國士舘史學 - 文学部

國士舘史學
廃藩置県研究の現状と課題………………・……・…・………勝田政治……
1
軍拡から粛軍へ-洪武朝の軍事政策一………………奥山憲夫……27
シルクロードの要衝「新弧」の現状…..……………・カミ リ・クルマユフ……67
中国における去勢の起原……………..………..…………・・川又正智……85
国史学研究室だより
東洋史学研究室だより
第七
号
平成11年4月
國士舘大學史學會
國士舘大學文學部内
廃藩置県研究の現状と課題
はじめに
勝田政治
本稿の課題は、最近の廃藩置県研究における論点を整理し、今後の課題を提起することにある。近年における廃藩置県の
研究史をまとめたものに、松尾正人『廃藩置県』(中公新書、一九八六年)の巻末に収められている同「廃藩置県研究史」
がある。同稿は、主に一九六○年代以降の研究を、①「国際的契機論」。②「「専制官僚」の指導」。③「「全般的廃藩構
想」について」の三項に分けて、手際よく整理したものである。①。②では丹羽邦男『明治維新の土地変革』(御茶の水書
房、一九六二年)と、原口清『日本近代国家の形成』(岩波書店、一九六八年)を六○年代の代表的研究としてとりあげ、
廃藩置県の主動因に関する二つの見解とする。前者が国際的契機を強調するものであり、後者がこれを批判して国内的契機
の重視を説くものとする。③では、国際的契機か国内的契機かという相違はあるものの、七○年代までの諸研究は廃藩置県
の政治過程について共通の理解があったのであり、この理解そのものを批判した研究が八○年代に入り登場したことを指摘
する。原口清「廃藩置県政治過程の一考察」(『名城商学』第二九号別冊、一九八○年一月)である。
原口論文は、維新政府が明治三年(一八七○)秋以降、廃藩置県に向けて動き出したとする共通理解を批判し、廃藩直前
の明治四年(一八七一)六月まで「全般的廃藩構想」は存在しないと主張した。この原口論文の登場によって、八○年代以
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
一
影響を重視し、「戊辰戦争と維新政権」(『岩波講座日本歴史皿近代1』岩波書店、一九七五年)では、「日田暴動等一連の
いる。また、下山氏も「近代天皇制研究序説五」(『東京経大学会誌』六四号、一九六九年二月)で反政府運動・暴動の
の頻発….:これが政府首脳の危機意識を強め、廃藩の必要性を一層認識させたことは否定できない」(一○四頁)と論じて
(『体系日本国家史4近代1』塞皐大学出版会、一九七五年)は「日田県騒擾をはじめとする一連の反政府運動・農民一撲
それに対する弾圧は、廃藩置県断行の時期の短縮に役だった」(七九頁)と述べている。さらに、「明治初年の国家権力」
接的契機となった」(五一頁)と指摘した後、前掲『日本近代国家の形成』では「不平華士族・草葬層の政府転覆運動と、
原口氏は「藩体制の解体」(『岩波講座日本歴史焔近代2』岩波書店、一九六二年)で、反政府運動が「廃藩への主要な直
運動については、佐藤・宮地両氏以前にすでに原口清氏や下山三郎氏によっても要因としては指摘されていたものである。
反政府運動を要因として積極的に位置づける代表的論者は、佐藤誠朗氏と宮地正人氏である。尊擢派を中心とする反政府
(一)反政府運動
り、もう一つが諸藩の自主的廃藩運動である。それぞれを代表する研究の論点を、以下整理していこう。
八○年代以降、廃藩置県断行の要因について二つの見解が提起されている。一つは、尊擬派を中心とする反政府運動であ
一廃藩置県研究の現状
要因に焦点を据えて検討していくことにする。
本稿では、上述の松尾氏による研究史整理を踏まえて八○年代以降の諸研究を、「論争のまととなっている」廃藩置県の
る」(前掲書、二一二頁)と総括する。
降の課題について松尾氏は、廃藩置県が「いつの時点でどのように具体化したのかということが、論争のまととなってい
二
暴動」に対する危機感にたって.挙に全般的解体をおこなおうとしたのである」(二○頁)と述べている。そして、『近
代天皇制研究序説』(岩波書店、一九七六年)では.挙に廃藩を実施する方向へ向かった原因」の一つとして、反政府運
動が位置づけられている(他の要因は御親兵設置と諸藩の廃藩論)。このように原口・下山両氏が反政府運動を指摘してい
たが、それは厳密な実証を経たものではなく、要因の位置づけとしても徐々にトーンダウンするものであったと言えよう。
こうした研究状況で反政府連動をより前面に打ち出したのが、佐藤・宮地両氏であった。
先ず、佐藤氏からみていこう。氏は「天皇政権と人民闘争l廃藩置県の歴史的意義l」(『歴史評論』三一二号、一九七六
年四月、後『幕末維新の政治構造』所収、校倉書房、一九八○年)で、「不平華士族草葬層」の反政府運動による政府危機
への対応策として廃藩クーデターが断行されたと主張した後、反政府運動の個別研究を踏まえて「廃藩置県論序説」(『歴史
学研究』五五一号、一九八六年二月)を発表し、その後同論文と他の反政府運動研究論文とを合わせて『近代天皇制形成期
の研究』(三一書房、一九八七年)を上梓している。同書により佐藤氏の見解をみていこう。
佐藤氏は、擢夷派華士族・草葬層を「擢夷党」と規定し、彼等の反政府運動と「天皇政府」との対抗関係こそ、廃藩置県
が断行される「結節環」(一九頁)とし、廃藩置県政治過程を次のように描いている。版籍奉還以後進められた藩政改革は、
藩官僚を形成するとともに不平士族層の浮浪化を生み出した。その結果、不平士族は「個別領主への敵対行動の域を超えて
横断的結合をはかりつつ、天皇政府と鋭く対立して、捜夷主義に支えられた反政府運動を展開」(八一頁)することになる。
一方「天皇政府」は、「朝・藩政治」を志向してその維持・強化のために三藩連合による朝権確立を意図するが、反政府勢
力との「軍事的争闘を迫られ……瓦解の危機・崩壊寸前の状況に直面すると、兵権・財政権の統一、藩常備兵の解体、天皇
政府による知藩事の一方的免職が、かかる軍事的争闘に勝利するための緊急な課題として浮上する」(八二頁)とする。
具体的には、明治四年三月の「捜夷党」の拠点である久留米藩処分と同年七月の畷札問題による福岡藩処分を論拠とする。
前者では、「擢夷党」の弾圧のために日田県に派遣された四条巡察使が、久留米藩知事の免職と久留米廃藩を政府に要請し
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
三
一言している。
わゆる「廃藩置県」ではなく、中央の「官制」の大改革による強力な「政府」の早急な創出であった」(九四頁)とまで断
意識せざるをえない」と論ずる。大久保や木戸が廃藩置県直前(七月一二日)において、「ともに最も心を砕いたのは、い
とするものであり、したがって廃藩置県断行による「朝・藩政治の止揚(支配形態レベルの変革)を緊急の課題として強く
四年七月九日の木戸邸の会議の結論を、あくまでも官制改革であると主張する。そして、その改革は強力政府の創出を目的
のなかに廃藩置県を含ませる見解である。佐藤氏は、廃藩藩置県断行が鹿児島・山口両藩の実力者の間で合意に達した明治
であり、廃藩置県をこの官制改革の完結に向けての.環、一階梯」と位置づけるものである(九三頁)。官制改革の枠組
「広義の廃藩置県論」とは、維新政権が目指していたのは強力な「天皇政府」の創出を目的とする中央・地方官制の改革
する。
般的廃藩」へ向けての動きが可能になる」(七八頁)と説き、佐藤氏はその「動き」に関して「広義の廃藩置県論」を提起
久留米藩処分と福岡藩処分により、「強力な「政府」創出の、主体的・客観的諸条件が具体的に固まっていくなかで、「全
ある(八三頁)。
一階梯として位置づけられていたものでもないが、「天皇政府による知藩事の一方的免職」というコ点」を重視するので
なった」(三○四頁)とする。そして、福岡藩処分は福岡廃藩を直接の目的としたものではなく、廃藩置県への政治日程の
の同調も指摘し、福岡藩「処分は、朝権の確立を妨げる諸勢力との争闘において、天皇政府の緊急かつ重要な政治課題と
処分を廃藩置県への「飛躍への糸口」(八三頁)と位置づける。福岡藩処分は畷札問題であるが、福岡藩内の「擢夷党」へ
起されたことの重視である(実際の久留米廃藩は七月の廃藩置県を待たなければならなかったが)。次いで、後者の福岡藩
体・否定を企図するに至った」(八二~八三頁)と。「捜夷党」との対決によって明治四年三月に巡察使から久留米廃藩が提
たことに着目する。すなわち、「巡察使四条らは……それ(久留米藩l勝田)への対応の極点において……久留米藩の解
四
佐藤氏の説は、「換夷党」との対決により強力な政府の創出が急務となり、それは官制改革への動きをもたらし、その関
連で廃藩置県が断行されたものと要約できよう。
次に、宮地氏に移ろう。氏は、「廃藩置県の政治過程l維新政府の崩壊と藩閥権力の成立l」(坂野潤治・宮地正人編『日
本近代史における転換期の研究』山川出版社、一九八五年。①と略記)で基本的枠組を打ち出し、その後「維新政権論」
(『岩波講座日本通史略近代1』岩波書店、一九九四年。②と略記)を発表している。そして、両論文と他の幕末維新期の
諸論文とを合わせて『幕末維新期の社会的政治史研究』(岩波書店、一九九九年)を上梓している。まず、①を整理しその
関連で②をとりあげることにする(引用は『幕末維新期の社会的政治史研究』から行う)。
宮地氏の基本的視角は、廃藩置県を深刻化する維新政権の矛盾の解決策として位置づけることにある。王政復古により成
立した維新政権(②。①では明治二年七月の職員令で成立としていた)は、戊辰戦争を遂行するために「御一新」をスロー
ガンとし、新政権のもとにおいてはじめて民族的国家的集中と民政安定が実現すると訴え、政治参加層の底辺の拡大と自発
性の喚起に努めた。その結果、民衆も含めた膨大な人々・集団の政治参加が実現したが、戊辰戦争後は安定した権力基盤の
確保を求めて、そうした諸勢力を律し結合していた正当性の国家的制度化、すなわち「天下公論」の制度化を行うことにな
るとする(諸藩に対する公議所の開設と宮公卿諸侯中下大夫上士に対する国是諮詞の実施)。こうした制度化を経た明治二
年七月(職員令)における維新政権の特徴を次の三点に求める。第一は、府藩県三治一致体制のもと、自己を諸藩の上に超
越的に位置づけようとしたこと。第二は、支配の正当性としての「天下公論」・「公議輿論」の制度化が、不可欠なものと
して定置されたこと。第三は、固有の栄典制度と国家的価値序列を、国家的貢献度を基準として作り上げたこと。そして、
政権内の政治勢力として薩長土肥等有力諸藩以外に、宮廷・公卿グループ、諸藩、草葬層の三集団の存在を指摘する。
諸藩連合の上に超越的に成立した維新政権ではあったが、そこには構造的矛盾と政策上の矛盾があったとする。前者では
政府と諸藩の対立、君徳培養問題をめぐる維新官僚と公卿の対立、帝都所在地をめぐる薩長土肥グループと公卿・諸藩・草
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
五
一ハ
葬層との対立である。そして、後者では外交問題(条約改正・樺太・朝鮮)、軍隊編成問題(草葬と豪農商層の親兵組織・
諸藩の諸隊と近代的官僚的軍隊組織)、大学・教育問題(大学行政官・教官の罷免と大学本校の閉鎖)、民蔵分離問題(維新
官僚の内部対立)をあげる。そして、こうした諸矛盾は三段階で展開するが、明治三年七月をピークとする。兵税をめぐる
薩土両藩と政府の対立、樺太問題をめぐる丸山作楽と他の政府メンバーとの対立、大学の混乱、軍隊の官僚制的近代化のゆ
きづまりなどで「府・藩・県一致体制の上にそびえ立っているべき太政官政府そのものが、権力結集核の稀薄な、諸勢力の
相抗する場に転落」(三六五頁)し、この状況下で民蔵分離をめぐる維新官僚内の対立が深刻化する。そして、薩摩藩の不
信任を表現する横山正太郎諌死事件が起きる。
事態がここまで進むと、諸藩に超然たるべき維新政権では問題解決が困難となり、維新政権の変質が意図されるとする。
すなわち、支配の正当性を保証されていない薩長土肥の藩閥的権力を形成させ、この中に西郷以下の薩摩藩当局とその軍事
力を吸収し、反政府勢力の側にまわらせないようにすることに、岩倉・木戸・大久保の総力が集中されていくと。
そして、維新政権は明治三年九月から反政府分子の排除と薩長土三藩の提携強化の方向を打ち出す。しかし、これが反政
府諸グループの反発を呼び起こすことになり、三月から最も憂慮していた反政府諸グループと広範な農民一撲との結びつ
きが現実の問題となってくるとする(日田一撲・北信一撲・三陸一撲)。こうした状況下の明治四年一月に広沢真臣が暗殺
されるが、嫌疑の対象は藩体制そのものと薩長土肥グループ以外のすべての在官者に拡大され、三月から諸藩に対する融和
的態度は捨てられ、在官者の反・非薩長土肥系人物の総罷免が強行されるとする。ここで、確認しておきたいのは、この時
期
悪藩体制の廃止」構想が政府内で提起されたと主張していることである。具体的には、三月二九日の「御下問案」を指
期に「
摘する。
権力保持の一点から、維新政権の大原則と矛盾する薩長土三藩の藩兵を上京させ御親兵とし、この軍事力を背景として廃
藩置県に至るとする。
①論文で指摘された諸矛盾のなかで、その後の②論文では諸藩と維新政権の対立が強調されることになる。②論文は、維
新政権の矛盾として「政府対諸藩の対立」・「国威発揚策の矛盾」・「維新官僚内の分裂」の三点を挙げる。政府と諸藩の
対立では具体的に次のように論じている。維新政権は、正当性と支持の力を公議所(集議院)から調達する構造となってい
たが、それはかえって諸藩との対立を顕在化させるものであった。それが最も明確な形として顕れたものとして、明治三年
五月の藩制をめぐる集議院の審議を指摘する。
国威発揚策の矛盾では対外政策を扱っているが、諸藩との関係から焦点を据えている。すなわち、「維新政府の威信を高
め、それにより諸藩を糾合しようとする種々の試み……一つが天皇の称号を対外的に押し出そうという政策……天皇称号問
題は浦上キリシタン処分問題と連動していた」(二九五頁)と、天皇称号問題とキリシタン処分問題を諸藩糾合策として位
置づける。両者とも各国公使の反発を受け失敗するが、そのことから「国威発揚策が逆に諸藩の独自行動化」(二九九頁)
に帰結したと結論する。また、朝鮮問題と樺太問題は政府内各省間の亀裂を深めたとしている。維新官僚内の分裂では、民
蔵分離問題を取り上げる。
こうした論旨から、政府対諸藩の対立が維新政権の最大矛盾として位置づけられているものと理解できよう。そして、維
新政権の変質も諸藩との関連で説かれることになる。「諸藩の反政府・擢夷派」の運動が昂揚し、農民一撲が頻発するが、
政府は一撲の背後に反政府士族の策謀があるとし、しかも彼らは「反政府派諸藩士」と連絡をとりあっていると断定してい
たとする。こうした事態に対処するために薩長両藩の支持のもと政府強化が図られる。そして、広沢暗殺事件が起こるに
至って、薩長土に藩兵の上京を命じ、この軍事力を前提として廃藩置県計画が具体化し、公議輿論や公論は投げ捨てられる。
「諸藩に依拠し、その協力・協同によって政府の力を高めるのではなく」、全藩的廃藩による「中央集権国家を急速に形成し、
単一的に集中された国家そのものの力量をもとに、国家的課題を一挙に解決しようとする壮大な野望がとってかわる」と
(三○一頁)。
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
七
藩への干渉が可能となったものとして明治二年六月の版籍奉還を位置づける。すなわち、封建的領有制や私的な臣従関係
の藩治職制で職制の統一をはかり、一二月の奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分を通じて推進されたとする。
新官僚が掌握し、諸藩からも相対的に自立した政治権力」となったとする(五二頁)。藩に対する統制は、明治元年一○月
カ条の誓文に対して諸藩に誓約をさせることで、「天皇を万機親裁の絶対君主に位置づけ、その伝統的・政治的な権威を維
結として廃藩置県を位置づける。そして、維新政権は「天皇をいただく有力藩の連合政権的性格」を持って誕生したが、五
領主階級の解体」と「中央集権体制の実現」として達成されたとする(二九○~二九一頁)。維新政権の一環した政策の帰
松尾氏は、維新政権の課題は「朝廷権力の確立と封建体制を打破することであった」とし、それは廃藩置県による「封建
相次いで発表している。ここでは、最新の見解である③を中心として(必要に応じて①・②も)整理していこう。
と展開I」(『歴史学研究』五六九号、一九八九年八月。②と略記)、『維新政権』(吉川弘文館、一九九五年。③と略記)と
先ず、松尾氏からみていこう。氏は、前掲の『廃藩置県』(①と略記)に続いて、「廃藩置県の政治的潮流l廃藩論の形成
が、両名は積極的に政治過程に組み込もうとしたのである。
説』が、諸藩の「事実上廃藩を是認するような建議・改革」(三二九~三三○頁)を一つの要因としてすでに指摘していた
諸藩の廃藩運動を要因としているのが、・松尾正人氏と高橋秀直氏である。この点は、前掲下山三郎『近代天皇制研究序
(二)諸藩の廃藩運動
開国と維新』(小学館、一九八九年)がある。
なお、反政府運動を廃藩置県の主動因(特に宮地説)として記述している一般書としては、石井寛治『体系日本の歴史吃
者の対立が顕在化することによって、諸藩への依拠から諸藩を解体する廃藩置県へと急展開したものと要約できよう。
宮地氏の説は、諸藩と維新政権の対立を主要矛盾ととらえ、尊擢派の反政府運動も諸藩の能動的行動として位置づけ、両
八
の否定の重視である。諸藩が版籍奉還を行った理由として、戊辰戦争による諸藩の弱体化(藩財政の破綻・君臣間の封建イ
デオロギーの動揺・農民一撲による封建的領有体制の無力化)をあげる。「弱体化した領主階級は、伝統的・封建的権威の
頂点に立つ天皇、およびその政府に対する依存度を強めていた」と(九二頁)。
藩体制の解体は、明治三年に入ると進行したとする。民部・大蔵省の急進的な集権政策は、府県のみならず諸藩にたいし
ても強く加えられ、農民闘争を引き起こし、その激化は領主的支配の弱体化していた諸藩を動揺させる。そして、府藩県三
治制のあり方の変更が課題となったのが明治三年の後半であると言う。九月の藩制は、藩を府県と同質化する府藩県一致の
試みであり、これにより諸藩に対し、郡県制の基本理念に照応する方向への改革を指示できるようになる。そして、藩政改
革における禄制改革により「封建身分関係そのものの解体が一部で現実化」(一六八頁)していたことを指摘したうえで、
維新政権は諸藩に対し府藩県一致の徹底あるいは廃藩を督促し、「廃藩への過渡的体制をも創出しようとした」(一七二頁)
と述べる。そして、藩制を超える急進的改革構想(郡県制の完成)として、岩倉具視「建国策」を位置づけるが、その即時
実施の桂桔となったのが有力藩(鹿児島・山口・高知三藩)の存在であるとする。
明治四年に入ると、鹿児島・山口・高知以外の有力藩である徳島・鳥取・熊本・名古屋藩などが廃藩論を提起する。廃藩
論を表明した諸藩に共通するものとして、「「真成郡県」の断行を時流の大勢と把握している」ことを指摘し、「諸藩内の改
革派が政府と一体化することで、あらたな政治参加を期待する動き」と評価する(二○六頁)。こうした諸藩の動きに対応
して作成されたのが「大藩同心意見書」であり、郡県制の徹底を目指す意見書と位置づける。そして、こうした時期に高知
藩を中心とした有力藩の連携があったことを明らかにする。高知・熊本・徳島・彦根・福井・米沢の諸藩である。これら諸
藩の「改革派」は定期的に会合を重ね、郡県制の確立に向けて西郷や三条に働きかけることになる。こうした「改革諸藩」
の動きに対し、岩倉は期待をかけ有力藩による集権化を意図するが、木戸や大久保は警戒を強めたとする。木戸と大久保の
批判を「天皇を頂点に政府内の中枢を掌握しつつあった維新官僚を代弁した主張であり、政府が藩力にゆさぶられることへ
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
九
一
四年一月、西郷が「藩制」を超える「急進的中央集権化構想」(四四頁)を提起したことにより、「急進的集権化路線が政
政官強化」を目指すものであるとする。全面廃藩は三年では政策目標とはなっていないと言う。
する。そして、その藩力(薩長二大雄藩)動員による中央政府改革構想は、「反急進開化派(大蔵省・弁官)・反公家・太
換したと言う。大久保は、「封建制の優位を見る封建・郡県併用論者であり、全面廃藩はめざしていなかった」(二六頁)と
は、廃藩を目指す最も急進的開化派であったが、民蔵分離と薩摩藩の開化政策批判に直面して、三年後半には漸進路線に転
な集権化構想」(同頁)として位置づける。ただ、岩倉は大久保への配慮により急進を抑え藩制を制定したとする。木戸派
世襲制の否定Ⅱ廃藩」(一六頁)であると評する。藩の自主性を認める藩制に対抗するものであり、藩制を超える「急進的
ものとする。明治三年九月頃の「建国策」は岩倉の指示により中弁江藤新平の立案によるものであり、「最終目標は知藩事
指すものとする。それに対し大久保派は、廃藩ではなく藩の存続を認めた上での集権化にとどめ、中央政府改革を優先する
る。先ず、政府内の急進開化派として、木戸派(大蔵省)と岩倉I弁官(江藤)の二勢力を設定し、いずれも全面廃藩を目
府内外の諸勢力の開化(集権化)への競合を重視し、その競合が廃藩クーデターをもたらしたものとしてとらえることにあ
一九九一年)で、松尾説を徹底化し諸藩の廃藩運動を廃藩置県断行の決定的要因に位置づける。高橋氏の基本的視角は、政
次いで、高橋氏は「廃藩置県における権力と社会l開化への競合l」(山本四郎編『近代日本の政党と官僚』東京創元社、
を位置づけるものと要約できよう。
松尾氏の説は、維新政権の一貫する集権化政策のなかで廃藩置県をとらえようとし、その背景に諸藩の廃藩論とその運動
視」(二二三頁)するという、岩倉・木戸・西郷の意識があったと言う。
位置づける。廃藩断行の計画は鹿児島・山口両藩の密議で進められたが、そこには「やはり鹿児島・山口両藩の優先を重
「政府内の混迷」をもたらしたものとしてとらえ、野村や鳥尾ら中堅官僚層の廃藩置県断行論を引き出した機会となったと
の反発」(二一二頁)であると評する。そして、「改革諸藩」の動きを制度取調会議の空転や反政府運動の昂揚とともに、
○
府首脳の方針として成立する」(四五頁)と論じる。そして、四月の「大藩同心意見書」を「「建国策」の急進論が、西郷意
見書以後の政府首脳の急進的集権化路線への合意の形成により復活したもの」(四八頁)と位置づける。「建国策」と同様に
廃藩論という評価であり、廃藩に向けての「政府の方針はすでに四月下旬にはほぼ固ま」った(五一頁)とする。そして、
六月末の方針を「即時全面廃藩に至らない集権化政策」(五三頁)を、有功大藩(薩・長・土・肥・尾・越等)への諮訶の
上で実施する、というものであるとみなす。
こうした方針から即時全面廃藩へと転換させたものとして「非薩長改革派諸藩」(五六頁)の廃藩論とその運動を位置づ
ける。諸藩の廃藩論は「大藩同心意見書」をこえる急進的集権化路線であり、諸藩会議による廃藩を主張し、木戸系開化派
の排除を求めるものであると評する。諸藩の動きに積極的に対応したのが岩倉であり、岩倉は七月初めに諸藩会議による廃
藩を意図し、それは「薩長勢力の抑制・朝廷の自立性維持の戦略」(六四頁)であるとする。諸藩と岩倉の廃藩運動に直面
した木戸派の危機打開策が廃藩クーデターであり、それは「改革派諸藩の動きへの対抗クーデター、そして何よりも木戸派
の対抗クーデターという性格を持っていた」(六九頁)と結論づける。
高橋氏の説は、開化への潮流が社会の主潮流となったととらえ、そうした状況下で開化政策の主導権をめぐる木戸派と諸
藩の対抗、開化への競合を想定して、廃藩置県を木戸派の主導権確保を意図したクーデターとみなすものと要約できよう。
なお、諸藩の廃藩運動を廃藩置県の主動因(特に高橋説)として記述している一般書としては、中村哲『日本の歴史焔
明治維新』(集英社、一九九二年)がある。
二廃藩置県研究の課題
一一
廃藩置県の要因を二点に分けて四氏の見解を紹介してきたが、ここでそれら諸説の当否を検討しながら今後の課題を指摘
していこう。
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
(一)佐藤説
一一一
佐藤説に対する批判としては、原口清「廃藩置県研究の発展のためにl佐藤誠朗論文によせてl」(『歴史学研究』五六一
号、一九八六年二月)がある。原口氏は、反政府運動を廃藩置県の要因とすることの当否ではなく、佐藤氏が「広義の廃
藩置県論」として、中央官制改革の一環(一階梯)として廃藩置県を位置づけたことを、史料解釈を含めて徹底的に批判し
ている。先ず、大久保の「大御変革」や木戸の「大改革」は、佐藤氏が否定した廃藩置県そのものを意味していることを史
料的に明らかにし、次いで、官制改革問題と廃藩置県問題はそれぞれ独自性をもつものであることを論証している。原口氏
の「広義の廃藩置県論」批判は説得力があり、私も同様に考える。
私が問題としたいのは、佐藤氏が「擢夷党」の反政府運動を重視していることである。廃藩置県の要因として具体的に指
摘するのが、前述のように久留米藩処分と福岡藩処分の二点である。「捜夷党」との関連では久留米藩処分が問題となる。
氏は
は、
、日
日田
田県
県』
に派遣された四条巡察使が「捜夷党」への対応によって、拠点である久留米藩処分を提起したことについ
佐藤氏
て次のように言う。
藩 知 事 免 職 を 待 っ て 、 藩官僚の悉皆罷免・租税徴収権の奪取・藩常備兵の解体を断行し、一挙に「天兵」と「天朝官
員」による藩政掌握、 すなわち久留米藩の解体・否定を企画する「廃藩」への筋書きを、生み出すに至っている(佐藤
前掲書、二一七頁)。
ここで述べられているのは、あくまで巡察使の意思であり、政府の意思ではない。久留米藩の解体(廃藩)は、佐藤氏も
指摘するように廃藩置県以前には実現していない。問題は、この巡察使の意思が政府にどのような影響を与え、それが廃藩
置県に結びついたことを論証できるかどうかである。この点について佐藤氏は次のように述べる。
巡察使らの対応・要請は、天皇政府中枢の意志決定ないしは局面の展開(四月二十三日の鎮台設置、六月の政府大改革、
七月二日の福岡藩処分そして廃藩置県へ)に、直接的と言って良いほどの規定力を持ったと思われる(同前、一二八
頁
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
一一一一
奉還後の人事として理解できるものであり、廃藩置県と結びつける氏の主張は首肯し難いと言わざるを得ない。
の人物を任命することは可能となっていた(前掲下山三郎『近代天皇制研究序説』、二一五頁)。福岡藩知事の交代は、版籍
実証のはずである。周知のように、版籍奉還により知藩事の任免権は政府に属しており、新たな知藩事は旧知藩事と無関係
求められるのは、山県や井上が福岡藩処分を如何に認識し、それと廃藩断行が両名の中でどのように関連しているのかの
般的廃藩」に向けて表立った動きを始めるのは、まさにこの七月初旬である(同前、三一三頁)。
六月中旬以来、親兵維持費をめぐって兵権・財政権統一の緊要を強調していた兵部少輔山県・大蔵少輔井上らが、「全
分のみである。
「
可能
能性
性」
」の
の梧指摘であり、福岡藩処分と廃藩置県の関係を論証しているわけではない。その関係についての記述は、次の部
「可
「政治的重さ」とは「廃藩への飛躍をも引き起こしかねない可能性」(同前、三一三頁)を意味しているが、あくまでも
その政治的重さを一挙に顕在化させた(同前、三○八頁)。
天皇政府の争闘の、ひとつの到達点であったが、知藩事の天皇政府による一方的免職(他よりの後任知事入藩)の持つ、
「福岡藩」処分は、全般的廃藩はもちろん福岡廃藩を企図するものでは決してなく、三藩連合による朝権確立を賭けた
難いものである。佐藤氏は次のように言う。
また、廃藩置県へと「飛躍」させたものとして福岡藩処分を位置づけるが、これも綴密な論証を経た主張であるとは言い
主張に説得力はない。
内の綴密な論証を行わなければならないはずである。これだけの記述で「擢夷党」の反政府運動を、廃藩置県の要因とする
打ち出した久留米藩解体の意向が、全般的廃藩を政府に決断させた「規定力」であるということを主張するためには、政府
「思われる」という記述に端的に現われているように、何ら実証を伴わない「規定力」という指摘のみである。巡察使が
-
0
(二)宮地説
宮地説に対する批判としては、前掲高橋秀直「廃藩置県における権力と社会」がある。
一
騒動が引き起こされるとする。この対立については、私も異論はない。
て、この諸隊と維新政権が創設しようとした近代的官僚制的軍隊組織がするどく対立し、大村襲撃事件さらには長州藩脱隊
一五頁)が進むという諸藩藩兵の諸隊化をあげ、こうした事態に対する明治二年一月における木戸の憂慮を指摘する。そし
第一は、軍隊編制問題をめぐる対立である。戊辰戦争により諸藩とも「封建的軍役制度から諸隊制度への転換」(①、三
僚の認識如何、という視点から実証研究である①論文(必要に応じ②論文も)を検討していくことにする。
宮地氏は、維新政権と諸藩を対立関係でとらえ、三つの論点を提出している。以下、この三点につき諸藩の動向と維新官
県の要因として位置づけている(尊櫻派等の反政府運動も諸藩の能動性との関連で重視されているのである)。
私が問題としたいのは、維新政府と諸藩との関係である。宮地氏は前述のように諸藩を能動的存在として把握し、廃藩置
は、②論文では宮地氏は何ら触れていないのである。
かに両史料とも素直に読めば、そこから藩統制強化論や廃藩論を引き出すことは困難である。①論文で主張された廃藩構想
構の政府による掌握、藩兵制度の解隊と統帥権の政府への一元化」(同前、三七七頁)を示すような廃藩論ではないと。確
化の主張ではないと。次に同年三月の「御下問案」も藩の存続を認めた上での統制強化策であり、「藩体制の廃止、藩庁機
地氏が「疑問符をかけられた対象は、藩体制そのもの」(前掲宮地①論文、三七五頁)である、と説くような藩への統制強
想を結びつけることを批判する。先ず、明治四年二月の薩摩・長州・土佐・肥後四藩の建言は政府内粛清の主張であり、宮
を批判する。しかし、広沢暗殺後危機感は深まり、擢夷党弾圧が中心的課題となるが、宮地氏が擢夷党弾圧と藩体制廃止構
の武力クーデターへの不安が解消された以後は、擬夷党に対する危機感は弱まったとし、この間の危機感を強調する宮地氏
高橋氏は、撰夷党についての政府の認識を追い、それは時期によって変化していると指摘する。明治三年二月に薩摩藩
四
第二は、権力の正当性を調達する場としての公議所・集議院での対立である。私は、この対立の重視について大きな疑問
を抱くものである。公議所につき「当初から維新官僚との間にするどい対立が発生し、しかも同所そのものが諸藩の不満の
結集する場に発展してゆくのである」(①、三二五頁)と言う。具体的には、明治二年五~六月における公議所議員の建白
を史料としての主張である。議員の建白に着目したことは卓見ではあるが、建白の列記が主となっており、その内容および
議員(藩)についてのより深い分析が行われないと説得的とは思われない。久保田(秋田)藩の初岡敬次をとりあげている
が、久保田藩の初岡の事例で当時の諸藩の行動を理解できるのであろうか。周知のように久保田藩は尊捜派の拠点として、
反政府の立場に立っていた藩である。また、こうした公議所議員に対する維新官僚の認識を示す史料は提示されていない
(木戸の初岡についての警戒心を示すもののみあげられている)。
集議院では、明治三年六~七月の藩制の審議を重視し、「政府と諸藩の争いが構造的対立であることを極めて明確な形で
示した事件」(②、二九四頁)であると位置づける。海陸軍費問題についての薩摩・土佐・長州三藩の反発、とりわけ薩
摩・土佐両藩の反対意思をもって「国家の基礎を強化するためにこそ藩軍事力を強化しなければならない」という諸藩の論
理を説明し、「諸藩をひとしなみに平等に扱い、フラットな関係での諸藩の合意の上に、その財政的協力を得て軍隊建設」
を図る維新政権の論理の対立と整理する(②、二九四頁)。前掲下山三郎『近代天皇制研究序説』によれば、藩制に対し
「強い不満を公然と表明したのは、薩・長・土等旧官軍主力藩」であり、全面賛成したのは二一藩あり、この中には佐賀・
熊本などの大藩が含まれている(二七一頁)。佐賀・熊本という大藩の態度と諸藩の論理は、如何に結びつけられるのであ
ろうか。諸藩の論理という抽象的概念で個別藩の行動を説明することに、説得力はないと思われる。また、脱隊騒動とその
弾圧を契機に、諸藩の「政府に対する距離感や反発は更に拡大していった」(②、二九四頁)と論証なしで述べられている。
これも、下山前掲書の「版籍奉還以後……大局的にみれば大多数の藩はほぼ政府の指示に従い希望する方向に進みつつあっ
五
た」(二七一頁)という評価を、具体的に批判しない限り首肯することは難しい。
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
一
一一ハ
第三は、諸藩の反政府運動である。明治三年三月以降「諸藩に根拠を置く反政府グループの動きは、東京・大阪・国許
間できわめて活発になっていた……東京においても、反薩長諸藩には、久留米藩をはじめ厳しく探索網が敷かれ」たとする
(①、三七○・三七五頁)。「反政府グループ」の実態は、反政府運動を展開した尊撰派ととらえられる。問題は「諸藩に根
拠」という評価である。論拠とされているのが、三年一二月上旬の宍戸宛木戸書簡の「於京都久留米秋田藩邸などへ浮浪ど
も入込候・…:於東京久留米秋田藩邸へ所詮入込候」(『木戸孝允文書』第四、一六五頁)という記述と、柳川藩士と福岡藩士
の書簡である。木戸書簡に見られる久留米・秋田両藩は、従来から尊擢派の拠点として明らかになっているものである。柳
川藩士(尊擢派の久保田邦彦と江口瀬兵衛)の書簡には、九州地方の尊擢派の影響が強い諸藩の動向が記されている。また、
福岡藩士(尊嬢派の的野秀九郎、的野は愛宕・外山両事件に関与)の書簡には、尊擬派の墓泉と関西での挙兵意図が述べら
れている。このように、反政府運動の例証として挙げられているものは、尊擢派とその影響力の強い藩なのである。このこ
とをもって、「諸藩に根拠を置く」と藩一般に拡大する評価は首肯し難い。
こうした尊捜派の反政府運動に対し、広沢暗殺事件後弾圧が強化されるが、この事態について「諸藩に対しての融和的な
態度は、最後の一かけらも存在しなくな」ったとする(①、三七六頁)。弾圧は擢夷派を対象としたものであって、諸藩一
般にまで拡大することは、慎まなければならないだろう。宮地氏が「藩体制そのもの」に疑問符をかけた、と評価する明治
四年二月の薩摩・長州・土佐・肥後四藩の建白は、従来「領主階級内の有力部分が、政府の支援と反政府分子の一掃を要
望」(前掲原口『日本近代国家の形成』、八三頁)したものとされている。前掲高橋「廃藩置県における権力と社会」が批判
したのもこの点であった。また、高橋論文が尊挫派弾圧と集権化を結びつける主張を批判していることもすでに紹介したと
おりである。
諸藩の能動性に着目したことは、それ自体としては新たな問題提起であるが、それを廃藩置県の要因として重視する主張
には問題が残ろう。
(三)松尾説
松尾説に対する有力な批判は、現在までのところ提出されていない。私が問題としたいのは、明治三年後半以降、政府内
部で提起された諸構想と政府首脳部の動向に関する見解である(以下の引用は、『維新政権』からである)。
先ずは、廃藩構想の有無である。問題となるのは、明治三年九月頃の岩倉「建国策」と四年四月の「大藩同心意見書」で
ある。前者の「建国策」は、「郡県制の完成を急務とし……中央集権国家の目的を提示した構想……「藩制」を超える急進
的改革論……郡県制による集権体制の確立を目指した主張」(一七八~一七九頁)であるとされている。廃藩構想としての
評価である。しかし、その構想を審議したとする国法会議の地方制度議案は、「府県と藩の存在を既定のこととし……藩の
権限をまったく否定したのではなく、藩の名称を州に代える程度の改革」(一八○頁)と評されている。廃藩論の否定であ
る。密接な関係を有する二者について、一方を廃藩構想とし他方を廃藩否定としているのである。と同時に、国法会議の議
事は「「建国策」の州・郡設置論を出るものではなかった……府藩県の統一化を前進させる」(同頁)ことであるとも述べて
いる。ここでは、両者とも府藩県三治一致の徹底化を目指すものという評価となっている。「建国策」と国法会議の整合性
に欠けていると言わざるを得ないのである。ちなみに、前著『廃藩置県』では「建国策」を、「廃藩をそくざに断行するよ
うに主張するものではなかったが、藩体制の解体を指向する目的をもった意見書」(九八頁)としている。「指向」するとい
う評価ならば、「建国策」と国法会議は基本的に同質となろう。ともあれ、「建国策」を廃藩構想として明確に打ち出したこ
とは確認できよう。
後者の「大藩同心意見書」は、「大藩が「藩名」の廃止や小藩の廃合を明示し、「全国一致の政治」を具体的に示した意味
は大きい……郡県制の徹底をめざす「真成郡県」……「真成」の「更張」を企図した意見書」(二○八頁)とされている。
「建国策」と同様、廃藩構想としての評価である。ちなみに、前著『廃藩置県』では「大藩同心意見書」を、「藩体制の解体
一
に関し、……「建国策」などの趣旨をいっそう前進させた構想……旧藩の権限を温存する姿勢を残し、なお一挙的な廃藩を
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
七
八
し、鹿児島・山口両藩出身者が……政府内の指導権を確保しよう」(一七頁)として廃藩を断行したと述べていた。こうし
づけのみである。氏は、前掲「廃藩置県の政治的潮流l廃藩論の形成と展開l」で、「高知藩を中軸とした諸藩の連携に対
に期待をかけたという指摘、および政府内の混迷をもたらした一要因として廃藩断行論を引き出す機会となったという位置
記述はなされていない。また、氏が重視した改革諸藩の運動の影響については不明瞭となっている。岩倉が改革諸藩の集議
「段階的に廃藩へ向かうことを求めた主張」(二二一頁)を岩倉に行ったとする。大久保や西郷の六月段階の意向についての
岩倉は諸藩の「集議」による廃藩を意図することになるとする。一方、木戸はそうした諸藩の運動を警戒しつつ、六月には
現に向けての具体的行動は何も触れられていない。そして、同時期に高知藩を盟主とする改革諸藩の廃藩運動が起こると、
化を目的とする改革構想が紛糾している四年四月、岩倉により廃藩論としての「大藩同心意見書」が作成されるが、その実
「建国策」を廃藩論としていることから、三年二月からの政府強化策は廃藩を前提とした政策となろう。次いで、政府強
考えを「「建国策」を具体化する場合、その前提となる政府中枢を強化しておくことが不可欠である」(一八四頁)と述べる。
のための藩力(鹿児島・山口・高知三藩)利用策として、岩倉勅使が派遣されて三藩提携が実現するが、その際の大久保の
点に関しては甚だ暖昧となっている。廃藩構想実現の最大の障害は、有力藩の割拠的行動にあるとする。そして、政府強化
次に、廃藩構想の実現に向けて政府首脳部は、どのような行動をとったと松尾氏はみているのか。結論から言うと、その
としてすでに打ち出しているものである。
における権力と社会」が、「建国策」と「大藩同心意見書」の最終目標は、府藩県三治一致の徹底化ではなく廃藩にあった、
われるが、この記述だけでは原口氏への有効な批判とは成り得ないであろう。なお、こうした見解は、前掲高橋「廃藩置県
このように、松尾氏は廃藩構想の存在を明確に主張しているのである。一般書という性格から詳細な論証を省略したと思
いなかった。ここでも廃藩構想としての位置づけが積極的に展開されていると言えよう。
打ち出していないとはいえ……領有制の解体を強く促進する主張」(一四五頁)とし、廃藩論であると明確には評価されて
一
た改革諸藩への対抗策としての意図は放棄されたのであろうか。なお、松尾氏も廃藩論の提起とその運動という側面で、諸
藩の能動性に着目していることが確認できよう(宮地氏は反政府行動を重視したのだが)。
廃藩構想の存在を主張するならば、その実現過程を明瞭にしなければならないはずであろう。
(四)高橋説
高橋説に対する有力な批判も提出されていない。私が問題としたいのは、松尾説の場合と同様、廃藩論(政府内外)とそ
の運動の評価である。先ずは廃藩論である。高橋氏は、政府内部の廃藩構想を否定した原口氏を批判し、あらためて廃藩論
を積極的に打ち出しているのである。その見解の当否が問題となろう。
第一は、岩倉「建国策」であるが、これについては次のように述べている。
藩統制策である。そして統制策として極めて厳格であり、急進的な集権化政策であった……藩のほぼ全権が中央に吸収
され、知藩事も東京に集められる以上、藩の自立性は有名無実…:・藩の存続を前提としてはいるが、その自立性は事実
上ほとんど否定されていた……府藩県三治一致の徹底を最終目標としていたわけではなかった……第9条にある……文
に明らかなように、最終目標は知藩事世襲制の否定Ⅱ廃藩であり、すでに見た藩統制強化策はこれに至るまでの一段階
だったのである(前掲論文、一六頁)。
「建国策」Ⅱ廃藩論の論拠となっているのは、引用文に明らかなように第九条の「藩知事朝集ノ制ヲ廃シ輩下二在住セシム
可キ事」を、知藩事世襲制の否定と理解する一点のみである。したがって、第九条の解釈如何が決定的となる。やや長文と
なるが第九条の全文を引用し、廃藩論であるかどうか検討していこう。
列藩既二版籍ヲ奉還シ更二知事ヲ命セラレ郡縣ノ寵裁始テ建ッ然レハ藩知事ノ如キモ世襲セシメス其人ヲ精選シテ之ヲ
一
命セラル可キハ素ヨリ論ヲ待ダスト錐今日二於テハ俄二之ヲ行う可カラサルノ事情アリ今姑ク旧慣二冊ルハ已ムヲ得サ
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
九
二
西郷意見書を廃藩構想と明言してはいないが、氏は前述のように「建国策」を藩の存在を前提としているが、藩の「自立
だったのである(前掲論文、四四頁)。
藩の存続を前提とするものであったが、その自主性は大きく削減されており、「藩制」をこえる急進的中央集権化構想
うに述べる。
第
二は
は、
、惑
政府首脳の方針として急進的集権化路線をもたらしたものと位置づける西郷隆盛意見書である。高橋氏は次のよ
第二
制を前提としているのは明らかであり、「建国策」を廃藩構想と評価することはできない。
するため、三年一回の朝集制を廃し、東京に居住し三年に一回藩地を巡検する制度の必要性を提起しているのである。藩体
縣ノ罷ヲ大成」する方針を示し、「指導」することが急務であるとする。そして、その方針の下で知藩事が藩政改革を実施
は不完全であり、知藩事を「精選」して任命することを「俄一こに実行することは困難であることから、先ずは政府が「郡
し、知藩事世襲制は否定され、政府が知藩事の任免権を持つようになったと明記している。しかし、現実の「郡縣ノ龍裁」
されたものであり、廃藩と直接結びつくものではない。「建国策」も上述のように、版籍奉還により「郡縣ノ盟裁」が実現
否定Ⅱ廃藩と主張するが、知藩事世襲制の否定が何故廃藩となるのであろうか。知藩事世襲制の否定は、版籍奉還で打ち出
高橋氏は、引用史料の一行目の「藩知事ノ如キ」から二行目の「旧慣二冊ルハ已ムヲ得」までを掲げて、知藩事世襲制の
ン(『岩倉公実記』、八三二~八三三頁)。
ノ如ク改制スルトキハ在藩ノ大少参事屡箪下二出テ親ク朝意ヲ候スルコトヲ得テ藩政改革二於テモ大二稗益スル所アラ
セシムルコトヲ要スレハナリ因テ藩制中三年一度朝集ノ制ヲ改テ三年一度藩地巡検ノ制卜為シ箪下二在住セシムヘシ此
ヲ以テ藩知事タルモノハ親ク廟謨ヲ候シ叡智ノ在ル所ヲ髄シ以テ藩政ヲ施行スヘシ是レ上下一貫衆庶同一ノ規律二率従
縣ノ髄ヲ大成スルノ方針ヲ示シテ之ヲ指導シ以テ其一新ヲカメシムヘシ方今綱紀ヲ恢張シ外国ト抗衡スルノ時二際スル
ルナヲ然ル’一各藩沿襲ノ久キ国政ヲ以テ其家政卜混滑スー朝二之ヲ改革スルコト能ハサルハ必然ノ勢ナリ政府ハ宜ク郡
○
性は事実上ほとんど否定」されていることを重視している。とするならば、「事実上」の廃藩構想と捉えているのではなか
ろうか。藩の自立性否定の論拠としているのは、西郷意見書の「制度紀綱麗節刑典を定る事府藩縣とも同奉私二勘酌して制
を改むるを禁ず軍制も亦然り」(『大隈文書』第一巻、三頁)という一項である。この項目に対し「三治一致の徹底、藩の自
立性の否定は、明らかに「藩制」をこえるものであった」(前掲論文、四四頁)と評している。制度・紀綱・礼節・刑典の
統一は、まさしく府藩県三治一致体制(郡県制)の徹底化であり、「建国策」と同趣旨のものである。西郷意見書を「建国
策」と同様、廃藩構想とみなすことはできない。
第三は、「大藩同心意見書」である。高橋氏はこれについて「「建国策」の内容をほぼ踏襲し、「藩制」を一挙にこえる急
進的なもの」(前掲論文、四九頁)と評する。「建国策」Ⅱ廃藩論であることから、必然的に「大藩同心意見書」も廃藩構想
と
なろ
ろう
う。
。しかし、「建国策」Ⅱ廃藩論が前述のように成立しないことから、「大藩同心意見書」も廃藩構想とみなすことは
とな
できない。
このように、原口氏を批判して政府内の廃藩構想の存在を主張する説は、実証的に成立し難いものである。次に、改革派
諸藩の廃藩論の強調は、すでに松尾氏が説いていたものであるが、高橋説の独自性はこの廃藩論とその運動を廃藩置県断行
の要因としてより前面に打ち出したことにあることは、前述のとおりである。それでは、この主張の当否を検討していこう。
政府首脳部で諸藩の廃藩運動に対応したのが、岩倉と木戸派であると指摘する。岩倉が肯定的対応ならば木戸は否定的対
応であったとする。岩倉が諸藩の動きに対応して、板垣Ⅱ土佐藩の主張により急進論に転換し、大藩会議による廃藩構想を
提起した、という指摘は初めてであり、卓見と評価できるものである。そして、諸藩の運動により危機的状況に陥った木戸
派が、主導権を確保するために提起し断行したのが廃藩置県である、という主張は斬新な説である。しかし、その見解には
いくつかの問題点があると思われる。
一一一
第一は、改革派諸藩の主張そのものである。高橋氏は、諸藩の主張を自主的廃藩論と木戸派の排斥であると整理する。前
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
一一一一
者の廃藩論は松尾氏の指摘以来各藩で確認されるものであり、私も異論はない。問題は後者である。木戸派排斥の論拠と
なっているのは、肥後藩の事例のみであり(他には土佐藩の佐々木の発言が揚げられている)、他藩の主張については何ら
触れられていない。肥後藩の主張をもって、木戸派排斥が改革派諸藩の意思であるとみなすことができるのであろうか。
第二は、第一点とも関連するが改革派諸藩の運動の内実である。高橋氏は諸藩の中核として肥後藩と土佐藩を位置づける。
しかし、松尾氏の研究によれば諸藩の中核(「盟主」)となったのは土佐藩である。高橋氏が肥後藩をも含むものと主張する
ならば、先ずは松尾氏の見解に触れる必要がある。そうした論証を経ずに、土佐藩のみならず肥後藩をも中核とする主張は
問題がある。そして、氏は肥後藩の政府首脳部への働きかけのみによって、「非薩長改革派諸藩の動き」(前掲論文、六○
頁)と評する。肥後藩の動きは、はたして諸藩の意思に基づくものであったのか、単独行動とみることはできないのか。改
革派諸藩連携の内実の分析が求められる。
第三は、改革派諸藩と政府首脳との関連であり、高橋説の核心部分である。氏は、肥後藩(改革派諸藩の代表とみなして
いるが)と岩倉・大久保・西郷・木戸との関係を分析し、改革派諸藩に対する木戸派のクーデターとして廃藩置県を位置づ
ける。この見解は、七月初めに木戸派は危機的状況にあったという認識が前提となっているが、問題はその認識である。氏
は、七月初めの状況を次のように言う。
大久保・西郷は木戸派との提携を重視し、肥後に対して抑制的対応をとっていた。しかし彼らが内心においては反木戸
系開化派的志向を持っていることは、従来の政局の経過より明白であり、改革派諸藩の動きが活発化する中で、こうし
た構図がいつ逆転し木戸派が孤立するかは判らなかったろう。そしてさらに岩倉の大藩会議構想が提起され、改革派諸
藩の発言権が制度的に確保されようとしていた。
こうした状況の中で木戸派が自己の生残りを図るには、当面の最大の政治課題である国政改革問題で主導権を握るこ
とが必要であった……中央政府改革の目処は立たなかった……木戸派はこの時危機にあったのである。危機打開のため
には何らかの突破が必要であった……鳥尾小弥太(兵部省出仕)と野村靖が、廃藩置県の即時断行を立案……中堅官僚
は、反木戸系開化派の圧力の高まりを最も強く感じる部分である(前掲論文、六五~六六頁)。
先ず、肥後藩と木戸派の関係からみていこう。肥後藩の動きに対する木戸派の危機を強調するが、木戸もしくは木戸派自
身の危機意識を直接示す史料は七月二日の木戸日記のみである。そこには、肥後藩の要求に対する木戸の感懐が「地方官よ
り狼に在官之人の進退を論す善事にあらず余深く前途の事を痛嘆す」(『木戸孝允日記』第二、六三頁)と記されている。肥
後藩という一つの藩が、政府人事に介入することに対する不快感が表されているが、ここから木戸派排斥の危機感を読み取
ることは困難である。その他、肥後藩の主張に西郷・大久保が同調することを憂慮した、三条の木戸宛書簡が論拠となって
いるが、これはあくまでも三条の危倶にすぎないものである。
大久保・西郷は、何よりも薩長連携による政府維持を優先しており、木戸派との対立を避ける観点から肥後藩の木戸派排
斥要求を拒否したことは、高橋氏も認めるところである。三条の憂慮はまさしく杷憂なのである。六月末には、薩長土三藩
による直属軍隊である親兵が東京に集結し、西郷と木戸が参議に就任している。維新政権は強化されており、肥後藩の動き
によって薩長連携の崩壊をもたらす木戸派の追放が実現する可能性は考え難い。
次は、岩倉と木戸派の関係である。岩倉は、高橋氏が初めて明らかにしたように改革派諸藩の動きに対応し、大藩会議の
開催を提起している。そして、この岩倉の大藩会議構想が肥後藩の動きとともに、木戸派に危機感をもたらした要因とされ
ヲ(》○
岩倉が木戸に対し明確に大藩会議構想を提起したのは、高橋氏によれば七月六日付の木戸宛岩倉書簡である(ただし、打
診したのは月日不明であるがそれ以前とする)。この岩倉提案に危機感を感じた木戸派が、六日から廃藩置県へと急発進し
たのであるならば、高橋氏の説は説得力がある。ところが、廃藩断行への動きは六日以前に始まっているのである。烏尾小
一一一一一
弥太と野村靖が山県有朋邸で廃藩置県の即時断行、いわゆる「書生論」を打ち出したのが七月初め(日は不明、『公爵山縣
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
一
一
危機的状況ならば、それをもたらした要因は何なのか。
第三は、廃藩置県断行直前における維新政権の政治的状況の再検討である。維新政権は危機的状況に陥っていたのか否か。
きはどのようなものなのか。廃藩構想が存在しなかったならば、廃藩断行は如何になされたのか。
第二は、廃藩置県断行に関する維新官僚の行動の再検討である。廃藩構想が存在していたならば、その実現に向けての動
一致構想なのか。これは、維新政権の歴史的性格に関わる課題である。
第一は、維新政権内部で提起された藩体制に関する諸構想の再検討である。全般的廃藩構想なのか、それとも府藩県三治
を挙げておきたい。
える
る。
。し
した
たが
が一って、その内在的矛盾の具体的究明を最重要課題としなければならない。それを前提として、以下の諸点
も考え
廃藩置県は宮地氏が強調するように、維新政権が抱え込んでいた内在的矛盾の解決策として断行されたものである、と私
かえたい。
最近の研究である四氏の所説の検討は以上のとおりである。この作業をとおして得られた今後の課題を指摘してまとめに
おわりに
の危機的状況を強調し、これを前提とした木戸派のクーデターを主張するが、この見解は再検討を要するのである。
藩会議構想と木戸派の危機感、さらには廃藩即時断行を結びつけることは困難であると言わざるを得ない。高橋氏は木戸派
徹密な実証が必要なのである。また、木戸および木戸派の岩倉提案に対する認識を示す史料も提示されていない。岩倉の大
廃藩断行に向けて走り始めていたのである。岩倉提案が鳥尾や野村の「書生論」を引き出したと主張するためには、もっと
と井上が合意し、山県が西郷に同意を求めた日である。岩倉が木戸に大藩会議構想を持ちかける以前から、木戸派は独自に
有朋傅』中巻く一二五頁〉は六月三○日とする)、井上の同意を得たのがその翌日、そして岩倉提案がなされた六日は木戸
四
第四は、諸藩の動向の再検討である。自壊しつつあった受動的存在なのか、それとも維新政権に影響を与えた能動的存在
なのか。藩体制の解体が進行する状況下、能動的存在として自主的廃藩運動や反政府運動を展開した諸藩の内実と、廃藩置
県断行との関連はどうなのか。長野暹編『西南諸藩と廃藩置県』(九州大学出版会、一九九七年)が試みたような、諸藩の
実証的研究が課題となる(拙稿「書評長野逼編『西南諸藩と廃藩置県』」〈『歴史学研究』第七○八号、一九九八年三月〉
参照)。
なお、本稿は拙稿「維新政権論の現在」(『歴史評論』第五八九号、一九九九年五月)の姉妹篇にあたるものである。拙稿
一
(かつたまさはる)
五
も参照していただけたら幸甚である。
廃藩置県研究の現状と課題(勝田)
一
軍拡から粛軍へ
l洪武朝の軍事政策I
はじめに
奥山憲夫
どの王朝も創業期には軍の増強に狂奔し、いわば軍拡路線を適進するが、一旦政権が安定すると、国内の治安維持や辺境
の防衛を除いて、軍の大半は不要となってしまう。膨大な兵力を抱え込んだ創業期の王朝にとって、混乱を避けつつ、軍を
戦時から平時の体制に移行させることは、大きな課題であったと考えられる。その際重要なのは、一つには、過剰な兵力の
削減であり、二つには、雑多な諸軍を、皇帝に対する忠誠を縦軸とする、官僚制的な軍に再編成してゆくことであろう。明
朝は、前者については、軍屯を設置して、兵力の七割を屯軍に当てるという屯田政策を強行し、軍の組織を残したまま、実
質的に大幅な兵力削減を図った。それでは後者に関してはどのような政策がとられたのであろうか。洪武朝は、強烈な個性
をもった太祖が、ほぼ三○年の長期にわたって在位した所為もあって、一つのまとまった時期として扱われる傾向があるよ
うに思う。しかし、太祖以外の人々の世代交代は着実に進み、明軍内部でも世代交代に伴う種々の問題が生じており、それ
が顕在化したのが洪武二○年前後ではないかと思われる。本稿では、世代交代の問題を念頭に置きながら、洪武朝の軍事政
策を考えてみたい。なお文中では勲臣・都督・都指揮・指揮・千戸・百戸・衛所鎮撫を「武臣」として表記した。勲臣と都
七
督・都指揮と指揮以下は、各々性格が異なり、区別して扱うべきだが、本稿では旗軍、つまり総旗・小旗・軍士に対するも
軍拡から粛軍へ(奥山)
二
のとして、便宜的に一括して「武臣」とした。
一統制の強化
㈲創業期の将兵関係
八
一
く河南をも平定しようとする時期で、明側に帰服する元軍が急増しつつあり、太祖は、彼らを明軍に組み込むに当って、従
とある。洪武元年三月といえば、前年一○月に発した徐達・常遇春磨下の北伐軍が、既に山東全域を支配下に置き、間もな
慰勉之。
超人爵賞。汝輩苛能日親賢士大夫、以広其智識、努力以建功業、不患爵位之不顕也。於是、皆頓首感激、各賜続衣、以
取新也。今天下一家、用人之道、至公無私。彼有智謀才署、克建功勲、故居汝輩之上。夫有兼人之才、出衆之智、乃有
上諭武臣日、汝曹従朕起兵、攻城唇地、多宣其力。然近日新降附者、亦有推擢、居汝輩之上、而爾等反在其下。非棄旧
として運用されてきたとみられ、頭目の地位は配下の兵数によった。『明実録』洪武元年三月甲戌の条に
らの配下の集団は、各頭目が帰附する時に率いてきたもので、帰服後も解体されず、従来の頭目の配下にあって一つの部隊
とあるように、雑多な称号でよばれてきたが、配下の兵数を調査し、その多寡によって指揮~小旗の名称に統一した。これ
総旗、十人為小旗。令既下、部伍厳明、名実相副、衆皆悦服、以為良法。
章・元帥・総管・万戸者、名不称実甚無謂。其騒諸将所部、有兵五千者為指揮、満千者為千戸、百人為百戸、五十人為
立部伍法。初上招侠降附、凡将校至者、皆価其旧官、而名称不同。至是、下令日、為国当先正名。今諸将有称枢密・平
収しつつ軍事力を拡大し、やがて明朝政権を樹立した。新たに帰服した武臣について『明実録』至正二四年四月壬戌の条に
太祖は、起兵以来、各地の土豪・地主の配下や陳氏・張氏或いは元朝の部隊等、起源も規模も異なる種々の軍事集団を吸
一
来の庵下の諸将を慰撫する必要があった。太祖は、新たに帰服した者の地位が、旧い武臣よりも上になることもあるが、決
して旧来の者を棄てるわけではなく、能力と勲功によるのだと述べた。しかし、大きな勲功は大兵力がなければたてられず、
結局、帰服時に率いてきた配下の兵力が武臣の地位を決めることになったと思われる。これらの軍事集団は、帰服の後も維
持されたので、将と兵の紐帯は非常に強かった。この点について『明実録』洪武二一年六月是月の条に
上聞世襲武臣有苛刻不伽軍士者、特赦諭之日、…朕観国初諸老成将官、初起兵時、収撫士卒、或一二十人、或一百人二
百人、至四五百人。必以恩撫之、親如兄弟、愛如骨肉。故攻戦之際、諸士卒急先、効力奮身不顧、以此、所向克捷。人
皆称其善戦、而不知由其善撫士卒、故能如此。甚至疾患扶待服労奔走、一如子弟之於父兄、無不尽心。至論功定賞、大
者為公侯、小為千・百戸。若以一人之身、無士卒之助、能敵幾何人哉。
とある。この記事は、洪武二○年代に入り、紐帯が弱まり将と兵の乖離が深刻になった段階で、太祖が武臣に訓戒したもの
だから、紐帯の強さをより強調した可能性はある。しかし、創業期に太祖の下に参加してきた大小の諸集団が、内部で「兄
弟」「骨肉」のような強い紐帯をもち、それが戦闘力の源となっていたことは事実であろう。『明実録』至正二四年五月丙寅
の条に
上諭諸将日、汝等所統軍士、錐有衆寡不同、要必皆識之。知其才能勇怯何如、緩急用之、如手足相衛、羽翼相蔽、必無
喪失。若但知其名数、不識其能否、梓臨戦陣、何以応敵。且人家有憧僕、亦須知其能否。矧為将帥、而不知士卒可乎。
夫能知人、則勇者効力、而智者効謀、鮮有不尽心者。苛一檗視之、則勇者退後、而智者鞘策芙。汝等其識之。
とあり、太祖は諸将に対して、配下の多寡に拘わらず、普段から軍士各々の能力や勇怯を把握していなければ、戦闘に当っ
て充分な力を発揮できないと強調したのも、各集団内の紐帯の強化を期待してのことであろう。『明実録』洪武二年三月戊
戌の条に
九
上諭指揮同知衰義日、爾所統軍士、多山東健児、勇而好闘。若加訓練、悉是精兵。然当推恩意以懐之、厳号令以一之、
軍拡から粛軍へ(奥山)
二
三
富、此尤不可恕也。富自幼従朕、有功無過。顕因利其所獲華畜、殺而奪之。師還之日、富妻子服衰姪、伺之於途、牽衣
之。然其為性剛忍、朕屡戒筋、終不能俊。至於妄殺晉吏、殺獣医、殺火者、及殺馬軍。此罪難恕。而又殺天長衛千戸呉
封右丞騨顕為永城侯、賜綺及帛六十匹、偉居海南。時顕有専殺之罪。…其勇略意気、適出衆中、可謂奇男子也。朕甚嘉
北伐軍凱旋の翌月『明実録』洪武三年一二月戊辰の条に
のであった。同時に諸制度整備の段階に移行する転機でもあったとみられ、軍に対する統制の強化もこの時期に始まった。
これは一戦役についての行賞ではなく、起兵から明朝創建に至るまでの全体的な貢献度を評価し、明朝の確立を宣言するも
(2)
洪武三年二月、徐達磨下の北伐軍が京師に凱旋し、間もなく大規模な論功行賞が行われた。檀上寛氏が指摘するように、
口統制強化の開始
あったろう。その為には武臣に対する統制の強化と、各集団内の私的関係の解消が必要となる。
祖にとって、皇帝に対する忠誠を唯一の紐帯とし、上意下達の命令系統と組織によって運用される軍隊こそ望ましいもので
く創業期にあっては、戦闘力の強化を第一義として、太祖もこれを奨励していたのである。しかし、明朝を創建した後の太
小の諸集団の集合体だったと考えられる。各集団内の将と兵の私的紐帯は、一面では私兵化の危険も孕むが、戦闘の打ち続
(■Ⅱ)
通海と強い紐帯をもった集団で、太祖に帰付後もそのまま命通海の磨下に在ったとみられる。当初の明軍は、このような大
説き、郡陽湖の戦いにおける前通海の配下を例にあげた。彼らは、命通海が巣湖に盤踞した頃からの配下で水戦に慣れ、前
とあり、太祖は指揮同知衰義に対し、配下には勇健な山東出身者が多いと述べ、恩意と規律を以って精鋭となすべきことを
首氏艦鉄帽尽壊、而後得脱。非通海訓練、有素恩威兼済、安能得其死力若此。爾等其效之、慎無怠惰廃事。
庶幾臨敵之際、得其死力。…昔平章命通海、与陳氏戦鄙陽湖。陳氏以臣艦圧通海舟勢危急、其所統軍士、皆奮勇力、以
○
突罵、且訴冤於朕。朕
吋以 極刑、恐人言天下甫定、即殺将帥。欲宥之則富死何事。今価論功封以侯爵、調居海南、分
朕欲
欲加加
其禄為三、一以鱸富之之
家家
、、一以贈所殺馬軍之家、一以養其老母妻子、庶幾功過不相模、而国法不廃也。若顕所為、卿等
宜以為戒。諸将臣皆頓首謝。
(3)
とあり、騨顕を永城候に封ずると共に、海南に配流するという異例の措置がとられた。騨顕は蒲県の出身で、趙均用の配下
(4)
として泗州を守備したが、趙均用の死後に部衆を率いて太祖に帰服した人物である。有能で軍功があったが剛強残忍な性格
で、晋吏・獣医・火者・馬軍士を殺し、ついには家畜を奪う為に天長衛千戸呉富を殺害するに至った。呉富の妻子の訴えを
受けた太祖は、騨顕を極刑に当てようとしたが、天下が定まったばかりなのに将帥を処刑するのは、功臣の粛清ととられ、
人心を動揺させる恐れがあるので、蒔顕の功に対しては侯に封じ、罪に対しては海南に論することとし、禄を三分して呉
富・馬軍士・本人の家族を養わせよと命じた。蒔顕は「専殺」の罪を問われたのだが、禄を三分して与えるという処置の対
象になったのは、本人の家族を除けば、千戸・馬軍士の家族であり、火者は勿論、晋吏・獣医についても言及されていない。
ここでいう専殺あるいは檀殺は、理由なく人を殺すことを一般的に指すのではなく、武臣が帝の承認を得ずに配下を殺す場
(5)
合をいうのではないかと思われる。そうならば専殺の禁止は、太祖が軍に直接介入し武臣に対する統制を強化しようとする
政策の一環だったと考えられる。この事件の直後の『明実録』洪武三年一二月戊辰の条に
詔軍官有犯必奏請、然後逮問。
とあり、武臣が罪を犯した場合、太祖の承認を得てから逮問せよと命じ、上官が配下を独断で処罰することを改めて禁じた。
翌四年二月癸酉の条に
中書省奏、各処都指揮使司、統属諸衛、凡有軍官軍人詞訟、宜設断事司以理之。断事一人正六品、副断事一人正七品。
従之。
一一一一
とあり、中書省の上奏をうけ、各都司に断事司を設けて管下各衛所の詞訟を処理させることとした。断事司は元制を受けっ
軍拡から粛軍へ(奥山)
(6)
一一一一一
いだものだが、『諸司職掌』では吏部の頃に記されているように文官系のポストであり、中央の大都督府には各都司に先
だって設けられ、従五品の断事官が配置されていた。従来、軍内部の紛争は、強い私的紐帯をもつ各集団の中で処理されて
きたであろう。専殺の禁止や断事司の設置は、処罰や紛争処理の機能を政府に吸収して、軍に対する統制を強化し、私的な
集団を解体しようとする施策の一環だったと思われる。又『明実録』洪武三年一二月丁丑の条に
、
禁武官縦軍駕販者。敷都督府日、兵衛之設、所以禦外侮也。故号令約束、常如敵至、猶恐不測之変、伏於無事之日。今
壼葉
赦薄
◎
に貼りつけてゆく方法をとっていたが、人事の移動が頻繁で貼黄が及ばなくなったので、毎月一回更貼し年末に内府に収蔵
とあり、これまで吏部では、武臣も文官も共に氏名や出身地あるいは官歴等を黄紙に記録しておき、転任すればその旨を上
未及、改注更貼者。故命吏部月一更貼之、毎歳終以其籍進貯干内庫。遂為定制。
貼置籍中、而用宝璽識之、謂之貼黄。有除拝遷調、靭更貼其処。雛百職繁移、而此法便於勾稽。然拝罷之数、則貼黄有
命吏部月理貼黄。初吏部以文武百職姓名邑里及起身歴官遷次月日、自省府部○行省府州県等衙門、皆分類細書於黄紙、
制強化の一環だったと考えられる。同月戊子の条には
禁止し、武臣の配置や移動も太祖の命令がなければ許さないと述べた。この詔の重点は後段にあるとみられ、軍に対する統
とあり、各地に駐屯している武臣に対し、管轄地域内の治安に全責任を負わせたが、一方で中央政府の許可を得ない出動を
奉制書、亦母得鞠自離職。違者論如律。
詔諸処領兵鎮守屯戌諸将、遇境内有警、許乗機調兵劉捕、若失誤致使滋蔓者罪之。余事不許専檀調遣。其改除起取、非
障がでるとしてこれを禁止した。更に四年一月己酉の条に
とある。当時、武臣たちが配下を通じて商業行為をする場合が少なくなかったことが看取されるが、太祖は本来の任務に支
今有犯者、
在外武臣、俸禄非薄、而猶役使所部、出境行買、規小利而忘大防。苛有乗間霜綏者、何以禦之。爾其傍示中外衛所、自
罪俸
(7)
することとしたという。この時期に武臣の人事管理の法が整備されたのは注目すべきで、武臣の配置換えが頻繁になったこ
とが窺える。統制強化の対象は武臣だけでなく軍士にも及び『明実録』洪武三年一二月壬申の条に「命大都督府、簡閲京衛
軍士老弱者、以少壮代之。」とあり、四年一月己亥の条に「詔京衛軍士犯罪答四十以上者、発補外衛。」とある。京衛で簡閲
を実施して老弱者と少壮な者を交換し、答四○以上の罪を犯した軍士を外衛に配置換えすることとした。これらは私的紐帯
の強い集団の中に介入し、軍士一人一人を掌握せんとする措置だったとみられる。京衛は親軍衛と共に早くから太祖に従っ
た軍で明軍の中核であり、外衛に発するのが処罰に当ることにも示されるように、給与その他の面で外衛より優遇されてお
り、同時に明朝政府の統制も外衛より強かったとみられ、その為にこのような処置が可能だったのかもしれない。又、後述
(8)
するが、逃亡軍士に対して、洪武元年の段階では大赦の一環として、自首すれば罪は問わず復帰を認める方針をとったが、
三年一二月には天下の諸司に追捕を命じた。以上のように、軍とりわけ武臣に対する急速な統制の強化は、彼らに不安や不
満をもたらしたと考えられるが、それを解消するような措置も並行してとられていた。『明実録』洪武三年一二月甲子の条に
定武臣世襲之制。凡授詰
諮勅世襲武官、身残之後、子孫応継襲職者、所司殿実、佃達子都督府、試其騎射閑習、始許襲職。
若年尚幼、則聞子朝、紀其姓名、給以半俸、俟長価令試芸、然後襲職。
とあり、四年三月丁未の条に
詔凡大小武官亡残、悉令嫡長子孫襲職、有故則次嫡承襲、無次嫡則庶長子孫、無庶長子孫、則弟佳応継者襲其職。如無
継弟
弟径
径、
、而
而有
有妻
妻女
女一
家属、則以本官之俸月給之。其応襲職者、必襲以騎射之芸。如年幼則優以半俸、残於王事者給全俸、
俟長襲職。著為令。
とある。洪武三年一二月、武臣の死後は子孫が世襲すべきこと、襲職には騎射の技術を試すこと、子孫が幼年ならば成長を
待ち、その間半俸を給することを定め、翌年三月には襲職すべき子孫の順位を決めるとともに、親が王事に残した場合には
一一一一一一
子孫が幼少であっても全俸を給するとの項目を加えた。これらの規定は明一代を通じて実施される武臣の世襲と優養制の起
軍拡から粛軍へ(奥山)
発煙痘之地充軍。
便聴従
従者
者、
、杖
杖一
二百発海南充軍。…其四、凡内外各衛官軍、非当出征之時、不得諏於公侯門首、侍立聴候。違者杖一百、
不在此
此限
限。
。其
其二
二、、凡公侯等官、非奉特吉、不得私役官軍。違者、初犯再犯、免罪附過、三犯准免死一次。其官軍敢有軸
服・銭
銭物
物。
。受
受者
者基
杖一百、発海南充軍、再犯処死。公侯与者、初犯再犯、免罪附過、三犯免死一次。奉命征討、与者受者、
作鉄傍申誠公侯具詞日、…其目有九。其一、凡内外各指揮・千戸・百戸・鎮撫井総旗・小旗等、不得私受公侯金帛・衣
年六月乙己の条に
な軍隊に組みかえようとする場合、最も必要なのは各集団内の私的な人間関係を分断することであろう。『明実録』洪武五
とあり、明一代を通じて存続する衛所の命系系統が改めて定められた。しかし、私的集団の集合体である明軍を、官僚制的
則同。遇有事征調、則分統於諸将、無事則散還各衛。管軍官員、不許檀自調用、操練撫綏、務在得宜。違者倶論如律。
総旗領小旗五、小旗領軍十、皆有実数。至是、重定其制、大率以五千六百人為一術、而千・百戸・総・小旗、所領之数
申定兵衛之政。先是、上以前代兵多虚数、乃監其失、設置内外衛所。凡一衛統十千戸、一千戸統十百戸、百戸領総旗二、
統制の強化と同時に種々の制度も次第に整備された。『明実録』洪武七年八月丁酉の条には
H私的関係の解消
二、諸制度の整備
に、矢継ぎ早に実施されたわけで、軍に対する統制が急速に強化されつつあったことが看取できる。
に、統制強化の代償という意味もあったのではないか。以上のような措置が、洪武三年二月の北伐軍の帰還後数ヶ月の間
点となったものだが、世襲を承認することによって、武臣の地位と家族の生活を保障したわけで、制度の整備であると同時
三
四
とあり、勲臣やその家人・奴僕が人民を圧迫することに対して九項目の訓戒を加えたが、その第一項では、指揮以下の武臣
が、勲臣から私的に金帛・衣服・銭物を贈与されることを禁じ、第二項では、勲臣が武臣や軍士を私役することを禁じ、第
四項では、武臣や軍士が、勲臣の屋敷の門で侍立する等の奉仕をすることを禁じた。違反者に対する罰則は非常に厳しく、
第一項では贈与を受けた武臣は、杖一百のうえ海南に調戌し、再犯者は死刑とする。贈った勲臣も二回までは罪を記録する
のみだが、三回目には免死の特権一回に該当させるという。第二・四項でも、勲臣の要請に応じた武臣・軍士は杖一百のう
え鏑戌である。この規定は、勲臣とその配下に代表されるような、軍内部の私的な人間関係を分断しようとするものである。
注目されるのは「命を奉じて征討すれば、与へる者も受くる者も、此の限りに在らず。」とあり、動員された場合にはこの
禁令は適用されないと述べていることである。従来から戦陣では士気を励ましたり、咄嵯に功を賞する為に、上官が配下に
金品を与え、配下は上官の為に公私にわたって奉仕するのは一般的であり、その結果、強い私的な人間関係ができていたと
考えられる。それは勲臣とその配下の場合に限らず、創業期の軍内部に広くみられたものであろう。太祖はそのような私的
紐帯に強い警戒感をもち、厳罰をもって分断しようとしていたことが看取される。私的な贈与は、勲臣や武臣のみでなく、
軍士のレベルでも禁止された。『明実録』洪武六年三月乙卯の条に
広西衛卒王昇、因差遣還折州、受親旧私遺。衛官以衛法併逮其親旧三十四人、送都督府奏罪之。上日、人帰故郷、執無
親故。慰労醜贈、人情之常。命皆釈之。因謂侍臣日、近来、諸司用法、殊覚苛細。如大河衛百戸眺旺、因運糧偶見旧日
憧僕収之。至済寧、民有言是其甥、不見已十年。旺即以億僕還之、因受絹一匹。此皆常情、法司亦以論罪。用法如此、
使人挙動即罹刑網、甚失寛厚之意。
とあり、広西衛の王昇という軍士が公務で山東の折州に帰郷した際、親戚知人からの贈りものを受けたが、衛所官は親戚知
人三四人を捕えて大都督府に送り処罰しようとした。太祖は、誰でも故郷に還れば親戚知人が在り、贈りものをするのは自
五
然な人情だとして彼らを釈放したが「近来、諸司の法を用ふるや、殊だ苛細なるを覚ゆ」と述べて、大河衛百戸挑旺の例を
軍拡から粛軍へ(奥山)
三
ニエハ
挙げた。眺旺は運樋の途中でもとの憧僕に出会ってひきとったが、済寧で一○年も会っていなかったという憧僕のおじに出
会ったので返してやり、礼として絹一匹を受けとった。太祖は、絹の授受は人の情というべきなのに法司は罪を問おうとし
(9)
た、このように人の挙動を窺って法網にかけようとするのは寛厚の意を失するものだと述べた。掠奪の防止という目的も
あったのだろうが、私的贈答の取り締りに極めて神経質な法司の姿勢が窺われる。太祖は行き過ぎを抑制する態度を示して
いるが、法司の対応は太祖の姿勢の反映であり、太祖が軍内部の私的関係の解消の為に、厳罰をもって臨んでいたことが看
取できる。更に『明実録』洪武四年三月乙酉朔の条に
命
中書
書省
省、
、凡
凡所
所鎮
鎮幹撫累戦有功者、不比試即陞千戸。其百戸以久次陞千戸者、比試如例。比試之法、毎二人為偶持鎗角勝
命中
負、勝者始得陞擢。
とあり、累戦して功のある所鎮撫は比試を課さずに千戸に昇任させ、在任期間が長く千戸に昇任すべき百戸には比試を果す
が、その法は二人ずつ勝負を競い勝者を昇任させるという。「累戦有功」の基準が不明だが、従六品の所鎮撫から正五品の
千戸に昇任させるのは、臨時の措置であるにしても非常な優遇である。比試の方法にしても、子孫の承襲の場合には騎射を
三回試みてその成績をみるのが例で、いわば資格試験である。しかし、この場合は二人の勝負で勝者を採る競争試験であり、
半数は千戸になるのだから、昇任促進の為の措置とみることができる。同様の措置はその後も行なわれ『明実録』洪武九年
閏九月戊申の条に
命北平・山西都指揮使司、悉送属衛総旗従軍歳久者、赴京録用。於是、得魯福等一百八十五人、以為金吾等衛所百戸。
鎮撫。
とあり、北平・山西都司管下の衛所の総旗の中から、従軍期間の長い一八五人を在京の親軍衛の百戸・鎮撫に任じた。洪武
四年の記事では昇任後の配置が明らかでないが、九年の例では北平・山西から京師に移したことがわかる。外衛から在京衛
に転ずるのは同じポストでも栄転だが、配下五○人をもつものの「旗軍」と称されるように、いわば下士官に当る総旗から
武臣である百戸・鎮撫として移るのは非常な優遇である。従軍期間の長い総旗に対する優待策のようにみられるが、彼らは
配下を率いて京師に赴任したわけではなく、個人として上京した可能性が高い。従軍期間が長いのは配下との関係が密だっ
たということでもあり、優待策であると同時に巧妙な将兵の切り離し策だったのだろう。統制の強化や私的な贈答を禁止す
る一方で、武臣の人事移動を促進することによって、軍内部の私的関係の解消を図っていったと考えられる。次に武臣と官
僚の関係についてみてみよう。
口武臣の民事不干与
戦闘が相い継ぐ創業期には、占領地の軍事的支配が優先され、軍政と民政は明確に区別されなかった。それは武臣と官僚
(Ⅲ)
の地位にも反映されており、夙に宮崎市定氏は、洪武三年二月の功臣の賞賜で、徐達の歳禄が五○○○石だったのに対し、
劉基が二四○石に過ぎなかったと述べ、武臣の優位を指摘された。それは儀式の席次にも示されており『明実録』洪武三年
七月己亥の条に
礼部尚書崔亮等言、在外文武官、凡遇正旦冬至慶賀行礼、以本処指揮司官為班首。如指揮司止有副使・金事・守禦者、
職皆四品、而按察使・知府皆三品、其秩錐高、而指揮副使・愈事、守鎮一方、合居左、按察使・知府居右、価以武官為
班首。如千戸・守禦、其品秩在知府同知之下、宜以知府同知為班首。如無知府同知、則以千戸為班首。其府通判及知州
与千戸品秩等者、則以千戸居左為班首。従之。
とある。礼部の提案で在外文武官の正旦や冬至等の儀式の際の序列が定められたが、指揮使・按察使・知府は共に正三品だ
が指揮使を主座とし、もし指揮使を欠く場合でも正四品の指揮副使・指揮念事が主座となる。共に五品の千戸・府通判・知
七
州の中では千戸を主座とするという。各官の品階はその後とやや違っているが、この席次は現実の武臣と官僚の勢威を反映
軍拡から粛軍へ(奥山)
三
八
吏動遭答辱、前令不能堪。道同至堅執公法、凡事違理者、一切不従。由是、民頼以安、権要悪之。未幾亮祖至、数以威
河間人、其先縫靱族也。洪武三年、以材幹挙太常賛礼郎、後出知番禺県。番禺素称繁劇、而軍衛尤強横、需求百出、佐
永嘉侯朱亮祖卒。…及天下大定、以功封永嘉侯、命鎮広東、所為多不法。番禺知県道同、上言亮祖数十事皆実。…道同
一三年九月庚寅の条に
がそれを拒否できなかった事情が窺える。武臣と官僚の関係を具体的に示すのが永嘉侯朱亮祖の例である。『明実録』洪武
と述べた。軍政と民政がまだ明確に分れていない段階では、軍務を広く解釈することによって武臣が民政にも干渉し、官僚
されて職務を全うできない場合が多かったと指摘し、武臣におもねらず不当な要求にあっても屈することなく朝廷に訴えよ
とあり、戸部侍郎陳則が大同府同知として赴任するに当り、太祖は、大軍が駐留する北辺では、これまで官僚は武臣に威嚇
而罹刑罪者、比比有之。爾往母踏彼覆轍、当守法奉公、不為阿私。如辺将妄有所求、当告以朝廷、法度沮其非心。
以戸部侍郎陳則、為大同府同知。陛辞、上諭之日、大同居辺塞之間、昔之有司、不能自立、多為守将迫脅、以壊法廃事、
けだが、それは両者の現実の勢威を背景にしていたと考えられる。『明実録』洪武六年七月丁卯の条に
り都督念事と同じ品階だが、坐は門外であった。中央・地方を問わず、品階が同じならば武臣が官僚よりも上座にあったわ
(皿)
正一品の都督、従一品の都督同知、正二品の都督命事は門内であった。これに対し、六部の尚書は洪武一三年に正二品とな
なった。洪武一六年二月には奉天門・華蓋殿における文武官の席次が定められたが、奉天門で坐を賜わる場合、公侯から
(皿)
揮使・布政使は共に正二品だったが、祭杷のときには都指揮使が主座となり、都指揮使が欠けた時は布政使が代って主座と
が行われ、行省が廃止されて洪武九年六月には布政司・按察司・都指揮司の三司の体制が発足した。按察使は正三品、都指
での軍務も掌握し、実際には民政にも関与していたと考えられる。その後、「空印の案」を機に地方行政組織の大幅な改編
が顕著である。指揮使の統轄する衛が戦略的な単位であり、指揮使は軍を統率するだけではなく、補給や土木等の広い意味
したものであろう。武臣を上にする理由として「軍民を統制し、一方を守鎮す」と述べているが、特に指揮使クラスの優位
三
福憾道同、道同不為倶。時有土豪数十人、遇間里珍貨、鞠抑価買之、梢不如意、即謹以妙法、人莫敢誰何。道同廉問得
実、捕其党悉械繋通衞以令衆。諸豪詣亮祖求解、亮祖召道同、労以酒食、徐為言之。道同属色日、公為大臣、不当為小
人所使。亮祖不能屈。次日、亮祖出通術、被械者哀呼求免、亮祖寛釈之。復以他事答道同。又有富民羅氏、納女子亮祖、
其兄弟因枯勢凌人、道同按法治之、亮祖又奪去。道同遂歴数其事而奏之。
とある。番禺県は繁県と称されていたが、その原因は県に対する衛所の様々な要求と干渉であり、応じない県官が武臣に答
打たれることもあり、知県は職務を全うできなかったという。モンゴル人出身の知県道同が赴任すると、不当な要求に従わ
なかったので、武臣との対立が激しくなった。朱亮祖が広東に鎮守すると道同を圧服しようとしたが、道同は従わなかった。
悪事をはたらく土豪数十人があり、道同は捕えて路にさらしたが、仲間の依頼を受けた朱亮祖が釈放を要求し、道同が拒否
すると朱亮祖は勝手にとき放ったうえ、他事にかこつけて道同を答打った。又、女子を差し出して朱亮祖と関係を結んだ富
民の羅氏の一族が、亮祖の威勢をかさにきて不法が多く、道同は捕えて法に当てようとしたが、朱亮祖はこれを奪い去った
という。道同の上奏の結果、朱亮祖は失脚したが、知県自身が答うたれた所に、この頃の武臣と官僚の力関係をみることが
できる。官僚組織と州県制によって秩序を回復してゆこうとすれば、武臣の力を抑え民政に対する干渉を禁止することが必
要である。しかし、この事件の結果をみると、従来から州県に過大な要求をしてきた「軍衛」については、特に何らかの措
置がとられることはなく、道同にも昇進や賞賜はなく、没するまで番禺県知県のままであり、この段階での明朝政府の慎重
な姿勢が窺われる。武臣の民政への干与禁止が打ち出されるのは洪武一○年代後半であった。『明実録』洪武一六年八月丁
亥の条に
会稽県民、有依附紹興衛指揮高謙。謙嘱県典吏満整、免其搭役不従、謙答之。整訴於朝。上日、謙武将、何得与民交通、
焼有司法乎。逮謙与民、至皆伏罪。因命兵部、申戒武臣、自今、有受民嘱託、以病有司者、皆論罪不赦。
とあり、会稽県の民で紹興衛指揮使高謙に依附する者があり、高謙は同県典吏満整にその民の揺役免除を強要したが、満整
軍拡から粛軍へ(奥山)
九
四○
が従わなかったので答うったという。太祖は、高位の武臣たる指揮使が関与したとはいえ、この些細な事件を透さず取上げ、
(凪)
兵部を通じて、武臣が民の依託を受けて有司に干渉することを厳禁した。当時、一人で文武の職を兼ねる場合や、現職や致
仕の武臣が文職のポストにつく例が少なくなかったことも、軍政・民政の分離を難しくしていたと考えられるが『明実録』
洪武二一年八月甲寅の条に
召天下致仕武臣陞任布政司官者還京。
とあり、致仕武臣で布政使司の官職についている者を京師に召還し、ついで『明実録』洪武二二年二月壬戌の条に
禁武臣不得預民事。先是、命軍衛武臣、管領所属軍馬、除軍民詞訟事重者、許約問外、其余不許干預。至是、広西都指
揮歌良造諜模、令有司起発民丁、科敏財物。青州等衛造軍器、亦檀科民財。違越禁例。於是、詔申明其禁。凡在外都司
衛所有
有造
造作
作、
、千
千戸
戸所
所垂移文達衛、衛達都指揮使司、都指揮使司達五軍都督府、奏准方許興造。其合用物科、並自官給、母
檀取於民。違者治罪。
とある。従来から軍馬の草場に関する重要な案件を除いて、衛所の武臣が軍民の詞訟に関与することは禁じられていたよう
だが、洪武二二年に至り、広西都指揮歌良と青州等の衛の事件を機に、武臣が民事に関与するのを改めて全面的に禁止した。
前者は、櫻門建造の為に、武臣が有司に命じて民丁を調発し財物を科数したもので、後者は、武器製造の為に、衛所が州県
を通さずに民財を徴発したものである。以後、衛所で造作の必要があるときには、千戸所、衛、都指揮使司、都督府と順を
おって申請し、帝の裁可を経てから着手しなければならず、必要な資材は全て官給とし、衛所が自ら徴収することを禁じた。
官給とは具体的には州県から供給するわけだが、従来、衛所と州県の職務や権限が重複する部分があったのを、衛所の権限
を軍務に限定し、人民に対する科派は州県に一本化しようとしたとみられる。これ以後、明朝政府は禁令の徹底に努めた。
『明実録』洪武二二年五月乙未の条に
監察御史王英、劾奏遼東都指揮使播舞、道経山東、檀令県官発民夫頭匠逓送、請治其罪。上以武臣初犯、姑宥之。。
とあり、
の条には
遼東都指揮使播舞が遼東に赴く途中、山東で県官に命じて民夫・頭匠を徴発したことが弾劾され、二三年一月丁卯
江西籟州府雲都県知県査允中奏、近山賊夏三等作乱、哀州衛指揮蒋旺等、領軍捕之。旺乃檀発民丁三百人、駆之当賊。
方春
春之
之時
時、
、且
且産廃農業。上日、孔子云以不教民戦、是謂棄之。討賊武夫之事、何預於民。命兵部遣人責旺、亟罷其役、令
有司招降山賊。
とある
る。
。重
衰州
州衛
衛指指
嘩揮使蒋旺が山賊夏三らの討伐の為に民丁三○○人を動員したが、考都県知県査允中は、県を通さず衛所が
檀に動員したこと、農作業を阻害することを指摘して劾奏し、太祖は蒋旺を叱責するとともに、討伐から招降方針に変更さ
せた。官僚側が禁令の遵守に熱心であるのに対し、武臣側が従来のやり方に慣れてやや鈍感だった様子が窺われる。これら
の事例から、武臣の民事不干与の命令が、個人的な便宜を図ろうとする場合は勿論、武器製造や賊の討伐等にまで適用され、
どのような理由があっても、武臣が直接に人民を動員したり物品を徴収したりするのを禁ずるものであったことがわかる。
以上のように、武臣の権限を制限するかたちで実施された軍政と民政の分離は、洪武一○年代の後半に始まり、二○年代の
始めに明確になったとみることができよう。
日武器の官給
私的集団の集合体だった創業期の明軍を官僚的な軍に組み換えていこうとするとき、武器・軍装の統一や政府による製
(M)
造・支給も大きなステップとなろう。前述のように、洪武七年八月に衛所の命令系統と兵数が定められたが、更に一三年一
月には、一百戸所ごとに、鎗手四○人・銃手一○人・刀牌手二○人・弓箭手三○人を備えるべきことが命ぜられた。しかし、
一
この段階では、武器は兵士が各自または部隊ごとに調達しなければならず、大きな負担となっていたが、洪武一六年に武器
軍拡から粛軍へ(奥山)
四
を官給とする動きが始まった。『明実録』洪武一六年五月乙巳の条に
二
とあり、民の負担を軽減する為に、各百戸所から四人の軍士を選び、体力がなくて軍務に不適な軍士と共に、武器の工作技
局、毎百戸内選軍丁四人、井正軍之萎弱者、惇分習技芸、限一年有成。絲鉄筋角皮革顔料之属、皆官給之、勿取干民。
令天下軍丁習匠芸。先是、軍衛営作、多出百姓供億・上以為労民、命五軍都督府、遣官至各都指揮使司、令所属衛所置
あろう。禁令布告直後の混乱を窺うことができるが『明実録』洪武二二年三月戊子の条に
祖は張礎の態度を重く賞した。金郷衛は従来通りにやろうとし、張礎は布告されたばかりの禁令を盾に取って拒否したので
とあり、金郷衛が武器製造の為に物品を民から徴収しようとしたが、平陽県知県張礎は衛の指示に従がわず朝廷に訴え、太
朕深嘉歎。県令之職実称焉。特遣使以妙三十錠、肉酒一封、往労以旋爾能、爾領之。
民、失其職者多芙。乃者通政司言、斯江金郷衛、因造軍器、意在擾民。爾温州府平陽県知県張礎、執法不従、即具以聞。
遣行人間救井以上樽楮幣、賜温州府平陽県知県張礎。救日、…爾年有司任非其人、往々与軍衛交通、課求峻剥、重苦吾
の『明実録』洪武二二年二月癸亥の条にも
年二月に青州等の術の事例が契機となって、軍衛の民事干与が禁止されたことは前述のとおりである。禁令が出された直後
衛所で製造された。その材料や費用は、従来は衛所が州県とは無関係に人民に科派することが珍しくなかったが、洪武二二
工部の軍器局で弓箭・刀鎗・盛甲が、鞍轡局で馬具が造られていたが、全国の衛所の必要量には到底及ばず、基本的には各
(焔)
の武器を点検して破損しているものを交換させた。前年の記事からみて、新しい武器は官給としたのであろう。中央政府の
給とせよと命じた。更に翌一七年一月癸丑の条に「命兵部稽天下衛所軍器之数、其年久損壊者易之。」とあり、全国の衛所
とあり、太祖は、外衛の軍士が困窮しており、武器を自ら備えることは困難であると述べ、以後武器が破損した場合には官
以重苦之、其何以堪。爾兵部傍諭之、自今、士卒軍装器械有弊者、官為給造、若侵擾者罪之。
上諭兵部臣日、令在外衛所軍士、月給狼一石、恐不足以贈其妻子。而指揮・千・百戸、多不能柑循。又令其自備兵器、
四
術を学ばせ製造に当らせることとした。修得期間は一年とし、必要な材料は民から徴収せず全て官給とするという。一術当
り専従者二○○人と「萎弱」な軍士が武器の製造に従事することになる。実際に工作できるだけの高度の技術が一年間で修
得し得るか疑問だが、少なくとも制度上は武器の統一と官給の態勢がとられたといえる。官給とともに武器の管理も強化さ
れた。各種の武器は通常は衛所に保管され、動員時に軍士に支給されたが、帰還と同時に返納することが義務ずけられ、返
(肥)
還が一○日遅れれば杖六○とし、更に一○日ごとに罪一等を加えるなどの罰則が定められた。武器の私売についても売者・
買者双方に厳重な罰則が果された。武器とほぼ時期を同じくして軍装も統一されたが、これについて『明実録』洪武二一年
九月戊寅の条に
定中外衛所馬歩軍士服色。惟駕前旗手一衛用黄旗、軍士力士、倶紅胖襖、盛甲之制如旧。其余衛所、悉用紅旗・紅胖襖。
凡胖襖長斉膝窄袖、内実以綿花。旗幟各分記号用青藍、為辺玄黄紫白、間色倶不許用。凡為旗幟衣装、布絹綿花蘇木棗
木之類、皆官給之、凪令軍士自備。
とある。皇帝に雇従する親軍術中の旗手衛のみは黄旗とするが、他の衛は全て紅旗とし、青藍色で部隊名を記し、周囲を
(Ⅳ)
黒・黄・紫・白で縁どる。軍士は全て綿をつめた膝までの長さの紅い胖襖を着用するが、材料は官給とし軍士に負担させて
はならないという。紅旗と紅軍装に統一されたわけである。別稿で述べたが、軍士の戦衣は当初製品を支給したが、洪武四
年に、独身者は従来通り製品とするが、妻帯者には綿布二疋を給して縫製させることとした。更に一二年に至り、支給され
る戦衣のサイズが各軍士の体に合わず、造り直さなければならない場合が多いので、材料を支給して自製させよとの山西布
政使華克勤の提案を機に、材料支給のかたちがとられることになった。二一年の規定でも、軍士は紅棉布と棉花を支給され
て自製したと思われる。軍政と民政が分離されたのと時期をほぼ同じくして、武器・軍装の統一と官給の態勢が整えられた
三
のである。
軍拡から粛軍へ(奥山)
四
四武臣の教育
(肥)
四四
太祖は武臣に対して、盛んに学問を勧めたが、これも統制を強化する為の施策の一環だったと思われる。その契機となっ
たのは、北伐軍の帰還の直前の監察御史哀凱の上言だった。『明実録』洪武三年一○月丙辰朔の条に
監察御史簑凱言、国家盟平四方、固資将帥之力。然今天下已定、将帥多在京師。其精桿雄傑之士、智錐有余、而於君臣
之
礼、
、恐
恐未
未悉
悉究
究。
。臣
臣辱願於都督府、延致通経学古之士、或五人或三人、毎於諸将朔望早朝、後倶赴都堂聴講経史、庶幾忠
之礼
君
国之
之心
心、
、全
全身
身保
保一
家之道、油然日生、而不自知也。天生人材、無非為天下国家計。其筆小無廉恥之人、有犯固不在赦。
君愛
愛国
至
於老
老成
成長
長者
者、
、或
或有有垣過誤、宜加蒋恕、養其廉恥、以收他日之功、則人材輩出笑。上嘉納之、遂勅省台、延膳儒士、於午
至於
門番直、与諸将説書。
とあり、衰凱は、武臣には「君臣の礼」に欠ける所があると述べ、経史に通じた士を招いて、毎月朔・望に武臣達に講学さ
、
せれば、「忠君愛国の心」と「全身保家の道」が自然に養われるだろうと提案した。太祖はこれを嘉納し、儒士を招いて午
、
従道敵
門で武臣に講学させることを命じた。この講学がどの程度実施されたか、必ずしも明らかではないが、野戦攻城に慣れて君
善事提
者君兵
而有禦
臣の礼に習わぬ武臣達に、学問を 勧めることによって、皇帝の権威を高めようとしたとみられ、その後の勧学の動きの出発
、之之
択後間
其
。 、
点となった。翌二月辛丑の条に
、 。
以
持
此成往
為功在
鑑立戦
戒業陣
とあり、太
太祖
祖は
は武
武臣
臣ら
らに
に対
対し
し一て 、戦陣に在っては勇戦敢闘が何より重視されるが、平和になった現在は儒者に親しみ自家の
之、則可与古之賢将並芙。
持身有礼。謙恭不伐、能恒
以上
身勇朝
有敢罷
礼為退
・先
、
謙
、坐
恭以東
不戦閣
伐闘召
、為諸
能能武
保
、臣
全以問
其必之
功勝日
名為
、
者功爾
何
。等
人今退
。居朝
驍間之
揺無暇
著事
、
侈
、所
、勇務
暴力者
横無何
不所事
法施
、
、 。所
不当接
能与者
保諸何
全生人
始
、 、
終講亦
者求嘗
何古親
人之近
。名儒
常将乎
保全を心掛けることが必要だと述べた。戦時と平時では要求されるものが異なることを指摘し、武臣のあり方を平時に移行
させようとしていた。続いて翌一二月己未の条に
上謂諸武臣日、治定功 成、頒爵受禄、爾等享有富貴。正当与賢人君子講学、以明道理、以広見聞、通達古今之務、以成
遠大之器。豈可苛且自足、止於武夫而己。夫位隆而不知学、徒長騒傲之心。生今而不知古、豈識成敗之跡。古之良将、
皆文武相
相資
資。
。…
…爾
爾等
等勉
勉識之。
とあり、同月甲子の条には
上退朝、従容与諸将論、起兵以来征伐之事。謂中山侯湯和等日、朕頼諸将佐成大業。今四方悉定、征伐休息。卿等皆爵
為公侯、安享富貴。当保此禄位、伝之子孫、与国同久。然須安分守法、存心謹畏、則自無過挙。朝廷賞罰、一以至公、
朕不得而私也。…帝室親姻、有罪猶不可免、況其他乎。卿等能謹其所守、則終身無過失笑。
とある。太祖は、明朝創建に至るまでの武臣達の功を充分に認めるとともに、その功に対しては既に報いたのだから、今後
は得た地位を失わずに子孫に伝えられるように、身を謹しむことを要求し、非違があれば決して容赦しないと述べた。当初
の衰凱の提案では、講学の目的は、武臣達に「君臣の礼」「忠君愛国の心」を酒養させるとともに、「全身保家の道」を図ら
せることであったが、太祖は前者は必ずしも前面に出さず、武臣に対して半ば威嚇しつつ、自家保全の道としての講学を強
調した。
このような太祖の勧学の背景には、皇帝の権威を高めようとする狙いとともに、次のような風潮があったとみられる。
『明実録』洪武三年一二月己巳の条に
上頗聞公侯中有好神儒者、悉召至諭之日、神倦之術、以長生為説、而又謬為不死之薬以欺之。故前代帝王及大臣多好之、
然卒無験、且有服薬以喪其身者。蓋由富貴之極、惟恐一旦身没、不能久享其楽、是以一心好之。假使其術信、然可以長
四五
生、何故四海之内、千百年間、曽無一人得其術、而久往於世者。若謂神擢混物、非凡人所能識、此乃欺世之言、切不可
軍拡から粛軍へ(奥山)
』
O
人
四六
能懲念窒慾、養以中和、自可延年。有善足称名垂不朽、錐死猶生。何必枯坐服薬、以求不死。況万無此理、当痛
C
之
之費、不知其幾。以有限之資、供無厭之費、歳月滋久、豈得不乏。…自今、宜量入為出、裁省妄費、寧使有余、母令不
時将士居京衛、間暇、有以醐飲費財者。上聞召諭之日、勤倹為治身之本、著侈為喪家之源。近聞、爾等耽嗜於酒、一酔
ような風潮が、講学を勧める一つの要因になったのであろう。更に『明実録』洪武四年二月庚申の条に
とできれば、例え死んでも生きているようなものではないかと説いた。太祖の合理的な側面を示しているが、武臣達のこの
死を実現した者は古来一人もないと述べ、念りや欲を抑えて中和を心掛ければ寿命は自然にのびようし、不朽の名を残すこ
とあり、勲臣等の上級武臣の間に、不老長生を求めて神仙術が流行していた。太祖は不死の仙薬などは世を欺くもので、不
絶信
足
洪武一○年代に入ると、武臣に対する講学が制度化されていった。『明実録』洪武一○年六月甲戌の条に
祖が、軍紀を引き締め、皇帝の権威を高める為に、講学の必要を強調した側面もあったと思われる。
武三年二月の北伐軍帰還と論功行賞の後、将兵の間に士気の弛緩と享楽的な風潮が禰漫しており、この状況を危倶した太
志らは、終日甜飲して軍議にも出ず、藍玉は酩酊して倖慢甚しく、太祖が使者を派遣して叱責しなければならなかった。洪
とあり、北元に備える為に北平に在った徐達・李文忠摩下の諸将が飲酒に耽り、軍務にさしつかえるほどだった。顧時・王
俊、当別遣将代還。都督藍玉昏甜、惇慢尤甚。苛不自省、将縄之以法。大将軍宜詳察之。
何頼焉。如済寧侯顧時・六安侯王志、酎飲終日、不出会議軍事、此豈為将之道。朕今奪其俸禄、翼其立功掩過。如猶不
遣使閥教諭大将軍徐達・副将軍李文忠等日、将軍総兵塞上、偏稗将校、日務群飲、虜之情偽、未嘗知之。縦欲如此、朕
ればならなかった。このような状況は京衛だけではなく、数年後の記事だが、『明実録』洪武八年一月庚辰の条に
とあり、京衛の将士が動員のないままに、費用を顧みずに飲酒に耽り、その散財ぶりを懸念した太祖が自ら訓戒を加えなけ
◎
路州長子県税課局大使康有孚、上言三事、…其三日、文武並用、長久之道。今之武官所患、不知古今。宜干儒官中、選
年富力強
強、
、通
通今
今博
博古
古之
之士
士、
、毎衛用二人、授以参佐之職、使之賛画軍事、間暇講明兵法、諭説経史、久而純熟文武之材、
彬彬出芙。疏奏上嘉納之。
とあり、各衛に儒官二人を配置し、武臣の補佐として軍務にも参画させつつ兵法や経史を講じさせようという提案があり、
太祖はこれを嘉納した。県の税課局大使という卑官の上奏にもかかわらず、透かさず嘉納した所に、太祖の姿勢を窺うこと
ができる。この提案が実施されたか否か、必ずしも明らかではないが、後の衛学の設置につながる動きだったとみられる。
更に約二ヶ月後の八月癸丑の条に
命大都督府官、選武臣子弟、入国子学読書。上諭之日、武臣従朕定天下、以功世禄。其子弟長富貴、又以父兄早残、鮮
知問学。宜令読書、知古今識道理。俟有成立、然後命官、庶幾得其実用也。…今武臣子弟、但知習武事、特患在不知学
耳。
とあ
と
あり
り、、大都督府に対し、武臣の子弟を国子学に入れて読書させよと命じた。ここで武臣とあるのは勲臣を中心とした在京
の高位の軍職者で、各衛の衛所官までは含まないとみられるが、太祖は、父兄の功によって富貴の中で成長した武臣の子弟
には、学問のない者が多く、古今の道理を学んで始めて任用できるだろうと述べた。つまり、不肖の子弟によって、武臣の
家が断絶することを防ぐには、講学が大切だということであり、「武臣の子弟を選んで」とあるから、子弟全員ではなく、
訓育すべき父兄が既に残した者を対象にしたとみられる。従来のように、武臣本人だけではなく、二代目武臣となるべき子
弟に始めて言及されたことが注目されるが、次第に世代交代が進み、種々の新たな問題を生じていたことが窺える。『明実
録』洪武一四年一月癸丑の条には
上諭公侯及諸武臣日、吾観自古将臣皆被堅執鋭、備歴労苦、以有爵位、子孫世襲。其後或霜惇侍功、不循礼法、致先人
四七
勤苦之業、一旦傾敗。由其不知読書故也。卿等皆有功干国家、身致爵位、子孫世襲、夫生長膏梁、不知礼教、習干騎惰、
軍拡から粛軍へ(奥山)
四八
鮮有不敗。当念得之甚難、而失之甚易也。宜令子弟入太学、親明師賢士、講求忠君親上之道、監古人成敗之跡、庶幾永
保爵禄、与国同久。干是、諸公侯武臣、皆遣子弟入国子学受業。
とある。太祖は、古来、戦陣の労苦を重ねた初代と異なり、父兄の地位を世襲する子弟は、驍惰で礼法を知らず、家を傾け
る場合が多いが、明軍でも同様で、二代目は膏梁執袴の子弟であり、爵禄を保つ為には、国子学で「忠君親上の道」を学ば
せることが必要だと述べた。洪武一○年の命と比べると、父兄を亡くした者だけでなく、全ての武臣の子弟を対象にしてお
り、自家保全の為の講学という点を強調しているのは同じだが、より威嚇的で、勲臣等の高位の武臣は、みな子弟を国子学
に入れることになった。その結果はどうだったのか。『明実録』洪武一四年二月甲辰の条に
上詔吏部・兵部臣諭之日、三代学者、無所不習、故其成才、文武兼備。後世九流判立、士習始分。服逢披者、或不閑干
武署、被甲胃者、或不通干経術。兼之者其惟達材乎。…今武臣子弟、朕嘗命之講学、其間、豈無聡明賢智、有志子学者。
若築視為武人不用、則失之芙。卿等其審択用之。
とあり、太祖は、文武兼備を理想とし、国子学に送り込んだ武臣の子弟の中にも、学問を好む者があるはずで、そのような
者を見出して、武職以外にも任用するよう命じ、期待を示した。しかし、一六年一月丁巳の条に
免国子監祭酒呉頚還郷。時武臣子弟有怠干学者。顕以寛縦不能縄検、故免之。頚河南人、容貌魁偉。十四年、祭酒李敬、
坐事得罪。頚以儒士挙至京、特命為祭酒、至是免。後以疾終於家。
とあり、国子学における武臣の子弟の態度は、太祖の期待と異なり、安逸に慣れて学問に努めず、充分に監督できなかった
(旧)
祭酒呉顛が罷免される有様だった。武臣の子弟の多くが、父兄の勢威を嵩にきて、怠惰で偲傲だったことがわかる。呉顛の
後任として、文淵閣大学士宋調が祭酒に任ぜられたが、更に同月壬申の条に
命曹国公李文忠、兼領国子監事。諭之日、国学為育人才之地。公侯之子弟威在焉。錐講授有師、然貴瀞子弟、非得威望
重臣以蔽之、則恐怠於務学。故特命卿兼蔽其事。必時加勧励、傅有成就。
(別)
とあり、武臣の子弟を監督させる為に、曹国公李文忠を領国子監事に当てなければならなかった。李文忠はこの年の一二月
に病を得て、翌一七年三月に残したので、在任期間は長くなかったと思われるが、李文忠の就任は、戦陣での権威を講学の
(別)
場に持ち込んだわけであり、礼教を学ぶことによって身を慎しませるという、太祖の意図とは相反することになる。しかし、
文武兼備の人材を養成しようとする太祖の姿勢は強固で、高位の在京武臣の子弟の国子監での修学は、その後も続けられた
ばかりでなく、衛所官レベルの武臣の子弟まで拡大されることになった。まず都司の儒学が、洪武一七年の遼東を皮切りに
してに置かれ、ついで『明実録』洪武二三年八月己丑の条に「置北平行都司儒学、設教授一人.訓導二人、教武臣子弟。」
(理)
とあり、行都司の儒学が始めて北平におかれた。衛の儒学は洪武一七年に眠州衛に置かれたのが最初で、二三年には大寧等
にも設置された。大寧等の衛の儒学については『明実録』洪武二三年九月丁酉の条に
置大寧等衛儒学、教武官子弟。設教授一員・訓導二員。価遷識達達字者、教習達達書。並賜冬衣・錦衾・皮襄遣之。
(羽)
とあり、
、地
地域
域的
的特
特性
性の
の為
為か
か、
、蒙蒙十古文の教育も行われたようである。一方、在京の親軍衛・京衛には、国子監生が派遣されて
『大詰武臣』の講説が行われた。
以上のように、洪武三年から強調され始めた武臣に対する講学は、洪武二○年前後に制度化されていった。北伐軍の帰還
を機に、軍に対する統制が急速に進み、軍内部の私的関係の解消が図られ、一○年代に入ると、軍政と民政の分離、武器や
軍装の統一と官給が進められ、二○年前後に一応の体制ができあがった。武臣に対する講学も、このような施策の一環だっ
四九
たと考えられる。この間、諸制度の整備と表裏をなすかたちで、クローズ・アップされてきたのが武臣の子弟に関する問題
である。
軍拡から粛軍へ(奥山)
三世代交代と将兵の乖離
H二代目武臣
五○
大小の軍事集団の集合体だった明軍を、官僚的な軍に組み直す為に、様々な施策がとられてきたことは前述の通りである
が、軍内部の私的な関係を解消することも、その重要な一環だった。しかし、世代交代が進行した結果、それがいきすぎて、
軍士に対する武臣の搾取や虐待をもたらすことになった。この問題が顕在化したのが洪武二○年前後だったとみられる。将
兵の相互不信を放置すれば、命令系統に対する信頼を失い、戦闘力は低下し、軍の根幹にかかわる士気の崩壊をまねく危険
がある。このような事態に明朝政府はどのように対処しようとしたのか。『明実録』洪武二○年一二月是月の条に
大詰武臣。上以中外武臣、多出自戎伍、岡知憲典、故所為往往麗法、乃親製大詰三十二篇以訓之、停知守紀律撫軍士、
立勲業保爵位。頒之中外、永為遵守。
とあり、太祖は、自ら大詰武臣をつくって頒賜したが、その目的は、武臣に規律を遵守させ、配下の軍士を撫仙させること
であった。『明実録』洪武一二年六月是月の条には、前掲の部分につづいて
上聞世襲武臣有苛刻不仙軍士者、特教諭之日、爾今居位食禄者、豈爾之能哉。皆由爾祖父、能撫仙軍士、流慶於爾也。
…今爾等承襲祖父之職、岡思富貴由士卒而来、或苦虐之、使強者致訟、弱者懐怨。衆心不輔、遇攻戦則先退、遇患難則
棄走。上以敗国事、下以喪身家。此何異農夫種田、抜其嘉苗、致磯以死也。夫為人之長、而虐其下不仁、敗国之事不忠、
亡先人之業不孝、爾等何不思之。其賢父母兄弟妻子、及郷党朋友知事者、亦各以朕言、互相勧戒、守法度伽軍士、則永
享太平安楽之福美。
とある。太祖は、軍士を虐待する二代目の武臣に対し、現在の汝らの地位は、決して自身の能力によるのではなく、父祖が
配下の軍士を撫仙しつったてた功業によって与えられたものだと述べ、軍士を虐待するのは、自ら存立の基礎を失う不仁・
不忠・不孝であると叱責した。二代目の武臣は戦陣の経験もなく、富貴に慣れて嬬慢であり、父祖のような軍士との強い紐
帯もなかった。その結果、軍士は私役や搾取の対象でしかなく、軍士もまた武臣を怨み、或いは上訴して抵抗するなど、将
兵の相互信頼感が、世代交代の進行とともに、急速に失われつつあったことが看取される。太祖は、二代目武臣を訓戒する
と同時に、『明実録』洪武二一年六月是月の条に
頒賜軍士護身教。上念軍士銀苦、為将領者、不知愛仙、多致怨杏、乃述始終之際、銀難之故、与夫撫綏愛養之道、通上
下之志、達彼此之情、直説其辞、為護身之救、須示軍士、永為遵守。於是、軍士莫不感悦。
とあり、軍士を武臣の虐待から保護する為の軍士護身勅を頒賜した。ついで『明実録』洪武二一年七月丙戌の条に
頒賜天下武臣大詰、令其子弟調習。上謂兵部左侍郎沈潜等日、璽因武臣有違法属軍者、朕嘗著大譜、昭示訓戒、格其非
心、開其善道。今思其子孫世襲其職、若不知教、他日承襲、撫駅軍士、或踏覆轍、必至害軍。不治則法不行、治之又非
保全功臣之意。蓋導人以善行、如示之以大路、訓人以善言、如済人以舟揖。爾兵部其申諭之、偉威謂習遵守母怠。
とある。太祖は、武臣の子弟が、承襲後に軍士を虐待することを懸念し、前年に頒賜した大詰武臣を子弟に調習させるよう
命じた。現職の武臣だけでなく、対象をまだ承襲していない子弟にも拡大したわけであり、二代目武臣による弊害が深刻
だったことが窺える。翌八月是月の条に
御製諭武臣教。一日、守辺之将、撫軍以恩。二日、辺境城隆、務宜高深。三日、修築城池、葺理以漸。四日、操練軍士、
習於間暇。五日、軍士頓舎、勤於点視。六日、体念軍士、母得加害。七日、事機之会、同僚尽心。八日、沿海衛所、厳
於保障。凡八条須之将士、永為遵守。
とあり、八ケ条の諭武臣勅を頒賜して、武臣の任務や心構えを示したが、第一・六条が将兵の関係に関するものであり、軍
五
士を撫伽すべきことを命じた。更に『明実録』洪武一二年一○月乙丑の条には
軍拡から粛軍へ(奥山)
一
二
頒武士訓戒録。時上以将臣於古者善悪成敗之事、少所通暁、特命儒臣編集甲鳴・組麗・奨噌・金日磁・張飛・鐘会・尉
五
遅敬徳・騨仁貴・王君廓・僕固・懐恩・劉關・王彦章等、所為善悪為一編、釈以直辞。偉蔽武職者、日親講説、使知勧
戒
わる者は処罰し、承襲の比試に合格しない場合は、本人のみならず、その父も俸給は与えずに辺境の守備に当らせよと命じ
れ、逮捕される事件があった。太祖は、武臣の子弟で飲酒・賭博・歌舞音曲に耽って、武芸をなおざりにしたり、商買に携
とあり、親軍衛の一つである府軍左衛の千戸虞譲の子端が、武芸を習わず歌舞音曲に耽っていることを配下の軍士に告発さ
詞曲、不事武芸、或為市易、与民争利者、皆坐以罪。其襲職依前、比試不中者、与其父並発辺境守禦、不与俸。
府軍左衛軍士告、千戸虞讓子端、不習武事、惟日以歌曲飲酒為務。上怒命逮治之。因詔凡武臣子弟、嗜酒博突、及歌唱
それでは訓戒を繰り返した後の二代目武臣の状況はどうだったのか。『明実録』洪武二三年二月庚申の条に
が急速に調漫し、何とかこれに歯止めをかけようとする為の措置だったと考えられる。
二代目武臣を対象にしたものが多い。世代交代が進むにつれて、武臣のあいだには軍士を搾取の対象としてしかみない風潮
背景には、将兵の乖離の進行があったと考えられる。訓戒はいずれも軍士に対する武臣の搾取や虐待を禁ずる内容で、特に
した。以上のように、洪武二○~一二年の間に、前後の時期にみられないほど、頻繁に様々な訓戒や禁令が出された。この
二人の都指揮の事件を機に、武臣保身勅を頒賜し、武臣が「科数」や「賄賂」によって世襲すべき地位を失わないよう訓戒
に編集させたのだから、善悪の基準は礼教であり、これを保身の為の指針にさせようとしたのであろう。又、歌良・戴宗の
とある。儒臣に古今の武将の行動や善悪を簡便にまとめさせ、武士訓戒録として頒賜し、武臣に読ませることとした。儒臣
因述武臣受命守禦之方、崇名爵享富貴、福及子孫之道、為保身教、頒諸武臣、使朝夕覧観、知所鑿戒。
頒賜武臣保身教。時広西都指揮歌良、以科散激変良民。江西都指揮戴宗、以収捕山賊、貧賄賂致賊人縦逸、皆坐罪。上
とあり、翌二月是月の条に
◎
た。同月丙午の条には
以私
私市市
定遼衛指揮李哲、以
一官 馬、当杖調戌辺。兵部尚書沈潜以聞。上日、哲本不才、但念其父累歳守辺、多著労績。今以
馬還官免其罪、領職如故。
エ手に官馬を売り払ったのに対し、兵部は杖刑の上で諭戌すべしとの判断を示したが、太祖は父
とあり、
、定
定遼
遼衛
衛指
指揮
揮李
李哲
哲が
が勝勝
の功を考慮し、馬を償還させるだけにとどめた。前者の事例は、千戸の子が軍士を虐待したとか私役したということではな
く、その日常の生活ぶりを告発されたのであり、武臣や子弟に対する取締りと監視が強化されたといえる。しかし、後者の
例にみられるように、二代目武臣に非違があっても、父祖の功業があるので処断しにくいという面もあり、度重なる訓戒や
ママ
禁令が必ずしも徹底できなかったことが窺える。二代目武臣は肝心の軍事的能力の面でも無能な者が多かった。『明実録』
洪武二四年一○月丙寅の条に
湖広宝慶衛百戸舎人俔基言四事。一、任用武臣、…近見干握兵大鎮者、大鎮者、少年新進之子、多有未閑将略。且三品
以下五品以上之職、筍非雄傑駅衆之材、不足以当其任。伏望特詔所司、論材薦挙。其間、豈無忠烈智勇之士。殿実録用、
必能桿衛国家、翔扶社程。…上嘉之、命基参賛清平衛軍事。
とあり、宝慶衛百戸の舎人俔基は、武臣の功に報いる為に地位を世襲にした結果、若年で無能な者が重要なポストにつく場
合が多いと述べ、有能な人物を薦挙して任用するよう提案した。太祖は提案を嘉し、悦基を清平衛の参賛軍事に任じた。悦
基に対する態度から、太祖も二代目武臣或いは世襲にもとずく弊害は充分認識していたとみられるが、提案は採用しなかっ
た。俔基のいう三品・五品は各衛の指揮使と千戸で、その人数や地位からして世襲制の中核であり、提案を実施しようとす
れば事実上世襲制を否定することになる。前述のように、武臣の権限を制限し統制を強化する中で、代償として地位の世襲
を認めた面があり、武臣全体の反応を考えれば到底改めることはできなかったのであろう。
以上のように、世代交代の進行とともに、武臣と軍士の紐帯が急速に弱まり、軍士に対する武臣の搾取・虐待が甚しく
軍拡から粛軍へ(奥山)
五
五四
なった。その弊害は、特に二代目武臣において深刻だったとみられ、明朝政府は、洪武二○年前後に度々訓戒や禁令を発し
たが、改めるには至らなかったようである。将兵の乖離が進む中で、軍士は武臣の圧迫にどのように対応したのか。まず武
臣の不正のありさまをみてみよう。
口武臣の不正
(別)
『大譜武臣』三二篇には武臣の不正の事例が多く記されているが「歌良騨貧害民第三」をとりあげたい。というのは歌良
の事件はかなり影響が大きかったと考えられるからである。歌良は靖江王府の謹衛の指揮使だったことが確認できるが、
『明実録』洪武二○年六月甲申の条に
降広西都
都指
指揮
揮使
使歌
歌良
良、
、為
為馴
馴垂象衛指揮余事。初良在任多不法、軍士藤原桂訴之。既而鎮撫張原、復言其不法二十余事。上
命錦衣衛廉問得実、故瞳之。
(弱)
とあり、『大詰武臣』が成る約六ヶ月前には、正二品の広西都指揮という高位にあった。この記事のほかに、前述のように、
洪武二一年二月の武臣保身勅の頒賜や、二二年二月の武臣の民事関与の禁令の理由にもなった。歌良は広西都指揮使に就
任すると、布政使や州県官と交結して、科数をほしいままにしたが、軍士藤原桂が欣良の不法を訴え、ついで鎮撫張原が不
法二○余事を告発したので、錦衣衛に調べさせたところ事実であることがわかり、馴象衛指揮愈事に降格した。発端が軍士
の告発だったことが注目されるが、歌良の不法の内容は「歌良騨貧害民第三」に一七ケ条列挙されている。鎮撫が告発した
二○余事より少ないが、錦衣衛の調査で確認できたのが一七ケ条だったのだろう。やや長いがこれを示すと次の通りである。
③一、編要黄知府銀六百両・金一百両入己。⑤一、尅落軍人月塩妙三千三百八十一貫入己。◎一、為起蓋誌楼、科妙
一万三千貫・銀一千八百両入己。⑥一、強将民人杜道蔭秋糧米三百五十石、搬運回家。⑨一、拘収指揮韓観出征所得水
黄牛六百五十四頭・馬七匹入己。①一、挟鐵妄奏充軍官吏不肯出征、将吏人三十八名廃了。⑧一、挟儲妄奏李巡検推潤
不肯出征、張司吏交結官府、致将李巡検割断腿筋、張司吏果令了当。⑪一、強要韓鎮撫姐姐為妾。①一、私役軍丁、栽
種首稽、畷養自己馬疋。①一、教唆軍人、告南寧衛王指揮、索要本官玉条環等物入己。⑭一、脱放犯好百戸邪文、受要
本人黄桴牛一隻。①一、売放倫官塩所吏劉彦章。⑩一、挟鐵将赦免宰殺牛隻民人一十八名、復掌監問。⑪一、将追到犯
人余仲玉銀六十両・妙四十九貫・銅銭三万六千文入己。◎一、喚軍婦呉四姐在家好宿。⑨一、挟醗将言李指揮不公事人
姜子華杖八十。⑨一、強要軍人鉄脱思女。(③~⑨は筆者)
とある。同種の内容のものが順不同に排列されているが、あるいは事件の起った順序に記されているのかもしれない。③。
◎・①は、金銀や家畜の編取あるいは強奪で、被害者は知府と歌良の配下の二人の指揮使である。⑥。。・⑥。@は横領で、
軍士の月塩妙、高楼の屋根を葺く為の銀・妙、秋糧米、没収して納官すべき罪人の銀・紗・銭を取り込んだ。①。⑧。@・
⑨は、故意に人を陥れたもので、被害者は骨吏・巡検使・民人・指揮使であった。⑪。◎・@は姦淫で、被害者は鎮撫の姉、
軍士の寡婦と娘である。①は軍士の私役であり、⑭・①は賄賂をとって罪を犯した百戸や青吏を逃がしたものである。この
頃は武臣の民事関与が厳禁される前で、府州県の有司に武臣が強い影響力をもち、民政にも干渉していたことが窺えるが、
五五
多く、洪武二二・二四年には、外衛・王府護衛・在京衛の軍士の犯罪に対する処罰の基準が定められた。それなりにしたた
たことがわかる。しかし、軍士が一方的な被抑圧者というわけではなく、軍中の悪少と称される者が悪事をはたらくことも
者があり、歌良の不法を告発したのが軍士・鎮撫だったのをみても、武臣と軍士或いは武臣相互の信頼関係が薄れつつあっ
被害は配下の軍に多く、対象は軍士から指揮使に及ぶ。①にみられるように、軍士にも歌良の手先になって上官を証告した
(妬)(”)
かな軍士たちは武臣の圧迫に対してどのように抵抗したのか。
軍拡から粛軍へ(奥山)
国軍士の抵抗
五六
前掲の『明実録』洪武二一年六月是月の条によれば、太祖は、二代目武臣には苛刻で配下の軍士を伽まない者が多いとし
て、訓戒を加えたが、その中で、軍士の「強き者をして訟に致らしめ、弱き者をして怨を懐かしむ」と述べた。武臣が配下
(羽)
の軍士を搾取するのは、程度の差こそあれ、いつもみられる弊害だが、軍士が上官を告発する例は、洪武朝の後半に特に多
いように思われる。それは将兵が親密だった創業期の記憶が鮮明な一方で、明朝政府の政策と世代交代によって、急速に将
兵の乖離が進んだ結果ではないかと考えられる。軍士が訴える場合、受理すべき機関は前述の中央・地方の断事司であった。
外衛の軍士が訴えようとすればへまず各都司の断事司に訴え、問題によっては更に上部の五軍断事司の審議にまわったとみ
られ、京衛の軍士ならば直接五軍断事司に訴えたと考えられる。しかし、軍士が上官を告発しようとすればことは微妙であ
る。もし都司そのものが関係した事件であれば、都司の断事司に訴えても公正な処理は期待できない。結局、軍士は直接上
京して訴える場合が少なくなかったと考えられる。例えば『明実録』洪武一五年二月丁己の条に
上諭五軍都督府臣日、近福建行都司、及建寧左衛守禦官、不奉朝命、諏役軍士伐木、修建城楼、因而私営居室、極其侈
騨。軍士富者、責其納銭免役、貧者重役不休。今軍士念抑来訴、已令法司逮問。五軍都督府、宜傍諭天下都司、自今、
非奉命不得檀興営造、私役軍士。違者或事覚或廉得其状、必罪之削其職。
とあり、福建行都司と管下の建寧左衛の武臣が、城楼の修築の為と称して、朝命によらずに軍士を動員し武臣の私的な住居
を造営させた。裕福な軍士は納銭して役を免れたが、貧しい軍士は休む間もなく役使されたという。盆った軍士が事情を訴
え、太祖は武臣を逮捕させるとともに、朝命によらない造営と軍士の私役を禁ずる旨を全国の都司に傍示させた。洪武朝で
既に軍士に貧富の差があったというのは興味深いが、この軍士は福建行都司の断事司に訴えても効果がないとみて、直接上
京して告発したのであろう。当然このような行為は武臣からみれば警戒すべきことである。『明実録』洪武一五年一二月庚
子の条に
有軍士赴京建言、在道為人所殺。事聞、命自今凡軍士建言、許所司以其言、用印実封、入逓奏聞、其人不必赴京。
とあり、京師に赴く軍士が、途中で何者かに殺害される事件があった。太祖は、以後所司が「用印実封」して京師に逓送し、
軍士本人が上京しなくともよいようにせよと命じた。「建言」の語からみて、必ずしも上官の告発ではなかったかもしれな
いが、途中で殺害されたのは偶然ではなく、この軍士の上京を嫌う者があった可能性がある。「実封」の規定が定められた
のは、当時軍士の上京直訴が多く、それが危険を伴っていたことを示している。「必ずしも京に赴かしめず」とあるので、
本人の上京が全面的に禁止されたわけではなさそうであるが、このころ軍士だけでなく武臣も含めて、盛んに上官を告発す
る風潮があったのは確かである。二三年二月にも府軍左衛の軍士が上官である千戸虞譲の子端の生活ぶりを告発した例が
あったことは前述の通りであるが、このほかに『明実録』洪武二○年六月壬午の条に
陞保寧衛鎮撫呂旺為千戸。先是、旺言其部卒征戌労苦、千戸谷興不能郎又害之。詔逮治興。至是、右軍断事官、論興罪
当杖。上命調戌大寧。以旺能知士卒銀苦、於言無隠、特陞之以腔其直。
とあり、四川保寧衛鎮撫の呂旺が、同衛の軍士は征戌に動員されて労苦が甚しいのに、千戸谷興は撫仙せずかえって酷害し
ていると告発した。谷興に対して、右軍都督府断事官は杖罪の判断を示したが、太祖はこれを裁可せず、大寧への諦戌を命
じ、呂旺は千戸に昇進させた。呂旺は衛鎮撫で術中の非違を取り締るべき立場にあり、この件は任務を果したにすぎないの
に特に昇進させ、谷興に対しては、断事司の判断を破棄して重刑に処した。この頃、太祖が武臣に対して頻繁に訓戒を繰り
返していたことはすでに述べたが、この処置からも軍の現状についての太祖の激しい苛立ちをみることができる。当然、軍
士たちはこのような太祖の態度を窺い知っていたと思われる。二二年四月己未の条に
卒有告千戸盗箭者。上日、千戸箭当給、但不当自取、非財物比。宥之而賞其卒。
五七
とあり、上官の千戸が箭を盗んだと訴える軍士があった。太祖は勝手に取ったのは不当だが、財物と同じに扱うわけにはい
軍拡から粛軍へ(奥山)
五八
かないとして宥し、一方で告発した軍士は賞した。この例や前述の府軍左衛の軍士が千戸の息子の生活ぶりを告発した例は、
武臣の虐待や搾取に耐えかねた軍士が、決死の覚悟で訴え出たというようなものではない。武臣に対する厳しい戒諭、軍士
の保護を強く打ち出している太祖の態度を敏感に察知した軍士が、上官たる武臣の言動を監視し、告発する傾向を生じてい
たのではないかと考えられる。
告発と並ぶ軍士の抵抗のもう一つの手段が逃亡であった。軍士の逃亡問題とその対策である勾軍については、先学の研究
もあるので稿を改めて考えたい。本稿では洪武朝の逃亡について簡略に述べることとする。逃亡の規模について『明実録』
洪武三年一二月丙子の条に
大都督府言、自呉元年十月、至洪武三年十一月終う軍士逃亡者、計四万七千九百八十六人。詔天下諸司追捕之。
とあり、大都督府が、北伐軍帰還直後の段階で、呉元年以来の逃亡兵数が五万人近かったと報告しており、その追補が命ぜ
(調)
られた。逃亡は兵力を減少させるだけでなく、治安を乱す要因ともなった。例えば洪武五年、広東の逃亡軍士王福可は、仲
(鋤)
間の亡卒を集めて恵州府海豊県を剰掠し、太祖は詔を発して、広東諸衛から大軍を動員して討伐に当たらせねばならず、八
年には映西の亡卒常徳林らが各地を劫掠し、西安衛指揮使渡英らが出動しようやく捕斬した。明朝政府は、一四年九月に雲
(副)(躯)
南遠征軍を発したが、雲南に入る前から軍士の逃亡があり、五○○余人の集団が湖広黄破県の居民を殺掠し、宋国公凝勝自
ら討伐に当らなければならなかった。明朝政府はその対策として、逃亡軍士に自首を勧めたり、或いは追補を命ずる一方で、
軍士を監督すべき武臣の罰則を定めた。『明実銀』洪武四年二月乙亥の条によれば、在衛している平時の場合、配下に軍
士一○人をもつ小旗は、逃亡三人で軍士に降格し、配下の軍士五○人の総旗は、逃亡一五人で小旗に降格とする。正六品で
月俸一○石の百戸は、旗軍合せて二二人を統くるが、逃亡一五人で月俸一石を減じ、四石以上つまり逃亡六○人を越えれ
ば、武臣の身分を剥奪して総旗に降格する。正五品・月俸一六石の千戸は、配下二二○人をもつが、逃亡五○人で月俸一
石を減じ、一○石つまり逃亡五○○人に達すれば、百戸に降格するという。動員されて出征した場合には、小旗・総旗・百
戸・千戸の処罰の基準が各々五人・二五人・三○人・一○○人とされ、平時よりもやや緩くなっており、出征時により多く
逃亡が発生したことが窺える。いずれにしても、規定が定められた当時は、ある程度実状を反映して実効性をもつべく定め
られた筈だが、逃亡軍士の比率が非常に高く、出征時では小旗・総旗は定数の五○パーセントに達して始めて処罰の対象と
なる。逃亡の多さが窺えるが、その理由として、同条に「内外衛所武臣、不能約束軍士、致逃亡者衆。」とあり、これを受
(調)
けた『大明律』巻一四・兵律二・軍政「従征守禦官軍逃」にも「其親管頭目、不行用心鈴束、致有軍人在逃、」とあって、
軍士の逃亡は武臣の統制の緩みによるとしている。ところが、一三年五月に至り、罰則規定の一部改訂が行なわれたが、そ
こには「上諭都督府臣日、近各衛士卒、多有邇逃者。皆由統之者、不能撫仙。」とあり、太祖は、軍士の逃亡の原因は、武
臣が撫仙しないことにあるとし、しかも「近ごろ」と述べている。洪武四年と一三年の段階の相違を示すもので、将と兵の
乖離が進むにつれて、武臣の虐待や搾取を原因とする逃亡が増加しつつあったことを示すのではないかと考えられる。『明
実録』洪武一七年二月乙酉の条によれば、巴山西部の深山に逃亡軍士や私茶の販売者が潜伏しているとの情報があり、険
西都司に命じて出兵させたところ、同都司は一四○余人を獲えて京師に送ってきた。これに対し、太祖は、このような者た
ちは取り締らなければならないとしたが同時に「然原其情、以衣食飢寒之故、亦有可誇。」と述べ、寧波・昌国に諭戌する
に止めた。軍士が衣食に窮したというのは武臣の搾取の結果であろう。『明実録』洪武一六年四月戊子の条に
上諭兵部臣日、自古国家設置兵衛、所以為民也。邇者、無知之民、凡遇軍士逃亡、往往匿於其家、玩法為常。爾兵部宜
傍示之、其有匿逃亡者、即令送官、逃者与藏匿者勿問、違者供坐以罪。
とあり、太祖は、兵部に命じて人民が逃亡軍士を匿うことを禁じさせた。このような措置の背景には、軍士の逃亡が多く、
しかもその境遇が人民の同情を誘うに足る状態だったことを示している。武臣の圧迫の結果、軍士の「強き者をして訟に致
五九
らしめ、弱き者をして怨を懐かしむ」と述べた太祖の言葉の「弱き者」の抵抗が逃亡だったのであろう。「強き者」の抵抗
は前述の通りだが、これに対して武臣達がとった態度についてみてみよう。
軍拡から粛軍へ(奥山)
四武臣の対応
六○
将兵の乖離が進むなかで、次第に激しくなる軍士側の不信や告発の動きに対して、武臣は如何に対応したのか。『大詰武
臣』・「迩裁実封第十二」にいくつかの具体的な事例が記されているのでみてみよう。
青州護衛千戸孫旺、逼令軍人、自縊身死。其余軍人、赴京伸訴。他差入迩裁回去、将各軍監在牢裏、謹頼他通同馬四児
作耗、致将軍人四名凌遅処死、余軍尽発雲南。事発、千戸孫旺亦将凌遅処死。
とあり、斉王府の青州護衛千戸孫旺が、軍士を虐待して自殺させたので、仲間の軍士達が京師に赴いて直訴しようとした。
孫旺は人を派遣して彼らをとらえて連れ戻し、罪をでっちあげて四人を凌遅処死に処し、他は雲南に諦戌してしまった。事
が発覚した後、孫旺もまた凌遅処死に当てられた。軍士達は千戸の上官である指揮使や都司の断事司に訴えず、直接上京し
て告発しようとしており、上官である武臣一般に強い不信感をもっていたとみられ、孫旺の彼らに対する過酷な処置からも、
相互の激しい対立が看取できる。このことは次の例からもみることができる。
克州護衛指揮察祥・千戸毛和・鎮撫梁時・顧信等、百般苦軍、致有軍人糟法保赴京告状。行至鳳陽浮橋、他差人遅回去、
妄啓魯王将軍人打死分屍。事発、千戸毛和等自知罪重、脱盈在逃、指揮察祥凌遅処死。
とある。魯王とあるのは太祖の第一○子荒王檀だが、洪武一八年に就藩し二二年に没しているので、この事件は一八年から
『大詰武臣』が頒示された二○年一二月までの間に起ったとみられる。魯王府の党州謹衛指揮使察祥・千戸毛和・鎮撫梁
時・顧信らは、軍士を苦しめること甚しく、遂に軍士糟法保なる者が、上京して告発しようとしたが、鳳陽の浮橋で察祥ら
の放った追手においつかれて連れ戻された。察祥らは魯王に虚偽の報告をして、糟法保を殺害し死体をバラバラにしてし
まった。発覚すると毛和らは逃亡したが、察祥は凌遅処死に処された。この事件も、特定の武臣が個人的に軍士を虐待した
ものではなく、指揮使・千戸・鎮撫と一術の武臣の殆んどが関わっていて、武臣と配下の軍士全体の激しい対立があり、糟
法保が軍士の代表として上京しようとしたのであろう。虚偽の報告の結果とはいえ、魯王の承認を得て糟法保を殺したのだ
から、軍士側からみれ ば、一術の武臣ばかりでなく親王まで信頼できない抑圧者であり、上京して告発するより外に途がな
かつたといえる。また
平陽梅鎮撫、有被害軍人赴京告指揮李源、他替李源遜裁回去。事発、梅鎮撫閥割、発与李源家為奴。
とあり、平陽衛の鎮撫梅某が、指揮使李源を告発する為に上京しようとした軍士を捕えて連れ戻した。取調べの結果、李源
に罪がなかったのか処罰されなかったようで、梅某が悶割され火者として李源に与えられた。告発の対象となる武臣の罪の
有無に拘わらず、上京しようとする軍士を妨害すること自体が罪に問われたことになる。次に
処州衛指揮顧興・魏辰・屠海・雷震・盛文質・夏庸等、有軍人陸達之等赴京、告張知府収糧作弊、他与有司交結、差人
遅回監問。事発、免死発金歯充軍。
とあり、処州衛の軍士陸達之が、税糧徴収上の問題について、知府を告発する為に上京しようとしたが、知府と「交結」し
ている指揮使顧興らが、人を派遣して陸達之を連れ戻して収監してしまった。軍士を殺さなかった為か、顧興らは処刑を免
れ、雲南金歯衛に調戌された。この事件では、陸達之は武臣ではなく知府を告発しようとしていた。軍政と民政の分離が不
完全な段階では、武臣と官僚が癒着した勢力と軍士の対立という構図をとることもあったとみられる。
福州左衛千戸盟友才・百戸那興、将赴京告状軍人厳三遅回、杖断一百。事発、発金歯充軍。
とあり、福州左衛の千戸盟友才と百戸部興が、告発の為に上京しようとした軍士厳三を連れ戻し杖罪に当てたが、発覚して
金歯衛に調戌された。告発の内容は記されておらず、平陽衛の例と同じく、告発の真偽によるというよりも、軍士の直訴を
妨害したことが処罰の理由となったとみられる。「迩裁実封第一二」に記された例をあげたが、青州・菟州・平陽・処州・
福州と広い地域に及んでおり、このほかにも摘発されなかった例や、軍士が出発前に武臣側に押え込まれた場合も少なくな
一ハー
かったと思われる。前掲の例では、武臣・軍士ともに複数の人間が関与した事件が少なくない。これらの事件は、一部の武
軍拡から粛軍へ(奥山)
一ハーー
臣や軍士によって引き起されたものではなく、背景に武臣と軍士全体に関わる対立があったと考えられる。創業期には武臣
と軍士は親密な私的関係で結ばれていたが、これを解消しようとする政策や、世代交代の進行によって、次第に相互の信頼
関係が失われ、ついに軍士は上京して上官を告発しようとし、武臣はこれを殺害・投獄して妨害するまでに対立が尖鋭化し
たのである。このような将兵の相互信頼関係の喪失は取りも直さず明軍の弱体化を意味するものであった。
おわりに
朱元璋とその磨下の集団は、渡江してから明朝政権を確立するまでの間、様々な帰服軍を吸収して軍事力を拡大してきた。
大小の軍事集団は、帰服後に解体再編成されたわけではなく、そのまま編入されて明軍の一翼を担ったのである。創業期の
明軍は、起源や規模の異なる雑多な軍事集団の集合体だったといえる。各集団内には各々強い紐帯があり、それは戦闘力発
揮の原動力でもあったが、同時に人脈で動く私兵化の危険を孕むものでもあった。このような明軍を、組織と命令系統に
よって運営される、新たな体制に組み替えてゆくことが明朝政府にとって大きな課題であった。その動きは洪武三年二月
の北伐軍の帰還を機に始まり、急速に武臣に対する統制が強化された。更に武臣の配置換えや、私的な贈答を禁止すること
によって、軍内部の私的関係の解消を図った。洪武一○年代に入ると、軍政・民政の分離、武器・軍装の統一と官給、武臣
に対する教育等の種々の面で体制が整えられていった。これらの制度が一応の完成をみたのが洪武二○年前後であった。当
時、遼東の納吟出や蒙古の北元勢力が、帰服或いは瓦解して、北辺の軍事情勢が安定し、実質的な兵力削減を図る屯田政策
が改めて強化されるなど、軍の平時体制への移行が一段と進められた時期であった。しかし、洪武二○年前後に、整備され
つつある制度の内側から、新たな問題が顕在化してきた。武臣や軍士の世代交代が進むにつれて、これまで軍内部の私的関
係の解消に努めてきた明朝政府の意図以上に将兵の乖離が進んでしまったのである。武臣は軍士を搾取の対象としかみず、
軍士は激しくこれに抵抗する状況がおこってきた。武臣と軍士ともに世襲というシステムの下で、私的関係のみを解消とす
るのは基本的に無理があり、一旦、相互の信頼関係が損われれば、内部の相剋は非常に激しいものになろう。放置すれば軍
の士気が内側から崩壊する危険があり、太祖は頻りに武臣に訓戒を加え、軍士の保謹に努めたが、充分な効果をあげること
はできなかった。軍士は告発や逃亡の手段で抵抗し、武臣は告発しようとする軍士を殺害して阻止するというところまで、
対立が尖鋭化していったのである。靖難の役前後の軍については別に検討を要するが、結局、武臣と軍士の相互信頼の欠除
は基本的には改善されず、その後の軍事力衰退の最も大きな原因となった。明代の中期以後、対外関係が緊張してきた時、
盛んに明軍の戦力強化がさけばれた。その中で、明軍弱体化の原因は、武臣の収奪と軍士の不服従・逃亡にあるとする官僚
層の意見は枚挙にいとまがない。それは世襲に基づく衛所制の構造的な問題であり、病弊は洪武二○年前後に既にあらわれ
ていたといえる。初期の明朝政府は、軍を戦時から平時の体制に移行させることに務め、屯田政策によってとりあえず実質
的な兵力の削減は実現したが、精強さを維持したまま官僚制的な軍に組み替えることには失敗したとみることができよう。
上謂中書省臣日、常遇春佐朕定天下有功、惜其早世。其左
(1)いくつかの例を挙げれば『明実録』洪武四年一二月戊戌の条に
及長英毅有敢、人多揮之。元李群雄競起、良臣聚郷里子弟、
栄・神策衛指揮使張耀倶戦没。良臣寿州安豊人、幼有大志、
宜寧侯曹良臣・驍騎左衛指揮使周顕・振武衛指揮同知常
月甲辰の条に
右参随者、多武勇之士、朕欲用之。可択其人以聞。於是、
訓練為兵、立塁以禦外侮、約束厳明、無敢違其令者、歳壬
註
省臣選葉寿等六十八人、倶授在京衛所百戸。
寿ら六八人を京衛の百戸に任じた。「朕、之を用いんと欲す」
た曹良臣は、安豊の人で、郷里の子弟を集めて郷曲の保全に努
とある。李文忠らが北征して、北元と激戦を交えた際に戦死し
寅率所部来附。…
と述べて新たに任用したことからみて、彼らは従来から明軍の
めたが、至正二二年にその配下を率いて来附した。その郷党集
とあり、太祖は、常遇春の参随には武勇の士が多いとして、葉
序列の中にあって、常遇春の下に配置されたものではなく、常
団は帰服後も解体されることなく、曹良臣の指揮下に在ったと
{ハーニ
遇春の私的な配下だったのであろう。又『明実録」洪武五年六
軍拡から粛軍へ(奥山)
六四
戸郭祐が酒に酔っていて気付かなかった。幸い撃退して、やが
いて、拡廓帖木児の軍に攻囲され、夜襲をうけた時、配下の千
(2)檀上寛氏『朱元璋」(白帝社.一九九四年)一七二~一七三頁
て包囲も解けたが、張温は郭祐を斬ろうとした。これに対して、
みられる。
(3)『明史』巻一三一・列伝一九、『明実録』洪武二○年九月癸巳
学科四四号.一九九九年一月)で、悶割されて宮廷や王府で使
(4)川越泰博氏は「明代の奴軍と火者」(『中央大学文学部紀要』史
官に直言して「朝廷の法」を守ったとして朱友聞を賞した。こ
武臣ではなく、文書作製等に当る正八品の卑官だが、太祖は上
うことになると反対したので杖刑にとどめたという。衛知事は
衛知事の朱友聞が、今さら斬っても意味はなく、「掴殺」とい
役されるものを宣官、勲臣や武臣に賜与されたものを火者と称
こでいう朝廷の法は捜殺を禁ずることだったとみられる。この
の条
したことを明らかにされた。この火者は蘇顕に与えられていた
禁令が既にこの年の六月にはあったことが分るが、蒔顕の事件
に適用しようとする太祖の姿勢が窺える。
にみられるように、洪武三年二月の北伐軍の帰還を機に厳格
者であろう。
(5)『明実録』洪武三年六月丙子の条に
賞天策衛知事朱友聞、綺帛各五匹。初指揮張温守蘭州、元
斬之。友聞争之日、当賊犯城時、将軍斬祐以令衆、所謂以
祐、被酒酔臥不之覚、巡城官軍撃却之。囲既解、温執祐将
品に昇格し、五軍の刑獄を司ったが、建文中に裁革された。
一七年には、五府に各々左右断事二人がおかれ、二三年に正五
都督府が五軍都督府に分割されると、五軍断事官と改称され、
(6)『明史』巻七六・志五二・職官五によれば、洪武一三年に、大
軍法従事、人無得而議之。今賊既退、乃追罪之、非惟無及
(7)この方法は『諸司職掌』兵部職掌・除授官員・貼黄や正徳「大
将王保保兵囲城、温督将士備守。夜二鼓囲兵登城、千戸郭
干事、且有檀殺之名、頼以為不可。温悟杖祐而釈之。上間
明会典』巻一○七・兵部・貼黄にも記戦され、その後の定制と
(8)『明実録』洪武元年八月己卯、三年一二月丙子の条
之謂輔臣日、友聞以幕僚、能守朝廷法、直言開諭官長、此
とある。張温は『明史』巻一三二・列伝二○に伝があり、洪武
(9)私的贈答の禁止だけでなく、法司が軍の非違の取り締りに当り、
なった。
一二年に会寧侯に封ぜられたが、後に藍玉の獄に連坐して諌殺
過剰に反応していたことは次の例からも窺える。『明実録』洪
正人也。宜加賓予以勧其余。
された人物である。張温摩下の天策衛軍が蘭州の守備に当って
准安衛総旗、因習射誤中軍人致死。都督府以過失殺人論之。
二人、文職から武職に転じたものとして、呉宏以下一六人の例
張彪以下一八人、武職から文職に転じたものに、王道同以下三
「文臣改武」によれば?洪武朝で文武の職を兼ねた人物として、
上日、習射公事也。避遁致死、豈宜与過失殺人同罪。特赦
が挙げられている。
武六年七月己巳の条に
勿問。
湖州府民、輸官銭三百余万入京、次揚子江、舟覆銭没。其
(焔)『大明律」巻一四・兵律二・軍政「私売軍器」「殴棄軍器」
(蝿)『諸司職掌』工部職掌・軍器軍装
(皿)『明実録』洪武一三年一月丁未の条
半民既代償、已而軍士有得所没銭者。有司論当杖。上日、
(Ⅳ)拙稿「洪武朝の棉・麻の賜給について」(『史朋』三○・一九九
とあり、八年一月壬戌の条には
士卒得銭物於水中非盗也。釈之。
当てられようとした。有司の過敏さは、太祖の姿勢の反映で、
(四)『明実録』洪武一六年一月壬戌の条
(略)『明史』巻二八五・文苑一に伝がある。
八・三)
軍の非違を黙過すれば、有司が太祖の逆鱗に触れるので、戦々
(釦)『明実録』洪武一七年三月戊戌朔の条
とある。前者は事故、後者は遺失物の拾得に過ぎないが、罪に
恐々としており、過剰に反応することになったのであろう。史
(副)『明実録』洪武二○年七月丁酉の条に
礼部奏請、如前代故事、立武学用武挙、価祀太公、建昭烈
料の性格上、太祖が特に宥した例が記されているが、実際には
罪に当てられた者が少なからず有ったと考えられ、太祖が軍の
天子並英。加之非号、必不享也。至於建武学用武挙、是析
武成王廟。上日、太公周之臣封諸侯。若以王祀之、則与周
(皿)宮崎市定氏「洪武から永楽へ」(『東洋史研究』二七一四・一九
文武為二途、自軽天下無全才芙。三代之上士之学者、文武
統制強化に非常に熱心だったことが窺える。
六九年三月、後に『アジア史論考』下、『宮崎市定全集』一
兼備、故措之於用、無所不宜。豈謂文武異科、各求専習者
乎。…今又欲循旧、用武挙立廟学、甚無謂也。太公之祀、
三・明清に収録)
(皿)『明実録』洪武九年九月戊辰の条
止宜従祀帝王廟。遂命去王号、罷其旧廟。
六五
とあり、礼部が武挙の実施と武学の設立をもとめたのに対し、
(⑫)『明実録』洪武一六年三月甲寅の条
(田)『算山堂別集』巻九「文武二街」「武臣理文職」「武臣改文」
軍拡から粛軍へ(奥山)
太祖は文武兼備があるべきかたちであり、奏請の如くすれば、
之爵賞。爾曹不見徐相国耶。今貴為元勲、其同時相従者、
謂貧。吝則失衆、貧則踊分。夫有超人之才能者、必有超人
一ハ一ハ
文武は二途に分かれ、全才が無くなってしまうと述べて却下し
今爾曹自陳戦功、以求陞賞。国家名爵、烏得幸得耶。爾曹
猶在行伍、予亦豈忘之乎。以其才智止此、弗能過人故也。
(泥)『明史』巻七五・志五一・職官四
萄能明勉立功、異日爵賞、我豈爾惜、但患不力耳。於是、
た。
(羽)『明実録』洪武二四年五月乙巳の条
とあり、一○余人の軍士が、待遇について太祖に直訴する場合
皆噺服而退、自是、無有復言者。
(妬)『明実録』洪武一二年二月是月、二二年二月壬戌の条
もあった。創業期の集団の中にあっては、軍士にとって太祖で
(型)『明太祖御製文集』巻六「諭秦王府文武官」
(妬)例えば一つの事例だが『明実録』洪武一七年七月壬戌の条に
復以言恐女日、汝従我則生、不従即死。女罵日、汝殺吾母、
欲汚之。女義不従、急呼其母、母来護。悪少手刃其母死。
一日閾其父出、給以達志来、夜導其母子、鼠荒野中、持女
(犯)『明実録』洪武元年八月己卯の条
(劃)『明実録』洪武一四年二月戊子の条
(釦)『明実録』洪武八年九月癸亥の条
(羽)『明実録』洪武五年四月戊子の条
すら遠い存在ではなかったのであろう。
又欲汚我、我寧死耳。悪少怒乃揮刃、傷其頬及身、血流満
(鍋)『明実録』洪武一三年五月庚戌の条
定遼衛卒田帖木児女佐児、有美色未嫁。軍中悪少謀私之、
衣、終不受辱、昏絶什地。郷鄭同甑者覚之、悪少悩而逃。
黎明郷鄭求得其母屍、視女漸甦。乃訴干官、捕悪少翼干法。
のような事件があった。
(”)『明実録』洪武二二年九月丁亥、二四年二月丙戌の条。
(羽)『明実鋒』至正二四年三月辛未の条に
上御西楼、有軍士十余人、自陳戦功、以求陞賞。上諭之日、
爾我有年、爾才力勇怯、我縦不知、将爾者必知之。爾有功
予豈遣爾、爾無功豈可妄陳。有功不賞是謂吝、無功求賞是
シルクロードの要衝「新彊」の現状
緬雛穂転跨錨報細密蝿カミリ・クルマユフ
(指導教授国士舘大学文学部佐々博雄)
昔から言われてきたシルクロードは、中国の長安から始まり、ヨーロッパまでつながる貿易と旅行の路線であった。その
路線は長安から西の方、敦煙までは一つの路線しかなく、敦煙から今の新彊までの間で三つの路線に分かれ、それぞれ西に
向かいヨーロッパまでつながっていたのである。敦埋から新調までの三つの貿易路線の二つは、今の新調の南方、「南彊」
を通った。その二つの路線の一つは、敦煙から始まり、新彊のピチァン、ヤルヶン、ホタン、パミルの南方を通り、今のイ
ランに通じ、それから続いてヨーロッパまで延びていた。もう一つの路線は、敦埋から始まり、新謡のトルファン、クチァ、
カシュガル、パミルの北方を通り、ウズベクスタンのパルガナヘ通じ、続いてヨーロッパまで延びていた。これら二つの路
線は、歴史上、シルクロードの南ロードと呼ばれている。もう一つの路線は、敦煙から始まり、新謡のハミ、ベシバリク、
チョグチャク「北謡」を通って、カザフスタンのヤッヂスウヘ通じ、ヨーロッパまで続いている。この路線は、シルクロー
ドの北ロードと呼ばれている。また、新躯はシルクロードや西域などの名称で呼ばれている。一九五五年一○月一日、この
地域で新調ウイグル自治区が成立した。
新謡ウイグル自治区は、中国の西北に位置し、またユーラジァ大陸の真ん中に位置している。中国全土で、一番海に遠い
所であり、また数少ない北極の影響を受ける場所でもある。
六七
中国では、日本の都道府県に等しい行政単位を省、自治区、市という。それぞれの省は、二四あり、市は直轄市で、北京、
シルクロードの要衝「新認」の現状(カミリ・クルマュフ)
六八
上海、天津と新しくできた重慶市がある。自治区とは、民族の集中した地区の政府で、中国では五つの自治区があり、新謡
ウイグル自治区はその一つである。新彊は面積が一六六万平方キロメートルで、全国の六分の一に達する最大の省区で、国
境線は、五四○○キロメートルあり、北から南に外モンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジクスタン、アフ
ガ’一スタン、パキスタン、インドなど、八ヶ国と隣接している。
新彊の地形は相当複雑で、新彊の地形を説明する時には、一般に、「三本の山が二つの盆地を囲んでいる」といわれる。
北から南に三本の山脈、すなわちアルタイ山脈(山稜の平均高、三○○○m)、天山山脈(山稜の平均高、四○○○m、長
さ、一七○○m)、コンロン山脈(山稜の平均高、五○○○m)がある。そして、アルタイ山脈と天山山脈の間にジュンガ
ル盆地(面積は三八万平方伽)、天山山脈とコンロン山脈の間にタリム盆地(面積は五三万平方mで東西二○○m南北五
○○m)がある。漢字で書いた新魑の「躯」の字を見れば、右半分は横線が三本あり、中に水田の「田」が二つある。偶然
ではあるが、この字は新弧の三本の山と二つの盆地の地形を表しているような気がする。ジュンガル盆地の真中は、クルバ
ントンコト砂漠(面積は四・八万平方m)である。砂は固定していて、雨が多い年には草も生える。しかし、砂漠の中の草
は普通の草と違い、三○センチの草は地下に一メートル以上の根がはる。このような草であるからこそ、砂漠の中で生きて
いけるのである。タリム盆地の中は、世界でも有名な中国最大の砂漠、タクラマカン砂漠(面積は三二・四万平方m)であ
る。ここは本当の砂原で、強い風が吹くと砂は波を打って移動する。そして砂が空中に上がり、適当な気流に乗れば遠くま
で吹き渡り、日本の黄砂のもとになることもある。近年、この砂漠の中から石油が開発された。その外、新しく砂漠自動車
道路が建設され、盆地の南側に行くには、時間が相当短くなり、またこの道路を見学に行く人も多い。
新調の一般の習慣では、天山山脈の北側を北魑と呼び、その南側を南謡という。北魑と南魑は、地形、気候、民族分布、
産業など各方面で相当な違いがある。この他、タリム盆地の東側にトルファン盆地があり、昔のシルクロードの重要な経路
であった。トルファン盆地は標高が非常に低く、一番低い所は、盆地の真中のアイチン湖で海抜はマイナス一五四メートル、
中近東の死海に次いで、世界第二の低地で中国の最低地である。新躯は、平均高度が一○○○メートル以上であるが、その
中に、全国の最低地があるとは信じ難い事実である。これと反対に、中国とインドの国境の近くには、一般にk2と言われ
る八○○○メートル級のチュムランマに次ぐ、世界第二の高峰があり、世界第二の砂漠、世界第二の低地、世界第二の高地
を持つ、複雑な地形であるといっても過言ではない。
新彊の気候は大陸性の温帯気候である。北彊は北の山が低く、シベリヤからの寒気が直接入り冬は非常に寒い。天山山脈
の麓にあるウルムチは、毎年の一月には、強い寒波によりマイナス二○度以下にもなる。最低記録は一九五二年のマイナス
四二度である。しかし、最近は地球温暖化のため、二・三十年前よりは、ずいぶん暖かくなったようである。ウルムチは、
緯度から比べれば、日本の北海道の旭川と同じなので寒さが特徴の一つである。新彊のなかで一番寒い所は、アルタィ地区
のチングルでマイナス五○度の記録がある。夏は大陸気候なので相当暑くなる。ウルムチでは四○度以上を記録したことも
あるが、最近は少し低くなっているようである。しかし、毎年三五度以上を記録している。新彊で一番暑いのは、言うまで
もなくトルファンで、気象台観測でも四七度に達しており、火焔山の砂の表面は六○度から七○度までにもなる。春と秋は、
昔はとても短く感じたが、最近は少し長くなったような感じがする。
新弧の寒さが一つの特徴とすれば、もう一つの特徴は乾燥である。北弧の年間雨量は二○○ミリから三○○ミリくらいで、
南調は一○○ミリ以下、トルファンでは一六ミリしかない。農業は主に瀧概農業で、冬山に降った雪が夏になって解け、谷
に集まり、川になり、山の麓に流れていく。山の麓にオアシスができ、人が集中して町になり、農業が発展する。川水は用
水路を流れ、農地を潤し、最後に砂漠の中に流れて消えてしまうのである。これが内陸河川であり、日本のように全部海に
流れでる川とは異なっている。北弱の一部分の農業と、牧場にする草原の植物の成長は雨に頼るので、降水量が多い年は豊
作となるが、雨が少ない年は農業に影響するばかりでなく、放牧にも相当な影響を与える。新魑は中国でも有名な放牧地で
六九
あることから、それへの影響は、新彊の経済の発展にも影響を与えることになる。このような乾燥している土地に長年生活
シルクロードの要衝「新弱」の現状(カミリ・クルマュフ)
七○
している新彊の人々は、知恵を絞っていろいろな対策を考え出している。例えばウルムチでは、冬の雪かきをするときに雪
を道路の並木の側に集めるようにしている。春になって雪が解ければ並木の根を潤すことになる。トルファンでは、カレー
ズという地下用水路を作り、天山山脈の地下水をトルファン盆地の真中に流すようにしている。最近では工場廃水などの問
題から、都市部においては水道が普及し、農村部への水道建設も進められている。また、乾燥気候は悪いことだけでなく、
良いこともあり、トルファンの交河古城や高昌古城などは、乾燥しているからこそ千年以上も保存されており、三千年も前
の死体が腐らないで発見された新調のミイラも、乾燥のおかげである。新調の果物が甘くて大きいのも、一昼夜の気温差が
いの
のが
が原
原因
因で
で、
、王それも乾燥しているからである。昼間は暑くても、夜は涼しく、眠れない熱帯夜というのは、トルファ
激しい
ン以外ほとんどない。
中国は多民族の国である。全国には五六の少数民族が居住している。漢民族以外の少数民族は、主に西北と西南に集中し
ている。新弧も中国で主な多民族の地域で、全部で四七の民族があり、主な民族は一三に達する。その中でもウイグル族は
「一九九三年の統計」で、七、五八九、四六八(四七%)人で、全国での人口数は、五○○万以上の一番多い七種の民族の
一つである。新弧の人口は一七○○万人で、漢民族六、○三六、七○○人(三七%)、ウイグル族のほかにカザフ族も一、
一九六、四一六人(八%)を占める。この民族は、主に放牧業に従事し、民族の分布は北騒である。他に回族、七三二、二
九四人(三・七%)。キルギス族一五四、二八二人(一%)、モンゴル族一四九、一九八人(一%)、シボ族三○、○○○人、
タジク族三六、一○八人、満族一○、○○○人、ウズベク族一○、○○○人、ロシア族八、○○○人、ダフル族九、○○○
人、タタル族五、○○○人である。ウイグル族、モンゴル族などは、北弱、南彊に分布しているが、カザフ族、シボ族、ロ
シア族、タタル族は、北謡に住み、タジク族は、南魑のパミル高原に住んでいる。
これらの民族の中で、漢、満、モンゴル、シポ、ロシア以外の民族は、イスラム教を信じており、イスラム教を信じる人
はムスリムといって、豚肉を食べることがなく、食べる肉は牛肉、羊肉である。この他、鳥類とか魚類などを食べる。この
ことから新調では、レストランは、漢民族の食堂とはっきり分けられている。しかし、イスラム教を信じない民族の人でも、
イスラムレストランで食事をすることは問題ない。新謡のマトンは大変おいしくなったので、非ムスリムの人たちも豚肉よ
りマトンのほうを好むようになってきた。それで有名なレストランは、ほとんどムスリムレストランである。
新弧の各民族は、歌と踊りが大変好きである。いろいろな集会などで歌ったり、踊ったりする。また、各民族の文化が作
り出した独特な楽器がある。ウイグル族のドッタル、タンボル、ラワープ、サッタール、サパーイ、ダーフ(タンバリン打
楽器)等。カザフ族のドンブラ、スブズク(笛)、ホブズ等。キルギス族のホムス、キャク、ナイ(笛)、タタール族のマン
ダリン、バララィク、アコーリディン、クライ(笛)等。タジク族の贋の手羽根で作ったナイ(笛)、ラサフ、パランズコ
ム等。モンゴル族の馬頭琴、トブショル等。ロシア族のアコーリディン、ギッタル、ピアーノ、ドクラチコ等である。これ
らは、現在、新調に住んでいる各民族の文化の特色により、作成された各民族独特の文化を表している。新認に住んでいる
人々の中で、ウィグル族、カザフ族、ウズベク族、キルギス族、タタル族など五つの民族の言葉は、アルタイ語のトローコ
語系統に属するので、この五つの民族の文化は相互に混ざり合っている。「アコーリディン、ギッタル、ピアーノ、バララ
イカ、マンダリン、電子琴、ドクラチコ」等の楽器は、今、新魑にいる諸民族の共同使用している楽器になって、各民族の
文化に相互影響を与える一つの原因となっている。
新魑の各民族の祭りには、イスラム教の影響を受けた祭と、生活習慣によって形成された祭がある。イスラム教の影響を
受けた祭には、ロジ祭とクルバン祭が有名である。ロジ祭は、イスラム教カレンダーの一○月一日に行うが、その前の一ヶ
月間はラマザン月と言って、イスラム教徒は断食をする月である。だが、全く食を断つわけではなく、朝は日が出る前と晩
は日が沈んだ後に食事を摂る事ができる。この断食の由来は昔イスラム教の教祖モハメットが、イスラム教を弘めるために
異教徒と戦争になったとき、戦争は昼に戦い、夜しか食事を摂ることができなかった。一ヶ月間こんな生活が続いたが戦争
七
に勝利したと云う昔話がある。イスラム教の人たちはその戦争を記念するために、断食をするラマザン月を作ったのである。
シルクロードの要衝「新調」の現状(カミリ・クルマュフ)
一
七
二種類あり、春に蒔く春小麦と、十月に蒔く冬小麦がある。冬小麦は雪が降る前にある程度まで育ち、雪の下で冬を過ごし
盆地などに油田が発見され、新彊の「黒と白」の発展方向が決定された。この黒は石油で、白は綿である。農業では小麦は
持っている。五○年代に建設したクラマイの石油工業は新調の建設に貢献した。今日はタクラマカン砂漠の中やトルファン
チの郊外にあるウルムチ鋼鉄公司は一九五○年代に建設され、長年の間に何回も改造してきた製鉄所で、ある程度の規模を
属のゴールド、銅、’一ツヶル等と非金属の石綿、宝石、玉などがあり、既に発見された鉱物は一二九種類にのぼる。ウルム
新調の産業は工業と農業が主な内容である。工業は鉱物類の採掘、例えば石炭、石油、鉄鉱石、天然ガス、および非鉄金
京時間を使用し、ウイグル族は新弧時間を使っている。
かし生活は新調時間にあわせて行っているので、北京時間は二時間ずらして使っている。ウルムチでは一般に、漢民族は北
時差がある。新調では二種類の時間を使っている。すなわち北京時間と新弧時間で、この二種類は二時間の時差がある。し
は四五度に近く、日本の旭川と同じ位のことは先に述べたが、経度は九○度で、北京との時差は二時間、日本とは三時間の
新躯ウイグル自治区の首府はウルムチである。面積は二、一四○平方m、市区は八三五平方mである。ウルムチの緯度
五歳或いは七歳の間に、すべての男子が割礼を受けることになっている。
このほか新謡ではいろいろな礼式があるが、その中で割礼式は、イスラム教を信じている人たちに対する共同の礼式で、
送って春を迎えるためにする祭である。
になったのである。他にノルズ祭りがある。それは今の「春分」にあたる昼と夜の時間の長さが同じになったときに、冬を
カレンダーの一二月一○日には、聖人のように自分たちの神に対する誠実を表すために、羊を殺してクルバン祭をするよう
ようとした。その誠実さを確認した神が、子供の代わりに羊を与えたという教えに由来している。その日から毎年イスラム
の息子イスマイルを生贄とし、神に貢ぐ(神様に対する誠実の表現として)命令を受け、イブラヒムは忠実にそれを実行し
またクルバン祭のクルバンと言う言葉の意味は「犠牲」と言う意味で、これはイスラム教の聖人イブラヒムが、神から、彼
二
春をへて、六月に収稜する。新彊では米の栽培も長い歴史を持ち、ウルムチの近くに「米泉」という県がある。ここでは天
山山脈の水を利用して長年米の栽培をしている。その他、天山山脈の南の麓にあるアクス、コルラなども米の産地である。
また、この十数年では綿の栽培が発展し、農業経済に重要な位置を築いている。
新弱では果物の栽培も盛んである。トルファンの種無し葡萄、ハミ瓜などは世界的に有名である。近年、果物を原料とす
る加工業も発展し、ワイン製造業などが多くなっている。新謡は広い草原にめぐまれ放牧に非常に有利で、長年カザフ族を
はじめたくさんの人たちが牧畜業に従事してきた。新躯は中国最大の牧場の一つでもある。また牧畜業を製品原料とする加
工業も発展しつつある。
新温の経済は中国の東南沿海に比べると相当遅れている。しかし、この二十年の発展は著しく、ウルムチは今新謡の政治、
経済、交通、文化の中心になっている。一七○万人口の大都会となり「こんな地の果てに大きな町がある」と、たくさんの
観光客がウルムチ空港に着いた途端驚いているようである。新調の都会にはウルムチの他にカシュガルがある。カシュガル
は南弧の大都会で独特の町で「カシュガルに来なければ新弧に来た価値がない」とさえ言われている。その他、イリ、アル
タイ、チョグチャク、コルラ、ホタンなども発展しつつある都会である。これらの町とウルムチの間は自動車道路と空路で
つながれ、近年には鉄道も敷かれ、交通は以前よりずっと便利になっている。以前は全く鉄道がなかった南弧も、ウルムチ
からコルラヘと、今はコルラからカシュガルヘと鉄道を延ばし、アクスまではもう営業を開始している。広いタクラマカン
砂漠の周囲を列車が走り回るのも遠くないことであろう。
-五○年来幅広く発展してきた。五○年前は大学と言っても今の新謡大学の先身であった「新彊学
新謡の
の文
文化
化建
建設
設は
は、
、こ
このの
塞が、現在ウルムチには新魑大学をはじめ、新調医科大学、新調農業大学、新弱師範大学、新調財
院」しか
かな
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かっ
った
たの
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経大学、
、新
新彊
彊工
工学
学院
院、
、新
新彊
彊了
石油学院、新調芸術学院等があり、地方にもカシュガル師範学院、イリ師範学院等がある。高校、
七
中学、小学校も各地にある。
シルクロードの要衝「新謡」の現状(カミリ・クルマュフ)
三
七四
新調の教育機関は、小学、中学、高校、高等学校(大学、学院、専門学校)等で、小学校から中学を卒業するまでは義務
教育である。中学から高校に入るときは、試験を受けて中学生の約六○%以上は高校に入学する。その他、中学生のなかで
も試験を受けてテクノロジー専門学校に入ることもある。高校を卒業したほとんどの生徒は、大学に入学するための試験勉
強に努力する。この生徒たちの約三○%は、各専門の大学や学院に入る。高校や高等学校の試験に不合格であった生徒たち
で、農村や牧場の生徒は、ほとんど農業や牧畜に従事し、県、市、大都会の生徒たちは、自分の知識や技術によって適当な
仕事に従事することになる。そのような中で、ある生徒は、政府が仕事を手配するまで待つこともある。現在の中国政府の
少数民族に対する政策は、少数民族が居住している地区にある専門学校、学院、大学などが受け入れ枠を計画して、試験を
受けた学生は、定員が満たされるまで成績順に選抜されるというものであり、その選抜は学生の希望に則ったものである。
また中国においては、国の重点大学が優先的に学生を選抜する権利を持ち、少数民族の枠を用意しなければならないという
義務がある。そこで、中国内地の重点大学は、最初に少数民族学生を選抜するために自分の大学の受け入れ枠を持って、新
騒の首府ウルムチに行き、自分の大学の受け入れ計画数まで学生を選んで帰るのである。これが国の少数民族を大学に入学
させるために作った政策である。少数民族の中から選んだ学生成績は、漢民族の学生より低くても入学することができる。
この十年間に新謡でも私立専門学校が建設され、国立の大学、学院、専門学校に入学することができなかった生徒も、もう
一度私立専門学校によって選抜される機会ができた。
大学、学院、専門学校、私立専門学校を卒業した学生の就職状況は、大学を卒業してすぐ就職できる人が約八○%で、約
半年後に就職できる人が約一○%、一年、或いは二~三年間で就職できる人は約一○%である。今まで、専門学校や、学院
や、大学などを卒業した学生たちの中で失業者はほとんどいない。今の失業者は、大学に入ることができなかった人たちに
多い。しかし、改革解放以来、最近の五年間には、この失業者のなかでも商人になったり各種会社に就職する人が少なくな
↓
、1.
新躯の小学、中学、高校ではウイグル語だけでなく、カザフ語、キルギス語、モンゴル語、中国語で授業をおこなう。し
かし大学では、中国語とウイグル語だけで講義がおこなわれ、他の民族の言葉で講義がおこなわれることはほとんどない。
そこで、ウイグル族をはじめ漢民族以外の民族の学生は、大学に入って、まず一年ほど中国語を習った後で、四年の専門勉
強をする。しかし今は漢民族以外の民族のなかでも、小学校から漢民族の学校に入る場合も増えているので、これらの学生
たちは、大学に入ると直接中国語で講義を聴くことができる。このような学生は中国語で「民考漢」といわれる。中国内地
の重点大学における少数民族枠の対象も、この「民考漢」の学生たちである。このほか中国内における重点大学の中で、中
央民族大学や各民族学院などは、各民族の学生を養成するために設立されたもので、各自治区の少数民族の言語で学んだ学
生たちも、高校卒業後に直接入学できる。
新謡大学は新調で一番の重点大学であり、中国の一二世紀政策により中国内の一○○重点大学の一つとして統一管理の二
二工程に入った。現在の新彊大学には、一三学部eの目算ョの具)七所八○○○人学生と、一三○○人の教職員が在席し、
出版関係では、新彊人民出版社、新調教育出版社、新魑科技衛生出版社、カシュガルウイグル出版社、新謡大学出版社等の
出版社があり、又各大学に於ては自校の雑誌等を自分達で出版している。新調人民出版社では、ウイグル語、漢語、カサ
フ語、モンゴル語、キルギス語と五つの言語で出版している。新謡教育出版社ではウイグル語、漢語、カサフ語、モンゴル
語で、新謡科技衛生出版社はウイグル語、カサフ語、漢語で出版し、新調大学出版社ではウイグル語と漢語で出版している。
もちろん、カシュガルウイグル出版社はウイグル語で出版している。
新調には自然風景の名所が沢山あり、その中でも白楊谷滝風景区や、天池自然風景区、ハナス自然風景区等が特に有名で
ある。白楊谷滝風景区はウルムチ県の南部、天山山脈の中にあり、ウルムチから六○m位の距離がある。白楊谷滝風景区に
ある滝は、高さ五○メートル位、巾は一五メートル位の水量豊富な滝である。又、天池自然風景区は、阜康市の境域内にあ
七五
り、ウルムチから一二○m位の距離で天山山脈のボグダ峰にある。ここには、ウイグル語でボグダコリー「ポグダ湖」と呼
シルクロードの要衝「新調」の現状(カミリ・クルマュフ)
七六
ばれる湖がある。このボグダ湖は、海抜五四四五メートルの高地にあり、湖の長さは二四○○メートル、一番巾の広い所で
は一五○○メートル位あり、深さは最高で一○五メートルである。又、アルタイ山脈の中でブルチン県内にあるハナス湖も、
自然風景区に指定されていて、湖面の長さは二四m、巾の一番広いところで二五五○メートル、水深は一八八五メートル、
平均水深は一二○一メートルである。又、この付近では中国で唯一動物と植物の種類が沢山あるところで、植物の種類は約
一○○○種、獣類は約三○余種類、鳥類は一○○余種、魚類は八種、昆虫は三○○種以上と動物達の楽園で、特に「大紅
魚」の報道は、内外の探検家や生物学者達の最大の関心をひく場所となっている。
新調は昔からシルクロードの重要地域で東西文化や、経済及び人の交流等の影響を受けて発展し、現在はイスラム教が主
な宗教であるが、昔は仏教も盛んであり、千年前のウイグル人の生活文化遺跡がたくさん保存されている。特にトルファン
の交河古城、高昌古城や、ベックリク千洞窟やクチャの千洞窟、カシュガルの城市には、ウイグル族独特の様式が残ってお
り、観光スポットでもある。イリ地区のアラサンク、チュグチャクのバフト、アルタイ地区のジェムナイとタイヶシヶン等
が内陸港として貿易をおこなっている。また、カシュガルにもパキスタンと貿易する内陸港がある。
二一世紀に向け、政府は教育関係に重点を置き、多くの学生等を留学させ、将来の基礎作りをすると共に、地域における
住宅改革や大気汚染対策などの環境整備にも力を入れており、シルクロードの要衝である新弱も、さらに大きく発展しよう
としている。
平成十年度国史学専攻研究室だより
○二年生平成十年度の二年生の研修は、平成十年五月二十一日(木)、県立房総のむら、房総風土記の丘、成田山新勝寺、
◎卒論学外研修
用して実施した。研修後、各自レポートを作成提出した。
国立歴史民俗博物館において行われた。新宿西口に集合、同地を八時半に出発し、全行程を貸し切りバスを使
れた。
。引
引率
率指
指導
導、
、奥野中彦教授、阿部昭教授、保坂智教授、佐々博雄教授、須田勉助教授、勝田政治助教授、
○三年生本年度の三年生の研修は、三班に別れて、平成十年十月六日(火)から十月八日(木)の二泊三日の行程で実施さ
前田剛学生主事。
京都・奈良方面班(奥野教授指導・前田剛主事補助)、東京駅集合、新幹線にて京都到着。京都市内及び奈良方面の史
跡などにおいて実地研修が行われた。また宿舎においては、卒論作成のための個人発表と指導が行われた。
速道を西に向かい、静岡県磐田市内の旧見付学校を見学、浜松を経て愛知県田原市にある渡辺睾山旧宅や博物
東海・三河・岐阜方面班(阿部・保坂・佐々教授・勝田助教授指導)、世田谷校舎集合貸し切りバスを使用し、東名高
の後、熱田神宮・宮の渡しを経て、犬山城を見学、岐阜金華山麓の長良川温泉に宿泊。卒論の個別指導が行わ
館を見学、三谷温泉に宿泊。夜は、卒論作成のための全体指導が行われた。翌日は、岡崎城など岡崎市内見学
れた。最終日、明治村見学の後、中央高速道を経由して、午後六時に無事、大学に到着した。
岡山・吉備路方面班(須田助教授指導)、岡山市集合、吉備路方面の古墳群及び建造史跡などを実地研修。また、宿舎
においては卒論作成のための指導が行われた。
平成十年十月二十一日(水)、午後一時より鶴川メイプルホールにおいて国史講演会が開催された。本年度は、新しい試み
◎国史学専攻講演会
七七
七八
として、会場を世田谷から鶴川に移し、本講演に先立ち、藤木海、佐藤雅子の現役大学院生と末木より子墨田区郷土資料館
研究員らの卒業生諸君に在学中や現在の研究状況などについて発表してもらった。熱の入った発表に学生諸君も真剣に耳を
の風景l」と題する講演が行われた。学生達が現在学んでいる鶴川地域の自由民権運動を中心とした講演に、学生達も熱心
傾けていた。三時からは、早稲田大学文学部教授安西邦夫先生の「地域の歴史を考えるl明治前期・青春の桃源郷鶴川地域
に傾聴していたようである。午後五時終了。
夏季実習は平成十年七月二十八日より九月五日の日程で栃木県宇都宮市に所在する根本西台古墳群の発掘調査。栃木県日
◎考古学実習
光市に所在する日光山輪王寺境内の家光公殉死者墓の実測調査。また、栃木県那須郡馬頭町の日本窯業史研究所において下
野薬師寺出土遺物の実測作業の実習と三班編成で実習を行った。
春季実習は平成十一年二月十五日から三月六日までの日程で栃木県河内郡南河内町薬師寺において下野薬師寺出土瓦の実
測・分類等の実習と日本窯業史研究所において下野薬師寺出土の土器並びに金属器の実測等の実習を実施した。また、宇都
宮市の根本西台古墳群の実測調査を実施した。指導には、須田勉助教授があたった。
平成十年度の史料学実習IⅡは、佐々教授の指導で平成十年七月二十八日、二十九日、三十日までの三日間、鶴川校舎
◎史料学実習
(メイプル研修室、史料実習室)において、昨年に引き続き、才野源士氏寄贈の阿部家古文書の解読・分類等の実習が行な
われた。史料学実習Ⅲ・Ⅳは、阿部教授の指導により平成十年七月二十八日、二十九日、三十日の三日間、群馬県黒保根村
民俗資料館において旧名主星野家文書の調査を中心に、学外における史料調査と古文書の読み方、翻刻文の作り方や、文書
撮影用カメラの使い方、などの実習が行なわれた。
◎教員移動
戸田有二 助 教 授 平 成 十 年 四 月 ~ 平 成 十 一 年 三 月 海 外 留 学 ( 韓 国 )
柏木一郎 非 常 勤 講 師 平 成 十 年 四 月 ~ 平 成 十 一 年 三 月
笹森
辻村
健一
純代
非常勤講師
非常勤講師
平成十年四月~
平成十年四月~
平成十年四月~平成十一年三月
(国史演習)
(博物館実習)
初期寺院の造寺造瓦の様相l飛鳥寺を中心と
縄文時代後期から晩期における関東地方の土
紫微中台についてl光明皇太后を中心にl
の歴史的真実l
た律令政策l
してl
義経の戦術と中世における馬の関係
近世八王子縞市における商人の動向
小林稔美
奥田恵子
佐々木彩
東北南部における律令支配の様相1瓦からみ
非常勤講師
的考察
渡辺京
能之
瀧音
平安貴族の男色について
近世無宿人の生態研究
◎平成十年度国史学卒業論文表題一覧
五十嵐良智
奉写一切経所における月借銭についての基礎
畑陽子
染谷幸枝
島田美咲
無宿人の取締りとその収容施設
白拍子の考察l芸能白拍子と白拍子l
黒澤剛
新選組と明治維新I動乱を駆け抜けた新選組
梢
酒井大輔
俊二
明治維新期の北海道開拓について
白壁
近世の婚姻と女性の立場l農村女性を中心と
植野
石堂亜希子
してl
環博多湾を中心とした製鉄集団の動向l古墳
製耳飾について
平将門の伝説について
多部田晶子
江戸時代における放火事件の実態について
松浦里枝子
武川いづ美
『葉隠』における武士の生き方
廃藩置県
小林亜紀子
人物埴輪の頭部表現における分析を中心とし
3世紀の南関東
て
明治皿年の政変
日中戦争初期における不拡大論について
西田奈美子
高野正浩
時代における供献鉄津からの考察l
長岡京についての基礎的考察
近世後期の蝦夷支配l寛成元年の蝦夷騒動l
織田信長と天皇・将軍
青木紫乃
山下浩史
高橋麻澄
大原雅之
田中健太郎
近世城下町における火災前後の防火対策
江戸時代の醤油販売についての一考察
荻田恭子
山本直人
渋谷朋子
根岸岳大
七九
幕末から明治期の漂流民による国際交流
八○
吉原変遷における仮宅
近世無宿人の生態研究
明治初期の会津藩について
道を中心として1
埴輪の生産と供給にみる地域間交流l生出
塚埴輪窯を中心としてI
上杉景勝の信濃支配について
平安時代の僧兵活動について
武蔵における大型古墳の消長について
水戸藩領宝永一撲について
本陣に関する一考察l日光道中・日光御成
大久保綾子
近世鷹場について
壬申の乱諸氏族の動向による一考察
藤井美絵
吉岡香代子
藩軍事力における譜代大名と外様大名との比
酒勾裕二郎
及川高男
関水正衛
杉森啓二
柄鏡形敷石住居趾の伝幡と土器形式について
高橋佐貴子
較I鉄砲を素材としてl
明治維新と英国外交
石橋直美
阿部敏勝
松本知美
会沢択郎
上田俊也
上野国新田荘と新田義重
佐々木竜郎
原野真祐
文雄
伊豆流刑中の源頼朝について
北条氏照について
橋本
良子
東国における渡来人の様相15,6世紀の
土器利用炉からみる縄文中期の画期
志保
長谷川宙輝
下野国足利氏と足利荘の一考察
中心としてl
ヤマト王権の東国経営と石製模造品l剣形を
瓦と大和山田寺鐙瓦の制作技法を比較してl
下総龍角寺の創建についてl龍角寺出土の鐙
上毛野においてl
水谷貴之
の開発l
治承・寿永内乱期における源氏内紛について
l頼朝と義経を中心にl
岩崎祥
災害と近世都市l明暦の大火における江戸
岩佐
大輔
山田
内山
篠田祐美
増澤
石田美香
に関する一考察
豊島
日本海軍第一航空艦隊の創設理由とその位置
北越戦争について
讃岐寛延一撲について
本山
後藤忠史
伊東伸洋
近世における乳製品に対する社会的見解
関
山地孝幸
手塚徹
武人埴輪の分布と変遷I主に関東の例を中
心としてl
明治維新と相馬中村藩
千利休の政治介入について
熊本好宏
土橋宣廣
越前谷理
高田亜紀子
和田道
近世の絵師について
大正期の移民問題に関する一考察
心としてl
下野薬師寺創建期天瓦の研究l装瓦技法を中
江戸時代の離縁
豪族居館出現の背景
芳貴泰
典宏明淳
佐々木友希黒黒
船船と
と日
日米
米和
和 親条約締結
山梨篤志明智
秀秀
とと本
明光
智光
本 能寺の変l光秀自筆覚書よりI
神崎昌裕応仁
乱乱
ににお
応の
仁の
おける足軽
和泉忠文今川氏の研究
たか’
近藤修日米日
交米渉
なな ぜ太平洋戦争は回避できなかつ
交’
渉l
えるI
八
荻島洋一郎織田信長の商業政策l楽市楽座令を中心に考
(文責・佐々)
一
東洋史研究室だより
一九九八年度の東洋史研究室の諸行事は次の通りであった。
◎博物館研修〈五月一四日(木)〉
八
在学生ばかりでなく卒業生も参加して盛会だった。
東京大学教授岸本美緒氏に『中国の「歴史」』という演題で御講演をお願いした。極めて明解な論旨で大変有益だった。
◎東洋史講演会〈二月一七日(火)〉
つ発表・質疑応答した。三年生も自由に参加し、次年度の卒論作製に備えた。
四年生全員と専任教員が参加し、午前一○時~午後六時にわたって実施した。四年生は事前にレジュメを準備し、一人ず
◎卒舗中間報告会〈一○月一四日(水)〉
阪の国立民俗学博物館を見学した。夜にはこれらの成果をもとに活発な報告・討論を行った。
立博物館の外、東洋史関係の展示品の多い藤井有鄭館・泉屋博古館等を全員で見学し、其の間グループごとに諸美術館や大
三年生が幹事役となり、一~三年の希望者が参加し、川又正智教授・奥山が引率して二泊三日の行程で実施した。京都国
◎関西研修〈九月九日(水)~二日(金)〉
の研修室で藤田忠教授のレクチャーを受けるかたちをとったので展示を見る時に大変理解しやすかった。
一~四年の学生全員と専任教員・担当主事が参加し、世田谷美術館の「三星堆遺跡特別展」を見学した。見学の前に館内
二
◎卒論研修〈一二月一四日(月)~一六日(水)〉
四年生全員と専任教員・担当主事が参加し、安房小湊で実施した。作製した卒論にそって各自レジュメを準備し、一人ず
つ発表・質疑応答のかたちをとった。往復路には大多喜城跡、国立歴史民族学博物館等を見学した。
正徳期の家丁と外四家について
笠川亨一
高橋達也
日明交渉についてl洪武・永楽を中心と
清代乾隆年間初期に於ける東三省の開発に就
前漢時代における「秦人」について
してl
いて
藤岡慎
例年の通り、日曜日をはさんで四日間にわたり、専任・非常勤の教員全員が主・副査となり、学生一人当り一・五~二時
◎卒論口頭試問〈一九九九年二月一二日(金)~一六日(火)〉
間に及ぶ詳細な試問を行った。
平成十年度卒業舗文題目一覧
明代国子監の監生について
城石雅代 朴珪寿の外交論l洋擾期を中心にl
矢沢由美 漢代の死刑について
高橋美紀 西夏の情勢と対外政策について
横田孝子 一八九四・五年の井上馨公使の朝鮮政策
白井雄一郎
近代移行期における朝鮮の対清観の変遷
清代塩専売制の意義
明代中期の北辺防衛対策について
楊躍眞伽について
孫呉政権による江南開発
モンゴルの掠奪l掠奪の意義l
清中期嘉慶白蓮教反乱
犬塚由起子
花澤一欽
佐藤宗子
宇野一成
古田憲司
竹内辰成
村井守
元代の科挙について
明代初期の鉄について
太平天国の宗教について
山 澤 正 信 明代正徳年間の災害と応急対策について
吉 田 匡 昭 府兵制l皇帝と府兵の関係I
郡司徹
岩下哲明
北宋末期、宣和初期における宋政府の現実
チベット版図化以降の清朝のチベット統治政
宣官劉理と官僚の対立について
小林真琴
鈴木真澄
松沢英之
策
雍正年間における琉球の規禮銀について
八
笘祥隆
猪股亮
徳田安史
三
岡本純
若林智司
足立茂雄
太田守彦
加藤修也
澤井裕輔
茂木英克
松本鮎美
万暦朝鮮の役と明
前漢初めの南北軍について
福州の州学学田と教育意識について
任侠的結合関係について
宋・遼間の交通と貿易について
唐代後半期に於ける兵卒について
宋代の兵器について
宋代の水利施設の管理
三国蜀滅亡の要因について
清朝の支配権確立と織造
後漢後期における清流勢力・苣官・外戚の政
赤石真
山根佳代子
於扶羅以降の南単子について
治抗争について
吉田研一
奥山彩子
清朝の対チベット政策
春秋時代末期から戦国時代初期にかけての
元暁の思想形成過程と布教活動
猿渡美由紀
藤田善紀
田渕幸
「休閑」地の原因について
梅村秀俊
唐代後半期における観軍容使について
秦代における「赤い色の衣服」についての考察
金代科挙制度
本多芳樹 北宋最盛期の政治の実体l仁宗朝前半期
を中心にl
高崎麻友子
大量亡命事件
二つの東トルキスタン共和国と一九六二年の
田中康生
小林祐輔
柴田文隆
塚本崇
八四
日明外交についてl嘉靖年間を中心とし
夏王朝についての一考察
てI
後漢書宋紹興刊本(百衲本)
史記宋慶元黄善夫刊本(百衲本)
中国における去勢の起原(川又)
詩經高田眞治訳注(漢詩大系集英社)
説文解字説文解字注綴笛櫻滅版(上海古籍出版社)
周攪欽定四庫全書周攪注疏(世界書局)
八五
-26-
谷
泰
1997 「神・人・家畜牧畜文化と聖書世界」平凡社
寺尾善雄1985 「宣官物語男を失った男たち」東方選書(1989河出文庫)
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XⅥ
王華文1997 「中国闇人陰陽裂変」甘粛人民出版社中国人叢書
王興亜他1993 「富官傳」河南人民出版社
王玉徳1994 「神秘的第三性中国太監大写真」華中理工大学出版社中国特殊
文化叢書
渡辺和子
1995新アッシリア時代の富官一印章をてがかりに「文明学原論江
上波夫先生米寿記念論集」古代オリエント博物館編山川出版社
渡辺和子
1998アッシリアの自己同一性と異文化理解「岩波講座世界歴史Ⅱオリ
エント世界」岩波書店
謝成侠1959 「中国養馬史」科学出版社(1976千田英二訳「中国養馬史」日
本中央競馬会弘済会)
謝成侠編1985 「中国養牛羊史」農業出版社中国農史研究叢書
余華青1993 「中国富官制度史」上海人民出版社
張仲葛他1986 「中国畜牧史料集」科学出版社
伝承古典は以下の版本をもちいた
アリストテレース 「動物誌」島崎三郎訳岩波文庫
ヘーロドトス 「歴史」(松平千秋訳)岩波文庫
ストラボーン
PliniusⅣα奴ra"sHistoffa
theLoebClassicalLibrary
StrabonosGeOgfUP""o"
theLoebClassicalLibrary
クセノポーンXenophonCymPaed"theLoebClassicalLibrary
春秋左史傳左傳正義(廣文書局)
韓非子金谷治訳注(岩波文庫)
漢書宋景祐刊本(百衲本)
-25-
八六
プリニウス
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川又正智1997パジリク出土去勢馬についての疑問「草原考古通信」8
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芒来・楠瀬良
1998 日本在来馬のルーツ:モンゴル馬?!⑥「馬の科学」
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松浪健四郎1978 「シルクロードを駆ける」玉川選菩
松丸道雄・高嶋謙-1994 「甲骨文字字釈綜覧」東京大学出版会
三田村泰助1963 「宣官側近政治の構造」中公新書
三田村泰助他
1982宣官「歴史よもやま話東洋篇」
(池島信平編)文春文庫
三浦雅士編1995 「大航海」7 (特集去勢の歴史)新書館
籾山明
1980甲骨文中の“五刑”をめぐって「信大史学」5
尾崎雄二郎
1997漢字おタク練成講座⑫疑ウ可キ者無シ、而モ浅人妄リニ之ヲ
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尾崎雄二郎他編
Piggott, Stuart
1992 「大字源」角川菩店
l983
7ソ1gEQγ"gsIWheeled7ツロ邦spo"/ク℃沈めeA"α〃"c
八七
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佐原真
1993 「騎馬民族は来なかった」NHKブックス
白川静
1975禿族考「甲骨学金文学論集」朋友書店
-24-
がえたのである。しかしその後なかなか手をつけることができず、どうも感覚的に
理解しがたい点もあり、資料もやっと見はじめたところで、本稿は中間報告という
よりは、開始宣言というべきものであろう。御教示を請う。
なお本稿は日本中国考古学会関東部会月例会において1996平成8年2月口頭発表
したものと〔川又1993;1997〕をふくむ。
岡村秀典(京都大学)、片山一道(京都大学)、末崎真澄(馬の博物館)、田名部
雄一(麻布大学)、中田順寿(中田競走馬研究所)、西中川駿(鹿児島大学)、本郷
一美(京都大学)、京都大学人文科学研究所「先秦文物の研究」共同研究班、草原
考古研究会、日本中国考古学会前記月例会、の諸先生にご教示をたまわったことを
感謝します。
(己卯孟春記)
文献
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蓮見治雄・杉山晃造1993 「図説モンゴルの遊牧民」新人物往来社
-23-
八八
顧蓉・葛金芳1992 「霧横帷摘一古代宣官群体的文化考察」険西人民教育出
こんだ〔冨谷p.90]こともそれを暗示しているかもしれない。
注4 「易」大畜に“六五鎖之牙吉” とあるのを、去勢豚のようにおとなしいの意
中国における去勢の起原(川又)
とする説もあるが蹟は償(倒)とする説や、家の牙を欠くとの説もあり、またこ
の部分の成書時期も問題である。中国の本でもこれを根拠に西周初期の去勢術の
証とするものがある。
「韓非子」十過で“豐可自噴(蹟)” とあるのは去勢の意で
はある。
注5共立女子大学に西安交通大学から寄贈された第二号銅車馬の模型がある。原
物から型どりして作成した精密な模型の由である。この模型を実見したところ、
たしかに去勢馬のようである。共立女子大学谷一尚教授の好意により実見するこ
とを得た。
あとがき
本稿の問題に手をつけたのは、馬利用史を手がかりとして遠古の東西交渉史の研
究をはじめた中であった。私は、ふるい段階から後の時代へと研究をはじめたせい
もあり、牧畜地帯でさえ馬については他の家畜とちがって、古代人は未去勢雄馬利
用が主であるとかんがえていたので去勢のことには重点をおいていなかったのであ
るが、当時佐原真氏が日本の騎馬民族征服王朝説に関連してさかんに去勢を論じら
れる影響で、去勢を知っていれば去勢馬を使用するはずだと短絡的にかんがえる人
もいるらしいのが気になった。質問をよせてくる人もあった。それで去勢のことを
はじめて書いた〔川又1993]。そして、去勢馬利用は何時から、何処からなのかと
あらためて疑問におもい、先学の研究をさがしてみたが、結局わからなかった。
八九
そのころある研究機関で、世界の匡官をテーマにしたシムポジウムを企画した
(今のところ実施されていない)。企画者は西アジア研究者で、中国については誰が
研究しているのかと間うてきた。中国の苣官ほどの問題は多数研究しているだろう
からしらべてみようと返答したのであるが、管見では宣官の初期のことは研究され
ていないらしいことを知り、また今もっとも知られている宙とか弱字の用例もふる
くさかのぼらないことを知り、そこで中国の初期の分は自分でやってみようとかん
-22-
いのではあるが。西周代に仮托される諸伝承文献はむしろ戦国から漢代にかけて
の人人の意識を反映している。
五春秋代、前第7世紀には君主側近としての宣官が存在するらしい。君主側近で
しかも宣官である故に勢力を持つ者が出現しているならば、もっと以前から宣官
が存在したことを暗示する。去勢が刑罰の一種であったこともたしかであろう。
家畜去勢のことは不明である。
六戦国代、宣官は存在する。家畜去勢はあったらしい。
七漢代以降の人間および家畜の去勢関係の漢字を前にさかのぼっていくと、転用
した字とかあたらしい字ばかりで、ふるいオリジナルな去勢をしめす字がない。
これはそれだけを厳密にかんがえると、去勢の風のあたらしいことをしめすか、
もしくは伝統の断絶して復活したことをしめすことになるであろうか。
なかなか困難な問題である。骨、文字、図像表現、何にせよ確実な根拠が要る。
この問題にかぎらず、通常いわれていることも、根拠のはっきりしない推定が実は
案外おおいものであると感じる。
注
注1
英語版の前にロシア語版の報告書が1953年出版されており、このロシア語版
でもすでに全部去勢馬となっているという 〔早稲田大学雪嶋宏一氏教示〕・ど
ういう事情によるかはわからない。全部去勢馬というのはやはりどこかでおこっ
た誤解ではないか。
注2筆者が1994年と1995年、ウズベキスタンとキルギスタンを旅行中確認できた
騎乗中の馬はすべて、といっても数はおおくないが、未去勢雄馬であった。ウズ
崎建三氏(創価大学)も筆者とおなじ観察結果である。アフガニスターンについ
ては松浪建四郎氏がブズカシ競技調査でかなり丹念に見てまわって去勢馬をみて
いない〔松浪1978 p.136~p、 140)。ここらは誰もがみとめる牧畜地帯である。
注3
ヒトの刑罰と家畜処理が何か共通のイメージをもっていたかもしれないのは、
漢代囚人を刑場にうつす時、濫車(禽獣をいれる車)や厨車(食物運搬車)では
-21-
九○
ベキスタンについては、菅谷文則氏(滋賀県立大学)とタシュケント留学中の川
勢豚の犬歯は雌と区別がつきがたくなることから、雌とした中に去勢雄があるので
はないか、去勢は黄帝時代からおこなわれているのだし、と論じ、今後の課題、と
中国における去勢の起原(川又)
している〔黄1996 p.521)。
この報告は遺跡の時代を3期5段に分かち、第1段は龍山晩期、第2~4段は
"夏代"、第5段を早商、としているが、この論にあうのは、第2.3段である。第
2段は、雄未成年l ;雄成年1 ;雌未成年1 ;雌成年4,第3段は、雄無し;雌未
成年7 ;雌成年2,である。
豚は役畜でないから (まったく役畜でないとはいえないのだが)、家畜であるこ
とが確実ならば居住地から遠方へ行くことがなく、統計をとるにはよさそうである
が、この報告では第1~5段全体でも21個体にすぎないので割合をいうにはすぐな
すぎる。たとえば、雌雄は均等でなくとも両方なければならないのだから、第3段
に雄がないのはおかしいし、第5段に雌がないのもおかしいであろう。しかし、部
位によっては去勢雄と雌の区別がつきにくいので、雌とした資料に去勢雄がまじる
可能性がある、というのはもっともな指摘である。
Ⅵまとめ
今の段階で言えることは以下のようであろう。
一去勢の慣行は人畜ともにユーラシア西半の方がふるいのはたしかである。おそ
くとも、前第3千年紀には人畜とも存在している。人間より家畜が先であろう
(家畜のなかでは馬の去勢はおそい)。しかし、ユーラシア東半へ伝播したのかど
うかはわからない。
九
一
二中国では、股商以前については何もいうことはできない(あってもおかしくは
ないが資料はない)。
三股商代には、文字からすると人間去勢があるらしい(その文字は後へつづかな
いようである)が宣官を使役していたかどうかはわからない。家畜については不
明である。
四西周代のことは不明というべきであろう、本稿では金文についてしらべていな
-20-
闘しているそうであるから特別な闘牛か(去勢したら闘牛には向くまいが)。牛は
馬などよりも垂れさがっているから、手術しやすいのであろう。後漢代では甘粛武
威出土の有名な銅馬列も去勢馬であるという〔佐原1993 p.21]・
通常、図像資料では、厳密にいえば、未去勢雄畜の確認ができることがある、だ
けである。たとえば、険西興平出土の青銅製鍍金馬像(前漢)は立派な未去勢雄馬
である〔「文物」1982-9)。作成の手ぬきがあり得るのであるから、よほど写実性
のたかい作品以外は去勢畜と雌の確認に完全な信頼をおくことはできない。
V中国一骨格資料
河南省安陽市郊外いわゆる股嘘の出土人骨のなかに、男女の区別のつきがたい例
があり、発掘担当者はそれを官官とかんがえたらしい〔尾崎1997〕。この詳細な報
告に接することはできていないが、おそらくそれだけでは、去勢の可能性がある、
としか言えないであろう。なぜなら、家畜の場合は現在もおおく去勢をおこなって
おり、確実な去勢畜から骨学上の特徴がわかっていてそこから鑑定をおこなってい
る。種と手術年齢によるわけであるが、体格やプロポーションの変化、化骨化のお
くれ、部位では特に骨盤・長骨端部、角、等を同一品種内で統計的な比較から出発
して判断していて、少数個体だけで判断しているのではない。今も昔も幼去勢をす
るらしい羊などについては特に信頼できるものであろう。しかし、ヒトの方は、確
実な宣官の骨格が形質人類学研究者におおく知られていないようである(それに去
勢しなくともホルモン異常もめずらしくないそうである)から、原理的にすでに困
難がある。骨格でなく外貌や心理の変化については、近代中国宮廷宣官やカトリッ
ク教会歌手カストラートのことから知られていることがらもあるが、遺跡では役だ
九
一
一
つまい。
家畜骨格に関しては内蒙古朱開溝遺跡出土の豚についての報告がある。これによ
ると、本来雌雄は1対1であるのにこの遺跡では、犬歯の性差鑑定のできた分では
雌がおおいので、人間の関与の結果とする。そしてその中でも未成年雌がおおいの
で、未成年雌を屠殺すれば繁殖に不利であるから、おかしい、と推理し、現代の去
-19-
中国における去勢の起原(川又)
図5画象石(後漢、河南方城)
〔中国農業博物館編「漢代農業画像碑石」〕
家畜に関しても先秦についてはまだない。陳西省臨滝、始皇帝蝿山陵のいわゆる
兵馬桶の馬備が写実的なので去勢馬とわかるといわれている〔佐原1993
p.21)。
筆者はこれをたしかめてはいないが、同陵のいわゆる銅車馬2輔の馬は報告書の図
〔「秦始皇陵銅車馬発掘報告」図一○九~一一五〕によると写実性がたかいのでたし
かに去勢馬のようにみえる。注s
すると兵馬桶によって始皇帝のころ馬去勢があったとすることはできようし、先
述のように驍字からも去勢馬存在を推定できるとしても、その解釈としてはふたつ
可能であろう。第一は単純に、「詩」のころは文字どおり四牡で(秦風小戎でも
"四牡孔阜”とあるが)、始皇帝のころまでのどこかで去勢馬利用にかわったとみる
ことである。第二は、
「詩」は古語をもちいて四牡といっているが実はもうそのこ
九
三
ろは去勢馬利用であったのだ、または牡字が去勢畜もふくんでいた、とかんがえる
かである。どちらにせよ、いつから、そして地域的にどこから開始されたかが問題
であることにかわりはない。
後漢代画象石に、走弱法、つまりはしりまわる牛を手ぎわよく去勢手術してみせ
る、という見世物を表現したものがあることは諸書に引かれるところである〔図
5〕。 この牛は街中の見世物であるから役畜であろうか、あるいはこの図は熊と格
-18-
「説文解字」である。牛・馬・羊・犬・豚のことが知られる。
カイ
特驍牛也〔二上〕(段玉裁注は、驍轄馬也、謂今之弱馬、と)
シロウ
驍轄馬也〔十上〕(段注:轄者棟牛也)
ケツ
褐羊段轄也〔四上〕
イ
茨驍羊也〔四上〕
イ
椅糖犬也〔十上〕
フン
積茨家也〔九下〕(段注:渓騨羊也、驍轄馬也、轄騨牛也、皆去勢之謂也、
或謂之劇、亦謂之捷)
ヰ
獺蹟也〔九下〕注4
これらの字は轄騨といった字を順ぐりに使用して説明してある。「説文解字」よ
り後の時代をふくめて、基本的に、去勢関係に使用される、割・去・攻・庵・害・
諮は切除するとか損傷する、ふさぐ、という意味の字である。賞は刎と説かれるし、
弱字の扇は剪とされる。
シ■ウ
しかし、
“驍”はどうであろうか。
驍字の音は乘にしたがうのであるが、馬の方には去勢の意味がないから、去勢の
意味も乘に発しなければならない。もちろん弱の扇が剪であると説かれるように、
乘の音だけに去勢の意味があってもよいのだが、この場合そうではあるまい。乘字
は本来馬車に関する文字であった。そこで、車輔牽引用馬だから去勢の意味が生じ
たという可能性がある。すると、車用馬には去勢馬があったということになる。故
に次のⅣの始皇帝兵馬桶をあわせかんがえるとこの驍字こそが去勢馬の存在をしめ
すものではないか。漢字分類でいう"会意形声文字"〔尾崎他1992 p.2044]である。
九四
Ⅳ中国一図像資料
人間に関して、アッシリア宣官像についておこなったような研究〔渡辺1995〕は
先秦に関してはない。唐代墳墓壁画に富官のあることは紹介されている〔佐原1993
p. 163)。
-17-
のは第一には調教であろう。「荘子」馬蹄に馬の調教を皮肉って
焼之、易I之、刻之、雛之、連之以鯛韻、編之以早桟----飢之、渇之、馳之、驍之、
中国における去勢の起原(川又)
整之、齊之---‐
とあるのが馴致調教の各技法であるが、この中には去勢とみられることがない。攻
特・攻駒が去勢としても意味は通ずるのであるが、この「荘子」にせよ他にせよ、
また馬書にも去勢馬をしめすような例がない。「周礼」の成書の問題もあるけれど
も、これを馬去勢存在の証拠にはできない。
謝成侠は、秦漢以前に去勢の技術はあったのであるが馬にほどこすことは稀で
あった;秦漢の激しい戦争から軍馬に去勢することが盛んになった;韓信によるで
あろう、としている〔謝1959 p.41)・根拠はしめしていない。
しかし、“四牡”が去勢馬であってもよいという説も可能性はある論なのである。
林俊雄(創価大学)が中央ユーラシアで調査したように、現在自分達は去勢馬に騎
り、中世の先祖達も文献では去勢馬に騎っていた地帯でも、先祖の中世英雄達は未
去勢雄馬に騎馬していた、と伝承している。これは武的な象徴として未去勢雄馬が
あるらしいので、アッシリアレリーフなどで必要以上に未去勢であることを誇示し
ているような印象であることをかんがえると 〔図l)、文字や図象の表現が現実そ
のものであるかどうかにはやはり疑問がのこるのは否定できまい。それに文学は古
語をもちいる傾向のものであるから、現実よりすこし昔のことを表現していること
は、理想を表現しがちであることとともに、何時もあるであろう。また去勢馬も雄
ではあるので、区別した名称が使用されないこともあったかもしれない。ともかく、
戦国末漢初、雌馬は使役したりすると特記されるような普通でないことであった
〔「韓非子」外儲説左下にある孫叔散の話;「史記」平準書]。
九五
漢人以後の注によらずに、確実に先秦文献だけで馬および他の家畜去勢をいうの
は困難なことであろう。あれだけ物を書きわける漢字の中で、その字がはっきりし
ないのは不審である。
Ⅲ-4漢代の字書における去勢畜
古代の集大成として漢代の字書をみてみると、家畜去勢についてよくわかるのは
-16-
疑問がのこるのである、後人には我々の知らない根拠もあったのであろうが。宣官
を表現するとされる用語は先秦でもいくつかあり、漢三国以降はさらにおおくここ
へ一一はしるさないが(おそらく言うをはばかるものであったから言い方が増加し
たのであろう)、みな、場所・職務・刑罰・浄汚などをしめす文字からの借用転用
である。ずばり去勢手術をしめす図2.図3の甲骨文字▲のような文字は使用され
ない。そこに不確実性をのこす。原義のちがう文字が転用されている以上その宣官
への転用初現を確実に知らなければならない。そして去勢に関して、股と周の習慣
がおなじであるか否か、また春秋各国に地域差があるか。しかし、春秋代以降の宣
官存在自体は確実であろう。“直者令”なる職もある〔「史記」趙世家〕。
Ⅲ-3伝承先秦文献における去勢馬
「詩」では通常四頭立馬車の馬を“四牡”という。
四牡誹誹〔小雅四牡〕 四牡験駿〔小雅六月;小雅采薇〕 四牡脩廣〔小雅六月〕
四牡突突〔小雅車攻〕 四牡既佶〔小雅六月〕 四牡彰彰〔小雅北山〕
など。また
馴駒牡馬〔魯頌駒〕、秘彼乗牡〔魯頌有秘〕
ともいい、“牡”つまりこの場合は牛篇であっても牛ではなく雄馬に牽引させてい
たことが知られる。そこで
馬牛其風、臣妾邇逃〔「尚書」費誓〕
について、戦場で馬や牛が単にはぐれる。にげるのではなく、発情しているからで
あるというが〔「左伝」僖公四年の“風馬牛不相及”の孔穎達疏〕、戦場で発情する
ならば当然去勢していない馬牛を使役していたということになるので、“四牡”の
傍証になる。すなわち、古代中国では未去勢雄馬使用であったのだ、ということで、
世界各地とおなじ習慣であったのだ、ということもできよう。これに対して「周
礼」の“攻特”〔夏官校人〕・“攻駒”〔夏官厘人〕を去勢とする説が漢代以来ある
〔鄭司農〕。攻は意味のおおい字であるけれども、この場合は「詩」小雅鶴鳴の“攻
玉"、
「周礼」考工記の“攻木”“攻金”などの例にみえる“何かをつくりあげる”
意味であることはたしかである。どのようにつくりあげるのか。馬をつくりあげる
-15-
九
六
はうすいことについては、後漢末哀紹が宮中へ乱入して苣官を殺害したときに、
或有無須(鐙)而誤死者〔「後漢書」賓武何進伝〕
中国における去勢の起原(川又)
鐙のない者が富官とまちがえられてころされたとか、あちこちに記述があり、先述
のアッシリア宣官の表現とも同一であるし、現代医学の所見ともあう。“富者”が
去勢手術を受けた人間であることはあきらかである。これらからすると、すくなく
とも漢人の用語でここで自宮ということから逆に、“自”でない宮刑が去勢刑であ
ることもわかる。腐刑が同一であることもわかる。自宮というのは戦国秦漢の記録
に無いという〔三田村1963 p.39)が、豊可のように自宮してそれを目ざした者
がいたということは、そのころすでに君主側近としての宣官が存在していたという
ことになる。制度といえるものであったかどうかはわからないが、わざわざ自分で
志願するというのはそうとう出世あるいは権力者に接近できるとみたからであろう。
管仲の言ったとおりである。事実豊可はかなり権勢をふるった。しかしこのころ宣
官が軽蔑の対象であったこともわかっている。これは、単に身体の一部が欠損して
いるからという理由でもあったらしいが、捕虜の処理や犯罪者の刑罰からはじまっ
ているからでもあろう。晋文公時の“苣者履親”は自分で、“刑餘之人”“刀鋸之
餘”と称している。富谷至は、伝統的に“宮刑”が去勢であり本来性犯罪の罰(反
映刑)とされていることを紹介したうえで否定し、追放刑の一種(動物界からの追
放)とする解釈をだした。しかし具体的な根拠は漢代の注釈からであるとしている
〔冨谷1995
p.102)・
一方、不確実な資料としては先にみた「周礼」をはじめ、「尚書」呂刑、「史記」
周本紀穆王の段にでる甫刑(呂刑)、「詩」秦風車隣・小雅巷伯・大雅召昊、などに
でてくる、昏棟とか五刑五罰のうち宮罰之属三百、棟刑・寺人・悶人・奄人・奄士
九七
などの刑罰や官職をしめす一連の用語がある。
これら 必寺人”“内人”等が宣官を意味するとされていることは周知のことであ
る。漢三国以降の人がそう意味していることは諸注でわかるが、先秦の用例がすべ
てそうであるのか、またそうでないなら、どれが、何時から、宣官の意味になるの
かは断言できない。宮とか寺・内の本義に苣官の意味があるのではない。先秦の用
例に具体的な宣官としての記述があるわけではないので、後人の注によらない場合
-14-
p. 157;「文物」1972-8
p.18;「考古」1972-3
p.19、いずれも段代〕・脚のことは
去勢とちがって骨ではっきりわかるとはいえ、事故によるか刑罰によるかは判断が
むつかしいが、両脚なら、事故よりは刑罰の確率がたかいであろう。藁城台西の例
は占卜関係者ともみられるから、うごきまわらなくともよい仕事ではあったものか。
すると後世いう五刑等の受刑者を使役することの起原は、甲骨資料からもいわれて
いる 〔白川1975 p.610)ように、やはりふるくさかのぼることができるのではあ
ろう。
もうひとつは、身体刑が犯罪者や捕虜の標識としてはじまるとすれば、鯨・別な
どはたしかに外からみてわかることである。宮刑は実際にはわかるとしても、すこ
し性格がちがうであろう。
この甲骨文字にもどってかんがえてみると、股代からヒト去勢が存在することは
確実であろうが、富官として使役したのかどうかはまだ疑問がのこる。また使役し
たとしても宣官使役を目的としたものか、たまたま結果としてあったことなのかは
わからない。
家畜去勢についての甲骨資料として、いくつか主張されるものはあるが〔謝他
1985 p.84(これは出土遺跡についてはあやまっている)など〕、はっきりしない。
Ⅲ-2伝承文献における先秦官官
まず「史記」をみると、後述のように問題はのこるのであるが、通説では、はや
ジュチロウ
い例として、前第7世紀中頃、春秋斉桓公の時の豊弓〔「史記」斉太公世家〕や晋
文公の時の履親〔「史記」晋世家〕をあげる。おそらく固有名のわかる確実な宣官
の初見である。豊弓については、“自宮以適君”自宮して君主側近になった“富者”
た人間であることは(「史記」は“富者”と書く)、たとえば秦王政の母后が擢毒を
ひきいれる時、毒が匡官になりすますのに“詐腐” して
抜其頻眉、爲宣者〔「史記」呂不草列伝〕
とあるから、これだけでも、腐=宮=宣者、が去勢のことと本文だけでわかるし、
実際は膠毒が富者でなかったから、子ができた、とわかる。宣官の頚が無いあるい
-13-
九八
と書かれる(「韓非子」十過篇では“豊弓自噴、以治内”とある)。富者が去勢され
古代人の観念の一部をしめすものではある)、中国のみならずおおくの地域でみら
れることではある。が、しかし当初からそういうものであろうか。捕虜や罪人は信
中国における去勢の起原(川又)
頼できない者であり、反抗的なものである。それを傷つけたらもっとうらむであろ
う。きびしい監督下で単純な労働をさせるならともかく、普通の、守門とか、まし
て君主のちかくで使役するなどということは物騒なことといわねばならない。趙高
のごとき者はいつでも予想できるのである。
しかし、やがて受刑者の大部分は従順になるという心理的な変化〔三田村1963
p.21)が確認されてか、かつての敵や罪人も用途があるということから制度とし
て、特に宣官の場合は、後宮に性能力のある男性を女性群のなかにいれておいては
問題であるから(この点はまさに家畜飼育からおもいつかれたものかもしれない一
近代人なら大力の女官でもよいとおもうところである)、ちょうどよいということ
になり、さらに、忠実な側近への道ができてきたのであろう。
子孫のない者こそ信用できる、 というキュロス 〔佐原1993
ンⅦ-5〕 と後第10世紀南漢の君主〔三田村1963
p.152;クセノポー
p.29]には時代と地域をこえた
同一性があるO "君主の心身を柔かくささえるソファのような存在”であるという。
〔三田村1963
p.92]・
後の時代で宣官を、“刑餘之人”とか“刀鋸之人”“刑臣”などとも称するのはや
はり刑罰を起原とするからであろう。処刑の目的が宣官なのではなく、処刑の結果
として富官が誕生したのであろう。
それにはじめから労働力として使役するつもりならば、近代人の発想としては、
髪を斬るとか入墨をしても労働力として損失はないが、脚などを斬っては労働力と
してはどうか、ということになる(しかし耳や鼻や性器を斬ってもそうかわりはな
九九
いものか、 ともかく近代合理主義でかんがえるのはよくないが)。逃亡させないと
か反抗させないとかの目的もあったものか。さきの「周礼」秋官司冠で、月リ者つま
り脚きり受刑者に囿動物苑を守らしむ、とありまた「韓非子」外諸説左上にも“所
朗者守門”脚きられし者門を守る、とある。遺物にはたしかに脚のみじかい門衛が
表現されたものがあり〔「陳西出土商周青銅器(二)」七七;「文物季刊」1989-2
p.
46、いずれも西周代〕、脚を斬られた遺体も出土した例がある〔「藁城台西商代遺祉」
-12-
ジ
としての別(脚きり)とか剣(鼻そぎ)・刑(耳そぎ)は、肉体の一部分を段傷す
るのであるけれども死なせる目的ではない。もとより、傷がちいさいから死なない
というものでもないので、ゆっくり死なせるということもあり得る(去勢、なかで
もB去勢は肉体の一部分とはいえかなり危険なので初期には結果として死ぬこと
もおおかったであろう)。生かしておいて放置し苦痛をあたえるだけなのか、処理
後に何か使途を予定していたのか、目的ではないが結果として生存しているから何
かに使役しようというのか。その場合、死体処理とはちがう問題がある。
対家畜からはじまったことならば、去勢とはころすためではないのであろう。
"五刑”など古代の刑罰として伝承されるものの中では、死刑は別として、去勢が
人畜に共通する処理方法である。墨・尭刑は目印としての家畜烙印・耳印にあたる
ものとしても、別が家畜処理に無いのは、役畜としてつかいものにならなくなるし
だいたい後で死んでしまうから当然である。注3家畜の去勢はころすためではなく、
後の用途が前もって予定されている。家畜去勢が先にあって、人間に応用されたな
らばやはり用途が予定されていたのであろうか。人間の場合は捕虜や罪人からはじ
まるなら、憎悪をともなうのであろうし、死んでもかまわないという乱暴なもので
あったかもしれないから、手当がわるくて死ぬことは多々あったとしても、死は目
的ではなかったであろう。この甲骨文が、別についての例とならんで、“死せざら
んか” と貞う、と読むのであれば〔籾山1980 p.23)、なおさら死刑ではないこと
になる。
去勢は異族に対する征服の誇示〔三田村1963 p.21)・捕虜の処理からはじまっ
たとされている。肉体の部分殴傷の最初が単なる復讐・見せしめ・征服の誇示の単
純な動機、つまり心身に苦痛をあたえるだけの単純な目的、であったろうことは、
ずかしめようとした〔「左伝」昭公五年〕話がそのような気分をしめしているとし
て納得できよう。特に高貴な身分の者に対してはまず征服の誇示であったろう。そ
の処理(後には刑罰としても)をほどこした後、その捕虜・罪人を使役するという
のは(たとえば「周礼」秋官司冠掌裁に“墨者使守門、則者使守関、宮者使守内、
別者使守囿、尭者使守積”とあるのは「周礼」がいかなる成立にせよ股代より後の
-11-
一○○
よく知られた、春秋楚の霊王が外国である晋の臣韓起を闇し羊舌胖を宮して晋をは
▽。
中国における去勢の起原(川又)
名■声
十口I
ジ』
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年
5998
▲図3
甲骨片〔「甲骨文合集」5996~5999〕
、
堪○隆
ぐ図2
甲骨片〔「甲骨文合集」525〕
■
一
○
一
必 物篭昼
図4甲骨文字牛の雄(牡)、羊・鹿・馬の雄〔「赤塚忠著作集」七〕
-10-
5999
Ⅲ,中国一文献資料
Ⅲ‘-1
(
甲骨文字における宣官
:庚辰ト、王、朕▲完、不■囚(死?)‐--‐ 〔「甲骨文合集」525〕
〔図2〕
i .禿の上の字▲は後世の漢字に無いが、しいてなおせば土に刀であろう。刃物のか
ケツ
ギ
、バツ
だわらに斬る対象がおいてある字である点は、別字や則字や伐字と同構造であり、
'
、 ;‘
おおくの研究者がかんがえているように去勢を意味する字であろう〔白川1975
p.552他;籾山1980 p.25;尾崎1997.p693)・佐原分類での、全体を除去する"B
去勢”であろう〔佐原1993 p.120)・中国では後世、人間はB去勢であり、家畜
は精巣だけを除去するA去勢のようであるが、それがもうはじまっているのか。
後世の字形をみると、土は同形でも、たとえば社字の場合の土は音ト(和訓つち)
であるが、牡字の場合の土は雄性性器であって“つち”ではない〔図4〕
(ただこ
の問題の文字▲と図4はすこし形がちがうが、人間と他動物のちがいであるかもし
れない)。そしてこの文章は全体の意味は不明ながら、売人の去勢に関するもので
あることはわかるし、祭祀に関係するであろうこともわかる。ただし、去勢処理行
為「売人を去勢する」であるか、処理後の状態つまり「去勢してある売人」の意味
であるかは、これだけからはむつかしい。この字はあと4片の甲骨で知られるがみ
な文章をなさない破片であることが惜しい〔図3,「甲骨文合集」5996~5999)。
この売人をどうしたのであろうか。単なる犠牲であろうか。後世いうところの苣
官として使役するのであろうか。股王朝において、とらえてきた売人を多数犠牲に
供したことはすでに周知のことであるが、使役された売人もいたことは主張する説
がある 〔白川1975 p.614など〕 ものの、なにしろこれは筐官?についての極少例
である。籾山明は去勢を股代においては法制上の刑ではなく隷役するためであると
した〔籾山1980 p.25)・売人の身分によるのかもしれない。
身体のどの部位を斬るか、斬ってどうするのか。後の時代のこともあわせて考察
してみるしかないが、死刑にせよ犠牲にせよ、斬首とか腰斬・甲骨伐字は斬る場所
こそちがえ、目的は殺害であり、あとは死体を処理するだけである。しかし、刑罰
-9-
一
○
二
に雄性化しているから骨の形態としては区別がむつかしい)ともいう。長骨がなが
くなる説とは逆に、幼去勢するとおおきくならないから成長してから去勢する、と
中国における去勢の起原(川又)
の話もモンゴルでの間書として、ある〔蓮見他1993 p.79)。これはモンゴル人獣
医学者も、あまりわかい時去勢すると成長が阻害される、と述べている〔芒来他
1998 p、66)・種と年齢によっておなじではないらしいが、判断のつきかねる話で
あり、専門家のさらなる教示をねがうところである。
筆者はこれらパジリク古墳去勢馬についての疑問を、馬の家畜化研究で名だかい
アンソニー(D.W・Anthony)主催のInstituteforAncientEquestrianStudies
に問うたところ、同所Ⅳ@z"sJe"erNo.3(1996年秋号p.5)に回答が載った。この
回答は古代車馬研究の老大家リタウエル(M.A.Littauer)によるもので:ヴィッ
トは骨学以外の根拠、凍結により保存された軟部についても知っていたとし、クセ
ノポーンのイランに関する記述などからしてもそのころ馬去勢はあったのだし、ス
テップのような大馬群を飼育するところでは去勢をおこなったにちがいない、とし
ている。長骨は幼去勢によりながくなる、プロポーションが変化する、との説であ
る。これは質問も簡単なものであり、回答もみじかいものであるが、さきに述べた
疑問はまだのこる。
ここで述べたいのは、パジリク古墳群とその周辺に馬去勢が無いということでは
ない。クセノポーン〔Ⅶ-5〕などからすると、この年代には馬去勢があっても
(他の家畜にも人間にも既にある)、おかしくはない。パジリク古墳群はスキュタイ
系文化であるが、すこし後代のストラポーン 〔Ⅶ-4〕はスキュタイ人は去勢馬に
騎ると書いている(プリニウス 〔Ⅷ-66〕は雌馬だという)。馬去勢はおこなって
いたかもしれないのであるが、根拠がはっきりしない、ということである。まして
一
○
三
"全部”というのはどうであろうか。
またスキュタイ系遺物には、未去勢雄馬の使用を表現したものがある、ただし遺
物産地の問題があるので、簡単に結論を出せない。注2
-8-
パジリク古墳出土馬の全部が去勢馬である、という説については、筆者は動物学
の素人ではあるが、疑問がある。
馬のみならずどの種の動物もおなじことであるが、馬は種としてはひとつの動物
であるとはいえ、その体の大小やプロポーションにはずいぶん個体差がある。骨の
寸法とか形態から去勢を論ずるには、その遺伝的にちかい群あるいは外貌・能力の
ちかい群(同一品種)のなかでの雌・雄・去勢馬/成長各段階の相対比較がなさ
れなければならないのではないのか。それでは、全部が去勢馬である、というなら
ば、いったい、何と比較したらそうわかるのであろうか。
骨から去勢してあるとわかるのは、要するに幼去勢の雄が成長しても雄性化して
いかない、それなのに雌でもない、という現象から推定できるのであるが、犬歯の
有無で雌雄を判断するような絶対的な基準(実はこれにも例外がある由)ではない
ので、同一品種内の雄・雌・去勢馬三者の骨が必要であろう。さらに、以下のよう
にも疑問がある。
何故、骨以外の軟部のよく遺存している凍結古墳なのに、軟部についての言及が
ないのか。また出土馬体のすべての軟部をとりさって骨の精密な計測をしたのか。
エルミタージュに陳列してある有名なパジリク古墳出土馬体は、計測してまた軟部
をかぶせたのであろうか。
最初の発掘者であるグリャズノフの馬装復元図〔梅原末治1938 「古代北方系文
物の研究」第七四図〕は未去勢雄馬になっている。これは出土馬体実物をみてえが
いたのではないかとおもうが、どうであろうか。
幼去勢すると長骨が伸びる(成長のとまるのがおくれる)ので、体高のたかい馬
を得るために幼去勢をしたのだ、といいながら、体高別に分類したヴィットの全群
ことになるのではないか。あるいは、ひくいのは熟去勢というのか。
日本の獣医学専門家に問うたところ、去勢により長骨が細くなる傾向というかふ
とくならない傾向(雄は骨がふとくなる)はあるものの、ながくなるというのはど
うかわからない、との教示である。また、現代普通におこなわれている成長期終末
ころの去勢では性のストレスがなくなるからか、すこしおおきくなる(ただしすで
-7-
一○四
(4群)の全頭が去勢馬だというのでは、去勢しても体高がひくいままの馬がいる
東部における馬の去勢の開始あるいは初期をしめすらしい重要な資料である。
これらの古墳に埋められていたすべての騎乗用馬は去勢馬である----パジリク
中国における去勢の起原(川又)
における貴人墓中のすべての馬は去勢馬である、ただの一頭も(未去勢)雄馬や雌
馬は出土していない、ストラポーンによればスキュタイ人は去勢馬にのみ騎った
----今もカザフ人では貧民のみが雄馬や雌馬に騎り、裕福な者は去勢馬にのみ騎
る、これはアルタイ人でもいえることである----(Rudenkol970
p.57;p.118)
と、発掘最終報告書では、去勢馬であるという結果のみが報告してある。判断の利
由は書いていない。有名な凍結古墳であるから馬体の外観ですぐわかったのであろ
う、とおもったりするが、別に出版しているヴィットの馬遺体についての報告
(BmT1952]によると、骨学によってであるという。実はヴィットは、全部去勢馬
だとは言っていない。注!
パジリク去勢馬のことを日本でくわしく紹介したのは林巳奈夫〔林1960
p.400
~p.405)で、ヴィットのほとんどの表とグラフを引いてこまかく検討している。
ヴィットの研究について全面的に納得してはいない。
ついで、佐原真〔佐原1993
p、22~p、 26)もくわしい紹介をした(ただし
ヴィット直接でなく [Hanearl955)によってとのこと)。
アッシリアのレリーフや壁画〔図l)、エジプトの壁画、ギリシアの壷絵、中国
文献の“四牡"、ダーラヤワウ (ダレイオス)が畷起の時馬丁オイバレスの才覚で
王位につく逸話〔ヘーロドトスⅢ-85~87〕、などからわかるように、去勢技術の
ある時代になってからも、古代人は一般に、特に武事においてか、未去勢雄馬を使
用する。しかし何時からか-これがわかっていない一去勢馬も使用するようにな
る。そのような状況の中で、特にユーラシア東半部ではこの年代で今のところ他に
一○五
資料が知られていないので、馬のみならず去勢一般としてパジリク古墳は最古の資
料のひとつである。そして現代人は一般に馬の幼去勢はしないのであるが、パジリ
ク古墳出土馬をめぐっては、体高のたかいすらっとした馬を得るために幼去勢した
という説がおこなわれている。これは、古代でも去勢をすると動物がおおきく成長
するとしていた〔アリストテレースⅨ-50〕が、それ以来の見解である〔佐原1993
p.128など〕。
-6-
宣官には、つよいむすびつきがあったという。アッシリアの官官制度はハッチ
(ヒッタイト)から導入された、との説もある〔渡辺1998 p.291]。アッシリア王
宮レリーフ・壁画の馬はほぼ全頭未去勢雄馬であるが〔図1〕、表現物と実態はお
なじであろうか。ハカーマニシュ(アケメネス)ペルシアの宮廷筐官(と去勢畜)
の存在はギリシア古典にもおおくあらわれている〔ヘーロドトスⅢ-76~77.Ⅳ-
43・Ⅵ-32.Ⅷ-105~106;クセノポーンⅥ-4.Ⅶ-5など〕・アリストテレースは、
去勢手術年齢によって、術後の変化がことなることも述べている〔Ⅲ-ll,Ⅸ-50)・
別のことであるが似たこととして、佐原真は、潟血を家畜から人間に応用したも
のとかんがえている〔佐原1993
p.81]。
Ⅱ中国近辺一西・北方
アルタイ山脈のパジリク古墳群(現在ロシア連邦アルタイ共和国内)とその周辺
シベ古墳群等には凍結した古墳があり、通常では消失している有機物製遺物がおお
く出土した。その副葬馬についての報告は、馬体の遺存状態のよさ、そして場所・
年代(前第4世紀前後、いわゆるスキュタイ系文化期)からいっても、ユーラシア
/
湊
一○六
蕊 耀全
、
灘
図1
″
アッシリアの壁画(前第7世紀、バルシップ)〔パロ「人類の美術・アッシリア」〕
-5-
風があるとされている。これはまず家畜史研究から出てくる結論である。どのよう
なことからか、雄畜の精巣喪失による行動・心理の変化が気づかれ、まず使役によ
中国における去勢の起原(川又)
いとかんがえたか群の維持によいとかんがえたか両方か、人為的に去勢するように
なった。
家畜についてはヨーロッパ新石器時代、前第4千年紀後半から去勢牛による牽引
があるという (Boguckil993
p.493) (前4000年より以前から去勢の存在をいう
説もある (Piggotl983 p.35;江上佐原1990
p.175~p.176))。切除手術を仮定
する場合、新石器時代段階で、石器で切開すること自体はなんら問題ない。
これらは確実な現代去勢畜から出発する統計学的な骨学研究(骨や角の成長パ
ターンにおこる変化)にもとづく結果が、家畜の利用技術の進歩、すなわち家畜を
屠殺して利用する肉・皮などだけの利用(この場合狩猟と差異が無いのである)か
ら、毛・乳・力など屠殺せずに生かしておいて利用する段階への技術進歩、にとも
なうこととして主張されているものである。生かして利用するのでなければ、食っ
てしまうだけでよいからである。西アジア型農牧複合においての"SPR(2PR)
(TheSecondaryProductsRevolution)" (Sherrattの命名による、 Chapman
1982
p.107) という用語が最近使用されてきている(以前から、家畜の経済的用
途における、
“屠殺的用途”と“非屠殺的用途"、とは言われていた〔後藤1964
p.356))o
人間については、シュメル地方前第3千年紀後半の模形文字資料において、若年
の去勢牛・去勢馬科動物をしめすらしい単語amar-KUDが人間の去勢された若者
にあてられていることから、前川和也は去勢畜と宣官両者の存在を推定している
(Maekawal979・1980)・宣官の存在をしめす文献資料としては今のところ、これ
一○七
が最古となろう。また前第3千年紀中頃の“ウルのスタンダード”に渡辺和子はカ
ストラート(去勢歌手)の存在を推定している〔口頭による〕。それより後代、
アッシリア宮廷の宣官制度は、文献資料だけでは前第14世紀から推定されていたが、
さらに、前第9~7世紀ころのアッシリア模形文字資料と、男性名であるのに頚の
ない高官の図像から、渡辺和子は宣官鉋だ§jの存在を推定している〔渡辺1995〕・
通常の人名表記にある“某某の息子”が官官にはないそうである。アッシリア王と
-4-
る群誘導羊をつくる)、肉質の向上(牡臭除去;筋繊維をこまかくする;脂肪蓄積
状態の変化)、気質の改良(攻撃性をへらす;従順)、品種改良、といったことであ
る。
畜群の管理とは次のようなことである。家畜飼育の一種が牧畜、牧畜の一形態が
瀞牧/遊牧、であるが、特に牧畜研究において、牧畜は群を自然群よりも大群にし
て維持しながらの放牧を技法とすることから、去勢をすると発情期の競合を避けて
大群を維持しやすいので牧畜は去勢なしでは成立しえない、との説がでてくる。こ
れは群をおおきくする必要が生じた、もしくはその逆に技術が生じて群をおおきく
した、という段階が家畜飼育民にあったからであるが、この状況はいまだによく判
明していない。しかし、初期には、雄から食用にあててゆくことで、解決していた
であろう。また、気質の改良例を、馬の例でいうと、未去勢雄馬は去勢馬や雌馬と
比較すると、持久力があり、闘争心がつよく、勘がよい。したがって、戦闘・猛獣
予知・厳寒期使用などに適しているとのことであるから、単純化していえば、去勢
すればこの逆になるわけである。
おなじことが、人間では、征服、刑罰、君主の身辺係(支配の仲介者へ)、後宮
の管理者、宗教的決意の表現、などの諸問題として論じられている。
宣官は、男でもなく女でもなく、大人でもなく小人でもなく、悪人でもなく善人
でもない-逆にそのすべてでもある〔三田村1963
p. 18)。
いずれにせよ、ある時期からは、中間的な、文字どおり中性的な存在をつくるの
が目的になったのである。そしてたとえば、君主側近としての宣官のありかたと牧
畜における羊群誘導羊のありかた、つまり中間管理者としての去勢、中性者として
の力、が人間と家畜に社会制度上共通の面として谷によって指摘されている。これ
る。
I
ユーラシア西半部
現在の研究では、西アジアやヨーロッパにおいては、中国よりふるくから去勢の
-3-
一○八
は起原問題とは別であろうが、去勢の完成形態における要素として重要なことであ
;谷1997〕をあげることができる。三田村・渡辺は窟官のみ、他は宣官と去勢畜両
方をあつかう。前川は去勢の文献資料初見をあつかうが、それ以外は佐原がすこし
中国における去勢の起原(川又)
ふれる以外去勢といってもその開始や初期を論ずることを目的としたものはない。
地域上は、前川と渡辺の研究は西アジア、谷は西アジアからヨーロッパにかけて、
三田村は中国、佐原・三浦は世界中をとりあつかう。
ヨーロッパ人による最近の研究は、後述するように、ヨーロッパ新石器時代去勢
畜の存在をあきらかにしたことが成果である。
中国では、宣官の通史的な出版物が近年いくつか出た〔顧他1992;余1993;王興
亜他1993;王玉徳1994;杜1996;王華文1997] ものの、先秦の分としては黄帝云々
の伝説と後述の甲骨文字と春秋斉の話を枕としてひくくらいで、起原に関して参考
になるものはない。根拠はしめしていないがだいたい宣官は“夏商時期”から、と
している 〔余1993)。 この問題にかぎらないが、現在の中国の研究者は黄帝とか五
帝とかを伝説として引いているのか史実としているのか、読んでいて判断にくるし
むところがある。
本稿ではまず、今のところ中国よりはやくから去勢の風が確認できるユーラシア
西半部のことから簡単にみてゆくことにする、もとより存在したことと資料に残存
してわかることは別の問題であるが。起原をかんがえると、外来伝播と独立発生の
両方の可能性がある。伝播したとすれば、ふるい方からになるし、独立発生なら、
あたらしい方がよりふるい方と無関係であることを論じなければならないので、あ
る地域を論ずるにも他地域を無視することはできない。
去勢技術存在の根拠になる資料は種類別にいえば、文献・図像・遺体(骨格)、
である (民俗は本稿のような段階では有効でない)。 このそれぞれについて検討し
一○九
てみることにする。
生物体にとっての去勢とは、男性ホルモンの喪失・減少、あるいは相対的に女性
ホルモンがつよくなる、ことである。その結果、身体形質の変化(通常の成長とこ
となる成長・加齢パターン、特に第二次性徴出現前に去勢すれば明確である)と行
動・心理の変化、がおこる。それをいろいろな目的に応用する。
すなわち家畜では:畜群の管理(発情期の競合・喧騒を避ける;支配の仲介者た
-2-
研究ノート
中国における去勢の起原
かわ.また
まさ
のり
川又正智
去勢の風の存在は、ヒトと家畜両方にまたがりさらに地域上アフロユーラシアに
ひろくかかわる歴史上おおきな問題である。ヒトの場合、特に中国政治史上におい
て有名な現象であり (富官という語は高校教科書にも載っているほどである)、家
畜の場合はおおくの地域で、経済・生業の根幹としての家畜飼育、また畜力農耕・
交通・軍事の諸技術において、それぞれ重要な要素である。この分野の研究は従来
すぐないとは言えないものの、その起原と初期の状況はこれまでのところよくわ
かってはいない。そこで本稿では、中国での初期の様相について述べることにする
(本稿でいう地域上の中国とはいわゆる戦国七雄の領域、始皇帝“兼併天下”時の
版図をいう)。
以下、本稿では、“去勢” とは男雄性の去勢をいうものとする。具体的には、精
巣を除去もしくは翌損することである(その方法については〔佐原1993 p. 119以
下〕等を参照)。また(被)去勢者について、ヒトの場合は身分職種にかかわらず
現在もっともよく知られた名称である宣官と呼び、家畜の場合は去勢畜、種別には
去勢馬・去勢牛・去勢羊、等ということにする。
本稿で人間と家畜をともに論ずるのは、去勢の起原における両者の関係が別のも
のか否かわかっていないので、ひとまず一緒に考察してみることから出発するもの
とかんがえるからである。両者の起原について、人間が先との説と家畜が先との両
説があるが、いずれにせよ、どちらかが元で他に応用されたと従来かんがえられて
いるようである。
去勢について、日本での近年の研究としては、三田村泰助をはじめとするいくつ
かの研究〔三田村1963;Maekawal979・1980;佐原1993;渡辺1995;三浦編1995
-1-
一
一
○
国士館大学史学会会則
第一条本会は国士館大学史学会と称する。
第二条本会は事務局を国士館大学文学部国史学・東洋史
学研究室内に置く。
ことを目的とする。
第三条本会は歴史学を研究し、その啓発と普及に努める
研究会・講演会の開催。
本会は前条の目的を達成するため次の事業を行う。
その他必要な事業。
機関誌の発行。
第四条
一一一
一一
本会の会員は左記の通りとする。
国士館大学国史学・東洋史学専攻専任教員。
国士館大学文学部国史学・東洋史学専攻の学生。
第五条
一一
国士館大学国史学・東洋史学専攻の卒業生で入会
本会の役員の任期は一年とする。
監査二名。
委員若干名(うち一名を代表委員とする)。
本会に左記の役員を置く。
その他入会を希望して委員会の承認を得た者。
を希望する者。
一一一
四
第六条
一一
第七条
てあてる。
第八条本会の経費は会費・助成金・寄付金その他をもっ
十一日をもって終わる。
第九条本会の会計年度は四月一日に始まり翌年の三月三
付則
更することができる。
一本会則は委員の三分の二以上の賛成をもって変
二細則は別に定める。
三本会則は平成五年四月一日から実施する。
國士舘史學・第七号
平成十一年四月三十日発行
編集兼國士舘大學史學會
発行所〒隣恥東京都世田谷区
発行人代表小岩井弘光
世田谷四’二八’一
國士舘大學史學會
印刷所〒鵬岬東京都江東区
森下三’一九’一五
倉敷印刷株式会社
一一一
No.7(April l999)
AReviewonRecentStudiesonHaihan-Chiken.
KATEUTA,"asα加池
FromExpansiontoLimitationofArmamentsinH6ngWU(洪
武)Period.
OKUYAMA,〃o河0
OKUYAMA,"offO
OnthePresentConditionsoftheSinkiangUighur(新弱ウイグル)
AutonomousRegionthatisanlmportantPlaceinSilkRoad.
KZ4A"L-K"7wtqjpf
TheBeginningsofCastrationinChina.
■
KnIIZAMATA,加asa7zO”
NotesandReports
KOKUSHIKAN-DAIGAKU-SHIGAKU-KAI
4-28-1SETAGAYA,SETAGAYA-KU
TOKYO154-8515,JAPAN