la Repubblica (ラ・レプッブリカ) 2014 年 4 月 13 日(日)付 重要人物。偉大なる美。 日本人デザイナーが(めったに受けない)インタビューのために、東京にある 彼自身の本拠地に我々を迎える。津波について、イタリア料理について、自分 の仕事について、そして何故この仕事をするのかについて彼は語る。「喜びを もたらす物を創造したいのです」と。 ロレンツァ・ピニャッティ記者 東京 約束の場所は東京ミッドタウンに設置された展示スペース、21_21 DESIGN SIGHT で ある。彼はインタビューが好きではない。礼儀正しい日本人らしく、あまりに単刀直 入だと思われる質問は全て避け、個人的な質問にはもちろん答えない。それでも、 我々を出迎えてくれる三宅一生は、優雅で愛想の良い身のこなしで、微笑みを惜しま ない。 TIME 誌は、ガンジー、毛沢東、ダライ・ラマ、裕仁天皇と共に彼を「20 世紀で最 も影響力のあるアジア人」のリストに加えた。彼はファンション界で獲得できる賞を ほとんどすべて獲得してきた。しかし、疲れを知らない先見の明をもって実験的な挑 戦をする彼にとって窮屈な二つのレッテルがあるとすれば、それはまさに「東洋」と 「ファッション」である。「海外での経験は、私に地球上のある地域と別の地域との 違いを超越した物の創造を示唆してくれました。」仕事については、自分をファッシ ョンデザイナーであると定義したことは一度もなく、常に「もっとシンプルに、デザ イナー」であると主張してきた。スノビズムからそう言うのではなく、言葉には必ず 事実が伴わなければならないからである。そして、事実をみれば、長いキャリアのな かで三宅は衣服(あるいはシャツ:例えば、彼の友人スティーブ・ジョブズが着用し た黒シャツ)だけをデザインしてきたのではなく、バッグ、照明器具、展覧会(例え ば、我々が今いる展示スペース)も手がけた。要するに、ただのファッションデザイ ナーではない。まったくその通りである。 デザインへの情熱が湧き起こったのは広島にいた思春期である。広島は彼が生まれ た都市であり、原爆の都市である。1945 年 8 月 6 日、原爆が投下されたとき彼は 7 歳 だった。母親はその 3 年後に死去、その他の家族もやがて亡くなった。三宅がこの困 難な出来事を公表したのはただ一度、2009 年のことである。The New York Times 紙に掲 載されたオバマ大統領への手紙で「・・・私は子どもでした。今でも目を閉じると、 いかなる人にも見ることを許してはならない光景が見えるのです。すべてを覚えてい ます。こうした理由もあって、自分の人生では、創造できる物、破壊されない物、喜 びと美をもたらすことのできる物に関わりたいと思ったのです」と書いている。毎朝 通学途中に、日系アメリカ人のイサム・ノグチが考案した「平和大橋」を渡りながら、 思春期の三宅はそのような物を識別し始めた。東京の多摩美術大学の図案科を卒業し た後、1965 年にシャンブル・サンディカ・ド・ラ・オートクチュールでファッション デザインを学ぶためにパリに渡る。ファッションの都パリで、ギ・ラロッシュやユベ ール・ド・ジバンシィのために働くが、1968 年にあらゆる状況が変化する。デザイナ ーであることの意味についての彼自身の考えにも変化が生じた。三宅はもはやエリー トのためだけに衣服を考案することに飽き足らなくなった。パリを去り、ニューヨー クに短期滞在した後、再び東京に戻って自分のデザイン事務所を設立したのは 1970 年 である。「普遍的な考え方に基づいた物、しかし同時に絶対的に独創的な物を創造し たかったのです。日本が唯一の場所でした。なぜなら、伝統と最新技術を融合する能 力を持ち、あの歴史的な時期に新しいエキサイティングな何かを待ち望んでいた国だ ったからです。」 普遍性と独創性。三宅はアメリカの高名なアート専門誌 ARTFORUM の表紙に掲載さ れた最初のデザイナーであった。1982 年のことだった。空想科学的な形状の彼の衣服 は籐と竹で制作され、その極めて独創的な技術は日本海にある佐渡島の典型的な職人 工芸であった。藤原大の協力で実現した A‐POC(エイポック、2001 年)プロジェクト は、画期的な技術の見本を示すものである。1 本の糸が次々と連続して 1 枚の布が創 り出される。布は筒状で、その内部にはスカートまたはアクセサリーを示唆するよう な形状のニットが編み込まれている。筒状の布の購入者はこれを切る(編み目に沿っ て)ことが可能であり、また自分の好みに合わせてカスタマイズするため変形するこ とも可能である。それを証拠に、2006 年以降、A‐POC はニューヨークの MoMA におい てパーマネントコレクションの一部となっている。しかし、時間が経過してもプリー ツ加工を繰り返す必要がなく、プリーツが生地の「記憶」に残ることを可能にする技 術を用いた PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE によって、ついに誰でも着やすい衣服を創り出 した。「普遍性」である。「私たちはチーム一丸となって、常に新しいアイディアと そのアイディアを生み出す新しい方法を求めています」と我々に語る。その間にも事 務所の若手デザイナーが彼にデッサンやプロジェクトを提案している。 (創 造 ) 上から。建築家安藤忠雄が考案し、三宅が 2007 年に設立した東京ミッドタウンの 「21_21 DESIGN SIGHT」;アルテミデ社製の照明器具「陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE」;日本 食を真似て「PLEATS PLEASE」の生地で創った限定版の宝石箱「SUSHI(寿司)」;「APOC」(2006 年より MoMA 収蔵)コレクションの一例;大きな写真はデザイナー三宅一生、 アルテミデ社製の自作照明器具「陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE」の側にて。 イッセイ・ミヤケ でも私をデザイナーとは呼 ばな いでください 彼は全員の話を聴き、誰に対しても礼儀正しく根気強い。「私が何よりも好きなのは、 日本各地にある工場や企業を訪問することです。こうした企業のうち数社と、また小 規模な産地の職人とも協力して、我々は長年仕事をしています。私にとっては、この ようにして構築した関係が非常に重要なのです。彼らは皆、とても強固な伝統の歴史 がありますが、新たな挑戦に対しても常に積極的です。日本はこの分野で歴史的に唯 一知識をもつ国です。それは材料の豊富さだけでなく、精神的な豊かさと言えるでし ょう。残念ながら、とくに東日本を襲った 2011 年の地震や津波の後、企業のリーダー となる後継者の不足や生産コスト高が原因で、日本の職人工芸は非常に困難な状況に 直面しています。同年、まさにこの 21_21 DESIGN SIGHT において我々は、被災地の 職人工芸によるものづくりに焦点を当て、東北の底力、心と光。「衣」、三宅一生。 およびテマヒマ展<東北の食と住>、という 2 つの展覧会を開催しました。しかし 我々は、東北地方の現実とのコラボレーションを開発するために、すでに 2007 年に リアリティ・ラボを設立していました。これは専ら研究開発を担当するチームす。」 コンピューターサイエンティスト、三谷純教授と共に制作した衣服コレクション、 132 5. ISSEY MIYAKE が生まれたのはこのラボ内である。その成果は 10 種類の型紙 (折りたたむと同じ形状になる)であり、これが異なるスケールをもつ同一形状の組 合せによって、シャツ、スカート、パンツ、ワンピースに変化する。リサイクルされ たポリエステルを加工して生産されたポリエステル繊維で制作した折り紙のように見 える。エネルギー消費と二酸化炭素の排出が約 80%削減可能な工程である。「この形 状にインスピレーションを受けて、照明器具陰翳 IN-EI ISSEY MIYAKE が生まれたの です。日本語で影を意味する言葉です。根本となるコンセプトは素材の二次元性です が、開くことで三次元になるのです。一方、使用する材料はリサイクルされたペット ボトルから作られた再生繊維の不織布です。当時、私は国際的企業と共にプロジェク トを開発したいと考えていました。友人の深澤直人さんにアドバイスを求めたところ、 ちょうどその時期にアルテミデ社の社長エルネスト・ジスモンディ氏が東京を訪問中 であると教えてくれました。より正確に言えば、私のショップを訪問中だったのです。 こうして知り合いになり、共同の仕事が始まりました。」アルテミデ社との繋がりは、 厳密なインタビューの規定によって規制されない話題を導入する唯一のチャンスであ る。三宅さん、イタリアはお好きですか?「ヨーロッパでは多くの国々を訪問しまし た。イタリアは私の好きな国の 1 つです。まだ学生だった頃イタリア映画をたくさん 見て、映画監督を高く評価しました。数人挙げるとすれば、ヴィットリオ・デ・シー カ、ルキーノ・ヴィスコンティ、フェデリコ・フェリーニですが、時が経過しても、 イタリアの偉大な創造性には絶えずインスピレーションを受けてきました。デザイン 分野だけに限っても、例えばパルファムのプロジェクト開発をスタートしてすぐに、 私は二人の親友、倉俣史朗とエットレ・ソットサスが適任だと考え、ボトルのプロジ ェクトを依頼しました。この 21_21 DESIGN SIGHT でお二人の展覧会も開催しました。 その際には何年も前のプロジェクトも展示しました。1996 年でしたが、私は時代とフ ァッションをテーマとする、フィレンツェのビエンナーレに参加しました。その時の 体験はとても素晴しい思い出になりました。フィレンツェを訪問することができたの ですから。本当に素敵な街です。また、ピッティ宮殿の回廊という驚くべき空間で自 分の衣服を展示していただき、名誉なことでした。そしてもちろん、料理があります。 イタリアに行く度に、手の込んだものではなく、季節の素材を使ったシンプルな郷土 料理を食べるようにしています。」 日本のデザインミュージアム実現にむけて展、という 21_21 DESIGN SIGHT で開催 中の展覧会を一緒に見学しようと三宅が我々を誘ってくれる。この空間は、このデザ イナー人生において非常に高い価値をもつ。2003 年に朝日新聞が、日本におけるデザ インミュージアムの開設を目指して、公的機関・民間機関の力の結集を求める三宅の 投稿記事を掲載した。日本の経済と文化におけるデザインの重要性を考慮し、三宅は 空白を埋めたいと考えていた。こうして、2007 年に 21_21 DESIGN SIGHT が誕生した。 以来、深澤直人、佐藤卓と共に主宰している。建物は安藤忠雄の設計によるミニマリ ズムのシンプルなデザインである。しかし、これは最初の歩みにすぎない。正真正銘 のデザインミュージアムは近い将来に開館予定である。「大人と子ども、伝統と現代 性、東洋と西洋が出会える場所を考えています。現代社会の未来を共に考えることの できる場所、しかし同時に、生きることや物を作ることの興奮、感動、喜びも表現で きる場所です。なぜなら、私にとってデザインは命であり、プロジェクトを行うこと は我々が生きている時代を創造することだからです。」 お別れを言う前に、若いデザイナーにどのようなアドバイスをしたいかと質問する。 「自分の頭だけで考えるのではなく、いろいろな工場や会社で働く人々と意見交換す る、好奇心旺盛であること、自然を観察すること、美術や建築の展覧会を見ることな どです。しかし、とくに助言したいのは、人間に関心を抱くことです。デザイナーは 大きな社会的責任を担っています。自分のスタイルが理解され、ひいては使用される ために、注意深く人々が望むものを考えなければならないのです。」軽く目を閉じる 彼の記憶に、一瞬、いかなる人にも見ることを許してはならない恐ろしい物が甦るよ うである。彼は微笑みながら、「結局のところ、私たちがしなければならないのは、 美、喜び、そして快適さを伝えることだけです」と別れの挨拶をしてくれた。 (著作権あり)
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