1 新潟大学人文学部 人間学履修コース 平成18(2006)年度 卒業論文

卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
新潟大学人文学部
人間学履修コース
平成18(2006)年度
卒業論文概要
赤塚建太
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』における身体と世界…………………… 2
安達麻美子
タブーにおける宗教学的考察…………………………………………………… 3
安藤孝之
ベルクソンの時間論──持続と記憶…………………………………………… 4
五十嵐愛美
広告の言語──化粧品広告のコピーにみられる言語技術についての二、三の
考察……………………………………………………………………………… 5
五十嵐亮介
ユートピアに関する一考察……………………………………………………… 6
遠藤祐子
モンスター論再考──アンブロワーズ・パレ著『モンスターと奇跡』を中心
として…………………………………………………………………………… 7
小原史歩
雰囲気における自己……………………………………………………………… 8
恩田いづみ
雰囲気と共感覚…………………………………………………………………… 9
片桐真紀
スピノザにおける内在的原因としての神――神と人間…………………… 10
草野佳織
グノーシス主義におけるデミウルゴス……………………………………… 11
齋藤千典
ライプニッツにおける個体的実体論の構造と枠組みについて…………… 12
佐藤由美子
ユートピア再考──「ユートピア」とモアの時代の社会…………………… 13
鈴木瑶子
絵本における言語と絵の関係について……………………………………… 14
高橋奈穂子
四コマ漫画における言語表現の意味と機能………………………………… 15
滝田浩久
ライプニッツの予定調和──モナドの無窓性……………………………… 16
中川武史
九鬼周造における偶然性の問題について…………………………………… 17
中野由美
日本語の色彩名称──比喩表現を中心として……………………………… 18
平川
愛
マイモンのカント批判──二元論の克服…………………………………… 19
平田梨乃
現存在分析から見た「精神分裂病」患者の現存在と時間意識…………… 20
山本奈津美
日本神話における黄泉………………………………………………………… 21
2006 年 度 卒 業 生
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』における身体と世界
赤塚建太
私の目に前には常に何らかの〈もの〉がある。私たちは、常にさまざまなものを知覚してい
るのである。このような〈もの〉のあらわれはどのように理解できるだろうか。この問いから、
本論文では、私たちが〈もの〉を知覚するということはどのようなことなのかということを考
察しようとした。そのためにメルロ=ポンティが『知覚の現象学』においてどのように知覚を
探求しようとしているのかを考察した。
『知覚の現象学』においてメルロ=ポンティは、その当時の知覚の分析が、私たちの知覚す
るものが客観的なものであるということを前提としていると考える。私たちの知覚するものは、
本当は私たちにとってさまざまな意味をもつ、生き生きとしたものなはずである。メルロ=ポ
ンティは、この生き生きとした知覚を求めようとした。そして、客観的なものとされる知覚が、
実はこの生き生きとした知覚に由来していると言う。それゆえ、生き生きとした知覚を求める
ことは知覚の端緒を求めることである。
メルロ=ポンティは、知覚の端緒を求めるには、私たちは現象に立ち帰らなければならない
と言う。現象に立ち帰るならば、例えば、自分の背中を見るためには鏡を使う必要があるよう
に、私たちが常にある観点から〈もの〉を眺めている、ということがわかる。知覚は、常にあ
る観点からの知覚なのである。そして、その観点こそ身体なのである。私は身体でもって知覚
するのである。それゆえ、知覚の分析にとって身体が問題となってくる。
しかし、私が身体でもって知覚するといっても、私が身体を使って知覚するのではない。知
覚が身体にあらわれるとでも言えるようなことが起こっているのである。それゆえ、身体こそ
が知覚の主体だといえるであろう。そして、この知覚の主体は〈もの〉を見、さわり、聞くも
のであり、世界へと向かう世界の軸である。
さらに、知覚が身体にあらわれると言うことができるように、私たちは、〈もの〉を知覚し
たり知覚しなかったりすることはできない。とはいえ、私たちがよりよく見ようと「目を凝ら
す」ことができることからわかるように、〈もの〉がひたすらみずからを知覚するよう私たち
にさせる、というわけでもない。私が〈もの〉に作用するだけなのでもなく、〈もの〉が私に
作用するだけなのでもない。そうではなくて、私たちと〈もの〉は、相互に「やりとり」して
いるのである。そして、知覚はこの「やりとり」のうちに存する。
ここで、その「やりとり」の分析にしても、また、ある別の「やりとり」によるのかもしれ
ない、と考えることができるだろう。このことは、「これが知覚の端緒だ」と私たちが示すこ
とはできないということを意味する。すなわち、私たちの知覚は明晰ではありえない。現象に
立ち帰ることによって行われる知覚の分析はどこかで終わらなければならない。私たちの知覚
はどこまでいっても不透明なものなのである。そして、このことから、私たちそのものがみず
からにとって透明な存在ではありえないということもいえるであろう。
2006 年 度 卒 業 生
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
タブーにおける宗教学的考察
安達麻美子
儀礼上や日常等、宗教生活の中には数多くの禁忌が存在している。例えば夜中に口笛を吹いて
はいけない、爪を切ってはいけないなどという些細なものから、宗教間で争いが生じ、戦争に
発展し得る程大きなものまで様々なタブーが在る。その禁忌が禁忌となる所以は多岐に渡り、
歴史や神話が複雑に絡み合いそれぞれ今日の信仰上禁忌というのも非常に重要な位置を占め
る。本稿では「タブーにおける宗教学的考察」という題目の元に、食におけるタブー、特に肉
食における禁忌の例を取り上げ、豚肉食と牛肉食から更に不浄の観念におけるタブー、神聖観
におけるタブーへと広げ、ユダヤ教キリスト教ヒンドゥー教などを中心に、未開民族の儀礼に
も少々触れながらそれぞれ考察した。また、本テーマの性格上、宗教学のみならず民俗学や文
化人類学等も多少含まれたが、学問分野にはこだわらず、様々な事例を集めてみてから検証に
移ることを目標とした。
第一章では食におけるタブーと題して一節で豚肉食、二節で牛肉食のタブーについて考察した。
それぞれ聖書やリグ・ヴェーダの記載を元に歴史的な側面や衛生学的側面、神聖の観念や不浄
の観念を考慮に入れながらの検証となり、それらは次章からのテーマへと発展する。
第二章では不浄におけるタブーを論ずるべく、まず聖の意を示した。聖に関してはまた三章で
述べる為に詳細は控えてあるが、ヒエロファニーが含む完全性の意に反する欠如や離脱を不浄
とする観念等を記載した。その具体例として二節にレビ記・申命記を挙げ、それぞれの動物達
の不浄の観念となる所以の説をまとめた。
第三章では神聖であるがゆえの禁忌に触れた。まずは接触と言う初歩的な禁忌の体系について
記し、俗への接触忌まわしきものとし、それを忌避することが神聖へと近づくという思考につ
いて記した。また第二節ではチュリンガと呼ばれる儀礼道具の例をとり挙げて聖の特質や伝播
性について示した。最後に聖と俗とは同じ空間上・時間軸上に存在し得ないことを論じまとめ
た。
2006 年 度 卒 業 生
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卒業論文概要
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ベルクソンの時間論──持続と記憶
安藤孝之
時間は大きく二つの種類に分けられる。一つは一定速度で進む時計の時間であり、他方は不
確定な速度で流れる主観的な時間である。しかし時間とは何かと問われると、私たちはおそら
く前者のみを答えに選ぶであろう。時計の時間の支配は絶対的であり、それが唯一の時間であ
るように思われるのである。しかし、時計の時間は時間の本性ではない。なぜならそれは天体
の運行に合わせて作られた人工物に過ぎないからだ。それならば後者にこそ焦点を当て、そこ
に時間の本性を求めるべきではなかろうか。そこで私は後者の時間を重要視したベルクソンを
研究対象とした。本論文はベルクソンの時間に関する議論を辿りながら時間の本性を明らかす
ることに主眼を置いて書かれている。
第一章では『意識に直接与えられたものについての試論』(『時間と自由』)をテキストに、
時間の純化に取り組んだ。ここでは、時計の時間(等質的時間)から空間的要素(並列性、等
質性、相互外在性など)を取り除き、非分割的な質の継起である「純粋持続」を描き出した。
また、純粋持続と等質的時間とを明確に区別した後で、等質的時間に対する純粋持続の優位性
をゼノンパラドックスの解決等から導き出した。これにより、等質的時間の下に純粋持続を置
くという構図を得ることができる。
第二章では『物質と記憶』をテキストとして、ベルクソンにおける知覚と記憶(現在と過去)、
またその関係について考察した。ベルクソンは失語症の研究等から、脳内にはない潜在的記憶
が実在することを主張する。この潜在性によって記憶は顕在的な知覚と区別される。また、こ
の潜在的記憶が純粋持続の存する場であり、私たちの持続は記憶の奥深くに入り込むほどにそ
のリズムを遅くするという。楽しい時間が速く過ぎるというのは、私たちが時計のリズムより
も遅く流れている持続に身を置いているからである。時間感覚の相対性はこのようにして明ら
かになる。
第三章では主に『持続と同時性』をテキストに、これまで分離してきた知覚と記憶、空間と
持続との連結を試みた。その連結は潜在性のレベルにおいてならば達成される。さらにベルク
ソンは、私の内的持続と外的事物の間に持続の共振があるといい、そこから普遍的で唯一の時
間を提唱する。これは潜在的な時間でありながらも、客観性や普遍性を備えているがゆえに時
計の時間の原型となりうるものであり、これを時間の本性とみなすことができる。また、この
持続と空間の連結をさらに強固なものとすべく、佐藤透氏の見解を参考に身体の時間論を展開
した。ここでは日常の体験時間の考察から、ベルクソンの唯心論的な時間論に若干修正を加え
ている。また最終節では、「時の流れ」について検討した。ここでは、「時は流れない」という
大森荘蔵氏の見解を受け入れつつも、時間の原型である潜在的時間は絶対的に流れているとい
うベルクソンの見解を保持する結論に至った。
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
広告の言語──化粧品広告のコピーにみられる言語技術についての二、三の考察
五十嵐愛美
現在、私たちの周りには、数多くの広告が見られる。そのメディアは、テレビ、新聞、ラジ
オ、雑誌、インターネット、ポスター、チラシ、看板など、様々である。広告は、現代の消費
社会に不可欠なものであり、いまや、私たちの日常にありふれたものとなっている。私たちが
広告を目にしない日はないと言っても過言ではない。
本論文では、広告の中でも、現代の女性用化粧品の広告について扱うこととし、そこで用い
られている言語に着目し、商品の種類や、ターゲットとなる購買層の年代によって、言語的特
徴に何らかの違いがあるかという点について考察した。
第一章では、現代の広告全般の一般的な特徴について述べ、論文の導入としている。
第二章では、論文で取り扱う課題と、実際の調査方法について具体的に述べている。
第三章では、1.比喩的言語、2.擬人法、3.オノマトペ、4.造語、5.数字の使用、
6.問いかけ・語りかけ、7.他者を意識した表現、という特に目立って見られた具体的な7
つの言語技術について取り上げ、それぞれ実例を挙げながら考察している。
第四章は、まとめとして、第三章の考察で得られた結果をまとめている。
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
ユートピアに関する一考察
五十嵐亮介
・目次
第一章
導入
第二章
トマス・モアの『ユートピア』
第三章
『ユートピア』の生まれた時代
第四章
『ユートピア』における楽園性
第五章
結び
この論文では「ユートピア」という言葉の原点であるトマス・モアの同名の小説をテキスト
として、その紹介と簡単な分析・考察をしている。
第一章では導入としてユートピアが作り手の不満やそれに対する欲求から生まれることに触
れ、続く第二章ではトマス・モアの著作『ユートピア』について論じるにあたって、私有財産
の撤廃や生涯教育など、トマス・モアの考えたユートピア国の特徴についてまとめている。第
三章では『ユートピア』内でも触れられている、囲い込みによる小作人からの土地略奪などの、
執筆された当時の問題について扱っている。それに続き、ユートピアは今では理想郷、楽園と
いった意味でとられているが、原点となるユートピア共和国が持っている問題について扱うの
が第四章になる。モアが作り上げた架空の人物ラファエルが語るユートピア共和国の様子は、
生まれや貧富の差からくる苦痛からは解放されている一方で、国家の厳重な管理による束縛の
苦痛を受けてしまっていると思われる。その中で、モアがユートピアを作り上げるうえで最も
重要視していたものは何かについて考察している。想像国家であるユートピア共和国は、恐ら
くモアが理想的人間と考えていたと思われる人間達によって構成される国家である。しかしそ
の理想国家にも前述のような国民を束縛する問題点があることを指摘し、国民が真に解放され
る理想郷とは何であるかを問題として扱っていく。これについて、ユートピア作中で理想的人
間が迎え入れられるとされている天上の世界こそが、トマス・モアの考えた真の理想郷だった
のではないか、として第五章及びこの論文を結んでいる。
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卒業論文概要
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モンスター論再考──アンブロワーズ・パレ著『モンスターと奇跡』を中心として
遠藤祐子
「モンスター」という言葉が示すものは、我々現代人にとってお伽噺やゲームの中でしか出て
こないただの空想の産物だ。しかし、中世の世界やそれ以前の世界では、モンスターは実際に
存在するものとして捉えられていた。そもそも「モンスター」の定義が我々現代人とは違った。
近代以前の世界ではモンスターは我々が思い浮かべる妖怪というより「常識から外れたものと
しての異常」といった意味合いを強く持つ。そのためモンスターは時には奇形児や自然災害を
も包括する。この論文では、モンスターそのものを研究するのではなく、モンスターという常
識はずれな存在と正面から向き合ったモンスター論、モンスター理解を研究したい。そこでモ
ンスター論の代表として、モンスター存在に原因を求めたアンブロワーズ・パレ、当時医学に
革命をもたらし近代医学に父と呼ばれる彼の『モンスターと奇跡』を中心として研究を進める。
そこから、我々現代人が常識外の存在をどう捉え対処すればいいのか、そのきっかけを探りた
い。この論文の題名からも分かるように、ここではモンスターを中心として研究しているため
異常といった差別的と感じられる言葉が文中で使われることがあるかもしれない。しかし、そ
れらの言葉を決して差別的な意味で使っているのではなく、ただ物事を理解、表現するための
ある一つの物差しとして使用していることにご理解を頂きたくここにお願い申し上げる。
第一章ではモンスター論の大まかな流れを説明する。近現代以前の人々はモンスターの存在
に意味を求めた。それは monster の原義がラテン語で monstrum(神聖な兆し、警告)であるこ
とからもよく分かる。モンスターに意味を見いだし理解しようといていたことの現れだ。そう
してモンスターを研究したのがパレ達のモンスター論となる。
第二章、第三章では、パレのモンスター論を検証する。パレのモンスター定義は「自然過程
の外にあるもの」であり、抽象的で曖昧さが残る定義である。それはパレが検証するモンスタ
ーにも見え隠れしており、彼が何故それらのモンスターをモンスターとして定義したのか理解
しにくいことがいくつかある。しかし、パレのモンスター論において重要なのは、彼の論が正
しいかということではない。彼がモンスターに原因を求めることは、最終的に我々の社会から
はじき飛ばされたモンスターという存在を、社会に還元することに繋がる。そこが重要なのだ。
パレはモンスターを自然の外に位置づけはしたが、当時の考えられうる科学知識や常識を利用
してモンスターの原因解明にあたった。自然外の存在を自然法則により解明しようとすること
は、モンスターを自然社会に取り込もうとする働きではないだろうか。我々現代人にも、パレ
のようなモンスターという常識から外れたものをもう一度自分の世界に引き戻す姿勢、という
ものが必要なのではないかと考える。
2006 年 度 卒 業 生
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
雰囲気における自己
小原史歩
この論文では、雰囲気とは何かということを探求するとともに、さらには私たちと雰囲気と
はどのような関係であるかということを考えることを試みた。
まず、第一章では、雰囲気とはどのようなものか、ということに焦点をあてた。
雰囲気という言葉は、私たちは日常的に非常に多く使われているように思われる。しかし、
雰囲気という言葉を使っているときに限って、何かよくわからない、言い換えると、実態の把
握できないようなものを言い表したいときに、「○○のような雰囲気だ」と言っているのでは
ないだろうか。では一体、雰囲気とは何か。雰囲気の輪郭を浮き彫りにさせるということを導
入とし、第一章では雰囲気の概念について紹介した。
第二章では、都市の雰囲気を紹介するとともに、より雰囲気の概念を深めることを目標とし
た。そこで、
「匂い」という表現を使った都市の雰囲気について見ている。また、この章では、
雰囲気の性質に共通するものがあったため、共感覚も同時に紹介している。
共感覚とは、例えばある音を聴覚のみで聴き取り、ドやレやミなどという符号を付けて音を
記号化し客観的に分析するというようなものではない。共感覚とは、流れてきた音が、それを
聞いた人に、どのような印象付けをするか、といったものだ。したがって、共感覚と雰囲気と
は性格がよく似ている、という観点から、雰囲気(匂い)と共感覚を紹介している。
第三章では、世界を扱っている。なぜ世界をとり上げたのかというと、「雰囲気は情感づけ
られた空間」という、雰囲気とは空間であるというゲルノート・ベーメの主張から、空間、つ
まり世界について着目した。ゲルノート・ベーメも言っているように、空間と言ってもそれは
数学的な空間を示しているのではなく、あくまでも、その雰囲気の漂う空間の中にいる人にと
っての空間、つまり、主観的な要素も含まれている空間である。そして、世界について調べた
ものと、雰囲気と関連付けてどのようなことが言えるのか、ということを第三章にまとめた。
最後に、第一、二、三章で見ていたことをまとめた。第三章で見た世界とは、私たち一人一
人が持っている内面的な世界であって、個々人の見聞が広まれば、その人の世界も広がる。
ところで経験によって見聞を広めるということは、常に雰囲気を感じ取ることを要する。し
たがって、世界を広げるということは、雰囲気を感じることが必要だと言える。
したがって、私たちは雰囲気を感じ取り、感じ取ったその雰囲気をもう一度振り返って吟味
したりして、雰囲気を味わうことが、自身の世界をより大きく広げることになるのだ。
参考文献
ゲルノート・ベーメ著、梶尾真司、斉藤渉、野村文宏編訳『雰囲気の美学―新しい現象学の挑戦―』
晃洋書房、2006 年
ゲルノート・ベーメ著、井村彰・小川真人・阿部美由起・益田勇一訳『感覚学としての美学』勁草
書房、2005 年
O・F・ボルノウ著、藤縄千艸訳『気分の本質』筑摩書房、1973 年
山田晶[ほか]著『世界と意味』新・岩波講座哲学4、1985 年
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
雰囲気と共感覚
恩田いづみ
雰囲気は主観的なものだろうか、客観的なものだろうか。そこにあるものとしてだけではな
く、何かしら私たちの感情的にうったえて来るものとして、雰囲気が主観的なものに属するこ
とは確かだろう。しかし、突然入った室内の雰囲気がそれまでの自分とはまったく関係の無い
ものであるといったことなどから、自分の感情以外のものがそこに存在することも否定できな
い。
この論文では、そういった雰囲気の主観・客観という問題から、ゲルノート・ベーメのテキ
ストを用いて雰囲気について考察していく。
雰囲気の知覚については、従来の知覚論では、ものを知覚した時点で私たちが、知覚したもの
を既に第一次的な知覚から、より高次の知覚の段階に進んで把握してしまっているという点に
ついてまとめた。それによれば、本来私たちの第一次的な知覚においては、まだそれぞれの感
覚器官に分けられてはいない。しかし、私たちはそれを捉えたときに、視覚や聴覚、嗅覚、触
覚、嗅覚といったそれぞれの分野によって捉えられると考えられている形式から、そのものを
把握する。それは、私たちが既にそういったものの捉え方の常識を持っているからだ。私たち
はその従来の知覚論を離れて、諸感官へと振り分けられる前段階、第一次的な知覚を意識する
ことが必要だろう。
また、雰囲気と私たちの身体的現前性との関連についても考察した。雰囲気の知覚においては、
私たち自身の身体的現前性が必要であるという点から、身体的現前性がどういった場合におい
て該当するのか、言い換えれば、私たちはどういったときに身体的現前性といったものを感知
し、得ることができるのか、といったことについて論じた。明確に際立って知覚される瞬間が
なければ、私たちにとって身体的現前性はないのだろうか。そういった疑問から、私たちが生
活の中で自分自身の在り方や自分を実感するということがどういうことなのか、といったこと
の結論を得ようとした。
そうした身体的現前性と関連して、人の手によって産出された雰囲気と実在するものによる
雰囲気との違いや、そうした産出された空間と私たちとの関係についても考察した。
雰囲気は確かに曖昧なものである。しかし、私たちは本来の第一次的な知覚について意識す
ることと、ものが人の感情等におよぼす影響について知識を得ること、その両方によって、よ
り雰囲気の理解を深めることが出来るだろう。そして雰囲気について理解することは、私たち
が自分自身の在り方について理解することと、周囲に対して表現する手段を得ることにも繋が
るのである。
2006 年 度 卒 業 生
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
スピノザにおける内在的原因としての神――神と人間
片桐真紀
スピノザは『エチカ』で至福について述べるために、まず神について述べる。神について述
べてから、その神を前提として人間について述べる。このことから分かるように、スピノザの
考える神と人間にはつながりがあるように思われる。本論文では、スピノザが考える内在的原
因としての神について考察していき、神と人間との関係について明らかにすることを目指した。
第一章では、実体としての神について述べている。実体、属性、様態とはどのようなもので
あるか考察していき、それらが単独では考えることができず、お互い密接な関係があるもので
あることを示した。そしてそこから見えてくる実体すなわち神についてさらに考察を進めた。
スピノザの考える神は必然的に存在し、永遠であること、そして神の本質と存在は同一である
ことを述べた。
第二章では、内在的原因としての神について述べている。神は神の中にあるものの原因であ
ることから、原因である神が自らのうちにものという結果を産出しているということを述べる。
そして、神以外にはそれ自身によって考えられるものは存在しないので、神はものの内在的原
因であることになる。また、このようにものが神から生じるのは神の本性の必然性によるもの
である。神は自己の本性の必然性のみによって働くのである。
第三章では、スピノザにおける神と人間について述べている。スピノザによると、人間は隷
属状態にあり、感情のしがらみに捉われているという。そして、感情のしがらみから抜け出す
方法をスピノザの考えをもとに示す。その方法とは、人間の本性と理性を一致することである。
感情から抜け出した人間の精神は神の認識をし、そこには神に対する知的愛が生じるという。
神の認識をした人間は、自分自身が神の一部であることを知り、そのような状態であることが
至福と呼ばれる。至福にたどり着くためには感情から抜け出し、神を通して考えなければなら
ない。このように、神について考えず、人間自身についてのみ考えるだけでは至福にたどり着
くことはできない。ここでは、神と人間の関係が典型的に現れる神への知的愛について述べる。
2006 年 度 卒 業 生
10
卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
グノーシス主義におけるデミウルゴス
草野佳織
ナグ・ハマディ文書を用いて、グノーシス主義を代表するヴァレンティノス派のデミウルゴス
について論じる。キリスト教の影響を受けながらも、キリスト教の価値を転倒させる反宇宙論
的な神話を核としていた。世界創造者は全知全能の至高神から、盲目で傲慢な支配者へと引き
ずり下ろされている。それだけではなく、しばしば悪魔として描かれている。デミウルゴスが
悪魔と呼ばれるべき存在なのだろうかを考察する。グノーシスはキリスト教の影響を受けてい
たので、本論考ではキリスト教の悪魔の概念を用いる。
第1章では、グノーシス主義が影響を受けているキリスト教の悪魔像に迫った。1節ではキ
リスト教がギリシア・ローマの神の性質を悪魔の性質につなげていったのか、続く2節では旧
約聖書に登場する悪魔に焦点をあてた。3節では新約聖書に登場する悪魔をとりあげた。キリ
スト教への悪魔の概念がどのように構築されたのかを歴史的に見ていった。この章では、キリ
スト教における悪魔の概念を規定した。
第2章ではグノーシス主義の一般的な神話体系を取り上げた。神話のあらすじを踏まえて、
私たちはグノーシス主義者の手による神話を読んでいった。
第3章1節では『三部の教え』、2節では『プトレマイオスの教説』において、1章で規定
した悪魔の定義をデミウルゴスに当てはまるのかを検証した。
グノーシス主義者たちは現在生きている世界を牢獄とみなしていた。この世界に存在する悪
を許すものを彼らはどうしても神と認めることができなかったからである。この世界はグノー
シスを学ぶ場所であり、彼らは死したあとのプレーローマでの生活を目的としている。花嫁と
してプレーローマに行くこと、ただそれだけを信じて現実の悪に耐え続けていた。創造主をデ
ミウルゴスという支配者に仕立て上げることで、現実の悪から至高神を切り離し、神の不可侵
性を守ろうとした。デミウルゴスがこの世界の悪を一挙に引き受けたのである。本論考はグノ
ーシス主義におけるデミウルゴスについてすべてを網羅したと言うには全く程遠いが、それで
もデミウルゴス像の断片を明らかにしたであろう。
2006 年 度 卒 業 生
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
ライプニッツにおける個体的実体論の構造と枠組みについて
齋藤千典
本論文では、ライプニッツのモナド論を中心に、それを支える論理構造、またそこから派生
する理性的精神の自由と神の予定がどのように両立するかについて論及している。
ライプニッツの根本をなす思想に、全てには十分な理由がある、という「十分な理由の原理」
と、この世界はあらゆる可能世界の中で最善である、という「最善観」がある。無限なる完全
性である「神」を根拠とするこの二つの思想は様々な場面で言及され、また拠り所となってい
る。しかし後者の最善観に関しては、周知の通り多くの批判が寄せられる。そこで我々は、そ
れらの根本原理から出て、どのように人間の自由と神の意志、また予見が両立し、この「宇宙」
が最善であると言えるのか、またライプニッツがその最善観が揺るぎないものとして提示し続
けた理由について明らかにしていきたい。
ところで、ライプニッツは神を中心としたモナドの集合を「宇宙」と言うことから、神とモ
ナドの関係を見ることで、ライプニッツの考えるところの「宇宙」、また「世界」がどのよう
に構成されているかがよく分かるように思われる。
(ライプニッツの言う『世界』とは『宇宙』
とは区別して使われ、現存在する事物の全体的連続性、全体的集合のことである。)そこで我
々はこの「宇宙」を構成するモナドを端緒とし、理性的精神の自由を確保しながら最善世界へ
とつながる道筋をたどって行く。
第一章では、モナドの概念規定、また神を表現する理性的精神と単に世界を表現するに過ぎ
ない単子、眠れるモナドを区別し、個体的実体として説明されるモナド、それらが集まって出
来る「宇宙」について考察している。モナドは一の中に多を含む〈力〉のようなものであり、
加えて、ある同一の主語に多くの述語が属し、この主語はもう他の如何なる主語にも属しない
場合の「主語」である。モナドはこのように概念的・論理的説明の両方から語られる。
第二章では、我々の思惟は二大原理の一つである「十分な理由の原理」についてとそこから
派生する一つの帰結として出る共可能性について論じている。また、偶然的真理と必然的真理
を考察することにより、「必然的なもの」と「確実なもの」とを分け、神の予見と我々の自由
がどのように両立するか、またストア派の運命決定論とライプニッツの採るところの運命論に
ついて比較・考察している。
第三章では、主に『弁神論』からライプニッツの最善観を紹介し、揺るぎない理由律と最善
律によって支えられているモナド論について再度考察している。
2006 年 度 卒 業 生
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
ユートピア再考──「ユートピア」とモアの時代の社会
佐藤由美子
序
ユートピアを考察していくにあたり、トマス・モア著『ユートピア』をテキストとして扱う。
モアの時代の社会とユートピアの社会とを比較、検討していく。
第一章
『ユートピア』執筆の時代背景
モアが『ユートピア』を執筆した時代背景を政治、経済、宗教の三つの観点から検討してい
く。モアの時代の社会のこれら三つの要素が彼の『ユートピア』執筆に何らかの影響を及ぼし
ているといえる。
第二章
「ユートピア島」の諸制度−市民生活、政治・外交、経済、宗教−
ユートピアの諸制度を市民生活、政治・外交、経済、宗教の観点から具体的にみていく。
第一節
市民生活・・・・・・教育、医療、結婚
第二節
政治・外交・・・・政治体制、外交
第三節
経済・・・・・・・・・・生産方法、労働
第四節
宗教・・・・・・・・・・ユートピアでの宗教の在り方、宗派、教会
第三章
『ユートピア』と実社会の相違
第一章、第二章のそれぞれの具体例から、モアの時代の実社会と『ユートピア』の社会の相
違とを市民生活、政治、経済、宗教、四つの面から考える。
さいごに
モアの当時の社会を政治、経済だけでなく宗教に至るまで風刺した『ユートピア』はこの時
代において斬新でかつ、異端の書であったが、ユートピアは社会思想の必然の産物であり、ま
た基盤であるといえる。
参考文献
主要テキスト
2006 年 度 卒 業 生
トマス・モア著、平井正穂訳、『ユートピア』、岩波書店、1957年
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卒業論文概要
新 潟 大 学 人 文 学 部 人 間 学 履 修コ ー ス
絵本における言語と絵の関係について
鈴木瑶子
絵と言語が一緒になって何かを表現していることは、日常においてよく見られる現象である。
本論文は、その中の一つ、絵本において、絵と言語にどのような関わり方があるのか、その形
を示そうとするものである。ここに書かれているのは以下の3つの形である。
1.
指示
「これ・それ・あれ」などの直示語が絵の中のものを指示している例。図鑑的用法と論文中
で呼んでいる現象もここに含める。
2.
省略
絵から分かる情報が、言語として明記されていない例。絵本という形式だからこそ、絵があ
るから言語で述べなくてもいいという現象が起こると考える。
3.
場面を造る言語
中心的に物語を進める言語とは別に、状況要素として場面を支えている言語の例。絵と言語
の関係に直接関わりがあるわけではないが、場面を支えているという点で絵と共通しているも
のがあると考える。
これらは、絵本の言語部分に注目して分析した結果得られたものである。関わり方の形はこ
の 3 つに限ることはないと考えている。
研究対象となる絵本は、絵本が本質的に子どものための読み物であると考え、幼児∼児童向
けのものを選んだ。
2006 年 度 卒 業 生
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四コマ漫画における言語表現の意味と機能
高橋奈穂子
ことばは日常生活に欠かせないもので、意思伝達に使用されるのが主なる働きである。しかし、
それのみならず遊びという観点でも使用されうる。遊びとして使用される場合、しりとりや漫
画、コントや漫才、ダジャレなど様々なものが考えられる。
面白さを提供する中でも、身近なもののひとつとして四コマ漫画が挙げられる。この四コマ漫
画は、ほとんどの新聞に載っているのを見ることが出来る。それが伝えようとしていることは
様々ではあるが、根底にある共通のものは、笑いを与える、面白いという感情を与えるために
作られているだろうという点である。
そこで考えたいのは、この笑いや面白さがどのようにして作られているのかということであ
る。四コマ漫画には面白さが必ずあるはずである。それは、四コマ漫画という絵と様々な言語
表現からなるという特徴を生かした面白さが作られていると考えられる。
本稿では、この面白さを作り出す上で、四コマ漫画における言語表現がどのような意味を持ち、
その上でどのような機能を果たしているのかを見ていくことを目的としている。もちろん、面
白さを作り出す言語表現のみならず、四コマ漫画を作り上げる言語表現全体にその視野は広げ
ている。
なお、本稿で取り上げる四コマ漫画の種類は、公共性・一般性を重視した結果、新聞に掲載さ
れている四コマ漫画のみを対象とした。また、四コマ漫画がどの程度面白いものであろうとも
そこに作者が面白さを込めているのには違いがなく、どの程度面白いかは本考察では関係しな
いため、本稿では面白さの度合いは除外して考察した。
まず第一章では、そもそもの四コマ漫画が、どのような仕組みであるのかを考察した。この考
察によって、四コマ漫画の面白さを理解するための基本的な条件を見てとることができた。
第一章によって得られた条件を基に、第二章では、四コマ漫画の構成要素である絵と言語表現
において面白さがどのように作られているのかを、井山弘幸『「お笑い」を学問する』に即し
て分析した。ここではその言語表現には固執せず、四コマ漫画ではどのように面白さが作られ
ているかを考察し、その言語表現と絵にどのように依存しているかを見た。
第二章の分析結果に、第三章で更なる考察を加えた。ここでは第二章で得られた面白さの成立
のために、どのように言語表現が使用されているのかを考察した。これに加え、四コマ漫画に
使用されている言語表現すべてに着目し、面白さを作り上げる以外の四コマ漫画における言語
表現が果たす役割を考察している。
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ライプニッツの予定調和──モナドの無窓性
滝田浩久
我々は一般的に自由であると考える。自由であることを証明することは難しいが、しかしも
し不自由であると感じないのであれば、それは自由であるといって間違いはないであろう。詰
まるところ自由とは我々の主観が生み出す概念であり、精神が容認するならば物理的にどのよ
うな状態であろうと自由は成立するのである。だが現実に照らし合わせてみると、我々が不自
由を感じるのは自分の思考が実行に移せなかったときや、満足のいく結果が得られなかったと
きであることが多い。そのように考えるならば物体的世界と精神的世界の乖離、いわゆる心身
問題が重要になるのは言うまでもない。精神と身体が同じ法則の中に存在しているものでない
ことは明らかである。しかし、精神のみ、身体のみの存在を「自己」と定義するかは未だ謎で
ある。
ここにおいて、本論では心身の二元論を説いたデカルトと、「モナド」という要素を用いて
の説明を試みたライプニッツとの研究と比較を行う。
第一章ではデカルトに代表される機関原因論、いわゆる偶因論についてのまとめを行ってい
る。ライプニッツにいたるまでの思想の主流派を確認し、その問題点を浮き彫りにすることで
ライプニッツの意図したところを明らかにするのが狙いである。デカルトの理論では、世界に
おける物理的な運動作用のすべては超越者たる神に起因すると定義し、精神と身体を切り離し
た後に精神の比重を限りなく軽くすることになった。この状況に変革をもたらしたのがライプ
ニッツである。
第二章ではそれまでの流れを踏まえ、ライプニッツの用いた「モナド」という要素は何か、
それによってどのように心身問題を解決しようとしたか、という点について彼の理論を元に考
えてゆく。モナドはライプニッツが「単子」と定義付けている要素であるが、それは「物理的
に不可分である」という意味ではなく概念としての「不可分なもの」である。そのため我々の
精神などもこれに属し、無数の「モナド」が集合して構成されているのが「自己」と呼ばれる
存在であるという。そして他の精神や物体と交流することのない精神の独立を、モナドの無窓
性と呼んでいる。しかし同時にモナドは変化を続ける存在でもあり、しかもその変化は外的世
界にも影響を及ぼす、否、及ぼしているように錯覚されるような現象を生み出すのである。窓
のないモナドが変化するには、外的要因に頼らない内的要因による力が働かねばならない。そ
れが宇宙を包括する「活きた宇宙の鏡」としてのモナドである。
「モナド」を用いた視点から見た世界観と、その特徴、さらには問題点等についても、本論
で見ていきたい。
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九鬼周造における偶然性の問題について
中川武史
私たちの歩む人生には偶然と呼ばれる事象が数多く存在する。私たち人間と偶然とは密接に
関わり合っていると言っても過言ではないだろう。しかし、この偶然をときに私たちはあたか
もすでにその偶然的事象が起こるべくして起こったものだと考える場合がある。つまりは偶然
を偶然と捉えない場合がある。一体どのような状況でこういったことが起こるのであろうか。
そして、私たちが偶然と呼ぶ存在は一体どのようなものなのであろうか。偶然を偶然として考
えないのであれば、そこには人間ではない何者かによる神秘的な力によって、私たちの人生が
決められているということになるのではないだろうか。こういった疑問を解決するために九鬼
周造の『偶然性の問題』を手がかりにして考察を進めていく。
九鬼は偶然性を定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然の三つに分類する。定言的偶然とは一
般概念に対する偶然性のことを言い、仮説的偶然とは因果性に関する偶然性で、離接的偶然と
は形而上学的領域における偶然性である。このように偶然性を分類することは必ずしも妥当と
言えるものではないが、あまりにも捉えにくい偶然性という存在を、少なからず解明していく
ことができる。
偶然的事象を偶然として捉えないということは、つまり偶然を必然的事象として捉えるとい
うことである。身近に考えられる例として「運命的な出会い」というものがあげられる。なぜ
このように私たちは考えるのであろうか。偶然を必然と捉えてしまう背景、そこには人間の主
観が深く関係しているように思われる。このような問題を考察していくことは、私たちの生ま
れてきた意味、そしてこれから進んでいく道に意味を見いだすことにつながると考える。
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日本語の色彩名称──比喩表現を中心として
中野由美
日本語には、「赤の他人」や「腹黒い」など色を使った表現がある。しかし、これらの表現
は実際に人が赤いことや、腹が黒いことを意味しているわけではない。現代日本語において、
「赤の他人」は「まったくの他人」という意味で使われているし、
「腹黒い」は「悪心がある」
という意味で使われている。このことから、「赤の他人」や「腹黒い」という言葉は一種の比
喩表現として、現代日本語で使われていると言える。
ここで、問題になるのは、なぜこのような色を使った比喩表現が使われているのかである。
それは、色を含んだ表現が、その言葉をイメージしやすく、わかりやすくしているからではな
いだろうか。例えば、「あいつは悪心があるやつだ。」と言うのと、「あいつは腹黒いやつだ」
と言うのでは、後者の方が、わかりやすく、相手に自分の意図が伝わっているように思える。
そして、このような色を使った表現から、日本語における色に対するイメージが見えてきた。
色を使った表現を研究することによって、日本の文化や日本人の色彩感覚がどのようなものな
のか、明らかにすることができた。
第一章
色彩名称からみる日本人の色彩感覚
日本語の色彩名称から日本人の色彩感覚についてみる。日本語には、日本語特有の色の名
前がある。これらの色彩名称は日本人の色彩感覚を表していると言えるのではないか。日本
人の色彩感覚について歴史的な観点からも考察する。
第二章
日本語における色彩名称
日本語でよく使われる色彩名称について考察する。日本語では、
「赤」、
「青」、
「白」、
「黒」
を使った表現が他の色よりも数多く存在する。つまり、この 4 つの色は日本語の色彩表現の
中で重要な位置を占めているのだろう。また、上述の4色の他に、日本語でよく使われてい
る「緑」、「紫」、「黄色」についても考察する。
第三章
現代日本語における色彩名称の比喩表現
現代日本語における新たな色彩名称の比喩表現について考察する。同時に、現代日本語と
古語における色彩名称の比喩表現と比較する。
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マイモンのカント批判──二元論の克服
平川
愛
感性と悟性、質料と形式、(総合判断における)主語と述語、現象と物自体といったものは
カントにおいては厳密に区別され、二つに分断されているが、その一方でこれら区別される二
つのものが互いに関係するのでなければ我々はものを認識できない。まったく異なる二つのも
のがいかにして関係し得るというのか、カントの理論においては十分に説明され得ないとザロ
モン・マイモンは主張している。
マイモンはこれらのように二つに分断されたものを本来同じ一つのものであるととらえ直す
ことによってその解決を試みた。本論文ではマイモンが著書『超越論的哲学についての試論』
において、いかにしてこのような二元論を克服していったのか、特に感性と悟性、主語と述語
についての問題の解決を中心に、最終的に現象と物自体の問題に至るまでの過程を見ていく。
まず感性と悟性について。カントのように感性と悟性が異なる能力であるとした場合、感性
に与えられたものがいかにして悟性に思惟された概念と結び付けられるのか説明することがで
きない。この問題は感性と悟性が根源的には同じ能力であるとすることによってのみ解決する
ことができるとマイモンは主張している。マイモンはここで対象を完全に認識し得るような「無
限の悟性」を想定し、我々の悟性はそれが制限されたものであると考える。そして感性も不完
全な悟性として、悟性と連続した関係の中でとらえられる。
次に総合判断における主語と述語について、総合判断は本来的には分析判断であるとするこ
とで問題の解決がはかられる。先に想定したような「無限の悟性」は主語と結合されるあらゆ
る述語をその主語から導き出すことができる。総合判断は、我々の認識能力が制限されていて
主語から述語を導き出すことができないがために生じるのだけなのである。
最後に現象と物自体について。マイモンによれば我々の認識能力は、ものそのものを認識す
るような「無限の悟性」と根源的には同じであるのだから、我々はこの「無限の悟性」が認識
している対象とまったく異なるものを認識しているのではない。それゆえ「無限の悟性」の想
定のもとで現象と物自体という区別は意味を失う。
さて「無限の悟性」とは我々にとって絶えず近づき得るが決して達することのできない理念
である。しかしマイモンによれば理念はものの表象あるいは概念からもの自体への移行を見い
だす手段である。我々の悟性は無限の悟性という理念に対する図式となり、我々の認識と真の
認識の媒介となり得るのである。
マイモンは、我々においては異なるものとしてとらえられるものを同じ一つのものとしてと
らえる「無限の悟性」を想定することで、そしてこの「無限の悟性」と我々の悟性が根源的に
は同じものであると考えることで、カントの二元論を克服し、分断されていたものの間の関係
を説明した。
2006 年 度 卒 業 生
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現存在分析から見た「精神分裂病」患者の現存在と時間意識
平田梨乃
本論文では、研究の歴史が長く、現在人々の関心が高まっている、統合失調症と名称が変更に
なった「精神分裂病」患者の自己状態、自己状態と時間の関係、そして時間意識について、ル
ートウィヒ・ビンスワンガーの『精神分裂病 I』、『精神分裂病 II』をテキストとし現存在分析
的に考察していく。
本論は、序章、第一章、第二章、第三章、終章で構成されている。まず第一章では、統合失調
症の名称変更の理由、発症の原因ならびに症状について、主に『DSM-IV(精神障害の診断・
統計マニュアル第 4 版)』を参考にして詳しく論じている。そして『精神分裂病 I』、『精神分
裂病 II』で示されている症例、エレン・ウェスト、ユルク・ツゥント、ローラ・ヴォスの 3 人
をみていきながら、第二章では、L・ビンスワンガーが「精神分裂病」患者の特定の現存在構
造と現存在経過の単一性を成立させるのに必要とした4つの構成カテゴリーである、1)自然
な経験の一貫性の分解すなわち非一貫性、2)経験の非一貫性の二者択一への分裂、あれかこ
れかへの分裂、3)被覆、4)現存在の消耗
にしたがって、「精神分裂病」患者の現存在に
ついて考察し、第三章で現存在分析から見た現存在と時間の関係、および症例の時熟様態、症
状から考えられる彼らの時間意識について考察した。最後に、終章で、第二章と第三章の考察
から導き出された事柄をまとめた。
考察した結果、「精神分裂病」患者は生まれた時から特殊な生活環境や人間関係の中で育てら
れてきたということが明らかになった。そのため、彼らは他者や事物と上手く関わっていくこ
とができなくなり、自分の置かれている状況に対して常に不自然な感じをもっていた。その中
で彼らの現存在は周りの強い干渉を受け、それにより自分の望むような状態にしようと懸命に
試みているのがうかがえた。しかし、その試みは彼ら自身の現存在を見失わせ、他者や事物と
いったあらゆるものに過剰な関心を向けさせるものであった。その結果、彼らは苦痛の中に追
い込まれていくが、その苦痛を和らげようと彼らはあらゆる手段を用いて立ち向かっていくの
がみられた。以上から、「精神分裂病」患者は、奇妙であると思わせるような思考や行動によ
って自らを守り続け、常に自己を探し求めているのではないかという考えにたどり着いた。そ
して、彼らの現存在は、過去という時間に縛られ、先へ進むことが困難になっており、時間に
左右されているように考えられる。また時間意識においては、現存在分析的にみたとは言いが
たく課題として残ったが、過去・現在からみた未来のことに重点をおいて捉えているのではな
いかという結論に至った。
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日本神話における黄泉
山本奈津美
序章
死生観への問いと神話の意義
第一章
冥界の神話紹介と普遍性
第一節
冥界の神話紹介
第二節
世界の冥界の神話の普遍性
第二章
『古事記』における黄泉
第一節
『古事記』の黄泉国神話の紹介
第二節
根の堅州(かたす)堅州国(くに)国について
第三節
黄泉国の地下説
第四節
常世の国との関わり
か
第三章
終章
た
す
く
に
『古事記』における黄泉の位置づけ
まとめ・結論
●概要●
日本神話における黄泉と題し、『古事記』の中の黄泉国の位置づけについて考察した。
1章ではオリエント神話の「イナンナの冥界下り」「イシュタルの冥界下り」について考
察した。冥界は一般的に黄泉と類似したイメージがあると考えたからだ。また、数多くある神
話の中でオリエント神話を選んだのは、世界の神話・説話の起源になっているメソポタミア・
バビロニアから誕生した神話であり、日本と同じアジアの神話であるからである。
2章では、『古事記』の中の黄泉に関わる神話を紹介した。1節では、1章のオリエント
神話の冥界と対比する黄泉国の箇所であるイザナキ・イザナミの箇所を扱った。2節では黄泉
は
は
国と同一視されている説もある根の堅州国と妣(はは)妣の国について考察した。3節では、
黄泉の地下説を取り上げた。4節では視点を変え、常世の国と黄泉国に関わりについて考察し
た。3章で2章の内容をまとめた。
終章では全ての章ををふまえ、オリエント神話の冥界と『古事記』の黄泉国の特徴につい
てまとめ、私の見解ではこれらには相違点があった。ここから、黄泉国は以下のような世界だ
と考えた。
・
葦原中国(この世のような)世界から容易に黄泉国へは赴ける
・
葦原中国から黄泉国はさほど距離のない所にある
・
黄泉国が地下世界であるとは言い難い。むしろ、葦原中国から少し上った所とも考えられ
る
・
黄泉国=死者の国と簡単には言えない
・
各世界の掟・秩序がない、もしくは弱い
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