戦後史とプロレス - 社団法人・現代風俗研究会

第52回プロレス文化研究会
2015年10月24日(土)
八文字屋
戦後史とプロレス
講師
Ⅰ
岡村正史(エッセイスト)
「戦後 70 年における力道山/プロレス」
力道山に関するアンケートより
いささか古いデータにはなるが、私は 2002 年 10 月、2003 年 5 月に兵庫県阪神シニアカレッジで「力
道山と日本人」と題して講義を行った。その折に、力道山およびプロレスに関してアンケートを実施し
たのである。力道山の死後 40 年というタイミングであった。
回答数は 183。男性、113、女性 47、性別無回答 23 で、全体の 8 割近くが 1931~1941 年に生まれて
いた。プロレスラー力道山を初めて目撃したのは 13 歳~23 歳ということになる。
「力道山の生前プロレスをよく見ていたか」という質問に対しては、
「よく見ていた」
「ときどき見て
いた」を合わせると 82 パーセントという数字になった。ちなみに、
「まったく見たことがない」は 5 パ
ーセント弱である。
プロレスを見る手段としては、やはり「自宅のテレビ」がもっとも多く、ついで「街頭テレビ」「近
所の家のテレビ」
「映画館(ニュース映画)」と続いた。「会場で観た」人はわずかに 3 人であった。
「力道山の死後、プロレスを見ているか」については、
「あまり見たことがない」
「まったく見たこと
がない」で 52 パーセントを超えた。力道山の死とともに半数の人がプロレスから離れたということに
なる。
さらに、このアンケートから、プロレスが「嫌いな人」は 36 パーセントで、「好きな人」の 22 パー
セントを上回っていること、プロレスを「スポーツ」と思う人は 13 パーセントにすぎないが、
「ショー」
だと思う人が 8 割に達することが判明した。プロレスに好意的な空気とは言えない。それでは、力道山
に対してはどうなのか。
「力道山は好きでしたか」という質問に対して、
「好きだった」
「どちらかといえば好きだった」を合
わせると 64 パーセント近くに達した。男性だけに限定すると 77・7 パーセントである。これは「プロ
レスが好き」
「どちらかといえば好き」の合計である 22 パーセントに比べて、かなり多い数字である。
力道山の死後、プロレスを見なくなった人の比率を考えあわせると、妥当な数字といえるだろう。
好きな理由としては、
「強い」
「日本人に勇気を与えてくれた」「外人を負かす」が上位を占めた。複
数あった回答を列記しておく。
「技の切れ」「空手チョップ」「強い相手に立ち向かう」「フェア」「一生
懸命、真剣」
「正義の味方」
「最後は勝つ」
「子供たちのヒーロー」
「素直」
「カッコ良かった」
「新スポー
ツをリードしたバイタリティ」
「相撲界より転向の経緯」
。
一方、4 パーセントにすぎなかった「力道山が嫌い」な理由では、
「プロレスに興味がない」を先頭に、
力道山個人というよりはプロレスに対する否定的評価が目立った。
力道山でいちばん印象に残っていることは何なのか。
「空手チョップ」という回答がもっとも多く、全回答の 4 割を占めた。次いで、
「死に方」
「木村政彦
戦」
「黒タイツ」
「ルー・テーズ戦」
「シャープ兄弟戦」と続いた。中には、
「力道山が信頼していたドク
ターが知り合いだったので、大阪でプロレス開催時多量の出血のため診察に行かれたときお供しました。
そのときベッド(ダブルベッド)の上に横たわっている彼を見て、あまりに大きかったので驚いたこと
を覚えています」と具体的な体験を記す回答もあった。
最後に、
「力道山が朝鮮半島出身であることは今日では新聞、書籍、テレビ等で広く知られています。
ところが、力道山の生前、この事実は一般には秘密にされていました。ところで、あなたは力道山の生
前にこの事実を知っていましたか」という設問を置いた。この質問への回答は「はっきり知っていた」
8・7 パーセント、
「うすうす知っていたような気がする」37・2 パーセント、「知らなかった」48・6 パ
ーセント、
「覚えていない」5・5 パーセントである。
大相撲時代の力道山を覚えている人は 26 パーセントいた。相撲通の間では、力道山が朝鮮半島出身
であることは広く知られていたといわれている。先の質問に「はっきり知っていた」と答えた 16 名の
うち、大相撲時代の力道山を覚えている人は 8 名であった。なお、「うすうす知っていたような気がす
る」の中には、実は死後知ったが生前から知っていたような気になっている回答が含まれている可能性
を否定することはできないだろう。
「力道山でいちばん印象に残っていること」をランダムに挙げてもらった回答の中に「在日の身とし
て堂々としていた」がある反面、「力道山が嫌いな」理由に「真の日本人ではないから」があったこと
を付け加えておきたい。
アンケートからは、当時の大衆(若者)が力道山に抱いた一般的なイメージが浮かび上がってくる。
岡村正史「力道山――ヒーローと偏見」より抜粋(テッサ・モーリス・スズキ編『ひとびとの精神史
第2巻 朝鮮の戦争 1950 年代』所収、岩波書店、2015 年)
参考
「反応のかげに、力道山は朝鮮人らしい、という呟きも陰気に隠れていた。そのことが、プロレスはイ
ンチキだということのなんらかの裏打ちになっているように喋る人も多かった。ニセの日本人のやるニ
セのスポーツという、ニセのつなげ方である」村松友視『当然、プロレスの味方です』、p86、情報セン
ター出版局、1980 年
「日本の帝国主義の侵略性などに批判をもっていたインテリならば、「日本をやっつけた憎いアメリカ
人」という意識もなかっただろう。[中略]そしてインテリは冷静だから、相撲を廃業した力道山の国籍
問題なども頭に入れて、はやくも八百長論議をはじめたりしたのだった」村松友視『ダーティ・ヒロイ
ズム宣言』
、p60、情報センター出版局、1981 年
Ⅱ
ロラン・バルト「レッスルする世界/プロレスする世界」を読み解く
1. Barthes,R.,1957,Mythologies,Seuil(篠沢秀夫訳,1967,『神話作用』,現代思潮社
下澤和義訳,2005,『現代社会の神話』,みすず書房)
●社会的な「神話」=「ブルジョワ・イデオロギー」批判→政治的な意図はなく、大衆文化の言葉づか
い ―― 「自然らしさ」を押しつけてくるもの―― に対する批判。
「わたしは、あたりまえのことが飾り立てられて示されているときの、そこに隠されていると思われる
イデオロギーの濫用を捉えなおしてみたかった」
(下澤訳)
2.
『神話作用』の巻頭を飾る「レッスルする世界」の特異性
「レスリングがバルトを惹きつける理由はいろいろある。それは、まず、ブルジョワ階級の娯楽という
よりも、むしろ大衆の娯楽である。それは物語的展開よりも場面を好み、意味作用に富む劇場的な身振
りを次々にくりだす。苦痛や怒りやピンチの記号ばかりでなく、結果においても、鉄面皮なほどに人為
的である。だから、あらかじめ試合の決着が決まっていることを知っても誰も驚かない。」
(ジョナサン・
カラー『ロラン・バルト』
)
● バルトのプロレス愛好
「彼は、驚きながら、大好物として、このスポーツ風の人工物を眺めていた。」
(ロラン・バルト『彼自
身によるロラン・バルト』
)
3.翻訳上の問題点
‘Le monde ou l’on catche ’→「レッスルする世界」(篠沢訳)
「プロレスする世界」(下澤訳)
篠沢訳では catch が1箇所を除いてすべて「レスリング」と訳され、下澤訳ではすべて「プロレス」
と訳されている。
篠沢訳が「プロレス」と訳した唯一の箇所。
≪Bien sur , il existe un faux catch qui se joue a grands frais avec les apparences inutiles d’un
sport regulier ; cela n’a aucun interet.≫(下線部岡村)
「もちろん、苦労して正規のスポーツの見せかけで行われる偽のプロレスが存在する。それには何の
興味もない。
」
(篠沢訳、下線部岡村)
「もちろん、苦労して正規のスポーツのふりをした、役に立たない見せかけだけの、偽りのプロレス
もある。それにはなんの興味も湧かない。
」(下澤訳、下線部岡村)
● バルトが愛好したプロレス(
「プロレスはスポーツではなく、スペクタクルなのだ」(下澤訳))
「真のプロレスは、不当にもアマチュアのプロレスと呼ばれ、二流のホールで開催されている」(下澤
訳)
→「偽のプロレス」に関しては、1950 年代のフランスにおいて2種類のプロレスが存在したというこ
となのか?あるいは、一つの興行の中でのルールを守る試合(後述)を指しているのか?いずれにせよ、
バルトが嫌悪したのはよりスポーツライクなプロレスだったはず。篠沢がここの catch だけを「プロレ
ス」と訳したのは faux 、つまり「偽の」に引き付けられたのか。逆に、バルトが賞賛する catch に「プ
ロレス」という訳語を避けたのか。1933 年生まれの篠沢の「プロレス」に対する感性を見るような思
いがする。もっとも、1967 年の段階で二種類の「プロレス」を想定することは困難だったろうが(篠
沢のイメージでは「プロレス」はすべて同じに見えていたのか)
。その点、1960 年生まれの下澤が 2005
年に catch をすべて「プロレス」と訳すことに躊躇はなかったろう。
4.
「偽のプロレス」の正体?
ルー・テーズは“Hooker”によると、ディック・ハットンに敗れてNWA世界王座を失った(1957
年 11 月 14 日)後、約5か月に及ぶヨーロッパ遠征を行っている。イギリスからフランスに渡り、ダラ・
シン、アンドレ・ドラップ、フランク・ヴァロワ、フェリックス・ミケらと戦った。原文にこういう記
述がある。
I had some very lucrative dates –in Paris,for instance, at the 10,000-seat Palais d’Sport, we had
numerous sellouts—and was making a couple of thousand dollars a week, but I could also see the
business was really going nowhere.
「1 万人収容のパレ・デ・スポール」とある。しかし、これはテーズの記憶違いではないだろうか。
というのも、パレ・デ・スポールは 1960 年創設であり、1 万人も収容できない(4600 人まで)。テー
ズが遠征した当時存在したのはヴェロドロム・ディヴェル Velodrome d’ hiver であり、これと混同した
ものと思われる。
そして、このような大会場で行われたプロレス興行こそ、バルトのいう「偽のプロレス」ではなかっ
たか。
ちなみに、バルトは 1966 年 5 月、1967 年 3 月、12 月と三度来日。計 3 か月滞在し、後にユニーク
な日本文化論である『記号の国』(
『表徴の帝国』)を著しているが、日本のプロレスに関する記述はな
い。
日本のプロレスは「偽のプロレス」だったのだろうか。
5.
「プロレスする世界」の主な内容
●ボクシングとの比較論
「バルトによれば、ボクシングは自分の力量の優越さを誇示する型のジャンセニスム的なスポーツであ
って、関心は最終の結果に向けられており、痛そうにするのは間近かに迫った敗北の記号としか理解さ
れない。それに対してレスリングは一瞬一瞬がスペクタクルとしてただちに理解できるドラマでなけれ
ばならない。レスラー自身は道徳的な役割を与えられたカリカチュアとしての肉体であり、そのかぎり
において結果に興味がもたれるにすぎない。以上のような理由で、ボクシングにおいては、ルールは試
合の外部にあって、踏み越えてはならない限界を示すのに対して、レスリングのルールは、産み出され
る意味の幅を拡げる約束事として強く内在化されている。そこではルールは破られるためにある。」
(ジ
ョナサン・カラー『ロラン・バルト』
)
●ルールを守る試合の存在
「プロレスの試合でルールが守られるのは、だいたい五回につき一回だけであることが解るだろう。」
(下澤訳)
「〈悪〉はプロレスの自然な風土であるため、ルールを守っているような試合は、とりわけ例外的な価
値を持つことになる。利用者はそれに驚き、スポーツの伝統において、時代錯誤のいくぶん感傷的な返
礼のように、それに敬意を表する(「妙にフェアプレイをするじゃないか、あいつらときたら」)。観客
たちは不意に、世界の普遍的な善意を前にして感動を覚える。だが、すぐにレスラーたちが悪しき感情
の大狂宴に立ち返らなければ、恐らく観客たちは退屈と無関心で死にそうになるだろう。」
(下澤訳)
●バルトが 50 年代に観た「二流のホール」エリゼ・モンマルトルでの観戦体験(1982.3.28)(小人、
女子を含め5試合)に見る興行の流れ。
①弱いベビーフェースが反則勝ち→②「規則的」な試合=反則がなく、過剰に礼儀が守られるベビーフ
ェース同士の試合「妙にフェアプレイをするじゃないか、あいつらときたら」→③ヒール一人(巨漢の
日本人)対ベビーフェース二人(小柄なフランス人)のハンディキャップマッチ「悪しき感情の大狂宴」
→ベビーフェースの逆転勝利→観客大熱狂(岡村正史「カンカン小屋のキャッチ」参照)
6.村松友視のロラン・バルト論(1980)
「プロレスという、世間からマヤカシと思われている世界こそ、マヤカシの一切ない世界だ・・・このよ
うにファンファーレを鳴らされると、ちょっと首をひねりたくなる」
「バルトが言うところの<プロレス>なるものが、あまりにも古い型でありすぎる」
「われわれはいまプロレスの最先進国たるニッポンに息をしている」
「ロラン・バルト風の知的な評価がプロレスを取り巻き始めたら、プロレスはまたその評価をも裏切っ
てゆかねばなるまい。
」
「プロレスそのものよりも、プロレスの意味するところのものを探ろうとした点では、「レッスルする
世界」の示唆に導かれて本書を書き上げたともいえる。」
(以上、村松友視『私、プロレスの味方です』
)
7・坪内祐三のロラン・バルト論(2007)
「『私、プロレスの味方です』に目を通したことのある読者なら知っているように、実は、あのエッセ
イで村松さんは、バルトに敬意をはらいつつ、微妙な批判を加えていた。バルトのプロレス観は甘すぎ
る、と。
「プロレスという、世間からマヤカシと思われている世界こそ、マヤカシの一切ない世界だ・・・
このようにファンファーレを鳴らされると、ちょっと首をひねりたくなるというものだ」
この村松さんのバルト批判が私はずっと気になっていた。
今回の新訳で初めて訳出された「ミュージック・ホールにて」という一文を読んでその疑問が少し解
けた。
バルトはビリー・グレアムをミュージック・ホールの催眠術師と批判していたが、ミュージック・ホ
ールそのものは大好きだった。なぜなら、そこでは、「身振りというものを、持続という甘ったるい果
肉から外に引き出して、その最上級の、決定的な状態において示し」てくれるから。
これはまさに彼のプロレス観と重なるものではないか。要するに彼はプロレスを演劇(持続)的なも
のとしてではなく見世物(瞬間)的なものとしてとらえていた。つまり彼は本当にプロレスが好きだっ
たのだ。
」
8.社会学からの評価
「日本のプロレスや格闘技をめぐる豊かな言説の原点とも言うべき村松友視の著作[村松 1980]が、バル
トのプロレス論からの示唆と批判を含んでいたことや、近年出た本書の新訳に対する坪内祐三[2007]の
適確な書評があることも指摘しておく。つまり逆に言えば、バルトは日本の文化研究や文芸批評のあり
とあらゆるところに影響の痕跡を秘かに残している。」
(長谷正人)
9.まとめ、あるいは村松への反論
・バルトはプロレスの基本形を抽出し分析している。プロレス論として普遍的価値を有している。
・プロレスについての知的評価は現実のプロレスと両立する。
・
「レッスルする世界」
(1967)と「プロレスする世界」
(2005)の間に、現実のプロレスは衰退した(
「プ
ロレス」と名乗らない一群のプロレス=WWE、ハッスル、あるいは PRIDE 等総合格闘技)のだろうが、
文化としての「プロレス」はより浸透したかもしれない。
参考文献
ロラン・バルト,佐藤信夫訳『彼自身によるロラン・バルト』,みすず書房、1979
ジョナサン・カラー,富山太佳夫訳『ロラン・バルト』、青弓社、1991
長谷正人「ポピュラー文化の神話学」井上俊、伊藤公雄編『ポピュラー文化』世界思想社、2009
小坂修平、他『別冊宝島 44 現代思想・入門』JICC、1984
村松友視『私、プロレスの味方です』,情報センター出版局、1980
岡村正史「カンカン小屋のキャッチ」,『別冊宝島 120 プロレスに捧げるバラード』,JICC、1990
岡村正史「catch はすべて「プロレス」と訳せ」、『宝島 30』3 月号,宝島社、1994
坪内祐三『四百十一枚』みすず書房、2007
フリーディスカッション
【力道山をめぐって】
● 力道山より遠藤の方が好きと回答した人はマニアックな人か?→当時 20 代の男性だ。そういう人
はほかにも聞いたことがある。マニアックではないと思う。
● シニアカレッジでの講演の質疑応答で、54 年 12 月の力道山対木村を 55 年と言い張る方がいた。
試合開始時間が遅れた関係で、東京のみテレビでオンエアされ、関西はラジオのみ、九州はラジオすら
なかった。ただ 1 週間後に映画館で記録映画が上映されており、55 年に固執した人は 55 年に映画館で
見た記憶で語っていたのではないか。アンケート実施後に連絡先を明記した数人に電話した。そのうち、
一人はテレビ局に勤務していた人だった。彼が言うには、ボクシングは技術的すぎる。つまり、どちら
が勝っているのかわからない。その点、プロレスは攻守がはっきりわかるので、よりテレビ向きで人気
が出た。
● 母の祖母は映画の宣伝でプロレスを観てショックを受けて寝たきりになり、数年後に亡くなった。
● 力道山はキレイな標準語をしゃべっていた。大日本帝国の教育の成果と言えるが、そのことの切な
さは 50~60 年代の活字になっていないのか。ほとんどの聴衆よりキレイな日本語ができた。近所の人
の方言に汚染されることはなかった。→渡日当初はなまっていたという情報もあるが。
● 在日朝鮮人の世界での力道山の評判はどうだったのか。プロレスが登場したころ、在日の世界では
力に頼るのではない方向、技術や知識で人生を切り開いていこうという方向が出始め、プロレスは力に
頼るものとしてきらわれている部分があった。→大阪の在日は大阪弁だ。大阪に汚染されている。→在
日は力道山が同胞であることを知っていたのか。
● 大山倍達は日本と韓国に妻がふたりいた。→力道山が出自を完全にシャットアウトしていたのに、
大山はオープンなところがあった。倍達という名前自体が朝鮮民族の古名である。当初は虎雄を名乗っ
ていた。大山にはなまりがあった。→なまりは幼いころからやっていないととれない。→大山はそんな
に知名度がなかった。
【ロラン・バルトをめぐって】
● 村松友視は信用できない。上から目線だ。→村松よりバルトの方がはるかに上。つまり、村松はバ
ルトに対して下からの目線だ。村松は猪木のストロングスタイルも本質ではバルトのいう「プロレス」
と変わらないことにうすうす気がついていたと思う。うすうす知っている人の言葉はこわばりやすい。
後で気がついた可能性もあるが。
● バルトというと、どうしても身構えてしまう。→ただの面白いオッサンと考えたらどうか。→バル
トは学位を取得しているが、論理、論文を弄んでいたのではないか。学問をパロディにした。68 年 5
月革命に向けての心意気だった。
→日本ではフランス現代思想を難解なものにして 80 年代に流行した。
その文脈では、バルトはプロレス好きと断定することが回避されていた。→バルトがプロレスのような
下賤なものを単純に好きと言っているはずがないという思い込みがあった。→篠沢秀雄にもそれを感じ
る。→小難しい見せかけに日本の社会学や哲学はごまかされていたと思う。→バルトが今日本にいたと
したらDDTを愛好しているかもしれない。→ストロングスタイルをバルトはどう評価したのか。→「ニ
セのプロレス」だ。→60 年代の馬場のプロレスさえスポーツライクに見えてしまっていたというのが肝
だ。また、日本に 3 か月滞在しながら、
『記号の国』で日本のプロレスに触れていないのは金曜 8 時あ
たり歌舞伎町で忙しかったからではないか。→あえて言えば、バルトの好きなプロレスは 68 年からテ
レビ放映された初期の国際プロレスに近かったと言える。フランスのレスラーが来日したし、エリゼ・
モンマルトルでの過剰にフェアな試合はビル・ロビンソンを想起させる。
● バルトが「ニセのプロレス」と言うとき、ナショナリズムの気配はあるのか。→それは感じない。
アメリカのプロレスは道徳劇とは書いてはいるが。
●かつて現代風俗研究会総会で「レッスルする世界」と「プロレスする世界」という二つの翻訳をめぐ
って激論がかわされたことがある。
● キャッチとプロレス、バルトを日本がどう受けとめたのかを考察することで立派に一冊の本になる。
● フランス人は「プロレスする世界」をどう読んだのか。→フランスのファンと日本の大衆との質的
違いはあるのか。→国プロの観客とダブる。リングサイドで熱心なファンがレフェリーに反則を指摘し
ている光景が目に浮かぶ。
● エリゼ・モンマルトルは劇場だからラシーヌ、モリエールの譬えを持ち出すのはわかりやすい。
● 現在フォーマルな場所で男が半ズボンでウロウロすることは少ない。アンシャンレジーム期には貴
族が半ズボンだった。パリ 5 月革命はネクタイをしたかしこまった文化はダサイという表明だった。フ
ランス人がかしこまっているのをインチキとした。バルトはサン・クラヴァット(ネクタイなし)の扇
動者だった。しかし、日本の出版人は理解できなかった。
●「ドロップキック」は国語辞典では長い間ラグビー用語としてのみ載っていた。プロレス用語として
の意味が掲載されたのはようやく『日本国語辞典』第二版においてである。
【国際プロレス、フランスのプロレス】
●当時の国プロに愛を感じた聴衆は何人いたか。→国プロは鶴見五郎を通じてDDTにつながっている。
→日プロに飽きていたころに国プロに飛びついた部分があった。アマレスの八田一郎が関係していたし、
ヨーロッパ路線は新鮮だった。→IWAはパリが本部だった。ウルトラマンの科学特捜隊の本部もパリ
で、カッコいい感じがした。→「仮面ライダー2」でショッカーがゲル・ショッカーになったときも本
部はヨーロッパだった。→ゲル・ショッカーは南米です。→海外からネタを持ってくるだけでカネにな
っていた時代だ。→「日英」や「日欧」の響きが新鮮だった。→グレート草津は英国の3つのタイトル
を奪取した。→デスマッチ路線以降はドロドロしていった。女子プロも参戦した。
● 後楽園ホールでの国プロは観客も入っておらず、試合は盛り上がることなく淡々と進んでいた。試
合前にスーツケースを持って会場に入っていくワイルド・アンガスを目撃したが、
「今から仕事をし
ます」という感じで、盛り下がるような光景だった。
● 岡山で見た国プロはリングが低かったように思う。
● プロレス雑誌に、1969 年IWEタッグチームのブルーノ・アーリントン、イアン・キャンベルには
パリの「地下プロレス」の凄味があると書いてあった。→「地下プロレス」は梶原一騎の発明では
ないか。→イアン・キャンベルだけでエッセーを書いたことがある。
「日曜の昼間のイアン・キャン
ベル」というテーマだったが、
「地下プロレス」とはほど遠いぬるいイメージのレスラーだった。
● フランスのプロレスはエンタメ色が強い。イギリスは格闘技チック。マイティ井上はフランスで水
上試合もやったという。
● フランスのプロレスはコント文化の延長ではないか。→国プロに来日したカシモド、ティト・コパ
などにはその気配がある。
● エドワード・カーペンティアはフランス人ギミックだ。
● かつてフランス式キック、サバトが紹介されたことがあった。→実戦的ではなかった。→見栄えで
ローリング・ソバットに適わなかった。
● 今でもフランスではプロレスをやっているのか。→フランスでプロレスといえばWWEのこと。
「マ
マはレスリング・クィーン」という映画に描かれていた。エリゼ・モンマルトルも今ではロック・
コンサートの会場になっている。→エリゼ・モンマルトルではマイク・アピールはなかったのか。
バルトはマイクで観客を惹きつけたレスラーをどう評価しただろうか。
【パフォーマンスの諸相】
●棚橋のエアギターを楽しみにしている人は観客の 3 割くらいだろう。棚橋がメインでなおかつ勝ち試
合のときしかやらないので、地方ではめったに見られない。今のファンは 2002 年に棚橋が別れ話のも
つれから女性に刺されたことは知らない。→前田日明は棚橋のことを「あの刺された奴か」と言ってい
る。→エアギターとダスティ・ローデスの尻振りダンスとどちらが不快か?→ローデスのは毎試合出る
ので比較できない。→リック・フレアーの歩き方、中邑真輔のイヤァオ!!は好きだ。スペクタクルに
おける芸に好き嫌いは付き物だ。→しらじらしいパフォーマンスは嫌われるだろう。マードックがカー
フ・ブランディングを狙うときの藤波がマードックを探す動きは絶品だった。→藤波のたたずまいの巧
みさがあの場面を支えている。瞬間芸といっていい。→一生懸命マードックを探すところがいい。→そ
の点、天山のカーフ・ブランディングは最悪だ。→藤波はロメロ・スペシャルをかけられたときの手の
差し出し方もうまい。→ライガーは藤波みたいにロメロの受け方がうまい人がいないので助け舟を出し
ている。ライガー自体はうまい人ではない。
● ヨーロッパではアマチュア・プロレス・レベルの人がアメリカナイズされている。→ヨーロッパで
は単純に見世物だ。ギミックが多い。80 年代にはレスリングの技術を見せる試合ではなくなっている。
マイク・アピールに関しては、ラッシャー木村が元祖か。→アメリカでは 80 年代初めに試合の前に必
ず煽りが入る。90 年代には映像が発展し、数秒遅れのディレイ放送が可能となった。→アメリカでは興
行とテレビマッチが分化していた。後者は宣伝だった。それをWWFが融合した。→木村がマイクで馬
場への愛を告白したのは珍しいのではないか。→アメリカでは 70 年代後半~80 年代にレスラーが「し
ゃべる」ことが始まった。→プロ野球の「お立ち台インタビュー」はいつからか。→長嶋引退以降かな。
→力道山時代はどうか。→マイクでアピールするという発想がそもそもなかった。→馬場時代でもハン
ディカメラが発達しておらず、パフォーマンスを見せるにしてもスタジオに来てもらわなければダメだ
った。→「底抜け脱線ゲーム」や「11PM」などマイク代わりのプロモーション番組があった。→外道
のギャラはオカダのマネージャーとしてが 1.5、試合が 1、裏方が 7.5 といったところか。オカダに臨機
応変にしゃべる能力が不足していたので付加価値をつけるために外道がサポート役となった。新日本は
3 年後に上場する予定だ。そのためには非ファンを惹きつける必要がある。昭和ファンは効率が悪すぎ
る。深く考えたり、本を読む人は必要ない。非ファン獲得のためには伸びしろのあるオカダに期待する
しかない。→だから、知的評価と現実のプロレスは両立する。
【その他】
● 豊登は人気がなかった。試合が単調だった。力比べが見せ場だった。
● 坂口のジャンピング・ニーパットは鶴田に比べてヘタで当たり所が一定せず評判が悪かったが、ヘ
タさゆえに逆に真実味があった。
● ヤス・フジがこんなにも強かったのか。→アメリカ人は、甲子園でゴメスが 4 番を打っていること
に違和感を持っている。
● ジェリー・ローラーのフィストドロップがフィニッシュホールドであることに違和感を持ったこと
がある。
● ショルダースルーを受けられないレスラーがいる。嘆かわしい。