菅笠日記現代語訳

本居宣長 著
諏訪邦夫 現代語訳
『菅笠日記』
この現代語訳はクリエイティブコモンズです。自由にコピー・配布・切り刻みされてけっ
こうです。商品化する場合のみ、翻訳者にご連絡下さい。
諏訪邦夫
[email protected]
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目次
◇菅笠日記上の巻 ..................................................................................................................2
出発 ....................................................................................................................................2
三月五日(第 1 日)
、松坂、八太、阿保峠、伊勢地(泊) ..................................................3
三月六日(第 2 日)
、伊勢地、阿保、名張、大野寺、はいばら(萩原)
(泊) ...................6
三月七日(第 3 日)
、萩原、吉隠(よなばり)
、初瀬、多武峰、滝畑、千俣(泊)..........10
三月八日(第 4 日)
、千俣、上市、吉野入り、吉野水分神社、箱屋某(泊) ...................17
三月九日(第 5 日)
、吉野滞在、筏流し、滝、岩飛び見物、箱屋某にもう一泊 ...............24
◇菅笠日記下の巻 ............................................................................................................30
三月十日(第 6 日)
、吉野で如意輪寺参詣、壺坂寺、橘寺、飛鳥の岡(泊) ...................30
三月十一日(第 7 日)
、岡、飛鳥、天香久山、見瀬(泊) ................................................35
三月十二日(第 8 日)
、見瀬、慈明寺、耳成山、大御輪寺、大神神社、初瀬、萩原(泊)
.............................................................................................................................................44
三月十三日(第 9 日)
、萩原、石割り坂、田口、桃の俣、菅野、石名原(泊) ...............51
三月十四日(第 10 日)
、石名原(宣長は駕篭)、飼坂、多気、柚原、堀坂峠、松坂帰着 53
訳者あとがき....................................................................................................................56
1
以下本文
◇菅笠日記上の巻
出発
今年、明和《みょうわ》九年(1772)ですが、何とかよい年であって欲しいと、古歌(御
製)にいうよき人のよく見て、よしといいたいと吉野の花見を思いたちました。
【萬葉一に
よき人のよしとよく見てよしといひし 吉野よく見よよき人よく見つ
天武天皇】
この山道を踏み分けて旅しようという意欲は二十年前から抱いていましたが、春になる
と何かとさしさわりが生じ、心の中で年が経つのを残念がっていました。しかし、このま
まではつまらないので、今回は決断して出発しました。といっても、旅自体は今回特別で
もなく、変わった準備の必要もありません。それでも気持ちは落ち着かず、明日は出発と
いう日は、早朝から旅の袋などをせかせか整えて暇もありません。その袋にかきつけた和
歌が下のものです。
うけよ猶花の錦にあく神も 心くだしき春のたむけは
(神様は春の花は見飽きているでしょうが、それでも私の僅かな心遣いの手向けをお受
け下さい)
2
三月五日(第 1 日)、松坂、八太、阿保峠、伊勢地(泊)
三月五日の明け方、
まだ暗いうちに出発しました。
市場庄という付近で夜が明けました。
道筋は三渡り橋のたもとから左にわかれ、川辺を少し登り板橋をわたります。この辺迄は
用事でときどき来ており、珍しい気持もしません。分かれ道の一方は、阿保峠《あぼうと
うげ》を通り伊賀國経由で初瀬《はつせ》に出る道で、これを辿ります。
この道も以前一度か二度は来たはずですが、何年も経ってみな忘れ今回初めてのように
珍しい印象です。昨夜から曇り空でときどき雨が降り、周囲の景色もぱっとしません。旅
行着の袖がぬれ、一方でうらめしいものの逆に風情も感じます。津屋庄を過ぎ遠くまで野
原を分け行って、小川村に着きました。
雨ふれば今日は小川の名にしおひて しみづながるる里の中道
(雨が降って 今日は小川という名前通りに水が流れています)
この村を過ぎて、都川のせまい板橋を渡ると都《みやこ:宮古とも》の里です。むかし
斎の宮の女房が言葉を残している忘井《わすれい》という清水は、
【千載集 旅に斎宮の甲斐
わかれゆく都の方のこひしきに いざむすび見んわすれ井の
水】
現在その跡として石碑を立てている場所が外にもあるようですがそれは間違いで、本物
はこの里で最近も自分の同郷人が訪問したところでした。なるほど、例の和歌は千載集に
は群行のときとして載っていますが、古書によると斎の巫女が帰京で通る際、この付近に
ある壹志《いちし》の頓宮《とんぐう》で、二道に別れて御供の女房たちは京に向かいま
した。「わかれ行くみやこのかた」とは、その際に「みやこ」というこの里の名にひっかけ
て詠んだものでしょう。他にも気になることが多く、永年懐かしく感じてわざわざ尋ねて
見たいと考えて、ついでに立ち寄ると本当に古い井戸でした。この井戸は、ひどい干ばつ
でも涸れず、大切な水だと昔から言い伝えています。私の知識はそうですが、里人による
とそんな古い言い伝えはないとのことで、たしかに例のわすれ井だと決める状況でもなく
疑わしい面もあり、もっと詳しく尋ねたかったのですが、道中を急ぐ必要上そのまま通り
過ぎました。この付近の山に天花寺の城址と、寺の伽藍《がらん》の跡が残っているそう
です。小川村の神としてこの里に社があり、神名帳に載っている小川の神の社でしょう。
三渡りから二里で、八太《はた》という宿場です。八太川があり、これも板橋です。雨
は相変わらず止まずに降り続いています。こうなると吉野の花はどうか心配で、歩きなが
ら友だちと話し合いながら歌にしました。
春雨にほさぬ袖よりこのたびは しをれむ花の色をこそ思へ
3
(春雨で乾す間もなく濡れる袖ですが、それ以上に花が萎れるのが心配です)
田尻村からいよいよ山道になり、谷戸《やと》
・大仰《おおのき》などの里を過ぎました。
道すがらところどころ櫻の花ざかりで、立止まって休んでは眺めながら進みました。
しばしとてたちとまりてもとまりにし 友こひしのぶ花のこの本
(山道の桜で立ち止まり 故郷に残してきた友人が恋しくなりました)
大のき川は大きな川で、雲出《くもづ》川の上流だそうです。この川の反対側も同じ里
で、家が立ち並んでいます。川岸を登ってゆく付近の景色が見事で、大きな岩が山にも道
のほとりにも川の中にも数多く、所々の淵を見下ろしているようで不思議な雰囲気です。
かの吹黄刀自《ふきのとじ》が詠んだ、波多の横山の岩というのは、
【萬葉一に 川上のゆつ岩村にこけむさず
つねにもがもなとこをとめにて】
この付近だろうと賀茂真淵先生のおっしゃるとおりで、鈴鹿にもその跡があるというの
は、そもそも間違いです。
歩いているうちに、雨も止みました。小倭《おやまと》の二本木という宿で食事をして、
しばらく休みました。八太からここ迄二里半だそうです。そこを過ぎると、垣内《かいと》
という宿へ一里半で、垣内を過ぎて阿保《あほ》の山路にかかる頃、また雨が降ってきて
みじめです。たまたま鶯がなく声を聞いて、
旅衣たもととほりてうくひずと われこそなかめ春雨のそら
(旅衣がびっしょりと濡れました。うぐいすが蹄いていますが、こっちが泣きたいくら
いです)
【古今物名うぐひす 心から花のしづくにそほぢつつ うくひずとのみ鳥のなくらん】
注:こちらには「蹄く」と「泣く」をかける意味はなさそうです。
どんどん進んで峠(阿保峠)に着きました。ここ迄は壹志郡で、ここから先は伊賀國伊
賀郡です。この山路は、通ってきた垣内から行く先の伊勢地まで三里ほど続き、いくら歩
いても果てしない上に雨がひどく、おまけに日暮れで暗くもなり、知らない山路を何とか
たどって歩きながら、こんなことをしなくても良いのに何で来たのかと、心細い気持ちで
す。辛うじて宿泊地の伊勢地にたどり着いた気持ちは言いようもなく嬉しく、その地で松
本某という家に宿をとりました。
経路:本書に登場する地名の順序は下記の通り
松坂→市場庄→三渡→津屋庄→小川村→都→八太→田尻→谷戸・大仰→波多の横山の岩→
4
小倭の二本木(食事)→垣内→阿保峠→伊勢地の宿(松本某)
地図:現代の経路では、松阪から(正確には中川から)近鉄大阪線に沿っています。道路
は国道 165 号線。阿保峠は現在では「青山峠」
(標高 500m 強)と呼ばれ、近鉄線も道路も
トンネルで抜けています。1971 年に、現在とは異なる近鉄の旧線で大きな脱線衝突事故が
起こって多数の死傷者が出て、鉄道でも難所だったことを示しています。現在は線路が付
け替えられ、トンネルと直線が長くなって安全です。
「伊勢地」は、現在の地図では「伊勢路」となっています。
歩行行程:松阪→三渡(1 里弱)→八太(2 里)→小倭(2.5 里)→垣内(1.5 里)→伊勢
地(3 里)
、計 10 里。峠越えを含めて 40 キロですから健脚ですね。
5
三月六日(第 2 日)、伊勢地、阿保、名張、大野寺、はいばら(萩原)
(泊)
今朝は、夜がしっかり明けてから宿を出ました。十町ほど行くと道の左に中山という岩が
あり、珍しい雰囲気です。
河づらの伊賀の中山なかなかに 見れば過うき岸のいはむら
(河岸にある伊賀の中山は見事だが、こんなものをみて岸の巌を通過するのに手間が
かかることだ)
昨日越えた阿保山から流れる阿保川の川辺です。朝川《あさかわ》をわたって、その河
岸に沿って行き岡田・別府という里を過ぎると、左側のちかくに阿保の大森明神という神
社がありますが、本来大村神社というのを間違ってこの呼び名になったのではないでしょ
うか。川岸をさらに進み、阿保の宿の入口で再度川を渡りました。昨日の雨で増水してい
るのに橋がなく、衣服をからげて徒渉するのは水も冷たくて辛い気分です。伊勢地からこ
の宿場まで一里です。羽根《はね》という所で、また同じ川を今度は板橋で渡りました。
羽根川というそうです。すこし進むと、四五丁ほど坂道をのぼります。この坂の上から阿
保の七村が見おろせ、七見峠と呼ぶとの里人の話です。もっとも、今日は雲と霧が深くて、
何も見えませんでした。こんなわけで今日も空は晴れませんが、それでも雨は降らず気分
良好です。松原並木を過ぎて阿保から一里の場所に、新田《しんでん》という所がありま
した。この里の端で、仮小屋の庵の前の庭に池があり、絲桜が見事に咲いていました。
糸桜くるしき旅も忘れけり 立よりて見る花の木陰に
(素晴らしい糸桜をみて、その花の木陰でくるしき旅も忘れるようです:糸桜は枝垂
れ桜のこと)
この土地の桜は全体としては未だで、糸桜の他は彼岸桜など早咲きのものだけが所々に
見えます。ここからなだらかな松山の道で、見事な景色です。この辺から名張郡で、むか
し伊勢の国に帝(持統天皇)が行幸された時にお供に仕えた人の夫人が大和の都にとどま
り、夫の旅路の苦労を思いやって、名張の山を今日は越えたでしょうかと詠んだのが、こ
の山路の事でしょう。
【万葉一に
わが背子はいづくゆくらんおきつもの なばりの山をけふかこゆらん 當
麻真人麻呂妻】
空はやっと晴れて、通ってきたほうを振り向くと布引の山が見えます。
このごろの雨にあらひてめづらしく けふはほしたる布引の山
6
(このところ毎日雨ですが、今日は珍しく雨が上がってあの布引山も布を乾しているよ
うです)
この山は故郷からも毎日見る山で、ここから見ても様子は同じで、本当に布を引いたよう
な姿です。
すこし坂を下って山の麓の里を訊くと、倉持だと言います。ここからは山をはなれて、平
らな道を半里ほどで名張に着きました。阿保からは三里です。町中に、知人の藤堂某氏の
家がありました。その門の前を過ぎた町屋のはずれで、川が合流する所に板橋を二つわた
ります。名張川と簗瀬《やなせ》川だそうです。むかし名張の横川といったのがこれで、
天武天皇が吉野から出て伊勢・美濃を経て、近江を攻めた時の記録にあります。どんどん
進むと山川があり、かたわらの山にも川にも、奇怪な岩が数多くあります。名張からまた
雨が降り出し、この付近を歩くときは雨衣も通りそうなほどひどく降りました。鹿高《か
たか》という所で、
きのふ今日ふりみふらずみ雲はるる ことはかたかの春の雨かな、
(きのうも今日も春の雨が降ったり止んだりで 鹿高では雲がはれることもありません)
すこし行くと山裾から川の中まで突出している岩があり、その大きな岩の上をつたって
進むと、右の山から足もとに瀧が落ちて、何ともいえず見事な景色です。上を見あげると、
岩の端に他の物からはなれて、別の岩が道の上へ一丈ほど突出しており、頭の上に落ちて
こないかと下を歩くのが不安でした。通り過ぎてふりかえると実に危なっかしく、このあ
たりの人は獅子舞岩と呼んでいます。たしかに、獅子が頭を振りかざしている様子に似て
いると感心しました。少し山を登って下ろうとする所に石の地蔵があり、伊賀と大和の境
です。名張から一里半ほどで、その先の三本松という宿まで二里といいます。大野寺の近
くにまた危なっかしい岩があり、道から二三町左に見えます。これは有名で、旅ゆく人も
皆立ちよると言うので行って見ると、わざわざ作って立てたような岩の表面に、弥勒菩薩
《みろくぼさつ》の御姿を彫ったのがほのかに見えます。菩薩様の身長が五丈余りで、そ
れでも岩の上の方はまだあまって高く、後ろは山で谷川の岸にあるのがこちらから見えま
す。
昔、退位された天皇が行幸されたこともあると何かにあったのをかすかに思い出しまし
たが、どの天皇だったでしょうか、今すぐは思い出せません。
(注:宣長の別書に後鳥羽上
皇の行幸とある由。
)
この川岸を少し登って山あいの細道をたどると、元の大道に出ました。室生に詣る道も
あり、案内の石碑がないと迷いそうな所です。今日は何とか長谷《はせ》まで行きたいと
計画しましたが、雨が降って道も悪く足も疲れたので無理で、萩原《はいばら、現在の榛
原》という所に宿をとりました。この里の名が萩原とあるのを見ると、何となくなつかし
くて秋であって欲しかったと、旅衣のたもとで思いつづけます。
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うつしてもゆかまし物を咲花の をりたがへたる萩はらの里
(ここは萩はらの里ですから、
季節が秋で萩が咲いていれば花の色を映していくところ
ですが、季節が合わないのが残念です)
その夜は雨がひどく降り風もはげしく、故郷の空も心配ですが、それ以上に行く吉野の
花がどうかと心配で、夜寝ながらも眼もつぶれない気持ちでした。宿の主人が夜中におき
出して、今は大変な雨風だが明日はきっと晴れると述べるのを聞いて、どうして断言でき
るのかと考えながら眠りました。
地名と経路
伊勢地→伊賀の中山→岡田・別府→阿保→七見峠→新田の糸桜→倉持→名張・藤堂屋敷→
獅子舞岩→伊賀と大和の国境→三本松→大野寺→はいばら(萩原、榛原:泊)
歩行行程:伊勢地→阿保(1 里)→名張(3 里)→三本松(3.5 里)→はいばら(距離不明)
最後の三本松から萩原の距離の記述がありません。
地図では名張から三本松とほぼ同じで、
3 里を加えると 11 里でつまり 44 キロです。距離は前日の 10 里より少し長いのですが、大
きな峠越えはなくしかも下りが多いので、負担はやや少ないでしょうか。
地図:第二日は山の中の部落伊勢地(地図は伊勢路)を出て、やはり近鉄大阪線に沿って
います。阿保、七見峠、名張、三本松、大野寺から榛原まで。
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三月七日(第 3 日)、萩原、吉隠(よなばり)、初瀬、多武峰、滝畑、
千俣(泊)
明け方起き出すと、雨は止み雲も薄らぎ晴れそうで、家主の判断は正しかったと嬉しい
ことです。でも、連日の雨で途中の道がいたみ山道は大変なはずと言われて、今朝は全員
が例の駕篭に乗って出発しました。具合の悪いいやな乗り物で、中はせまく尻が痛く身体
を動かすこともできません。朝の寒い谷風がどんどん吹き込んでわびしいものの、こんな
進みようもない場所の旅ですから何とか我慢できて、徒歩で行くよりはずっとましと感じ
るのが不思議です。同行の人たちは、覚性院の戒言法師、小泉の何がし、いながけ(稲掛)
の棟隆、その子の茂穂、中里の常雄と計六人、全員駕篭にのって、前後に呼びかけ合って
おしゃべりし、ときに前後入れ替わったりしながら進みました。西峠と角柄《つのがら》
という山里を過ぎて、よなばり(吉隠)に到着しました。ここは古書などに出ている所で、
心にとどめて見ながら先へ行きました。いかい(猪養)の岡や御陵などの事、
【万葉和歌に 吉隠のゐかひの岡は延喜式に吉隠陵とあり、光仁天皇の御母のです。
】
駕篭かき(駕篭を担いでいる男)に訊きましたが、知識がありません。里人に尋ねまし
たが、誰も知らず残念です。この吉隠を、万葉集では「ふなばり」という読みをつけている
のはわかりにくく、文字もそうは読めず、今の里人もよなばりと言葉では述べても字は書
かないのでしょうか。そもそも旅日記に知ったかぶりを書くのはうるさいけれど、筆のつ
いでに一応書いておきます。
山の裾の道をさらに行くと初瀬に近づき、向こうの山の間から遠くに葛城山や畝傍山が
見え始めました。よその場所なのに、こんな名所は毎日のように書物で読み和歌でも詠み
なれて、ふる里の人に会うような懐かしい気分で親しく感じます。
けはい坂(化粧阪)という険しい坂を少し下りました。この坂道から初瀬の寺も里も目
前にはっきり見わたされ、その景色は何ともいえません。ここ迄は山の中ばかりで、見る
べきものも特になかったのに、ここでは壮大な僧坊や御堂が並ぶのを急に見て、天国に来
たような気分です。与喜《よき》の天神という御社の前に到着して、そこの板橋をわたる
流れが初瀬川で、対岸はもう初瀬の里です。宿で休んで食事をしました。建物のうしろが
川岸にかかり、波の音が床に大きくとどろきます。
はつせ川はやくの世よりながれきて 名にたちわたる瀬々のいはなみ
(はつせ川と言えば昔から知られてずっと流れ続けているのでしょう 巌を流れる早
瀬は有名です)
長谷寺の御堂《みどう》にお参りしようと出発し、門を入って階段を登る右側に、誰の
ことか分かりませんが道明上人の塔というのがありました。やや登って曲がる所に、貫之
の軒端の梅(訳註参照)もありました。蔵王堂産霊《むすぶ》の神の祠も並んでいます。
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ここから上を、雲居坂《くもいざか》というようです。こうして御堂にお参りしましたと
ころ、たまたま御帳《みちょう》を揚げてあり、大きな本尊がきらきら見えます。人も拝
んでいるので、自分も坐って拝みました。あちこち見てまわると、この山の桜は全体とし
ては盛りが少し過ぎていますが、それでも盛りのもあちこち数多くありました。巳の時(午
前 10 時)で、貝を吹き鐘を撞きます。
むかし清少納言がお参りにきた時、この貝を吹く音が突然聞こえておどろいたと書いて
います。それを思い出すと、昔の様子でも見えるようです。鐘はいま登ってきた階段の上
にある楼にかかっており、場所は御堂の脇です。
名も高くはつせの寺のかねてより ききこし音を今ぞ聞きける
(初瀬寺の鐘といえば昔から有名だが、その音を今ここで聞いていることだ)
古い和歌などにも多数詠まれてきたあの昔と同じ鐘だと、なつかしく感じます。こうい
う所にくると、何でもない物でも見たり聞いたりするものが気になるのは、昔を慕う心の
働きでしょう。なおそのあたりを歩いて止まると、御堂のあたりで今風でない、古風な物
の音が聞えます。案内の男の説明では、「今月はこの寺をはじめた上人の忌み月で、千部の
読経をしており、日ごとの行のはじめに唱える楽の声です」というので、是非聞きたいと
急いで行きましたが、着く前に終わって残念でした。御堂のうちを通って、例の貫之の梅
の前から一方へ少し下ると、学問する男たちの庵のほとりに、古今集の二本の杉の跡とい
う小さい杉がありました。さらに少し下って、定家中納言の塔という五輪の石がたってい
ますが、最近のもののようで感心しません。八塩の岡という所もありました。
川辺に出て橋をわたり、向こう岸に玉葛《たまかづら》の君の跡という庵がありました。
墓もあるといいますが、今日はご主人の尼が用事で出かけて留守で門が閉じています。こ
の初瀬には、あの跡この跡と多数あり全てが本物のはずはないのに、この玉かずら《玉鬘:
訳註》は風情があります。源氏物語は全部架空の話ですが、それを知らずに事実と思って、
こんなものもつくったわけでしょうか。やや奥まったところに、家隆の二位の塔という石
の十三重の塔があり、
かなり古いもののようです。
そこに二股の大きな杉が立っています。
また牛頭天王の社があり、その脇に苔の下水というもありました。ここまではみな山の際
で、川にも近い所です。次に、前に通った与喜《よき》の天神にお参りしました。山腹で
やや平らな所に建ててあります。長谷山口坐《はつせのやまのくちにます》神社というの
が、これでしょう。しかし今は、それを知る人はおらず、煩わしいので尋ねてもみません
でした。昔は名のある社も、今の世ではみな八幡天神や牛頭天王に一括されてしまったの
ですね。
このあたりは森が深く杉は多いのですが、名前の由来のはずの檜原《ひばら》は見えま
せん。でも、川上には檜の木も多いと、案内の男は言っていますが。
こうして山を回り終わって里におりると、また雨がふり出しました。今日は朝から晴れ
て青空も見え、雨具はもう不要と仕舞ったのに、急いでとり出してまた着るのもうっとう
しいことです。
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ぬぎつれど又もふりきて雨ごろも かへすがへすも袖ぬらすかな
(せっかく脱いだのにまた雨が降ってきて、つくづく何度も濡れることだ)
でも降ったのはほんの短時間で、里を離れる頃にはしっかり止みました。向こう側の入
口に、大きなあけの鳥居がたっています。そこを出て、出雲村黒崎村という所を過ぎまし
た。このあたりは朝倉宮《あさくらのみや》列木宮は雄略天皇(21 代)の都で、長谷列木宮
《なみきのみや》は武烈天皇(25 代)の都の跡と聞いて好奇心がわきます。黒崎では、家
ごとに饅頭をつくって売っていて、古事に詳しそうな老人のやっている家を見つけて、饅
頭を食いながら例の古いお宮の事を訊きました。古い都の址とは聞いていますが、明確に
どれがどうと判っている場所はないそうです。
高圓山《たかまとやま》はどれかと質問すると、すぐ後ろですよと教えるのを見ると、
この里からは南の結構高く頂上が少しだけ見え、今は「とかま山」と呼ぶそうです。本物の
高圓山は春日にあり、
ここで同じ名をつけるのは、
以前からとかまというのか、
それとも「た
かま」と「とかま」と音が似ている故でしょうか。あるいはせっかく高圓山とつけたのに、
土地の人が訛って「とかま」に変えてしまったのか、事情はわかりません。
脇本慈恩寺という里を過ぎました。ここからはとかま山がすぐ近くに見えます。里の端
が追分で、三輪への道と桜井への道の分かれ道です。今はその少しこっちから左(南)へ
わかれ、橋をわたって多武《たむ、たぶ》の峯へゆく細道にかかりました。この橋は、初
瀬川の流れにかかる橋です。そもそも多武の峯へは、櫻井からゆくのが本道で、とび村が
その道だという名のある所で、訪ねて見たいのですが、遠くて大変なので今の道をとりま
す。東の方に大変に高い山があるのが音羽山で、麓に音羽の里というがあるそうです。
忍坂《おさか》村は道の左の山間で、間もなくこの村の脇を通り過ぎました。ここも古
い和歌に登場する神社がありますが、先を急ぐので何でも全部訪れるわけにもいきません。
山の際をさらにどんどん行き、倉梯《くらはし》の里に出ました。桜井からくる道です。
初瀬からは二里で、多武《たむ》の峰迄はさらに一里です。しばらく休んだ家で、例の都
のあとを尋ねると、
【崇峻天皇(すしゅん、32 代)の都倉梯柴垣の宮】
、主人の言うには、
この里に金福寺というのがあり、それが御跡だといいます。案内させましょうと息子でし
ょうか、十二三歳の少年が案内してくれました。ついて行くと、二三町ほど戻り、その寺
というのは門もなく仮の庵としか言えないようなものです。もう少し詳しいことが知りた
いと、主人のところへ戻りましたがいませんでした。前にごまだうという、かやぶきの小
さいお堂があって覗いて見ると、
不動尊のわきに聖徳太子と崇峻天皇とが並んで祀られて、
書きつけたものが立っています。しかし、すっかり今風で、昔をしのぶものとは到底いえ
ません。倉梯川は、この庵のすぐ後をながれています。ここは、山も川もすべて名のある
所でした。
さきの家に戻って、もう一度御陵【倉梯岡陵崇峻天皇】はどれか訊くと、それは忍坂《お
さか》という村から五丁ほど東南の方向に御陵山というこんもりした森があり、そこに洞
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が三つあって深さが五六十間で、ここからは距離があるが、その辺もまあ倉梯です、と言
われました。その忍坂ならさきほど通ってきた道で、知らないで通り過ぎて残念ですが、
ここから二十町以上あり、結局行けませんでした。音羽山はここから東で、高くみえます。
倉梯山は古い和歌に高い山と詠まれており、この音羽山が倉梯山でしょうか。
里を出て五丁ほど行って土橋をわたり、右の方に下居《おりゐ》という村がありました。
その上の山に小高い森が見えるのが用明天皇(31 代)を葬った所だと、例の家のあるじが
教えてくれましたが、位置が違うとようで他にあるかも知れないと思いながら登って見る
と、森の中に春日の社という祠《ほこら》がありました。
少し下った所に山寺があって立ち寄って尋ねると、あるじの法師が言うには、「これは御
陵ではありません、用明御陵は長門村にあります」というので、そうだったのか、あのお
やじが教えたのは間違いかと思い定めました。とはいうものの、この森もなにか由緒のあ
る所に思えます。古い書に、
【文徳實録九又神名帳】椋橋下居神《くらはしおりいのかみ》
とあるのも、この里にいたのでしょう。
例の土橋を渡って倉梯川を左にみて、流れにそってのぼりました。この川は、多武の峯
から出て倉梯の里を北へ流れる川です。この道に、桜井から始まって多武峰迄、瓔珞經《よ
うらくきょう》
の五十二位 という事を一町ごとに分けて選んで記した石碑が立っています
(注:修行の階位になぞらえて道標をつくったもの)。こういうものは、過去も未来も重要
で道を進む道標です。同じ川岸をさらに苦労して登ると、木の深い谷陰になって、左右か
ら谷川が落ち合う所に到着しました。
瀧津瀬の景勝で、興味津々です。橋をわたると、すぐ茶屋(注:「茶屋」と「茶店」はち
がうと宣長が手紙で述べているという)
がありました。ここが多武の峰の口だといいます。
そこから二三町ほど家がつづき、また美しい橋があるのを渡り、少しゆくと惣門に入りま
した。左右に僧坊がいくつも並んで建っています。御廟の御前は山腹に南向きに、見事に
整理されていかめしく建ち、美しく磨かれて輝くばかりです。十三重の塔や惣社が、もう
一つ西の方に建っています。この辺、宮殿のあたりはもちろん、僧坊の脇や道の細かい個
所まですべて、
山中なのに落ち葉ひとつもなく見事に掃き清めて、
その点も類ない姿です。
桜はちょうど盛りで、どこもかしこも一杯に白く咲いた花の梢まで、どこからも見事で
言葉では描写できません。これらはみな移植した木でしょうか。一様でなく、多種多様に
見えます。そもそも、この山にこれほど桜が多いとは、これまで聞いていませんでした。
谷ふかく分いるたむの山ざくら かひあるはなのいろを見るかな
(多武の桜をみようと谷ふかく分け入った それだけの甲斐あって見事だ)
鳥居のたっている前を、西の方向に越えていくと、向こうにまた惣門がありました。そ
の前をまっすぐ西へ下ると、飛鳥の岡へ五十町だということですが、私たちは南へ行きま
す。途中に細川という里があると聞きましたが、南淵《みなぶち》の細川山と詠われてい
る所でしょうか。またそこに、この多武の山から流れてゆく川もあるでしょうか、
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【萬葉九に うちたをり たむの山霧しげきかも 細川の瀬に浪のさわげる 柿本人麻呂、
「うちたをり」は たむの枕詞】
訪れてみたかったけれど、行けませんでした。この門から左におれる別れ道が吉野への
道です。はるかに山路を登ってゆくと、峠に茶屋がありました。大和の国中が見わたせる
場所です。
さらに同じような山路を進むと別の峠に着きました。今度はいよいよ吉野の山々
が雲の向うにみえ、昔からずっと気にかけてきた吉野の桜が、遠景ながら見えて嬉しいこ
とです。峠から下ってゆく谷かげ、そこを勢いよく流れる川の景色など、世俗をはなれて
清潔な印象です。多武の峰から一里半というところに瀧の畑という山里があり、まさに瀧
川のほとりです。また山を一つこえた谷陰で、岡から上市へ越える道とゆき合いました。
今日は何とか吉野まで行きたかったのですが、春の日も大分暮れてきたので、千俣《ちま
た》という山の中の里に泊まります。今夜のところは我慢です。
ふる里に通ふ夢路やたどらまし ちまたの里に旅寝しつれば
(夢でふる里への道をたどりたいものだ せっかくこのちまたの里という分岐点で寝
るのだから)
この宿で龍門の瀧の案内を尋ねると、あるじの話では、直接上市へ行けば一里ですが、
瀧をまわると二里余り、瀧がここから一里余りで、そこから上市へも一里だといいます。
この瀧は以前から何とか見たいと思い、今日の多武の峯から行こうと思っていたのに、道
案内した者が遠くて道も険しいと言ったので、遠慮して行かなかったのに、今の話ではそ
の道なら遠くもなかったはずで残念です。しかし吉野の花の盛りが過ぎたときくと気がせ
いて、明日是非瀧へゆきたいという人はいません。そもそもこの龍門というところは、伊
勢から高見山をこえて、吉野へも木の国(紀の国:和歌山県)へも通じる道で、その道か
ら八丁ほど入ったところにある不思議な瀧で、日照りで干ばつの際に雨乞いすると霊験あ
らたかで、うなぎが昇ってやがて雨がふるという話です。
立よらでよそにききつつ過る哉 心にかけし瀧の白糸、
(龍門の瀧は気にかけていた 行かれたはずなのに立ち寄らずに過ぎてしまって残念)
地名と経路
はいばら(萩原、榛原)出発→(駕篭)→西峠→角柄→吉隠(よなばり)
・猪養の岡・御
陵→けはい坂→与喜の天神→初瀬(食事)→長谷寺各所(道明の塔・貫之の軒端の梅・蔵
王堂・産霊神・雲居坂・御堂・二本の杉跡・定家の塔・八塩の岡)→玉葛の跡・家隆二位
の塔・牛頭天王社・苔の下水・与喜の天神(長谷山口坐神社)→朱の鳥居→出雲村・黒崎
村(休憩・まんぢう)→脇本慈恩寺→忍坂(おさか)村→倉梯(一休み)→金福寺(倉椅柴
垣宮跡・宣長単独行動?)→下居(おりい)村・森(用明天皇陵?)→茶屋→多武の峰(鎌
足墓所・十三重塔等)→瀧津瀬→峠二つ→滝の畑(滝畑)→千俣(泊)
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歩行行程:初瀬→多武(2 里)以外は距離を書いていません。推測では、榛原→初瀬(2
里)
、多武→千俣(2 里)で、初瀬から多武を加えて計 6 里です。ただし、あちこちで見物
している一方、駕篭利用ですからあまり疲労はないでしょうか。
地図:
第 3 日は榛原から長谷寺までは近鉄線沿いで、鉄道はそのまま西へ向かい、旅人は離れて
南下して吉野へ向かいます。音羽山、倉橋(倉梯)
、下居、多武峰、竜門岳、滝の畑(滝畑)、
千俣、それにずっと離れた高見山を地図に書き加えました。
注釈:吉隠は「よなばり」と読むようで、万葉集にもいくつか例があります。不思議な読み
方の理由は不明。
注釈:「貫之の軒端の梅」
:有名なお話です。古今集に
ひとはいさ心もしらず ふるさとは 花ぞむかしのかににほひける
という歌があり、小倉百人一首にも載っています。歌の背景は、この場所を久しぶりに訪
れた際、宿の主人に「しばらくお見えにならずお見限りですか、宿はこのとおりありますの
に」と皮肉っぽく言われて、「人の心はかわるようだが 梅の花は同じ」と皮肉で答えたと
いうのです。
原文:初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に久しくやどらで、ほどへて後にいたれりけれ
ば、彼の家のあるじ「かくさだかになむやどりはある」といひ出して侍りければ、そこにた
てりける梅の花を折りてよめる。
注釈:玉鬘は源氏物語の登場人物で、22 巻のタイトル。玉葛と玉鬘は表記が異なりますが
内容は同一です。
注釈:倉梯川と「くら橋川」も表記が二種あり、また椋橋という表記もあります。印刷の書
籍でもこうなっています。
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三月八日(第 4 日)、千俣、上市、吉野入り、吉野水分神社、箱屋某(泊)
昨日初瀬を出た後は雨も降らず、四方の山の稜線もやっと明るくみえます。多武の峰は
一点の雲もなく晴れて、今日もよい天気です。吉野に近づいて誰も楽しい故でしょう。今
朝は脚がかるく感じます。上市にはすぐ到着しました。この間は一里と聞いていたのにと
ても近く、半里もない感じでした。
吉野川、ひまもなくうかべるいかだをおし分て、こなたのきしに船さしよす、夕暮なら
ねば、渡し守ははやともいはねど、
(吉野川にびっしり浮かぶ筏を押し分けるように渡し船が岸によってくる 夕暮れでは
ないので急かすことはないけれども)
【いせ物語に 渡し守はや船にのれ日もくれぬというに云々】
みな急いで乗りました。妹背山はどれかと訊くと、河上の方に流れをへだてて向かい合
って近く見える山があり、東が妹山で西が背山だと教えてくれました。もっともこの名の
本物は紀州和歌山にあるのに、
「妹背という妻と夫の間を流れる吉野川に強い思いを抱いて、
ここにしようと定めたので、そういうことの好きな人が名づけた」と推測しますが、とは
いうものの、
妹背山なき名もよしやよしの川 よにながれてはそれとこそ見め
(妹背山がはっきりしないが 名はどうでもよい 吉野川が流れる限り、源流の二つの
山をそう判断しましょう)
向こう岸は、飯貝《いがい》という里です。川辺にそって少し西に進み、丹治《たんじ》
という所から、吉野山へ入ってゆきます。早速杉むらの中に四手掛《しでかけ》明神とい
うのがありますが、本来は吉野山口神社でしょう。でも、それほどの社には見えません。
この森の下も上も付近全体が特に桜が多く、その中をどんどん登ると登り詰めた所で六田
からの登り道との合流点に茶屋があり、しばらく休みました。この建物は、坂路の下から
高く見上げた場所です。
ここから見わたすところを一目千本と言い、吉野全体でも桜の特に多いところです。た
しかに名前の通りですが、それにしてもこんなみじめったらしい名をつけたのはどこのバ
カ者かと気に入りません。花の盛りはまあ過ぎて、今は斑に消えた雪のように、散り残っ
た梢など所々に見えています。
そもそもこの山の桜は、立春から六十五日頃が毎年盛りだと世間では言います。故郷の
人で吉野へ行ってきた人の話では、
どこそこの盛りを見てから行けば丁度よいと言うので、
それを聞いて出発しました。道の途中でも尋ねながら来ましたが、ちょうどよさそうとい
う人が多い一方で、まだダメという人もおり、これほど盛りが過ぎているとは思いもより
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ませんでした。
実際にこの土地で詳しく尋ねると、二月の月末が大変暖かで、例年に比較して今年はず
っと早く咲き始め、三月の三日か四日頃が盛りだったのに、雨が激しく風まで吹いて、本
当の盛りがないまま終わったという話しです。つまり、寒暖によって遅くも早くもなり、
必ずどの時期とは、土地の人も前もっては決めかねるようです。
北東方向に、御舟山《みふねやま》が見えます。
【万葉に「瀧の上の御船の山】 でも万
葉集では、この山を瀧の上と詠んでおり、こんなに近いはずがありません。これも例の勝
手な命名でしょう。ここは吉野の里への入口で、町家が続いています。二三町行って石の
階段を少し登った所に、大きな銅《あかがね》の鳥居が建っていて、發心門《ほっしんも
ん》と書いた額は弘法大師の筆跡だそうです。そこから二町いくと、石の階段の上に仁王
様が立っている門がありました。この付近の桜は、満開のも数多く見えます。御舟山はこ
こからは正面に近く見えます。まづ宿を決めようと、蔵王堂にはお参りせずに通過しまし
た。蔵王堂は向こう向きなので、門はうしろの方に建っています。その付近できれいなと
ころに宿をさだめ、とりあえず一寸休んで食事も済ませ、今日明日のことを相談し、道案
内を頼むべきか尋ね、それからとりあえず近い所をと宿を出ました。宿は箱やの何某とい
う家で吉水院《よしみずいん》に近いので、まづそこに参拝しました。吉水院は道から左
へ少し下って少し登ったはなれた岡で、周囲は谷です。後醍醐天皇がしばらくおいでにな
った所で当時の様子のまま残り、入ってみると実に古めかしい御殿の中の様子など、ふつ
うの場所とは違います。かかっている幕は高貴な様子ですが、
いにしへのこころをくみてよし水の ふかきあはれに袖はぬれけり
(この吉水にいらした天皇の御苦労を思うと そこを訪れただけの私も感極まって涙が
とまりません)
後醍醐天皇の御像は、後村上天皇が御自身で彫られたものだそうで、それが鎮座してい
るのを拝みました。
あはれ君この吉水にうつり来て のこる御影を見るもかしこし
(天皇がこの吉水にお移りになって、ここに残しているご真影をみるのも畏れ多いことで
す)
昔からの古い宝物なども多数あって一応拝見したものの、
全部はとても覚えきれません。
この寺の境内に、こじんまりした建物で前が開けて見晴らしのよいところに入って、煙草
を喫いながら眺めると(訳註)
、子守の御社の山が向う側に高く見えて、その山の片側の谷
には桜の木がびっしり並びますが、今は花が終わって青葉が多く、つくづく残念です。で
もまあ、桜は多いから花盛りのものも多数あり、
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みよし野の花は日数もかぎりなし 青葉のおくも猶盛にて
(吉野の花は日数にもかぎりがありません。一部は青葉になっても花の盛りのものもあ
ります)
滝桜というのも、遠くの瀧の辺にあると教わりました。
咲にほふ花のよそめはたちよりて 見るともまさる滝のしら糸
(咲におう花は、近くでみるのもけっこうですが、滝のしら糸の桜のように遠目でみ
るほうがもっと素晴らしい)
日暮れまで見ても、飽きることは到底ないでしょう。雲ゐ桜というのもあり、後醍醐天
皇がこの花を御覧になって、
ここにても雲ゐのさくら咲にけり ただかりそめの宿とおもふに
(こんなかりそめの皇居ですが、それでも皇居らしく桜は咲きました)
とお詠みになっており、
世々をへて向かいの山の花の名に のこるくもゐのあとはふりにき
(後醍醐天皇から永い期間が経ちましたが、雲居の桜という名は古くはなっても残っ
ています)
次に蔵王堂にお参りしました。とばりを揚げて拝見すると大きな像で、怒った顔で片足
を上げておそろしい様子で立ち、三体あって皆同じ様子で特別の差はわかりません。堂は
南向きに建ち、縦も横も十丈余りで、作り方はとても古く見えます。桜を四隅に植えて四
本桜というそうです。一方の端に、鍋でもあるかのような一部壊れかけた大きな鉄製のも
のが放置してあって何かと訊くと、昔塔の九輪のやけ落ちた一部が、こんな風に残ってい
るそうです。口の直径が六七尺もあり、塔の大きかったことが推測できます。
堂の脇から、西へ石の階段を少し下ると実城寺です。本尊の左側に後醍醐天皇の、右側
に後村上院の、位牌というものが立っています。この寺も、前側は蔵王堂の方に続き、後
も左右も少し下ると谷です。吉水院からは、少し距離があります。ここはかりそめの皇居
ながら五十年余りの年月、三代の帝【後醍醐天皇、後村上天皇、後亀山天皇】が住んだの
ですから、行幸の跡と云うのは正しくないでしょう。行幸ではなく、実際に住んだのです
から。今は、堂も何もつくり替えて昔の名残もないものの、それでも貴重で、心憎い様子
は他の場所とは違います。
寺を出て元の道に帰り、桜本坊などを見ました。勝手神社は最近焼失して、現在はほん
の小さな仮屋を拝んで通り過ぎました。この社のとなりで袖振山という小高い所に小さい
森があり、同じ時に焼けたそうです。御影山もこの続きで、木のこんもりした森です。竹
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林院の堂の前に珍しい竹があり、一節ごとに四方に枝が出ています。うしろの方に、見事
な趣向のお庭がありました。そこから少し高い所へ上がって四方の山を見わたすと、まず
北の方に町の屋並みに続いて蔵王堂が他より立派に見え、遠くには多武の山・高とり山が
あり、東北の方向に龍門嶽が見えます。東と西には谷の向こうに真近い山々が続き、南に
は例の子守の御社の山が高く見上られ、北西方向はよく晴れて葛城山が霞の間から見える
など、周囲が何ともいえず趣のある景色です。
花とのみおもひ入ぬるよしの山 よものながめもたぐひやはある、
(桜をみるだけのつもりで吉野山にきましたが、山からの四方の眺めもたぐいなく素
晴らしいことです)
永い時間眺めています。まだまだこの先も見どころが多いのに、日が暮れますよと注意
されましたが、それも聞こえずに暮れるならそれもよいと
【古今春「いざけふは春の山べにまじりなん 暮なばなげの花の陰かは】
などと古歌を思って口に出して、それから
あかなくに一よはねなんみよしの の竹のはやしの花のこの本
(この吉野山の竹と桜の下で、一晩はゆっくり過ごそう。まだ眺め足りないから。)
そうは言うものの、これから先の場所ももちろん捨てるわけにいかず、そこに立ってい
る桜の枝に、この歌をむすんで場を離れました。そこからゆく道のほとりに、何に使うの
でしょうか、桜のやどり木という物が多数乾してあるのを見て、
うらやまし我もこひしき花の枝を いかにちぎりてやどりそめけむ
(桜の花の枝と言えば、私も何とかちぎって身につけたいのに、ヤドリギはそれを実
現してうらやましいことだ。「そめ」は「染め」と「初め」をかけているのでしょうか?)
どんどんゆくと、夢ちがえ観音がありました。道の行く手に、布引の桜という並び立っ
た所もありますが、花は終わって青葉で、旅のことで特にたちどまりませんでした。吉水
院から見えていた滝桜や雲居桜もすぐ近くです。世尊寺は古めかしい寺で大きい古い鐘が
あり、さらに登ると蔵王堂から十八町の場所に子守の神があります。
この社は他のどこよりも念入りにしずかに拝みました。理由はこうです。昔、私の父親
が子ができないことを嘆き、わざわざこの神に祈願なされました。そうすると間もなく効
能があって母が身ごもり、ともかく願いがかなってよかったと悦び、その上に同じことな
ら男児を授けて欲しいとさらに祈願したところ、私が生まれたというわけです。十三歳に
なったら必ずお礼にお参りすると申し上げたのに、
私が十一歳の時に父は亡くなりました。
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母は事あるごとに何度も思い出して涙を流し、私が十三歳になった時、父の願を果たさせ
ようと人をつけてお参りさせました。今はその母も亡くなり、
まるで夢のように感じます。
思い出るそのかみ垣にたむけして 麻よりしげくちるなみだかな
(昔、父親がこの神様にお願いして自分が生まれたのですから、それを思うと幣より
も激しく涙が出ることです)
涙がとまらず、袖をしぼっても間に合いません。13 歳の時はまだ若くて強くは認識し
ませんでしたが、今はなんとか一人前になり、物の心もわかるまでになりました。昔の物
語を聞いて、神の恵みの一通りでない事を思い、心にかけて毎朝こちらを向いて拝み、わ
ざわざお参りしたいと何度も思いましたが何かと邪魔が入り、三十年後の今年四十三歳で、
このようにお参りができたのも深い契でしょう。永年の気がかりが解決して、嬉しくて涙
が落ちます。でもその落ちる涙は昔と同じです。
花見のついでとは信心事に不謹慎なようですが、とにかくわざわざやって参りました。
ですから神様もお許し下さって、御参詣を受けて下さると信じます。これだけ深い因縁が
あるので、この神様の事は特に大切に考え、本を読むときにいつも心にかけ自問しており
ました。実は吉野水分神社《みくまりのみねのかみのやしろ》というのがこの事だったか
と、以前から気づいてはいました。續日本紀に水分峯神ともあるのが、まさにこれにあた
ります。場所の状況も確認したくて永年心もとない思いでしたが、今回来て見てたしかに
この周辺の山の峯で、どこよりも高く見える点も疑いもなく、なるほどと納得しました。
古い和歌でみくまり山と詠んでいるのがここで、その文字をみずわけと読み違って、別
の山と思えそうな名をつけてしまったのが、よく起こる問題でしょう。枕草子では、みく
まりを訛って御子守と書き、今ではさらに略してただ子守と言って、生まれた子の栄えを
いのる神となっているそうです。とにかく、私の父が祈ったのがこれでした。
この門前には桜が多く、いまが盛りです。木の根元にある茶屋に立ちよって休んでいる
と、尾張国の人がやはり花見にきており、漢詩をこのむ人で漢風の名も伺いましたが忘れ
ました。その妻のほうは、和歌を詠まれるといい随伴しています。やや年齢が進んでいま
すが、悪くない様子です。この方々は、一昨日伊賀の名張で休んだ所でも見かけ、昨日多
武の峰でも一緒にお参りし、今日も先の竹林院でも行きあって、男性のほうは小泉と話し
合って文章をつくって交換しながら、自分らの事柄も詳しく尋ねたということです。そん
な事は知らないまま、ここでも出会ったので、いろいろ状況を説明していろいろ話しまし
たが、春の日も夕暮れの鐘が鳴って、あわただしい気分になって別れました。
今は又きみがことばの花も見ん よし野のやまはわけくらしけり
(いつかあなたの和歌も拝見しましょう 今日は吉野山の桜だけで暮れましたが)
これからの行く先はまた明日にと言い残して、ここから宿にかえりました。その夜、例
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の尾張の人の宿から、歌を 2 首書いてよこしました。例の盛りを過ぎた人のでしょう。今
日の花が趣深かったとあったので、返歌しました。
よしの山ひる見し花のおもかげも にほひをそへてかすむ月影
(ひる見た吉野山の花の様子が 月影ではかすみながら匂いが加わっているようです)
こう詠んだのは、かの歌人の名が、霞月《かげつ》とあったからです。果物をそえて贈
って
みよし野の山よりふかきなさけをや 花のかへさの家づとにせん
(深い吉野の山よりも深い情けを頂きました。是非花見の帰り道のお土産にしま
しょう)
それから今度は、お弁当袋にたまたま持ち合わせていた伊勢の川上茶というのを差し上
げ、つつんだ紙に加えました。
ちぎるあれや山路分来てすぎがての 木の下陰にしばしあひしも
(何かのご縁があったのでしょう この吉野の山路に分け入って 美しさに通り過ぎる
のがむずかしく木の下陰にいたお蔭でお会いました)
「茶すこし」と折り込んだのですが、わかるでしょうか。他の人々の和歌なども、あれこ
れ書きつけて贈りました。京へといそぐ事があり、明日は早く出発すると言っていました
ので、
旅衣袖こそぬるれよしの川 花よりはやき人のわかれに
(吉野川で旅衣の袖は涙にぬれました 花が散るように去っていった人もおりました)
訳註:「煙ふきつつ見下ろせば」を「煙草を喫いながら見下ろすと」と解釈しました。宣長
が喫煙するシーンはここしか見当たりません。他の資料はどうでしょうか。
訳注:「茶すこし」は「ちぎるあれや山路分来てすぎがての・・・・・・・」の各句頭に「ち
やすこし」と織り込んだことを言います。
経路と地名:
千俣出発→上市→吉野川(渡し船、妹背山)→飯貝→丹治→(吉野山口)→四手掛明神
(吉野山口神社?)→一目千本の茶屋(休憩)→銅の鳥居→仁王門→箱屋某(宿で休憩、
食事)→吉水院→蔵王堂(四本桜)→実城寺→桜本坊→勝手神社→竹林院→夢ちがへ観音
→滝桜・雲井桜→世尊寺→吉野水分神社→茶屋(休憩)→名古屋の人→箱屋某(泊)
:歌の
交換
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地図:
この日は千俣から吉野へ入ってその中を動いており、地図の上での移動距離は小幅です。
地図の縮尺の数値が小さい点に注意。上市・丹治・六田・吉水院(神社)
・蔵王堂・竹林院・
如意輪寺(翌日)なども地図に書き込まれています。竜門岳(龍門嶽)は前の地図に書き
込みましたが、多武峰のとなりです。葛城山は、香久山からの遠望の図を参照してくださ
い。
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三月九日(第 5 日)、吉野滞在、筏流し、滝、岩飛び見物、箱屋某にも
う一泊
早起きして橋の袂から眺めると、空は一点の雲もなく晴れています。出たばかりの明る
い朝日が木々の芽に映え、春の深まる山々の景色に今朝は霞もかからず、すべてあざやか
に見わたせます。吉水院はすぐ近くに浮かび上がり、行き交う人の様子がすぐ目前です。
この里は、水分《みくまり》の峰から片下がりにつづき、細い尾の上にあるように左右に
並んでいます。民家の前側はさりげなく普通の家で、後側をみるとどこも谷から作りあげ
た三階建てで、見晴らしはよさそうです。客を泊めたり物を売るのは最上階で、道からま
っすぐ入れます。家人の住まいはその下の中階で、戸口から階段を下りて入ります。もう
一段下りると、そこは床もなく土の上に物を置くなど乱雑で整理も乏しく、湯殿や便所は
この階にあるのですが、1 日歩いて疲れた旅人の足には、この階段の昇降はまるで深い山
を越えるようで辛く感じます。とは言ってもこの様子は何とも面白く、昇降の辛さなど物
の数ではありません。
花が散ったら帰ってくるだろうと待っている人のことも忘れて、西行法師の言うように
しばらくここに滞在して、住んでみたいと思うくらいです。
【新古今西行
「吉野山やがていでじと思ふ身を 花散なばと人やまつらん】
(訳註参照)
今日は瀧を見に行こうと、道案内に携帯食と酒をもたせて先導させ出発しました。町屋
は、竹林院のあたりまでは僧坊と混じって続きますが、その先はまばらになり、子守の御
社から奥は人家もなく、
杉だけが茂った森を分け入りました。
やや開けた所に出て、
左に「は
るかの谷」と名づけたあたりは桜が多くてしかも満開です。
高根より程もはるかの谷かけて 立つづきたる花のしら雲
(高い山からはるかの谷まで、桜がずっと咲いて雲のようにつづいているなあ)
さらに進むと大きな朱色の鳥居があり、二の鳥居とか修行門とも呼ぶ由です。金御峯神
社は金精大明神とも言い、この山を支配する神だそうです。前を少し左へ下るとけぬけの
塔という古めかしい塔があり、名前の由来は源義経が敵に追われて中に隠れたところ、見
つかったので屋根を蹴飛ばして逃げた跡だとして見せています。でも、こんなのは嘘くさ
くて興味を惹かれず、ゆっくりとは見ませんでした。さらに深く分け入ると、茶屋がある
所に到着しました。前を右へ少し下ると安禅寺です。蔵王堂は、大坂右大臣(豊臣秀頼)
が立てたものだそうです。東の方に木がこんもりした山は青根が峯といい、この堂の前か
らすぐ近くに見えます。二三町奥に、何とかいう大げさな名のついた堂がありました。そ
のうしろで木の下の道を二丁ほど下った谷陰に、苔清水という岩間から水のしたたり落ち
る所がありました。西行法師の和歌として説明者が話をきくと、本物と違いとんでもない
下手な偽の和歌です。さらに一町ほど分け行くと、西行の住んだ跡があり、すこし平らな
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所で一丈ほどの仮庵が今もありました。桜もここかしこに見えます。
花見つつすみし昔のあととへば こけの清水にうかぶおもかげ
(花見をしながら故人が住んだ跡を訪れると こけの清水におもかげが浮かぶことだ)
最近もある法師が、三年ほどここに籠ったそうです。
京で高野槇と呼ぶ木を、ここの人はただ槇といいます。これから考えると、昔檜のほか
に槇といったのはこの木のことでしょう。わざわざ述べるまでもありませんが、付近に槇
が多いので質問して、答えてもらったのを思い出したので、筆のついでに書きました。
本道を安禅寺の前の茶屋迄戻り、御嶽《みたけ》への参道にかかり三丁余りもきたと思
う所に、案内の石の道標がある道を左へ分れて進みました。御嶽へ道はここから先は女人
禁制だそうで、前に見た青根が峯がこの山です。少し行って、東側のずっと谷底に夏箕《な
つみ》の里が見えました。さらに進むと東北の谷に国栖《くず》という里が見おろせます。
このあたりで尾根をつたわってゆくのは大変な距離で、上り下りの坂路の険しさは例がな
いほどながら、下りは登りほど辛くはありません。坂を下りきると西河《にじこう》の里
で、安禅寺から一里といいますが、ひどく遠く感じました。山につつまれ何も見えない里
ながら、家ごとに紙を漉いて門前に多数干してあり、見たことのない技術を好奇心にから
れ足を休めがてら立ち入ると、一枚ずつすき上げては重ねる様子が珍しく、時の経つのを
忘れました。
そこから右の方へ三丁ほど、里からはなれて谷川をわたる板橋から分かれ、左へ少し登
って山の間を向こう側へ越えると大滝村です。この間は五丁ほどだったでしょう。大瀧の
里の向こうのはずれが吉野川の川辺で、瀧といっても川岸の家の前から見える早瀬で、上
からまともに落ちる滝ではありません。
瀧は遠くからみると何ということもありませんが、
貝原益軒翁が「是非近寄って見るよう」と説いているので、岩の上を何とか歩いて間近で覗
きました。その付近すべて、何ともいえず大きな岩が数多く重なっている間を川水が走り
落ちる様子や岩にあたって砕ける白波など、趣があるとも恐ろしいとも言えます。
以前は筏もこの瀬をふつうに流しましたが、水流があまりにはげしく難儀したので、岩
のなだらかな所を切り通して、
今は向こうを何とか下れるようにしたと教える方を見ると、
向こうに一筋分流があり、たしかにこちら側の瀬より少しのどかなようです。
ああ、下って来る筏があるといいな、何とかしてこの早瀬を下る様子を見たいと話しな
がら、食事を摂り酒など飲んでいると、願いどおり南から筏流しがだんだん近づいてきま
した。瀧の直前までくると、乗っている者たちは左右の岩の上にとびうつり、先頭の一人
が綱を引っ張って、他の全員が流れにそって走って行きますが、その間筏の下る様は矢の
ようです。さて岩が終わる所までくると人々は筏に戻り、そこは殊に水勢がはげしく、逆
巻く波にゆられて浮き沈みする丸木の上へ楽々ととびうつる様子はひどく危なっかしい感
じですが、珍しくて面白いことは例がありません。私たち仲間は全員この筏に見入って、
盃のほうの動きはまったく止まりました。この筏が瀧をはなれて、穏やかな瀬を下るのを
よく見ると、一丈二三尺ほどの長さの板材を三つ四つずつ組んでならべ、つぎつぎに十六
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艘、つないだものをとても長く引いています。合計四人乗りで、この滝の下で川は向こう
へ折れて山間に流れて消えました。
右も左もつき立たような岩の下に、この筏を流していく景色は絵に描きたいようです。
こんな所では、かえって口がふさがって和歌も出にくく、それを無理してわざと思いめぐ
らすのもみっともないので止めました。昔吉野の宮といって、帝がしばらくいらっしゃっ
たころ、柿本人麻呂が御供して滝のみやこと詠んだのも、この大瀧がもつれたように流れ
る所だったのでしょうか。その歌などをあわせて思うと、蜻蛉《あきづ》の小野とか滝の
上の御舟山も、きっとこのあたりだったのは間違いありません。今もそう呼べる山がある
はずと見まわすと、この川面から左の少し振り返った方向に、そう呼んでよさそうな山が
ありました。
この山は船と呼ぶだけに、前後が平らに長く途中が一段と高く屋形に似た形です。これ
がそうだと思いますが、不明瞭です。理由の一つは、瀧から少し下方にあり、「瀧の上」と
は呼びにくいからですが、とにかくこの付近の山のはずです。昔を忍ぼうという人が何度
もここにいらっしゃるなら、是非確認して下さい。本来、この里の上の山のはずです。
大滝の里を通って西河《にじこう》へ戻り、板橋をわたり石の階段を一町ほど登り、木
のこんもりした谷を分け入って、いわゆる清明滝《せいめいがたき》を見ました。大瀧と
は違い、繁山の岩の面から十丈ほど真っ直ぐ落ちる滝です。
見物する場所は片側から突き出た岸の上で、向こう側の滝の中途にあたり、見上げたり
見下ろしたりします。滝は、上が狭くしだいにひろがって最後は幅一丈(3m)余で落ちて
行きます。
瀧壺は両側から深山の木が覆いかぶさる暗い谷底で、その穴を覗くような所へ、
山も轟きたぎるように落ちる景色は、何ともおそろしく何故か寒い気分です。小さなお堂
が建っている前から蔦に掴まって岩をよじ登って滝の上を見ると、水はなお上から落ちて
来て、岩淵に入ります。この淵は二丈ほどで狭くて深く見えます。瀧はこの淵の水があふ
れて落ちるわけです。
里人が岩飛というのを見せてくれると噂に聞いたので、西河で前もって尋ねたところ、
このごろは長雨で水が増えて危なくて出来ないそうです。この片側の岩の上から淵の底へ
とび込んで、浮き出ることで銭をとるので、水が多くてはげしい時は、浮き出る際におし
流されて「銚子の口」にかかると命にかかわるそうで、銚子の口とは淵から滝へ落ちる縁を
いいます。そもそもこの瀧を清明が瀧ともいうのは、蜻蛉《かげろふ、トンボのこと》の
小野による名で、虫の蜻螟《かげろう》だと云う人もいますがそうではないでしょうね。
里の人は「蝉の滝」ともいいますから、はじめはそう呼んでいたのに、後でその「蝉」をも
っともらしく「清明」と変えたのでしょう。瀧の様子を見ると、根元は細く下がだんだんひ
ろがるのは蝉の形に似ており、なる音も蝉の聲に似ていて、そう名づけたのでしょう。
蝉の瀧はここではなく別だともいいますが、里人はこの瀧だと言い張ります。それはと
もかく、虫の蜻螟はデタラメでしょう。かげろうの小野とは、例のあきづ野をあやまった
名で、もともとそんな所はなく、仮にあきづ野があるとしてもこの付近ではありません。
この滝のながれを音無川といい、不思議なのは月の前半は上の瀬に水がなく、後半は下
の瀬に水がないとのことです。それでは、上から来る水がどう流れるかというと、石の間
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や砂の下へどんどんしみ込んで消え、はるか下流でまた再度湧き出します。流れ自体はそ
んなこともありうるでしょうが、時期によって上の瀬と下の瀬とお互いに入れ替わるのは
不思議です。もっとも、今は普通の川でそんな様子もなく、最近は水が多い故だといいま
す。板橋がかかるところもこの川で、西河の里へ流れて行きます。里に戻って、また今朝
下ってきた山路にかかりましたが、今朝はたいしたことはなかったのに登るのは苦しくて
同じ道とは思えません。
登りきって、右側の道から分かれてさらに登る山を佛が峯といい、険しい坂です。そこ
から下る道はなだらかですが、もう脚が疲れているだけに難儀で、茶屋でしばらく休みま
した。ここで鹿塩《かしお》神社のことを尋ねると、それは樫尾西河大滝と三村の神で、
西河と樫尾との間の山中に今は大蔵明神という名で、ここからはかなり遠いとのことで、
お参りを諦めました。さらに坂路を下る途中で右側を見おろすと、山の下をめぐって吉野
川が流れています。国栖《くず》と夏箕《なつみ》も、ここからは川辺の近くに見えます。
下りきった所を樋口といい、その向かいの山の麓が宮滝の里で、吉野川はこの二つの里の
間を流れます。西河からここ迄は一里余でしょう。国栖と夏箕は、西河より少し上流です。
下流は上市に近づきます。
この付近もむかし仮の宮殿があり、帝が逍遥されたところで、
里の名を宮瀧という由来でしょう。ここの川辺の岩が、不思議で珍しいものです。例の大
滝の付近の岩はどれも角がなくなめらかですが、ここのは角があって、するどいのがひと
続きで、川原全体が全部岩です。この岩についても、例の義経の古事を、何とかかんとか
下らないことを話にしていますが、うるさいので聞きませんでした。このあたりの川は、
岩の間にせまって水は深いけれど、流れはのどかで早瀬ではありません。
岩から岩へ渡してある橋は三丈ほどでしょうか。宮滝の柴橋と呼び、柴で編んで渡ると
揺れるので、慣れないと危なっかしいものです。例の岩飛するものがここにもおり、勧誘
がきたので飛ぶように注文しました。飛ぶ所は、この橋のすぐ下です。両岸は岩の屏風を
立てたようで、水際から二丈四五尺ほどの高さがあり、向こう岸の岩から跳ぶのを、こち
らの岸から眺めるのでした。
男はまず着物をぬいで裸になり、手を下げてしっかり腋につけ、目をふさぎ、きれいに
立ったままで水の中へとび込みましたが、珍しいだけでなくおそろしくて見るほうもどき
どきしました。この日は水が高く深さは二丈五尺ほどだそうで、しばらくすると少し下へ
浮び出て、岸の岩につかまって上って、苦しそうな様子もなくもっと跳びましょうかとい
います。でも、おそろしいのでやめさせました。彼の言うところでは今のが最初で、後は
うしろ向きと、頭を下の逆様と、全部で三通り飛ぶそうです。この技術は、この辺で何年
もかけて身に着けるので、
習得は容易ではなく村内でも一人か二人しかできないそうです。
ここから帰り道は一里もないとの話でしたが、日も山の端に近づき、それではと宿に向
かいました。川辺をはなれて左の谷陰に入り四五丁もゆくと、道のほとりに桜木の宮があ
り、前にある谷川の橋をわたってお参りしました。そこから川辺をのぼり、喜佐谷村を過
ぎると山路にかかり、少し登って高滝という瀧がありました。結構な滝ですが、一つづき
ではなく、
つぎつぎにきざまれ落ちる様子は、
これはこれでなかなかに趣の深いものです。
象《きさ》の小川というのがこの瀧の流れで、今通って来た道から桜木の宮の前を通っ
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て大川に落ちます。象山《きさやま》もこのあたりのことでしょう。桜がとても多く、今
はもうだいたい青葉ですが、なかには少し散り残っているのも所々に見えます。吉野全体
でも特に桜の多いのは、例のにくらしい一目千本の名のついたところと、もう一つはこの
あたりでしょう。滝を右に見ながら坂を登って、向こう側へ下る道はなだらかで、そこか
らも桜が多数見えます。
それでも昔にくらべるとどこもかしこも今は少なくなったそうで、
以前は神様が惜しむので山のきまりとして木を伐ることを厳しく戒めました。しかし、今
はどこも杉を沢山植えたのが繁ってしまい、桜は陰に押し消されて枯れたものも多く、枯
れなくても衰えて枝折れなどが進んでいるのを、神様はどう思われるでしょうか。私の気
持ちでは、これほど杉を植えるのは、桜木を伐るよりも桜のためにはひどいと思います。
そんなことを感じながら、日暮れに宿に帰りつきました。大滝の和歌は、帰り道にかろう
じてひねり出しました。
ながれての世には絶けるみよしのの 滝のみやこにのこる瀧津瀬
(時の流れで吉野の都の様子は変わってしまったが 滝だけはみやこ時代と同様に今
ものこっています:「滝のみやこにのこる」は「滝のみがのこる」と「滝のみやこにのこる」
をかけているのでしょうか?)
宮瀧のも、
いにしへの跡はふりにし宮たきに 里の名しのぶ袖ぞぬれける
(昔の跡は古くなった宮滝ですが、
里の名としては残ってそれをしのぶと涙が出ます)
訳註:
「吉野山やがていでじと思ふ身を 花散なばと人やまつらん」という西行の和歌の解
釈に自信がありません。「しばらく滞在しようと思いますが、花の季節が過ぎれば吉野から
戻ると他の人は待っているでしょうか」と解釈しておきます。それで、宣長自身の「しばら
く住みたい」と述べている記述などと辻褄は合うようです。
この日の経路と地名:
宿→竹林院→吉野水分神社→二の鳥居(修行門)・金御峯神社→けぬけの塔→茶屋→安禅
寺・蔵王堂(東に青根が峯展望)→苔清水→(西行庵)-(戻り)→茶屋(休憩?)→(道
標・大峰山との分岐点)→(東の谷底に夏箕の里展望)→(東北の谷底に国栖の里展望)
→西河の里(紙漉)→大滝村・瀧(筏流しを見ながら酒)→清明《せいめい》が滝→西河
-(戻り・急坂登り)→分岐点→仏が峯→茶屋(休憩・鹿塩神社のことを尋ねる)→樋口
(向側が宮滝)→宮滝の柴橋・岩飛び見物→桜木の宮→喜佐谷村→高滝→箱屋某(二泊目)
地図:竹林院、吉野水分神社、金峯神社、蔵王堂、宮滝、大滝、西河、国栖、喜佐谷など
の地名が見えます。このコピーにはありませんが、国土地理院の原地図を拡大すると、こ
の喜佐谷の文字の左側の流れが喜佐川(象川)で向かい側に象山が見つかります。
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◇菅笠日記下の巻
三月十日(第 6 日)、吉野で如意輪寺参詣、壺坂寺、橘寺、飛鳥の岡(泊)
今日は吉野を発ちました。如意輪寺は昨日の帰途にお参りすべきでしたが、日が暮れて
寄れず今朝あらためてお参りしました。この寺は、勝手神社の前から谷へ下った向かいの
山です。谷川の橋をわたって入って行く道に、桜が沢山あります。寺は山の中腹で古めか
しく、お堂の脇の宝物館に、蔵王権現像があります。厨子のとびらの裏にある絵は巨勢金
岡が描いた由で、古くて見どころがあります。後醍醐天皇が、ご自分でこの絵の心を尽し
てお書きになった詩がつき、傍らに帝の御像もあり、御手ずから刻ませたといいます。他
にお書きになった物や手習いに使われた硯などを取り出して見せてくれました。さらに、
楠正行が出陣するとき矢のさきで塔のとびらに彫りこんだ和歌、
かへらじとかねて思へば梓弓 なきかずにいる名をぞとどむる
(梓弓から放たれた矢のように、もうここに帰ることはないでしょう。死んでいくも
のとしてせめて名は残します。
)
その和歌を彫ったのも、この蔵に残っています。帝のために忠義を守った人で、義経と
は段違いにしみじみと深く感じます。また塔尾《とうのお》の御陵といって、この堂のう
しろの山へすこし登って木の深いところに、かの帝の御陵もあってお参りしたところ、小
高く築いた丘に木が一杯に茂り、めぐらせた石の垣も片側はゆがんで壊れ、寂しくもあは
れな風情です。ずっと以前に新待賢門院《しんたいけんもんいん、後醍醐帝の後宮》がお
参りになって、
九重の玉のうてなも夢なれや 苔の下にし君を思へば
(この宮殿の跡も夢のようです 苔の下にいらっしゃる君のことが思われます)
とお詠みになった和歌も思い出されて、
苔の露かかるみ山のしたにても 玉のうてなは忘れしもせじ
(苔の露がこれほど深い深山でも 宮殿のことは断じて忘れません)
と思いやるのも、畏れ多いことです。
元の宿に戻ってしばらく休み、六田《むつだ》へ下ろうと出発しました。里をはなれて
山の背をどんどんゆくと、
坂を下りきった所が六田の里でした。今はむだと呼ぶようです。
吉野の川面では古柳が多く詠まれているので、今もあるかと見まわしましたが、
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有としもみえぬむつだの川柳 春のかすみやへだてはつらん
(有名な六田の川柳がみあたりません 春の霞で隠くされているのでしょうか)
舟で渡って反対側の川辺を少し下ると、土田は上市の方から紀の国へかよう道と北から
吉野へ入る道が交差する宿場です。六田から一里といいますが、もっと近くでした。ここ
でそばきりという物を食べましたが、家も器もみじめできたない印象ながら、万葉にいう
椎の葉よりは上等となぐさめて食しました。
【万葉に「家にあればけにもるいいを草枕 旅にしあればしひの葉にもる
有間皇子】
ここから壺坂の観音にお参りです。平らな道を少し進んで右に分れ、
山にそう道に入り、
畑屋の里を過ぎ、登ってゆく山路から振り返ると吉野の里と山々がよく見える所がありま
した。
かへりみるよそめも今をかぎりにて 又もわかるるみよしのの里
(ふりかえると吉野の里がみえますが、これが最後でもうお別れですね)
吉野の郡では、このたむけが最後になりそうです。下り道になると、大和の国全体がよ
く見渡せます。比叡山と愛宕山も見える所だそうですが、今は霞が深くそんな遠くは見え
ません。さて下った所がすぐ壺坂寺です。この寺は高取山の南の谷陰にあり、土田からの
道は五十町です。二王門があって、普門観と書いた額がかかっており、観音様のいる堂に
は南法華寺とあります。三層《みこし》の塔も、堂の向かいに建っています。奥の院はや
や深く入った所で、佛の形が多数つくってありますが、危ない岩があると言ってお参りし
ない人も多く、私もちょっと気分が悪く参拝を止めました。前にある茶屋に入ってためら
いながら待っていると、人々が戻ったので様子を訊くと、実際に危なっかしい状況のよう
でした。
右へ谷の道を十町ほど下って、清水谷の里に出ました。ここは、国中《くになか》から
芦原《あしはら》峠を越えて吉野へ入る道筋です。一町ほど離れた先に土佐という所があ
って家並がつづいて高取山の麓に出、この町から山の上の城が見あげられます。城は高い
山頂ですから、どこからもよく見えるはずです。檜隈《ひのくま》はこの付近と前もって
聞き、尋ねて行きました。土佐の部落をはなれる所から、細道を右へ三町ゆくと檜隈です。
例のように老人を探して、昔の事などを質問しましたが明確には分かりません。都の址と
聞いてはいるとのことでした。
御陵は、ここから近い平田野口という里にあるそうです。昔はその付近一帯を檜隈とい
ったと話してくれました。さて里の神の社だといって森のつづきに、高さ二丈ほどの十三
重の石塔で、古いものが立っています。周囲を見ると大きな石礎があり、塔の跡のようで
す。最近、この石を自分の庭に据えようとある人が掘らせ、あまり大きくて結局掘りきれ
ずに止め、
おまけにその人は間もなく病気になって死んだそうで、
祟りだといっています。
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その前に仮の庵があり、あるじの法師に塔のことを尋ねたところ、宣化天皇(28 代)
の都のあとに【檜隈廬入野宮宣化天皇の都】寺を建てて、立派な伽藍《がらん》があった
ものが焼けた跡だと話しました。この付近に瓦のかけらが数多く残っていますよ、と教え
てくれたので見たところ、なるほど庵の前にも道のほとりにも、無数の古い瓦のかけらが
土に混じっています。念のために一つ二つひろって見ると、どれにも布目がつき、古代の
ものと見えます。この庵は、本来は例の伽藍のなごりで、それでは今は何寺というのか尋
ねると、「どうこうじ」という返事でした。どういう字を書くのか訊くと、法師は頸を振っ
て自分は物を書かず文字は知らぬというので、訊きたいことが他にもありましたが、好奇
心もさめて質問を打ち切りました。自分の住む寺の名の文字を知らない法師が世の中にい
るのに呆れました。文字全般は知らなくても、自分の寺の名前くらいは人にきいておけば
いいのに。そんな浅薄な知識で、どうして昔の事なんか他人に語れるのか不思議です。
後で里人にきくと道の光と書くよし、つまり道光寺です。でもそれもどうでしょうか。
はっきりしません。この日記は、物の本質もしらぬ里人がいうのを聞いたまま記す事も多
く、伝えるうちに誤伝になり、聞き違う場合もありそうで、まちがった事柄も混じりそう
です。
後でよく整理して正すべき事柄なのに、
うっとうしいと思ってそのまま放置すると、
反省のない人たちが間違いをあやしまずに信用してしまうでしょう。こんなことはわざわ
ざいうべきでありませんが、思い出したので記述します。(注:実は「道興寺」と後に判明
したことを踏まえているのでしょう。)
ところで檜隈川と呼べる川はわからないので、
聞わたるひのくま川はたえぬとも しばしたづねよあとをだに見ん、
(有名な檜隈川はなくなってしまったとしても、せめて痕跡くらいは探しましょう)
【古今集に「ささのくまひのくま川に駒とめて
しばし水かへ影をだに見ん】
人々が皆であちこち尋ねて歩きましたが、ちょっとした流れが一つ二つみつかっただけ
で、たしかなのは里人も知りませんでした。そこから教わった通りに平田という里で御陵
を尋ねると、野中の小高い場所に松が三本か四本生えて、片側が崩れかけた塚がありまし
た。文武天皇(42 代)陵だと言います。そこを過ぎて、野口という里で、あちこち尋ねな
がら田のあぜ道をたどって、御陵が一つある所に到着しました。少し高い岡の上に、大き
な石を使って立派に作ってありました。南向きに縦横二尺余りの口があり、覗いて見ると
岩屋のようで、内はせまく下は土に埋もれてかろうじて入れる程度です。上側は縦横一丈
あまりの平らな大石が、物の蓋のように覆っています。そのうしろに続いた所は、一丈四
五尺ほどで平らで中がくぼんでいるのは、高取の城を築くといって、最近、大石を掘り取
った跡だと言っています。
みだれた世に、物の心もしらぬ武骨な武士の行為とはいいながら、大事な帝の御陵をそ
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んな風に掘り散らしたとは荒っぽい仕業で、その上ここで藁を燃やした跡が見えて、いや
しい乞食なんかが住処にしているのかと思ったら、案の定このお山の下にそんな人たちが
多数集まっていました。これを武烈天皇(25 代)の御陵とするのは場所が違う気がしたの
で、その付近であれこれと質問しました。皆が言うのは、この檜隈で御陵と云うと延喜式
掲載の通り、檜隈坂合陵は磯城島宮に天下を治めた欽明天皇、同じく大内陵は飛鳥浄御原
宮《あすかきよみばらのみや》で治めた天武天皇と藤原宮で治めた持統天皇、安古岡陵は
同宮で治めた文武天皇(40,41,42 代)ですが、でもこのうちどれがどこか、今は明確に決
められません。ここにあるのを武烈帝とも申すようですが間違いかも知れず、里人のつた
えも頼りになりません。何時でしたが並河の某が、五畿内志という書をつくると公けに具
申して、国々所々を巡回して詳細に尋ね、この付近の里人も長老たちがその際のことを記
憶して、その折はこうだったと話すようです。たしかにその書には、何のあとはどの里の
どこにあり、その村に今は何という塚、その御陵はなどと明確に記述してはあるものの、
何を根拠に定めたのか、割合最近のことだから当時までは里人もよく承知して語り伝えた
のでしょうか。あるいは、あて推量で決めたのでしょうか。どうも疑わしいことが多いの
です。今回こんな風にあちこちこまかく尋ねてみて、明確でない点がどこまで解明できる
か調べようとしましたが、結果の程はどうもあやしいと思い知りました。
御陵から少し行って、ほどなく広い道に出ました。これは土佐から岡へ、直接行く道で
す。さらに進むと、左側に見える里を川原村といいます。この里の東のはしに、弘福寺《ぐ
ふくじ》という小さな寺があり、これが昔の川原寺《かわらでら》で、伽藍《がらん》の
石礎などが、今も堂の付近に残り、前の田の中にも散らばって残っています。その中に、
唐土から渡ってきた瑪瑙《めのう》だという、真白で透明な石が一つ、堂のわきにある建
物の壁の下に、半分かくれて見えるのが珍しい礎石ですから、訪れてみて下さい。里人は
観音堂と呼び、道も近いところです。
つぎに橘寺にお参りしました。川原寺の向かいにあって、一町ほどです。この寺は今も
少し広くて立派なお堂もあり、やはり昔の石礎が残っています。橘という里も、この寺の
すぐ近くです。日暮れになったので、岡の里に泊まります。岡寺に近いところです。この
間に土橋をわたる川があり、これが飛鳥川だということです。いまの岡という所は、日本
書紀に飛鳥岡とある所でしょう。
そうすると岡本宮も、
【舒明天皇皇極天皇齊明天皇三代
(34、
35、37 代)の京】その傍ということですから、ここから遠くないと思います。また清御原
宮(上には、浄御原とある天武天皇の宮殿)は、その南とありますから、その跡もこの近
くでしょう。
この日の経路と地名:
吉野の宿→如意輪寺・巨勢金岡描く像→塔尾の御陵→宿→六田→土田(そばきり)→畑屋
→壺坂寺→清水谷→土佐→檜隈・十三重塔→平田・文武天皇陵→野口→川原村・弘福寺→
橘寺→岡(泊)
33
地図:如意輪寺、六田、土田は吉野の地図にあります。壺坂寺と清水谷は、文字が小さい
ので地図に書き加えました。高取山は、記述のとおり壺坂寺の北側にあります。
岡の地名も、明日香村の北側に見えます。橘寺もすぐその西ですが、地図を拡大しないと
見にくいでしょう。
陵や古墳の類は、現在では解析が進んで名前が大幅に変わっており、私には同定できるも
のが少ない印象です。詳しい方にとっては、対応づけるのも楽しそうですが。
34
三月十一日(第 7 日)、岡、飛鳥、天香久山、見瀬(泊)
朝早く宿を出て、
岡寺にお参りしました。里から三町ほど東の山に登ると二王門があり、
額に龍蓋寺とありました。この門から前の道の左側に八幡社もありました。御堂には、観
音の寺を拝みめぐる人たちが、おひずりとかいうあやしげな物を着て、老若男女多数お参
りでぎっしり並び、御詠和歌とかいう歌を大聲でしぼりあげながら堂内をとどろかせて歌
うのはひどくうるさく、全体としては何だかわからないまま、露岡寺«つゆおかでら»の庭
の苔などという言葉がぼんやり聞こえました。
岡に戻り、三四町ほど北へ離れて右の方の高いところへ一丁ほど登ったところに、不思
議な大石がありました。長さ一丈二三尺、横は広い所が七尺ほどで、硯を置いたように平
らで、中央部に丸く長く彫った所がありました。深さは五六寸で、底は平らです。その頭
というべき個所に、同じように小さく丸く彫った所が三つあり、中ほどのは大きさも中位
で、
端の二つはずっと小さく、
頭の方の中ほどに彫った所から下側へ細い溝を三本彫って、
中央のはあの広く彫った所へ真っ直ぐ続き、また石の下の端まで通り、端の二本は斜めに
下って、石の左右の端へ通り、またその端にある溝に枝があって、左右に小さく彫った所
に通じでいます。
全体の石の形は、四隅はどこも角がなくて丸く、頭のほうが広く下はやや細くなってい
ます。そもそもこの石は、どの時代にどんな目的でこんな風に造ったのか、理解できませ
ん。里人は昔の長者の酒船と言い伝え、付近の名も酒船といいます。石は昔はもっと大き
かったのを、高取の城を築いた際に、端のほうを大きく切り取って移動したとの話です。
少し行くと、飛鳥の里に着きました。飛鳥寺は里の片端に僅かに残り、門はなく仮りの
お堂に大佛といって大きな佛像があり、1 丈六尺のお釈迦様が昔の本尊で、まことに古め
かしく尊く見えます。片側に聖徳太子のお姿がありますが、これはつい最近の物のようで
す。昔の堂の瓦としてあるのを見ると、厚さは三四寸ほどでとても古いものです。この寺
のあたりの田のあぜに、入鹿塚という五輪の石が半ば埋もれて立っていますが、それほど
古くはみえません。
飛鳥神社は、里の東の高い岡の上に建っています。麓にある鳥居のところに飛鳥井の跡
というのがありますが、水が枯れて形が残っており、本物かも不明です。石の階段を登る
と御社は四座で、今はひとつの仮殿です。この御社は元来甘南備山というところに建って
いたのを、淳和帝(53 代、平安の始め)の御世の天長六年(829 年)に神のさとしのまま
に鳥形山に移動したと、日本後紀に載っています。したがって、飛鳥の神なみ山とか神岳
とか昔言ったのは、ここの事ではありません。ここから五六町西で、今は雷村《いかづち
むら》という所です。つまり今の社は、あの鳥形山という所です。だからこそ、あの飛鳥
寺を鳥形《ちょうぎよう》山となづけたのです。今も僅かに一町ほどの距離ですから、昔
寺の大きかったときはもっと近くて、この山のほとり迄もあってそんな名がついているの
でしょう。
この山の南側を二町ほど行くと、道の脇の森の中に大きな石をいくつも立て廻した所が
ありました。中は少しくぼんで、広さは一丈余り、横は六七尺あります。これが本物の飛
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鳥井の跡かも知れません。世に鎌足の大臣の生れた場所というのは、どうも信用できませ
ん。ここからすぐ近くに大原寺があり、藤原寺《とうげんじ》とも呼びます。小さい寺で
すが、上品に美しくつくられ目立つ所で入って見ると、堂はなくてきらびやかに作った御
社がありました。大原明神といって、鎌足大臣の母をまつる神社だそうです。この寺は持
統天皇の藤原宮の跡だと、ここの法師は話していました。大原の里は、この南の山麓に間
近に見えています。藤原というのがこの大原のことだというのも、そうかも知れません。
ですが、持統天皇の藤原の宮はここではなく、香久山の付近だったことが、万葉の和歌
などからも判明しています。以前は、この大原が香久山に近く、藤原宮もそこかと思いま
したが、
実際に来て見ると香久山からはずっと離れ、
推測と違って分からなくなりました。
ともあれ、
「藤原の里」
はこの大原で、藤原の宮は別にあの香久山付近にあったのですね。
ここから安倍へ出る道に、上八釣《かみやとり》村というのがありました。読みは「やと
り」ですが文字では八釣と書き、顕宗(けんぞう、22 代)天皇の近飛鳥八釣宮《ちかつあ
すかのやつりのみや》の場所でしょう。里の前に細谷川が流れ、これがやつり川でしょう
か。さらに少し進んで、広い道に出ました。飛鳥の方から、真っ直ぐ安倍に通う道です。
山田村がこの付近で、柏の木に栗がなる山があるといいます。荻田村《おいだむら》を過
ぎて、安倍に到着しました。岡から一里です。この里にいらっしゃる文殊は、世に名高い
佛です。岩屋があり、内は高さも広さも七尺ほどで、奥へは三丈四五尺ほどでしょうか。
また奥の院も同じような岩屋で、深さは二丈ほどで内に清水が出ていました。
この寺をはなれて四五町ほど奥の高い所に、また岩屋がありました。ここはわざわざ見
にくる人もない所で、道案内者も明確には知らず、そのあたりの田で働いている男に質問
しながら行くと、こちらも同じくらいの大きさの岩屋を三丈四五尺ほど入り、奥は上も横
も少し広く、石で家の形につくった物が中に建っています。高さも横も六尺ほどで、奥行
が九尺、屋根の形もつくってありますが、あかりが入ってほのかに見えます。後側に廻っ
てみましたが暗くて見えず、口と思われる所は前にも後ろにもないのですが、うしろの方
のすみに一尺余欠けた跡があり、手をさしこんでさぐって何も触れず、内腔はすべて空っ
ぽのようです。
里人の言うには、「むかし安倍晴明が宝物なんかを保管しておいた宝蔵で、後に盗賊が入
って壊して盗み取った」という話ですが、これは例の嘘話で、実際はあの文殊寺にある二
つの岩屋もこれも貴人たちを葬った墓だと推測します。推測の理由は、岩屋の様子がすべ
て御陵の形で、中にある石の家は棺桶を納める囲いと思はれるからです。やり方は、大き
な石を桁型につくり、なかを彫りぬいて棺を納め、上にかぶせる石を屋根のようにつくし
ます。土輪《はにわ、埴輪》の類がこの周りに立ててあったのでしょうが、何百年も経つ
とそんな物は皆なくなって、盗賊などが大きな構造物も壊し、中に納めてあった物も盗ん
で持ち去ったのでしょう。寺にある二つは、その大きな構造物もみな壊して、ただ岩の造
作だけ残って他には何もないのでしょう。
岩屋について案内の男が語るところでは、岡から五六丁南東方向に嶋の庄という所があ
り、そこは推古天皇(33 代)の御陵と言い、塚の上に岩屋があり、中は畳八畳敷の広さで
す。また岡から十町ほどの同じ方向の坂田村に、用明天皇を納めているみやこ塚というの
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があり、その塚の上に大きな岩の角が少し露出しているという話です。この御陵の事はど
うでしょうか。坂田も嶋も古い所で、里の名をゆかしくは感じます。
もと来た道を文殊寺まで戻って安倍の里を通ると、田の中に安倍仲麻呂の塚と家の跡と
いうのがありましたが、信じられません。このあたりで、仲麻呂とか晴明というのは場所
の名からつくったと推測します。またせりつみの后の七つ井といって、ちょっとしたたま
り水がところどころにあるのを、芹をつんだ昔の人に関係づけているのでしょうが、下ら
ない手法です。次いで戒重という所に出ました。ここは、八木から桜井へ通う大きな道路
です。横内の里を過ぎると、大福村という部落が右側に見えました。少し行くと、分かれ
道の所に、地蔵堂がありました。
真っ直ぐ行くと八木、北へわかれると三輪への道、南は吉備村で香久山への道です。今
はその道について吉備村にいます。村の中道の脇に塚があり、五輪の石が立って吉備大臣
(吉備真備)の墓だといいます。石は古くも見えず、また死人を焼く所があるのに鳥居が
立っているのが変だと質問すると、この辺ではすべてそうだと言います。
村をはなれて南へ少し行き、西に折れて池尻村を過ぎ、かしはで村の南の脇に森のある
ところを訊くと、荒神社といい北に向いています。むかしは南向きだったのを、意地悪な
神様で前を馬に乗って通るものがいると、かならず落として困らせるので、北向きに直し
たそうです。この社は、これから行く道の少し北で、天の香久山の北の麓です。
香久山は小さく低い山ですが、昔から有名で誰でも知っており、まして昔をしのぶ人た
ちは書物を見るたびに思い起し、長年好奇心を抱き行ってみたいと思っていた所で、今回
は是非登ってみたいと考えていたので嬉しくて、
いつしかと思いかけしも久かたの 天のかぐ山けふぞわけいる
(いつかは来たいと永年思っていた天の香久山に ようやく登っています)
誰もみな同じ気持ちで、急いで登りました。坂路の左側に一町ほどの池があり、昔の埴
安の池を思い出しました。しかし、これがそうではありません。気にしていた山は高くも
ないのですぐ登ってしまい、頂上の少し平らな所では付近の方々が五六人、芝の上に集ま
って酒など飲んでいるのをみると、わざわざ登ってくる人もあるようです。
里の娘さんや老婆が二三人、その辺でわらびを探しているのも見えます。山は全山が若
木と草で大きな古木はなく、頂上からは何の邪魔もなくどの方向もよく見通しがきき、東
側だけは山脈が長くつづいて木立も繁り、少しだけ視界を妨げて他の方向と違います。こ
の峯に龍王の社という小さい祠《ほこら》があり、その前に大きな枯れた松の木があり、
その下でしばらく休んで弁当など食いながら、周りの山々や里を見ているのは言いようも
なく楽しく、万葉の「のぼりたち国見をすれば国原は」の歌を思い、
【万葉一長和歌 とりよろふ 天のかぐ山のぼりたち 国見をすれば国原は けぶり立こ
めうなはらは云々】
37
聲も楽しく、若者たちが歌っているのは現代ですが、それでも昔がしのばれ、見たこと
のない昔の様子まで回想する気分で、
ももしきの大宮人のあそびけむ かぐ山見ればいにしへおもほゆ、
(昔の宮廷人も遊んだのだろう 香久山をみると昔が思われることだ)
酒を飲んでいた例の里人たちも、ここへきて国はどうこう言いながら、この山の昔のこ
となども話していたのでしょう。何となく心惹かれ耳をとめると、内容はあらかた無関係
の昔の話で、特別に興味深い話でもなく、いい加減に聞き流しました。とはいうものの、
見えている場所をあれこれ尋ねるには具合のよい物知りたちでした。まず西側に、畝傍山
が独立に一つ離れてすぐ近くに見えます。ここから一里といいますが、そんなに離れてい
ません。もっと西には金剛山がずっと高く遠く見えます。そのすぐ北に並んで、高さは同
じくらいかほんの少し低いでしょうか、葛城山と今は呼ぶようですが、昔は両方合わせて
葛城山でした。金剛山は寺を建てた後に名づけたようで、山でも何でも時代が進むと唐風
の名前をつけて、昔の名が失われて知る人がいなくなるのは残念です。とはいっても、お
寺には昔の名前がいろいろ残って嬉しいことです。
またその北に少し離れて、二上山《ふたがみやま》の峯がふたつならんで見えます。こ
れも今は「にじょうがだけ」
と唐風に呼ぶのは気に入りません。
伊駒山も雲に隠れておらず、
北西の方向にかすかに見えました。
(図と図説明参照)
【きのふけふ雲の立まひかくろふは 花のはやしをうしとなるべし】
吉野の山だけは手前の山にさえぎられて、ここからは見えません。ともあれ、東も南も、
この国の山々が全部のこることなく見えています。一方、国の中は畳を敷き並べたように
平らで、里や森が村ごとに分れて見え、特に北側はずっと向こうまで、先は霞にかくれて
眼も届かず、山の稜線も見えませんが、耳成山だけは西北から真北に近く、物でもおいた
ように、ただ一つ畝傍山よりも少し近く見え、以上がすべての山々のながめです。
とりよろふあめのかぐ山万代に 見ともあかめやあめのかぐ山
(天の香久山は形が整って いくら見ても見飽きることがありません)
と私が詠うのを聞いて、今日の和歌は何故古めかしいのですか人がとがめたので、
いにしへの深きこころをたづねずは 見るかひあらじ天のかぐ山
(だって、
昔のことを思うのでなければ天の香久山を見る甲斐がないではないですか)
というと、とがめなくなりました。さあ出発しましょうと言って、
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わかるとも天のかぐ山ふみ見つつ こころはつねにおもひおこせん
(これで天の香久山とは一応お別れしますが、今後も本を読む度に思い出しますよ)
などと言いながら十分に別れを惜しんで、今度は南側へ下りました。坂の途中に上の宮
という小さい祠がありました。麓はすぐ南浦という里で日向寺もあり、お堂の前に大きな
枯れた松がありました。近くに下の宮というのもありました。この山には昔の名のある神
の社が、あれこれそろっています。今はどれがどれとも知る人がなく、こうした数々の祠
ももしかすると名のあるものの末裔かと目がとまります。里の東の端に御鏡の池というの
があり、埴安の池はこれだという人もいましたが、信じられません。池のほとりに、香久
山の文殊寺がありました。香久山村は、この東だそうです。またこの南浦村の三町ほど南
が金堂講堂のあとで、石礎が 36 個残っているそうです。何という寺だったのでしょうか、
それについては後で古い文書などを参照しないと、址との関係は明確にできそうもありま
せん。まあそこまで調べると、旅日記がぐちゃぐちゃするので止めましょう。
またこの里の竹林に、神代の古事を伝承する石があり、周囲七八尺ほどは垣をめぐらし
ています。そこに生える竹に不思議な事があると聞いたのですが、後で書こうと思って内
容を忘れてしまいました。
里の西側に出て、道の脇の田の中に湯篠藪といい、一丈ほどの所に細い竹の一群の老竹
がありました。西へ行って、別所村に大宮という社がありました。高市社はこれと聞いて
いたのでお参りしました。香久山の少し西です。今は、この北にある高殿村の神社だそう
です。この御社の西の方にも池がありました。持統天皇の藤原宮は、この付近だったので
しょうか。今は高殿と呼ぶ里の名も、そんなところからついたのでしょうか。埴安の池も、
この付近と聞きていますが、
今はきれぎれなって所々つづいて、低い岡がいくつもあって、
堤が崩れて残ったのではないでしょうか。古い和歌にも見えて、名高い堤だったのですが。
その西に膝つき山といって、一方には松が密生している低く長い岡がありました。これ
にも神代の古事の伝承がありますが、例のいい加減な話でしょう。登って見ると、南の方
に飛鳥川が西北に流れて長く見えます。岡の南に、かみひだという里がありました。文字
は神の膝と書く由で、つまり神膝です。少し行くと、上から見えた飛鳥川を渡ります。こ
の辺では、少し広い川です。川の南側にそってゆく道は八木から岡へ通う道で、その道を
田中村を通って十町ほど川上の方へゆくと豊浦の里で、豊浦寺の址は僅かに薬師堂だけが
ありました。今も向原寺といいます。【日本紀に向原】 古い石礎ものこっています。えの
は井(榎の葉井)はどれか尋ねましたが、知っている人はいませんでした。小さい池を難
波堀江の跡としているのは、真面目に信用する気になりません。佛の御像をすてたのは、
津国(摂津、兵庫県南部)の堀江だったはずですから。
この里は飛鳥川の西岸で、対岸は雷村です。昔飛鳥神社が建っていて、神なみ山とか神
岳とかいったのはこの場所でしょう。今来て見ると、そう呼んでおかしくない山があり、
「神なみ山の帯にせる飛鳥の川」と詠まれているのと合致し、川はしばらくこの山の麓を
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流れます。この付近まで昔は飛鳥と呼んで当然で、今も飛鳥の里から僅か五六丁で、人麻
呂の和歌にも雷之上と詠んでいますから、雷村も古い名前です。いはせ(石瀬:訳註)の
森と言ったのも、このあたりだったのでしょうか。また豊浦を通って西に行くと、和田村
がありました。
少し登って山のあたりを西へ越えると、道の左に「剣の池」がありました。東南も北も低
い山で、池は縦も横も二町ほどの広さで、中に小さい山があって御陵です。南西北と池を
廻って、東だけは後ろの山につづきます。池の西の堤の下はすぐ石川村です。この御陵は
間違いないでしょうが、なお明確に訊きたいと思って、いつもの通り里の老人を尋ねて質
問すると、第十八代の帝の御陵、御名は何だったでしょうかと考えるのを、いや十八代で
はなくて八代孝元天皇でしょうというと、ああその通りとうなずきました。物を尋ねて、
かえってこちらから教えるのも愉快です。この村を出て、向こうはすぐ大軽村で、これは
例の天皇の都の跡で、軽の市と言ったのもここでしょう。
軽をはなれてさらに西へ行くと、
やや高い所で道の南に高く丸く見える岡がありました。
その南面に、塚穴という岩屋があるときいて、細い道をたどって見ると口は狭いのに、覗
くと中はやや広くて奥も深く見えますが、暗くてはっきりしません。床には水がたまり、
奥の方でその水が流れ出る音が聞えます。これは何の塚かと訊きましたが、案内の男も知
らぬと言います。もしかすると宣化天皇(28 代)の身狭桃花鳥坂上御陵あたりかもしれま
せん。その理由は、この岡の下はすなわち三瀬村という所で、牟佐坐神社も今この村にあ
るという話ですから身狭はこのあたりと思はれ、また坂上とあるのと場所が合致するから
です。それに関連してさらに考えると、今みせという名も、身狭と書く文字をそう読んだ
ものか、またそうではなくとも、音が似て自然になまったのでしょうか。
こうして西へ少し下り、三瀬村(見瀬村)に出ました。ここは八木から土佐へゆく大道
です。夕暮になりましたが、この里は結構な家も続いて広い場所なのに、旅人を泊める家
はないときいて、それでは何とか八木まで行こうか、岡へ戻ろうかと検討して、さて日は
暮れてしまい足も動かず、全員気落ちして、さあどうしよう、何とかこの里にとまりたい、
十分でなくとも何とか一夜を明かせる家があればと、さらに訊いてみようと、伴をしてい
る男がこの里の中をいろいろと尋ね歩いて、かろうじて宿がみつかりました。
(訳註:見瀬
から八木まで)
思ふどち袖すりはへて旅ごろも 春日くれぬるけふの山ぶみ
(旅仲間がいろいろ思っているうちに 春の日がくれてしまった今日の山歩きでした)
道程はたいしたことはなかったのに、あちこちと里人にも質問しながら歩きまわって、
本当に辛く何も考えられないほど疲れているのに、それでもこの付近のことなどを訊きた
くて、まづ宿のあるじをよび出しました。五十歳くらいで、ひげが生えてにくらしそうな
顔ですが、表情も言葉遣いももっともらしくもてなしながら、さてこの付近の名所古跡は
と言い出したのがまづおかしく、若い人たちはにやにやしています。この東にある山に塚
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穴というのがあるのは何の跡かと訊くと、「それは聖徳太子の御代に、弘法大師のつくらせ
たもの」と話すので、もう笑いをこらえるのに我慢できない気持ちですが、次にどんなこ
とをいうかと、それは立派ですね、深さはどのくらいかと質問すると、「奥は限界がなくて
奈良の『寒さの池』まで開通している」といいます。ではその池はどこにあるかと訊くと、
「興福寺の門前で名高いのに、知らぬ人もいますよ」というので、心得て全員微苦笑しまし
た。
次に畝傍山のことを話すついでに、神功皇后の事を「じんにくん」と呼ぶのが何よりもお
かしいので、この時からこのあるじを「じんにくん」と渾名をつけて、物わらいの種にしま
した。この土地では神の御社が何かなど尋ねたいことがありましたが、これでは訊くわけ
もいかないと残念でした。
この日の経路と地名:
岡の宿→岡寺(龍蓋寺)
・八幡社→岡→長者の酒船石→飛鳥→飛鳥寺(1 丈六尺の釈迦)→
入鹿塚→飛鳥井の址→飛鳥神社→鎌足出生の地(?)→大原寺(藤原寺・大原明神)→上
八釣村→山田村(柏に栗がなる?)→荻田村→安倍村→安倍文殊院・岩屋・奥の院岩屋→
安倍晴明の宝蔵(?)→安倍文殊院→安倍村→安倍仲麻呂塚と屋敷跡(?)→芹摘み后の
七つ井(?)→戒重→横内→地蔵堂→吉備村→吉備真備墓(?)→火葬場に鳥居!→池尻
村→膳夫村・荒神社→池→天香久山(休息、遠望)→上の宮→南浦村・日向寺・下の宮・
御鏡池・香具山文殊寺・神代伝説石→湯篠藪→別所村・高殿村→膝つき山・飛鳥川眺望→
神膝→飛鳥川を渡る→田中村→豊浦・榎の葉井・対岸に雷村→和田村→孝元天皇陵→軽村
→見瀬で宿泊(じんにくんの家)
訳註:
いはせ(石瀬:訳註)の森:万葉集 8 巻 1419 番「神なびの石瀬の社の呼子鳥 いたくな鳴き
そ我が恋まさる 鏡王女」です。実は有名な志貴皇子の「石走る垂水の上のさわらびの 萌え
出づる春になりにけるかも」の次に載っている歌です。
訳注:8 代孝元天皇は実在したとしても時代は不明。18 代の反正天皇は 5 世紀で、時代が
大きくずれています。
訳註:見瀬から八木までの距離は約 4 キロで、歩き疲れた脚にはつらい距離でしょう。出
発の岡は見瀬の東南東で、そこからずっと北の香久山へ登り、また南に戻って剣の池をみ
て西へ行って見瀬です。
訳註:「じんにくん」の叙述について
1) 聖徳太子(574-622)の御時に、弘法大師(774-835)が云々:時代が 200 年ずれていま
す。
2) 奈良の「寒さの池」
:もちろん「猿沢の池」のつもりでしょう。
3) 猿沢の池として、飛鳥から奈良までは直線距離で約 20 キロです。
それにしても、「じんにくん」の渾名と名台詞を後世に遺すとは、宣長はいたずら好きです
ね。
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地図:岡寺、天香久山など。藤原宮跡が現在は判明しています。他に「戒重」(八木と桜井
の間)
、「山田」
(香久山の東南)が地図にあります。「阿部」がここの「安倍」と同じなら香
久山の東に地図にあります。
孝元天皇陵は現在の橿原神宮前駅の東にあり、石川池の中(東が陸つづき)にあり、拡大
地図では明確。本文では「剣の池」となっています。
他の古墳類は現代では名前が大幅に変更になっていて不明。
香久山と畝傍山の距離は地図では 3 キロ弱で、「1 里はない」という推測は正しい。
金剛山と葛城山:金剛山(1125m)
、葛城山(959m)で、たしかに前者が高い。二上山(517m)
とともに合成図参照
図 天香久山の山頂から西方に畝傍山、金剛山、葛城山、二上山の見える様子。コンピュー
タによる合成像(カシミール使用)
。もう一つは北西方向で伊駒山(生駒山)と耳成山をみ
たもの。
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三月十二日(第 8 日)、見瀬、慈明寺、耳成山、大御輪寺、大神神社、
初瀬、萩原(泊)
見瀬を出て少し北へ行き、左へ三丁ほど入ると久米寺で現在も結構な寺です。昔はもっ
と西で、現在の場所には昔は塔があった跡だと法師が話しました。畝傍山が、北側間近に
見えます。人麻呂の古い歌を思い出して私もつくりました。
玉だすき畝傍の山はみづ山と 今もやまとに山さびいます
(あのうつくしい畝傍の山はみずみずしい姿で 今も大和に山らしい姿を守っていま
す 玉だすきは畝傍の枕詞)
【万葉一長和歌に「うねびのこのみづ山は日のよこの大御門にみづ山と山さびいます
云々 柿本人麻呂】
山の脇の道を進んで少し西へ曲がると、畝火村(畝傍村)がありました。山の東南の麓
です。この村に入る半町ほど右に小さい森があり、中の社が懿徳天皇(いとく、第 4 代)
の御陵といいますが、本来は山の南でまなごの谷の上にあるはずで合致しません。御陵ら
しくもなく話がおかしいので、村の老人にそう言って詳しく尋ねると、たしかにそんなこ
とは言いますが、本当の御陵は明確には判らず、今はあの森をそういうことにしていると
こたえました。
橿原《かしわら》宮は、
【畝火山の東南橿原宮は神武天皇の都】 このあたりだったはず
と思って、
うねびやま見ればかしこしかしばらの ひじりの御世の大宮どころ、
(畝傍山を見ると神代の時代に世を治めた橿原宮などが思われます)
今も橿原という名は残っているか訊くと、その名の村は一里南にあるがこの周辺にはな
いそうです。「この山を今は慈明寺山と呼ぶが、畝傍山と呼ばないことはない。その場合も
「ひ」を清音で「うねひ」という」との話です。また付近の里人は御峯山といって、どうし
てか頂上に神功皇后の御社があると言い、例の「じんにくん」の話に対応します。この畝傍
村から登る道があり、五丁と聞いてさあ登ろうと誘うと、連日山路に難儀した人々は、特
別かわったこともないなら脚が疲れるだけムダと気がすすまないので、強いて誘わず諦め
ました。
村を西へ通り山の南の裾を越えると吉田村です。途中の道の左に、まなご山とまさご池
という名が今もあり、池は水が枯れて形だけ残っている由です。例の威徳天皇の御陵は、
その付近のはずですがわからなくて残念です。吉田村で、
老人に御陰井上御陵を尋ねると、
この翁は御陵関係を特によく知っていて詳しく話しました。少し前に、江戸から御陵のこ
とで質問がきたことにはじまり、二十年に一度は江戸からの調査があり、関係者が京から
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多数やってきて、その辺の里にとまって詳しく尋ね記録して、記録の札をたてさせ、周囲
に垣を造らせるといいます。古跡がなくなりそうなのを心配して調べるのはありがたいと
しても、下々はそんな気もなく出費だけを気にして行動するので、御陵のある里の関係者
には苦労ばかりで何のご利益もなく、災難として御陵があっても隠して里にはそんな所は
ないと答える例もあるそうです。
それでますます埋もれるのは御陵のために残念で、調査本来の狙いにも反するでしょう。
里には筋のある点を見せて、恵みを受ける民衆も悦んで大切な物として守るようにするべ
きでしょう。また、例の並河が尋ねた折りの事も話してくれました。
この里の道端に、御陰井《ほとゐ》という井戸が今もありました。型通りの水もあり、
ふつうの世間並みの小さな井戸です。御陵は井戸から一町余り北西の方、畝傍山の西麓の
高い岡で松がまばらに生えています。畏れ多いことながら登って見ると、遺骨を納めたと
思われる所は丸い大きな岡で、またその前と思える方へ長くつき出し、そこからやや下っ
て細くなっています。例の老人が案内して言うには、昔の御陵はどこもこんな風に作り、
岩屋があるのは上の土が崩れ落ちて、中の構造が露出している故との説明を聞き、例の安
倍の奥にあった岩屋の様子も納得しました。
その口から奥へ少し入るのが、前に長く築いた所でしょう。どこも、昔は周囲に濠があ
り、七十年ほど前迄は、ここにもあったそうです。今は周囲が畠か竹藪で御陵らしくは見
えず、この竹藪がその名残りだと、この老人はいいます。山自体は、今も昔のままです。
そもそも御陵の御事を、こんなに狂ったように詳しく尋ね歩き記録するのは何故かと不
思議に感じる方もいらっしゃるでしょうが、昔の物が後の代まで残るのはこれ以外にあり
ません。この畝傍山関係のものは中でも特に古く、飛鳥関係は信頼できるので、年来気に
して何とかして詳しくお参りして調べたいと心惹かれていたわけです。といっても、どこ
にあるのも同じ状態で特に珍しくもなく見るべきものもない所では、自分のような昔をし
のぶ変人以外は、わざわざ尋ねて調べようとも思わないでしょう。どうしようもないお節
介だと世間に思われても仕方がありません。
吉田村を出て北に行き大谷村をすぎ慈明寺村に入ろうとする右側の山麓に寺があり、前
の岡の上の大きな塚が綏靖天皇(すいぜい、第 2 代)の御陵で、里人は「すゐぜい塚」と呼
んでいます。畝傍山の北西麓の高い岡で、登って見ると吉田のと同じ様です。東側の麓に
山本村があり、慈明寺村はこの岡の北につづきます。少しはなれてまた北方に、四条村が
ありました。四条村の一町ほど東、畝傍山から五六町はなれて、東北方向にあたる田の中
に、松と桜の老木が一本ずつあり、僅か三四尺の小さい塚があって、神武天皇陵とつたえ
ています。
でもこちらは御陵らしくありません。それに古事記では御陵はかしの尾上とあるのに、
ここは山から離れて合致しません。一方、綏靖 安寧(あんねい、第 3 代)の御陵がけっこ
う高く大きいのに、肝腎の神武天皇陵がこんなチャチなのは到底納得できません。じっく
り考えると、例の綏靖天皇陵というのが実は神武天皇陵ではないでしょうか。成務天皇(せ
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いむ、第 13 代)と神功皇后の御陵を間違えた例もあり、昔だって間違えて当然で、ここも
誤って綏靖と言い伝えたのではないでしょうか。そう考える理由は、第一に山周辺の数々
の御陵はどちらも畝傍山の麓で、綏靖天皇陵もそれならそれと書いてあるべきなのに、ど
ちらの書物でも桃花鳥田丘《つまだのおか》上とだけあり、この山のあたりではなく神名
帳に調田坐《つまだ》神社とある点でしょうか。そちらは葛下郡で、この御陵は市郡とあ
るので違うようですが、郡の名前については境界のちかい所は昔の書物では郡が入れ変わ
っている例が多く、議論できません。ともあれ、この点は調田《つきだ》という所をよく
調査して結論を出すべきです。神武天皇陵は山の東北と日本紀にも延喜式にもあり、例の
すゐぜい塚は山の西北で、疑いがないわけでもありませんが、古事記には山の北のかたと
あり、また例の御陰井上の御陵は山の西でしたが、日本紀には南といっている間違いある
ので、必ず東北とあるからといってそれにこだわるべきか、後世の方々はさらに調べて確
定して下さい。
四條村から二三町行くと今井という大きな里で、それを通過して少し進むと八木に到着
し、しばらく休んで食事をしました。このところよく晴れて、気にかかる雲もありません
でしたが、昨夜から曇って今朝は雨も降りそうで宿を出てからも空ばかり眺めていました
が、畝傍山を廻った頃からようやく雲も晴れてだれも気分良好です。
ここから當麻・龍田・奈良へと進むなら方向転換すべきで、どうしようかと話し合うと、
「折角のついでだからと行きたい」との意見も強い一方で、「この辺はこれからも来る機会
がありそうで、今回は自分らには別の重要な事情もあり、一日も早く帰るべき」という人
の意見が有力で、結局行かないことに決まりました。
この辺は旅の常で、誰も故郷へ急ぐ気持ちは当然ながら、残念でもあります。八木で東
へ折れて四五町ゆくと、耳成山は道から二町ほど北です。畝傍山と香久山とこの耳成山と
は、国中で突出して向かい合い、どれも他の山につづかず、畝傍山と香久山は近くの山と
まあ近く見えますが、この耳成山は特に遠く離れて、他の山とまったく無関係の独立峰で
す。
三つの山はどれも特に高くはない中で、耳成山はやや高く、香久山は特に低く、畝傍山
が一番高いようです(訳註)
。山の距離をくらべると、耳成山から畝傍山は近く、次には香
久山が近く、畝傍山と香久山の間は遠いようです。畝傍と耳成は男山で香久山は女山で、
畝傍と耳成が香久山をあらそったという故事があり、今見ても二つは雄々しく香久山は女
らしい姿です。この耳成山は今では天神山ともいい、天神の社があるそうです。
さもこそはねぎこときかぬ神ならめ 耳なし山にやしろさだめて
(さぞ願いことをきかない神なのだろう それで耳がないという耳なし山に社をさだ
められたな)
例の鬘児が身をなげたという耳成の池も、このあたりだったのでしょうか、今も道の
脇に池はあります。
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いにしへのそれかあらぬか耳なしの 池はとふともしらじとぞ思ふ
(昔のことを訊いてもわからないでしょうね 何しろ耳なしの池ですから何も知らな
いでしょうから)
三輪社にお参りしようと、少し行って昨日別れた地蔵堂のある分岐点から、北に折れる
と奈良が思われ、ながめやるそちらの里の梢に、桜が一木まじっているのを見て、
思いやる空は霞の八重ざくら ならのみやこも今や咲らん、
(行くのをあきらめて思いやるだけの奈良の都には 霞がかかって八重桜が咲いてい
るでしょう)
さらに進んで、初瀬川は三輪の里のうしろを流れます。橋を渡って、御社の鳥居の前に
つきました。ここは往来の旅人が多く、今日歩いた道では特ににぎやかです。鳥居から並
木の松かげの道を三町ほど山麓へ入って左側に、大御輪寺《だいごりんじ、大三輪寺》と
いうお寺がありました。
二王門や三重塔があり堂は十一面観音で、
三輪の若宮と申す神も、
同じ堂の左のわきにいらっしゃいます。
もとの道を一町ほど入って石の階段を少し登り、大神神社の御門がありました。この周
辺には神々しい大きな杉の木があちこちに立ち、別の個所からも目立ち、以前お参りした
場所なども思い出して、
杉の門またすぎがてにたづねきて かはらぬいろをみわの山本
(杉の門をやはり通り過ぎることができずに再訪して 様子の同じことを三輪山の麓
で確認しました)
【古今「わがやどは三輪の山もと恋しくは とふらひきませ杉たてる門】
神殿はなく、奥にある木の多く繁った山を拝みました。拝殿はいかめしく立派で、禰宜
や巫《かんなぎ》などの人々が多数おり、うちふる鈴の聲も神々しく聞えます。そこから
は元の道に戻らず、初瀬の方へ直接出る細道があり、山の崖伝いを行って金屋という所に
出ました。奈良から初瀬へ通う大道です。ここから初瀬川の川辺を行きました。敷嶋の宮
の跡はこのあたりと聞き、とかま山もこの道からは間違いもなく進行方向に高く見えてい
ます。
桜井の方からくる道とひとつに合う所を、追分といいます。数日前はここで分かれて南
進し、多武の峰に向かって吉野へ入りました。初瀬の里を再度通り、同じ橋を渡って、
二本のすぎつる道にかへりきて ふる川のべをまたもあひ見つ
(二本の杉がある道に戻って 昔見た川辺にまた再会しました)
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【古今「はつせ川ふる川のべに二本ある 杉年をへてまたもあひ見む二本あるすぎ】
今夜はもう一度萩原の里で、前に泊まった家に泊まります。
萩原からの帰路は往路とは道をかえ、通ったことのない赤羽根越えという路をとろうと
相談して従者の男にそういうと、彼は頸をふって、「とんでもない、問題の道は険しい山を
いくつも越えるので、中でも飼坂《かいさか》と櫃坂《ひつさか》というひどい坂があり、
しかも明日は雨も降りそうで、そうすると道まで悪くなりそうですよ。おまえ様方、どう
したら楽に越えられると考えるのですか。そんな無茶は止めなさい」と言います。それを
きくと、ではどうしようかと皆気が弱くなって始めの意欲がなくなりました。ところが、
戒言という仲間の僧一人は、「本当にだめかな。それほどおそろしい道ならわざわざゆく人
もないだろうに、人も多数ゆくという話だ。それほどひどいことはあるものか。足さえあ
れば、骨は折れても絶対に越えてやろうじゃないか」と怖気づく様子はなく力を入れて言
うので、そう言えばそうだと賛成しました。
この日の経路と地名:
見瀬発→久米・久米寺→懿徳天皇陵?→畝傍村→(まなご山・まさご池、懿徳天皇陵はこ
のあたりか?)→吉田村→御陰井→御陰井上御陵(安寧天皇)→大谷村→すゐぜい塚(綏
靖天皇陵)→慈明寺村→四条村→松と桜の老木一本ずつの小さな塚(神武天皇陵?)→今
井→八木(昼食)→耳成山→地蔵堂→初瀬川→大神神社鳥居→大御輪寺(二王門・三重塔・
堂・三輪の若宮)→大神神社(参詣)→金屋→追分→初瀬→萩原(泊)
訳注:大和三山の関係
現在の位置は地図参照:標高と距離
畝傍山 199m 香久山 152m 耳成山 140m で畝傍山が断然高い。現代では、香久山は耳成山よ
り高い。距離も香久山と耳成山はごく近く、畝傍山が離れていて、どちらも宣長の記述と
異なります。耳成山だけが近鉄線の北側にあり、距離の感覚が異なるかも知れません。
訳註:「當麻・龍田・奈良へと進むなら」
。奈良は八木の真北ですが、當麻と龍田はずっと
西に寄っており、そちらへよると遠回りです。でも、龍田は法隆寺のある斑鳩の近くです
から、奈良へ行くなら寄らねばならないわけでしょう。
訳註:最後の「赤羽根越え」の議論について:往路は松阪から中川を通り近鉄線に沿って榛
原まででした。
北側を迂回して距離は長いものの、
難所は阿保峠だけで交通量も十分です。
現在の道路(165 号線)と鉄道(近鉄大阪線)がこのルートを選んでいるのも当然です。
帰路に選ぼうとしている道は、榛原から松阪まで真っ直ぐ東へ突っ切る経路です。山道
続きで現在の道路も低規格です。松阪から「名松線」という JR 線が石名原のすぐ近くの伊
勢興津までありますが、無理に敷設しただけに災害が多く、現在半分がバス代行です。
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地図:見瀬、久米寺(現存)
、香久山、耳成山、畝傍山、大神神社、初瀬、榛原(萩原)な
どを書き加えました。「橿原」は、現在は市名でもあり、橿原神宮もあります。橿原神宮前
駅は橿原神宮線の終点で、吉野線への乗換駅です。
(双方近鉄)
畝傍山周辺地図説明: 現在(2011 年)の国土地理院の図には、神武・綏靖・安寧・懿徳
帝の 4 陵が畝傍山の周辺にそろっています。神武天皇陵と綏靖天皇陵が北側の麓に、安寧
天皇陵が西側の麓に、懿徳天皇陵が南西の麓にあります。本項目の議論と対比すると、安
寧天皇陵と所在不明の懿徳天皇陵はほぼ正解ですが、神武天皇陵と綏靖天皇陵は位置が違
います。「神武天皇陵は山の東北と日本紀にも延喜式にもあり」という記述が地図と合致し
ます。
(拡大地図参照) 吉田・大谷・慈明寺などの地名は、地図にも見えます。また、こ
の地図の北側に四條と今井という地名が現存します。
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三月十三日(第 9 日)、萩原、石割り坂、田口、桃の俣、菅野、石名原
(泊)
雨がそぼふる中、夜が明けないうちに、おそろしいという道へ出発しました。この里か
ら右へ分れて行きます。今朝は少し気分がよくないので、これからの山路の具合がどうか
と心配です。ここから室生はごく近いと聞いていますが、雨がひどく降って道も悪く、お
参りは中止しました。はいばら(萩原、榛原)から最初の石割り坂を越える道がけっこう
遠く田口まで三里半、田口から山をいくつも越えて桃の俣まで二里、そこから山を越えて
菅野まで二里です。多気まではさらに四里で、間に大和と伊勢の国境があります。今日、
何とか多気まで行きたかったのですが、雨がひどく風も強く、山の上をゆく時はみの笠も
吹きちぎられそうで、うかうかすると谷底に転げ落ちそうな強風です。その上、先には難
所として有名な飼坂《かいざか》があり、今日は絶対に無理と判断して手前の石名原に宿
をとりました。
萩原を出てどこも同じ山の中で、何の見どころもありません。それでも、桜は沢山あっ
て盛りでした。というものの、天気が悪くて気分も辛く、何も心に残らず和歌もまったく
詠めないままひたすら歩きました。
この日の経路と地名:
萩原(榛原)→石割り坂→田口→桃の俣→菅野→石名原(泊)
地図:榛原から 369 号線にそって田口→桃俣→菅野→石名原。上記の地名が菅野まで 369
号線にあります。トンネルもあり、細かいルートは付け替えられているでしょうが、基本
の動き方はこの道路に沿うようです。369 号線は、石名原の手前で名張から南下してくる
368 号線と合し、以後は 368 号線です。「石割り坂」がどこを指すかは不明ですが、桃俣の
手前の栂坂《とがさか》峠がこれでしょう。標高 690m と高く標高 350m の萩原から 340m
も登ります。現在の道路はトンネルで抜けていますが、それでも 600m 近い高度です。
歩行行程:この記述によると菅野まで七里半で、石名原までさらに二里くらいで、計九里
半(38km)です。距離だけなら第 1 日、第 2 日のほうが長いけれど、こちらは全行程が山
道ですからずっと難儀です。
この 13 日(9 日目)の記述は短くて、原文ではたった 530 字しかありません。あまりに
大変で疲労も加わり、メモをとり明確に記憶に残すこともできなかったと推測します。数
百メートルの上り下りの山道の 40 キロ弱は、
たとえ天候がよくても健脚者が難儀して超え
る距離で、まして記述の天候では雨具と足ごしらえが現代の登山用具でも大変そうで、宣
長一行には遭難の危険さえあったでしょう。飼坂を翌日にまわしたのは賢明でした。それ
でも宣長はダウンして翌日は駕篭です。
大げさな言い方をすれば、前日の夜の道案内の言葉から他の人たちは直感的に危険を感
じて避けようとしたのに、戒言の強引な提案に反対できず、ずるずる引きずられて遭難寸
前の場面まで進んでしまったという、登山で時に起こる例に近いとさえいえそうです。
宣長の描写に、そういう反省が含まれている雰囲気も感じます。
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三月十四日(第 10 日)、石名原(宣長は駕篭)、飼坂、多気、柚原、堀
坂峠、松坂帰着
雨は止みました。しかし、気分が優れないので例の危なっかしい駕篭に乗って飼坂をの
ぼりました。本当にけわしい山路です。それでも私は歩いていないので楽ですが、他の方々
は一寸登っては息をついて立ち止まってまた登るという具合で、辛さが思いやられます。
伴の男は荷が重いからでしょうか、ずっと遅れてやっと登ってくるのを、つづら折りのと
ころではすぐ下に見えてはいます。
峠の茶屋でしばらく休み、この坂を下ると間もなく多気の里です。ここは自分のずっと
先祖が代々仕え、北畠公が代々治められた場所で、故郷のような何となくなつかしい気持
です。今回もこの跡を訪ねるのが狙いの一つで、この道をやってきました。山に囲まれて
特に広くはありませんが、昨日通った里にくらべるとずっと開け、広くて長い谷です。殿
の跡は里から四五町離れ、北の山の麓に真善院という小寺があり、里人は今も國司と呼ぶ
ようです。そこに北畠八幡宮があり、具教大納言【國司一世号寂光院不智】の御たまをお
祀りする御社といいます。先祖の事を思って丁寧に拝みましたが、たまたま雨が少し降っ
ており、
下草の末葉もぬれて春雨に かれにしきみのめぐみをぞ思ふ
(春雨で下草の末葉もぬれていますが 昔々の先祖の恵みを思うことです)
堂の前に、昔の御庭の池山や石などもそっくり残っているのを見ると、栄えた昔の御代
の事などが思われて、かなしいことです。
君まさでふりぬる池の心にも いいこをいでねむかしこふらん
(君がいらっしゃらないで、
古くなった池は心にある言いたいことを言わないとして
も 恋しがってはいるでしょう)
この上の方の山を雰が峯といい、城跡も残っているそうです。しかし高い山で登ること
はできず、一方で昔の事を書きのこした物が何かあるかと寺の法師に尋ねると、住職は用
事で出かけて留守なので、そうした物も里の事を担当する町の者に預けてあるという回答
でした。ではそれを見ようと里に戻ってお宅を訪問して頼むと、とり出して見せたのはこ
の場所の昔の絵図一枚、殿を始めとして仕えた人々の家、谷の寺と町屋などまで、詳細に
描写してあります。外に、仕えた人々の名も記述したものをあつめた書類が一巻あり、見
てゆくと以前から聞いていた人々や、今も一族として残っている方の先祖など、あれこれ
多い中に、己が先祖の名【本居宗助】もありました。例の絵図に家も描いてあるかと注意
して探しましたが、それは見あたりません。
その家での話し合いを終え、それから食料を準備して出発しました。伊勢参りするには
櫃坂越えで南へゆきますが、松阪へはそれでは遠まわりなので堀坂峠を越えます。ところ
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がこちらは旅人の通る道ではなく、茶店がないので食料の準備が必要なわけです。
例の寺の前を再び通り、下多気にかかって山をこえ、小川と柚原という山里を過ぎ伊東
福田寺にお参りしました。ここはすこし北の山陰へまはる所で道筋ではないのですが、御
嶽に似せて掃除などしながら人々が参詣する所で、以前から聞いてついでにお参りです。
山は浅いながら大きな岩があり、谷水も見事で脱世俗の雰囲気です。与原という里に出て
寺で少し休み、さていよいよ堀坂をのぼります。高い山を途中まで登り、南の頂上をはる
かに見あげながら向こう側へ越えると峠の頂上からは、南の嶋々や尾張三河の山まで見え
ます。日ごろはもっぱら山ばかり見なれているのに、海がみえるのが珍しく目がさめる心
地です。
私がすむ里も木が手にとれそうに近く見え、早速何か言いたい気分ですが、下り道はま
だ結構遠く、伊勢寺を過ぎる頃に夕暮れになりました。伊福田《いぶた》をまわった所か
ら伴の男を先行させたので、家から迎いの人が何人もきてくれて、その人たちと連れ立っ
て、とっぷり日が暮れる頃に帰りつきました。
こうして無事旅が完了して大変にうれしく、さあそれではと旅装を解きますが、名残り
は尽きません。
ぬぐもをし吉野のはなの下風に
ふかれきにけるすじのを笠は
(菅笠を身から離すのが惜しい 吉野の桜の下で風に吹かれたのだもの)
桜の花の匂いを留めるのは困難としても後から旅をしのぶ形見として、その名をせめて書
き留めようと、本稿
菅笠の日記、
を著しました。
本居宣長 寛政七年尾乙卯夏発行
松坂日野町
勢州書林
柏屋兵助
寺町通佛光寺下ル町
京都書林
銭屋利兵衛
この日の経路と地名:
石名原→宣長は駕篭→飼坂→峠の茶店・休憩→多気→真善院・北畠の八幡社・庭園→里の
事行う者の家・資料閲覧・食事→真善院の前→下多気→小川→柚原→伊福田寺(飯福田)
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→与原(寺で休憩)→堀坂峠→伊勢寺→松坂
地図:石名原から上多気までは 368 号線で、石名原の標高が 300m で飼坂峠は 500m を超え
るので、200m 登らねばなりません。現在の道路はトンネルで抜けています。宣長の訪問地
の北畠家関係の施設は上多気の山中です。宣長の経路はここから北上して下多気→小川→
柚原→与原→堀坂峠→松阪という経路です。小川→柚原→与原→堀坂峠(450m)→松阪は
現在も広い道路ではなさそうで番号がついていません。堀坂はテキストには「ほりさか」と
振り仮名がありますが、現在は「ほっさか」(峠も山名も)と呼ぶようです。
現在の多気町の中心や多気駅(紀勢本線と参宮線との分岐駅)は、宣長らが北上する分岐
点からは 20 キロ東の海寄りで、ここから松阪までは 5km と短距離です。
ひつ坂:「櫃坂」と書く峠です。上多気までの 368 号線をさらに東南へ進んで峠を越え、先
で 166 号線になって伊勢や松阪に続きます。この名は、国土地理院の地図にはただ「峠」と
なっています。
歩行行程:この日の行程は距離が書いてありませんが、山路の度合いはやや軽いもののか
なり長距離のようです。ただし、宣長は出だしは駕篭で、おそらく上多気まで利用でしょ
う。
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訳者あとがき
今回本居宣長の菅笠日記の現代語訳を選んだ理由は、愛読書の一つであり、しかも現代
語訳の電子ファイルが存在しないので、それを提供したいと考えた故です。
本居宣長と菅笠日記を知る経緯
最初に、この著者と作品になじむ経緯を述べます。高校時代、国学の 4 聖人(4 大人)の
一人として名前だけ覚えました。単なる国文学史の知識で、作品や事績に関しては何も知
りません。その後、成人していろいろと知識は増えたものの、本居宣長という人を特によ
く知る機会はありませんでした。
国学や国文学の研究に特別興味を抱く理由もありません。
はっきり変化したのは 59 歳の時(1996 年)です。名古屋での学会の最終日が午前中で終
わり、午後に松阪へ出かけました。本場のステーキを食するのも目的でしたが、当時は博
物館・美術館・文学館・記念館などを訪れる習慣を身に着けて、本居宣長記念館を訪れる
のも狙いの一つでした。実際にこの記念館を訪れて、それまでの認識が大きくかわりまし
た。宣長の学問自体に関しては、私には理解も評価もできませんが他の点で興味を惹かれ
ました。
第一に、彼の本業が医師(小児科医)で、それで生計をたてていたと知った点で、医薬品
を作って広告した資料も残っています。その時まで、宣長はどうやって生計をたてていた
のか認識していませんでしたが、「医師だった」と知って納得しました。現代でさえも、研
究者が研究自体で生計を維持するのは容易ではなく、たとえば医学研究者では臨床医とし
ての収入で生計を維持する人が圧倒的に多く、私もその一人でした。他の領域の研究者は
大学に勤めて、教育で生計を維持しています。医師としての宣長の収入が年間 100 両とい
いますから、1 両 10 万円として年収 1 千万円はなかなかの高収入と判断します。
第二に感心したのが、彼の関心の広がりと見識の深さ・広さです。日本全体や世界に眼を
向け、自身で描いた詳細な日本地図が残り、世界地図も所有して、日本を世界の中で位置
付けし、
「日本は国のサイズは小さいけれども、文化的に小さいわけではない」と述べてい
ます。そもそも「日本は国として小さい」と認識していたのが驚きです。
一方、儒教の教えの下らなさを指摘して、「百姓一揆で非のあるのは、農民ではなくて責
任を追求さるべきは施政者」だと明確に主張してその点を藩主に上申しています。もっと
もその一方で、平静な心を維持して冷静な対処の重要性も述べています。
第三が言語感覚です。記念館に展示されていた古今集の(当時の)現代語訳「古今集遠
鏡」は 20 世紀 21 世紀の現代の目で見ても新しい感覚で、豊かなユーモアを感じました。
本文が入手できずメモも乏しかったのを残念に思っていましたが、しばらく前にインター
ネットに公開されて自由に読めるようになり、お蔭で感激を新たにしました
(http://www.milord-club.com/Kokin/nori/kan01.htm)
。
他にも、研究にカードを使用して論文の骨格を構成していたという現代に通じる工夫に
も感心し、自画像を含む絵も見事です。また、賀茂真淵への師事は対面ではごく短期間だ
ったのに、手紙のやりとりで研究指導を受け続けて「日本最初の通信教育」だったとの事実
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も魅力的です。
要するにこの人は、単なる国学者ではなくて幅の広い学者兼思想家、いわば「知の巨人」
で、当時私は「知的プレイボーイ」と名づけた記録があります。
記念館についても一言述べます。展示がお座なりでなくて内容豊かなのはもちろんです
が、特に嬉しく感じたのが書籍販売です。記念館や文学館を訪れて、ロクでもない土産は
売っていても書籍販売は稀です。ところがここでは本居宣長自身の作品はもちろん、他の
方々による評伝や解説が多数販売されていて何冊も購入しました。今回使用したのは、そ
の際に購入した「菅笠日記」
(下記)で、その後愛読してきました。記念館の展示担当者に、
本居宣長への愛情と共感に納得したと記録しています。
当時はなかったと思いますが、現在ではこの記念館が素晴らしいホームページを開いて
おり (http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/norinaga1/menu.html)
、これも充実
して内容豊かです。
私の経験に限りますが、記念館や文学館で書籍を販売していたのは、ここ以外では横手
市の石坂洋次郎記念館だけです。
本書の内容に関する問題と疑問
1.宣長は磁石を使っていたか
今回本書を詳細に読んで気づいたのは、方向を常に明確に述べている点で、左右の表現も
ありますが、東西南北を頻回に記述しています。太陽が出ていればわかるとして、曇りや
雨の日も多かったはずです。そうすると、「宣長は磁石を持参していたのではないか」とい
う疑問がわきました。宣長が科学への関心も深かったとわかっています。本書の旅は 1772
年で、伊能忠敬が『方位磁石』を使用して測量を開始する 1800 年頃よりも 30 年近くさか
のぼります。しかし、磁石自体は随分昔からありましたから、「本居宣長が使っていたはず
がない」とは言えず、案外持参して使っていたのかも知れません。とにかく、方角の記述
が多いのです。
2. ガイドブックとしての使用
いろいろなところに、「本書がガイドブックになった」と書いてあります。それは理解で
きますが、
それにしては飛鳥で御陵を探索する点が詳細で、読者はどうしたのでしょうか。
著者自身が言い訳をしていますが。ガイドブックとして実際に使用した記録があればぜひ
読みたいと感じます。
書籍と電子ファイル
本書に使用した直接の情報つまり書籍と電子ファイルに関して述べます。
1) 尾崎知光 木下泰典編 菅笠日記
和泉書院、大阪,1994(1987 初版)
上記の記念館訪問時に購入して愛読しています。詳しい註が、解釈を助けてくました。
現在も販売されているようです。今回の現代語訳の底本です。
2) 菅笠日記の電子ファイル
いくつもあります。上記の記念館のホームページにあり、他に私の知識で下の二種類を
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加えて計 3 種類あります。比較は試みていません。
http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/k017/html/n01/p002.html
これは原文(絵)が展示されており、同時にテキストも掲載されています。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1772_sugagasa.htm
こちらは通常のテキストです。
3) 現代語訳
現代語訳の書籍が一種類だけあります。
本居 宣長原著 三嶋 健男・宮村 千素著 現代語訳菅笠日記、和泉書院 1995。
定価は 1,800 円と妥当ですが、現在は入手が極端に困難で、ほぼすべての古書店で「在
庫なし、注文すれば入荷を知らせる」となっています。アマゾンだけは古書を提供してい
ますが、価格が 1 万円近くと高価で、普通の読者が手を出すものではありません。
今回、図書館に相談したら取り寄せて頂け参照できて幸いでした。内容は詳細で、たん
なる現代語訳にとどまらず、詳細な解説も加わり、実際に歩いて確認した経路と道路地図
と鉄道も詳しく載っています。場所によっては、宣長が宿泊した施設の意見も聞いていま
す。これだけ内容の優れた本が古書でさえも入手困難とは残念で、途方もない価格という
のが販売量の少なさを意味するとも解釈します。
実のところ、現代語訳の書籍の入手困難も、現代語訳公開への闘志を掻き立てました。
本書の現代語訳での特殊な点
今回の現代語訳に関して述べます。
私自身としては、北越雪譜、
蘭学事始に次ぐ三作目で、
今回のものも特に難解ではなく、骨折りの度合いは基本的には前の二つと同程度でした。
しかし、今までになかった点が二つあります。
一つは和歌です。私自身は和歌・短歌への興味が特別強くはありません。子供のとき、
ふつうに小倉百人一首のカルタ取りをしました。特別強くはありませんでしたが、ある程
度努力もして十分に楽しみました。他に、中学高校の授業で和歌を少し学習しました。
さいわいなことに、40 代半ばに犬養孝氏の万葉集のテープを入手して楽しみました。45
分のテープ 10 巻からなる大作で、繰り返し聞きました。丁度ウォークマン使用開始の時期
に一致していたのも幸運でした。これ自体はもちろん万葉集だけですが、万葉集と限らず
短歌の面白さに眼を開いて貰ったという印象を抱いています。少し後の 1995 年頃に、大岡
信氏の『私の万葉集』
(講談社現代新書 5 冊)に遭遇し愛読しました。まだ全巻は揃ってい
なかった頃で、揃うのを楽しみに待った記憶があります。
もう一つは、皇室・天皇に対する表現が苦手な点です。本書にはその面が濃厚で、当時の
時代背景以上に宣長の研究者としての経歴と仕事の内容がそうさせたと推測でき、それ自
体は自然です。先に現代語訳した北越雪譜と蘭学事始に、藩の政治と幕政に対する感謝が
表明されていますが、それとはレベルが格段に違います。
私自身はそんな特殊感覚をもたず、宣長の書き方に強い違和感を抱きます。それに、読者
の気持ちも私のそれに近く、敬意は否定しなくても関心は薄いと判断します。
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今回の現代語訳で行ったこと
今回の現代語訳に際して、気づいた点と行った点を述べます。
1 私の使用した書籍も電子テキストも句読点があいまいで、全部が句点「。
」で、読点「、」
がないので、文章の区切れが不明です。したがって、これは自分で判断しました。
2. 実はもっと大幅に手を入れました。
原文は単なる古文ではなくて、歌を修め日記風ガイドブック風にする狙いで、修飾語を
数多くつけて、リズムを生んでいます。数えた例を挙げると、「いと」が 150、文頭の「又」
が 120、「ばかり」が 95、文頭の「さて」が 75、「猶」と「なほ」を合わせて 61 などです。
こういうものを素直に、そのまま現代文に入れると(もちろん、「いと」は「大変」
、「非常
に」
、「ひどく」などと変えて)
、数が多すぎて読めません。原文では味わいとしても、現代
の文章では誰でもおかしいと感じるでしょう。もう一つは仮名が多くて漢字が比較的少な
い点、とくに漢字で書くのがふつうの熟語(固有名詞を含む)を仮名交じりで書いていま
す。たとえば、「初瀬」を「はつ瀬」と書き「初瀬川」を「はつせ川」と書き、「吉野」を「よ
し野」とか「よしの」と書く類です。
最初は比較的素直に逐語訳してみると、何とも不自然で読みにくかったので、上記のよ
うに単語を数えて原因の一端を知りました。そこで、徹底的に書き換えました。ムダな表
現を切り捨て、単語を入れ替え、修飾語と被修飾語とを近接させ、なじみの固有名詞は漢
字にするなどの手順で、現代の文章にしました。個々の文章が長すぎると感じる場合が多
く、自分の流儀で切断し、テーマ毎にパラグラフを変え、場合によっては 1 行空けました。
それによって、原文の味わいは確実に失われましたが、「読みやすく」「内容を把握しやす
く」を優先しました。皇室、天皇に対する特殊な表現は、単純な丁寧語の表現にしました。
私は飛鳥を数回訪れていますが、吉野を訪れたのは一度だけでそれも桜の季節ではあり
ません。桜に関する知識もとおり一辺です。他の宣長の歩いた道は、鉄道でしかわかりま
せん。鉄道趣味があり近鉄大阪線は何度も乗車してはいますが、宣長の歩いた道との関連
は意識しておらず、大抵はノンストップの特急でしたから、途中駅でなじみの名は八木と
室生と名張程度です。
万葉集などの古歌で、作者名のわかるものは加えました。
一応の努力はしましたが、ともかく自分の基礎知識は貧弱です。要するに私はアマチュ
アです。本現代語訳は宣長の研究者でも何でもない、一人の医師が好きで訳したというア
マチュアの作品です。
前 2 作と同様
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/
で公開します。
地図に関して
各旅行日に合わせて地図を加えました。国土地理院のものに、見えにくい文字を書き加え
ただけですが、
一応経路順に示し、
本文の地名との関係がわかるものは説明してあります。
しかし、自分で実際に歩いているのはごく一部で、大部分は自分では歩いていません。こ
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の点は、三嶋・宮村両氏の著書や記念館のホームページの詳細な検討・記述とは比較にな
りません。
謝辞
この著者と作品に対する眼をひらいてくれた本居宣長記念館(松阪市)に、深く感謝しま
す。今回は、ホームページも参考にしました。参考図書(現代語訳)を入手して下さった
吉祥寺図書館(武蔵野市立図書館の分館)と帝京短期大学図書館にお礼を申し上げます。
国土地理院の地図を一部引用しました。
ともあれこの現代語訳によって、この興味深い作品がさらに読まれる契機となることを
期待します。
帝京短期大学
諏訪邦夫
2011 年秋
60