LE FIGARO 2014 年 5 月 10 -11 日付 スタイル カルティエ財団 30 年を祝いに来たデザイナー三宅一生と会う 賢人デザイナー、三宅一生 齢 70 を超えた才能豊かな日本人デザイナー三宅一生は目下、モード の領域を超えたプロジェクトで多忙を極めている。その一方で、彼 の名を冠したメインコレクションはウィメンズ、メンズ共にブラン ドの名に恥じない適任の後継者を得たようだ。 文:フレデリック・マルタン=ベルナール 三宅一生がパリに帰って来た! まずは昨夜開幕した、カルティエ 現代美術財団の振興および展覧会活動 30 周年を祝う記念プログラ ムの第一弾「Mémoires vives(生きた記憶)」展のために。この展覧 会には財団の活動を魅力的なものにするのに大きな貢献を果たした アーティストが招聘されており、三宅の他に、ロン・ミュエク、マ ーク・ニューソン、アニエス・ヴァルダ、アレッサンドロ・メンデ ィーニ、デヴィッド・リンチ、ジェームズ・リー・バイヤーズ、ジ ャン=ミッシェル・アルベロラ、パティ・スミスらが 9 月 21 日まで の会期中、ラスパイユ通りにある財団の記念碑的ガラス建築の壁と 空間を再び彩る。 1998 年秋、日本人デザイナーの三宅は、ここカルティエ現代美術 財団において、自身独自の服づくりのプロセスに焦点を当てた展覧 会「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」で多くの人々を魅了した。 1971 年のコレクションデビュー以来、彼は機能性、動きやすさ、着 1 心地の良さを兼ね備えた、曰く単に美しいだけではない、またトレ ンドも超越したフォルムの服を開発し続けている。 「ファッションデ ザイナー」あるいは「モードクリエイター」と呼ばれることを一貫 して拒んで来た彼は今日、カルティエ現代美術財団のプログラムに 記されている通り「1階ギャラリースペースと屋外庭園に陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE 照明器具を用いた光のインスタレーション」でもっ て夜を再解釈している。言い換えればつまり、今回彼が出品してい るのは服ではない。1999 年、彼はモードの表舞台から身を引き、所 有権は今もなお彼の元にある自身のメインコレクションの舵取りを 1982 年来の彼の右腕、滝沢直己にバトンタッチしたが、この決断は 三宅にとって、まったく理に適ったものだった。 「次の世代、すなわち未来の担い手にバトンタッチしてゆくことが 大切です」と三宅一生が力説したのは、去る 12 月のこと。私が東京 の青山地区にある 21_21 DESIGN SIGHT を訪れた際だった。21_21 DESIGN SIGHT は三宅が“旧知”の建築家、安藤忠雄の協力を得 て自ら設立したジャンル横断的なデザインセンターであるが、なん とここではモードは滅多に展示の機会がない。しかも、2010 年に文 化勲章を授与された日本を代表するデザイナー三宅のコレクション はさらに展示の機会が少ない!「モードの議論を広げることや、他 分野との架け橋を築くことが常により大切です。あなたはもしかし て、私が自分の仕事を讃える美術館を作るとでも? とんでもない!」 と彼は、集団見学の小学生の一行とすれ違いながら私にささやいた。 そして子どもたちの誰一人として彼が何者であるか気づかないこと にとても嬉しそうだった。 そう、一生はそういう人だ。名声、ポートレイト、インタビュー、 そうしたことは決して彼の好むものではなかった。彼に会うために は策を弄さなければならないし、すでに彼を知っていなければなら ない。そして、Le Figaro での1面フルに使ってのポートレイトを売 り込むよりも、パリの新しいパティスリーを発見しに連れて行くこ とを口実にした方が良い。続いて、タルトタタンを前にしたら確実 2 に、この人生とあらゆるものの美食家は語る。 数日前より三宅一生はパリに戻って来ている。カルティエ現代美 術財団での展覧会のために。彼は幸せそうで、晴れやかな表情で、 にこやかな目をしている。 「昨日は、太陽、にわか雨、そして最後は 神々しい虹に遭い、私はパリに“お帰りなさい!”と歓迎されたよ うな心地を味わいました。今の私があるのは、この街あってこそな のです」。 パリでの思い出を、彼は懐古趣味とは無縁に淡々と語ってくれた。 「パリにやって来たのは 1965 年。クチュールにとって美しき良き時 代でした。クリストバル・バレンシアガはまだ現役で、イヴ・サン ローランとクレージュは上昇気流の真只中におり、マダム・グレは 別の路線を歩んでいました。私はユベール・ド・ジバンシィ氏の元 で服づくりのキャリアをスタートさせたのですが、彼は大変美しい デザイン画を描く人で、それはディテールに至るまで見事なもので した。彼の服づくりは私の目指す方向性とは異なっていましたが、 彼の元での日々は大変有意義な経験でした。それからある日のこと、 サンジェルマン・デ・プレ界隈を歩いていたとき、ショーウインド ーにイサムノグチのライトを見つけました。私同様日本人の血を引 く彼は日本的な感性や発想の持ち主でしたが、その仕事は世界で認 められました。その事実が私を大いに奮い立たせました」。 1971 年、三宅一生は自身の名を冠した初コレクションをニューヨ ークで発表。73 年秋冬より発表の舞台をパリに移す。そして 1977 年、76 年度毎日デザイン賞記念ショウとして東京で開催された 「Issey Miyake in Museum — 三宅一生と一枚の布」と題されたコ レクションで、彼のスタイルの基礎が決定的に確立された。当時の プレタポルテは Stockman(ボディマネキン)に布を当てて、伝統 的なゆったりふんわりしたカッティングを行う服づくりが主流であ ったが、三宅の場合はそれとは対照的に、着物の手法である平面裁 断だった。このようにして作られた服は身体にぴったりとはフィッ 3 トしない代わりに、身体は動きの自由を得る。1980 年代より彼はし ばしばプリーツファブリックを用いながら着心地の良さにもこだわ り始める。1991 年にはウィリアム・フォーサイスに懇願されてフラ ンクフルトバレエ団のためのコスチュームをプリーツで開発。その 2 年後、この実験的かつ技術的に大変高度なプリーツは、PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE ラインとして誕生を見、素晴しい成功を 収め、彼の会社に実に素晴しき歳月をもたらした。 しかしながらモードの世界は 20 世紀末に大きく変わってしまっ た。財界のビッグネームがメゾンを次々と買収しグループを編成し、 そして現場ではカッティングよりもマーケティングに習熟している 者がブランドのアーティスティックディレクターの地位に就き采配 を振るうようになっていった。 「モードはどんどんと自由を失ってゆ きました。今日ではデザイナーは皆、服とは直接関係のない多くの 事柄に気を回さなければならなくなっています。私が表舞台から遠 ざかり別のかたちで自分の仕事をしようと決意したのは、まさにこ うしたことが理由です」。 三宅から滝沢直己へのバトンタッチはスムーズに行われた。なぜ なら滝沢はその日を迎えるまでに、三宅の傍らですべてを習得して いたからだ。 「三宅は私に徹底的に基本を叩き込みました。ファッシ ョンデザイナーはしばしば、人目を引こうと、たとえば色彩やプリ ントなどで派手なことをしたがります。実際、威勢ばかり良くて基 本をおろそかにしているなと感じるコレクションをよく見かけます ね。私が今日ユニクロで力を存分に発揮できているとすれば、それ はまちがいなく三宅のおかげです」と、日本のファストファッショ ンの看板ブランドのアーティスティックディレクターを務める滝沢 は打ち明けた。 小野塚秋良や津森千里ら、他の古参のコラボレーターたちもまた それぞれに羽ばたいている。1990 年代、三宅は彼らの独り立ちを全 面的に支援すべく、株式会社イッセイミヤケのグループ子会社とし 4 て A-Net を設立した。彼はまた、メインコレクションとは別の仕事 に携わるデザイナー集団のラボも三宅デザイン事務所内に設置した。 「彼らは何か迷いのあるとき私に助言を求め、私は彼らに指針を与 えます。私としては、より長いスパンでのプロジェクト、つまり十 分な時間をかけて流行にあまり左右されないプロダクトの開発に没 頭するのが好きですね」と語る三宅は今なおものづくりの現場に全 面的に身を置いている。ということは、表舞台から身を引いたとは いえ、以前と変わらぬ日々ではないか! 2シーズン前から、ウィメンズは宮前義之、メンズは高橋悠介が デザインを担当している。どちらも、創業者三宅の服づくりを正当 に受け継ぐものとなって、パリ・ファションウィークで再び大きな 存在感を放っている。 「我々は今とても良い時期を迎えています。チ ームワークも素晴しいですし、会社は依然独立を保てていますから」 と、賢人デザイナー三宅は 12 月の東京で、そして昨日のパリで晴れ やかに語った。彼には他にも嬉しいことが沢山ある。まずは新たな 展覧会への参加や関与。イスラエルのホロンにあるロン・アラッド 設計のデザインミュージアムでの展覧会に出品が決まっているし、 彼がディレクターを務める東京の 21_21 DESIGN SIGHT ではジャ ン=ポール・グード、ボブ・ウィルソン、デヴィッド・リンチらを 一同に紹介する展覧会を開催する。他にはヨーロッパでの HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE の発売と新ショップのオープンも楽しみ であるし、さらには「まだ内緒ですが大変エキサイティング」とい う複数のプロジェクトにも彼は胸を躍らせている。これからのプロ ジェクトについて話す彼の姿はまるで、20 歳の青年のようだった。 <了> <写真キャプション> 三宅一生と、彼の率いる REALITY LAB.が開発した“陰の彫刻”こと IN-EI 陰 翳 ISSEY MIYAKE のライト。カルティエ現代美術財団で現在展示中の夜を再 解釈したインスタレーションはこの照明器具のシリーズで構成されている。 5
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