文化9年分間村絵図からみた 美馬市木屋平の集落

特別寄稿
阿波学会紀要 第54号(pp.171-182)
2008.7
文化9年分間村絵図からみた
美馬市木屋平の集落・宗教景観
*
羽山 久男
要旨:今回の調査によって所在が確認された美馬市木屋平総合支所所蔵の文化9年(1812)作成・明治12年(1879)
写の実測の麻植郡三ッ木村・川井村・木屋平村分間絵図(5鋪)は近世後期における剣山地集落の空間構造(景観)
のみならず,村人の民間信仰と深く結びつく宗教景観や空間認識,剣山修験の霊場等を精密に描いた一級の史料であ
る。文献史料ではあきらかにできないミクロな空間的絵図情報を読みとくことや現地調査をまじえて,木屋平の集
落・宗教景観,剣山修験霊場,村人の精神世界等を視点に復原した。
キーワード:分間村絵図,集落景観,宗教景観,精神世界,剣山修験霊場
袍),d同南分(259.5×476.3袍),e同西分(262.4×
1.木屋平分間村絵図の史料的価値
文化・文政期(1804∼29)にかけて徳島藩絵図
(測量)方の岡崎三蔵を中心として作成された阿波
306.2袍)である。
a・bの端書にみえる凡例をみると,
凡例
国藩政村に関係する実測分間村絵図(縮尺約1,800
一 六尺 一間(*1.818m筆者注,以下同)
分の1)は当時の村落景観等を空間的に復原できる
一 六十間 一丁(*109.086m)
貴重な史料である。筆者が管見する阿波山村に関係
一 五十町 一里(*5,454m)
するものとしては,①文化10年(1813)勝浦郡八重
一 墨筋 郡境
地村一宇村・田野々村・樫原村・久保村野尻村・福
一 黒朱合筋 組合村境(*三ッ木村と川井村
原村(在所・山分)
・瀬津村分間絵図(在所・山分・
の飛地の入り込み状態を図示するため)
8鋪・上勝町役場蔵)
,②美馬郡岩倉村分間絵図(山
一 黄 田(*薄黄)
分・4鋪),文政2年(1819)同郡曽江山分間絵図
一 白 畑(*薄墨 地面畠)
(6鋪・美馬市教育委員会蔵),③阿波郡伊沢村分間
絵図(山分・3鋪・阿波市阿波町永井家文書),④名
西郡神領村絵図(2鋪・徳島県立博物館蔵)である。
一 朱筋 道路(*道)
麻植郡三ッ木村分間絵図
積数
この内,自治体史・地域史・歴史地理学等の分野で
一 外周七里廿八間(*38,229m)
分析対象となったものは①と②にすぎない1)。
一 高三百四十二石程(*村高)
今回の調査により木屋平総合支所で所蔵が確認さ
れたのはa麻植郡三ッ木村川井村分間絵図控の三ッ
同郡川井村分間エズ(*絵図)
積数
木分(272.6×378.3袍),b同川井分(223.0×372㎝)
,
一 外周五里十八町十八間(*29,266m)
c麻植郡木屋平村分間絵図控の北分(332.8×325.5
一 高二百六十六石程(*村高)
* 徳島地方史研究会会員
171
文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観/地方史班
たいごう
一 両村尾境城ノ丸権現高直立三百十五間(*直
森遠名・谷口名・太合名・川上名の5名で構成され
立高は573mを示すが,どの地点との比高を
るが,「名」は中世起源の集落を意味し,祖谷山・
示すかは不明)
大粟山・岩倉山・山城谷等でひろくみられる山村集
みょう
文化九申年四月製図(*「製図」は書かない)
落を示す歴史的な地名である。絵図では穴吹川上流
明治十二年六月写真 印
左岸の海抜370m(木屋平村全図による)から最上
なお,c・d・eも凡例内容・様式は同じであり,
部の660mの南向き斜面に広がり,集落内比高は約
本絵図5鋪は藩に調進した文化9年作成控図を原本
300mに及び,平均傾斜は約1/3である。集落全体
とする明治12年の写であることがわかる。木屋平村
が御荷鉾構造線にそう「森遠の破砕帯地すべり」と
絵図(前図)と近世分間絵図(後図)の凡例の相違
して知られ,1966∼67年の地すべりは全国的に大き
点については,上記の*印で示したが,前図は①は
く報道された2)。
縮尺を明示しておらず,後図の「絵図面二分一丁
絵図に4筋の谷(中央に「大島谷」)が見えるが,
(1/1,800)」を欠くが,5,000分の1木屋平村全図
約390枚の棚田と約590枚の段畑(本畑)が描かれる。
(1990)と比較すると,約1,800分の1の縮尺である
棚田は小谷筋懸りの水に依存しており,寛文12年
ことがわかる。②方位ついて後図は花弁様式の南北
(1672)の検地帳3)の田総面積は3町9反5畝10歩
東西の字を記した4方位であるが,前図では十字の
で,1筆平均面積は30.4坪となる。また同年の切
方位のみである。③後図では2寸(6.06㎝・1丁・
畑・山畑を除く本畑総面積は12町8反20歩で,1筆
109m)のメッシュ(方眼)のある場合が多いが,
平均面積は65.2坪である。さらに92棟の家屋が見え
前図では見られない。
るが,氏神の「正八幡宮」北側に所在し,石垣と門
以上の諸点が明治初期作成の絵図類(地図)の特
や白壁の土蔵と母屋を持つ中世からの土豪名主で,
まつ
徴と一致する。さらに,集落景観を構成する田本畑
木屋平一帯を支配した「オヤシキ」と呼ばれた「松
(耕地,但し切畑山畑は山地として描かれる),民家
家 家 」がある。寛文12年検地帳 4) によれば,同家
(萱葺・土蔵の区別あり),山神・八幡宮・観音堂・
は森遠名で8町7反5畝17歩の田本畑を所有した。
鎮守・権現等の民間信仰や寺社を示す宗教景観,さ
これは名面積16町7反6畝の約52%を占有している
らに道・石垣・橋・河谷・巨岩・山地・山頂等のラ
ことになり,さらに同年の5ヵ名の田本畑面積73町
ンドマークや修験(山伏)の行場等を描く筆致はき
2反9歩の23%にあたる16町6反6畝5歩を5ヵ名
わめて精緻で,勝浦山・神領村・岩倉山・伊沢村絵
で所有していた。また文化6年(1809)に5ヵ名で
図等と共通する特徴である。以上から本図は徳島藩
配下にした下人層56人のうち28人(50%)が本名に
の絵図方等の技術を持つ者が明治初期に写したもの
集中する5)。さらに「オヤシキ」と呼ばれた同家の
と推定できる。
屋敷地は1反2畝12歩(372坪)と圧倒的な地位を
か
さらに,本図では集落景観を構成する上記の諸要
け
築いていた6)。
素の空間的でミクロな配置構造が読みとれ,村人の
絵図に描かれる民家数からみて文化期の森遠の戸
空間認識を含む全体としての集落の空間構造を把握
数を推定すると91戸となるが,文化期は上・中・下
できる。宗教景観にしても,民俗学調査等で見られ
分の3組に分かれた7)。『木屋平村史』(1971)によ
る地神・屋敷神・お堂・地蔵・板碑等の個別の分散
れば1955年と68年の戸数はそれぞれ77戸,70戸で,
的な配置関係だけではなく,村人の生活空間である
2007年12月現在の住民登録世帯数は47戸,人口は
ミクロコスモス(小宇宙)的な全体構造としての集
122人(但し,常住世帯・人口は不明。)である。
落空間を復原することが可能である。
次に森遠の民間信仰を中心とする祭祀空間をみよ
う。享保6年(1721)の棟札 8) がある成願寺の東
2.森遠名の空間構造
隣には「観音堂」,「チン守」があり,中央部には中
写真1は木屋平村分間絵図の内,最大の集落であ
もり とう みょう
る森遠 名 を示している(図2参照)。本村は下名・
172
世山岳武士「木屋平氏」(近世以降は「松家氏」)が
しも
拠った「森遠城」跡に鎮座する「正八幡宮」「地神」
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写真1 木屋平村分間絵図の森遠名(上は北を示す)
173
文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観/地方史班
0
100
写真2 森遠名の空中写真(1994年撮影・木屋平総合支所提供)
174
200
300m
阿波学会紀要 第54号(pp.171-182)
が描かれている。この地区は村民から「オヤシキ」
9)
2008.7
村全図」(1990)で露岩・散岩・岩場として確認で
とか「オモリ(お森)」と呼ばれており ,森遠名
きるので,絵図の所在位置もかなり正確である。名
の中核的な場所である。さらに東部にも「八幡宮」
称のつく巨岩は13(約7%)で, 図1・2 でその場
があり,「山神」は「谷口名」境と集落北西部の山
所を確認する。三ッ木村では葛尾名の「畳石(870
中の「中内」に2社ある。また家屋内の火所に祀ら
m)」(美馬郡半平村境付近),南開名の「龍ノ口」
あま ぎょう
れ火伏せの神
10)
または修験道の崇拝対象
11)
とされ
( 穴 吹 川 左 岸 ), 川 井 村 で は 大 北 名 の 「 雨 行 山
る「三宝荒神」も2社みられる。このように,正八
(925m)」の頂直下の「大師ノ岩屋」・「香合ノ谷」・
幡宮・八幡宮・地神・成願寺・チン守・山神・三宝
「護摩檀」(修験行場の可能性もある),名西郡上分
荒神等が集落中心部に近く配置されている空間構造
上山村境の「穀敷石(950m)」,木屋平村では「谷
がうかがえる。
口カゲ」の「権現休石(410m)」,那賀郡川成村境
次に1994年撮影の空中写真(写真2)と絵図を比
の「塔ノ石(1,487m)」,美馬郡一宇村境の「ヨビ
較してその景観変化をみよう。まず①水田の消滅,
石(881m)」や剣山修験の行場である「垢離掻川
②穴吹川沿いの南西部・南東部,西部の成願寺周辺,
上部の三宝荒神付近,集落上部の絵図では田であっ
(750m)」北に「鏡石(910m)」がみえる。
さらに,仏や菩薩が衆生を救うために権(かり)
た小谷沿い一帯の林地化現象が顕著である。③絵図
に姿をあらわしたものとされる「権現」 14) が隣村
にみえる本畑の顕著なゆず園化現象がみられ,成木
と境をなす聖なる霊山に多く鎮座する。木屋平村と
よりも幼木のゆず園が圧倒的多く,1994年頃がゆず
一宇村境の「杖立権現(1,048m)」,三ッ木村と半
園化のピークであったことが推定できる。④正八幡
平 村 の 境 の 「 ア ザ ミ 権 現 ( 1 , 1 3 8 m )」, 東 宮 山
宮の東に4棟の鶏舎がみえ(現在もある),⑤聞き
(1,091m)西斜面の「杖立権現」,川井村と上分上
取り調査(2007年8月26日)によれば,転出戸によ
山村境の「雨行大権現」と「富貴権現(970m)」,
る田畑への杉の植林の影響による日照不足畑地の増
三ッ木村・川井村境の「城之丸大権現(1,060m)」
加や,集落全体の耕地の縮小化,すなわち,過疎化
等が鎮座する。さらに那賀郡岩倉村境の霊場「一ノ
による集落空間の縮小化現象がみえる。
森(1,879m)」の「経塚大権現」・「二森大権現」,
剣山修験のシンボル的な霊場・行場である「剣山」
3.分間村絵図と巨石・権現信仰
池上広正
12)
山頂(1,955m)にある「宝蔵石権現」,木屋平側の
は山岳信仰の諸形態として,仏教の
行場にある「古剣大権現(1,720m)」,祖谷山側に
山,神社神道の山,修験の山,教派神道の山,民間
ある「大篠剣大権現(1,810m)」,丸笹山頂付近の
信仰の山の5つをあげている。絵図に表現される小
「権現(1,580m)」等が絵図にみえる。これらの
祠・堂や「権現」が祀られ,村人が毎日仰ぎ見る村
「権現」は剣山修験の霊場や行場に鎮座するもので
境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(大石),
あるが,川井村麻衣名の「蔵王権現(現麻衣神社,
南西方向には山体が修験の霊場を形成する霊峰剣山
600m)」も修験とのつながりが考えられる15)。
の宗教景観等から,木屋平一帯は民間信仰と修験の
山の複合した景観が形成されたと推定される。
表1 には342の民間信仰や,村人がつけた河谷名
4.民間信仰の空間構造
表1 に巨岩197・民間信仰244・地名等98を示し
や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数等を示した。
た。これと 図1・2 や文化10年(1813)の勝浦山分
巨岩197の内,名称のついていない184を加えると
間村絵図16)における民間信仰195と対比させて検討
526を数える。『木屋平村史』によれば,村内の小
する。巨岩は三ッ木村桑柄名・小日浦名・「龍ノ口」
,
祠・堂は736とあるが,明治以降にあらたに祀られ
川井村枝折名,木屋平村日比宇・下モ名等ように穴
13)
たものも多いので ,絵図に描かれた342は近世後
吹川が御荷鉾構造線にそって形成する縦谷・横谷部
期におけるものをほぼ網羅していると考えられる。
に多く分布する。特に穴吹川最上流の木屋平村川上
巨岩197の所在場所は縮尺5,000分の1の「木屋平
名・茗荷名・「槙渕大明神」
(『阿波志』では「巻淵」
175
文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観/地方史班
表1 文化9年(1812)麻植郡三ッ木村・川井村・木屋平村分間絵図にみえる宗教景観・地名等
番号
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
計
1
2
3
4
5
6
7
8
9
計
合計
宗教景観・地名等
巨岩(大石)
山神
権現
八幡
鎮守
地神
地蔵
観音堂
荒神
阿弥陀堂
弁才天
庚申
寺院
明神
不動
六地蔵堂
薬師堂
舟戸
牛頭天王
天王社
妙見
経塚
大師堂
疱瘡神
龍王
若宮
天満宮
釈迦堂
諏訪社
富士池坊
両剣山神社
行者
茶堂
大神宮
虚無蔵
垢離掻川
池名
谷地名
山頂名
集落(名)名
その他小地名
御花畠
馬場
御築山
橋
三ッ木村
58(2)
32
3
4
―
―
1
5
―
1
1
3
1(善福寺)
―
―
3
1
3
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
―
116
―
2
5
8
8
―
―
―
2
25
141
川井村
24(5)
26
7
2
4
―
3
―
1
1
1
1
1(極楽寺)
2
1
―
1(櫟木名)
―
1(麻衣名)
1(大北名)
―
―
―
―
1(檪木名)
―
―
1(久保名)
―
―
―
―
―
―
―
―
79
―
4
1
5
8
―
―
―
1
19
98
木屋平村
115(6)
29
14
11
6
9
5
3
6
5
2
―
2(成願寺・龍光寺)
2
3
―
1(谷口カケ)
―
1(寺内)
1(川上名)
2(谷口名・川上名)
2(谷口名・内川内)
2(谷口名・日比宇)
2(下モ名・太合名)
―
1(太合名)
1(谷口名)
―
1(谷口名)
1(富士池)
1(富士池)
1(富士池)
1(富士池)
1(アジ谷付近)
1(川上名)
1(富士池谷)
233
2(下モ池・上ミ池)
4
5
4
26
1(剣山頂)
1(二ノ森・剣山頂)
1(剣山頂・二ノ森)
14
54
287
計
197(13)
(5.3%)
87(35.5%)
24(9.8)
17(6.9)
10(4.1)
9(3.7)
9(3.7)
8(3.3)
7(2.9)
7(2.9)
4(1.6)
4(1.6)
4(1.6)
4(1.6)
4(1.6)
3(1.2)
3(1.2)
3(1.2)
2(0.8)
2(0.8)
2(0.8)
2(0.8)
2(0.8)
2(0.8)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
1(0.4)
428(244・100.0%)
2
10
11
17
42
1
1
1
17
98
526
(注)①文化9年5月作成,明治12年写の麻植郡三ッ木村・川井村・木屋平村分間絵図(縮尺1,800分の1,美馬市木屋平綜合支所蔵)より作成。
②巨岩(大石)の(
)内数字は名称が記載されているものを示す。
③%の数字は名称がつけられている巨岩(大石)を含む宗教景観244に対する%を示す。
④(
)内の地名は所在場所を示す。
176
阿波学会紀要 第54号(pp.171-182)
2008.7
凡 例
巨岩(大石)
大師堂
荒神
諏訪社
山神
庚申
鎮守
疱瘡神
八幡宮
薬師堂
天満宮
龍王
観音堂
舟戸
天王社
集落名
権現
阿弥陀堂
妙見
小地名
弁財天
寺院
経塚
河谷名
明神
橋
釈迦堂
村境
不動
若宮
地神
牛頭天王
六地蔵堂
地蔵
郡境
図1 文化9年麻植郡三ッ木村・川井村の宗教景観
(麻植郡三ッ木村・川井分間絵図(文化9年(1812)5月作成,明治12年(1879)6月写,
縮尺1,800分の1,美馬市木屋平総合支所蔵)より作成)
(ベースマップは国土地理院発行(平成19年)1:25,000地形図「阿波川井」「谷口」による)
177
文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観/地方史班
図2 文化9年麻植郡木屋平村の宗教景観
(麻植郡木屋平村分間絵図(文化9年(1812)5月作成,明治12年(1879)6月写,
縮尺1,800分の1,美馬市木屋平総合支所蔵)より作成)
(ベースマップは国土地理院発行(平成19年)1:25,000地形図「阿波川井」「谷口」「剣山」による)
178
阿波学会紀要 第54号(pp.171-182)
2008.7
凡 例
巨岩(大石)
大師堂
荒神
諏訪社
山神
庚申
鎮守
疱瘡神
八幡宮
薬師堂
天満宮
龍王
観音堂
舟戸
天王社
集落名
権現
阿弥陀堂
妙見
小地名
弁財天
寺院
経塚
河谷名
明神
橋
釈迦堂
村境
不動
若宮
地神
牛頭天王
六地蔵堂
地蔵
郡境
179
文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観/地方史班
とある17)。「垢離掻川」付近は密度が高い。しかし
弘法大師伝説を記す。また「大師一夜建鉄立の石段」
1976年9月の17号台風に伴う未曾有の集中豪雨によ
と伝わる結晶片岩でできた非常に急峻な石段が「大
る穴吹川の氾濫と山腹崩壊により,谷底部の巨岩は
師ノ岩屋」に通じている。「護摩檀」横には明治9
土砂に埋没した18)。
年3月吉日の銘がある「大日如来」像が鎮座し,台
全体の約36%を占める「山神」は狩猟や山岳信仰
座には「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にあ
に伴うものよりも,伐木・造林・炭焼や薪等の山稼
る麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵とある。台座に刻
ぎ・山仕事だけでなく,切畑山畑や田本畑農耕に結
まれる集落名と人をみると,世話人の川井村5人を
びついた村人の守護神であり,農神的性格が強いと
はじめ,三ッ木村4人,大北名3人,管蔵名1人,
される 。1950年の世界農林業センサスによれば,
今丸名13人,市初名(三ッ木村)1人,上分上山村
木屋平村には25戸・3町2反2畝の焼畑・切替畑が
9人,下分上山村3人,不明2人の41人で,近隣の
あり(寛文12年検地帳では66町3反4畝)20),昭和
村人が中心である。さらに「大日如来」像の横には
20年代までは集落周辺の山林で粟・稗・蕎麦・大
「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設
豆・小豆等の雑穀・豆類を栽培し,主要な食料源と
大施主當山中與開基大法師清海」に因む33体の観世
していた。「山神」は田本畑の中心よりも集落上部
音像が鎮座している。以上の点から判断すると,こ
から耕地を俯瞰する位置に祀られる場合が多い。
の岩場は修験の行場と周辺の村人の尊崇の対象とな
19)
「山神」に次ぐのが約10%を占める「権現」で,
った民間信仰が複合した形態と推定できる。
木屋平村には地蔵堂・地神・荒神・阿弥陀堂・不動
等が多い。さらに妙見・経塚・大師堂や除疫神の疱
6.剣山修験の霊場・行場
瘡神・天満宮・諏訪社等が勝浦山になく木屋平にあ
写真4は絵図に描かれた剣山修験の「表参道」と
る理由は,逆に六地蔵・舟戸等が木屋平になぜない
呼ばれる木屋平村の「藤之池本坊」の霊場と行場を
のか,これは剣山修験と関係があるのかどうか,地
示している。穴吹川本流と富士ノ池谷の合流点付近
域性を含めてこの点は今後の課題としたい。
に位置する修験霊場には「垢離掻川」・「行者」・「倶
勝浦山では山神(40%),地蔵・野神(各6%),
利伽羅不動」・「瀬戸不動」が描かれるが,1976年の
権現・水神・鎮守・地神・若宮(各5%),観音・
大災害に伴う山腹崩壊によりこれらの霊場景観は破
八幡・阿弥陀・山王(各2%)で,剣山地南斜面の
壊され,わずかに不動尊像1体が残るのみである。
棚田に大きくに依存するため水神が8社ある。これ
写真4(図2参照)は標高約1,130∼1,190mの斜面
に対し段畑が多い木屋平では三ッ木村南開名の「龍
にある真言密教系統の醍醐寺三宝院に本拠をおく修
ちちの き
ノ口」,川井名の 檪 木名の龍王の2社のみである。
験道当山派に属する「藤之池本坊」一帯を描いてい
る。これは木屋平村谷口名にある真言宗京都大覚寺
5.川井村大北名の大師庵
末寺「龍光寺」の「剣山藤之池」にある修験本坊で
川井トンネルから北西に天行山(925m)の山腹
ある。さらに「垢離掻川」の「水行場」が大水害で
を1.5キロのところの岩場に鎮座する「雨行大権
破壊されたので,1995年にこの地に移した石碑「霊
現」・「大師ノ岩屋」・「護摩檀」・「香合ノ谷」の霊場
峰剣山水行場再興」がある。山門に「大本山剣山金
絵図を写真3に示した。絵図では「雨行大権現」は
剛院藤之池本坊 当山派 修験道根本道場」の石碑
天行山頂に鎮座するが,現地では「大師ノ岩屋」の
があるが,絵図には「富士池坊」・「八大龍王」・「不
上方にあり,地元では「大師庵」と呼ばれている。
動堂」が描かれ,その上方に水害で崩壊した「両剣
明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・
山神社」・「両剣前神社」・「福生権現」の伽藍が描か
川井村』には「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニア
れている。さらに絵図には上方の「追分」付近
リ巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク少シ離レテ護摩檀ト称
(1,540m)の尾根筋の参道に「下モ池」・「上ミ池」
スル処アリ古昔僧空海茲ニ来リテ此檀ニ護摩ヲ修業
がみえるが,現存しない。絵図に描かれた「垢離掻
シ岩窟ノ悪蛇を除シタリ土人之ヲ大師檀ト称ス」と
川」と「藤之池本坊」の霊場景観はかつての霊場景
180
阿波学会紀要 第54号(pp.171-182)
2008.7
写真3 川井村の雨行大権現・大師の岩屋付近
観が失われた今,きわめて貴重である。
謝辞
現地調査等で剣山修験に関して御教示いただきま
7.おわりに
麻植郡木屋平分間絵図は近世後期段階における山
した徳島県立博物館の長谷川賢二氏に感謝を申し上
げます。
村集落の空間構造や宗教景観,さらには剣山修験の
霊場景観等を細密に復原できる一級の史料である。
木屋平村の寛文12年検地帳と文化6年棟付帳の所在
が不明であるが,三ッ木村の検地帳等と地租改正作
業時における同村の丈量図・地籍図等が現存してい
るので,分間絵図と明治初期を比較することにより,
耕地や景観表現の粗密とその連続性等に関して分析
を進めたい。なお,剣山修験については田中善隆21)
や長谷川賢二 22) による山岳宗教史の視点からの研
究成果があるが,筆者はこの点に関しての知見が乏
しいので,今後の課題としたい。
参考文献
1)羽山久男(1981)『山村地域の史的展開−徳島県勝浦郡上
勝町−』教育出版センター,472∼494頁。
2)木屋平村発行(1971)『木屋平村史』396∼398頁。
3・4)磯田 進編(1955)『村落構造の研究』東京大学出版
会,15∼19頁。
5・6)前掲同,18∼19,23頁。
7)前掲『村落構造の研究』19頁。
8)前掲『木屋平村史』1,028頁
9)前掲『村落構造の研究』15頁。
10)大塚史学会編(1969)『新版 郷土史辞典』朝倉書店,178
頁。
11)和歌森太郎編著(1981)『山岳宗教史研究叢書16
の伝承文化』名著出版,289∼294頁。
修験道
181
文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観/地方史班
写真4 剣山修行の霊場・行場
12)池上広正(1981)「山岳信仰の諸形態」前掲11,88∼95頁。
13)前掲『木屋平村史』968頁。
14)大塚民俗学会編(1979)『日本民俗事典』弘文堂,272頁。
高埜利彦(1989)『近世日本の国家権力と宗教』東京大学出
版会,309頁。
15)『木屋平村史』219頁。和歌森太郎編著(1975)『山岳宗教
研究史叢書1 山岳宗教の成立と展開』名著出版,294頁。
16)前掲『山村地域の史的研究』472頁。
17)佐野之憲編・笠井藍水訳(1976)『阿波誌』歴史図書社,
223頁。
18)「垢離掻川」付近に徳島県森林管理署穴吹川治山事務所設
182
置の「穴吹川民有林直轄治山事務区域(富士の池地区)」の
掲示板による。
19)前掲『日本民俗事典』763頁。
20)前掲『村落構造の研究』15頁。
21)田中善隆(1979)「剣山信仰の成立と展開」「阿波の霊山と
修験道」,宮家準編著『山岳宗教史研究史叢書12 大山・石
鎚と西国修験道』名著出版所収,330∼342,344∼366頁。
22)長谷川賢二(1995)「中世阿波の山伏集団に関する疑問−
二系列集団対抗論への疑問−」『四国中世史研究』第3号34
∼52頁。同(1992)「修験道本山派形成の動向と四国地方の
山伏―土佐・阿波の場合―」『四国中世史研究』第2号,37
∼52頁。