薄氷1995

1995年1月17日
午前5時46分
阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)発生
4AM 就寝。寝ついたかと思われるころ、
「えらい揺れる地震やなあ」と、夢うつつ。
それでも
無意識に頭から布団をかぶる。20秒ほど揺れただろうか、静かになった。
「やはり
起きてみたほうが良いかな」
と、電灯をつける。
たんすの上の物が数十個落下している。直径30cmほどの壺が粉々に割れている。よく見
ると、一度ベッドの上に落ちた跡が付いている。よくも頭に当たらなかったものだと。
「この世の終わりかと思った。地震がおさまっても、あなたが起きないので、死んでいる
のかと思った。」
と、家内が震えている。
間もなく停電。
懐中電灯をとりに台所へ。足元が、ガサガサいっている。手探りで見つけた懐中電灯に照ら
された光景に驚いた。何と一面粉々に割れたガラスの上に立っている。事の重大さを知る。
ローソクを探して要所に点灯する。
外に出てみる。白々と空が明るんでいる。火事はない。飛び出した人が数人。
隣もあわただしい。
「大丈夫ですか」と、私。
「おかげで何とか」と、答える奥さんの声がこわばっている。
停電は1時間ほどで復旧。水道も出る。ガスはプロパンなので大丈夫。
取りあえず、割れたガラス等危険な物をかたづけて、寝なおす事にする。余震が20分か
30分おきにくる。その度に体が自然に跳ね起きてしまう。これでは寝られない、と起き
出し、かたづけを始める。落下物は数え切れず。大きな家具で倒れた物が無いのが幸い。
家もちゃんと立っているようだ。
アトリエは散乱しているが破損した物が無くて一安心。くみ置きの水があふれて一面に
水がたまっている。一日中かたづけに追われる。
18日午前3時。水道の水の出が悪い。
やがて止まるだろうと、水をくみ置きして就寝。つかれた。
1月18日(第2日)
まだアトリエは足の踏み場も無い。側机が1m以上移動している。
間の悪い事に長男が帰省している。ここに居ても生活しづらいので、急きょ帰す事にする。
大阪空港へはとても行けそうに無いので、姫路まで車で送り、さらにJR岡山経由、空路仙
台まで。二男(高3)は卒業まで学校に行けないかもしれない、と思う。
受験期なので心配。共通一次が終わっていたのがせめても。
吉備路スケッチの予定だったが高速道不通なので取りやめる。
近くの友人に連絡をとろうとするが、電話は全て不通。たまにかかっても
「ただいま回線が大変混雑しております」の返事。
TVの画面は戦場そのもの。なぜ火事が消えないのか、はがゆい。
阪神高速道が635mも連続して横倒しに倒壊しているのにもショック。阪神高速道の外れ
た橋げたに前輪をはみだして停まっているバスは映画のロケーションかと見まがう。
〔助かった乗客の後日談;
「道路が波の様にうねって前方の車が消えた。崩れ落ちた前方は一瞬のうちに火の海と化
した」〕
なんとか家の中がかたづく。
1月19日(第3日)
三宮(神戸市の中心地)が再炎上している。死者3000人を超す。
「簡易水道(井戸)なので水が出ているから採りにいらっしゃい」
と言う隣町の友人宅へ行く事にする。容器は無いのでダンボール箱にごみ袋用ビニールを
敷いた急ごしらえの容器を7つ8つ、やかん、水筒、ビン等。
ポリバケツ1個を5000円で売っている、と言うとんでもない話も。
175号線は上下線とも見える限り渋滞。右翼の街宣車が「どかんか・・!」とスピーカ
ーでがなっているが、どうしようも無い。ここを避けて裏道へ。40分ほどかかって着く。
一見なんとも無い友人の家だが、
「瓦が全部ずれて、ふきかえないといけない。見積りは100万円だという、どうしたも
のか」と困惑顔。
「一番悲惨だったのは、骨壺が転がって散乱した骨を拾った時だった」
彼は父上を年末に亡くし、未だ納骨をしていなかったのだった。
1時間がかりで水を積込み「お互いがんばろう」と声をかけて別れる。
7才と5才になるお嬢さんの笑顔が可愛い。
絵を送ろうと運送会社ターミナルへ行く。
窓口は真っ暗。明かりが点いている2階へ上がる。
「いつ送れる様になりますか」
「めどは立ってない。来月になったら何とか荷受けを開始出来ると思うけど、着日が何日
になるか保障ができない」
1月21日(第5日)
死者不明者5000人を超す。家を無くし非難生活30万人。まさに神戸の街は悪夢。
神戸がなくなってしまった。史上初の震度7の判定が出る。
つい3週間前に私の絵をお買上げ下さったお客様も、家がだめになり小学校で非難生活を
されておられるとの事。たまたま帰省されておられ神戸市の御自宅に着くのに3日間かか
ったとのお話。道路事情は最悪。隣の方も発生前日外出されていて帰るのに2日かかった
と言う。
サンTV(地方局)は全日臨時ニュース。2~3時間は字幕になったまま。30分ほど
ニュースを流してまた字幕になる。
「上沢近辺の毎日新聞舗の方は『住む家も無くなったけれど、配達する家が皆燃えて無く
なり配達する所が無いのは本当にむなしい』」と夕刊を配達に来た人が話す。
神戸新聞社(本社は三宮)ビルも壊滅的打撃。10階建本社ビルの山側側面いっぱいに、
富士山のタイル画が描かれていた。高校の修学旅行のとき、たまたま臨時停車した車窓か
ら見た思い出深い絵も取壊しになるのかと思うとさみしい。
新聞発行までの苦労も大変なようだ。
記者は自宅で記事を書き、京都新聞社でフイルムを製作、それを私のすんでいる西区のセン
ターまで搬送して印刷している。(ちなみに三宮-西区は三宮-大阪より遠い。)
新聞の形態は号外そのもの。
小阪先生御宅へ電話。
「かなり揺れたけれど、被害は無かった」
とのお話に安心する。西宮市におられるお嬢さんは、マンションの3階にお住まいだった
が明るくなって外に出ようとしたら、2階になっていたとのこと。
「ぐらぐら揺れているうちに1階がつぶれたのでしょう、『宙に浮いた感じはなかった』
と娘は言っていました」
と奥様のお話。
鈴木先生、小学校へご非難の生活とか、さぞ大変な事でしょうと気が重くなる。
水道の蛇口を外して18ℓ 石油カンに取付け超簡易給水器を作る。
屋根に上がり、断水で動かなくなった太陽熱温水器からホースを引き温水を風呂桶におろす。
丁度はいりごろの温度に沸いていて6日ぶりのふろに大満足。
1月23日(第7日)
姫路管区のターミナルなら荷受けをする、との情報を受け明石市のターミナルへ行き絵
を送る。
「たぶん3~4日後には着くでしょう」と受付の人。
知っている人の訃報はつらい。抽象画家の津高和一先生ご逝去、ほかに知人一人。
長く御世話になった小笠原先生お宅焼失の報。
1月25日(第9日)
水道は依然として止まったまま。手を洗おうとして出ないと判っている水道の蛇口を無
意識にひねってしまう。復旧には一ヵ月との報道。洗濯物を干しているのを見ると腹が立
つ。それも大きな毛布かシーツ。それだけ水が有るのだったら隣の人に分けてあげたらと
思う。
余震が続く。また高速道が全線ストップ。
計算すると1日に70ℓ ~80ℓ の水を運んでいる事になる。水がこんなに重い物かと今
さらに思う。息をするたびに腰の辺りがズキンズキンといっている。水洗トイレに全使用
量の90%を消費。詰まったら大変なので、これだけは節約できない。食器を洗った後の
水もトイレに流す。平常はこの10倍もの水を使用していたのかと思うと、本当にぜいた
くな事だと思う。
日本標準時を示す明石市立天文科学館の時計台(東経135度の子午線上に有る)が地
震発生の5時46分を示したまま止まっている。この時計台も精密で特殊な構造ゆえにと
り壊しになってしまうという。そういえば昨年、この時計台を描いたなあと思う。
また思い出の物が一つ無くなってしまう。
1月26日(第10日)
暖房の水循環モーターをはずして、水くみあげのポンプの代用にする。だいぶ水くみが
楽になる。
体に感じる余震回数、約100回。
建設中の明石海峡大橋の主塔(高さ297m)が淡路側に1.3m動き、橋長は1.1m長くな
った。人工島の六甲アイランドは最大7.3m膨張。
死者5074人、不明61人、けが2万6618人、建物損壊7万4442棟、復旧費
用、8兆6千億円、一説には13兆円とも。水道局主査自殺の報。TVを見ていると、いら
だちと悲惨さに涙が出てくる。救いは子供達の元気な姿。
ちょうど1年前の1月17日に発生したロサンゼルス地震は、死者61人、被害3兆円。
同じ規模の直下型地震だったのにこの差はなぜ。
外にため置きした水に薄氷がはっている。雪舞う中での非難生活、いかに想像してもそ
の大変さと心情にはおよばないだろうと思う。
自分の幸せに感謝する。