2014年 ファンの精神史 - 社団法人・現代風俗研究会

第48回プロレス文化研究会
2014年6月28日(土)ほんやら洞
2014年 ファンの精神史
25 年目の対談 「熱狂から遠く離れて」
井上章一、岡村正史
※90 年の『別冊宝島 120 プロレスに捧げるバラード』対談のキーワード
「市民社会のネガティブな必需品」「フェイク」「ジャズ・セッション」「八百長さえ意味をもたない世界」「レスラーは技で会
話できる人種」「猪木だけがアドリブを許される座長芝居(藤山寛美)」「前田日明は横山やすし」「人間劇のクライマック
ス」「UWFの方がトレンディー」「芸術的発見としてのラリアート」「サブミッションの普遍的価値」「肉体のぶつかり合い」
「「真剣勝負」以外の売りはあるか」「男女分離文化の中の女子プロレス」「芸術点の導入」
<最初の出会いで、猪木・ホーガン戦の裏読み>
岡村(以下、O) 今回の案内文に井上さんは「プロレスをまったく見なくなった」と書きましたが、井上さんから訂正があ
りますので、まずはそこから行きましょう。
井上(以下、I) 全然見ないわけではない、ということです。最近よく見ているのがWWEです。試合のアスリート的なと
ころは大したことがないと思うけど、演出面が実によくできています。最近もっとも切ない思いをしたのが、新潟に旅
行したときのことです。1 日を市内観光に当てたのですが、全体に寂れている街の中で、にぎやかな音が聞こえてい
る方に行ってみると町おこしプロレスをやっていて、大谷晋二郎がメインを張っている姿に切なさを感じました。
O 90 年の対談はたしか大阪のホテルでやって、司会は今をときめく映画評論家の町山智浩さんでしたね。当時はバ
ブルの頃で、宝島社はプロレスで行ける、素人もどんどん使えということで、120 号の『プロレスに捧げるバラード』な
ど一連のプロレスものが出版された。つまり、状況そのものがバブリーでした。エスエル出版なども便乗していました。
当時だから実現した対談でした。現在では考えられない。プロレス状況でいうと、 88 年に「ワールドプロレスリング」
が地上波ゴールデンタイムからはずれ、新日本はライブ中心に移行せざるをえなくなった。そして、第二次UWF(以
下、Uと略す)が若者を中心にある種の社会現象を起こしていた。Uの分裂はまだ顕在化していなかった。そういう中
での対談だったと思います。上記のキーワードにあるように、対談は八百長論に始まり、レスラー論(アントニオ猪木、
前田)、Uをめぐる評価、人間劇としてのプロレス、技の考察、女子プロ論と多岐に渡ったわけです。
I 岡村さんと初めて会ったのは対談より数年前、二人とも 30 代だったと思います。衝撃を受けたのは、83 年の猪木対
ハルク・ホーガン戦の読み解きに関してでした。岡村さんは予想に反して猪木が負けたのは、猪木が巨額の債務を
抱え、リングの周辺には債権者がひしめき、そこから逃れるために猪木はストーリーを変更して、KO負けしてそのま
ま入院する道を選んだと私に解説してくれました。そのうがった見方に感動を覚えたのです。と同時に、この人は何
が面白くてプロレスを見ているのか疑問に思いました。しばしば熱くプロレスを語る岡村さんがかかえている冷やや
かな部分ですが、御本人の中ではどうなっているのですか。
O 冷静と情熱の間に、という小説がありましたが、クールな部分とホットな部分が矛盾しながらも同居しているとしか言
いようがありませんね。実は数週間前に私の属するジャズバンドのリーダーに猪木・ホーガン戦の薀蓄を傾けたとこ
ろ「夢がない話」と言われてしまったんです。
I そんな岡村さんが猪木・藤波辰巳(現爾)戦(1985・9・19)での上田馬之助登場には感激しておられましたよね。
O ヒールの上田がベビーの猪木、藤波に握手を求めたシーンですよね。ドラマツルギーとして素晴らしかったからで
すね。プロレスはスポーツの体裁をとったドラマとして見ています。中学 2 年あたりから熱心に見始めて、高校生くら
いで現在のような見方を確立していたと思います。
<プロレスが育んだ政局観>
I 岡村さんはよく私にリアル系が好みならなぜUや総合格闘技よりボクシングを見ないのだと言いますね。同じような
言い方になりますが、ドラマがお好きなら、プロレスより演劇や映画をごらんになればと思うのですが。
O スポーツと映画・演劇・ドラマの二者択一を迫られたら、後者を選ぶでしょうね。プロ野球は長嶋茂雄引退とともにほ
とんど見なくなりましたね。唯一ワールドカップ(サッカー)は好きですが。
I 映画・演劇批評家の席は埋まっているので、プロレス・コメンテーターに方向転換したということでしょうか。
O 高校のときは新聞部で、映画・演劇評を書いていましたね。その一方で同人誌を作り、そこで初めて書いたのがキッ
クボクシング評論でした。ボクサーの西城正三がキックに転向して藤原敏男と試合をしたときに後楽園ホールが暴動
に近い状態になった。そのことを評論しました。
I 集団的自衛権の問題で、自民党から提示された案を公明党が党に持ち帰って検討すると答える。すでに落としどころ
は決っているのにそう回答するのは支持者に向けたポーズである。自分たちも歯止めをかけるために、がんばった
んだと格好をつけるためにね。プロレスを見ることがそういう感受性を育ってくれました。
O 政治も好きですよ。表面では判断できっこない世界ですよね。
I 国会そのものがプロレスだと気付いたのは、明らかに後から芽生えた感受性です。中学時代の私は非武装中立論や
憲法 9 条にときめく少年でしたが、岡村さんにそういう純なところはなかったんやろうね。。
O なかったですね。護憲論にはどこかダサいという感覚があった。ただし、単純な改憲論者でもないんですが。
I 野党は抵抗の仕方次第で国会後に自民党がひらいてくれる接待の場所が変ってくる。銀座なのか、赤坂なのか。大
人になってからは、そう見ていましたが、しかし、若いころはピュアでそんな見方はしていなかった。
O 政治そのものが裏のあるものでしょ。高校のときに紛争がありまして、教師集団は明らかに分裂していた。あるとき
物理の教師に新聞部のわれわれが呼ばれたことがあった。組合の運動家だった彼は、生徒であるわれわれに学校
の状況を教えてくれと頼んできたんですよ。教師間にコミュニケーションの断絶があることを身をもって知りました。皮
肉なことに、そんな私が高校教師という職業を選んだ。今年の 2 月に吉本のイベント「し曰く」に出演しました。三人教
師が出たのですが、他の二人はいわゆる熱血教師タイプ。私だけが違っていて、イベント的にはいいアクセントにな
っていたと思います。
<八百長か、フェイクか>
I 教師になったモチベーションは何だったんですか。
..
..
O いわゆるデモシカ教師ですよ。大学は文学部で、教師でも、教師しかなるものがなかった。マスコミも受験したがう
まく行かず、他に選択の余地は乏しかった。
I 熱血教師に対して、「お前らもしょせんデモシカやろ」という思いはない?
O それはないけど、100%教師になりきれない自分がつねにいましたね。それもプロレスの見方につながるのかもしれ
ませんね。井上さんは、世間は八百長に満ちている。プロレスの八百長など大したことはない、と展開しますよね。そ
の思いは今も変わりがないんですか。
I 岡村さんは私以上にプロレスの裏をえぐっているのに、八百長という言葉を使おうとしない。理論的にことをつきつめ
れば、プロレスでやっていることは八百長じゃないと、わかる。でも、その理屈は、世間では通用しない。教育に情熱
を持てなかった人が八百長という言葉を使わないという点に関してはなぜそんなに情熱を持てるのか。
O 八百長はプロレスに関する差別用語になっているからですよ。テレビでプロレスを取り上げたときにコメンテーター
が「八百長」とい言えるのか。昔とは状況が変っている面はある。石原慎太郎は77年の「格闘技の祭典」のパンフレッ
トに「私はフェイクが嫌いだ」と書いた。会場には猪木、坂口征二も来場していた。石原は自分が推すキックはリアル
だが、他のキック、およびプロレスはフェイクと言ってるんですよ。その石原が今や「次世代の党」で猪木とともにダー
をやっている。
I フェイクが嫌いというフェイクは、クレタ人はうそつきだとクレタ人がいう自己矛盾といっしょではないの。フェイクだっ
たらいいいの。
O フェイクなら抵抗が少ないですね。ジャズ用語でもあるし。
I 八百長といっしょでしょ。
O いや、八百長はフィクスト・マッチですよ。 かつてはプロレスにまだリアリティーがあったけど、25 年間でエンタテイ
ンメントであることが浸透した。今や八百長はかつてほど問題になっていないと思うんですよ。
I ミスター高橋の本が出た後に、会場で鈴木みのるを必死で応援しているファンを見たとき、自分はもう、あの純粋さを
もっていない、私の魂は薄汚れているんだと思ったことがあります。でも、あなたはそういうファンをアホやろと思うんや
ろ。
O 思わないけど、上から目線で見ていることは否定できないかな。
I 僕は下からやな。その人は少年の純情を保ったはると。
O ハッスルを見たときに、真剣に怒っている青年を目撃したことがあって、困った人やなと思ったことはあります。
<フェイクの中のリアル>
I 川田利明がインリン様をフォールしたときに、インリンの投げたムチがロープに引っかかり、インリンの身体の一部と
見なされてブレイクが認められたことがあった。あれは感動したな。
O どうも感動しているところがちがうような気がします。フェイクだらけの世界の中のリアル、そういうところに弱いです
ね。ケンドー・コバヤシあたりが煽って越中詩郎のプチブームが起こったことがあった。越中は後楽園ホールで永田
裕志の王座に挑戦するところまで行ったけど、場内の大越中コールに越中が感涙にむせぶところではジンと来まし
た。
I 新潟で大谷が必死に戦っているのを目にして、これ以上見てはいけないという思いに駆られました。
O 空席の目立つ大阪でミル・マスカラスをおっさん三人で見たとき、会場の若者はマスカラスに興味がないという雰囲
気の中で、いつの間にか三人だけ必死で応援していたなあ。
I おじいさんにそそられるの?じゃあ、ジャイアント馬場はどうなの。
O 馬場に感動したことはありません。
I 馬場の十六文キックは無理してやっているという説とわざと足があがらないふりをしている説がありましたね。つまり、
ふだん動けない様子を見せておけば、たまに動くとすごいインパクトを与えることができるという計算やね。
O 馬場には心が動かないんですよ。日本プロレスから追放された猪木は新日本プロレスを起こしたものの、貧弱な外
国人ルートしかなく、おまけにノーテレビだった。NWAにも加盟できない。猪木はシリーズ運営上無名レスラーに敗
れることもあった。一方、猪木に遅れて全日本プロレスを立ち上げた馬場はNWAへの加盟を果たし、最初からテレ
ビがつき、どんどん大物外国人が来日。日本プロレス時代には決着のつかなかった大物にどんどん勝利していった。
馬場と比べて猪木の新日本はないないづくしで苦肉の策の連続だった。だから、国際プロレスからストロング小林を
引き抜いて数十年ぶりに日本人対決が実現したときにはよくぞここまで辿り着いたと泣きましたね(74 年)。
I 小林に同情しての涙ではなかったんやな。ラッシャー木村についてはどうでしたか。
O 木村を初めて見たのは 68 年のビル・ロビンソン戦。ラッシャーではなく、木村政雄という本名でした。当時まだ中学
生でそれほど知識がなかったので、木村政彦がまだやっているのかと思い違いをしました。そのせいか、木村には最
初から哀愁というかペーソスを感じていましたね。
<興行主としての視線>
O 新日本に話を戻すと、非情なマッチメイクも魅力でした。究極は、猪木対木村、アニマル浜口、寺西勇の「国際プロレ
ス差別マッチ」です。また、後楽園ホールのミニ連戦でパイオニア戦士しか売り物がなかったことがあって、開幕戦の
メインは長州力、佐々木健介対剛竜馬、高杉正彦。最後は佐々木が剛の首固めか何かで敗れるんだけど、高杉が
ぼこぼこに痛めつけられる。まるで剛に負ける佐々木のうっぷん晴らしのような試合だった。そして、翌日佐々木は
ダメージ色濃い高杉にシングルで圧勝する。この感じって新日本にしかないんですよ。
I きちんと負けをこなすジョバーと不平不満を隠そうとせずに負ける選手。どちらに共感するんですか。
O ジョバーかな。でも、新日本にはハードボイルドの魅力がありますね。
I ブラック企業が好きなんですか。
0 興行に徹しているということでしょうね。
I 岡村さんは評価の眼差しが興行主のそれになっていますよね。それはどこから来ているんですか。
O 高校のときに教師の世界の裏を見た話はしましたよね。実は、新聞に差別記事を掲載したということで糾弾を受け
たこともあるんですよ。高校生が糾弾を受ける、なかなかない体験だと思います。自己批判号も出しましたよ。道場でプ
ロレス興行もやりました。ノートに台本を書いてね。技を出す順番まで書いて演じましたね。自己表現欲は昔からありま
す。
<屈折したリスペクト>
O 技でいうと、高田延彦はロメロスペシャルがもっとも恥ずかしい技とどこかで言いましたね。バラエティー番組で、ロ
メロスペシャルが何も知らされていない人にかかるのかという実験をやっていました。獣神サンダーライガーがお笑
いの三人相手に突然ロメロスペシャルをかけるんです。二人目はいったん失敗します。足のフックがはずれたんで
す。けど、直後に成功。もっとも、フックが外れたときは相手がくつをはいていなくて、成功したときはくつをはいてい
る。それを編集でつなげて放送していましたがね。90年はUがトレンディーでプロレスはダサい、と。そんな空気の
ときに私はUもプロレスと発言したわけです。
I 岡村さんは、よく言っておられましたね。「どうせUもプロレスだ」、と。その「どうせ・・・」というひびきですが、プロレス
を愛する人の発言には聞こえへんかった。ヒクソン・グレイシーが高田対スーパー・ベイダーを観戦したときに「エン
タテインメントだね」と感想を漏らしたのを聞いて、なるほどなと思いました。ヒクソン対高田の第一戦で高田が負けた
ときに、岡村さんはどうせ行って来い、つまり次は高田が勝つと断言したけど、実際はガチンコで高田は負けてしまっ
た。世の中に誠実なものがあると思いませんでしたか。
O 誠実というよりも、何の芸もない、身も蓋もない世界だな、と。総合格闘技は美しくないですよ。これに対して、プロレ
スはソフィスティケートされた世界だと思っています。プロ文研の初期に、ある国立大学の大学院生から「あなたには
格闘家に対するリスペクトが感じられない」と面罵されたことがあります。
I レスラーに対するリスペクトも感じないけど。
O ありますよ。ただし、屈折したリスペクトですが。
I 世間ではリスペクトとは言わないよ。
O 猪木には一応ありますよ。北朝鮮に何十回と行っているという事実は重い。世間でも猪木にカリスマ性は感じている
部分はあると思います。
I 北朝鮮によほど利権があるんやろうな。
O おそらくそうでしょう。愚行と言ってもいいかもしれない。でも、湾岸戦争の前にもイラクに何回も足を運び、人質解放
につなげた。
I こういうときはロマンチックに語るんやなあ。
O リング上の人間ドラマに通じるところがある。
I 掃き溜めで鶴に会うのが嬉しいんやろうな。あの嘘でかためられた世界にも、ダイヤはあったという話ですね。ところ
で、「消費税に延髄斬り」はどうでしたか。
O 結局賛成か反対かよくわからなかったけど、当時は一般ニュースに延髄斬りという言葉が出るのがうれしかったな。
井上さんは朝日放送の「おはようコール」に出演されていますが、プロレスに関したコメントをしたことがありますか。
I 「おはようコール」の元プロデューサーが「ワールドプロレスリング」を担当していたことがあって、ここでは言えないよ
うな裏話はよく聞きましたよ。
<無防備の殴り合い>
O 井上さんは、総合格闘技はプロレスの発展形と捉えたんですか。
I 現代音楽は不協和音の連続に聞こえるかもしれないが、従来のドミソとかレファラを聞き飽きた作曲家がどんどんと
んがった方向へいくんですね。ジョン・コルトレーンの晩年にもそれがいえる。段取りのプロレスに飽きた人が、客が
喜ぶかどうかは別としてサブミッションを発見し、Uへ行ったということではないでしょうか。私は、そういう方向へつき
すすむ人たちに共感する気持ちをもっています。
O 山本小鉄は、前田はブレーンバスターの受けができていないとテレビで指摘していましたね。
I
そういう茶番をマスターしなければいけない世界にうんざりしていたかもしれませんよ。
O 怪我の恐れがあるという指摘でしたけど。ところで、プロレスにはラリアートという芸術的発見もありましたが。
I U的なものに関心を移した後も、スタン・ハンセン対ビッグバン・ベイダーなど肉体のぶつかり合いはすごいと思いま
す。
O 中邑真輔のボマイエの盛り上げ方はラリアートの作り方に似ています。最初は反応が薄かったのが、繰り返すこと
によってだんだん盛り上がっていった。おまけに、オーバーアクションが付加されていった。
I プロ野球でも、大魔神佐々木主浩のフォークボールはやるぞというポーズを見せつけてから投げていました。
O 技の予告効果ですね。ハンセンのラリアートは猪木を除く坂口以下の選手が数分で沈んでいく蓄積によって凄い技
になっていきました。
I 総合格闘技は防衛に力点を置いています。そこが面白くなくなる要素ですよね。プロレスは無防備状態で成り立って
いる。ハンセンとベイダーの無防備の殴り合いに感動はあった。でも、通の人が邪道のウォーキングを面白いという
のはよくわからない。
O 今、新日本では石井智宏がいちばん受けている。これも無防備の殴り合いの面白さやね。
<テレビの作りはプロレスに学んでいる>
I テレビの作りはプロレスに通じるものがありますね。バラエティーの罰ゲームで熱湯CMというのがあった。視聴者
はあまりに残酷だと抗議する。でも、あれはほんとうに熱湯なのか。80年代の「ワールドプロレスリング」のカメラワ
ークはテレビに応用されたんじゃないかな。トップロープにゆっくり登るシーンはカットするとかね。フェイク・・・ですが、
それが見透かされそうな絵は、瞬時に画面からはずすわけです。
O テレビ朝日はバラエティーに「ワールドプロレスリング」経験者が相当入ってますね。ロンドンブーツの番組で、有吉
弘行と青木さやかが和解するというのがあったけど、居酒屋では和解できず、スタジオで和解となって、青木が入場
してくる。長州力のテーマ曲をバックに、青木がきつい表情で肩を怒らせて入ってくるんだもの。
I 料理のコメントもそうですよ。たとえまずくとも、もっともらしいことを言うというお約束。
O テレビこそウソに満ちていますね。コメンテーターの選択で番組のカラーが決っている。「サンデーモーニング」は人
気があるけど、日曜の朝は、視聴者は穏健リベラルなんですか。それが午後になると「そこまで言って委員会」で下
品になる。両番組のコメンテーターをそっくり入れ替えたら、はたして番組として成立するのか。「朝まで生テレビ」の
ような左右激突型番組ってあまりないですね。新聞は、最近朝日・毎日と讀賣・産経ではまったく別のことを書いてい
ます。これも一種の八百長と言えませんか。つまり、世論誘導というか、自分にとって有利な結果を導くための世論調
査をやったりとかね。
I それを八百長というんですか。あんな厳密な八百長の定義をしていた人が。せいぜい偏りがある、くらいでいいんじ
ゃないか。あれを八百長だというのなら、プロレスも八百長でいいじゃないですか。
O ただケーフェイの部分が明るみに出るとプロレスは成立しなくなる。この場にレスラーが一人でもいたら、この話は
できるのだろうか。
<WWE的アメリカ合衆国>
O 女子プロはどうでしょうか。
I ブル中野に感動した。猪木を越えた一瞬があった。
O 新日本のファンには女子を差別している人がいます。
I アニメやゲームの世界では、美少女が荒くれ男をやっつけるという光景がよくある。だが、実写ではできないね。ジョ
アニー・ローラー(チャイナ)対蝶野正洋はショボかった。
O ローラーが来たとき、全日本の会場で「新日本も終わりやな」という声を聞いたことがあります。
I ローラーがナイトガウンを着てワインを飲んでいるところにテレ朝のアナウンサーが来て「美しい」を連発する小芝居
にはシラケました。どこが「美しい」んや。なんや、あのしらじらしい茶番は・・・。
O 「美しい」という設定があるんでしょうね。でも、最後はアナウンサーが股間を殴られて悶絶するというオチね。
I 二次元ではOKだが、リアルはダメ。ステファニー・マクマホンはまだましか。
O 力道山の判断がまだわれわれを拘束している。男・女・小人を分離したというね。
I WWEでは、ロシア人レスラー、ルセフと女子マネが登場し、アメリカはやがてロシアの軍門に降るとロシア国旗、ウ
ラジーミル・プーチンの写真まで駆使してデモンストレーションする。ワイアットファミリーはゴスペルめいた歌を歌う
が明らかに宗教をコケにしている。
O WWEはコメディーですね。
I あれが笑い話になるアメリカはすごいな。95年にイギリスで「ミスター・ビーン」の番組を見ました。エリザベス女王の
肖像画が電動のこぎりで首から切り落とされるシーンがあって、そこに笑いがかぶさっていた。「マペットショー」でも、
ロイヤルファミリーが登場して、チャールズ皇太子の浮気がテーマになっていた。
O われわれをしばっているものは何かということですね。プロレスなら何でもできそうなのにやってないことだらけで
す。棚橋弘至が女性に刺された事件を裕二郎がマイクパフォーマンスでネタにしたことがあったけど、すぐに自粛と
なってしまった。その点、インディー系は規制がゆるいと思うけど。
I センカク仮面とかキム・ドクト(独島)とかは出ないのかな。
O オーストラリアでもアボリジニはネタにできないそうですよ。WWEに規制はないのかな。
I 唯一みちのくで愚乱浪花が関西人のヒールをやっていましたね。
O 関西人だからOKなんでしょう。
I WWEのロシア人女子マネージャーは絵に書いたようなブロンドで超ミニ。おっさんの心をつかんだ。
O インテリ層を掴んだのかな。
I あそこまでやってもいいんだというのをかみしめさせられましたね。考えてみると、アメリカは全米で反戦運動が高ま
る中で湾岸戦争、イラク戦争へ派兵したんですよ。お国振りがちがう。WWEが日本と違うことに通じる。
O 今の新日本は90年代の半分くらいまで盛り返している。猪木の呪縛から解放されたことが大きい。マット界は一強
多弱状態だ。日本ではWWEも一野党という感じ。ファンの意識改革が必要かもしれませんね。
I 日本にはなじまない要素がある。ハッスルはこけた。
O ヘタな模倣ではダメということですね。
フリーディスカッション
【レフェリー論】
● かつて京大で井上さんがレフェリーをして、内藤湖南をベビーに、東大の白鳥庫吉をヒールにして東洋史を解説し
ていたのが印象に残っている。→内藤湖南や宮崎市定など京大の東洋史学はヴィンテージワインであることをプ
ロレス的に解説した。
● ブラッシーと東郷による老人ショック死事件の一因は沖識名のアンフェアなレフェリングが怒りを招いた部分があっ
たと思うが。→死因は特定できない。日本テレビがこの出来事を利用した一面もある。プロレスは高齢者を殺すくら
い凄いんだ、と。今のコンプライアンスではできない。→一般紙でも報道されたが、プロレスサイドが大袈裟にしよ
うとした面はある。→四条大宮ゴールドで外国のポルノを見ていた高校生が心肺停止になったことがあった。→レ
フェリーは第三のレスラーだ。ジョー樋口のカウントの遅さは生理的に受け付けなかった。馬場の動きに合わせて
のスピードだったと思うが。→メキシコではおひねりが飛んでくるとレフェリーも含めて山分けしている。→海野レフ
ェリーと飲む機会があったが、徹頭徹尾ケーフェイは守られる。すれっからしも突っ込まない。そして、文系の集ま
りなのにピッチャーごとビールを飲んだりと体育会系になっていた。すれっからしに囲まれながらケーフェイを守り、
「プロレスを馬鹿にしている者がいれば潰しますよ」と語る姿はカッコよかった。
【馬場 vs 猪木】
● 猪木はかつて馬場を批判し、その猪木はUWFに批判された。しかし、猪木はちゃっかり総合格闘技のプロデュー
サー的存在に収まる要領のよさを発揮した。馬場は全日本プロレスで日本プロレス時代の財産を食いつぶした。
→馬場と猪木の対立は人柄の対立なのか。日本テレビとテレビ朝日の対立の反映ではなかったのか。
【マニア vs ファン】
● 新日本の元会長、木谷高明氏は「マニアがジャンルをダメにする」と発言した。プロ文研は隔離病棟だ。現実に会場
に来ている新しいファンをどう考えるのか。→新しいファンは屈託がない。楽しくて仕方がないんだろうな、とうらや
ましい。→学会が学問をダメにする。→新しいファンの一部はやがてマニア化する。石井智宏はマニアも新しいフ
ァンも楽しませている。→屈託のないファンの中にすれっからしがいて、心を洗われるような心境になるのか。→
モードチェンジしている。たとえば、レスラーの雄叫びにはコールアンドレスポンスというコンサート的楽しみがある。
→ 新しいファンは素直に楽しんでいる反面、東京都議会をプロレスとして楽しむセンスはないだろう。
【昭和 vs 平成】
● 馬場や猪木はプロレスに興味はなかった。レスラーになるしかなかった。いわば、職業選択の自由がなかった。で
も、今はマニアがプロレスラーになっている。職業選択がある中であえてプロレスラーを選んでいる。スーパーヒ
ーローに憧れ、実際になった少年を描いた映画「キック・アス」があったが、キック・アスのような喜びを求めてレス
ラーになった新しい世代が出現してきている。→「マニアがジャンルをダメにする」というのが正しいとすると、マニ
アがレスラーになっている現実をどう考えるか。→お笑い界も同様。若い芸人にはアンチャンとしての良さはあると
思う。→昭和のレスラーは異界の人という感じだったが、平成のレスラーは一般人の延長のように見える。→平成
のレスラーがツイッターですぐに何でもつぶやくのも困ったものではあるが。→佐々木健介、北斗晃夫妻はプロレ
スのイメージをフリークショーからバラエティーで受け容れられるものに変えたかもしれない。→かつて学校の教
師はオチョケの生徒に「吉本に行け」と言った。それは芸能が被差別的存在で、芸能人は河原乞食というイメージ
があった時代のこと。今や芸能人のまがまがしさよりも魅力に目が移ったということか。→あるテレビ番組でのこと。
武藤の娘が知り合いに「プロレスは頭の悪い人がやっているんでしょ」と言われた。それを聞いた武藤は娘に返す
言葉がなかった。この話を聞いた吉本新喜劇の小薮は「プロレスは人びとに夢を与えている素晴らしい仕事じゃな
いですか。頭のいい人だって不正を行っている。」と述べたところ、スタジオは大きい拍手に包まれた。→頭が悪い
人がやっているというのは認めたということか。蝶野であれば、違った反応だったかもしれない。→インディ系の場
合は食えないので、レスラーはバイトしながらリングに上がっている。ファンとは共犯関係にある。男色ディーノの
リップロックという技はキッスに力があるというファンタジーをファンが支えることで成立している。→お金のためで
はなく、人前で芸を見せて客から拍手をもらう喜びはたしかにある。→レスナーやゴールドバーグはプロレスが好
きではないのに成功した。レスナーは実際に目撃したがレスラー仲間からは浮いていた。そして、完全なブレイク
もしない。これに対し、カート・アングルは輝かしいキャリアからレスラーになり、プロレスをほんとうに好きになった
選手だ。日本では、猪木、坂口、馬場、鶴田、長州、武藤はプロレスが心から好きなわけではない。天龍はプロレス
が嫌いだったが好きになったケースだろう。→プロレス愛とファンの熱気は比例しないということか。→むしろ、愛し
ていないほうが成功している。
【WWE論】
● WWEの政治ギミックは場内全体をその方向に向ける、いわば煽り方のスケールが大きい。→ナチスの残党ギミッ
クは信憑性が乏しかったのではないか。→フリッツ・フォン・エリックのようにユダヤ系がナチスの残党を演じる自
虐センスに注目すべきだろう。→WWEは東海岸や西海岸にマニア層はいるものの原則ブルーワーカーの娯楽だ。
マニアはネットで詳しい情報を仕入れてビンス・マクマホンが描いたストーリーラインとはちがうストーリーを描いた
りしている。猪木だったら急遽ストーリーを変えるだろうが、ビンスはそれをしない。アメリカは野球でもフットボー
ルでも座席によってファンが分かれている。高い席ではいい服を着て、歯の矯正を行った人がいるが、安い席には
太った人が多く、歯並びも悪い。WWEのビッグマッチには、ブルーカラーがお金を貯めてやって来る。→メキシコ
のルチャリブレは吉本新喜劇を見るようなセンス。深読みしようがない。
【不倫 vs 社会奉仕】
● タイチは不倫問題で出場停止となった。LINEでの風俗譲とのやり取りが問題視された。86 年に猪木の不倫が問題
となったときは、猪木が坂口のアトミックドロップでトップロープに股間を打ち付けられて悶絶してリング負けすると
いうのが「みそぎ」だった。現在はタイチがスキャンダルで出場停止に追い込まれてしまうコンプライアンスがある。
→最初はなあなあで済ませる予定だったが、「何とかしろ」という木谷氏のひとことで決った。ネットではいろんなレ
スラーの悪事がバレている。分かれた女が告発するかどうかで決る話だ。二か月出場停止というが、もともとG1
にはエントリーされていないし、減給だって誰も確認しようがない。実質は処分なし、だろう。→あの件があったの
で、タイチはスーパージュニアのベスト4まで行ったのではないか。→なぜこのスキャンダルをプロレスに利用しな
いのか。→女性がそういうタイプの人ではなかった。→タイチはLINEのやり取りで「黙れ、風俗譲」と直言していた。
リング上の人格と一致していてセンスを感じる。彼はリングに上がっていないときの細かい演技が真骨頂だ。→W
WEであれば、リングサイドに風俗譲を並べるかもしれない。→「タイチは帰れ」コールを起す不快感の強さは才能
だろう。→処分が決ったタイチに、棚橋がブログで刺された背中を見せる写真をバックに縦読みすれば「タイチガン
バレ」と読める意味のない言葉を書いた。そのブログを読んで泣いた。妻は理解できなかったようだが。→女でしく
じったけど、立ち直れよというエールに対するシンパシーだ。→まさに、人間劇だ。→田中康夫は長野県知事にな
る前は「ペログリ日記」を連載していたが、知事になるとやめてしまった。社会のコンプライアンスは確実に高まっ
ている。→ブシロードは子供相手の商売をしているというのが大きいのではないか。→WWEはリング内外で不倫
の演出を仕掛ける一方、社会福祉や子供向けのイベントにも力を入れている。マクマホン婦人は上院議員に再立
候補しようとしている動きも関係しているのかもしれないが、軍や社会奉仕、たとえばスペシャルオリンピックスに
巨額のマネーをつぎ込んでいる。→ふだん良識をないがしろにするようなイベントをいっぱいやっている贖罪か。
WWEは世間と激しく戦っているのかもしれない。→一種のノブレス・オブリージュだろう。→税法の違いもあるの
だろう。地球環境を破壊している企業ほど緑化に力を入れているのといっしょか。→新日本にはWWEのような発
想はないのか。→ない。せいぜい地方のプロモーターが体育館を借りるときにチャリティ・イベントと銘打つと会場
費が安くなり、利益が増えるということでやっている程度だ。