
是清本人が気づかず英語でサインした書類が、実は三年間の人身売買契約で、オ
ークランドの家には奴隷として売られたのである。高橋はここで我慢して働いて何とか
自由の身になった。
是清は若いときから、今で言う朝シャンが大好き、それに朝酒という大酒飲み。十八
歳のころ佐賀県唐津の英語学校に教師として赴任したが、毎日3升の酒を飲んでい
た。
まず朝は午前五時半ごろ起きて、朝風呂に入り、いろいろ考え事をしながら二度三
度と湯船につかる。
朝飯とともに授業の開始までに冷酒で一杯、舌のすべりもよくなる。
昼食の時も一升ほど飲む。これで午後の授業も楽しくなる。早起きなので眠くなると昼
寝をする。
夜はみんな集まってワイワイガヤガヤと酒盛りになり、浴びるほど飲んで連日三升
だ。
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連日連夜の飲み過ぎでで、血を吐いてぶっ倒れて、一週間ほど静養していると、飲
んでいる教員たちが「先生もー杯どうですか」と誘ってくる。
「いや、もう酒の匂いもいやだ」と高橋が断ると、「鼻をつまんで飲めば飲めるよ」とひ
つこく勧めるので、ではと、その通り鼻をつまんで飲むとこれが何ともいえないほど旨
い。
二度目からは鼻をつままなくても飲めて、再び大酒飲みに逆戻りしてしまった。
5・中江兆民 印ぼんてんに腹かけ、股引き姿で平民主義を示した
中江兆民=弘化四年(1847)生、明治三十四年(1901)没。フランスに留学、帰国
後仏学塾を開く。西園寺公望らと「東洋自由新聞」を創刊、自由民権論を唱えた。民
主主義思想の啓蒙と明治幕府への攻撃を行なった。
「東洋のルソー」といわれ、自由民権運動の代表的思想家であった中江兆民は「明治
三奇人」の筆頭といわれた。やることなすこと変わっていたが、酒にまつわる奇行が
特に多かった。
兆民は長洒で、席にはべる芸者もそのうち飽きて、少し離れたところで三、四人が火
鉢などを囲んでしゃべっていると、後ろから近づいた兆民は、いきなり火鉢の中に小
便をジャジャー。
小便による灰神楽が舞上がり、芸者は『キヤー、キヤー』と悲鳴を上げて逃げ回わ
るのを尻目に、灰の中で兆民は役者よろしく、見得を切ってふざけていた。
一八八二年(明治15)に土佐の赤岡海岸で、約二千人が集まって海南自由党の大
懇親会が開かれた。この中で一際目立ったボロをまとい、頭には折笠をかぶり、腰に
はミノをつけて走り回っている者がいた。
人々は不思議に思い、『狂人か、乞食か?』 と、よく見れば「今、ルソーの中江兆
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民」 であった。
ある時、自由民権の集会に兆民は印ぼんてんに腹かけ、股引きという大工、左官と
同じスタイルで登場して演説して、聴衆を驚かせた。
兆民にとっては、すべてのひとは平等であるという彼の「平民主義」を、聴衆にわか
るように実践したまでのことであった。
兆民は夏には水泳をするのが大好きだった。
ある夏、東京・新宿を歩いていて、暑さにたまらず道端にあった水をいっぱいたたえ
た大きな天水桶に飛び込んだ。
たちまち人だかりができ、飛んできた警官が「道で水浴びして醜態をさらすのは罪に
あたる。すぐ出よ」と命令した。
「お前が言うのは裸のこと、私は裸ではない」と兆民は立ち上がり、衣服のままを見せ
てもう一度、首まで浸かった。警官は黙って立ち去った。
6・黒田清隆 妻殺しの疑いをかけられた原因は酒乱にあった。
黒田清隆=天保十一年(1840)生、明治三十三年(1900)没。薩摩藩出身。初名
は了介。五稜郭の戦いで功をたてる。北海道開拓使長官、農相を経て、1888年首
相、翌年、条約改正交渉失敗で辞職。のち枢密院議長などを歴任。
参議、開拓使長官で一八八八年(明治21)に首相になった黒田清隆は酒乱で、酒
が入ると人間がガラリとかわった。親友の西郷隆盛が非業の最期を遂げて以来、特
に酒量が増えた。
突然人が変わったように乱暴狼籍をはたらいたり、からんだり、怒鳴ったり、特に刀を
振り回すくせがあり、ひどい酒乱であった。
夫人が変死したのは明治11年3月28日のことであった。
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東京・芝神明の待合から泥酔して麻布の自宅に帰った黒田は夫人がすぐに出迎えな
かったことや、嫉妬がましいことをいったとかで、癇癪をおこし、いきなり床の間にあっ
た愛刀を抜き打ちで夫人を斬り殺した、とのウワサが流れた。
「いや殴り殺した」
「蹴り殺した」
とも巷間伝えられたが、この一件はやみからやみへ葬りされようとした。
夫人は旧幕府旗本の中山勝重の娘・お清で、十五歳で黒田家に嫁いだが、病弱で
二人の子供を生んだがいずれも天折した。
夫人はこの時わずか二十五歳である。
この夜、黒田家の周辺の人々から夜中に女性の悲鳴を聞いた、血染めの着物が
焼き捨てられた、血のついた畳が洗われた、などのうわさが大きくなった。
政府はこの事件の新聞掲載を禁止したが、宮武外骨の「團團新聞」やいろんな新聞
が黒田とは特定しなかったが、「某参議の家庭紊乱」とか「国法ついに大臣に及ばず」
とか連日書き立てた。
政府も黙殺できず、密かに大臣会議を開いて協議して、薩摩出身で最も親しい友人
の大久保利通が責任をもって処置すると言明した。
指示された川路大警視は「病死か変死かは、遺体を検分すればわかる」と翌日、黒
田家の墓地に行き夫人の墓からお棺を掘り出して、死体をさっと検分し「皆、よくみろ、
他殺の形跡はないではないか」とそのまますぐに、元の通りに埋め戻してしまった。
これでさすがの新聞報道も下火になったが、思わぬ副産物を生んだ。
この二月後に大久保は暗殺されることになったが、その斬奸状に動機の一つとして黒
田事件をもみ消したことが書かれてあった。
<別冊歴史読本『教科書が教えない歴史人物の常識疑問』(2000年12月号)
に掲載>
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