第6巻第2号 2006年9月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会

Vol. 6 No.2 ISSN 1346 – 0463
August, 2006
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第6巻・第2号
2006年8月
目
次
第17回研究会特集
ハンセン病対策に医師たちはどう係わったか・・・・・・・・・・・・・・・ 並里まさ子
ハンセン病患者強制隔離と治癒についての情報に関する一考察 -市民・看護関係者として-
清水昭美
「生きていてよかった」浅井あいさんを追悼して・・・・・・・・・・・・・・ 大川 陽一
旧日本軍第731部隊「凍傷実験室」および、凍傷実験について・・・・・・・ 刈田啓史郎
5
12
14
私の覚え書きー第三次中国訪問調査から・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 莇 昭三
紹介:日本侵華戦犯筆供 中央档案館整理 中国档案出版社・・・・・・・・・・ 西山勝夫
17
22
1
十五年戦争と日本の医学医療研究会「戦争と医学」第三次訪中調査団記録・・・・・・・・・ 34
報告・案内
15年戦争と日本の医学医療研究会会務総会(第7回) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
15年戦争と日本の医学医療研究会 (第20回) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50
Contents
How were doctors concerned in the measures to Hansen's disease・・・・・・・・・NAMISATO Masako
1
Discussion concerning quarantine policy for patients with Hansen's disease and information of its therapeutic
potential-From the point of view of a citizen and nurse-・・・・・・・・・・・ SHIMIZU Terumi
5
"It was well to live" as a memorial address for the soul of Miss ASAI Ai・・・・・ Okawa Yoiti
12
・・・・・・・ Karita Keishiro
14
My Memo―from the third China visit investigation・・・・・・・・・・・・・ AZAMI Shozo
17
Introduction: Autograph confessions of Japanese war criminals invading China published by Chinese National
NISHIYAMA Katsuo 20
Report of the 2nd delegate to China from the Research Society for the 15 years War and Japanese Medical Science
and Service ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
Information
Report of the 7th Assembly of the Research Society for the 15 years War and Japanese Medical Science and
Service・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
44
th
The 20 Meeting of the Society・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
50
15年戦争と日本の医学医療研究会
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
ハンセン病対策に
医師たちはどう係わったか
並里まさ子
おうえんポリクリニック
How were doctors concerned in the measures to Hansen's disease
NAMISATO Masako
Auen Polyclininc
歴史に見る疫学
ハンセン病は、古くから地球上に存在したことが
知られている。発祥の地と考えられるインドには、
B.C.6 世紀の文献に、疾患の正確な記載があるとい
う。また B.C.5 世紀にはインドから中国へ伝播し、
続いて朝鮮、日本に伝わったと考えられている。
欧州への伝播はギリシャに始まり、Alexander 大
王の率いる兵士たちが、インド遠征からの凱旋とと
もにハンセン病を持ち帰ったとの見方が強い。その
後は、商人や兵士とともに、徐々に地中海沿岸諸国
に広がったであろう。ローマ時代には、ポンペイか
らの兵士の帰還に伴って、さらに蔓延したと考えら
れる。後の十字軍の遠征(11 世紀)も、欧州での蔓延
に大きく関与したであろう。ヨーロッパ中南部では、
13-14 世紀頃有病率が最高値に達した。鑑別すべき
他疾患もある程度含まれている可能性はあるが、こ
のころ 1000 人あたり 3〜4 人にも達する有病率が推
測されている。
しかしその後、特に英国では急速に減少した。そ
の理由の一つに、飢饉や黒死病の流行、生活水準の
改善、さらに TB の増加も何らかの関与をしたと推
測されている。1470 年 Edward Ⅳ治世の記録では、
既に激減していた。
欧州北部での鎮静はやや遅れたが、18 世紀後半に
は患者数が著明に減少していた。しかしノルウェー
では、その後患者数の著明な変動を経験している。
19 世紀初頭の戦争で国の経済が著しく疲弊した結
果、中世の記録を凌ぐほどの飢饉に陥った。すると
まず西部の海岸沿いで患者数が増え始め、1836 年に
は 659 人、1856 年には 2858 人と、爆発的な増加を
記録した。国全体でみると 1000 人あたり2人の有
病率となる。その後画期的な経済発展とともに患者
数は激減し、1900 年には 577 人、1940 年には 28
人と、著明に減少した。すなわち、約 100 年の間に
急激な増加と減少が見られたことになる。同国の医
師 A.ハンセンによって、らい菌による感染症である
ことが確立されたのは 1873 年で、国の復興が目覚
しい頃であった。
一方太平洋の多くの島々では、旧大陸との交流が
始まるまでこの疾患は無かった。しかし他民族の流
入に伴って、19 世紀以降いくつかの島で爆発的な流
行が起きている。
ハワイでは、1835 年に 1 人の患者が発症した。
1860 年代には患者数が著明に増加し、隔離施設を作
った。1890 年、モロカイ島の隔離施設に収容されて
いた患者数は 1213 人であった。当時ハワイの人口
は約 4 万人で、有病率は人口 1000 人あたり、現地
人では 3.1 人、非現地人では 0.5 と記録されている。
ここでもその後有病率は低下し、1925 年には 500
人と著明に減少した。
ナウル島では、1912 年に 1 人の患者が島に入っ
た。1920 年ごろ急速に患者数が増え、一時は 35%
の島民が罹患した。患者の多くは、菌に対して強い
抵抗力を持つ、類結核型であったという。1927 年か
ら急速に低下し、1952 年には 4%、1980 年には 1%
と な っ た 。 こ れ ら 防 御 免 疫 を 持 た な い Virgin
Population での大流行とその後の自然経過は、らい
菌に対する宿主ヒトの自然免疫の動きを示している。
感染と発症について
一般に感染症は、病原微生物と宿主との相互関係
の中で発症するか否かが決まるが、ハンセン病の疫
学的特長の 1 つは、感染と発症の間に大きな乖離が
あることである。つまりらい菌感染はかなり高頻度
に起きると考えられるが、その中からの発症はごく
一部に限られる。これはらい菌の毒力がきわめて弱
く、菌に対して特異的な病的免疫応答をする(防御
力の無い)個体だけが発症することによる。
病原微生物に対する宿主の防御力には、内的・外
的環境と遺伝的素因の両者が関与する。これらはき
わめて多様で、互いに複雑に関与しあうと考えられ
る。近年ヒトの遺伝子解析から、疾患感受性をコー
ドする遺伝子や、免疫応答遺伝子の役割が研究され
ている。疾患感受性は多因子性の遺伝形質を持ち、
環境要因の影響を強く受けることが知られている。
またハンセン病の有病率は、社会経済状態の悪化
で上昇し、その改善で著しく低下する。栄養状態、
居住空間、識字率などの役割が検討されてきたが、
これら社会経済の状態を示す因子の全体像が、発症
に係わっているものと考えられる。
住所:〒359-0002 埼玉県所沢市中富 1037-1
Address: Auen Polyclinic 1037-1 Nakatomi, Tokorozawa-shi, Saitama, 359-0001 Japan
E-mail: [email protected]
-1-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
潜伏期間については、感染を正確に知る方法がな
いため推測の域を出ないが、他疾患に比べてきわめ
て長期で、数年から 10 数年、場合によってはさら
に長期であろう。また感染後菌は持続的に増殖する
のではなく、免疫力による抑制が失われた場合に増
菌が始まると考えられる。
<菌の特徴と感染源>
らい菌は人類史上最初に発見されたヒトの病原
菌であるが、未だに人工培地での培養が成功してい
ない。現在知られている中では、分裂時間が最も長
い病原菌で、多くの場合病状は極めて緩慢に進行す
る。神経親和性が強く低温を好むのが特徴で、主と
して末梢神経のシュワン細胞と皮膚マクロファ-ジ
内で増殖する。発症後に適切な治療が行われないと、
知覚・運動神経障害による顔面・四肢の変形や、視覚
器等にも障害を来しうる。
長い間未治療の患者が唯一の感染源とされてき
た。しかし流行地では、患者との直接的な接触なし
に多くの患者が発症しており、患者以外の感染源が
推測されていた。近年流行地において、一般住民の
鼻粘膜塗抹材料から遺伝子解析でらい菌を確認し、
環境内らい菌の存在が証明されている。これまでの
知見を総合すると、流行地では、居住環境内にらい
菌が普遍的に存在し、未治療患者を唯一の感染源と
するこれまでの考えは否定される。また近年、らい
菌の遺伝子多型が報告された。今後より厳密な感染
経路の追跡が可能となるであろう。この分野では、
日本人研究者の活躍が著しい。
日本のハンセン病
日本書紀に、ハンセン病を疑う最初の記録が見ら
れ、7 世紀後半には実際に患者がいたと考えられる
が、その頃この疾患は「良くうつる」との記録が見
られる。その後日本にハンセン病が定着すると、ほ
ぼ一定の有病率で経過したものと思われる。しかし
国土が荒廃した戦国時代には患者数が増え、江戸時
代になって比較的安定すると、一定の患者数(1000
人あたりおよそ 0.7 人)で明治時代に移行したと考
えられている。
江戸時代におけるハンセン病患者の在り方は、極
めて多様であった。他のさまざまな障害者と同様に
概ね蔑まれる存在ではあったが、労働能力があれば
労働し、また家族に扶養能力があれば社会の中で終
生生活できた。ある藩では、放浪する患者に「乞食
札」を与え、領地内での物乞いを許した。これらは、
不充分ながらも労働不能者を社会で支える制度であ
ったとも考えられる。医師たちは中国医学とは異な
る独自の考えを持っていたようで、
「血脈(遺伝性か)
のらい」と「血脈以外のらい」があると考え、民間
に伝わる「天刑病」説への反論も意識されていたよ
うである。
明治の初期、後藤昌文親子が東京に起廃病院を設
立し(1875 年)、患者の治療に当たっていた。彼ら
はこの病気の名医とされ、多くの患者が通っていた。
また堺の薬商岡村兵衛は、当時唯一の治療薬であっ
た大風子油の精製に努め、極めて上質のものを提供
- 2-
し、また患者の救護にも当たっていたようである。
明治の開国に伴って西洋文明が流入し、放浪患者
が外国人の目に止まるようになると、外国の宗教家
たちが次々と救済施設を設立した。日本人では、唯
一綱脇龍妙の設立した身延深敬病院が、患者救済に
あたった。
日本政府のハンセン病対策は、1899 年放浪者の救
護施設であった「東京養育院」内に、
「回春病室」を
開設したことに始まる。東京養育院は、本来放浪者
達が外国人の目に触れないようにするための収容所
であったが、ここに赴任した光田健輔氏は、ここに
多くのハンセン病患者が混じっていることに気づい
た。彼は、この疾患の伝染病説が世界で認められて
いたことも意識して、彼らを別棟に収容した。その
後患者の増加とともに、ここだけでは収容できなく
なって、新たな施設が必要と考えた。彼は政財界に
強く働きかけて、有力者達の賛同を得る必要があっ
た。当時光田氏は、本疾患が厳格な隔離を必要とす
るものではなく、ノルウェー方式の緩やかな隔離で
蔓延は防げるとの見方を持っていたようである。し
かし当時の一般社会では、ハンセン病が伝染性疾患
であるとの認識はほとんど無く、また急性伝染病の
ように死亡率の高い疾患でもないことから、政府の
財源を得ることは容易ではなかった。そこで彼は、
「伝染病」であることを前面に出して、一般市民を
恐ろしい病気の感染から守るために、すべての患者
を隔離収容する必要があると訴えた。彼の努力によ
って、1907 年法律第 11 号「癩予防ニ関スル件」が
公布された。これに基づいて、1909 年全国5ヵ所に
療養所が設置された。強制収容措置でありながら、
当時の政府に経済的な余力がなく、放浪患者がかろ
うじて収容できる程度の病床数でしかなかったため
に、この法律は救貧立法の性格が強かった。しかし
その実態は、浮浪患者の厳しい取り締まりと、療養
所とは程遠い極貧状態での共同生活を強いるもので
あった。厳しい警備にもかかわらず脱走者が相次ぎ、
また絶望の底にあった収容者の中では、園内出産も
起きていた。1915 年、東京の全生病院で初めて「断
種」が行われ、その後広く全国の園で採用されるよ
うになった。また 1916 年「懲戒検束規定」を定め、
逃走を厳しく罰する体制を整えた。続いて所内通用
票(園券)を発行し、所持している金銭を園内での
み通用する園券と交換することで、さらに逃亡阻止
を図った。
昭和時代になると、国粋主義の台頭に伴って強制
隔離はさらに過激化した。1929 年愛知県に「無癩県
運動」が始まった。これは地域から患者を一人残ら
ず排除しようとするもので、この運動はその後各地
に広まった。1931 年、「癩予防法」が成立した。こ
れは国策としてハンセン病を駆逐するために、すべ
ての患者を生涯隔離しなければならないとする「絶
対隔離」政策で、世界に類を見ない厳しい患者撲滅
法であった。またこの頃皇室の支援を得て「癩予防
協会」を設立し、国家事業としての強制隔離政策を
確固たるものにした。一般市民に対しては隔離が最
高の対策であること、病者に対しては「病毒の散布
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
を謹んで、療養所に入るべき」であると宣伝した。
癩予防法の設立後、隔離政策は市民の末端レベル
まで浸透して、患者は社会生活ができない状態に追
い込まれていった。また懲戒検束規定の存在にも係
わらず、脱走者が出ること等を理由に、栗生楽泉園
に「特別病室」の名で、別名「重監房」が作られた。
昭和 22 年に破壊されるまで、この中で 22 人の命が
奪われ、そのほとんどが凍死であった。
一方、隔離政策の非論理性を指摘する医師達も
いた。太田正雄は、公的な席で隔離の必要性に疑
問を表明しており(1933 年)、特に小笠原登は、
自らの経験に基づいて反隔離の理論を打ち立て
た。しかし彼の見解は無視され、大きな流れの中
で反逆者的な扱いを受けている。
敗戦後新憲法が発布され、療養所の入所者達も人
権意識に目覚めていった。また戦後導入された治療
薬プロミンは、
「癩予防法」改正の気運を大いに高め
た。犀川一夫は、世界ではもはや隔離が否定されて
いることを政府に陳情した。そのような中、国会で
も癩予防法の存続に疑問が出され、1951 年参議院厚
生委員会は専門家の意見を聞くために、光田氏を含
む三園長を召集した。しかしここでの「三園長発言」
は、これまでの絶対隔離政策を少しも緩めず踏襲し、
終生隔離の必要性を強調するものであった。これに
対して 1951 年結成された「全国らい患者協議会」
は激しく抵抗したが、1953 年新たに制定された「ら
い予防法」は、実質的には 1931 年の「癩予防法」
と変わらないものであった。ただ「付帯決議」の中
に、
「近い将来、なるべく早い時期に見直されるべき
である」と記されたが、実際に「らい予防法」が廃
止されたのは、43 年後の 1996 年となってしまった。
戦後の動きの中で特筆すべきは、治療法が導入
されたにもかかわらず、
「無らい県運動」が継続・
強化され、地域社会から患者を一掃する動きが緩
められなかったことである。このような中で、患
者家族の一家心中や、事実検証が極めて不十分の
まま死刑執行された藤本事件、患者の子供を地域
の小学校から締め出した「黒髪小学校通学拒否事
件」など、悲惨な事件が続いている。
1908 年ドイツで合成された最初のスルフォン
剤 DDS(4,4'-diaminodiphenylsulfone)は、30 年以
上有効な使用方法が不明のまま放置された。1941
年 Carville, USA で、Guy Faget が DDS の誘導体
であるプロミン(glucosulfone sodium, promin(R))
をハンセン病患者に使用してその有効性を認め、
1943 年発表した時から本病の化学療法が始まっ
た。また 1947 年、内服薬の DDS(dapson(R))が
作られ、ここで初めてフィールドでのハンセン病
対策が可能となった。
当初スルフォン剤は著明な成果をもたらした
が、その効力は長くは続かなかった。その理由の
一つに、DDS は静菌的薬剤で、短期間での殺菌効
果が期待できないことと、DDS 耐性菌の出現が
挙げられる。
1960 年 Shepard の開発した、マウス足蹠内にら
い菌を接種する方法(mouse footpad 法)は、耐性
菌の判定と有効薬剤の開発に大きく貢献した。現
在では、遺伝子変異の検索で薬剤耐性が判定でき
るようになっている。この分野でも、日本人の研
究が顕著である。
1960 年代、リファンピシン(RFP)とクロファ
ジミン(CLF) が出現した。RFP は、らい菌に対
して強力な殺菌作用を持つ。CLF は、菌に対して
弱殺菌性で抗炎症作用を持ち、特にらい反応の1
つである、らい性結節性紅斑に対して著明な抑制
効果を有する。
これらの知見を基に、それぞれ作用機序の異なる
2 剤または 3 剤を併用する多剤併用療法
WHO/MDT(multidrug therapy, MDT)が、1982 年
ハンセン病の治療指針として推奨された。
<MDT 以外の抗菌剤>
その後、いくつかのニューキノロン剤、ミノサイ
クリン、クラリスロマイシンの有効性が明らかと
なり、これらのいくつかは、現在 MDT でも採用
されている。
日本の隔離政策が残したもの
ハンセン病には厳しい隔離が無意味であることが、
かなり古くから知られていた。1950 年頃の国際組織
は、
「不当に隔離するべきではない」ことを繰り返し
強調している。他の疾患と共に、一般の医療機関で
対応するべき病気であった。しかし日本では、「恐ろ
しい伝染病」であるとの間違った情報を広め、終生療
養所に入ることを原則とし、子供を持つことまでも
禁じてきた。またハンセン病の患者とともに、その
医療も療養所が独占した結果、一般の医療機関では、
患者を診る機会が無くなり、その治療もできなくな
った。また一般市民には、患者と患者が治っていく
様子を見る機会が無くなり、根拠の無い差別感情だ
けが残ったと思われる。社会に出た退所者達は、既
往歴を隠すのが習慣となり、ありふれた病気でも一
般の医療機関の受診をためらうことが多い。
1996 年の、「らい予防法」が廃止されて、1907
一方極めて小規模ながら、
「在宅治療」の道も開かれ
た。特に京都大学での「特別皮膚科外来」は、少数
の非在園者にとって、命の綱とも言うべきよりどこ
ろであったと思われる。また「らい学会」では、荒
川巌、河合正之、松村譲らが予防法の矛盾を指摘し
てその見直しを提案している。しかしこれらは、大
きな動きにはならなかった。一方和泉眞蔵は、疫学
の専門家として隔離が無意味であることを医学的に
証明しており、これは後の「らい予防法違憲国家賠
償請求訴訟」(熊本裁判)を勝利に導いた。
治療の歴史
化 学 療 法 の 出 現 前 は 、 大 風 子 油 (hydnocarpus,
chaulmoogra oil)が唯一の治療薬であったが、十分
な効果はなかったようである。
-3-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
年以降 89 年続いた日本のハンセン病隔離政策は終
わった。また 1998 年人権被害を訴えて国を告発し
た熊本裁判には、2001 年勝訴判決が下された。希望
者は、療養所を出る準備がある程度整ったはずであ
る。しかし日本にある 13 園からの退所者は、今な
おきわめて僅かである。現在日本には千数百人の退
所者がいると考えられているが、その多くは予防法
廃止のはるか以前に、社会生活の道を選んだ人々で
ある。当時予防法の下での退所は厳密には違法であ
り、法律の弾力的運用としての計らいであった。社
会に根付いた差別を恐れて、過去の病歴を極秘にし
ての社会生活は、しばしばきわめて制限されたもの
とならざるを得ない。医療に関しても一般の医療機
関を受診することは稀で、今なお各自の所属する療
養所を受診することが多い。
療養所に赴任した経験より
1992 年1月、筆者は東京にある 1 つの療養所に赴
任した。しかし現場に来てまもなく、ここにはハン
セン病の化学療法をする機能が無いことに気づいた。
世界では治療指針が確立されて久しく、早期発見・
早期治療による障害防止対策が進められていたが、
園内では新たな障害が多発していた。一方療養所を
訪れる退所者達の診療を通じて、社会での苦労や悩
みを直に知ることになった。
1982 年一人の退所者(山下さん:仮名)が、再発
してこの療養所を受診した。しかし適切な診断と治
療は行われず、免疫抑制剤であるステロイドホルモ
ン剤の投与が続いた。その結果、1992 年筆者が初め
てこの療養所に就任するまでの約 10 年間、彼女の体
内で菌は増えつづけていた。全身に重度の障害を来
たし、再発前の顔貌は全く消失していた。どのよう
な条件下であるにせよ、ヒトに寄生した菌が 10 年
間増えつづけることは、近代医療の恩恵を受けるこ
とのできない条件下でしか起こりえない。しかしこ
れは氷山の一角で、山下さんに続く患者さん達のほ
とんどがすさまじい既往歴を持っていた。
慢性の感染症であれば、再発は起きうる。特にか
つてのスルフォン単剤治療で寛解した人々には、再
発は稀なことではない。しかしもし再発しても、現
在の治療法に基づく早期治療で、短期間に障害を残
さず治療できる時代である。一方再発を身近に知っ
ている人々は、退所しても療養所とは縁が切れない
と思っている。
およそ 90 年に及ぶ隔離政策の下で、
患者とともに医療も医学も療養所内に隔離されてき
た結果、多くの場合一般医療機関ではハンセン病の
診断も治療もできない。社会の中で、ハンセン病は
存在権を与えられていないことを知っている彼らは、
病歴を隠すのが習慣となっている。再発の恐れと病
歴を知られることの恐れが、彼らを療養所受診に向
かわせる。しかし療養所を受診しても、ハンセン病
の治療が約束されていないことは、山下さんの例が
示すとおりである。
山下さんはその後、自分の受けた重大な被害につ
いて提訴した。2005 年 1 月東京地裁では完璧な勝訴
判決を得たが、国は上告した。ここではハンセン病
- 4-
研究センターの医師と、ハンセン病学会の重鎮とさ
れる古参の医師、それに療養所所長連盟の代表者が、
それぞれ国側の立場で意見書を提出した。いずれも
裁判の本題とはおよそ的外れの意見書で、かつこれ
らに対する我々の反論には一言の釈明も出せないま
ま、2005 年 8 月結審を迎えた。結局、東京地裁での
勝訴判決以外に新たな展開は無かったが、ここで注
目すべきは、ハンセン病界の指導者とされる医師た
ちの視線である。彼らの目は、病める人々へは向い
ていない。また「ハンセン病の医学」についても同
様で、世界で注目を集める研究が、上司の恣意的な
選択で無視され、また国にはこれを拾い上げる知識
を持った人材を用意する施策もない。一方患者の利
益を守るべき当該療養所の在園者自治会は、終始一
貫して国側の擁護に立った。彼らに現代のハンセン
病医学を学ぶ機会があれば、医療の間違いを判断す
ることもできたであろうが、長期にわたる特殊な空
間での生活と、代表者に対する管理者側のおもねに
麻痺したためか、正しい判断ができない組織になっ
ている。長く閉ざされた空間に、今のところ自浄能
力は期待できそうもない。
2005 年、筆者は予定通り国の組織を去り、同年6
月埼玉県所沢市の郊外で開業した。退所した人々が
自由に受診しているが、これまでのところ、当初予
想した困難な問題も無く、一般の地域医療として受
け入れられているように思われる。本来ハンセン病
は、このような形で治療されるべき疾患であった。
日本のハンセン界は、その中枢部で今も混迷が続
いている。それに比べて、我々のささやかな診療所
を受け入れている地域住民の方々こそが、いかなる
啓発活動にも勝る、バリアフリーの実行者であると
思われる。
追記
全生園医療過誤訴訟について:2006 年 1 月、東京
高裁の和解案を両者が受け入れた。これは地裁での
勝訴判決に基づいて、療養所の医療が間違っていた
ことを全面的に認めるものであった。またハンセン
病の療養所としては初めて、療養所内の医療につい
て第三者機関の審査を受けることが、和解の場で合
意された。また、同園の園長は、在園者全員に対し
て本裁判の結果を園内放送で報告することも義務付
けられた。しかし実際に報告された内容は、真摯な
反省とは無縁のもので、同園の在園者自治会は、国
側を支持するこれまでの態度を変えていない。
著者プロフィール
1972 年:三重県立大学医学部卒業
1980 年:順天堂大学医学部皮膚科学教室入局
1992 年:国立療養所栗生楽泉園基本治療科就任
2001 年:国立療養所栗生楽泉園副園長就任
2005 年:辞職
2005 年 6 月:開業(現在に至る)
皮膚科専門医(日本皮膚科学会認定)
医学博士(順天堂大学医学部 皮膚科学教室)
専門分野
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
塩田賞
国立病院・療養所総合医学会(札幌)2003 年 10
月「ハンセン病の治療における薬剤耐性」
臨床皮膚科学
慢性感染症
ハンセン病
受賞
-5-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
ハンセン病患者強制隔離と治癒について
ハンセン病患者強制隔離と治癒について
の情報に関する一考察
-市民・看護関係者として-
清水 昭美
Discussion concerning quarantine policy for patients with Hansen's
d i s e a s e and information of its therapeutic potential
-From the point of view of a citizen and nurse-
-
SHIMIZU Terumi
キーワードKeywords:
ハンセン病Hansen's disease、隔離isolation、断種vasectomy、情報information、教育
キーワード
education
はじめに
1975年頃,かつて私が看護教師をしていたときの
卒業生の集まりで,ハンセン病が治るようになった
ことを知っているか気になり,たずねたところ,誰
も知らなかった。看護師,保健師であったが,あま
り関心を示さなかった。その時,「治癒する」よう
になったことを広く伝えなくてはならないと思った。
ハンセン病について調べているうちに,治療薬プ
ロミンが,日本ではすでに昭和20年に合成され,昭
和22年頃から治癒することを知った。一市民,看護
関係者としてこれまでに知り得た情報と,強制隔離
されたハンセン病者に関する事実の情報があまりに
異なっていることに気づいた。
次に,年月を追って見聞し,知り得たことと知ら
されなかった事実を述べ,考察したい。
なぜ母子が浮浪し,物乞いをしたのか。
昭和8年,私が幼い頃,横浜の伊勢佐木町のデパー
トの前の橋の袂で,筵に坐って物乞いをする母子を
目撃した。母親がいるのになぜ幼い子供が物乞いを
するのか,不思議で脳裡から離れなかった。その後,
母子の姿は見なくなった。昭和15年7月5日,熊本県
本妙寺部落を午前4時,警官220名が急襲し,一斉強
制収容を断行した。強制収容者数157名のうち27名が
保育児であった。病む母親が子連れで浮浪生活を余
儀なくされていたのである。肉親も親戚も公的施設
でも養育を引き受けてもらえず,やむなく,子連れ
の浮浪をしていた。物乞いする母子の謎は,それで
あった。横浜の母子の姿を見なくなったのは,昭和6
年の癩予防法の施行による取り締まりにより,収容
されたものと思われる。
伝えられた情報
一般に伝えられた情報をみると,「一家にらいの
住所:〒145-0064 東京都大田区上池台 5-26-8
Address: 5-26-8 Kamiikedai, Ota, Tokyo 145-0064 Japan
- 6-
患者が出たら恥として始末せんければならん」「日
本に汚点なからしめる」「三千年の国の恥」とか「呪
わしい病気」などとのべている。病人であるのに,
「恥」とか「呪わしい」一家の「恥」「日本に汚点」
「国の汚」ととらえている。他方で皇室の「お恵み」
「恩恵」「御仁慈」と皇恩が強調される。
光田健輔は,絶対強制隔離,断種を実施し,子孫
絶滅をめざし,強行した一方で,皇恩のみ恵みを説
き,うたっている。
現実に進められた予防は,法律により浮浪するハ
ンセン病者を取り締まり,厳しい強制収容である。
患者密告を奨励し,摘発を押し進めた。鳥取県から
始まった無癩県運動は,各県が競い完全収容をめざ
す運動として展開した。病人の家は,家が真っ白に
なる程の徹底消毒が行われ,近隣から恐れられ,転
居せざるを得なかった。密告や強制収容は住民に強
い恐怖を与え,ハンセン病者の排除,拒否につなが
り,偏見,差別を一層強くした。
このように国の政策で患者の強制収容が推し進め
られていることを,10代の私は知らなかった。とこ
ろが,大阪の女学校1年生のとき,突然集められて,
光田健輔の講演をきいた。その時,はじめて「癩」
という病を知った。遺伝ではない,伝染病であると
強調していた。なぜ急にそのような話をするのか,
当時は全く理解できなかった。
小川正子は,光田健輔の指導で,各地を周り患者
収容に努め,「小島の春」を書いている。愛生園園
長の光田健輔自身も講演活動を行っていた。「小島
の春」は多くの人に読まれ,映画にもなり,沢山の
人々が涙した。気の毒に思い感情をゆさぶられはし
ても,病気を正確に知らず,患者の人権と絶対強制
隔離について,疑いや批判の声は全く聞かれなかっ
た。無癩県運動の嵐が吹きすさぶ中,山狩りや「狩
り込み」をしてまで,強制隔離が進められた。当初
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
は,浮浪する患者が対象であったが,その後,病床
数を1万床に増やし,在宅の患者も対象として強制収
容された。
治癒する情報は伝えられず
治療薬プロミンは,昭和20年東大石館教授により
合成され,その後東大病院と全生園で治療が始めら
れた。その薬効を知った患者らが誰にもプロミンを
とハンストをして予算化を勝ち取り,広く使用され,
次々軽快退所するようになった(表参照)。
1948(昭和23)年,厚生省東龍太郎局長は,衆議
院で軽快者の退所を認める意思を表明した。1949(昭
和24)年には療養所長会議で,東局長は「必要あら
ば予防法を変えてもよい」と発言し,光田健輔はこ
れに猛反発をした。このような事実は,当時全く知
らなかった。
私は1953(昭和28)年,医科大学附属の高等看護学
校で,皮膚科学を教授から習ったが,プロミンやダ
プソンなどスルフォン剤で治癒するとは何も教えら
れず,届け出伝染病であり,潜伏期が3~30年と非常
に長いと習った。又,皮膚科外来実習で朝鮮半島の
中年女性がハンセン病と診断されるのを目撃した。
翌日にも療養所へ送られたと聞いた。
大学病院の伝染病棟の壁で仕切られた奥に,療養
所へ入所する前日,家族と一夜を過ごすための特別
病室があった。夜明け前に迎えの車が来て隔離収容
されることを知った。
外来婦長が,明日日曜日にA地区へ医師と共に検
診に行くと語った。検診とは,未収容患者を強制隔
離するため,地区へ出向いての診察である。このよ
うな検診のことを,光田健輔も雑誌に述べているが
「狩り込み」と言っていた。後日,判明したのは,私
が学び臨床実習をしていた頃,すでに,プロミンや
ダプソンで治癒し軽快退所者が多数いたのである。
なぜ,治癒の事実が教えられなかったのか。又,広
く一般に情報を流さなかったのか。納得できなかっ
た。医療関係者の中には,1996年来予防法廃止まで
治ることを知らなかった人も数多い。知らなかった
医師,看護師は,治癒することを在学中に全く学ん
でいなかった。1970年頃国立大医学部で皮膚科学を
学んだ医師も,プロミンで治癒すると教えられなか
ったと語った。背後に全患者に強制隔離を推し進め
る光田をはじめ療養所派の医師が癩学会を牛耳り,
行政を動かしていたことがうかがわれる。最新の情
報が得やすい医学部や医大でも,治ることを知らさ
れていなかった。最も,治ることが広く伝われば,
強制収容や,1953(昭和28)年のらい予防法は制定
できなかったであろう。
治癒し軽快退所している事実が人々に伝えられて
いたら,1951(昭和26)年の藤本事件(被告は隔離
収容を強いられていたが,大学病院などでハンセン
病ではないと証明書を得ていた。判決は死刑。)や
一家9人心中事件や患者の妹が自殺したり,息子が
ハンセン病の父を殺して自殺した事件は起こらなか
ったのではないか。事件は氷山の一角であり,水面
下で多くのハンセン病者が強制隔離収容され本人や
-7-
家族は苦悩し続けていた。1948(昭和23)年,東局長
の英断というべき,予防法を変えてもよいとまで意
思表明したことが,光田健輔の猛反発で実行できな
かったのは,かえすがえすも残念であり,医療史に
のこる過ちである。
1952(昭和27)年ごろ,厚生省へ患者が予防法改正
を求めて押しかけた時,患者に面会する職員は,白
衣,長靴,手袋をし,頭から茶色の封筒の目の部分
をくりぬいた袋を被って応対していた,と当時の職
員から聞いた。厚生省の役人自身が,非常に感染を
恐れていたのである。これは,1952(昭和27)年藤本
事件公判においても,療養所職員,司法関係者が,
感染をおそれ,予防着,長靴,手袋,さらに火箸を
もって調書をめくり,証拠品を扱ったことでもわか
る。官僚たちが,一般人以上に,恐れおののいてい
た様子がうかがわれる。人々に抱かせた恐怖心の現
れである。
これより前の1951(昭26)年4月,光田健輔は,日本
ライ学会で病理方面から特別講演を行い,その中で
「プロミン等の薬剤はライ菌の発育を阻止し,又生
体の有するライ菌破壊の力が之に参加してライ菌,
ライ細胞は減少し,一方に於て結締組織が著しく増
殖し,ライ細胞群の中に侵入,瘢痕組織を以て置き
換え,遂には治癒に至らしめるものと考えられる。」
と述べている。
この頃,すでに治癒する病と述べている。にも拘
わらず,光田健輔,林芳信,宮崎松記ら三園長は,
より厳しい法改正を国会に訴えている。療養所の患
者達がハンストをし,法改正という名の改悪に反対
していたが,1953年,全患者を強制隔離政策を継承
した「らい予防法」が制定された。目の前で,診断
され,強制隔離された朝鮮半島の女性は,このよう
な社会状況の中で強制収容されたのだ。強制収容だ
けではない。治癒するようになっても,光田健輔は,
大正4年に始めた断種を止めなかった。療養所だけで
も2000人以上に断種をしたと雑誌「愛生」に述べて
いる。
このように「治癒する」ことを学生に教えず,一
般に情報を充分流さなかった状況の中で,私が,
「隔
離せず外来通院で治る」ことを知ったのは,大阪大
学医療短大部に転勤し,阪大が外来通院で治療して
いる事実を知ったからである。
1976年,京都大学助教授の小笠原登(真宗の僧で
もある)の業績を松田道雄から聞き,論文集を借り,
京都大学へ調査に行き,小笠原登が一貫して,隔離,
断種に反対して行動し,学界で自説を主張し続け,
自らの外来診療でも,カルテに「癩」と病名を書か
ず,隔離から患者を守り通したことを知った。小笠
原登の祖父はすぐれた漢方医で,自宅の境内に墓守
として患者を住まわせたが,誰にも感染しない事実
を,小笠原登は子供の頃から知っていたという。戦
時中,非国民呼ばわりされ,学会でも孤立したが,
患者が社会的に葬られる隔離,断種に対して医学,
人権の面から強く反対し,屈しなかった。小笠原登
の業績が一般に広く伝えられたのは,1996年のこと
である。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
ハンセン病に関する事実と情報一覧
<法律・医療関係の事実>
1871(明 4)年 浜松豊田郡万勝寺新羅実禅癩病人を収容保護。
1872(明 5)年 後藤昌文,東京に私設癩病舎を建設。後明治8年起廃病院を設立。
1873(明 6)年 アルマヴェル・ハンセンが癩菌発見。
1878(明11)年 京都の北浄土寺村に癩病院設立(1年で廃止)。
1885(明18)年 荒井作,東京に衆済病院設立。
1888(明21)年 岡村平兵衛,大風子油を精製,癩病人救済。14年間余に千数百名を救う。
1889(明22)年 テスト・ウィッド神父,御殿場に復生病院を開く。
1894(明27)年 基督教慈善結社の好善社が慰廃園設立。後病院となる。
1895(明28)年 ハンナ・リデル,熊本県に回春病院建設。
1898(明31)年 ジョン・メリー・コール神父,熊本に徒労院設立。
東京府,本郷に霧病院専門病院設立。収容人員15名前後。
1899(明32)年 東京市養育院に癩患者専用の回春病室設置。
1904(明37)年 本妙寺近くに癩病院開設(旅館のようなもので3年で閉鎖)。
1906(明39)年 綱脇竜妙,身延村に身延深敬園建設。
1907(明40)年 法律第11
法律第11号「癩予防ニ関スル件」
11号「癩予防ニ関スル件」公布。救貧立法。
号「癩予防ニ関スル件」
1909(明42)年 法施行。公立療養所5カ所設立。1100床。
1915(大 4)年 光田健輔全生病院でワゼクトミー開始。子孫絶滅をめざす。その後,他の療養所でも実施。
1916(大 5)年 療養所長に懲戒検束権付与。
1927(昭 2)年 日本癩学会発足。
1931(昭 6)年 癩予防法制定。衛生立法,全患者を強制隔離。
癩予防法制定
1936(昭11)年 光田健輔「1000人に断種を実施した」と述べる。無癩県運動鳥取県より始まる。
1938(昭13)年 栗生楽生園に「特別病室」(重監房)設置。
1940(昭15)年 小笠原登助教授学会で隔離批判。
1941(昭16)年 アメリカ プロミン開発。1943(昭18)年 アメリカ プロミン治療 1945(昭20)年 日本 東大石館
教授プロミン合成。1946(昭21)年 プロミン治療始める。
1947(昭22)年 プロミン効果がみられる。(静注・毎日又は隔日。自費治療(1ヶ月2000円)のため大部分の患者は
1ヶ月療養手当150円の生活では治療を受けられず。)
1948(昭23)年 非合法で行われてきた断種・堕胎を優生保護法の改正で何ら審議せず合法化(国民優生法は対象とせ
ず)。ハンセン病を理由として,優生手術を認める国は皆無。
1948(昭23)年 厚生省東龍太郎局長,衆議院で軽快者の退所を認める意思表明。
1949(昭24)年 患者は「誰にもプロミンを」と予算化を求めてハンストをし,勝ち取る。プロミン使用を予算化。
療養所所長会議で東衛生局長軽快退所,必要あらば予防法を変えてもよいと発言。 光田健輔「遺言
として,軽快者だとて出してはいけない」と猛反発。
1950(昭25)年 ダプソン(DDS)単剤の経口投与。通院治療可能になる。
1950年代前半から1970年後半の約20年間ダプソン単剤で投与。
1950年諸外国は隔離政策は完全に放棄。らい予防法廃止,一般医療システムへ。
1951(昭26)年 参議院で三園長発言。手錠でもはめて強制収容。本人の意思に反しても収容できる法改正を。
光田はスルフォン剤治療で治るようになっても,断種(子孫絶滅)はやめない。光田は愛生誌上で「療
養所だけでも2000人以上」に断種と述べる。
1952(昭27)年 患者が法改正を求めてスト。
1953(昭28)年 らい予防法制定。全患者を強制隔離政策継承。
らい予防法制定
1956(昭31)年 ローマ宣言。ハンセン病は伝染力が微弱,差別待遇的諸立法の撤廃,在宅治療の推進,早期治療,社
会復帰援助を宣言。
1958(昭33)年 第7回国際らい学会議(東京)強制隔離政策を全面的に破棄するよう勧告。
1960(昭35)年 WHOのらい専門部会は,ハンセン病治療は一般病院,診療所,ヘルスセンターで行うこと,特別の
立法は廃棄するよう勧告。
1961(昭36)年 米国政府の統治下にあった琉球政府は,ハンセン氏病予防法を公布し,翌年より在宅外来治療開始。
1972年復帰後も沖縄県は在宅治療を継承。
1962(昭37)年 ダプソン治療中の患者は感染源にならないことが明からになった。
1963(昭38)年 全患協らい予防法改正要求。
1980(昭55)年 1980年代WHO多剤併用療法を確立し,90年代に普及し,現在に至る。
1988(昭63)年 邑久・長島大橋架橋。
1991(平 3)年 全患協らい予防法改正要求。
1994(平 6)年 全国ハンセン病・所長連盟が癩予防法に関する見解発表。
1995(平 7)年 日本らい学会がらい予防法に関する見解発表。
1996(平 8)年 らい予防法廃止に関する法律制定。一般外来で保険診療となる。
らい予防法廃止に関する法律制定
1998(平10)年 星塚敬愛園(鹿児島),菊池恵楓園(熊本)の13名の「元患者」が,熊本地裁へ「らい予防法」違憲
国家賠償請求訴訟の提訴。沖縄を含む西日本に広がる。
1999(平11)年 東日本の「元患者」21名が,らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟の提訴。
2001(平13)年 熊本地裁,「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟について,原告全面勝訴の判決
原告全面勝訴の判決。
原告全面勝訴の判決
軽快退所者数
国は控訴を断念。判決は確定
判決は確定した。
判決は確定
<新聞報道などから>
1907(明40)年
1931(昭 6)年
1940(昭15)年
15人 1932(昭 7)年
・
(全生園) 1935(昭10)年
・
1950(昭25)年 73人
1936(昭11)年
1951(昭26)年 35
1952(昭27)年
43
1937(昭12)年
1953(昭28)年
49
1954(昭29)年
80
1938(昭13)年
1955(昭30)年
79
1947(昭22)年
1956(昭31)年
22
1948(昭23)年
1957(昭32)年 85
1950(昭25)年
1958(昭33)年 108
1959(昭34)年 163
1960(昭35)年 216
1951(昭26)年
1961(昭36)年 169
1962(昭37)年 134
1962(昭38)年 125
1963(昭39)年 119
1964(昭40)年
91
1965(昭41)年 117
1966(昭42)年 117
1952(昭27)年
1967(昭43)年
74
1968(昭44)年
67
1969(昭45)年
75
1970(昭46)年
44
1971(昭47)年
67
1972(昭48)年
70
1953(昭28)年
1973(昭49)年
35
1974(昭50)年
49
1975(昭51)年
28
1976(昭52)年
24
1953(昭28)年
1977(昭53)年
26
1978(昭54)年
27
1979(昭55)年
24
1954(昭29)年
1980(昭56)年
25
1981(昭57)年
44
1982(昭58)年
22
1983(昭59)年
39
1984(昭60)年
53
1958(昭33)年
1985(昭61)年
15
厚生労働省調査による
2648人 1960(昭35)年
1961(昭36)年
1962(昭37)年
2004(平成16)年
合計約3500人 1963(昭38)年
1991(平 3)年
2001(平13)年
合計
2003(平15)年
浮浪癩病人は取り締まりの対象となる。
癩予防協会設立。
「癩予防デー」を設ける。「お恵みの日」を設ける。皇恩強調。
「癩予防デー」で癩予防会長清浦奈吾は講演で「皇恩」を述べた後,「一家にらい
の患者が出たら恥として始末せんければならん気になります・・・文明国とし
て誇る日本に汚点なからしめる」と述べた。
20年根絶計画,無癩県運動強調(患者の摘発,徹底消毒,住民に恐怖
感,家族を絶望へ)
光田健輔 皇恩強調(み恵みに感じ奉りて)「三千年の国の汚も恩恵の
露に清まる日ぞ近づきぬ」(愛生5-8)
光田(らい予防デー 一句)「予防デー御恵をとく夕まぐれ」(愛生5-8)
恵楓園 宮崎松記患者密告を奨励。
鹿児島県議会,患者が許可なく市街を歩いている,と。
福島県衛生部のパンフレット「国から癩を無くしませう・・・・この呪わ
しい病気・・・・」らい患者が買い物,映画見物,自由に外出,野放し,
脱走隔離を怠る警視庁。
熊本県,藤本事件。強制隔離をめぐる傷害事件,殺人事件。
山梨県,一家9人心中事件。父親が国家,社会あてに抗議の遺書。
1月 三笠宮松丘保養園へ患者を慰問激励。
5月 皇太后崩御。
県民も敬虔な黙祷。ありし日の御仁慈偲ぶ松岡保養園。
貞明皇后記念 救らい募金運動。
12月 小学教員にレプラ一斉検診で判明。
特急つばめにらい患者。
らい患者と間違われて親から追い出される。
藤本事件公判は,園内の特設法廷で,一般の傍聴が困難な,いわば「非
公開」の状態で,法廷に消毒液の臭いが立ちこめ,被告人以外の入廷
者は,白い予防着,ゴム長靴,ゴム手袋,調書をめくるのに火箸を用
いた。
7月公正裁判要請運動,恵楓園自治会は全患協に「病友藤本の減刑嘆
願運動要請」
松岡保養園で座談会。らい予防法改正を望む患者,人間並みの扱いを。
暗黒時代の再来を恐れる。
松岡保養園でハンスト。患者が予防法の改悪反対を叫んでらい患者20
名県庁へ陳情行。”部長じゃ話にならぬ”
藤本事件熊本地裁死刑判決。
熊本市黒髪校問題。非感染児童の入学に父兄が反対。同盟休校を決議。
反対父兄で町民大会。
市教育委が差別扱いは正しくない。差別するなと厚生省,文部省。
藤本事件,福岡高裁判決(棄却)。
恵楓園患者ハンスト。
藤本事件,最高裁判決(棄却)「藤本松夫を救う会」発足
らい患者韓国から密航と厚相閣議に報告。
山陽線で消毒騒ぎ。らい患者乗り込む。
全生園「ハンセン病治る」とPR。
藤本事件再審請求(3度目)棄却(9月13日),9月14日死刑執行。
患者病院から逃げ,急行列車を消毒。
全患協らい予防法改正要求。
岡山県の道徳の副読本で,ハンセン病の理解に欠ける文章(ラジオ
放送)
熊本アイレディース宮殿黒川温泉ホテル,元患者の宿泊拒否。
1996(平8)年らい予防法廃止,2001(平13)年違憲国家賠償請求訴訟判決は左の頁に同じ。
全患協調査による軽快退所者数
1949(昭30)年~1955(昭36)年
1956(昭31)年~1965(昭40)年
1966(昭41)年~1975(昭50)年
- 8-
7年間で国立・私立合わせて
10年間で
10年間で
合計
655人
1,804人
808人
3,267人
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
断種について
1915年,光田健輔が,患者に断種を実施し,その
後,他の療養所でも,所内での「結婚」の条件とし
て実施された。国会で国民優生法をめぐる論議の際,
所内ですでに1000人に実施している事実を政府委員
が述べている。さらに光田健輔は,1951年,2000人
以上に実施したと記している。すでに治癒するよう
になっても,なお子孫を残さず,絶滅をめざしてい
る。医学,人権上,理解しがたいことである。しか
し,この情報は一般には全く伝えられなかった。1971
(昭和46)年,「医学と戦争」(共著,お茶の水書
房)に書いたところ,NHK大阪から依頼され放送
した。ハンセン病が治癒する点については,1978年,
朝日新聞の疋田桂一編集委員から安楽死の取材を受
け,「私の言い分」の中で,僅かではあるが,ハン
セン病が通院で治ることを述べ,記載してもらった。
一般には,強制隔離,断種,中絶の強制の事実や治
癒することを知らない人は,なお多い。
おわりに
長く教育に携わった者として,振り返り,戦後間
もなくプロミンなどで治癒し,数々の患者の運動が
あった情報を知らず(知らされず,知ろうとせず),
長年過ぎ,教育に従事していたことを深く反省する。
現在ハンセン病は一般外来で保健診療であると知ら
ない医療関係者もなお多い。偏見,差別をなくすた
めに,まず正しい情報と教育が必要であることを痛
感する。この報告書をまとめるに当り,「ハンセン
病問題検証会議の各報告書により多くの事実を知り
参考になった。検証に協力を惜しまなかった元患者
の方々や報告をまとめられた委員の方々に心から深
謝致します。
文献
・ハンセン病問題検証会議報告書 2004年3月
・ハンセン病問題検証会議報告書 2005年3月
・ハンセン病問題検証会議別冊・資料・CD,2005年3
月
・ハンセン病問題検証会議別冊・胎児編2005年3月
・「いのちの初夜」北条民雄(角川文庫)
・光田健輔と日本のらい予防事業,年表,藤楓協会
編,1958
・光田健輔:「上州草津及甲州身延に於ける癩患者
の現況。東京養育園月報,1902
・光田健輔:癩病患者に対する処置に就いて,東京
養育院月報,1906
・小南吉彦:身延深敬園聞き書<その1>,綜合看
護5(4),PP75~85,1970
・清水昭美:身延深敬園聞き書<その2>,綜合看
護6(4),PP60~71,1971
・清水昭美・綱脇竜妙と看護,綜合看護,8(2)PP68
~83,1973
・光田健輔:癩病隔離所設立の必要に就いて,東京
養育院月報,1902
・井上謙:癩予防方策の変遷(一),愛生9(9),1955
・井上謙:癩予防方策の変遷(二),愛生9(11),1955・
光田健輔:「ワゼクトミー」に就いて,愛生5(2),
1951
・第75回帝国議会衆議院,国民優生法委員会第1回
の議事録
・井上謙:癩予防方策の変遷(三),愛生9(12),1955
・光田健輔:長島愛生園開所二十周年に当たりて,
愛生,4(6),1950
・らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求訴訟原告
団:訴状「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請
求訴訟,皓星社,1999
・大谷藤郎:ハンセン病・資料館・小笠原登,藤楓
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・ハンセン病国家賠償訴訟弁護団:証人調書②「ら
い予防法国家賠償訴訟」和泉眞蔵証言,皓星社,
2001
・ハンセン病国家賠償訴訟弁護団:証人調書①「ら
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・大谷藤郎:らい予防法廃止の歴史,頸草書房,1996
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・徳永進:隔離,ゆみる出版,1982
・島田等:病棄て-思想としての隔離-,ゆみる出
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・日本のカトリック教会とハンセン病,カトリック
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・大西基四夫:まなざしその二-ハンセン病に耐え
抜いた人々-,みずき書房,1991
・島田等:次の冬,論楽社, 1994
・北条民雄:いのちの初夜,角川文庫,1955
・北条民雄:北条民雄全集(上)(下),創元社,1938
・清水昭美:生き続けた病人,文学の中の看護第2
集,医学書院,1992年
・判例時報:1748号,2001年7月21日号
・清水昭美:ハンセン病患者を絶対強制隔離-熊本
地裁判決が示すもの-nursing today, 16-13,2001
・清水昭美:ハンセン病熊本地裁判決に学ぶ,看護
教育42-8, 2001
・清水昭美:「胎児・新生児の標本114本」が示すも
の-ハンセン病療養所問題を考える。看護教育
46-7,2005
・清水昭美:安楽死は安易な逃げ道-死の強制を生
む恐れ,朝日新聞1978年12月19日
著者プロフィール
神戸医大附属高等看護学院卒、法政大学文学部日
本文学科卒、中央大学法学部法律学科卒、臨床看護
の後看護教育に携わる。大阪大学医療技術短期大学
部助教授を経て現在著述業。著書「増補生体実験・
安楽死法制化の危険」三一書房、「文学の中の看護」
第1集、第2集、医学書院、「看護婦が倫理を問われ
るとき」日看協出版協会、共著「医療と生命」日
-9-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
本評論社、「医学と戦争」お茶の水書房、「操られ
る生と死」小学館、論文多数。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
「生きていてよかった」
浅井あいさんを追悼して
大川 陽一
ハンセン病支援・ともに生きる石川の会
"It was well to live" as a memorial address for the soul of Miss ASAI Ai
OKAWA Yoiti
Ishikawa Group Supporting and Living with the Hansen's Disease Patients
「世間から家族守るべく われ自ら家を出たる
十六歳の日よ」
これは金沢市出身の元ハンセン病患者浅井あいさ
んの短歌の一つです。
今年 8 月 3 日、浅井あいさんは故郷から遠く離れた
山深い療養所で 85 年の生涯を終えました。先の歌に
あるように、16 歳から実に 70 年余りの歳月をこの
国立ハンセン病療養所・栗生楽泉園で暮らし、強制
労働による失明という地の底から這い上がり、常に
自分を見失わず、社会が少しでも良くなることを願
い続けた一生でした。
ハンセン病に対する偏見・差別は、古くはモーゼ
の十戒の時代から伝えられ、東西を問わず、広く民
衆の心に根付いてきたものですが、わが国における
偏見・差別は、明治・大正・昭和にかけての日本軍
国主義によって啓蒙・強化され、民衆の無知によっ
て増殖したと言えます。患者は犯罪者の如く強制連
行され、療養所とは名ばかりの収容所で重労働を強
いられたことで病は悪化し、手足の切断や失明など
を余儀なくされます。日本の患者が世界に例を見な
い後遺症のひどさを呈しているのは、そこに理由が
あり、結果としてそれがまた差別の連鎖を生むこと
にもなってきました。先月 25 日に不当判決が下され
た韓国のソロクト更生園と勝訴した台湾の楽生院で
も、日本の統治下という状況の中で本土以上の過酷
な虐待を受け、二重の隔離ともいうべき人権侵害が
行なわれ、両国の患者たちを今も苦しめていること
を日本国民に広く知らせる必要があります。
ハンセン病隔離政策のあゆみと日本の近代史を関
連付けてみると、まったく歩調を同じくしているこ
とが見えてきます。浅井あいさんが 5 歳の年(1925
年・大正 14 年)に治安維持法が成立。「神の国に不
浄の存在を許さない」という光田健輔の敷いた祖国
浄化思想のレールは全国に拡張され、1929 年には無
癩県運動が始まります。11 歳の年(1931 年・昭和 6
年)には満州事変が起き、この年に「癩予防法」が
成立しています。やがて日本は国際連盟も脱退し、
急速に軍国主義へとなだれ込んでいきます。
浅井あいさんは、自身の少女期をエッセイの中で
次のように書いています。
「金沢市は九師団指令部や
歩兵七連隊がある軍国の街であった。どこへ行って
も兵隊さんを見かけたし、朝から軍歌が響きカフェ
では昼間から兵隊さんが騒いでいた。デパートの屋
上には電線に生首の下がる写真がいつも貼ってあ
り、血染めの軍服が山のように積まれてあった。
」
ハンセン病患者は、兵士にも女工にもなれない軍
国主義国家にはまったくの役たたず(=非国民)と
して日の丸のシミとまで言われました。世間での差
別は家族・親戚までおよび、収容されてからも強制
労働、断種、堕胎、投獄など人間性を奪い去る、あ
りとあらゆる手段によって患者たちの人権は剥奪さ
れていきました。
浅井あいさんも 16 歳で栗生楽泉園に入所後、浅井
哲也氏と結婚しますが、洗濯や食搬作業などの強制
労働で病状が悪化し、眼もかすみはじめ、戦争が終
ってようやく特効薬プロミンが来た頃(昭和 24 年・
29 歳)にはすでに両眼とも失明していました。3 年
後には夫も失明します。
あいさんを失明という絶望の淵から救ったのは、
故郷の姉の助言であった短詩文学をやることでし
た。高原短歌会に入会して如々に認められていきま
す。ハンセン病患者は手足の感覚が麻痺しているた
め、盲人患者の場合通常の点字は使えません。そこ
で、舌の先で点字を読む舌読が必要となりますが、
あいさんは歌友の二人とともに、舌先から血のでる
ほどの努力を重ね、ついにマスターします。それに
よって、暗闇の淵から這い上がり、生きる自身を得
たあいさんは、1967(昭和 42)年新日本婦人の会・
石楠花班を園内に作ることに協力、この責任者とな
り、その日から、実に 36 年間、新婦人新聞配りを毎
週欠かさず続けてきたのでした。極度の難聴になっ
ても、歩行困難になっても、杖を握りながら続けま
住所:〒921-8152 石川県金沢市高尾 2-93
Address:2-93 Takao, Kamnazawa, Ishikawa 921-8152
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
した。 「広島に鐘なるころか 配りゆく新聞しかと
抱えなおしぬ」 と歌に詠んで、自らを元気づけまし
た。新婦人の大会にも積極的に参加し、社会の活動
家たちを大いに鼓舞したのでした。短歌のほかによ
く手記も書いており、自身の半生を綴ったあいさん
の文章には、これでもかこれでもかと肉体に加えら
れる試練に耐え、逆境に屈することなく胸を張って
生き抜いてきた姿が切々と述べられ、読む者の襟を
自然に立たせてくれるのです。
夫を病気で亡くした翌年の 1999 年、あいさんは谺
雄二氏をはじめとする療友たちとともにハンセン病
国家賠償訴訟の原告となります。そして 2001 年 5
月熊本地裁での全面勝利判決を勝ち取ってからは、
怒濤のようなマスコミ報道と支援者の渦の中、各地
の集会で発言を重ねてきました。驚かされるのは、
その長い講演の文章をすべて頭の中にたたき込み、
超人的な記憶力で理路整然と淀みない声で話される
ということです。
熊本判決後、浅井あいさんへの 67 年振りの卒業証
書授与など石川への里帰りを支援してきた故・杉浦
常男氏の遺志を受け継ぎ、私たちはこれまで、映画
と講演の集いや療養所訪問、県や市への要請など、
微力ながら取り組んでまいりましたが、今年の春、
新たな気持ちで「ハンセン病支援・ともに生きる石
川の会」と名称を改め、ニュースも発行しハンセン
問題の事実を広く伝え、差別のない社会の必要性を
September, 2006
訴える取り組みを継続し、
「生きていてよかった」と
すべての元・患者のみなさんが思えるような全面解
決の日が一日も早く来るための努力を、みなさんと
ともに進めていきたいと思います。どうか、ご支援
の輪を拡げていただきますよう、よろしくお願いい
たします。
子供の頃、教師を夢見ていたというあいさんが、
エッセイの中で書いている言葉があります。
「自分たちだけが幸福になろうとしてもだめなんだ、
周りから良くしていかねば。」
今頃は、天国で教壇に立ち、子供たちの前で話し
ているあいさんの凛とした声が聞こえてくるようで
す。
著者プロフィール
1957 年生、金沢美大商業デザイン卒、デザイン事務
所自営、ハンセン病支援・ともに生きる石川の会所
属
2001 年、群馬・栗生楽泉園を家族で訪問
1999~2004 年まで、地域の有志で毎夏「戦争を語り
つぐ会」を企画、
「朗読劇・千人針」
「天皇の時代に
生きた従軍看護婦」/満州引き揚げを綴った詩集「あ
の夏の日に」(群読)/中国戦線から帰還した「ある
兵士の証言」/富山大空襲を絵本にした教師と日中友
好の花紫金草との出会い/平和のためのうたごえの
集い/等を実施
趣味は音楽と詩作、詩人会議かなざわ・独標同人
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
旧日本軍第 731 部隊「凍傷実験室」
および、凍傷実験について
刈田啓史郎
東北大学大学院歯学研究科
The frostbite laboratory and experiment in the imperial Japanese army unit 731
KARITA Keishiro
Department of Oral Diagnosis, Tohoku University Graduate School of Dentistry
キーワード Keywords: 凍傷実験室 frostbite laboratory、凍傷実験 frostbite experiment、日本帝国陸軍 731 部隊
Imperial Japanese Army Unit 731、人体実験 human testing、吉村寿人 Hisato Yoshimura
はじめに
中国東北地方ハルビン南東約 15 キロの平房に、旧
日本軍 731 部隊による特殊研究施設が存在した。こ
れは、1938 年頃から建設が開始され、1940 年に完成、
敗戦の 1945 年にその機能を終えている。そこでは、
主として細菌兵器開発のための致死性の研究が、多
数の被験者を使って行われていたことが知られ、そ
の犠牲者は 3000 人以上といわれている。同時に、中
国東北部の寒冷地で日本兵の多くが凍傷に悩まされ
ていたことから、凍傷予防法の開発のための研究も
同時におこなわれていた(文献 1、2)
。
「15 年戦争と日本の医学医療研究会」が組織する
訪中調査団(第一次)が、2004 年 4 月旧日本軍 731
部隊遺構にある罪証陳列館を訪れた際に、これまで
館の研究者が、遺構の各種施設を計測していたこと
を知らされた。そこで、凍傷実験室を計測したデー
タを是非送ってくれるよう王鵬館長にお願いしたと
ころ、しばらくして館から、凍傷実験室の計測デー
タが私どもに送られてきた(文献3)。その好意を生
かす機会が訪れることを期待していた。
731 部隊での研究は、いくつかの研究班に分かれ
て行われ、凍傷研究は吉村班によって行われていた。
その班の責任者の吉村寿人技師(当時)の名前がつ
けられていた凍傷が生じるような条件での研究グル
ープであったが、彼自身は戦後に、自身が生体実験
を行っていたことを否定していた。しかし、旧日本
軍 731 部隊で働いていた多くの日本兵の証言によっ
て、凍傷予防を研究すると称しての残忍な生体実験
がおこなわれていたことが知られている(文献1、
2)
。
穴に言及する。
II. 凍傷実験は吉村班がおこなっていたが、これま
で裁判記録などで知られていた凍傷実験(生体実験)
の他に、責任者である吉村寿人自身は否定していた
生体実験について、吉村寿人の講演記録(文献 4)
などから、彼自身もまた、施設において、非人道的
な凍傷実験をおこなっていたことを明らかにする。
資料内容及び考察
I. 「凍傷実験室」の構造について
中国東北部の都市ハルビン郊外の平房にある旧日
本軍 731 部隊遺構の中に、凍傷実験室とよばれてい
る(冷凍実験室とも呼ばれる)建物が存在する。正
面の本部建物の右手後方約 100mのところで、鉄道
線路に近いところにある。今回、凍傷実験室と呼ば
れているこの建物の計測図が罪証陳列館から送られ
てきた。その計測図および罪証陳列館発行のパンフ
レット(文献 5)に基づいて、凍傷実験室の寸法を示
したものが図1である。参考のため写真も示した。
図1:凍傷実験室
数値の単位はメートル。高さ 6.6 は文献 5 による
数値。また、下線の付いた数値は、著者の写真撮影
による測定値。それ以外は送られてきた罪障陳列館
測定図面の数値。
目的及び資料
この研究報告内容は、以下の 2 つに分かれている。
I. 罪証陳列館から送られてきた資料(文献 3)を基
にした現存する「凍傷実験室」の寸法を報告すると
ともに、この施設がどのように使われていたかを類
推する。特に、天井近くに空けられている 2 個の丸
住所:〒980-8575 仙台市青葉区星陵町4-1、東北大学大学院歯学研究科口腔診断学教室
Address: Department of Oral Diagnosis, Tohoku University Graduate School of Dentistry, 4-1
Seiryo-machi, Aoba-ku, Sendai 980-8575 Japan
- 13 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
図1(付図):現存の凍傷実験室
入り口の方向から見ている。
館側から送られてきた計測図には、主要な寸法は書
き入れられていたものの、細かな部分は割愛されて
いたので、必要と思われる部位の寸法について、著
者の写真測定によるもの(下線のついた寸法)を加
えてある。計測図によると、母屋と思われる天井の
高い部分は、おおよそ高さ 7m、幅 9m、長さ 20m
の大きさのものである。窓の部分が少ない倉庫のよ
うな建物である。なお、壁の厚さは 40cmであった。
この母屋部分の壁には、つり鉤状の金属製の部品が
埋め込まれている。天井近くに直径 70cmのふたつ
の丸い穴が見える。その他に、直径 10cmほどの穴
が母屋部分と副室部分(天井の低い部分)との間の
壁に多数存在する。
1)まず始めに、この建物がはたして凍傷実験をし
ていた建物であったかどうかの検討が必要である。
これについては、我々の訪中調査のとき、中国側(罪
証陳列館)の説明では、館の調査員が旧日本軍73
1部隊員と直接面談して、それぞれの建物が何に使
われていたかを聞き出し、その結果判断したとの説
明がなされている。
2)母屋と思われる部分の天井付近にある直径 90c
mの 2 個の穴は、この建物の特徴である。機械室(天
井の低い副室部分)で冷却した空気(または冷媒溶
液)を出入りさせるためのパイプが通されていたと
推測する。おそらくこの建物が凍傷実験室と考えら
れた理由の一つがこの穴の存在であったであろうと
想定される。
3)また、吉村寿人が、
「零下 70 度でも使用できる
防寒服の開発実験」をこの装置で行う計画であった
と述べている。もしそのような計画が事実で、その
ことを実行するとすれば、おそらく、冷凍室の母屋
の中にさらに、小部屋が作られ、そこが零下 70 度に
なるように作られていたと推定する。壁の厚さは
40cm あるものの、窓もあり、母屋全体を零下 70 度
にするのは効率が悪く無理と考えるからである。な
お、館の説明員からは壁に埋め込まれている金属部
品は断熱材の支えではないかとの説明がなされてい
るので、その部分が小部屋のあとかもしれない。
- 14-
II. 吉村寿人がおこなった凍傷実験について
吉村寿人は、戦後(1982 年)マスコミとの対話で
「零下4度以上では凍傷が生じないので、零度での
人体実験を行ったが、これは危険性の無いもので国
際的に認められているものである」と述べ、日本生
理学会の英文誌(文献 6)で、零度で行った実験結
果の報告をしたことの理由を述べている。さらに彼
は、
「凍傷を生じるような生体実験を、自分はしてい
ない。凍傷予防の研究は、部下に任せていたので自
分は知らない」とも述べている(文献2)。
しかしながら、吉村寿人は、満州医学会ハルビン
支部特別講演(1941 年 10 月 26 日、これは平房完成
の翌年)の中で、自分が行った零下 20 度での人体実
験のことについて解説している(文献4)。今回、こ
の内容について詳しく報告したいと思う。この講演
で、彼は、凍傷について正しい認識が必要であると
述べている。すなわち、内地で言われているいわゆ
る「凍傷」と、中国東北部の寒冷の地での凍傷とは異
質のものであることを次のように強調している。
「本論に入るに先だち一言注意するは、本官の述
べんとするものは所謂厳寒地の凍傷にして内地の凍
傷とは異なる事なり。即ち内地凍傷に於いては、そ
の発生は徐々にして知覚鈍麻の進行と共に暗紫色の
チアノーゼと浮腫を発し、発生部位は耳翼、手背、
足背等に来るに反し、厳寒地の凍傷は、極めて短時
間に知覚脱失と共に蝋様白色の石の如く固結して発
生し、指趾顔面に来るものなり。即ち発生の状況並
に部位は、両者の間に隔然たる差異存す」と述べ、
さらに凍傷発生の原因として、寒冷により「先ず組
織凍結により組織の破壊が起り、その為に炎症を来
して血栓や血管麻痺を起して循環不良となり、壊死
を増大する」とする説を支持し、
「厳寒の地の凍傷に
於いては、必ず組織凍結が起り然る後に発生するも
の」と述べている。
さらに彼は、自分がおこなってきた厳寒の地での
凍傷を発生させる人体実験(中指を冷却している)
の具体的な例を挙げている。そこでは図2を示して
説明している。この図の示す実験は、人の中指を零
下 20 度の塩水に入れておこなっているもので、皮膚
温、プレチスモグラフ、指容積、水温の 4 種の変化
を冷却開始からの時間を追って記録している。
講演でこの部分は、
「実験に示すごとく、中指プレ
チスモグラフを装着して之を零下 20 度の塩水に透
す時は、寒冷が働くと共に皮膚血管が先ず収縮し、
しかる後遂に麻痺する。従ってプレチスモグラフの
収縮途中に小さき山を示す。而して更に寒冷作用が
働く時は皮膚温並びに指容積は益々低下し遂に皮温
は零下数度に下がる。然るに之がある程度進む時は、
温度は突然に上昇しそれと共に指は白色固化す。之
と共にその容積も一時に増大する。之の皮膚温変化
は釜江が冬眠蛙並びに死亡せる家兎に就き認めたる
事実と一致し、最初の冷却は組織の過冷却期にして、
凍結核の生成によりこの過冷却崩れて組織凍結し、
皮膚はその氷点に達せんとして温度上昇をきたすも
のならん。而してこの時の容積の膨張は、最初の氷
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
結による組織容積の膨張にして、その次に起こるも
のは釜江の見たる周囲血管の充血の為と考えられる。
即ち凍傷発生時の組織の物理的変化は全く氷結現象
に該当するものなり。
(下線は刈田による)
」と述べ
ている。説明にならってグラフの皮膚温の変化を見
ていくと、皮膚温度が零下 10 度付近に低下した時点
で、急に皮膚温度が上昇しているのが観察される。
このとき指の組織に凍結が起きていることをしめし
ているという。すなわち、厳寒の地の凍傷のおこる
条件(組織の凍結がおきている)を実際に作って実
験をおこなっており、明らかな「凍傷をつくる実験」
をおこなっていたのである。先に、残酷な凍傷実験
をおこなったとの批判に対して、彼がマスコミに話
した内容として「零下 4 度以上では凍傷が生じない
ので、零度での人体実験を行ったが、これは危険性
の無いもので国際的に認められているものである」
との言を紹介したが、この満州医学会での講演の中
で、自分がおこなった零下 20 度での実験については
意図的に隠していたことになる。実は、同じ講演の
中で、零下 20 度でおこなった凍傷実験とは別に、零
度でおこなった別の実験についても詳しく解説して
いる。その別の実験内容が、彼のマスコミへの答弁
の元になった内容であり、また同時に、戦後日本生
理学会の英文誌に投稿した内容でもあったのである
(文献 6)。
吉村寿人は、1941 年 10 月の満州医学会での講演
では、吉村班が開発したものとして知られている「組
織の凍結が始まった場合の治療として、凍傷にかか
った部位を、摂氏 37 度のぬるま湯に漬ける」という
凍傷予防方法については述べていない。その方法が
公表されたのは講演翌年の 1942 年であるとされて
おり(文献7)、満州医学会での講演の時点では、そ
の結論にはまだ達していなかったわけである。しか
し、
「ぬるま湯に漬ける」方法の開発までにそんなに
時間がかかっておらず、この時期に、精力的な研究
がおこなわれていたものと推測される。
日本軍戦犯に対する裁判記録の中で、旧日本軍 731
部隊の兵士がかかわった残忍な凍傷実験(生体実験)
に関するものが、被告の自供として述べられており、
その中では、
「吉村班員たちは、組織の凍結および知
覚脱出が完全に起きているかどうかを見るために、
丸太(被験者)の手足が『完全に凍結』したかどう
かを判定するため、角材でなぐって調べた」、とされ
ている(文献 1)
、おそらく、吉村寿人がおこなった
満州医学会での講演で紹介された中指での凍傷実験
の結論である「組織凍結が凍傷発生の基本」を全身
の大きな組織で確認するために、野外の寒冷の下で
マルタを使った全身的な組織凍結実験、すなわち手
足を『完全に凍結』させ、その後に治療方法を開発
していく非人道的な凍傷実験が、短期間に、沢山の
被験者を使って集中しておこなわれたものと考えら
れる。その結果により、短い間に、上述のような「優
れた」凍傷予防法を発見していったものと考えられ
る。
結論
結論として、吉村寿人は 731 部隊研究室内で、
- 15 -
図 2. 凍傷発生時の皮膚温並びに指容積の変化
零下 20 度の塩水に中指を浸してからの変化を記録
したもの。約 8 分後に組織の凍結と知覚麻痺が生じ
て凍傷が始まっている。
なお、原図では、グラフ内の文字は手書きであっ
たため、著者が活字に書き換えてある。
凍傷がおこる条件での生体実験、いわゆる「凍傷実
験」を行っていたと考えられ、それ成果を下に、マ
ルタを使った大規模な生体実験へと進められたもの
と推定する。
また、
「凍傷実験室」といわれている施設は、季節
を問わず実行できる全身的な凍傷実験(人体実験)
のための装置で、凍傷予防法の開発の目的に、さら
には、吉村寿人の述べていたような「零下 70 度でも
使用できる防寒服の開発実験」のための目的にも使
用されたものと推測される。
謝辞
侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館王鵬館長ならびに
館員の皆様から、貴重な凍傷実験の計測図(コピー)
を送っていただきこの報告をすることができた。心
より御礼申し上げます。また、資料収集にご協力い
ただいた、第一次訪中調査団の莇昭三、西山勝夫、
池田一郎(故人)
、一戸富士雄、色部祐、末永恵子、
土屋貴志、若田泰の皆様に感謝いたします。
参考文献
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ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件
ニ関スル公判書類、外国語図書出版所訳、1950.
2. 森村誠一著、悪魔の飽食、角川文庫、2003.
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版;1983)
.
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5. 侵華日軍第 731 部隊罪証遺跡、侵華日軍第73
1部隊罪証陳列館編
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
6. Yoshimura, H. & Iida, T. Studies on the
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Jpn. J. Physiol., 1 , 147-159, 1950.
7. 常石敬一著、医学者たちの組織犯罪、朝日文庫、
1991
著者プロフィール
秋田県出身 68 歳、東北大学医学部を卒業後、生理
学研究室に入る。始めは医学部でタコやアワビの視
覚、次いで歯学部でネコやウサギの口腔感覚や皮膚
循環などの神経メカニズムを研究した。ある時、自
分が研究している皮膚循環の研究と同じフィールド
で、731 部隊の研究者が倫理的に許されない人体実
験を行なっていたことを知った。其の時代の医学研
究の実体を調べてみたいと定年直前に本研究会に入
会、現在東北大学非常勤講師。
第 20 回 15 年戦争と日本の医学医療研究会
日
時
2006 年 11 月 26 日(日)11:00~17:00
会
場
東京大医学研究科教育研究棟2階
第1、2セミナー室
記念講演 吉田裕一橋大学大学院社会学研究科教授(演題調整中)
1983 年 一橋大学社会学部助手 、1985 年 同専任講師 1987 年 同助教授 1996 年 同教授 2000 年 現職
単著:
『天皇の軍隊と南京事件――もうひとつの日中戦争史』
(青木書店、1986 年)、
『昭和天皇の終戦史』
(岩波書店[岩波新書]
、1992 年)、
『日本人の戦争観――戦後史のなかの変容』
(岩波書店、1995 年/岩
波現代文庫, 2005 年)、
『現代歴史学と戦争責任』
(青木書店、1997 年)『日本の軍隊――兵士たちの近代
史』
(岩波書店[岩波新書]
、2002 年)
共著:(藤原彰・伊藤悟・功刀俊洋)
『天皇の昭和史』
(新日本出版社、1984 年)
編著:『日本の時代史(26)戦後改革と逆コース』
(吉川弘文館、2004 年)
共編著:
(吉見義明)
『資料日本現代史(1)日中戦争期の国民動員』
(大月書店、1984 年)、
(粟屋憲太郎)
『国際検察局(IPS)尋問調書』(日本図書センター、1993 年)、(粟屋憲太郎)『国際検察局押収重要文書』
(日本図書センター、1994 年)、(松野誠也)
『十五年戦争期軍紀・風紀関係資料』
(現代史料出版、2001
年)、
(原武史)
『岩波天皇・皇室辞典』
(岩波書店, 2005 年)、
(倉沢愛子・杉原達・成田龍一・テッサ・モ
ーリス=スズキ・油井大三郎)
『岩波講座アジア・太平洋戦争(全8巻)』
(岩波書店, 2005 年)
企画・演題募集中
- 16-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
私の覚え書き―
私の覚え書き―第三次中国訪問調査から
莇 昭三
城北病院
My memorandum―from the third China visit investigation
AZAMI Shouzo
Johoku Hospital
キーワード Keywords:満州医科大学での生体解剖 Vivisection at Mannshuu medicine academy、北野政次の発疹
チフス生体実験 Kitano thesis on typhus immunity、張丕清の証言 testimony of Mr. Cho、匪賊の解剖 pathological
anatomy of banditti、731 部隊の施設 new goods on show and facilities in "731 forces" unit、奉天アメリカ人捕虜収
容所 American prisoner camp in Shenyang、中華医学会 Chinese Medical Science Association
(一)「憤怒控訴日本軍国主義滔天罪行、堅決反対
美日反動派復活日本軍国主義」
延安に移され、中国医科大学と改名された。
1948 年に瀋陽が解放された当時、わが学校は軍隊
と一緒に瀋陽に入って、二つの古い大学を管掌する
ことになり、その中の一つが偽瀋陽医学院であった。
1945 年前、偽瀋陽医学院は「満鉄鉄道株式会社」に
より創設された満州医科大学であった。日本軍国主
義分子は満州医科大学において、わが中国人民を惨
殺し、大きな罪を犯した。我々が現在みなさんに紹
介するのは彼らの犯した多くの罪の中の一部分のみ
である。
(一)
この資料は、我々が「階級隊伍」を整え、「敵偽
档案」を捜査する時発見した物である。
偽満州医科大学の微生物教研室に北野政次という
主任教授がいた。彼は米帝国主義に保護され、今で
もまだ捕まらないままの細菌戦犯である。1939 年 2
月に彼は「発疹チフス予防接種に関する研究―自製
発疹チフスワクチンの人体試験」という論文を発表
した。これはわが同胞を使って行われた細菌の人体
試験である。
この論文において、北野政次自らはわが同胞を惨
殺した大きな罪を犯した。
論文には「試験に使われた人体は、発疹チフス及
びその他の急性熱性病にかかったことのない 32~
74 歳の健康な男性を厳選して使った。商人と労働者
を例外にし、5~30 年前かた山東省から来た農民が
ほとんどであった」との記述があった。この試験は、
北野政次らに捕らえられた 13 名のわが同胞を使っ
て行われたのである。74 歳のわが同胞の宗氏は体に
発疹チフスが注射され、ウィルス接種以降の八日目
に病気になった。病気になってから六日目、発病の
極期に北野政次に生きたまま解剖され、病理検査が
行われ、発疹チフスだと判明された。もう一人のわ
が同胞費氏・66 歳は北野政次にウィルスが注射され
た後病気になったが、体質が良いため、発疹チフス
に耐えられた。そして発病後の七日目に、体温が正
常までに下がった。しかし、その日に北野政次らに
(1)中国医科大学には「中国人脳組織学的研究」
という冊子が「永久保存文章」として保管されてい
る。その冊子の内容は、
1、
「支那人大脳皮質、特ニ後頭部ニ於ケル細胞構
成学的研究」―大野憲司(解剖学雑誌第 19 巻第
6 号別冊)
2、
「北支那人大脳皮質特ニ Area striata ニ於ケ
ル特殊細胞ニ就テ」―大野憲司(解剖学雑誌第
20 巻第 1 号別冊)
3、
「北支那人大脳皮質、特ニ旁嗅野、胼胝体下回
転、外側嗅回転、半月状回転、嗅野、島横回転
及ビ島閾ニ於ケル細胞構成学的研究」-竹中義
一(解剖学雑誌第 22 巻第 2 号別冊)
4、
「北支那人大脳皮質、特ニ側頭葉ノ細胞構成学
的研究」-竹中義一(解剖学雑誌第 21 巻第 1
号別冊)
5、
「憤怒控訴日本軍国主義滔天罪行、堅決反対美
日反動派復活日本軍国主義」
である。
1,2,3,4、の論文は日本語であり、日本の学術
雑誌であるからよく知られた論文である。論文 5 は
中国語で書かれており、日本に知られてはいない。
その内容は本多勝一が「中国の旅」で書き、私たち
が 2004 年 4 月・第一次訪中調査のときに中国医科大
学の姜樹学解剖学教授から聞いた内容である。
しかしこの論文の特徴的なことは、1971 年 9 月に
書かれたものであり、執筆者が「沈阳医学院革命委
員会政工組」となっていることである。
(2)
「憤怒控訴日本軍国主義滔天罪行、堅決反対美
日反動派復活日本軍国主義」の全文を翻訳すると次
のようである。
(翻訳者周丹氏)
「日本軍国主義の罪を訴え、日米反動派が日本軍国
主義を復活することに反対する」
わが学校の前身は、毛主席が 1931 年に江西省瑞金
市で創建した「中国工農紅軍学校」である。その後、
連絡先:〒920-0923 金沢市桜町2-2 莇 昭三
Address: 2-2, Sakura-machi, Kanazawa, Ishikawa 〒920-0923 Japan,E-mail:[email protected]
- 17 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
殺された。その他の 11 名のわが同胞は、事前に違う
量、違う回数の発疹チフスワクチンが注射された。ワ
クチン接種の 1 ヶ月後、北野政次は残虐にも病原体
を接種した。数日後、その中の 5 名のわが同胞は次々
と発病してしまった。ところが、北野政次はこの 5
人が発疹チフスに感染されたかどうかを証明するた
め、中の 1 人をサンプルとして殺した。北野政次は
わが同胞を残虐に殺し、
「活体試験」をし、彼が作っ
たワクチンを 2 ミリリットル体内に注入すれば、1
ヶ月後免疫機体が作られると残虐な結論を得た。
北野政次の罪悪の目的は何だろう。彼は前述論文
の中にこう書いた。
「軍隊とその他の団体がこの病気
の流行地域に進む時、1 ヶ月前にこのワクチンを注
射すれば、効果が非常に良い」と。この一言ですべ
てが明らかになった。彼は日本帝国主義の侵略戦争
のため、細菌戦争を起こすため、このような残虐な
ことをしたのである。
北野政次は 1942 年に日本関東軍に陸軍少将に任
命され、ハルピン平房地区に転任し、731 部隊の部
隊長になった。抗戦勝利した後、731 部隊の中に第
三部部長の川島清という日本細菌戦犯がいた。川島
清が審判を受け、731 部隊において毎年わが同胞五、
六百人を使い、
「活体試験」を行ったと供述した。1942
年から 1945 年抗戦勝利するまで、この短い期間中に、
3000 人あまりのわが同胞が惨殺された。抗戦勝利の
直前に、日本軍国主義分子は自分らの罪証を消去す
るため、300 人あまりのわが同胞を生きたまま死体
焼却炉の中に押し入れて殺した。その後、骨灰を粉
末にし、郊外まで運んで埋めた。北野政次らはこの
細菌工場の中で残虐に中国人を試験に使い、細菌武
器を飛行機を使って湖南省の常徳、浙江省の寧波ま
で送っていった。そして飛行機を使ってペスト菌の
付いた蚤とネズミを投下した。国民党の腐敗した労
働人民の命を大切に思わない統治で、当該地域のペ
スト菌が大流行になってしまった。しかし、日本軍
国主義復活の現在、北野政次が再び現れて、次々と
日本の新聞に文章を発表した。彼は 1969 年に、日本
の『医事新報』において一篇の自伝記(回憶録)を
発表した。満州医科大学微生物教研室の地下動物室
の中に「群霊碑」を立て、自分の試験で亡くなった
動物の英霊を悼んだことを自伝記に書いた。北野政
次はここでワクチンを作り、わが同胞を使って「活
体試験」を行ったのである。現在、日本軍国主義が
復活し、軍国主義分子らはまだ「大東亜共栄圏」の
夢を見ている。我々は全世界の人民と力を合わせて、
米帝国主義を敗って、復活した日本軍国主義を粉砕
しなければならない。
(二)
私は張玉清という。62 歳。私は 1932 年に「工友」
として、偽満州医科大学解剖学教室にいた。当時、
私の仕事は掃除、片付けなどであった。学生らが死
体解剖した後、私は死体を死体焼却炉まで運んでい
って焼却していた。
1941 年の冬、西村という日本人は私に死体焼却の
仕事を任せた。私は解剖室まで行って驚いた。学生
が使った死体解剖と完全に違って、解剖台の上にい
- 18-
くつかの死体が置かれていたが、解体されていた。
お腹が割られ、内臓が出しっぱなしにされ、眼球が
取られ、脳も出されていた。室内が血まみれであっ
た。解剖台のまわりに椅子が置かれ、椅子の上に足
跡もあった。この悲惨な場面を見て私はすぐ分かっ
た。これは日本軍が解剖室の中で、わが同胞を生き
たまま殺してしまったのであると。まず、その死体
は病気にかかっていた死体と完全に違っていた。学
生らの解剖用の死体にはこのような血液はなかった。
病理解剖であれば、少し血が残るだけで、その血の
色も濃い。しかし「活体解剖」であれば、血の色が
鮮紅色である。また病気にかかっていた死体の皮膚
の色は「青黄色」になるはずであるが、その時の死
体の色は非常に白かった。その場の光景を見てすぐ
解った。
その後、
「工友」3 人でこの問題を話し合った。そ
して、殺された同胞がどこから捕まれてきたのを明
らかにしたかった。劉さんという「工友」がいたが、
彼が昭井という日本人に聞いてみた。昭井は劉さん
の顔にパンチし、
「知りたいか、殺すよ」と言った。
そこで、私たちが考えた。西村から任された仕事で
あれば、西村がきっと状況を分かっているはずであ
る。そこで私たちは西村に聞いてみた。
「憲兵隊から
送ってきた」と答えた。死んでいたか生きていたか
を聞いたら、「意識がはっきりしてない状態であっ
た」と答えた。翌日、解剖室の上の階に住んでいた
中国教員は「昨夜寝ていた時、解剖室から悲鳴が聞
こえた」と言った。これはますます日本人らがわが
同胞を「活体試験」に使ったことを証明したのであ
る。
1941 年の冬から 1942 年の春までの数ヶ月間の間
に、わが同胞が 17,18 名も殺されたのである。一番
多い時一回に 8 人も殺された。これらのわが同胞の
死体は全部私が運んで焼却したのである。これは私
が見て分かったことであるが、私の見てない死体も
もっとあると思う。当時の状況が非常に悲惨であっ
た。現在、すでに 30 年も経ったが、私の頭の中にず
っと残っていて、忘れられない。私は子供たちにも
このことを教え、いつまでも忘れてはならないこと
であると子供に教えてきた。
(三 )
張丕清氏が摘発したことは、1941 年の冬から 1942
年春までの間に、偽満州医科大学の解剖室で、日本
からの侵略者がわが同胞を十七、八名惨殺した罪を
訴えたことである。彼らは被害者の脳を取り出して
いわゆる科学研究を行っていた。当時の偽満州医科
大学解剖教室の主任教授令木直吉は「中国人の脳の
組織学研究」といった英文の論文を書いた。1942 年
にこの論文が『仙台帝国大学解剖学業績』に発表さ
れた。彼は論文の第二節「材料と方法」の中で、自
ら中国人を惨殺したことを述べている。論文では、
「この額区細胞学構築の研究には、新鮮な人間の脳
を使って連続に切片して完成したのである。すべて
の標本には知的な欠陥なく、生理的な疾患もなく、
健康な中国人青年男子の脳髄が使われていた」と。
これは日本帝国主義がわが国の人々を殺した罪証で
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
ある。この切片には「FEN」という標識が書かれてい
る。この論文の中に図が入っているが、「FEN」も標
識されている。我々は顕微鏡で対照し、この二つの
「FEN」が一致したものだと分かった。これと似てい
るような論文がまだたくさんある。人脳を使って作
られた切片が大量にある。これは彼らが逃げたとき
処分に間に合わなかった罪証であり、現在我々の学
校に保管している。
(四)
これは骨格の標本であり、偽満州医科大学に残っ
ていたものである。この中の二本の股骨は右側が左
側より 3cm 短い。右側の股骨の真中の針金に骨質が
纏わって、股骨が針金を巻き包んでいる。
「骨痂」が
形成したため、針金が骨質の中に深く埋められた。
このような骨痂が形成できるのは少なくとも 1 年間
かかると思われる。この一本の針金は鉗で捻られ、
尖端が鋭くて、常に腿の筋肉と神経を刺激していて、
被害者を非常に苦しめていたことが想像できる。こ
の骨の前後両面には一つずつ穴がある。これは急性
骨髄炎から慢性骨髄炎になる原因であり、この穴か
らいつも膿汁が分泌されていただろう。
それでは、この骨格は誰れのものであろうか。我々
は死体帳を調べ、わが同胞の佟報功のものだと分か
った。彼は殺害されたとき 27 歳であった。彼の死体
は小南門監獄から偽満州医科大学解剖室まで送られ
たのである。死体帳に重症肺結核になったと記載さ
れている。なぜ骨がこんな状態になったのだろう。
我々は死体帳の記載により、佟報功の原籍を調べ、
沈陽市郊外の双樹子村であることが分かった。現在
の沈陽市東陵区、深井子公社、双樹子大隊である。
我々は当地の農家を訪問して、佟報功の妻の呉淑珍
さんに会った。呉淑珍さんは今年 57 歳である。彼女
は涙を流して日本軍国主義分子が夫を惨殺した経過
を語った。佟報功は 25 歳の時突然沈陽から平服特務
が来て佟報功を乱暴に連れていった。彼を木に吊り、
棒で殴り、死にそうであった。その時、右足が折ら
れたが、小南門監獄に送られた。監獄の中で、残虐
にも針金を使って折れた足を「接骨した」。このよう
な針金接骨術はどこでも使われていないだろう。骨
が針金で捻られ、ウィルスに感染し骨髄炎にかかっ
た。膿汁がずっと流れて苦しくてたまらない。佟報
功が苦しめられて重症肺結核になってしまった。佟
報功は捕まれた後、奥さんの呉淑珍は二歳の息子を
連れて監獄へ佟報功を見に行った。一回目は近所か
ら煮卵をもらって、食品を買っていったが、全部監
獄を管理した人に奪われてしまった。佟報功に会っ
たとき、彼は「子供をよく育ててね」との一言しか
言えなかった。二回目に行ったとき、彼の体はすで
に非常に危険な状況になり、起きられないままであ
った。その後、主人が亡くなったことを聞いた。
ところで、現在、復活した日本軍国主義分子が再
び現れ、
「満州は日本の生命線だ」と言い、奉天で作
った医科大学は「平等に中国人と日本人に対し、治
療を行った」とのいいわけをしている。それはまっ
たくの偽りである。彼らはここで多くの中国人民を
惨殺した。我々はいつまでも忘れてはならない。我々
- 19 -
は毛主席の導きに従い、全世界の人民と力を合わせ
て、アメリカ帝国主義とそのすべての走狗を打倒し
なければならない。
沈陽医学院
革命委員会政工組
一九七一年九月
(3)
「憤怒控訴日本軍国主義滔天罪行、堅決反対美
日反動派復活日本軍国主義」の問題点
以上が全文の翻訳であるが、中国医科大学のこの「永
久保存」文章をみると次のようなことがわかる。
本多勝一の「中国への旅」での記載は、おそらく
上記の論文を熟知していた中国の関係者から「聞い
た」ものと推定できる。
私たち第一次訪中調査で、解剖学教室の勤務員で
ある張丕清氏から聞いた話として姜教授から聞いた
「中国人解剖」の件も、おそらく上記の論文と符合
するようである。
そして私たちが今回の訪中調査で、顕微鏡で確認
した標本も上記の記述の如く作製されたものであろ
う。
問題は上述の北野政次の発疹チフス・ワクチン実
験の論文のことである。第一次訪中調査で中国医科
大学の微生物学教室の周正任教授は、
「その論文は北
京の档案館に送付した」と私たちに話していた。し
かし今回私たちは北京で調査したが、北京の中央档
案館、第二档案館、及び衛生部の档案処にもそれが
存在しない(?)という回答であった。
更に「憤怒控訴日本軍国主義滔天罪行、堅決反対
美日反動派復活日本軍国主義」の問題はこの文の作
者の問題である。執筆者は「沈陽医学院革命委員会
政工組」で、作成年月は一九七一年九月となってい
る。一九七一年九月は中国での文化大革命(1966 年
6 月~1977 年 8 月)の時期である。したがって「沈
陽医学院革命委員会政工組」は文化大革命での革命
組織であるという点も注目しておく必要があろう。
(二)匪賊の解剖
中国医科大学図書館に「関東軍主催満州医科大学
熱河地方病研究団行動の概要」-古田敬助、昭和九
年一月」という資料がある。
この資料の「序文」で、満州医科大学病理学教室
の久保久雄教授は、この研究旅行は関東軍が熱河地
方における地方病の研究を余等に命ぜられたことに
よると記している。
この調査団は満州医科大学の教官 4 名と奉天衛戍
病院の軍医 1 名で編成され、48 日間の調査の行動概
要が本資料に収録されている。
この行動概要の第 5 項目目が「匪賊の解剖」であ
る。昭和 9 年 7 月 31 日よりの凌源滞在中の記事が
書かれているが、
「午後 4 時衛生班差廻しの自動車
で一同警備隊司令部に出頭した。死刑執行前の空気
はさすがに緊張している。匪賊は既に死刑の宣告を
受け観念したか取乱した風もなく存外平然として居
た。町はずれに小高い丘にある墓地付近の畑中の地
際を臨時の刑場として死刑は執行せられた。今その
詳細に就いて記述することは茲には避けねばならぬ。
死刑執行後直ちに剖検に取りかかった。日常太政官
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
制で死後 24 時間経過を鉄則に厳守させられている
我々にとって此の剖検は如何に有益であったかは申
し述ぶる必要はない。又得たる材料は極めて有益な
る資料たることは確実である。又余個人としても一
生を通じての武勇伝?の一頁を飾るに足る。
・・出発
5 日目・・最大収穫を得たることを歓ぶ・・」と。
これまでも戦場における日本軍医の「解剖」につ
いての報告があるが、この報告のように死刑執行を
予定して、或はそのために死刑を実施して「剖検」
が行なわれ、
「新鮮な資料」を得ていた当時の状況が
よくわかるのである。
当時のよく似た「剖検」の記載が「東京医事新誌
―2865 号、昭和 9 年 2 月」にも掲載されている。
「二
時間に 12 體を解剖すー匪賊の末路」と。筆者は上
述の満州医科大学病理学教室の久保久雄教授である。
「・・北満の片田舎で年の瀬も押迫った十二月二十
八日、零下二十度の野外で、
・・死刑に処せられた十
二人の匪賊の屍体を解剖した・・武勇伝を語ろう・・。
農安は満州国の首都新京の北方八〇粁の処で馬賊の
巣窟・・私は昭和八年十一月中旬・・・討伐に際し
捕虜となった二十七名の匪賊が死刑に処せらるるこ
とを確かな筋から聞知した。教室の病理解剖材料を
どうしてももっと増加さしたい・・満州国側当事者
も私の意のある所をよく了解してくれて解剖を承諾
せられた。
・・問題の匪賊二十七名は牢獄に投ぜられ
て居た・・病理解剖は頭目を除く十二名丈け許可さ
れた・・・手を暖め暖め元気を出して一気呵成に十
二体の解剖をなし終った。
・・二時間に十二体の解剖
をよくなし遂げ得たと我ながら不思議に思ふ位であ
る。
・・」
私が本誌 6 巻 1 号に記載した渡辺建らの「慢性マ
ラリアに於ける内臓の病理解剖学的研究」
(軍医団雑
誌・364 号・1943 年 9 月)も、「死刑直後」の 5 体
を研究材料としている。古田敬助、久保久雄の証言
とも関連して推測すれば、15 年戦争中には少なくと
も「戦地」では、死刑を積極的な契機にした「病理
解剖」が例外ではなかったのであろう。
(三)
「731
「731 部隊」遺跡での新たな陳列品と施設跡の
見学と旧「石井邸」
これまで二回、731 部隊遺跡を見学してきたが、
今回の訪問で初めて王鵬館長から漸く黒龍江省が
731 遺跡の保存計画を立案中という朗報をえたこと
が印象的であった。
*記念陳列館では、「高圧灰菌器」(王館長は培地の
溶解器でないかと言うが)
、
「凍傷実験函」、「毒器試
験想定図」
(施設内の地下で実施か)
、「凍傷テスト」
「真空テスト」の模式図、
「野外試験の写真」、等の
展示が、私には始めてであった。
*今回は王鵬館長の好意で職員の馬天龍氏が「これ
まであまり公開していない場所」を案内してくれた。
○「北崗焚尸炉」-731 部隊の正門を出てすぐ右
折し、約 200 メートルでまた右折して進むと「東北
軽金属有限責任公司」がある。その門をくぐると直
ぐに左手に高い煙突のある小さなレンガ造りの小屋
がある。これが「北崗焚尸炉」である。当時は小動
- 20-
物の焼却炉であったが、731 部隊の撤退時に「マル
タ」をここで大量に焼却したと言う。
(火力発電所で
もマルタを焼却したと言う)
○「馬血清テスト舎」-731 部隊跡の奥まった右
手に凍傷実験室、鼠飼育室がある。これらを越して
更に奥に進むと、一階建ての間口約 50 メートル、
奥行き約 10 メートルのレンガの建物がある。これ
が「馬血清テスト舎」である。ここで馬を利用した
免疫血清の製造とテストがおこなわれていたという。
○「細菌兵器製造所」-「馬血清テスト舎」の横
に一階建てのレンガ造りであったと思われるまった
くの廃屋がある。大きさは 100×10 メートル位か?
ここで細菌兵器を造っていたと言う。
○「毒ガス兵器製造所」-731 部隊跡の正門に向
かって右側で、現在の 731 部隊跡の区画外の「新疆
三街道」に面して立っている。731 部隊の有名な動
力炉から外側約 500 メートルの位置で、二階建ての
小さなレンガ造りの工場である。現在は木製の鉛筆
製作工場となっている。ここが当時の兵器製造所で
あったと言う。
私は今回が 3 度目の「731 部隊跡」の訪問であった。
これまでは記念陳列舘を見て「住住我們」と胸を締
め付けられる思いであった。しかし今回は、731 部
隊の犯罪行為はきわめて計画的、綿密に行はれてい
たことを知った。したがって尚更にその犯罪は許せ
ないと強く感じた。アウシュビツは「狂気の沙汰」
とも言えるが、731 部隊のそれは「意識的に準備さ
れた狂気」と言うべきであろう。
*「旧石井邸」
平房の 731 部隊遺跡からハルピンに帰り、宣化街
にあったという元 731 部隊の「市事務所」跡に立っ
た。現在は小学校と予備校の校舎があり、遺跡は全
然残ってはいない。
ハルピンの吉林街 54 号は「旧石井邸」である。
現在は中国人の住宅となっているという。間口約 20
メートル、奥行約 30 メートルの大きな敷地に立つ
大邸宅である。高いコンクリートの塀垣にかこまれ
ている。当時は中国人の乱入を恐れて造らせたので
あろう。
(四)「奉天アメリカ軍人捕虜収容所」
「奉天アメリカ軍人捕虜収容所」
*「奉天アメリカ軍人捕虜収容所」
15 年戦争中に日本本土及びアジア各地に日本
軍による連合国軍兵士を対象にした捕虜収容所が
存在していたことは知られている。満州国当時の
「奉天」
(現瀋陽)にも主としてアメリカ軍人の捕
虜収容所が存在し、そこでワクチンの生体実験が
行なわれていたという「風聞」があるが、正確な
ことは明らかではない。
第二次訪中調査のときに遼寧省の「9・18 戦争
研究会」会長の王建学教授と偶然にお会いしたが、
今回の訪中は「奉天アメリカ軍人捕虜収容所」の
見学と王建学教授との懇談も一つの目的であった。
まず捕虜収容所を見学した。それは瀋陽市の大
東区地抎街 28-30 番地付近に建っている。付近
は下町である。二階建ての茶褐色のレンガ造りで、
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
間口 10 メートル、奥行き 30~40 メートルの大き
な建築物であった。窓から中をのぞくと、現在は
倉庫となっていた。
案内してくれた中日友好協会に康氏の説明では、
数年まえから瀋陽市は日本軍の遺跡調査とその保
存運動に取り組み、この施設も市の「遺跡」に指
定され、保存のための施策が近々行なわれる予定
と言う。
この施設の建築物の横が広場になっていて、そ
の片隅にコンクリートの台座がある。聞くと当時
この捕虜収容所に収容されていたアメリカ人が近
年しばしば訪れているが、そのメンバーが記念碑
を建立する予定の「台座」であるという。
康氏の説明では、この施設の近くに現在も大きな旋
盤工場があるが、15 年戦争中はこの旋盤工場で、こ
こに収容していた連合軍捕虜を労働に使役していた
のであろうと言う。*王建学教授の説明
この見学の翌日、王建学教授と懇談した。王建学
教授は現在、政治協商会議で日本軍の遺跡調査とそ
の保存運動に関係していると言う。
(以下王教授の説明)
当時の日本軍の連合軍捕虜収容所は中国、台湾に
60 ケ所存在したが、この「奉天アメリカ軍人捕虜
収容所」は遺跡としては第一級のものであると言
う。
この捕虜収容所に収容された捕虜は、日本軍がフ
ィリピン戦線で捕虜にした人が中心で、4 万人の投
降してきた中の捕虜であるという。捕虜は 8 カ国の
軍人が含まれ、高級将校が多く、将軍クラスが 17
名もおり、技術者が多く含まれていた。
捕虜は、フィリピン→台湾→釜山→安東→奉天と
移送され、1942 年 11 月から 1945 年 8 月 11 日まで
収容されていた。
現存の収容所は 1943 年に建てられている。1944
年には捕虜は約 1200 人、1945 年頃は 2100 人と推
定されていると言う。平均すると 1500 名前後とな
る。
多数の捕虜が死亡しており、1942 年 11 月 11 日
から 1943 年 4 月5日の 151 日間で 201 人が死亡し
たという。2 年間では 270 人(17%)が死亡した。
捕虜が死亡するといつも補充されていたと言う。
吉林省档案館の「捕虜収容所の検閲記録」によれ
ば、アメリカからの慰問文、慰問品、そして国際赤
十字委員会からの差入れ等が授受されていたことが
わかると言う。
1945 年 8 月 17 日、アメリカ軍人が瀋陽に来て、
当時の日本軍の責任者松田某に面談し、日本の敗戦
を告げ、帰国の作業を開始したと言う。
現在、当時の収容所の書類は中国には一切ない。
むしろ日本で調査してほしいと言う。
当時の米軍の指揮官はウンライト(温菜特)、パシ
ワル(惟西灰耳)であり、この両人が最近アメリカ
で回想録を出版したが、まだ見ていないとも言う。
以上のことは、王教授の「奉天涅槃」という本で
発表している(2002 年出版)と言う。
懇談の後で「日本軍がこのアメリカ人にチフスの人
体実験をしていたという風聞があるが知っている
か?」の質問をした。王教授は「知らない。しかし
当時アメリカ人の捕虜の医療にかかわっていたアメ
リカ人軍医が時々捕虜がどこかえ連れてゆかれ、日
本人に注射をされたということを話していたと言っ
ていたことを聞いたことがある」と。
(五)中華医学会への訪問
今回の訪中では 3 月 10 日に中華医学会を訪問し、
当研究会として正式に中華医学会と懇談できたこと
は大きな成果の一つである。
当日は、中国人民代表者会議が天安門の人民会堂
で開催中で、中華医学会会長がそれに出席していて
面談できなかったが、呉明江副会長、馬常務理事及
び対外連絡部の張立華氏の 3 氏と懇談ができた。
会談の内容はここでは省略するが(別文参照)、今
後「15 年戦争と医学・医療」に関して当研究会と中
華医学会が連携して研究してゆくことを確認したこ
とは重要であった。
著者のプロフィール
*1927 年・生まれ、1948 年・第四高等学校卒業、
1952 年・金沢大学医学部卒業、1953 年・内灘診療所
所長、1962 年・城北病院院長、1982 年・全日本民医
連会長、1993 年・釈迦衣服祉法人やすらぎ福祉会理
事長。
*現在・全日本民医連名誉会長、城北病院名誉院
長、
「15年戦争と日本に医学医療研究会」幹事長。
*著書:
「薬害スモン」
(共著・1977 年)
、
「医療革
新の展望」
(共・1978 年)
、
「ノーモア・スモン」
(共・
1980 年)
、
「なくなったカルテ」
(1983 年)
「高齢者運
動宣言」
(共・1988 年)
、
「内灘闘争資料集」
(共・1989
年)、「水俣病事件における真実と正義のために」
(共・1989 年)
、「医療学概論」
(1992 年)、
「安心で
きる医者のかかり方」(1993 年)、「民医連と私」
(1994)、
「戦争と医療」(2000 年)、
「核のない世界
へ」
(共・2003 年)
、
その他、日本内科学会誌、日本公衆衛生学会誌、
医事法学会誌、日本医史学会誌、民医連医療誌に論
文多数。
紹介:
紹介:日本侵華戦犯筆供
- 21 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
中央档案館整理 中国档案出版社
西山勝夫
滋賀医科大学
Introduction: "Autograph confessions of Japanese war criminals invading China
edited by the Historical Archives of China
NISHIYAMA Katsuo
Shiga University of Medical Science
キーワード Keywords:戦犯
war criminal invading China、最高人民法院 Supreme People Court、軍事裁判
Keywords:
military trial、自筆自白 autograph confession、
、中央档案館 Historical Archives of China、
頁にかけては戦犯ごとに、史料の種別(供述書、告
発書、認否書、学習総括書、手記)
、完結、内容概要、
はじめに
日付、頁、枚数、備考が一覧表に整理して示されて
第 2 次訪中(2005 年 3 月)後しばらくして、中国
いる。新井・藤原は既に鬼籍に入られ、入手された
より、15 年背農事に中国を侵略した日本人戦犯全員
史料の所在に到達できないもとで、同表の分類を手
の裁判記録全 10 冊が出版されたという知らせが届
がかりに、
「日本侵華戦犯筆供」掲載資料の新規性を
いた。日本の書店では市販されている様子もない。
検討した。
しかし、今後の訪中調査に役立つのではないかとい
うことで、購入することになった。昨年の秋に同書
は私の手元に届いた。梱包を解くと、図1のような
状態で日本侵華戦犯筆供の各冊づつがラップされた
7 千頁弱のボリュウム(図の手前の茶色の棒状のも
のは 30cm の定規)の、北京:中国档案出版社が 2005
年 6 月に出版した「日本侵華戦犯筆供 中央档案館
整理-影印本-(国際書誌分類:ISBN 7-80166-528-7、
印刷部数 初版第1刷 3000 套)
」という書籍であっ
た。
大部なので、グループで解題をするという話もあ
ったが、第 3 次訪中(2006 年 3 月)には、私のみが
目を通したうえで臨むことになった。
以上の検討を踏まえて、第 3 次訪中計画に当たって、
内容の概要は、1956 年 6 月 19 日に遼寧省瀋陽市
私が、中国側に要望した課題は以下のとおりであっ
で開廷された最高人民法院特別軍事法廷で裁かれた
た。
戦犯 45 名による自筆の供述書とその中国語翻訳(法
「日本侵華戦犯筆供」について中央档案館整理
廷に供されたものと思われる)である。
関係者(総顧問 宋平、編集責任管輝―など)と
この種のものは、新井利男、藤原彰編:侵略の証
面談し、出版の意図、その他の裁判資料の所在と
言 中国における日本人戦犯自筆供述書(岩波書店、
今後の整理出版方針について伺いたい。
1999)で一部紹介されている。同書には、1981 年か
「日本侵華戦犯筆供」に掲載されている唯一の
ら捕虜・戦犯政策の史実究明の旅を始めた新井利男
医師、榊原秀夫に関する他の裁判資料(起訴状、
が撫順戦犯管理所にて取材を重ねるうちに保管され
被害者からの告発状、証拠など)を見たい。
ていた筆供自述を目にすることになり、特別の許可
その他(最高人民法院特別軍事法廷戦犯以外の
を頂いて一部コピーを入手することになった史料
戦犯)の筆供書あるいは目録を見たい。
45 名の戦犯(被起訴者)と 1 名の戦犯(起訴免除者)
元日本軍の「北支方面軍」の拠点陸軍病院であ
に関する総数 1202 枚(内 118 枚は武部六蔵を除く被
った山西省炉安城内にあった「炉安陸軍病院」の
起訴者 44 名の「登記表」
。残りは大別すると供述書、
資料の有無を確かめたい。
告発書、認否書、学習総括書、手記)から抜粋され
また山西省の大同にあった旧日本軍の「大同陸
たものが掲載されている。同書の 278 頁に掲載され
軍病院」の有無についても確かめたい。
ている戦犯一覧と比較対照すると、
「日本侵華戦犯筆
以上の課題解明の端緒は、第 3 次訪中時、2006 年
供」の戦犯とは完全に一意している。291 頁から 297
住所:〒520-2192 大津市瀬田月輪町 滋賀医科大学社会医学講座予防医学分野
Address: Division ov Preventive Medicine, Department of Social Medicine, Shiga University of Medical
Science, Tsukinowacho, Stea, Otsu 520-2192 Japan, E-mail: [email protected]
3 月 11 日に実現された中央档案館の劉美玲氏との会
- 22-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
談で切り開かれた。その会談記録は本誌「第 3 次訪
中調査録」にあるが、新井が撫順戦犯管理所にて入
手した裁判史料は、北京にある中国最高人民法院に
移管された後、中央档案館に保存されることになっ
たという。残念ながら中国人民対外友好協会の黄氏
らが発見された史料のコピーは上級の許可がないと
提供できない、その許可待ちであるということで、
史料を入手は宿題となった。
第 3 次訪中の最後の調査対象の北京の中央図書館
では、北京での会談で浮かび上がった「最高人民法
院特別軍事法廷審判日本戦犯紀実」を閲覧できた。
同書は 1998 年に出版され、2005 年に復刻版(750
頁)が発行されていることが分かった。中国人民対
外友好協会の黄氏の尽力で、出国直前に同書を購入
することができた。同書は、45 名の日本戦犯につい
ての最高人民法院特別軍事法廷における審判の中国
語による記録の書であるが、日本語で記された起訴
状、判決文などの一部コピー(参、下図)が掲載さ
れており、どこかにこれらの原本や被告が理解でき
るようにするための日本語翻訳が存在するはずと解
された。
中国に収容された日本戦犯は総数 1107 名、内 45
名が最高人民法院特別軍事法廷に起訴され、有罪の
審判を受けたといわれているが、起訴免除となった
者に対して 1956 年 6 月解放が決定され、人民日報
には氏名の一部が公表された。同記事の一部コピー
も同書に掲載されている。
以下では、
「日本侵華戦犯筆供」の構成、掲載され
ている筆供と新井利男、藤原彰の入手史料との照合
および医学・医療・医事、生物化学兵器使用に直接
かかわる事項の抽出の結果を述べる。なお、自筆文
1. 書の構成
第1冊の構成
見開き 《日本侵華戦犯筆供》編委会名簿
総顧問
宋 平
顧問
王明哲、解学詩、張海鵬
総編審
毛福民
副総編審
沈正楽、馮鶴旺、郭樹銀、楊公之、
楊冬灌、段東升、李明華
総策劃
周留樹、王慶、曲延釣、陳大利
主編
劉美玲(第 3 次訪中にて意見交
換)
副主編
辛崇賢、趙月琴、干薇
編輯
王楽軍、王暁峰、女+兆甲科
頁(1)-(12)写真 最高人民法院特別軍事法廷 1956
年 6 月 19 日遼寧省瀋陽市開廷等
頁 1-001~1-005(以下、
「頁」は省略) 出版説明
(中文)
1-001~1-005
総目次
第 1 冊 鈴木啓久 1、藤田茂 2、上坂勝 3、佐佐真之
助4
第 2 冊 長島勤 5、船木健次郎 6、鵜野晋太郎 8、
榊原秀夫7
(西山注:以上、沈陽戦犯 1956.6.9-19、下線は、
新井利男・藤原彰編『侵略の証言-中国における日
本人戦犯自筆供述書-』岩波書店、1999 年刊掲載の
戦犯を示す。以下同様。
は、滝谷二郎『殺戮
工廠・731 部隊―発見された細菌部隊兵士の告白調
書』新森書房、1989 年刊掲載の戦犯を示す。)
富永順太郎 (戦犯特務間諜 1956.6.10-6.19)
の採録についてはできるだけ原文の表記に従うよう
にした。
第 3 冊 城野宏
反3
- 23 -
反1、相楽圭二 反 2、菊地修一
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
第4冊
永富博之 反 4、住岡義一 反 5、大野泰治
反6
第 5 冊 笹 實 反7、神野久吉 反 9
[西山注:以上、「反」は太原、戦犯反革命について
の戦犯裁判 1956.6.12-20 関係を示す]
武部六蔵 1、古海忠之2
第 6 冊 斎藤美夫 3、中井久二 4、三宅英也 5
第 7 冊 横山光彦 6、杉原一策 7、佐古龍祐 8、原弘
志9
第 8 冊 綾部興平 10、今吉均 11、宇津木孟雄 12、
田井久二郎 13、木村光明 14、島村三郎 15
第 9 冊 鹿毛繁太 16、築谷章造 17、吉房虎雄 18、
柏葉勇一 19、藤原廣之進 20(p9-556 頁迄)
第 10 冊 上坪鐵一 21、蜂須賀重雄 22、堀口正雄 23、
野崎茂作 24、溝口嘉夫 25、志村行雄 26、
小林喜一 27、西永彰治 28(10-609 頁迄)
[西山注:以上、沈陽戦犯裁判 1956.7.1-7.20 関係を
示す]
2. 照合と抽出の結果
1)鈴木啓久(新井・藤原の史料と同一、以下「同
1)鈴木啓久
一」などと表記、氏名のみの記載は、特に抽出すべ
き事項のなかったことを示す。以下同じ。
)
2)藤田茂(完結{新井・藤原の史料では欠落部分
2)藤田茂
が含まれていることを示す}:54.8.1{1954 年 8 月 1
日の略記、以下同じ}、初出:補足 56.5.2、作戦要図
2 枚)
3)上坂勝(同一)
3)上坂勝
4)佐佐真之助(欠落
54.8.10、初出:訂正 55.6.8、
4)佐佐真之助
認罪、坦白、補充 54.8.2、54.8.19、54.8.24、56.5.9)
9)富永順太郎(完結:供述書
184 枚)
9)富永順太郎
10)
10)城野宏(1914.8.31
城野宏(1914.8.31 長崎県生、東大法卒)(一部
未掲載、初出:供述書 55.1.20、文献焼却
55.1.20、文献焼却の罪悪に
、文献焼却の罪悪に
ついて 55.1.20、
55.1.20、2 枚)
日帝に服務する中国人医者を養成する目的で桐旭医
学専門学校を設立すること企画者は古賀大尉で、こ
の設立方針を決定後植山より山西省長蘇体仁を「指
導」し杏花嶺に之を成立せしめた。
(p3-1114-115)
主として山西省における残留、終戦後の閻錫山と連
携した残留、日軍兵力温存・日本独立工作
一九四五年十一月太原市西羊市街に於て私は潞安陸
軍病院を主とする六十余名に「日本人の立場」を講
演し湯浅大尉以下十余名の医務人員を「留用」に参
加せしめた。(p3-168)
近田良造、湯浅謙、須藤一、本田等の日本人医者を
集め、太原市上官巷に「共済病院」を設立した。其
の目的は一つには日本人医師の病院があれば日僑は
安心して容易に留用に参加するであろうということ、
二つにはもし武装団体が長つづきしなくても医療机
関ならそれだけの日本人は山西に残れるだろうとい
うことであった。しかし特務団が成立したので後者
の目的は実際的意義を有たなくなり、一九四七年二
月その一部を山西野戦軍の療養所とした。
(p3-170-171)
太原東山戦闘 一九四八年十月一九日ガス弾(赤筒
クシャミ性と推定)を使用(以下の菊池修一、相楽
圭二の記載有)(p3-199-202)牛駝戦闘ではガス弾使
用を画策し(p3-216)
11)
(初出:54.11.22、
11) 相楽圭二(1916.8.11
(1916.8.11 福島県生)
154 枚、相良圭二の残留活動 12 枚)
罪悪事実を統計(p3-500)
一九四〇年十月毒瓦斯使用(あか一二本)一回一件
(p3-503-504)
5)長島勤(同一。初出:補充
56.5.2)
5)長島勤
12) 菊地修一(1915.8.20
菊地修一(1915.8.20 宮城県生)(同一及び初
出:54.12.3
54.12.3、
出:
54.12.3、144 枚、日本投降後の残留活動に就い
て 13 枚)
1941 年 9 月上旬独立混成第三旅団独立歩兵第七大
隊中尉第一中隊配属中の軍医中尉河原信二の申し出
による山西省偏關縣偏關城にて俘虜 1 名の研究のた
めの生体解剖を許可(p.3-721-722)
偏關城にて軍医中尉河原信二の申し出による 16 歳
位の少年 1 名の研究のための生体解剖を「これから
俘虜を捕らえたらどんどん研究解剖したら良いと言
い許可」
(p.3-723)
1942 年 2 月下旬独立混成第三旅団独立歩兵第七大
隊長大佐斉藤次郎から北支那派遣第一軍司令部より
派遣になった細菌組二名を護衛し、神池縣内の敵地
区に細菌鼠(菌の種類は不明です)を放ち其の効果
を調査せよとの命令を受け、夜間行動し二十四時神
池縣舗路村で細菌組をして細菌鼠二匹を放たせまし
た。爾後神池縣公署の顧問日人江所某に情報を集め
させた結果住民少なくとも六名が罹病しましたが死
亡状況は不明です。
(p3-738)1942 年 9 月中旬から 9
月下旬までの間独立混成第三旅団の五臺地区
6)船木健次郎(欠落:56.5.31、初出:54.5.11、
6)船木健次郎
5.13、5.13、6.15、6.29、5.22、5.25、5.2)
7)鵜野晋太郎(
(完結)
7)鵜野晋太郎(1920.1.9
鵜野晋太郎(1920.1.9 広島生)
放毒罪行(p2-219)(
「第 2 冊 p219」の略述、以下
同)
一、一九四三年十月中旬の十日間湖北省武昌南方…
某湖に於いて…第十一軍教育専習員として中国侵略
日本軍司令部瓦斯主任石井中佐の指導する赤筒放射
投射法教育に専習員将校五十名の一員として
(三)放毒罪行(p2-237)一九四三年二月-三月の
間湖北省當陽縣證人 梅崎次郎
(三)放毒罪行(p2-247)
一九四三年一二月中旬湖北省枝江縣
8)榊原英夫(一部欠落:56.12.27、57.2.28、追加:
8)榊原英夫
55.4.1(p27)、認罪書 56.5.16(p11)。
731 部隊林口支部長としての罪行記述(前掲、滝谷
二郎に同文がほぼ全文掲載されている)
- 24-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
北支那派遣第一軍より派遣の細菌組を護衛して細菌
の撒布に協力しました。
1942 年 9 月中旬十一時北支那派遣第一軍より派遣
の細菌組を護衛して五臺縣蘇子坡に細菌を(種類は
不明ですが細菌をうえつけた鼠二匹を放ちました)
撒布せしめ、罹病住民十二名と死亡者三名を出し、
死体は独立歩兵第八大隊の軍医中尉鈴木某に協力し
て部下に焼却させました。又、鈴木軍医は細菌によ
る効果を蒐集してゐます。
(p3-751)
9 月中旬旅団命令で細菌組を護衛し十一時て五臺縣
東長畛と麻子崗に細菌鼠各二匹を放たせ、結果伝染
病に罹患住民六十餘名を発生し、うち三十餘名が死
亡しました。(p3-752-753)
(1944 年)十一月下旬神池縣葛家(穴冠+瓜)
・・・
二十一時軍医大尉河原信二と協謀し、婦女を強
姦・・・(p3-807-808)
一九四五年・・・分淳縣大漢村南方地区・・・7 月
上旬・・・刺殺させました。他住民二名は原平鎮の
兵営大隊医務室で部下軍医大尉吉澤行雄に命じて皮
膚縫合の研究手術を行はしめ、爾後帰村させました。
(p3-814-815)
一九三八年七月下旬から一九四五年九月三日迄の總
括(p3-815)
生体解剖、四件、四名
射殺後死体解剖、一件、一名
赤筒ガス、一件、四十名
ガス使用後射殺と刺突、一件、一名
細菌、二件、三十三名
細菌撒布により罹病せしめたものは三件、住民、四
十八名です。(p3-817)
一九四六年二月・・・軍医二名、
・・・を残留させま
した。(p3-820)
占領し医務室の人員が民家で碗、箸、包丁、麺棒、
麺板、机其他の食器類に細菌を塗りつけまた飲料水
の入った水瓶に細菌を投入しあるいは村内にある井
戸と附近の小川に細菌を投入する行動を援護した。
15) 大野泰治(1920.5.16
大野泰治(1920.5.16、高知生)
1920.5.16、高知生)(完結 99 枚)
(1935 年、哈尓溟市、 拷問後)その中二名は抗日
思想が濃厚だと云う理由おつけて石田が斬殺してそ
の頭お焼いて脳味噌お薬にすると云って哈尓溟に持
って来てその一つを私が食いました。(P4-602)
一九三七年八月頃濱江省阿城縣城内縣公署の司法股
事務室に於て、
・・・日人普入警士がモルヒネの密売
者だと言って連れて来た三十歳前後の朝鮮人の男に
対し、当時私共満州国の警察は朝鮮人お調べる権限
がなく又日本憲兵隊へ投書されることお怕れて誰も
手おつけ様としないので・・・(p-4-622)
又事実が明らかにならんので家族の反対おもかまわ
ず寺に安置してあった娘(毒殺されたという一九歳
になる妾)の屍体お解剖して死因お確かめる一面部
下の教育資料にしました。(P-4-623)
一九四四年三月頃から九月頃までの間、(糸遍に・・・)
包頭市に於て、
・・・管下の農民に阿片お栽培させ、
市価より約四割位安い、政府の指定収買価格お以つ
て、阿片五十萬両お政府の指定収買人に収買させて
掠奪しました。(P-4-672)
大原解放後一九四九年五月末から同年十月頃までの
間、私は少しも医術の経験お持たずに、・・・診断、
治療お行い、その間約二百人の患者から小糸三千斤
位お詐取し、
・・・サルバルサンの注射液お血管から
漏らし各治療五日間くらいの傷害お興え、・・・。
(p6-683)
16) 笹 實(1906.2.2
實(1906.2.2、福岡生
1906.2.2、福岡生)
、福岡生) (欠落、初出:
54.11.30 など、71
など、71 枚)
1947 年 3 月 1 日より 1948 年 2 月末まで太原市立病
院を閻錫山第十総隊の指定医院として、該隊の戦力
を医療を持って援助(p5-100)
13) 永富博之(1916.3.1
(欠落及び初出:
永富博之(1916.3.1 熊本生)
熊本生)
56.4.19、
56.4.19、187 枚、私の山西残留の作用及び責任
56.5.3011 枚)
(1950 年)米国で湯川某が水素爆弾を発明・・・
米国が勝利すると宣伝(p4-275)
更に将来私が特務活動を行って行くために日本人に
対しまた中国人で共産党を嫌っているものと連絡を
取って行こうと私が考え、積極的に働きかけて行っ
た者について片桐仁禮(市立病院内科医学博士)
、遠
迫克美(医師)
、角川久吉(歯科医)
、高木映悦(歯
科医)、水野春江(山西大学医師)
、岩井正雄(工人
病院医師)、湯浅某(医師)
、内田某(陸軍病院 X 光
線)
・・・
17)
17) 神野久吉(完結:54.11.26、
54.11.26、49 枚、補充 54.11.27、
54.11.27、
大同における残留活運動 56.5.29、
56.5.29、4 枚)
18) 武部六蔵(
武部六蔵(完結:58
完結:58 枚)
14) 住岡義一(1917.4.26
(一部欠落、完結:
(1917.4.26 大阪生)
56.5.16、
、55 枚、初出:特務団残留活運動に就いて
56.5.16
56.5.31、
56.5.31、10 枚、供述書の正誤表 1 枚)
(1942 年)山西省太谷縣)2 月下旬大隊本部医務室
曽根軍医大尉以下訳十名がチブス菌とコレラ菌を撒
布するのを援護した。この間私の小隊は中隊と共に
和順縣(楡社縣との縣境付近)龍門村、官池堂、陽
楽庄其他二、三箇村(村名不詳)等に対して要点を
- 25 -
19) 古海忠之(一部欠落、完結:偽満州国に於ける
経済統制に関する罪行、満州国阿片政策に関する罪
行、初出:自筆供述書 56.1.8、
56.1.8、7 枚、56.1.8
枚、56.1.8、
56.1.8、8 枚、
五年計画的罪行、23
五年計画的罪行、23 枚、東北人民財富罪行 23 枚、
大東亜戦争下に於ける満州国の対日本援助の全貌
16 枚、大陸連絡会議に関する罪行 11 枚、司法矯正
総局に関する罪行 6 枚、その他 44 枚)
20) 斎藤美夫(189
(完結:221
斎藤美夫(1890.8.30
1890.8.30 東京生)
完結:221 枚)
一九三八年一月二六日関憲警第五八号をもって石井
細菌化学部隊と関係ある憲兵隊司令部命令を受領し
ました。私は石井部隊が憲兵隊より割愛す人員を其
細菌化学試験に充当するものなることを察知しまし
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
た。私は右命令に基づき処置を取りましたが、当時
如何なる手続きを経て何名の人員を石井部隊に引き
渡したるや等其具体的状況を記憶致しませんためこ
こにその供述をなしえませぬことは誠に申し訳なき
次第であります。細菌化学試験に充つる中国人を憲
兵隊が石井部隊に引き渡したことについては一九三
八年新京憲兵隊附として在職した憲兵少佐橘武夫が
一九四八年ハバロフスク国際裁判法廷にて証人とし
て証言したることにより、之れを確認する次第であ
ります。細菌化学試験に関する前記命令に基づいて、
私は新京憲兵隊長として実行したのに相違なく従っ
て私は石井細菌化学部隊の試験工作に幇助協力して
国際法規に違反し非人道きわまる罪行を犯したこと
につき茲に謹んで認罪する次第であります。
(p6-157)
(二〇)一九三八年一二月(実際は九月、斉藤の記
憶違いか故意?)初旬新京犬猫病院にペスト患者が
発生しました。偽新京防疫委員が編成され部下から
も将校が立つ委員に加はりましたと記憶します。偽
首都警察庁が中心となり防疫警戒を実行しました。
防疫へ名のもとにペスト汚染地区の封鎖、家屋消却、
消毒ペスト源泉地農安の包囲封鎖、農安-新京の交通
遮断、ペスト予防接種などを実行しました。この事
件に対し防疫委員の人民を無視した過度の諸対策は
甚だしく人民を迫害したものでありまして私はこの
業務に携わりました間自己の犯した罪行につき責め
を負う次第であります。
(p6-163)
(七)一九三九年八月八日関憲作命第二二四号を以
て河並より石井細菌化学部隊に引渡すべき中国人九
〇名を哈尓溟及び孫呉に押送すべき関東憲兵隊司令
官命令を下達しました。この命令は関東軍作戦命令
によるものでありまして、私は警務部長として第三
課に命じて命令案を起案せしめ司令官命令として下
達したものであります。命令内容の要旨は左の如く
であります。
『憲兵隊教習隊平野中佐は附属人員憲兵約三〇名及
看護下士官一を指揮し河北より押送し来る中国人九
〇名を山海関に於て河北押送者より受領し之れを孫
呉に押送し中、哈尓溟にて三〇名を残余を孫呉に於
て夫に石井部隊受領人に引渡すべし。
』
(p180-181)
(一九)一九四二年二月下旬『南支派遣軍軍医部』
主動となし私の命令により援助目的を以て憲兵を参
加せしめて広州市内人民中の癩患者を隔離する工作
をしました。・・・・
(p6-205)
[新井・藤原]
21) 中井久二(同一及び初出:補充
中井久二(同一及び初出:補充 4 枚)
22) 三宅英也(完結 113 枚)
(三)一九三八年十月、偽新京にペスト病が発生し
ました。関東軍及僞満政府は、軍及僞満政府防疫関
係者を以て防疫本部を組織し、防疫態勢を整ふると
同時に、関東軍は哈爾濱石井部隊をして直接ペスト
防疫業務を擔任せしめると共に、僞満防疫機関の防
疫業務を指導せしめました。
- 26-
一九三八年十一月初旬に開かれた防疫本部の會議に
於て(私は本會議に僞警務科長菅太郎の代理として
出席いたしました)、石井部隊石井四郎軍醫中将の意
見に依り、僞新京のペスト防疫の完避を期するため
僞農安縣城をペスト病源地として僞警察力を以て包
圍し、外部との交通を完全に遮断することを決定致
しました。
僞警務司は即時本案を實施することに決し、僞吉林
省警務廳長に此旨下命すると共に、僞奉天省より「應
援警察官」を派遣することを決定致しました。私は
僞警務科長菅太郎の命令に依り、僞農安縣城交通遮
断部隊として、僞奉天省より田中「警正」以下僞警
察官約二百名を僞農安縣城に派遣し僞吉林省警務廳
長の指揮下に入らしめました。
石井部隊は僞農安縣城に対しても同部隊所属軍醫を
派遣して、同縣城のペスト防疫を實施せしめました。
関東軍が石井部隊をしてペスト防疫業務を直接擔當
せしめたる主なる目的は、僞新京にペストの發生せ
るを好機とし、他日の細菌戰に備へ、石井部隊をし
てペスト病菌に対する種々なる研究及實験をなさし
めんとするに在りました。石井部隊は僞農安縣城に
於ても、僞警察の包圍下に於て、人民をペスト病菌
に対する研究と實験の用に供して居ります。
同月、私は又僞警務司長植田貢太郎の命令に依り僞
農安縣城に至り、僞縣城を包圍し、交通を遮断しつヽ
ある僞警察部隊の状況を視察し、之を激勵致しまし
た。私が交通遮断部隊を視察した當日の僞農安縣城
は、只頭の尖端から足の爪先に至る迄白衣で被はれ、
目ばかり出した防疫員のみが眼を射る以外は行人も
稀であり、全く憂鬱なる死の街の如き状況でありま
した。交通遮断の期間は明確に記憶致しませんが越
年はしなかつたと思ひます。包圍交通遮断期間中に
於て、僞農安縣城に於て幾何の人民が死亡したか、
僞縣城内の状況が如何なるものであつたかに就いて
は具体的に記憶致して居りませんが、僞警察武力に
依る交通遮断の強行は人民に対し極めて大なる精神
的壓迫感を興ふると共に、其生活をも壓迫し、経済
上にも大なる損失を及ぼし且檢問等の場合、人民の
身体に対しても直接の被害を興へて居ります。
責 任 関 東 軍 の細 菌 準備 工 作 に 協 力 せ る責 任
(p6-509-511)
禁煙促進委任会幹事(p6-520)
(三〇)兼任偽禁煙促進委員会幹事(p6-536)
帝國主義日本の僞満に於ける阿片政策は表面上は禁
煙政策を高調して居りましたが、其眞の目的は寧ち
之を奨勵し、一面に於て多額の「國家収入」(一九三
五年私が僞熱河省公署在任當時の記憶に依れば年額
約四千萬圓であつたと思ひます)の來源たらしめる
と共に、他面に於て多数人民を毒害せんとするに在
りました。阿片の栽培及販賣は法律を以て保護し、
其密作及密賣は嚴に之を「取締つて」居りました。阿
片の密作及密賣の「取締り」に関しては僞専賣署は
「阿片揖私員」を設けて專ら其任に當らしめましたが、
僞警察も亦其「取締り」に任じました。僞専賣署は其
「取締り」の効果を大ならしめる爲め「査獲私土奨勵
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
り 1941 年 8 月迄の勤務中(p9-068)
(2)1940 年 6 月頃哈尓溟道裡醤憲兵分隊から取調
終了の露西亜人を引き渡せとの電話指示がありまし
たので、捜査隊露西亜人係主任大藪武雄に命じ露西
亜人 2 人身柄受領に来た憲兵 2 人に引渡しました。
右 2 人は石井部隊に引き渡されたとの事です、石井
部隊の特殊性、犯罪性は、当時少しも認識しては居
りませぬでした。日本敗戦後ソ聯で抑留されて居る
間に石井部隊の本質を察知した次第であります。然
し不知とは言え私の引渡し行為が非人道的結果を引
起こしたものである事を認識し後悔致して居ります。
(p9-071)
法」を設け、密賣阿片、隠匿阿片の發見者に対しては
多額の奨勵金を交付致しました。従て僞警察官も亦
阿片の「取締り」には特に熱意を示し、一般僞警察務
との関係上弊害を生ずるに至りましたので、僞警務
司に於ては「査獲私土奨勵金」は其全部を受領者本人
の収入となさしめず、其一部を本人所属の僞警察機
関の福祉の爲めに強制的に寄附せしめる、状況であ
りました。僞満阿片政策の眞目的が前記の如くであ
りましたので「禁煙促進委員會」も阿片断禁十年計劃
を表榜して居りましたが、私の幹事在任中に於きま
しても、各僞縣に阿片癮者の療養所を設置し僞警察
力を以て強制的に一部癮者を収容し、「東光剤」等を
用ゐて治療に従事した以外、禁煙に関し何等見るべ
き活動を致して居りません。要するに「禁煙促進委員
會」と称するも、帝國主義日本の僞満に於ける阿片政
策の眞の目的を人民の前に隠蔽し、僞満せんとする
陰謀以外の何者でもありません。
責
任
帝國主義日本の僞満に於
ける阿片に関する陰謀に協力せる責任
(一四)私は偽北安省警務庁在任中偽満に於
ける帝国主義日本の阿片政策を支援する目的を以
て、
・・・
責任 命令及監督責任・・・(p6-557)
34) 築谷章造(1894.4.13
(同一及び初出:
(1894.4.13、
1894.4.13、鳥取生)
54.11.11、
、96 枚、補充 56.6.1、
54.11.11
56.6.1、1 枚)
(p9p9-083)
083)
黒死病等に基因する部民監禁の件
一九四一年阿尓科魯泌旗東部地区に、また一九四二
年一月開魯縣東部地区部落に黒死病が発生しました
ので省防疫班は直ちに現地に到り罹病者の手当を行
う一方同家屋を焼却し警察を動員し同部落民の外出
を禁止し交通を遮断し約一ヶ月間監禁生活を為さし
めました。
(p9-259)
23) 横山光彦(同一及び初出 81 枚)
24) 杉原一策(同一及び初出 54 枚)
25) 佐古龍祐(欠落、初出 56 枚)
26) 原弘志(同一、初出 81 枚)
27) 綾部興平(新井・藤原では岐部興平と記されて
いる。完結:供述書 41 枚)
28) 今吉均(完結 35 枚)
29) 宇津木孟雄(欠落:56.6.1
宇津木孟雄(欠落:56.6.1、初出:総括書
56.6.1、初出:総括書
54.9.5{p62})
30) 田井久二郎(
田井久二郎(欠落:供述書 56.6.23、初出:坦白
56.6.23、初出:坦白
書 54.7.18、
54.7.18、55 枚)
31) 木村光明(
木村光明(同一及び初出:坦白書 54.6.27{p5}、
54.6.27{p5}、
54.6.16{p3}、
54.6.16{p3}、54.6.17{p7}、
54.6.17{p7}、54.6.25 {p6}、
{p6}、
54.6.18{p5}、
54.6.18{p5}、54.6.22{p4}、
54.6.22{p4}、54.6.18{p3}
54.6.18{p3}、
.6.18{p3}、
54.6.19{p1}、補充
54.6.19{p1}、補充 56.6.20{p1}、申請書
56.6.20{p1}、申請書
56.6.13{p1})
56.6.13{p1})
32) 島村三郎(欠落および初出:総括書 54.7.26、
54.7.26、
p98、逮捕者一覧
p98、逮捕者一覧 54.12.8、
54.12.8、p3)
35) 吉房虎雄(1897.7.26
(同一及び初出:
(1897.7.26、
1897.7.26、長崎生)
54.8.5(p4454.8.5(p44-91)、
91)、8.21(8.21(-p98)
(p9p9-273)
273)
八、抗日愛国者多数を細菌戦の試験材料として虐殺
す
私は一九四一年九月より一九四二年三月の間に各憲
兵隊長より申請して来た抗日愛国者約九〇人、
(一九
四二年一年間一四五名の実例より推定す)を石井部
隊(七三一部隊)に送致し同部隊をして細菌戦試験
材料として極めて残虐なる堵殺を行はしめました。
又同隊が菌養成のため使用する鼠採取に対して哈尓
溟憲兵隊を協力せしめました。
(p9-331)
西山注:憲兵中佐、関東憲兵隊司令部部員(第三
課長)(一九四一年九月より一二九四二年三月)
5、抗日愛国者を細菌試験材料として虐殺
私は副官として勤務中この罪悪行為のための隊長よ
りの申請書類及び司令官のこれに対する認可の書類
全部を受領し、送達し、分配することを行い、これ
によって虐殺された愛国者は少なくとも三〇〇であ
ります。
又細菌部隊に勤務する憲兵一を哈尓溟憲兵隊より配
属する命令を起案下達しました。(p9-341)
36) 柏葉勇一(同一及び初出:坦白書
柏葉勇一(同一及び初出:坦白書 54.7.8、
54.7.8、57
枚、訂正 8.1、
8.1、1 枚、履歴書 56.5.4、
56.5.4、4 枚、学歴訂
正 56.6.28、
56.6.28、1 枚)
37) 藤原廣之進(1897.5.1
(p9(欠
藤原廣之進(1897.5.1、愛媛生)
1897.5.1、愛媛生)
p9-511)
511)
落及び初出:供述書
落及び初出:供述書 54.7.20{p2254.7.20{p22-43}、追加供述書
43}、追加供述書
7.20 の訂正 54.8.2、
54.8.2、1 枚)
2.一九四四年三月中旬、日不詳私は抗日地下工作
員椎某という平和愛国人民を哈尓溟石井部隊に送致
33) 鹿毛繁太(1899.5.8
鹿毛繁太( 1899.5.8、福岡生)
1899.5.8 、福岡生)(完結:総結書
(完結: 総結書
54.11.20、
、44 枚)
54.11.20
(9-001)
哈尓溟市警察局警正司法課長として、1940 年 5 月よ
- 27 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
しました。本件は同年二月下旬、日不詳新京憲兵分
隊の特高特務憲兵某が新京特別市興安大路陸軍病院
付近で挙動不審の中国人を一人捕らえて特高主任憲
兵少尉濱端源三郎が取調べの結果抗日聯軍地下工作
員椎某であるということがわかった為私は濱端をし
て椎某を哈尓溟石井部隊に送致することを新京憲兵
隊本部に申請致しました。その後隊長の認可を得て
部下をして哈尓溟石井部隊へ護送せしめたのであり
ますこの天人倶に宥さざる非人道的野蛮極まる行為
に対しまして、私は自己を憎みますと共に眞に申譯
無い相済まぬことをしたと深刻に反省致して居るも
のであります。(p9-554)
[西山注:新京憲兵隊新京憲兵分隊長(一九四三年一
二月一日より、収容まで?]
c.一九四五年五月頃誖利分隊にて口民党工作員
男一を検舉し取調べの上之が関係者一と共に二
名を前記同様の手続を圣て、石井部隊に特移送
せしめたり、本件取調中、四平及哈爾浜に関係
者ある旨供述せるを以て調査せるも事実無根な
り、
d.以上の外東安憲兵隊本部附戰務課長にて私の部
下たる長嶋大尉の私の犯罪として検舉せる石井
部隊に特移送せる「ソ」諜十五名に関しては長
嶋大尉が確実に取り扱ひたる事件として記憶し
ある以上私の犯罪と認識しあるも、種々熟考せ
るも具体的記憶なし、只四五年五-六月頃東安
分隊にて「ソ」諜容疑者を逮捕し関係者新京に
在りとて下士官を派遣調査せしめたるも発見す
るに到らざる事件ありて之が結果を記憶し非ら
ざるを以つて或は本件が其一に該当するに非ず
やと思考しあり、斯る重大事件を忘却せしこと
に関し衷心より申し訳なく謝罪します、
e.一九四五年六月頃僞東安警務庁にて取調中の
「ソ」諜容疑者の移牒を受け、取り調べ並に指
導を加へたるに特機工作員に適当と認め、之を
東安特機に移牒せしめたり、
f.一九四五年一月頃虎頭分遺隊にて軍自給農場に
雇傭中の中口人労仂者一が皈郷の折、友人に対
し軍状を話したる事件を検舉し、取り調べの上
事件送致せり、
g.以上私の雞寧東安隊長として検舉せる中口人
は何れも愛口抗日の積極的先進分子にして私は
彼等の大部分を石井部隊に特移送し、最も非人
道的な細菌研究の実験に供したるものにて私の
中口人民に対する犯罪の最も嚴重なるものと認
罪します、
一、勃利、雞寧、平陽地区に於ける抗日地下工作
人員檢舉に関する犯罪
1.私は一九四四年十一月頃勃利附近に於いて工作
中の抗日地下工作員(共産党)×××を勃利分
隊長木村光明少佐に命じて檢舉、嚴重なる拷問
を以って、訊問せしめ本人の供述に基き関係者、
桑元慶(平陽)外約九十名を勃利、雞寧、平陽
地区に於いて檢舉せしめました。全員に対し嚴
重なる拷問を以って取り調べしめ処分に就いて
は明確に記憶して居りませんが四五年四月頃
(期日は確実ならず)其内十名(氏名は記憶せ
ず)は特移扱として哈爾浜特務機関を経て石井
部隊に特移送せしめ残り約八十名は釈放せしめ
ました。釈放者の内二名は取調中の残酷なる拷
問に基因し釈放後間もなく死亡しました。之は
私が部下憲兵に命じて拷問に依り殺害せしめた
るものと認罪します、
本件は既報の勃利に於ける無電抗日地下工作人
員檢舉より發展せる事件と確信します。
2.私は一九四四年八月より四五年二月に亘る間、
雞寧、平陽、東安地区に於いて部下分隊長に命
じ抗日地下工作人員九名(氏名は記憶せず)を
檢舉せしめ嚴重なる拷問を以って取調の上内八
名は特移扱として哈爾浜特務機関を経て石井部
38) 上坪鐵一(1902.5.1
(p31
上坪鐵一(1902.5.1、鹿児島生)
1902.5.1、鹿児島生)
(p31 以降完結
以降完結
及び初出:54.7.29
及び初出:54.7.29 分 p31 以降全揃、7.30
以降全揃、7.30、
7.30、8.14 各
1)
(p10-001)
h.雞寧分隊にて以前に検舉せる「ソ」諜中口人男
一を、他諜者索出に逆田中なりしが本人の報告
を逐一調査せるに全部虚偽なること判明せるを
以って本人を特移扱として憲兵隊司令官に申請
し司令官の認可及移送命令に依り哈爾浜憲兵隊
に移送せしめ該隊より石井部隊に特移送せり、
○特移扱は「防諜(思想)上の重大犯人にして将
来逆用の見込なき者は特移扱として憲兵隊司令
官に申請し司令官の認可及移送命令に依り哈爾
浜憲兵隊に送致す」と示達せられあり、哈爾浜
憲兵隊にては之を石井部隊に送致し、石井部隊
にては細菌研究の実験に供するものなりと哈爾
浜憲兵隊戰務課長より察知せり。
○中口人の検舉に就いて、
a.一九四五年二月頃以前より平陽分隊にて工作中
の「ソ」諜並に道徳会の名目の下に反満抗日を
策動しありたタ事件の一味、十数名を検舉せし
め、暴虚なる拷問に依る取調べの上、4月初め
「ソ」諜女一、関係者男五、道徳会主諜者二名
を特移扱として憲兵隊司令官に申請し、其認可
指令を受け、哈爾浜憲兵隊を圣て石井部隊に特
移送せしめたり、本検舉の為雞寧分隊より約一
〇名、本部より化検下士官を應援せしめ、私も
分隊長に対し、又現場に到り、指導すると共に
雞寧分隊の留置場を使用せしめたり、
b.一九四五年四月頃誖利分隊にて「ソ」諜無電諜
者男一を検舉し取調の上之が共犯者一と共に二
名を同年五月頃上記同様の手続を圣て石井部隊
に特移送せしめたり、
本件の取調べに依り平陽附近に容疑者潜伏しあ
る情報を得て二ヶ所の検索を実施せしめたるも
容疑者は発見するに到らず、破棄せる無電機材
の部分品のみを押収せり、
本件取調べの為、新京八六部隊(無電監査隊)
より技術者の應援を求め、機材は該部隊に引き
渡せリ、又東安特機に参考事項を連絡せしめた
り、
- 28-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
隊に特移送せしめ残余の一名は分隊長に逆用せ
しめました。
一、私が雞寧、東安憲兵隊長として部下憲兵に命
じて抗日地下工作人員を檢舉の上拷問を以って
嚴重なる取調を実施せしめたる者は既報せる者
一五〇名以上、内特移扱として哈爾浜石井部隊
に特移送せる者四四名拷問致死二名であります
が私の記憶の程度より考へまして未だ報告し得
ざる者相当多数ある事は確実であります。
39) 蜂須賀重雄(欠落及び初出:54.12.18
蜂須賀重雄(欠落及び初出:54.12.18、
54.12.18、30 枚)
40) 堀口正雄(1901.1.9
(同一及び完結:
堀口正雄(1901.1.9、東京生)
1901.1.9、東京生)
総結書 54.6.5、
54.6.5、p38 以降)
以降)
(p10p10-131)
131)
(3.ト4ノ處置及結果.)
右八名中、四名は軍機保護法・僞満洲國治安維持法
ヲ適用シ、僞満洲國牡丹江地方檢察廳ニ事件送致。
何レモ五年ー十年の有期徒刑ノ判決ガアツタト思
イマス。
一名ハ現地ノ日本軍陸軍特務機関ノ要望ニ依リ利
用ノ爲交付、三名ハ哈爾賓第七三一部隊ニ特委處
分トシテ送致。
六、愛國者ノ處置
○雞寧陸軍特務機関(長中佐 遠藤某)ニ於テ利
用
約 20 名
○牡丹江省或ハ東安省(愛國者ノ住所等ニヨリ此
ニ應ズル如ク)ノ僞満洲
國地方檢察廳ニ送致
約 25 名
○在牡丹江僞満洲國第六軍法會審ニ送致
約
10 名
○憲兵隊ニ於テ懐柔ニ努メタルモノヲ連絡者トシ
テ利用
約5名
○憲兵司令官ノ認可指令ヲ得テ哈爾賓第七三一部
隊ニ送ル
約 20 名
陸軍士官学校、憲兵隊
済南、京城、台湾、天津、北京、ハイラル(発疹チ
フス罹病)
など
14.一九四四年十二月二十日頃在哈爾賓石井部隊
ヨリ松本(記憶確實ナラズ)軍醫中佐来隊シ本
酷寒期ニ凍傷研究ヲ行フ為次ノ如ク関東憲兵隊
司令部ト連絡濟ニ就キ然ルベク便宜供興セラレ
度トノ申出アリタリ
イ、右軍醫中佐ニ於テ必要ノ都度海拉爾憲兵隊本
部ニ連絡スルニ付同隊本部ハ電報ヲ以テ其旨憲
兵隊司令部ニ傳達スルコト
ロ、隊司令部ハ之ニ依リ特異扱該當者アル憲兵隊
ニ海拉爾駅迄ノ護送ヲ下命ス
ハ、下命憲兵隊ヨリ海拉爾憲兵隊ニ右該當者ノ海
拉爾駅到着
16.一九四五年 3 月頃拉爾憲兵分隊に於いて延安
より派遣せられた共産党員一名ヲ檢舉シテ特異
扱トセリ
17.一九四五年三月頃免渡河憲兵分遣隊ニ於テ朝
鮮人兵士ノ逃亡シタルモノ二件二名ヲ檢舉シ軍
法會議ニ事件送致セリ
18. 一九四五年三月頃海拉爾憲兵分隊ニ於テ朝鮮
人兵士ノ逃亡シタルモノ二件二名ヲ檢舉シ軍法
會議ニ事件送致セリ
19.一九四五年四月頃三河憲兵分遣隊ニ於テ共産
党関係者三名を檢舉シ特異扱トセリ
20.一九四五年 7 月始満洲里憲兵分隊ニ於テ満洲
里駐在蘇聯領事舘ノ密偵タリシ中國人一名ガ右
領事館員ノ命ニ依リ同地駐屯日本軍部隊ニ謀畧
放火シタ事件ヲ檢舉シ特異扱トセリ
21.一九四五年七月十日満洲里憲兵分隊ニ於テ蘇
聯謀者タル中國人王丁彩ノ潜入シアリタルヲ逮
捕シ特務機関ニ身柄ヲ移管セリ
44) 小林喜一(1895.9.22
(欠落:認罪書
小林喜一(1895.9.22、埼玉生)
1895.9.22、埼玉生)
56.06.10、初出:供述
56.06.10、初出:供述書
、初出:供述書 54.6.10{
54.6.10{p26p26-53}
53})
(p10p10-505)
505)
一九三六年九月上旬頃(日は記憶して居りません)
右の中國人民中三名を小田曹長渡辺軍曹矢口伍
長に命じて午後六時頃赤峰北方一粁の阿原で軍
刀を以って殺害させました偽満盗匪叛徒法に従
って実行したのであります
一名の三十才位の男は前から満鉄赤峰病院洲崎院
長から病死者でなく事故で死亡した若いものを
解剖して見たいから匪賊を憲兵隊で嚴重処分す
ることがあったら一名貰いたいとの交渉があっ
たので一度は断りましたが劇薬注射で瞬時に殺
害出来るからといふので承諾し前の三名を殺害
した日の午後五時頃洲崎院長に連絡したら分隊
に来たので凶賊と称した中國人民は淋病があっ
たので治療と称して注射するからと洲崎院長は
申したので小田曹長渡辺軍曹をして自動車で病
院に送りました。洲崎院長は一名のは日本人医
師(名は記憶して居りません)と二名で劇薬注
射で殺害解剖試験の上死体は病院構内に埋めた
一、嚴重處分、特委處分(哈爾賓第七三一部隊送
リ)何トイフ非人道的ナ、野蠻ナヤリ方デセウ。
一片デモ良心ノアル人間ノヤリ得ベキコトデハ
アリマセン。ソレハ私ガ日本ノ當然滅ビル宿命
ヲ持ツタ武力ヲ背景トシテ、中國人ニナラ無理
ヲヤツテモイヽ、又ヤレルノダトイフ誤レルモ
甚シイ日本人ノ「優越感」ト中國人に對スル蔑
視感カラ来タノデソレハトリモナホサズ日本帝
國主義ノ産物デス。アヤマツタトコロデ、アヤ
マリキレルモノデハアリマセン只私ハ平身低頭
處置ヲ待ツノミデス。
41) 野崎茂作(同一)
42) 溝口嘉夫(一部欠落、
初出:経歴 54.8.8{15 枚}、
補充 56.6.14{
56.6.14{3 枚}、54.8.17
、54.8.17、
54.8.17、54.8.20)
43) 志村行雄(1902.12.16
志村行雄(1902.12.16、兵庫生)
1902.12.16、兵庫生)(一部補充:
供述書)
(p10p10-467)
467)
- 29 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
第 4 次訪中調査では、同コピーを手にすることがで
きるだろう。それらを踏まえて、さらに検討を深め
たい。
著者プロフィール
1971 年関西医科大学衛生学講座助手、1977 年滋賀
医科大学予防医学講座助手、1986 年同助教授、1996
年同教授で現在に至る。
。この間スイス連邦立工科大
学衛生学労働生理学研究所(1981 年)、School of
Hygiene and Public Health, Johns Hopkins
University(1993 年)に留学。
専門:社会医学、労働衛生学、人間工学。
所属学会:American Public Health Association、
American Conference of Governmental Industrial
Hygienists 、 International Commission on
Occupational Health など。
2000 年 15 年戦争と日本の医学医療研究会創立時
より会誌編集委員長。
と後で申しました
一九四三年十一月下旬(日は記憶して居りませ
ん)より一九四五年四月十四日迄奉天憲兵隊本
部戰務課長として勤務いたしました
一、一九四四年一月(日は記憶して居りません)前
任者時代検舉し利用中のソ聯無電諜者金安東は利用
工作の価値が無いので隊長に報告の上司令部に報告
し司令官の命令で特移扱として哈爾賓石井部隊に送
り細菌試験に供しました。金安東と共に検舉利用し
てゐた王(名は記憶して居りません)は尚留置し×
××は諜者索出の為利用工作してゐました。
45) 西 永 彰 治 ( 同 一 及 び 初 出 : 54.7.27 、 補 充
56.6-2356.6
23-24、
24、3 枚)
おわりに
第 4 次訪中調査の直前になって、中国より、関係
資料のコピーの許可が出たという知らせが入った。
- 30-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
第3次訪中調査録
15 年戦争と日本の医学医療研究会「戦争と医学」第3次訪中調査団
Report of the third visit to China
The third Reserach Group visiting to China
China
from the Society of 15-years War and Japanese Medical Science and Service
20:00
団員:莇
昭三、西山勝夫、刈田啓史郎、岡田麗江、
団員:
井上英夫、中川[末永]恵子、土屋貴志
ホテル帰着。
石井四郎 731 部隊長邸宅跡
2005 年 3 月 4 日(土)
8:00 関西空港集合。
10:00 全日空 NH159 便にて関西空港発。
12:20 北京空港着。入国手続き。
16:00 中国南方航空 CZ6204 便にて北京空港発。
17:40 ハルビン空港着。
遼寧省人民対外友好協会の康健理事、黒龍江省中国
国際旅行社の史黎峰氏が出迎え。空港よりマイクロ
バスでハルビン市内へ。夕食後、ホテル(松花江凱
菜商務酒店)に到着。
20:00 頃 黒龍江省人民政府外事辧公室日本処の丹
碩処長と打合せ。
21:00 ミーティング(~21:30)
3 月 5 日(日)
8:30 ホテル出発、マイクロバスにて平房区の 731
部隊遺址へ。
9:30 731 部隊遺址に到着。罪証陳列館見学。
11:30 731 部隊罪証陳列館の王鵬館長と会談。
13:30 マイクロバスでハルビン市内へ。昼食。
15:00 黒龍江省社会科学院を訪問。辛培林元教授、
高暁燕研究員、外事辧公室の丹碩処長と再会、会談。
17:30 マイクロバスで移動、辛教授、高研究員、丹
碩処長と夕食。
19:45 マイクロバスでホテルへ。
20:00 ホテル帰着。
20:15 ミーティング(~20:40)
3 月 7 日(火)
(7:30 井上のみホテル出発、ハルビン空港へ。中国
南方航空 CZ6217 便にて 9:20 ハルビン空港発、10:50
北京空港着、全日空 NH160 便にて 13:20 北京空港発、
16:55 関西空港着で帰国)
9:00 ホテルチェックアウト、マイクロバスで黒龍
江省図書館へ。途中、辛培林元教授宅近くで辛元教
授に資料を返却。
9:30 図書館到着。地方文献閲覧室で戦前戦中の日
本語文献を検索、閲覧、コピー。
13:00 閲覧終了、マイクロバスで昼食へ。
黒龍江省図書館調査後館員と共に
3 月 6 日(月)
8:45 ホテルへ辛培林元教授が辛教授所蔵の 731 部
隊資料を持参。
9:00 西山、刈田、末永、康健理事が近所のコピー
センターで資料をコピー。莇、岡田、井上、土屋は
ホテルで待機。
11:00 マイクロバスでホテル出発、昼食。
12:10 マイクロバスで 731 遺址へ。
13:00 陳列館の馬天龍氏の案内で、遺址の外部施設
(北崗焼却炉、兵器班跡、凍傷実験室、地下小動物飼
育室、黄鼠飼育室、結核実験室、瓦斯発生室を見学。
15:30 マイクロバスでハルビン市内へ。731 部隊出
張所跡地、石井四郎旧宅を見学。
17:30 夕食。
19:00 マイクロバスで中央大街へ。バスを下車し散
策。
- 31 -
14:00
15:50
マイクロバスで空港へ。
中国南方航空 CZ6762 にてハルビン空港発。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
16:50 瀋陽空港着。遼寧省人民対外友好協会辧公室
の王紅野主任、遼寧省中国旅行社の馮軍英氏、斉迎
新氏が出迎え。空港より自動車およびマイクロバス
でホテル(遼寧賓館)へ。
17:50 ホテル着
18:30 マイクロバスで夕食へ。
20:00 ホテル帰着。
3 月 9 日(木)
8:30 康健理事、馮軍英氏がホテルへ出迎え。マイ
クロバスで遼寧省档案館へ。南哲部長が合流。史料
調査およびコピー開始。
遼寧省档案館にて史料調査
3 月 8 日(水)
8:30 康健理事、馮軍英氏がホテルへ出迎え。マイ
クロバスで中国医科大学へ。中国医科大学外事処の
潘伯臣氏の案内で、会議室にて史料調査。
中国医大会議室にて解剖標本の検索などの史料調査
12:00 馮軍英氏の案内でマイクロバスにて昼食へ。
13:30 マイクロバスで中国医科大学へ戻る。調査継
続。岡田、末永、土屋は、潘伯臣氏の案内で中国医
科大学第一医院を見学。
15:00 調査終了。マイクロバスにてホテルへ。康健
理事を乗せ、彼の案内で連合軍捕虜収容所跡へ。
瀋陽の連合軍捕虜収容所跡
11:40 一旦調査を中断し、昼食へ。南哲部長は帰る。
13:00 档案館へ戻り、調査再開。
16:30 調査終了。マイクロバスでホテルへ戻る。
17:00 遼寧省社会科学院歴史研究所の王建学教授
がホテルへ来る。カフェテリアで会談。
18:15 会談終了。康健理事、馮軍英氏は帰る。
18:50 徒歩で夕食へ。
20:40 ホテル帰着。
20:50 ミーティング。
3 月 10 日(金)
6:30 ホテルをチェックアウト、康健理事、馮軍英
氏がホテルへ出迎え。マイクロバスで瀋陽空港へ。
8:00 中国南方航空 CZ6101 便にて瀋陽空港発。
9:10 北京空港着。中国人民対外友好協会の黄嵐庭
元理事、通訳の張暁新氏が出迎え。マイクロバスで
ホテル(首都大酒店)へ
10:30 ホテルに到着。チェックイン。
11:30 昼食。
12:30 昼食を終え、マイクロバスで中華医学会へ。
13:30 中華医学会の呉明江副会長、馬専務理事と会
談。
中国医学会呉明江副会長、馬専務理事と共に
16:50 ホテル帰着。
17:20 マイクロバスでホテル出発。遼寧省人民対外
友好協会主催の晩餐会へ。
17:40 遼寧友誼賓館(遼寧省迎賓館)に到着。遼寧
省人民対外友好協会の王永貴常務副会長、遼寧省人
民政府外事辧公室対外連絡部の南哲部長、対外友好
協会辧公室の王紅野主任・康健理事と晩餐。
20:00 マイクロバスでホテル帰着。
- 32-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
10:15 黄嵐庭元理事の案内で莇、刈田、岡田、末永
は徒歩で人民法律出版社書店へ。
10:30 ホテルをチェックアウト。黄嵐庭元理事、張
暁新氏と、マイクロバスで北京空港へ。
13:20 全日空 NH160 便にて北京空港発。
16:55 関西空港着。ロビーでミーティング。
18:00 解散。
15:20 会談終了、マイクロバスで夕食場所へ。
17:15 夕食。
18:30 夕食を終え、マイクロバスでホテルへ。
20:10 ホテルで中国国際広播電視台日語部の謝宏
宇副主任の取材を受ける。
21:20 取材終了。
3 月 11 日(土)
8:30 黄嵐庭元理事、張暁新氏が出迎え。マイクロ
バスで中国人民対外友好協会へ。
9:00 協和医科大学生命倫理学中心の邱仁宗教授、
翟暁梅教授と会談。
11:45 会談終了。マイクロバスで昼食へ。
14:00 昼食を終えて対外友好協会に戻り、社会科学
院近代史研究所の歩平所長、
「抗日戦争研究」編集長
栄維木氏、中央档案館の劉美玲氏と会談。
侵華日軍 731 部隊遺址罪証陳列館 王鵬館長
2006 年3月5日(日)11:30~13:09
罪証陳列館2階会議室
会見
王鵬館長あいさつ
莇団長あいさつ
団員自己紹介
質疑応答
中国人民対外友好協会にて会談
17:00 会談終了。歩所長、栄氏、劉氏、黄嵐庭元理
事、張暁新氏らと徒歩で王府井へ。
18:00 歩所長、栄氏、劉氏、黄嵐庭元理事と共に会
食。
20:00 会食終了。王府井散策して対外友好協会へ。
20:30 マイクロバスでホテルへ戻る。
3 月 12 日(日)
8:30 黄嵐庭元理事、張暁新氏が出迎え。マイクロ
バスで中国国家図書館へ。
9:00 中国国家図書館到着。入館カード作成手続き。
9:45 入館。731 関連文献、中国最高人民法院特別
軍事法廷関連文献、戦前戦中の日本語資料等の調査。
12:00 昼食。
16:00 調査終了。マイクロバスでホテルへ。
18:00 中国国際広播電視台日語部の謝宏宇副主任、
黄嵐庭元理事、張暁新氏と会食。
21:00 会食終了。徒歩でホテルへ戻る。
22:15 ミーティング(~24:00)
3 月 13 日(月)
9:00 張暁新氏が出迎え。刈田、岡田、末永は徒歩
で北海公園へ。
- 33 -
西山:展示してある資料は一部だと思うが、元の資
料はここに収蔵されているか?
王:ある。
西山:それを見られるか?
王:原本は黒龍江省档案館、吉林省档案館、第一・
第二中央档案館などに行っている。ここにあるのは
写真だけ。
西山:それらがそれぞれどこにあるか一覧表はある
か?
王:新しい本の写真と資料、たとえば「少年隊略史」
は森村誠一の『続・悪魔の飽食』から取ったと出典
を記載している。
莇:陳列室にパネルがある『留守名簿』の原本はど
こに?
王:森村誠一のところにあるかもしれない。写真は
森村氏からもらったもの。
莇:松井大将の命令書(関東軍憲兵隊)の原本は?
王:関東軍の命令の原本はロシアにある。ハバロフ
スク裁判の資料。公判記録に写真がある。
西山:本に載っていない分の出典一覧は?
王:それはない。
西山:載っていない資料でどこにあるか確認してい
くしかない?
王:そう。これまでそういう問題に気づいていなか
ったので、これから整備する。ハバロフスク裁判資
料の原本を調べようとした人は、たとえば森正孝、
近藤昭二などがいる。
莇:特移扱についての本の資料の原本は黒龍江省档
案館に行けば見られるか?
王:できると思う。自分は档案館に行ったことはな
いが、行けば見せられると思う。
莇:今回は移設中で見られないが、次回来る時は館
長から紹介してもらえるか?
王:できる。吉林省档案館にもある。
西山:それらの档案館にどんな資料があるかは把握
していない?
王:吉林省档案館で特移扱以外の史料もある。関東
軍が検閲して没収したものを所蔵している。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
西山:上田弥太郎の供述書も原本は北京へ行かない
と見られない?
王:たぶんそうだと思う。陳列館のものはコピー。
西山:展示している以外のページのコピーはもって
いるか?
王:この陳列館の資料室を管理する人はいまおらず、
資料がない。将来は陳列館を拡大する計画がある。
コピーするには、上の許可が必要。北京へ行った方
がいいと思う。陳列館に所蔵している資料も 10-20
年前にコピーしたもので、品質があまりよくない。
コピーできなかったら、陳列拡大に向けてもう一部
コピーして、手伝うことができる。ほしい資料の一
覧表を知らせてほしい。
西山:今回申請しているが、北京の中央档案館に入
れるかどうかわからない。
王:われわれも展示拡大のために北京へ行ってコピ
ーするだろう。一覧表を送ってくれればもう一部コ
ピーしてあげる。
刈田:凍傷実験用水槽というのは 2000 年に収蔵した
とあるが、凍傷実験に使われたと判断した根拠と、
手に入れた経緯は?
王:付近の住民から募集した。住民が凍傷実験室で
発見し、自分の家に持って帰って使っていた。元部
隊員が、凍傷を溶かすのに使ったと証言した。
西山:たまたま部隊員がその住民のところでみつけ
たのか?
王:靖福和さんが贈った。彼が使っていた。731 部
隊が敗走した後、たくさんのものが残されたので、
住民がそれらを家に持ち帰って使った。陳列物はほ
とんど付近の住民から募集したもの。
土屋:内臓をつるした鈎というのも付近の住民から
寄贈された?
王:そう。
土屋:用途も元部隊員の証言があるのか?
王:たとえばコップなら用途はすぐわかるが、用途
がわからないものが多い。そういうものは、故韓暁
前館長が日本に行った時、写真を元部隊員に見せて
用途を聞いて、証言を集めた。森村誠一氏、近藤昭
二氏などの協力も得て、元部隊員の証言から用途を
特定した。本の中の写真を、当時の出版物の写真と
対応させて、特定していった。
末永:ハルビンでは、当時の資料は、档案館と図書
館以外にどこにあるか?
王:各医科大学の資料館の中にあるだろう。ただ、
ハルビン医科大学は歴史が新しいので、当時の資料
はないと思う。資料を集めるのは難しい。たとえば
山西省で発見された資料も、出版されると聞いて、
北京へ行って資料を手に入れた。
西山:ハルビン医科大学ができたのはいつ?
王:いまのハルビン医科大学は、満州ハルビン医科
大学とは違う。
西山:場所も違うということ?
王:全部違う。
西山:当時のハルビン医科大学はどうなった?
王:いまはなくなった。
西山:今のハルビン医大はいつできた?
- 34-
王:1955 年前後にできた。
西山:以前のハルビン医大の資料は探したけれど出
てないということ?
王:自分は行ったことはない。
西山:以前のハルビン医大のところはどうなってい
る?
王:自分もよくわからない。この陳列館に来た時、
前館長の韓暁さんと相談した。いまのハルビン医科
大学の中に重要な資料はないということだった。当
時、731 部隊敗走する前、松花江に捨てきれなかっ
た人体標本は、医科大学に送られたという証言があ
るが、確認する必要がある。韓暁前館長や研究者の
話によってわかった。図書館にあった本などの行方
も調べていない。
西山:今のハルビン医大にも档案館がある?
王:ハルビン医大に今档案館を建設中と聞いている。
その話の中に、以前の満州のハルビン大学を前身と
して、寄付しようという話がある。しかし、そう決
められないと思う。
井上:昨年伺った時に、全体の保存計画を進めてい
るということだったが、それはどうなっているか?
王:これからすぐ実施する。
井上:省や市がお金を出すと丹碩さんから伺った
が?
王:黒龍江省から資金が出る。
西山:陳列館はハルビン市平房区が管理していると
2 年前に聞いたが、将来的には?
王:陳列館の発展によって決めること。発展してい
けば平房区には管理できなくなるので、上の管轄に
なる。
西山:発展計画はいつから?
王:今年の年末あるいは来年前半から。2 つの提案
をして草案をいま書き上げている。具体的にどうす
るという内容のもの。第一に、陳列館の展示を展示
館に戻すこと。本部棟を元の様子に戻す。アパート
の住民を引っ越させて取り壊し、以前の 731 部隊の
塀を復元する。第二に、ロ号棟遺跡を全部発掘して
全面的に保護する。しかし第二点は資金の問題が大
きい。2000 年に発掘したのは第一期。今度は第二期
の開発。
井上:アパートも工場も撤去する?
王:そう。
井上:省のお金はどこまでついている?
王:お金は第一期の一部分だけ。
莇:遺址を世界遺産に残すべきだと思っているので、
心強い。ロ号棟の発掘の記録があれば見たい。
王:ロ号棟の発掘のときは自分はまだ赴任していな
かった。当時の記録は詳しくないと思う。当時の関
係者の証言を改めて記録したい。発掘に参加したの
は、陳列館職員だけでなく、政府の人もきた。みな
忙しいのでなかなか進んでいない。記録を重視しな
かったわけではない。
莇:高圧滅菌器も 2000 年に発掘されたもの?発掘の
記録があればコピーをほしい。
王:資料はあるし、写真もあるが、いまの仕事にと
ってはあまり重要でないので、見たことがない。も
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
し見たければ、整理してお送りするので、すこし待
ってほしい。
莇:森村誠一氏はロ号棟の両側にマルタを集めて焼
却したと書いているが、その痕跡は?
王:発掘の目的はその痕跡を探すことなので、よく
わかっている。自分は「高圧滅菌器」といわれてい
るものは溶解缶ではないかと思っている。新しい開
発をするときに、資料を整理して、許可を得られれ
ばきっと送る。
西山:新しい陳列館を作る時に、資料のありかをま
とめたデータベースの構想はあるか?
王:資料室として作る計画もある。
西山:前回発掘した時は骨は見つからなかった?
王:前回の発掘は7棟だけを発掘しただけで規模が
小さいので調べられなかった。もし先生が調べたか
ったら顧問としてお誘いする。
辛培林・高暁燕さん会談
2006 年 3 月 5 日(日)15:00~17:30
黒龍江省社会科学院会議室
莇団長あいさつ
団員自己紹介
辛培林さんあいさつ
高暁燕さんあいさつ
質疑応答
辛:731 部隊員の名簿は、日本の戦友会の名簿から。
日本の友達からもらった。資料をコピーできる。明
日午前中ホテルに持っていく。周愛民さんは今北京
にいるので、北京でご案内する。
末永:では、明日撮影して、明日中にお返しする。
西山:今日、731 部隊関係の資料で拝見できるもの
はあるか?
辛:新しいものはない。一昨年出版した自分の本に
したもの。一番新しいのは北野政次の論文。明日な
らば、特移扱の本を持ってこられる。
莇:
『細菌戦』の本について。第一に、石川太刀雄丸
はノイローゼを装って帰国したと書いてあるが、そ
れはどこから資料を得たのか?
辛:資料や話は元部隊員から得た。彼は今は亡くな
っている。これからもっと資料を収集する。
莇:北野政次の人体実験の原典は?
辛:遼寧省の社会科学院の研究員孫玉玲さんから。
論文の原本は持っていない。
莇:宮川米次についての情報をご存じなら教えてほ
しい。
辛:今は手元にない。家に沢山あるが整理する時間
がなかった。
莇:中国全体の遺棄化学兵器に関する統計的データ
をお持ちなら頂きたい。
高:大部分は吉林省にある。1950 年代に集めて処分
した。処分についての資料は吉林省にある。
莇:中国全土の一覧表は?
- 35 -
高:一部は統計を作ったが、完全ではない。被害を
受けたが報告しないなど、わかっていない部分もあ
る。いままで総数で 2000 人くらい。
莇:日本政府はもっとよく知らない。
高:今日はあわてて資料を用意していない。明日、
辛さんの資料を持っていく時に本を持っていく。自
分のは 100 人くらいの被害者に調査した。
西山:吉林省档案館にあるとして、我々も見られる
のか?
高:外事辧公室を通さなければ見られないだろう。
刈田:辛さんの本に久保久雄のことが書いてあるが、
どういう資料から知ったか?
辛:元隊員から聞いた話。この本の典拠は多くの人
の証言などを用いて書いたが、今見ると不十分な点
もある。中国の中で見つかる資料はほとんどない。
末永:隊員の名前は?
辛:記録されているのはわかるが、忘れているのも
ある。
末永:辛さんがインタビューされた?
辛:質問して答えてもらった。
末永:名前か、言えない理由がわかれば。
辛:わからない。
末永:韓暁とリヘイさん提供の名簿録は出版されて
いる?
辛:出版しなかった。手書きのもので、編集する時
に捨ててしまった。
西山:731 罪証陳列館には上田弥太郎など撫順戦犯
管理所に収容されていた 731 部隊員の供述書がある
が、そういう筆供の資料は見られたか?
辛:見た。2001 年東京地裁で行った証言の一部は上
田のもの。
西山:上田以外の資料も見た?
辛:見た。北京中央档案館に所蔵されている。北京
に見に行った。
『細菌戦与毒気戦』に入っている。
西山:榊原秀夫は瀋陽軍事法廷の被告になったが、
上田弥太郎は法廷には出ていない。他の裁判にはか
けられていないのか?
辛:わからない。
西山:軍事法廷の被告の戦犯筆供は出版されたが、
自分が書いたことしか載っていない。起訴状や被害
者からの告発状などは掲載されていない。そういう
ものは中央档案館で見たか?
辛:見た。
西山:上田弥太郎など被告にならなかった戦犯に関
わる告発などは見たか?
辛:見た。中央档案館にある。
西山:目録が作られているか?
辛:作られて整理されている。見たのは昔なので今
はコンピュータデータベースになっているかどうか
わからない。
莇:
『陸軍軍医学校防疫研究報告』を中国で見たこと
は?
辛:もし見つかったら知らせる。
莇:陸軍軍医の手術演習の資料はないか?日本軍が
出した命令書などが残っているのでは?
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
辛:日本の天皇からの命令原本を探しているが、な
い。731 部隊も 100 部隊も天皇の命令による。日本
や米国で見つかる資料のほうが多いのではないか。
莇:黒龍江省档案館に行けば、目指す資料を見つけ
られるだろうか?
辛:731 部隊に関する史料はとても少ない。特移扱
関係だけ。吉林省档案館のものも合わせて公開した。
それでほとんど全部。
莇:旧満州医大ハルビン分校の史料は档案館に入っ
た可能性は?
辛:そういう可能性もあるが、いままでは聞いたこ
とはない。
莇:731 部隊員がハルビン医大と交流があったとい
う証言があるが。
辛:いままでそういう史料は見たことがない。
西山:今のハルビン医大とは別のところにあった?
辛:そう。今はハルビン医大の1つの学部の建物に
なっている。当時は2階建の建物だが取り壊された。
詳しいことはわからない。場所は省眼科医院のあた
り。
高:昨年、731 部隊の元隊員に会った。栗原班にい
た。戦争が終わる前に帰国していたので戦友会の名
簿になかった。戦後、年金ももらっていなかった。
尾鷲に住んでいて、家まで訪ねた。80 歳で癌にかか
っている。お寺の仕事をやっている。石井と関係が
深くていろいろなことを知っている。石井からもら
った刀をもっている。大川さんという。現在の裁判
には関わっていない。
莇:政治協商会議に満州国時代の史料があると伺っ
たが、見られるだろうか?
辛:ないと思う。公開出版されている史料も多い。
土屋:旧ハルビン医大の位置は、いまは省眼科医院
になっているということ?
辛:そう。今は昔の建物はない。
岡田:731 部隊の看護関係の資料はあるか?
辛:ない。
王建学教授会談
2006 年 3 月9日(木)17:00~
中国瀋陽・遼寧賓館カフェテリアにて
莇団長あいさつ
王建学教授の談話
日本侵略の遺跡の調査をしている。満洲医大、捕
虜収容所などの遺跡は保存すべき。瀋陽市の文物局
に意見を出している。文物局は真剣に考えている。
瀋陽、丹東(安東)
、撫順、旅順、大連などの遺跡を
保存するというのは、政治協商会議(政協)の代表
として責任者に問うても、真剣に考慮している。康
健理事とも話している。
米英捕虜の収容所跡は瀋陽市の遺産になってい
る。遺跡を元通りに再建すべき。収容所跡が、中国
と台湾合わせて 60 箇所ある。将校用の収容所が奉天
の収容所。米国のウェンライト、パーシヴァルの2
人の指揮官がいた。米国に帰って本を書いている。
収容されていたのは技術者。日本が瀋陽の鉄西区に
- 36-
工場を沢山作ったので技術者を集めた。彼らは近く
の旋盤工場で働いていた。インドネシアのバリ島か
ら台湾、釜山へ、そこから列車で安東、奉天と送ら
れてきた。収容所の責任者は松田。1942 年に到着、
1945 年 8 月までいた。平均 1500 人くらいいた。死
亡者が出たら補充される。遼原(西安の近く)、通遼
にも収容所を作った。将官は 17 人。被収容者が地位
が高いのと技術を持っていたのが特色。日本は捕虜
を虐待した。捕虜になった 10 万人のうち6万人しか
残らなかった。毎年 200 人くらい亡くなる。死亡率
は 17%。中国の研究者が明らかにした。
質疑応答
西山:去年お会いして以来、新しい発見はあったか?
王:市級の文物になった。独身寮の住居者を退去さ
せて空にした。
莇:収容所2つでも 1500 人も入れるのか?
王:2つの1つはもうなくなっている。
1945 年 8 月 18 日、北大街に米軍機が着陸し、収
容所責任者の松田に終戦を伝えた。それでようやく
瀋陽市民も敗戦を知った。
莇:731 部隊の湊らが捕虜にチフスのワクチン実験
をしたと聞いているが?
王:米軍のブラウン軍医が日本の軍医の下で働かさ
れていて、日本の軍医を収容所に連れて行ったと証
言している。実験をしたのかもしれないとしか今は
言えない。
莇:最近、日本の倉橋氏が、吉林省档案館で資料を
発見した(1/8 朝日新聞)のを知っているか?
王:知らない。
康健:今年の 8 月頃に遺跡が整備されるので、いま
ははっきりしたことが言えない。
莇:元米軍捕虜がときどき訪れるということについ
て詳しく聞きたい。
王:毎年来る。ブラウン軍医も毎年来る。
莇:その人たちと会えるか?
王:7 月か 8 月に来るので、来ることになったらメ
ールで連絡する。
莇:彼らが日本政府に賠償請求したというのはどう
なった?
王:彼らは「奉天戦争捕虜連絡友誼会」というのを
作っている。彼らの写真は沢山ある。今度展示する。
当時の日記や漫画や食器など。
莇:彼らの連絡先を教えてほしい。
王:帰ったら探して知らせる。学術研究はまだして
いない。
莇:国際赤十字委員会がこの問題にどう関わってい
るか?
王:連絡していない。この問題について研究団体を
作りたい。中国では九・一八研究会がある。米国の
研究者も入れたい。とりあえず中国人の団体を作る。
あと米国と日本。収容所の責任者の松田は捕虜を解
放した後、重要な資料を燃やしてしまったので、い
ま資料がない。米軍も見つけられなかった。資料は
絶対に日本にあるはず。学者として一緒に研究した
い。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
莇:そのつもりでお会いしている。日本の資料を調
べて連絡する。
末永:収容所跡の中に入って調べたか?
王:調べた。これから復元する。論文はまだ書いて
いない。
岡田:17%亡くなったという根拠資料はどこに?
王:収容所の跡に保管してある。まだ整備されてい
ないので見せられない。
中華医学会 呉明江副会長 会談
2006 年 3 月 10 日 13:28~3:08 PM
中華医学会会議室にて
呉副会長あいさつ
莇団長あいさつ
当該問題に関して、中国の社会科学者との連携は
取れてきているが、医師との連携がとれていないの
で、ぜひ医師で関心を持っている方と協力したい。
呉副会長返答
日中の医師の研究協力については前向きに検討し
たい。できるだけ協力する。ハルビン平房の施設も
見に行ったが、傷に塩をすり込むようになってしま
ってもいけない。地方の医学会も協力させる。証言
者が高齢化しているので急がなければならない。
莇:政府の外交姿勢が友好的でなく、戦争を知らな
い世代も増えている。過去の医学犯罪について正確
に後世に伝わらないと、歴史を捏造しようとする
人々の思うつぼになってしまう。
呉:地方の歴史研究者や医学会との協力が必要なら、
彼らに連絡する。出版物もたくさんある。中国社会
科学院でたくさん研究されている。
西山:医師あるいは医学者でこの問題に関心を持っ
ている先生はいるか?
呉:若い医師は臨床と基礎研究で忙しい。731 部隊
のような人体実験はもちろん中国では禁止してい
る。中国の医師の中で研究をしている人は、私の知
るかぎりではいない。
西山:医学史を研究している人たちでは?
呉:中国医学史学会があるが、中国医学や医学の発
展史を研究している。医学哲学、医療倫理の研究者
もいる。戦争の医学犯罪の研究者はいない。
西山:医学と戦争の関係を研究する医師はいない
か?
呉:私の知るかぎりでは、そういうグループはない。
生物兵器や化学兵器の防御研究はある。
西山:中国にも医学倫理の学会はあるか?
呉:ある
西山:そこではどういう課題に取り組んでいるか?
呉:臓器移植や、知情同意(インフォームド・コン
セント)
。臨床試験の倫理。中国の伝統的な考え方や
家族観などが残っているので難しい部分もある。た
とえば献血はまだ確立していない。身体髪膚父母に
基づく、という考え方がある。臓器移植を違法でや
る人もいる。中国は移植に関する法律を急いで作っ
ている。伝統的な観念と市場経済の矛盾がたくさん
- 37 -
ある。田舎の人の観念は強い。市場経済の力も強い。
道徳の研究はいま必要。医学道徳以外にもいろいろ
な問題がある。ニセ医者は違法だけでなく、道徳的
にも問題。中華医学会としては、医学の発展だけで
なく、医療道徳にも取り組んでいる。中国は計画経
済から市場経済に変わっているところでいろいろな
矛盾が出てきている。価値観の問題。人間としての
要求、人間性。
「誠信」。
西山:人間を対象とした実験、臨床試験について、
倫理委員会の審査などはどうなっている?
呉:臨床試験は国で認められた施設でしか認められ
ていない。政府で専門家を組織して認可している。
その委員会には倫理学者も法学者もいる。認可して
からも、監査したり査察したりする。以前は中国な
らやりやすいという外国の製薬会社もあったが、全
人代で薬品管理法を改正している。工場で品質検査
して OK なら認可する。査察に入ることもある。
西山:日中の医学会の協力についてアイデアは?
呉:医師団体として戦争に反対しているし、医師は
人道的職業。台湾問題でも平和的解決を図っている。
民族の利益も国の利益もあるが、戦争で解決するわ
けにはいかない。台湾の独立は許されないし、15 年
戦争について具体的な合作が必要。
西山:他の国の医師会との合作が必要。日本医学会
が中華医学会に具体的な提案をしないと合作はでき
ないだろう。
呉:落ち着いて、具体的に何をするか、相談が必要。
具体的なテーマと目的をはっきりさせなければ。
西山:日本では、政府は 731 部隊の存在を認めてい
るが、医学犯罪については認めていない。日本医師
会は存在したことすらはっきり言っていないし、医
学界では長い間タブーになってきた。医学部で学ん
だ若い医師たちはほとんど知らない。60 年間の空白
があったので、これからやっと、何をしたのか明ら
かにする取り組みをする必要。日本医師会はやるか
どうか検討すると返答した。まだ何をやるというこ
とは返答していない。しかしそれでも大きな前進。
日本医師会が具体的提案をもってくる可能性は低
い。
呉:医学犯罪は歴史観の問題。事実を認めること。
西山:事実そのものが知られていない。事実を調べ
ようとする動きが日本の医学界にはない。
呉:中国の抗日戦争の研究はたくさんある。それを
認めているかどうかの問題。
西山:日本の医学界はその事実を知ることから始め
なければならない。
刈田:中国の医師は昔の日本の医学犯罪について知
っているか?
呉:もちろん中国の若者は教科書や本で抗日戦争の
ことは皆習っている。歴史を忘れてはいけない。日
中両国の人民にとって軍国主義は問題。軍国主義と
人民は区別している。教育では「歴史を鑑とする」。
国が強くなっても他の国をいじめてはいけない。日
本国民との友好は保っていきたい。民間交流と経済
往来への影響は大きくない。大国でも小国でも中国
は平和的に交流する。
「和を携える」平和社会という
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
言葉が流行っている。中華医学会としては日本との
交流は積極的に行っていきたい。小泉首相のやり方
は中国人民は受け入れない。戦争犯罪人と民族の英
雄は区別しなければならない。
莇:731 部隊だけでなく、軍医たちは中国各地で手
術演習と称して生体解剖をしている。アウシュヴィ
ッツ以上の、歴史上かつてない医学犯罪だが、日本
でも秘密になっていた。元軍医が告白すると、右翼
が脅迫する。こうした事実を、日中の医学会で調べ
て、今後の医学医療のあり方の鏡にしなければなら
ない。これが今後の日中友好および世界の医学医療
の倫理のあり方を示すことになると考えている。中
華医学会から日本医師会に働きかけてほしい。
呉:中華医学会として、日本医師会と接触する時は
言う。学術交流のなかで、歴史を忘れてはいけない
と言う。未来のことだけでなく、過去の歴史を忘れ
てはいけない。
西山:2002 年の日中医学会が北京で開かれたが、日
中医学会と中華医学会の関係はどうなっているか?
呉:中華医学会は留学生関係でいろいろな仕事をし
た。日本の各専門学会との連絡も取っている。
西山:中日医学協会というようなものはあるか?
呉:それはない。そういう名前の学会はないが、中
華医学会がそういう仕事をしている。笹川奨学金は
中国に同窓会がある。日中友好病院もある。
西山:日中医学協会は毎年、日中共同で研究するこ
とについて助成金を出している。そこに申請して日
中共同でシンポジウムを企画したいと思っている。
それによって、この問題に関する中華医学会と日本
医師会の合作に役立てばいいと思っている。日中医
学会から問い合わせがあったらよろしくお願いした
い。
莇:p.11 のダニエル・ウィクラーはどういう人で、
731 部隊についてどのくらい研究しているか?
翟:彼は大統領生命倫理諮問委員会の前座長、WHO
の Department of Ethics, Law and Human rights
部門の研究員で現在顧問。731 部隊のことを世界に
知らせようとしている。
西山:全体セッションは何人くらい話す?
邱:1時間あるので、1人でも2人でも。
西山:MS4 は何時間?
邱:2時間半。
土屋:翟先生に、協和医大で 1855 部隊接収時の史料
が出てこないか、伺いたい。
翟:知っている人を紹介して、档案館には大学の上
部の許可が必要で調査は難しい。いろいろ相談して
調べる。
張:お父さんが接収時に協和病院で亡くなった息子
が協和病院に調べにいったが、史料はない。占領さ
れていた時代のことは今の協和医大は認めていな
い。
翟:生命倫理学会の全体セッションは2名、常石と
土屋、MS は6人、4人は日本人、1人は中国人、1
人は米国人。
西山:MS4 は中国の1人、米国の1人は誰?
邱:まだ。おそらく米国人はウィクラー氏。
刈田:ウィクラー氏は会議後、ハルビンでもう一度
会議するようだが、731 部隊遺址は保存の資金がた
りないように見える。世界の人が 731 遺址を見て、
保存するよう学会として働きかけてほしい。
邱:それは良い考えだ。広告を出して募金する。
西山:論文集にもその広告を出すのがいい。ウィク
ラーさんたちとシンポジウムをやる計画は、誰が中
心になって組織する?
邱:ハルビン医大がウィクラーさんと相談して行う。
2日間のミーティング。1日半会議、1日見学。展
示もしたい。邱さん、翟さんも行く。王館長と相談
して日程など決める。8.10-11 日頃。土屋に連絡す
る。
土屋:衛生部档案館には入りやすいのか?こちらか
ら探している史料の検索をお願いしたりできるか?
邱:抗日戦争について研究する研究会はここだけ?
西山:戦争については沢山あるが、医学犯罪につい
て、医学者が中心になってやっているのはここだ
け?
邱:衛生部档案館の史料を見るのは手続きが難しく
なった。自分の場合どうなるかやってみる。社会科
学院から紹介をもらって、申請書類を作らなければ
ならない。
西山:これまで衛生部档案館に調べたことはない
か?
邱:ない。
西山:中国では档案は文書、図書は資料と区別があ
ると聞いたが。協和医大の档案館もそうか?
翟:そう。図書館と档案館は別。
西山:衛生部档案館には所蔵物の目録があるか?
邱:衛生部に档案館があるかどうかわからない。
邱仁宗教授(第 8 回国際生命倫理学会大会長)
、翟
暁梅教授(同事務局長)会談
暁梅教授(同事務局長)会談
2006 年3月 11 日(土)9:00~11:45
中国人民対外友好協会会議室
黄嵐庭氏あいさつ
莇団長あいさつ
団員自己紹介
邱教授あいさつ
質疑応答
土屋:邱先生に、国際生命倫理学会のシンポジウム
の準備状況について伺いたい。
邱:ウィクラー氏の MS4 と聶氏の SS13 のシンポジウ
ムは合流する。PS2 は全体セッション。発言者はま
だ決まっていない。常石氏、聶氏と連絡してして相
談中。
西山:参加人数の予測は?
翟:700-800 人くらい。
西山:中国人は?
翟:200 人くらい。
西山:中国の参加者は中国全土から?
翟:そう。
- 38-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
翟:協和病院には歴史があって档案館があるが、衛
生部は歴史が浅いので档案館があるかどうかわから
ないし、どのくらい所蔵資料があるかどうかわから
ない。
莇:軍医の手術演習はおそらく 1000 人以上が犠牲に
なっているが、供述以外に客観的証拠がない。陸軍
部が系統的に指令している。731 部隊以上に決定的
な問題。軍医たちは日本に帰ってからはほとんどこ
の話をしていない。具体的証拠を中国でつかみたい
と思っているので、研究に協力してほしい。
翟:これは驚いた。知らなかった。想像以上だ。国
際生命倫理学会では生体解剖、毒ガス、人体実験と
分けてワークショップを組んでいる。医師の教育の
ために人を殺していたというのは、研究の問題とも
違う。
土屋:昨年の科学史学会で発表した英語のレビュー
論文がインターネットにあるので紹介する。
岡田:脳死については法律があるか?
邱:まだない。衛生部で検討中。しかし地方では行
われたりしている。たとえば武漢大学では家族全員
の同意で脳死移植は行われた。
西山:医療倫理の教育というとニュルンベルク・コ
ートやヘルシンキ宣言をまず教えるか?
邱、翟:まず最初に教える。
西山:医師でそういうことに関心を持つようになっ
たのはつい最近のこと?
邱:そう。
西山:日本ではナチスの医学犯罪のことについては
教えるが、石井機関については教えないので、みん
な知らない。だから知識としてあっても、医の倫理
は日本人の身に付かない。中国の医の倫理の教育は
日本の医学犯罪と結びつけて行っているか?
翟:教えるが、細菌戦などについて大まかに教える
だけ。そんなに細かくは教えていないし、手術演習
についても教えてない。
西山:昨日中華医学会を訪れたが、日本医師会と中
華医学会が協力するよう要請したが、実際にはなか
なか難しい。中国の医療倫理学会からも、中華医学
会に働きかけてほしい。
邱、翟:とてもいい考えだ。
邱:いま資金的に何か問題があるか?参加したい方
には誰でも国際生命倫理学会は招聘状を出す。
歩平所長、栄維木氏、劉美玲氏 会談
2006 年 3 月 11 日(土) 2:06 PM~4:50 PM
中国人民対外友好協会会議室
黄嵐庭元理事あいさつ
莇団長あいさつ
質疑応答
西山:劉さんは『侵華日軍戦犯筆供』の編集、栄さ
んは雑誌『抗日戦争研究』の編集?
劉、栄:そう。
西山:『戦犯筆供』は 1956 年の軍事法廷の本人の供
述だが、起訴状や被害者の告発状はあるか?
2006 年 9 月
劉:全部あるが、出版していない。
西山:本人の筆供だけを出版された意図は?引き続
いて起訴状や告発状は出版する予定か?
劉:自分で書いたものの自筆は動かぬ物証なので出
版した。告発状や起訴状などの資料は『最高人民法
院特別軍事法廷』はすでに出版している。1995 年頃。
『正義の裁判』というタイトル。
西山:戦犯筆供は最後の出版物?ほかに出版してい
ない資料はある?
劉:ない。
歩:今回出版した資料は最後の審判の資料。他の資
料は出版しているが、不十分だったので、筆供を出
した。
西山:戦犯にわかるよう日本語に翻訳した起訴状や
告発状がある?
劉:ある。録音もある。
西山:それも档案館に残っている?
劉:ほとんど残っている。
西山:1995 年の出版は日本語のものではない?筆供
以外の日本語のものは出版されていない?
劉:出版していない。
西山:そういうものを档案館で閲覧できるか?出版
の予定はないか?
劉:たくさんあるので整理に時間がかかる。档案館
でなく裁判所や検察院に保存している。裁判所や検
察院で整理がし終わった資料のみ档案館に入る。
西山:出版されている起訴状や告発状には日本文が
ついているのでは?
歩、劉:日本語は一部分だけ。原文は中国語。日本
語のものは最高法院だろう。档案館ではわからない。
档案館を通じてではなく、別のルートでアプローチ
する必要がある。
西山:録音は裁判所にある?
劉:非常に昔のもの。档案館にある。
西山:裁判所で整理が終わったから档案館にある?
劉:全部ではなく、法廷の最後の部分だけ。通訳は
日本人もいた。
西山:録音はデジタル化して保存したりしている?
劉:今やっている。
西山:档案館に資料の目録はある?
劉:档案館は調べたい資料を聞いてから所在を調べ
る。
刈田:日本語の史料はすべて档案館に集めるという
方針か?
劉:中央档案館は中央政府レベルだけ。大臣レベル
はこちらだが、知事のレベルなら省などの档案館。
刈田:日本が残していった史料の保存方針や基準
は?
劉:中央档案館は国、県なら県、町なら町の、档案
館がある。日本軍の史料は、各部で残したら中央档
案館へ送るが、だいたいは発見した地方档案館に
西山:北京でも、文書と史料に分かれていた。
歩:地方の档案館には文書も資料もある。
劉:中央档案館は解放以後できたが、戦争時代の史
料は基本的にない。地方の档案館から日文史料が送
られることもあるが、ほとんど集まらない。
- 39 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
歩:中央の档案館は3つある。中央档案館、清代ま
での歴史档案館、民国時代までの第二档案館(南京)
に抗日戦争時代の史料がある。
西山:第二档案館には中国関係の古文書もある。日
本語の史料もある?
歩:ある。
西山:謝忠厚さん編集の本などには档案に番号が振
ってあるが、これが検索番号?人で分類してある?
劉:戦犯の名前を出したら史料を探す。いま自分が
管理しているのは戦犯の史料だけ。ほかの人が担当
している分についてはわからない。
歩:自分も档案の閲覧を申請しているが難しい。
劉:戦犯にならなかった人の史料は難しい。
西山:劉さんの職名は?日本戦犯資料管理係?マイ
クロフィルムになっている?
劉:一部分だけ。数はわからない。
末永:中央档案館の史料を閲覧するのは非常に難し
いことはわかった。しかし、日本の研究者として、
『細菌戦与毒気戦』に収められているのは一部分なの
で不十分。たくさんの戦犯の一部で、しかもその供
述の中国語訳にすぎない。
劉:この資料を集めるのも非常に難しかった。日本
が証拠を隠滅していった。日本も認めなかった。731
部隊員もみんな言わなかった。筆供しているのは解
放軍が逮捕した 900 人のうちの一部。
末永:日本人の供述なので日本語を読みたい。日本
の研究者は、日本語の原文が見られないので、中国
語から日本語に重訳せざるをえなかった。自分たち
の希望は、中央档案館の日本語の原文に当たること。
戦争犯罪をきちんと立証するためには、戦犯筆供と
して出版された 45 人以外の、900 人近い筆供も見る
必要がある。
劉:お気持ちは充分理解できる。900 人分の出版は
資金が必要。出版するために資料を精選する作業も
大変だった。
末永:公開すれば、日本でも資金を用意する道はあ
る。
歩:日本で日本の資料をみるのも大変。
土屋:日本語資料がたくさんあることがわかったこ
とは大きな収穫。上の人の許可が必要なこともよく
わかった。しかし我々は「偽物だろう」という中傷
に反論するために原文を見る必要がある。お互い協
力して、政府の人たちに働きかけていこう。
莇:湯浅謙氏らが告白している手術演習は、人類史
上かつてない犯罪。しかもたくさんの軍医が同じこ
とを行っている。日本の軍医部が年4~5回、系統
的に行っている。しかしあまり知られていない。
劉:自分が編集したので、5万字分の告白があるの
は知っている。
莇:何人くらい犠牲になっているか?
劉:湯浅氏は 18 人。他の分まで統計は取っていない。
- 40-
莇:自分が計算したところでは、『細菌戦与毒気戦』
の告白全体で合計 100 人くらい犠牲になっている。
しかし告白以外に客観的証拠をつかんでいないの
で、探そう。
栄:雑誌には何度も掲載している。最近は謝忠厚さ
んの 1855 部隊の生体解剖のことを特集した。
西山:陸軍の命令が全軍に対して出ているので、総
計すれば犠牲者は 1000 人くらいいるだろう。
栄:そこまでは知らなかった。
歩:細菌戦、医学研究は注目していたが、医学教育
のことは注目していなかった。雑誌でも紹介したい。
西山:その被害者、遺族などを捜すなど。
刈田:
『抗日戦争研究』は季刊?投稿する研究者の中
に医師や医学研究者はいるか?もしいたら紹介して
ほしい。
栄:季刊。1年4冊。1991 年発刊、いま 59 号。日
本の大学にも入っている。投稿者には日本の学者も
いる。細菌戦のことが中心。1855 部隊と 1644 部隊
の、細菌戦研究と、その実践使用。1855 部隊につい
ては謝忠厚さんの論文を載せた。北京大学の徐勇さ
んも書いている。しかし細菌戦についての論文は少
ない。竹内治一先生の論文も載せた。今回知り合え
たので、医学犯罪、医療犯罪についての論文を投稿
してほしい。
莇:瀋陽の連合軍捕虜収容所のことについて書かれ
た論文はあるか?
栄:ない。
莇:8月上旬に元捕虜と遼寧省社会科学院のシンポ
ジウムについて知っているか?
栄:知っている。
莇:1855 部隊が協和医院で何をしていたか知ってい
るか?
栄:雑誌に文章を載せたが、謝忠厚さんと徐勇さん
の文章。
莇:日本の図書館でコピーして読む。
栄:自分からコピーを送る。
土屋:午前中、国際生命倫理学会の大会長と事務局
長に会談した。生命倫理・医療倫理の領域でも関心
が高まっている。これまで医療倫理の研究者と交流
があったか?もしなかったら、ぜひ協力して、国際
的関心を高めてほしい。
歩:今までは協力がなかった。ぜひ協力していきた
い。
西山:学会後にハルビンでシンポジウムをやるそう
なので、ぜひ協力してほしい。
歩:ハルビン医科大学にも連絡して、ぜひ成功させ
たい。
土屋:北野論文をずっと探している。コピーと日本
語のタイトルを送るので、歩平先生もぜひ心に留め
て、探してほしい。
劉:吉林電視台が去年6時間くらいの特集番組を放
送した。被害者の話が中心。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
感
想
第3次訪中調査団に参加して
岡田麗江
1.現地に立つことと原風景を心に刻むために
3月初旬の夕方、初めてハルピン空港に降りた。
高い空、白い月、遠くに灰色の林(落葉した白樺の
林であったが)
、それらは冷たい空気とともに荒涼と
した大地への思いに連なった。3月はまだ零下の世
界で、乾燥のためらしく雪が舞う状況は少なかった
が、中国6番目に大きいという松花江は凍っていた。
ハルピンの街は大きなビルが林立し、高い天空にそ
びえるようであったが、郊外の平房区は、地平線が
見えるような広大な平原のようにみえた。また、黒
龍江省社会科学院を訪問したとき、真っ赤な大きな
夕日が松花江の向こうに沈む情景にあい、中国東北
地方の広大さを実感し、ここが満州国といわれた6
0余年前の景色とが交互に連想された。
ハルピン市からマイクロバスに乗り、45 分ほどで
平防区にある731遺址、侵華日軍第七三一部隊罪
証陳列館を訪問できた。入り口に一歩入ったとき、
何とも言えないひんやりとしたものに包まれた感じ
がして、身をかたくして、薄暗い中を見ると鎖につ
ながれた黒い鉄の固まりからできた手首や足首が有
り、犠牲になった多くの人々に安易な気持ちを引き
締められたと思った。王館長のご厚意で休日にもか
からず、陳列館の馬天龍氏によって、日頃はあまり
案内されないという陳列館以外の外部施設を案内し
ていただいた。石井部隊が証拠隠滅のために破壊し
た残骸であったり、ここで働かされた人々の証言か
ら一部復元されたもの等であったが、この実験機構
の膨大さに驚かされる。飛行場跡、二本の引き込み
線路など含めて膨大な敷地、と厚いコンクリートの
壁の様々な実験施設には、莫大な資金が投入された
と想像できる。
王館長は、この陳列館の内容を充実させる必要性
や遺址を保存するための企画について語られた。計
画にはまだ少ないが、黒龍江省から予算が計上され
たとお聞きして、発展の方向にあるようであった。
案内されて、遺址の周辺には団地や民家が押し寄せ、
一部は工場として内部が利用されたりして、これら
のなかに埋没するのではないかと心配される状況で
あった。
60 余年の歳月は、遺址の存在の意味を薄めたかも
しれないが、忘れたい、消し去りたい、存在しなか
ったという力に抗して堂々と守られてきている。有
を無としてきた日本の医学会、社会は、医の責任を
放棄し、今後も無をとなえたいであろう。が、これ
らに抗するためには、ロ号棟横の人骨(逃げる時処
分出来なくて埋めた といわれる)の発掘など、実
証的検証や学術的研究で私たちも協働する必要があ
る。
気候環境の厳しい大地で、ハルピン市内には家族
- 41 -
も居住していた。家族用の診療所もあった。一方で、
731部隊の残酷な行為が行われていた。気候・環
境、戦争のための せい には断じてできないこと
がらである。
想像力の乏しい私は、現地に立つことによって原
点を振り返り、深く知ることが出来たと思う。帰国
後、保存の厳しさを話すと、忘れたいと思っている
のだから、と冗談が返ってきた。陳列館編集誌に‘忘
れることができないこと’と記した写真集がある。
忘れる脳機能を持つ我々、物忘れの激しい現代では、
人間の負の遺産として残し、道しるべとしたいと考
える。
2.暖かかった中国の皆様との交流と資料について
多くの研究者の方々から731部隊、細菌戦・毒
ガス戦、捕虜問題など、研究のための多くのご助言
をいただいた。また、様々な立場の方々が研究の意
義を理解され、様々なご協力をいただいた。更に、
先に参加し、人間関係を大切に、育ててこられた方々。
全ての方に感謝したいと思っている。
一次資料の収集は時間を要する。当たり前のこと
であったが、各国それぞれによる資料の扱いの相違
の理解、研究対象への研究の積み重ね、などが必要
であった。当案館、図書館の保存資料の違いがわか
り、図書館にも重要な日文資料があったのは意外で
あった。北京の中国国家図書館では、入館カードを
作ったが、有効期間3年に親しいものを感じた。
満州医科大学医院看護婦養成所の資料収集には、
中国医科大学外事処のバン伯臣氏にお世話になった。
突然の依頼のために、現在の看護学校に問い合わせ
をしていただいたが、適切な資料の存在はわからず、
次回の宿題にさせていただいた。バン氏はそのかわ
りにと、お忙しい中を中国医科大学第一医院を案内
してくださった。外来患者さんの多さにビックリ。
家族がケアするという習慣があり、家族付き添いが
多いためのようである。廊下の往来に肩が触れそう
であった。インフルエンザなどの流行時は大変であ
ろうと思った。病棟は最先端の医療機器が装備され
ている。看護師は医師と2対1の割合で全体数が少
ない。そのため採用されにくく、大学教育であるが、
賃金も安く、優秀者が外国に流出するようであった。
人口数や人口構成から医療へのアクセスの格差が生
じるのではないかと思われた。
他に看護教育の資料として 満鉄設立の撫順医院
看護婦養成所の募集パンフレット(S.12.2 発行)に
よると、養成の目的として「…医院の従業員の養成
だけでなく、家庭衛生に知識と理解をもち満蒙開発
のために健全なる家庭の主婦を送り出すことは国家
的にも重大な意義を持つ。修業年限2年など」とな
っている。
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
満州国赤十字社発行
月刊誌
September, 2006
仁愛の存在が判明。
話はちがうが、北京でお世話になった張暁新氏
に質問してみた。残留孤児の問題に関してであるが、
中国のお母さんがあの厳しい状況で、我が子として
護り、育てるという行為を当たり前のように出来た
のは何故か。感謝しているが。子供は宝として大切
にされるものだから。といわれた。人間の大きさを
思った。
また、日本侵略華北罪行当案(1~10)を入手した。
その中に、中国の損失物として‘アスベスト’が記
されている。どのような影響が出るか心配になった。
そして心配している。
資料を検討して
いくつかの概略をのべてみる。
1.満州医科大学医院看護婦養成所卒業生へのイン
タビュー概略
1名;養成所44回生(S.19.9 卒業) 82 歳 鹿
児島県出身
満州に行き、満鉄医院の見習いではたらいていて、
募集を知り応募。修業期間2年で、1年生、午前中
授業、午後は実習で各科をまわる。看護婦1に学生
1であった。2年生は実習のみ。卒業後は楽しかっ
た。内科、外科は2つずつあったが、藤浪外科に配
属された。手術は、脳、消化器、胸部があり、心臓
は少なかった。外来看護婦が手術の準備をする。手
術1に1名の看護婦が担当。病棟は一般病棟と満州
人(貧困者用、木造)病棟があり、満州人病棟には
行きたがらなかった。終戦時、ソ連の侵入時、開拓
の人は丸坊主になり大変だったが、大学病院は逃げ
るわけにゆかず、学部卒の満州人医がまもってくれ
た。八路軍も守ってくれた。中国の要請で2年ほど
のこり、看護技術などを伝えた。コロ港から船で帰
国。帰国後は、守中学長が病院長に就任することに
なった六甲病院(現 共済立)に就職し、総看護婦
長もつとめた。
1名:第48回生 78 歳 岐阜県出身
満州に知人がおり、両親と行った。先生が募集を
教えてくれて応募した。2年生の時終戦のゴタゴタ
で実習より、実際に働いた。外来内科で働いた。満
州人病棟では薬物の実験をしていると聞いた事があ
る。青春時代で辛くはなかったが楽しくもなかった。
終戦時は蒸気が少なく寒かった。やはり中国の要請
で残ったが、朝鮮の人はすぐ帰ってしまった。地方
への診療はよく行っていたが、研究生が参加してい
たようだがよくわからない。帰国後は、満州医科大
の婦長に紹介されて守中学長(医科大学時)のいる
六甲病院に勤めた。
戦後、大学病院に、官費病棟があったことを思い
出した。
2.満州国赤十字社(日本赤十字社のあとを引き継
ぐ、S.13 年、1938 年、康徳 5 年設立)発行、月刊 仁
愛(1939 年創刊)
各病棟 普通患者、施療患者と分類したデータの
記述の仕方
連載 ナチス国家における厚生制度の構成には、
文中に、血の価値、労働の管理の重要性など述べた
ものが紹介されている。満州国赤十字社の性格の検
討が必要と考える。
3.15年戦争時の中国、満州国における看護婦の
種類
満州医科大学医院看護婦養成所
満州国開拓青年義勇隊ハルピン中央医院看護婦養
成所
満州国赤十字社救護看護婦養成(赤十字病院、陸
軍病院 勤務)
日本赤十字社看護婦養成(赤十字病院、陸軍病院
勤務)などがあった。
以上
黒龍江省図書館・遼寧省档案館における医学関係日文書籍の集積について
末永恵子
これらの資料は、日本の植民地政策や戦争遂行上、
医学・医療の担った役割を知る基礎資料である。し
かも、現在日本の国立国会図書館や各大学図書館蔵
書のデータベースにはないものも多くある。
今回、閲覧を許され、文献を若干コピーすること
ができたのは、黒龍江省図書館・遼寧省档案館にお
いてであった。そこに所蔵される医学関係日文書籍
の特徴を掲げると以下のようになる。
Ⅰ「満州」という風土に注目した文献が多い。
Ⅱ衛生学・微生物学(伝染病)
・地方病・保健のジャ
ンルが多い。
Ⅲ統計調査・公衆衛生調査報告書・各研究/医療/
教育機関の要覧・年史(誌)が多い。
第3次訪中調査の特徴のひとつは、黒龍江省図書
館、遼寧省档案館、北京の国家図書館など資料集積
機関に多く足を運んだことである。そのような機関
における調査は、日本の 15 年戦争期の医学・医療に
関する研究の取り組みにおいて本格化されるべきだ
と考える。現時点では、このような医学関係日文書
籍の集積状況を把握することがまず必要であろう。
この中国の医学関係日文書籍は、植民地で消費さ
れた知であり、植民政策学の一分野として医学医療
があったことを物語っている。なかでも、公衆衛生
学・衛生工学・労働衛生学関係が重点的に多く存在
していて、当時の医学分野における需要の傾向がわ
かる。
- 42 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
Ⅳ一般読者を想定した保健パンフレットが多い。
Ⅴ「秘」
「極秘」の印があるものもあり、公開を避け
た文書・書籍も存在している。
文献の蔵書印から得られる情報も、その文献がど
のような経緯で現在所蔵されているのかを知る手が
かりとなる。例えば、黒龍江省図書館所蔵の「軍医
団雑誌」54 号(満洲国陸軍軍医団発行、康徳 11【1944】
年)には、
「寄開拓研究所」
、
「開拓研究所資料室」の
蔵書印があることから、もともと開拓研究所が所蔵
していた雑誌であることがわかる。それが、現在黒
龍江省図書館の蔵書になっているのである。
現在、遼寧省档案館に所蔵されている井上善十郎
著「中支方面に於ける日本医学の進出」
(北海道帝大
学東亜研究資料 32 号、1942 年)には、
「北海道帝大
学東亜研究会氏寄贈 南満州鉄道株式会社 奉天図
書館」、
「S.M.R.
・HOTEN・LIBRARY」、
「奉天図書館図書之印」、
「遼寧省図書館★蔵書」と
いう4つの蔵書印がある。すなわち、同著は北海道
帝大学東亜研究会より満鉄の奉天図書館に寄贈され
たものだが、戦後は遼寧省図書館の蔵書となり、現
在は遼寧省档案館の蔵書となったことがわかる。こ
のように、蔵書の流れは時代の政治状況に即してい
る。このような情報は、文献の内容とともに、当時
を知る手段のひとつであろう。今後は、このような
現地の資料を活用することが望まれる。
そこで課題となってくるのは、医学関係日文資料
を所蔵する機関を探索することである。現在多くの
日文資料の集積機関が、旧満州国のあった中国東北
-43-
部に存在することが紹介されている(岡村敬二著
『「満州国」資料集積機関概観』不二出版、2004 年)。
それらを調査し、文献の集積機関ごとに医学・医療
関係書籍のリストを作っていくことが、植民地医
学・戦時医学研究の基礎作業となる。
また、戦前期の中国に関する調査報告は膨大な数
に上っており、それらの文献目録も多数作成されて
いる。そこで、戦前期の報告書などを多数所蔵する
機関の所蔵目録、総合目録を検索し、医学・医療関
係資料を抽出していく作業も必要となる。幸いにそ
の目録のリストが、井村哲郎によって作成されてい
る(「戦前期日本の中国関係蔵書目録」
『岩波講座「帝
国」日本の学知』第 6 巻、岩波書店、2006 年、p386
~398)
。このリストには、日本・中国の所蔵機関ば
かりでなく、台湾・米国の機関のものも網羅されて
いる。したがって、文献探索には、台湾・米国にも
視野を広げる必要があることがわかる。
以上のような文献探索と閲覧は、旧満州における
日本の医学の詳細な実態を描くために有効な取り組
みである。
現地で出会った文献の中には、予想を越えた発見
があることもある。それゆえに、海外への調査の前
段階として日本の文献調査も着実にやって、日本で
閲覧できるものに関しては、日本で行っておくこと
はいうまでもない。中国に調査に行っては、日本で
もっと調査していればよかったと思うことしきりで
ある
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
15 年戦争と日本の医学医療研究会
第 7 回定期会務総会(
回定期会務総会(2006 年 3 月 26 日)報告
日)報告
会」事務局長「生きていてよかった」
(浅井あいさん
を追悼して)
喜多徹(石川保険医協会理事)「光田健輔」論
【特別講演】
*橋本哲哉(金沢大学経済学部教授・金沢大学副学
長・附属図書館長)「餓死・精神障害と戦争」
【一般講演】
刈田啓史郎(東北大学大学院歯学研究科非常勤講
師)
「旧日本軍731部隊の凍傷実験室について」
【話題提供】
大門和(つるが生協診療所所長)
「731部隊合唱組曲演奏と私」(4) 第 18 回研究会
の準備
第 1 号議案 2005 年度事業報告
1. 会務総会の開催および準備
(1) 第 6 回会務総会
2005 年 3 月 27 日 近畿高等看護学校
出席者数:21 人
追悼黙祷 山下節義幹事
役員 全員再任の他、井上英夫会員を監事に新任
(2) 第 7 回会務総会の準備
2. 研究会の開催および準備
(1) 第 15 回研究会
2005 年 3 月 27 日 近畿高等看護学校
参加数:28 人
【記念講演】
岩井忠熊(立命館大学名誉教授)
「日本近現代史の
教訓と憲法九条」
【一般講演】
末永恵子(福島県立医科大学)
「旧満州医科大学の
歴史」
莇昭三(金沢・城北病院)
「15 年戦争と日本民族
衛生学会(三)
「日本民族衛生学会の課題と機関誌名
をめぐる戦後の論争」
(2) 第 16 回研究会
2005 年 7 月 9 日 大阪府保険医協会
世話人 土屋貴志
参加数:80人
【記念講演】
王選(731 部隊細菌戦被害賠償請求訴訟原告団代
表)
「細菌作戦と被害調査」
【一般講演】
莇昭三(城北病院)
「15 年戦争中の中国における生
体解剖の実態(中間報告)
」
【ビデオ上映】
(3) 吉永春子「魔の731部隊」第 17 回研究会
3. 幹事会の開催
(1) 2005 年 2 月 11 日
近畿高等看護学校
出席:莇、石原、刈田、土屋、西山、水野、若田
議事 第 6 回(2005 年度)総会議案
(2) 2005 年 3 月 27 日 近畿高等看護学校
議事 第 6 回(2005 年度)総会議案
(3) 2005 年 7 月 9 日、大阪府保険医協会
出席:莇、刈田、土屋、西山、若田
議事
1. 第 16 回研究会
2. 会誌の発行
3. 「中国から6人を迎えての講演と交流のつどい」
の共催
4. 第 17 回研究会の準備
5. 青木冨貴子さんとの懇談 8 月 4 日
6. 文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「20
世紀における戦争・冷戦と科学・技術(略称―“戦
争と科学”―.いずれも仮称)
」の構想と計画研究
7. 陸軍軍医学校防疫研究室報告第二部解題につい
て
(4) 2005 年 11 月 20 日、金沢市駅石川県勤労者福祉
文化会館会議室
出席:莇、井上、刈田、土屋、西山、吉中、若田
2005 年 11 月 20 日 金沢市駅西福祉健康ホール
「すこやか」
世話人 莇昭三、現地実行委員会
参加数: 約 100 人(参加登録 38 人)
【記念講演】
並里まさこ(元国立ハンセン療養所「栗生楽泉園」
副園長、現「おうえんポリクリニック」医師)演題
「日本のハンセン病対策とこれに係わった医師たち
-昔と今」
【関連演題】
井上英夫(元ハンセン病問題検討委員会委員長・
金沢大学法学部教授)
「ハンセン病政策と医師・法律
家の責任―検証会議報告書を巡って」
清水昭美(会員)
「ハンセン病患者強制隔離と治癒
についての情報に関する一考察」
大川陽一「ハンセン病支援・ともに生きる石川の
経過報告
1. 保団連医療研究集会および大阪保険医協会
2. 青木富貴子さんとの懇談(8 月 4 日)
出席:莇、岡田、貝瀬、土屋、西山、村岡
3. 特定領域研究「20 世紀における戦争・冷戦と科
学・技術」の展望に関わる企画調査
4. 9 月訪中延期、黄氏より北京中央档案館訪問受諾
連絡
5. 第 17 回研究会実行委員会の報告と了承
6. 東北地方会開催の報告
審議事項
1. 会誌の発行
44
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
第 6 巻第 2 号
王 選(Wang Xuan)
:細菌作戦と被害調査
莇 昭三:15年戦争中の日本軍の軍陣での『生体
解剖・生体実験』
野村 拓:海軍衛生学教科書について
書評 青木富貴子:731(評者:貝瀬、末永)
7.「戦争と医学訪中調査団(第 2 次)」の派遣
(1) 団会議 2005 年 2 月 11 日 近畿高等看護学校
出席:莇、井上、貝瀬、刈田、末永、西山、山本、
土屋、水野、若田
講演 末永恵子:旧満州医科大学関係文献レビュー
2. 日本医師会への要請決議
2005 年 11 月 20 日
日本医師会
会長 植松 治雄 殿
「15 年戦争と日本の医学医療研究会」幹事会
日本のかつての侵略戦争と医師・医学医療界のかかわりの解明などを日本医師会に要請する決議
日本医師会は、1951 年に世界医師会に加盟する際、戦時中の医師の残虐行為を糾弾するという趣旨の声明*を出
して加盟を承認されています。
日本の医師及び医学医療界を代表する団体である日本医師会には、この決議に留まらず、さらに、その具体的な
史実の解明とその結果に基づく反省を行い、日本の医師や医学医療界が同じような過ちを犯すことを防ぐ措置を講
ずる責任があると考えます。
戦後 60 周年を迎えた今日戦争はやむことがなく、一方で医学の進歩は急速かつ広範であり、日本の医師が国際
的な役割を果していく上でこの問題はますます重要になっていると考えます。
医学医療界の戦争責任を自らの問題として解明しなければらないと考える医療人を中心に 2000 年 6 月に創立さ
れた「15 年戦争と日本の医学医療研究会」の幹事会は、日本医師会が上記の取り組みを速やかになされるよう要請
します。
*:日本医師会が 1951 年に世界医師会(WMA)に加盟する際に提出した声明文
At the annua1 meeting of the House of Delegates of the Japan Medical Association, held on March 30, 1949, the
following resolution was unanimously passed;
That the Japan Medical Association, representing the doctors of Japan, takes this occasion to denounce atrocities
perpetrated on the enemy during the war period, and to condemn acts of maltreatment of patients which are alleged and in
some cases known to have occurred.
A Takahashi, MD
President
The Japan Medical Association
1949 年 3 月 30 日に開催された日本医師会の年次代議員会において、以下の決議が満場一致で採択された。
「日
本の医師を代表する日本医師会は、この機会に、戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公然と非難し、
また断言され、そして時として生じたことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するものである。
」
高橋 明
日本医師会長
3.
4.
6.
7.
第 3 次訪中調査団派遣(3 月)
第 7 回総会、第 20 回研究会 3 月 26 日(日)
第 18 回研究会
次回幹事会の日程について
(2) 訪中(沈陽、哈尓溟)2005 年 3 月 5~12 日
団員:莇(団長)、井上、貝瀬、刈田、末永、土屋、
西山、山本
訪中記録を会誌第 5 巻第 2 号に掲載
(5) 2006 年 1 月 28 日 コープイン京都
出席:莇、刈田、土屋、西山、若田、井上監事、 第
7 回(2006 年度)総会議案等
8.「戦争と医学第三次訪中調査団」の派遣
(1) 団会議 2006 年 1 月 28 日 コープイン京都
出席:莇、井上、刈田、末永、西山、土屋、村岡
4. 会報の発行
会報 No. 7 2005 年 1 月 17 日
会報 No. 8 2005 年 4 月 10 日
会報 No. 9 2006 年 1 月 28 日
(2) 訪中(哈尓溟、沈陽、北京)2006 年 3 月 4 日~13
日
団員:莇、井上(哈尓溟のみ)、岡田、刈田、末永、
西山、土屋
訪問先/面会者
・哈尓溟
731 部隊陳列館、黒竜江省社会科学院、黒竜江省
図書館、石井四郎元居宅、日本人用療養所跡附近、
旧哈尓溟医大跡(旧満州医大哈尓溟分校)付近、遼
寧省社会科学院歴史研究所王建学教授
5. 会誌の発行
会誌第 5 巻第 2 号 2005 年 7 月 25 日発行
6. 史料・証言などの収集
寄贈図書 王選:罪行写真集
-45-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
4. その他
1) 特定領域研究「戦争と科学」の申請報告。土屋、
西山、井上、刈田、片平、垰田、末永、波川の8
名で「15 年戦争期日本の医学に関する研究」を計
画研究として立てた。
2) 『日本侵華戦犯筆供』について
(4)第 6 回会議 2006 年 1 月 28 日 コープイン京都
10. 日本医師会植松治雄会長を訪問 2006 年 1 月 19
日 日本医師会館
15 年戦争と日本の医学医療研究会幹事会決議
(2005 年 11 月 20 日)に基づき、莇昭三幹事長が日
本医師会植松治雄会長に会談を申し入れていたとこ
ろ、2006 年 1 月 19 日午前 12 時 30 分から 50 分まで
という連絡が日本医師会よりあった。
連絡日時には、幹事長のほか、西山勝夫副幹事長、
刈田啓史郎幹事、吉中丈志幹事の 4 人が日本医師会
を訪問し、日本医師会植松治雄会長と同席の野中博
常任理事と、名刺交換、自己紹介の後、懇談した。
懇談では、冒頭に、莇幹事長が研究会の紹介を行
った後、要請書を手交し、要請の趣旨を述べ、プロ
ス、アリ著の「人間の価値」
、研究会誌バックナンバ
ーを 謹呈し、意見を交換した。
要請に対して日本医師会植松治雄会長からは以下
の見解が述べられた。
1. 要請はきちんと検討する。
2. 戦争中のことについては史実に基づく検討が必
要と考える。
3. 過去のことはこれからにいかすという点で重要
である。
4.ただ、政治的に捉えられかねない面があるので、
配慮して取り組まなければならない。
会長と記念写真撮影後、要請についての真摯な検
討を再度お願いして会談を終えた。
11. 研究交流
(1) 全国保険医団体連合会
第6回医療研・第1シンポWG会議への参加(西山、
4/21、5/22、6/21、7/21、8/25、9/22)
全国保険医団体連合会主催第 20 回「医療研究集
会」国際シンポジウム「医師・医学者の戦争責任を
考える─関東軍 731 部隊をめぐって」
(10 月 9 日午
後・大阪)指定発言:西山、分科会発表:莇
中国の関係者を迎えて 講演と交流のつどい(10 月
10 日午後・大阪)講演:末永
(2) 文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「20
世紀における戦争・冷戦と科学・技術(略称―“戦
争と科学”―)
」
・特定領域研究「20 世紀における戦争・冷戦と科学・
技術(略称―“戦争と科学”―.いずれも仮称)」の
構想と計画研究申請への参加依頼、連名:土屋、西
山
・ワークショップ(10 月 1 日)座長:土屋
・国際シンポジウム「20世紀における戦争・冷戦
と科学・技術」-国際共同研究の展望-(10 月 2 日)
座長:西山
・特定領域計画書
・沈陽
中国医科大学、遼寧省档案館、遼寧省図書館、旧
日本軍捕虜収容所跡
・北京
中華医学会、中国協和医科大学生命倫理学研究中
心邱仁宗教授、同 Xiao 暁梅教授、中国社会科学院
近代史研究所歩平所長、同抗日戦争研究編輯部 Rong
維木執行主編、中央档案館 Ryu 元日軍戦犯資料担当、
国家図書館、北京放送(取材)9. 陸軍軍医学校防疫
研究報告プロジェクトチーム
(1) 科学研究費補助金交付(2005~2007 年度)
決定題目
日本における医学研究倫理学の基盤構築を目指す
歴史的研究(石井機関の研究、満州医科大学の研
究、倫理学的考察)
目的
本研究は、20 世紀における日本の医学研究の問
題事例の分析に基づいて、日本の医学研究倫理が
拠って立つべき倫理学的原理の確定を目指すもの
である。
第一に、残虐な人体実験や生体解剖を行ったこ
とで知られる「石井機関」(石井四郎が作り上げた、
陸軍軍医学校防疫研究室を中枢とし、七三一部隊
や他の防疫給水部を拠点とする医学研究ネットワ
ーク) や満州医科大学などにおいて十五年戦争期
に行われた非人道的な医学研究群の実態解明と原
因の分析を行う。
第二に、以上の事例研究に基づき、日本の医学研
究倫理が依拠すべき倫理学的原理の探究を行う。
戦時中の非人道的医学研究の事実を可能な限り解
明・確定し、それに倫理学的分析を加えて、今日の
医学研究や先端医療への対処方針を学び取ることが
本研究の目標である。(2)プロジェクトチーム第 4
回会議 2005 年 7 月 9 日
大阪保険医会館会議室
出席:莇、尾澤、岡田、貝瀬、刈田、末永、土屋、
常石、西山、村岡、若田
1.『防研2部』プロジェクトについて
1) 抄録分担の再確認
2) 抄録分担進捗状況の報告
3) 今後の予定について
2. 満州医大プロジェクトについて
3. 医学研究原理プロジェクトについて
(3) プロジェクトチーム第 5 回会議
2005 年 11 月 20 日 石川県勤労者福祉文化会館
【幹事会と合同開催】
出席:莇、土屋、刈田、末永、岡田、常石、西山、
若田、井上、貝瀬
1. 満州医大プロジェクトについて
1) 進捗状況報告
2) 今後の研究計画
2. 医学研究原理プロジェクトについて
3. 『防研2部』プロジェクトについて
1) 抄録分担進捗状況の報告
2) 今後の予定について
46
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
兵器』シンポジウムの報告
末永恵子「満州医科大学研究関連の報告」
刈田啓史郎「第 17 回例会発表予行『731 部隊凍傷
実験室』
」
村口 至「スペイン報告」
(3) 支部活動
東北
1) 日時:4 月 25 日(月)
場所:艮陵会館小会議室
参加者:末永、刈田、村口、一戸、興野、土屋
課題:
刈田啓史郎、末永恵子「第二次訪中調査報告」
土屋貴志(大阪市立大)
「陸軍防疫研究報告解題
プロジェクト報告」
北陸:第 17 回研究会現地実行委員会
12. 取材
第 17 回研究会関係(毎日、NHK、赤旗)
13. 会員(2005 年 12 月 31 日現在)
正会員:116 人(入 17、退 5)(内医師:53 人、医薬
看系大学 4 人、その他医学・医療機関勤務 6 人)
学生会員: 2 人(入 1)
会誌会員: 5 人(入 1、退 1)
名誉会員:28 人(入 1、退 1) (内医師:18 人、医
薬看系大学 1 人、その他医学・医療機関勤務 0 人)
2) 日時:11 月 3 日(木)
参加者:末永、刈田、村口、一戸、興野
場所:艮陵会館小会議室
課題:
一戸富士雄、末永恵子「広島で開催された『戦争
と科学』国際シンポジウムの報告」
刈田啓史郎、一戸富士雄「学術会議主催『息化学
第 2 号議案 2005 年度(2005
年度(2005 年 1 月 1 日~12
日~12 月 31 日)決算報告
収 入
項目
内容 予算
決算
内訳
前期繰入金
会費収入
179,090
594,000
正会員会費
備 考
内訳
179,090
528,000
565,000
500,000
会員数116名
2004年度5人、2005年度86人
2006年度7人、2007・8年度1人
学生会員会費
会誌会員会費
事業収入
4,000
25,000
185,000
第15回研究会
第16回研究会
第17回研究会
会誌売上
その他
寄付金
財務運用益
預り金
合計
1,158,100
会員数2名 2005年度2人
会員数5名 2005年度4人
2006年度2人(含一部納金)
28,000
25,000
38,000
97,700
16,550
3/27 京都
205,250
40,000
40,000
40,000
60,000
5,000
200,000
10
4,000
24,000
330,342
6
15,000
1,257,688
-47-
7/9 大阪
11/20 金沢
日本にも戦争があった・人間の価値他
38件
書籍代
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
支 出
項目
内容 予算
決算
備 考
内訳
事業費
420,000
内訳
264,015
研究会
250,000
182,885
会務総会
調査研究費
幹事会
30,000
100,000
40,000
25,655
7,875
47,600
印刷費
375,000
会誌
会報
研究会案内
通信費
振替手数料
人件費
基金積立
立替金
その他
次期繰越金
合計
22,222 第15回 案内・会場費・交通費
62,497 第16回 案内・会場費・交通費
98,166 第17回 案内・会場費・交通費
3/27 案内・会場費・交通費
青木さんと懇談 会場費
2/11・3/27・11/20案内・会場費・2001年分
247,750
350,000
20,000
5,000
100,000
10,000
10,000
180,000
50,000
消耗事務用品
詳細
232,750
10,000
5,000
5,000
8,100
88,285
3,300
8,970
134,000
50,000
114,445
0
346,923
1,158,100
1,257,688
予算
250,000
50,000
300,000
決算
250,000
50,000
300,000
第5巻第2号、原稿入力・テープ起料
No7、No8
第15・16・17回
会誌・会報・研究会発送含む
封筒・振込票
口座徴収料金125件他
129時間
2005年度分
科研費・特別会計の立替
特別会計(基金積立)
項目
前期繰越金
今期繰入金
合計
内容 備 考
名と少ない。制度の趣旨を生かし、研究会を活性化
されたい。
以上
2006 年 2 月 28 日
15 年戦争と日本の医学医療研究会
監事
井上 英夫
監 査 報 告
正本縮小コピー
監 査 報 告
私は、2005 年度会計における幹事の職務を監査す
るため、幹事からの事業の報告を受け、重要な会計
関係書類などを閲覧し、その他必要と思われる方法
を用いて監査した結果、次の通り報告します。
1、会計監査書類
1)決算書
2)集計表
3)郵便貯金通知表
4)現金残高表
5)その他会計証書
監 査 報 告
私は、2005 年度会計における幹事の職務を監査す
るため、幹事からの事業の報告を受け、重要な会計
関係書類などを閲覧し、その他必要と思われる方法
を用いて監査した結果、次の通り報告します。
1、一般会計、特別会計について。
各々収支報告に問題は認められなかった。
2、研究会運営について。
会員の増加を図るべきである。とくに、学生会員、
会誌会員の制度がありながら、それぞれ、2 名と 5
2、会計監査結果
1)関係書類の閲覧、点検の結果、会計処理が正確
かつ適正に実施されていることを確認した。
2)会計関係書類の整理についても適切に行われて
いることを確認した。
48
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
2006 年 3 月 26 日、京都・近畿高等看護学校
第 19 回研究会 2006 年 6/7月、未定
第 20 回研究会 2006
年 秋、東京
第 21 回研究会の準備
2007 年 3 月 25 日、関
西
3、監査の評価および意見
1)本年度(05 年度)会費収入が会員費 74%であり、
会費回収の一層の努力が望まれる。
2)研究会収入葉についてはいずれも予算を下回っ
ており、参加者増加の等の努力が必要である。
3)会誌売上と寄付金収入の項目は、予算をかなり
上回っており、会員および関係者の努力の現れとい
える。
4)支出の部では、厳しい財政の中で支出抑制の努
力が各項目にされている。
ただし調査研究費は、執行率が 7.8%であり、新年
度予算上での検討が必要である。
5)次年度繰越金が、346,923 円となっており、次年
度の事業の活発化が期待される。
以上
15 年戦争と日本の医学医療研究会御中
2006 年 3 月 7 日
監事
色部 祐
(2) 会報の発行
随時発行
(3) 会誌の発行
会誌第 6 巻第 1 号
会誌第 6 巻第 2 号
3. 調査研究事業
(1) 陸軍軍医学校防疫研究報告等の「研究」論文
の解題・編集・解説・出版
(2) 文部科学省科学研究費助成による研究
(3) 戦争と医学第三・四次訪中調査
(4) 文部科学省科学研究費補助金特定領域研究
「20 世紀における戦争・冷戦と科学・技術(略称―
“戦争と科学”―)」
(5) 医学会総会(第 27 回、2007 年大阪、岸本忠
三)
(6) 会員のいる地方における支部結成や研究交流
第 3 号議案 2006 年度事業計画(第 6~7 回総会)
1. 会務総会の開催
第 7 回会務総会 2006 年 3 月 26 日、京都・近畿
高等看護学校
第 8 回会務総会の準備(2007 年 3 月 25 日)2. 研
究交流事業(1) 研究会の開催第 18 回研究会 2006
年 3 月 26 日、京都・近畿高等看護学校
第 19 回研究会 2006 年 6/7月、未定
4.幹事会の開催
2~3 回開催し、会務の調整並びに諸事業計画を推
進する。
2. 研究交流事業(1) 研究会の開催第 18 回研究会
第 4 号議案 2006 年度(2006
年度(2006 年 1 月 1 日~12
日~12 月 31 日)予算
収 入
項目
前期繰入金
会費収入
内容 正会員会費
学生会員会費
会誌会員会費
事業収入
第16回研究会
第17回研究会
第18回研究会
会誌売上
その他
寄付金
立替金
財務運用益
合計
2006 年 4 月 15 日発行
2006 年 6 月 15 日発行
金額
内訳
備 考
346,923
586,500
560,000 会員120人
2004年度2人、2005年度10人、
2006年度100人
4,000 2006年度2人
22,500 2006年度5人
175,000
30,000 参加費1000円×30人
30,000 参加費1000円×30人
30,000 参加費1000円×30人
80,000 会誌2000円×40冊
5,000
150,000
114,445
科研費・特別会計の立替
7
1,372,875
-49-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
支 出
項目
事業費
内容 研究会
会務総会
調査研究費
幹事会
印刷費
会誌
会報
研究会案内
通信費
消耗事務用品
振替手数料
人件費
基金積立
その他
次期繰越金
合計
金額
内訳
480,000
250,000
30,000
100,000
100,000
485,000
470,000
10,000
5,000
100,000
10,000
10,000
170,000
50,000
5,000
62,875
1,372,875
備 考
第18・19・20回研究会会場費・講師交通費等
3/26会場費・交通費等
年3回予定 会場費・交通費等
第6巻第1号、第6巻第2号
会報No.9、No.10
第18・19・20回
特別会計(基金積立)
項目
前期繰越金
今期繰入金
今期引き出し
残高
内容 予算
300,000
50,000
150,000
200,000
備 考
日本医師会要請
第 5 号議案 役員
幹事
莇
昭三
石原 明子
刈田 啓史郎
土屋 貴志
西山 勝夫
水野 洋
吉中 丈志
若田
泰
(城北病院)
(国立保健医療科学院)
(東北大学大学院歯学研究科)
(大阪市立大学大学院文学研究科)
(滋賀医科大学)
(元大阪府立勤労者健康サービスセンター)
(京都民医連中央病院)
(京都民医連中央病院、近畿高等看護専門学校)
監事
井上
色部
(金沢大学法学部)
(働くもののいのちと健康を守る東京センター)
英夫
祐
会誌編集委員会
委 員
新幹事
末永
委員長 西山 勝夫
水野 洋、若田 泰
恵子
(福島県立医科大学)
50
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 6 巻 2 号
2006 年 9 月
第27回日本医学会総会
企画展示「戦争と医学・医療」展実行委員会へのご参加のお願い
企画展示「戦争と医学・医療」展実行委員会へのご参加のお願い
15 年戦争と日本の医学医療研究会は 2007 年大阪で開催される第 27 回日本医学会総会における「企画展示」
(みんなで考える医学と医療)に、下記の趣旨で「戦争と医療」(仮称)展という催しで参加する準備をし
てきました。
15 年戦争と日本の医学医療研究会は、「戦後 60 年」直後の第 27 回日本医学会総会の機会にかつての戦
争中における医学者・医師による「残虐行為」の真実について医学界で広範な論議を開始し、教訓を得るこ
とが今日的な「医の倫理」の確立・高揚に欠くべからざる課題であると考えます。
15 年戦争と日本の医学医療研究会は、このような考えに賛同される団体や個人が共同してこの取り組みを
行うことが企画を真に意義深いものにすると考え、関係者に日本医学会総会企画展示「戦争と医療」展実行
委員会へのご参加を呼びかけます。
○ 参加の趣旨
*「世界医師会」は「医学教育・医学医術および医の倫理における国際水準をできるだけ高め」ることを趣
旨の一つとして 1947 年に設立され、その後ジュネーブ宣言、ヘルシンキ宣言、リスボン宣言等を採択してき
ました。特に第 53 回総会では「生物兵器に関する WMA 宣言」(ワシントン宣言)を採択しています。
*一昨年開催された 2004 年世界医師会総会(東京)でも「先端医療と医の倫理」が一つの中心的議題として
論議されました。
*日本で、「医の倫理」を論議する場合には、1949 年 3 月 30 日の日本医師会代議員会で採択された声明文
「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会 に、戦時中に敵国人に対して加えられた蛮行を非難し、・・
実際行われたという患者の虐待行為を糾弾するものである」を想起することが非常に重要であると考えられ
ます。
しかし上記の声明課題は、日本医師会の声明後今日まで、日本の医学会、医療界ではほとんど想起し、問
題の所在を明らかにする作業をしてきませんでした。
今日、日進月歩の医療界に改めて問われている「医の倫理」の確立という観点からも、このかつての「蛮
行」について改めて問題の所在を明らかにすることが極めて重要であると思います。
○ 企画内容
企画内容は上記の趣旨での「展示」のほかに「国際シンポジウム」(アメリカ、ドイツ、中国、日本から
の学識経験者の参加)の開催等です。
○ 企画展実行委員会について
「15 年戦争と日本の医学医療研究会」が呼びかけて、新たに組織された第 27 回日本医学会総会企画展示
「戦争と医療」展企画実行委員会(通称「戦争と医学」展実行委員会、仮称)と考えています。
この実行委員会の設立総会は 2006 年 7 月 30 日 13 時から、大阪府保険医協会会議室にて開催します。趣旨
に賛同される団体、個人の方は、「15年戦争と日本の医学医療研究会」事務局にご連絡ください。
15 年戦争と日本の医学医療研究会 幹事長
事務局 滋賀医科大学社会医学講座予防医学分野
莇 昭三
西山勝夫
(以上は、2006 年 6 月 25 日開催の第 19 回 15 年戦争と日本の医学医療研究会の総意に基づき作成された。
-51-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 6(2)
September, 2006
編集後記
本研究会から派遣された第 4 次訪中調査団の帰国便の機中にてこの編集後記を書いています。第 4 次
訪中調査団出発直前にアースワーク社に漸く原稿の入った CD を宅急便で送り、送り忘れた会誌表紙原
稿と追加原稿をメールで補充するという慌しさでした。帰国直後、第 6 巻 2 号の発行に漕ぎ着けること
ができそうでほっとして、訪中に臨むことができました。何とか遅れを取り戻さなければと編集子とし
て努めたのですが、前号の 10 ヶ月近くの発行遅れに続き、今号も 4 ヶ月遅れとなりました。早くから原
稿を頂いていた寄稿者や会員の皆さんには、この場を借りておわびします。訪中時に、会誌発行のあり
方についても意見交換がなされましたので今後改善できるものと思います。
本号では、昨年末、莇幹事長を初めとする石川県在住会員により金沢で企画運営された第 17 回研究会
と本年 3 月に派遣された第 3 次訪中調査団に関わる特集を企画しました。調査団も回数を重ねるにつれ
て、報告のみならず、得られた史料などを基にした論文が寄稿されるようになっていることを実感しま
した。いっそうの研究の広がりと深化が本会誌に反映されることを願います。
第 3 次訪中調査の結果を踏まえて、本年は、8 月下旬から 9 月にかけて第 4 次訪中調査団が派遣され
ることになり、日中共同の探求もますます密になっているのではないでしょうか。
本研究会は、今年、創立 7 周年を迎え、期せずして来年大阪で開催される第 27 回日本医学会総会と機
を一にしました。今までの研究成果を踏まえ医学会総会の企画に合わせた取り組みをすることが、3 月
開催の本研究会第 7 回総会で決められ、6 月開催の第 19 回例会で具体化され、7 月 30 日には大阪府保
険医協会などの参加のもとで、
「戦争と医学」展示実行委員会が発足するに至りました。このような足跡
を振り返りますと、改めて、創立直後に、会員の皆さんの協力で、本会誌の発行を挙行したことの意義
を感ずる次第です。
次号は、おそらく第 27 回医学会総会前の卷号の会誌となると思いますので、それにふさわしい会誌に
したいと念じています。特集としては、第 4 次訪中調査団の報告を組む予定です。また、この間の訪中
調査で初めて得られた史料を基にした論文などが寄稿されればと期待しています。会員の皆さんからの
寄稿についてもよろしくお願いします。
投稿規定
(2003 年 3 月 15 日編集委員会)
会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしてお
ります。その際には既刊号を参考にし、原稿には題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・
連絡先住所(以上は邦文、欧文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、参考
文献を記して下さい。2 万字以内を目安にレジュメ形式ではなく文章にして下さい。提出書式は、電
子式の場合は A4 用紙に 12pt で印刷したもの及びフロッピーディスク(フォーマット形式、使用ワー
プロソフトの種類・バージョンを記載の上)です。
手書きの場合は市販の 400 字詰原稿用紙に記入して下さい。なお図表はコピーしますので良質の
ものをお願いします。当分は手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います。
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
委員長 西山 勝夫
副委員長 水野 洋
委員 若田 泰
52