キリスト教思想研究の現在 (2004/05/24) 與賀田光 嗣 シュライアーマッハーの倫理学の基礎付け 【参考文献紹介】 W.H.プレーガー『シュライアーマッハーの哲学』玉川大学出版局 1998 序章 第一章「理性的な自然」の形成−宗教と芸術にたいする倫理学の関係 1節 倫理学−自然と理性の一致 2節 哲学対宗教 3節 芸術−自由で象徴的な制作 4節 「自然」という概念について 第二章 実践の「尊厳」−社交理論、教育学、政治学について 1節 社会理論と社交理論について 2節 教育実践と教育理論 3節 『国家論』−実践的見地からの理論 4節 社交理論、教育学、政治学についてのテーゼ 第三章 対話の理論−人間学、弁証法、解釈学の相互連関 1節 対話の人間学的諸前提 2節 弁証法−理論と実践に共通する知の形成 3節 解釈学−対話における語りと理解について 4節 対話の理論についてのテーゼ 序章 実践哲学の流れ アリストテレスとカントの系譜 ・ 実践哲学のアリストテレス的な理解の二つの欠陥 ・ヒューム(D.Hume)以降、自然主義的な誤謬推理(あらかじめ与えられてい る存在から当為命題を導き出そうとする試み) ・実践哲学の厳密さの欠如 ・ カントにつながる系列の問題 p10「存在と当為を徹底的に分離」 →ヘーゲル ・現実は理念によって形成…ヘーゲルの哲学=理論的 ・シュライアーマッハー p11「そのすべての部分において実践の哲学である。彼の哲学は実践の観点か らみた、実践のための哲学である」 →実践という概念を前提にし、シュライアーマッハーの著作の連関を明らかに。 シュライアーマッハーの弁証法 p12「シュライアーマッハーの弁証法が取り上げている主観は、超越論的主観性でも なければ、純粋自我や絶対精神でもない。問題となっているのは、たとえばプラトン の対話編にも登場するような、具体的な発言者、つまり自然的かつ歴史的状況に置か れている話し手なのである」 p13「対話理論としての弁証法は、理論的な問いと実践的な問いを結びつけ、理論的 にも実践的にも広がっていく普遍的拘束性を追及するものである」 シュライアーマッハーの実践哲学 ・「理論と実践」→実践の優位を強調 …実践は前理論的諸要素を持つ。理論により構成されるのではなく、意識される。 P14「実践が意識され、前理論的な諸要素が理論的に基礎付けられた言葉の連関へと発 展し続けるにつれ、理論的な洞察が自然に増していくのと相まって、実践は変化する」 eg. 外部より実践を変えようとする道徳的命令や法律→抵抗にあたり→政治の領 域においては法律を無視→革命に至る。 シュライアーマッハーの方法 ・ 自然と理性の完全な同一性への関心から出発→現実における諸対立を記述 →諸対立は決してはっきりと現われないことが明確に p14「一方の側の「最小値」(Minimum)はすでに他の側に含まれている。このこと を前提にすると、同一性の実現は、両方の側からの漸進的「相互浸透」 (Durchdringung)として理解することができる」 →現実の実践は理論的諸要素を含み、理論的言表も現実の対話実践の一部である 第一章 1節 1 「理性的な自然」の形成−宗教と芸術にたいする倫理学の関係 倫理学−自然と理性の一致 倫理学の基礎づけとその目標 倫理学…「理性的自然」の形成に関する学問 「純粋な自然」と「純粋な理性」は現実には存在しない抽象概念 →歴史的・倫理的な過程は自然と理性が相互に浸透すること →行為する理性…「理性的自然」と「自然的理性」の一致の過程をおし進める課題を 持つ。…現実の一部である必要がある p25「理性は自然のうちに見出される。理性が(自然へと)根源的に入り込んでいくた めの手段であるような行為を、倫理学は何ひとつ描きだせない。それゆえ倫理学は、 理性と自然の一致が次第に内的に形成されていって、そしてこの一致が大きく拡がり ゆくことのみを描きだす。その一致は普遍的な自然の一部としての人間の有機体から 始まる。しかし有機体においては、理性との一致がすでに与えられている」 個々の人間の行為…すべての人間の「共同の行為」と結びついている →倫理的過程において統一的理性という観点が必要となる p25「人間の自然本性が多数の個的存在へと分かたれているのであるから、人間の自然 本性のうちなる理性の存在は、個的存在の倫理的共同体をとおしてのみ完全なもので ある」 人間の共同体…倫理的現実として、歴史的な過程の内で実現される経験的現実 2 実践理性の行為ないしは理論理性の行為としての組織化と認識作用(象徴化) 倫理学の批判的な機能…認識 倫理学の技術的な機能…形成 狭義の倫理的な行為…「組織化」 知としての行為…「認識作用」「象徴化」 この二つの理性は現実において切り離されない a) 組織化する理性の行為から出発 →自然を組織化すること=自然を理性の道具にすること ・「外的」自然の「組織化」…人間の「形成」を前提→形成し続けることが重要 →「人間の身体」=「すでに与えられている組織化された自然」 ・認識する機能のレベルでは↑の形式が逆転…認識されるのは「外的」自然 →「けっして完全には理解できない自然は内的な人間的自然」 人間が形成される場所=共同体 →人間は五つの生活領域を持つ…家族、自由な社交体、国家、学界、教会 人間が形成の客体であるかぎり、全ての生活領域に関与する必要がある 「形成の主体」としての人間=ある領域において自分の職業を見出すこと p28「職業活動の対象とは、認識能力の形成にしろ、本来的に形成するあらゆる能力に しろ、外的な自然そのものを我がものにすることにしろ、理性の形成が人格にとって、 そして人格のうちで同一性という性格をもつかぎり、自然にたいする理性の行為のす べてである」 p28「1.人格は何ものかを形成する 体にたいする認識が自己を形成する 2.人格は自己を形成する 3.そのさい人間の共同 4.人間の共同体のために外的自然が形成される」 ・独自なもの(個人に属する)と同一なもの(共同体に属する)の対立 →人間が共同体のうちに入り込むことにおいて、同一の性格と独自の性格との関係 の差異がなくなることにより克服される →職業活動=行為する理性が全体性に関係づけられた形成であり、人格の独自性に よって当然制約されている自然の形成である →人格の独自性と同一の理性との連関に「分業の基盤」がある →分業により欲求と技術との均衡が破られる←交換によって回復(貨幣が等価交換 提供)→国家=交換秩序の管理人 b)認識する(象徴化する)理性行為 認識作用…再帰性(Reflexivität)が強調される 理性→「そこで他なるものが認識される」というその認識のうちで自己自身を活動し ている理性として認識→認識されたもの=理性の性格を獲得→理性と自然の完全な一 致の象徴 p31「あらゆる個別的な認識作用が象徴的であり続けるのは、認識されたものも認識す る者も、「自己の存在という特別のものにかかわっており、こうして互いに排除しあ う」がゆえにである」 →人間は自分だけで絶対的認識を要求できない↓ p31「形成という営みにおける理性の同一性と営みそのものの共同体的性質とは、本質 的に同一のものである」 ・いかにして「私事の領域から万人の共有財産へ」と達するのか? →「経験と伝達の同一性」→「伝統」を基盤…伝統=ひとつの意識から他の意識へ の委譲の可能性に依拠→委譲の手段=言語によって供給されるような記号の体系 * 言語はそれ自身「認識作用の真なる共同体」の表現 ・ 意志の疎通の手段 ・意志の疎通と認識の前提 認識…言語によって結びつけられている共同体において人格のうちで形成される 形成の根底には共同的な「実践」が存する 理論知の形成=実践を超えてあるのではなく、人間の活動そのものとして依然実践で ある 3 倫理学における法則の概念と自然学における法則の概念 理性の行為の様式…自然の倫理的な組織化 自然の物理的な認識(=倫理学と自然学) 命法倫理学は助言倫理学によって補完されねばならない…倫理学の中心概念≠命令 命令…理性的になっていないものを考慮に入れるだけであり、現実のうちに存在し ている理性的な自然を考慮に入れていない p34「したがって倫理学の諸命題は条件つきの命令であれ無条件の命令であれ、命令で あってはならず、この諸命題が法則であるかぎり、それは自然にたいする理性の現実 的な行為を表現しなければならない」 法則とは何か? →1825 アカデミー論文「自然法則と道徳法則の違いについて」 …自然と理性の違いに遡る←道徳=実践理性に組み込まれているため p34「自然法則は自然のうちで現実に生起するものについての普遍的な言表を含んでお り、他方道徳法則は「理性の領域」のうちで生起すべき(sollen)ものについて言表す る」 当為(Sollen)の消失←個人の理性…理性それ自身の命令を承認し、道徳的な行為一般 が可能となるならば、当為は個別的理性の意欲へと変わる p35「服従者は<すべし(Soll)>によって命令者の意志を認識する。それゆえ確かに、 語りかけられた者のうちで前提とされているのは、服従しようという一般的意志であ る」 * ↑「最小限」が対立するそれぞれの概念のうちに含まれている p36「理性行為への意志が理性のあらゆる命令の基礎として前提とされなければならな いならば、定言命法は「もし汝が理性的であろうと欲するなら、そのように行為せよ」 という文言の仮言命法に変容する。あらゆる人間における理性的な意志に由来する道 徳法則は、「汝は理性的であろうと意欲するがゆえに、そのように行為せよ」という断 言的な定式に至るのである」 理論と実践…道徳法則において固く結びついている p37「「というのも、道徳法則はまずはじめに思想として存在し、その後で理性がこの 法則への尊敬を惹起するというようなものではないからである。そうではなく、ひと つの同じものであるにすぎず、理性が実践的になるための、つまり衝動として存在す る同一の超越論的な作用が、そして道徳法則が存在するための同一の超越論的な作用 があるにすぎないからである。」理性的に行為しようとする意志も、法則の尊重も、道 徳的な存在(Serin)を表しているが、この存在なくしては当為(Sollen)は有効性を もつことがないのである」 理論理性の自然法則と実践理性の道徳法則の違い→行為する理性の干渉的な性格 →理性を理論的に使用すること→行為として意志に由来 ・理論理性に対し、それを承認するために実践理性が優位となる 著者の論に従うと、シュライアーマッハーの「実践と理論」の図式は個人と共同体と いうものを自然主義的に誤謬推理するものではなく、またその二つを徹底的に分離す るものでもない。個人と共同体が循環的に、また同時に生成される過程が描き出され ている。いわゆる神学的人間論(神との関係から人間を、その徹底した現実性におい てとらえる。神の像に無から造られたものとしての人間の本質的在り方と同時に、罪 におちている人間の実存的あり方を明らかにする)としてではなく、カント以来の人 間学的基盤に依拠している点が、シュライアーマッハーの論の哲学的な緻密さを裏付 けているといえる。
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