靖国神社の遊就館におけるひん曲がった歴史観

遊就館(ゆうしゅうかん)
遊就館は、靖国神社境内に併設された同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館(博物館法
の適用外)。幕末維新期の動乱から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る戦没者、国事殉難者
を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している。
1882年(明治15年)に開館した日本における「最初で最古の軍事博物館」。
靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌するため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列する所
とし、1878年(明治11年)に陸軍
・山県有朋その他の主唱によって西南戦争の際に献納
された華族の恤兵金の一部で建築に着手した。1882年、幕末維新の新政府軍(官軍)戦没
者ゆかりの品を展示する目的で開館。
保阪正康著『「靖国」という悩み−昭和史の大河を往く−』(2013年4月、中央公論
社)によると、これには明治天皇の御意思が働いていたらしいとして、保坂正博はその中
で次のように述べている。すなわち、
『 陸軍の教育総監部が昭和18年に刊行した「皇軍史」は、「明治天皇の御代から今上
天皇までの御代に至る歴史的な流れ」を比較的詳細に書いている。明治天皇の慈悲がどれ
ほど「臣民」を励ましたかということが丹念に書かれている。その歴史観がわりに平易で
あり、そして誰にもわかりやすいのだ。ただし、この書は靖国神社についてはほとんど触
れていない。いやまったくといっていいかもしれない。「明治天皇は国の為命を捨てた戦
病死者を憐れみ、その忠魂を永遠に伝え慰めんと思し召された。靖国神社の合祀は実に天
皇の大御心(おおみこころ)から出たものである。その外(ほか)、宮城内に戦役記念館
を設け、その中に記念品の外に戦病死の将校同相当官以上の全部の写真を掲げ、下士官に
至るまでの姓名等を列記せるものを安置してある」という表現がわずかにでてくるだけで
ある。
靖国神社の遺影を掲げる原点は、明治天皇が宮城内に設けた戦役記念館からのことで、早
くから行なわれてきたことになる。』
『 しかし、明治天皇の御製には出征兵を思う歌が多いのも事実だが、そこには人間的な
感情が詠みこまれている歌が多い。(中略)実際にこれらの歌に盛り込まれている気持ち
は、今の遊就館の展示と一体化できるのだろうか、と私には疑問に思えてならな
い。』・・・と。
保坂正博は、靖国神社の遺影を掲げる原点は、明治天皇が宮城内に設けた戦役記念館を問
題視しているわけではない。ただ事実を述べているにしかすぎないのだが、私も保坂正博
と同感で、明治天皇は国家権力の強化を願って宮城内の戦役記念館をお創りになったわけ
でなく、ただひたすら国のために命を捧げる兵士に感謝されていたのではないかと思われ
る。そして、私は、明治天皇の御意思を慮って山県有朋らによって遊就館が建設され、そ
れが靖国神社の一体施設として軍国主義鼓舞の機能を持ったとしても何の不思議もない。
当時は天皇が神として崇められ、神国・日本のために命を捧げることを良しとしていた人
が多かったことを考えれば、靖国神社や遊就館自体に問題があった訳ではない。問題は、
第二次大戦が終わり、天皇「人間宣言」によって日本が生まれ変わったにもかかわらず、
靖国神社が戦前を引きずっている点と遊就館を再開した点に問題がある
靖国神社は御霊信仰にもとづいて建立されたものであるが、これからの靖国神社のあり
方を考えた時、御霊信仰に関して歴史的に培われてきた日本国家としての知恵が生かされ
なければならない。「天皇の権威の文化化」ということが怨霊信仰の歴史が教えるもっと
も重要な点だと思われるが、御霊信仰の歴史は、当初の「御霊会」と
園「御霊会」の意
義というものも教えている。したがって、靖国神社については、きっぱりと戦前と決別
し、祇園「御霊会」を参考にして「御霊信仰の文化化」を図れば良いのである。靖国神社
の存続自体には問題がないけれど、遊就館はまったく不要である。
第二次大戦後は敗戦により遊就館令が廃止され閉館した。しかし、靖国神社は、1961年
(昭和36年)、遊就館に隣接する靖国会館の一部を「宝物遺品館」として再開したのであ
る。マッカーサーが何故これを見逃したのか判らないが、この遊就館の再会が問題であっ
たのだ。それまでは、遊就館の建物を富国生命が社屋として使用していた。富国生命は社
屋を進駐軍に接収されたためである。1980年(昭和55年)に富国生命保険が立ち退くに
あたり、当時の社長が靖国神社の経済的窮状を財界有力者に訴えた。これを契機に「靖国
神社奉賛会」が発足、問題の遊就館の改修が進む。そして、遂に、1985年(昭和60年)7
月に、装いを新たにした遊就館が再開されるのである。その後、野外の展示資料も館内に
すべて収納展示され、2002年(平成14年)7月に再公開され、現在に至る。
保阪正康著『「靖国」という悩み−昭和史の大河を往く−』(2013年4月、中央公論
社)では、遊就館の歴史認識がおかしいとして、保坂正博はその中で次のように述べてい
る。すなわち、
『 遊就館の展示説明文の中には、あきらかに意図的に史実を曲げて語っていることは否
定し難い説明文もある。』
『 「日本再建への道」と題する展示室全体の説明文は次のように書かれている。「戦争
をいかに終結させるかは、開戦を決断する時期に検討されるべきである。東郷外相は17
年の念頭訓示で終戦工作の研究を命じ、吉田茂は和平工作の拠点としてスイス派遣を説
き、外務省はスウェーデン仲介のバッゲ工作を試みた。しかし米国には早期和平の意思は
なく、ポツダム宣言まで、交渉の機会は訪れることはなかった。日本には、ポツダム宣言
で示された条件を受託し、講和までの約7年間、占領軍の支配下で再建への道を模索する
以外に道はなかった。」(中略)「日本再建への道」と題する展示室ではさまざまな説明
文があるが、それらの説明文は、上述の一文を軸としての記述である。』
『 それらの記述にも、私は史実に反する説明があると思うが、しかし軸となっている
「日本再建への道」についての内容があまりにもおかしいために、まずはこのおかしさか
ら問うていかなければならないように思う。この説明文のどこがおかしいか、あるいは史
実と反するのか、以下に箇条書きにしておくほうがわかりやすい。
1、戦争終結を如何に想定するかは、むろん開戦前に想定しておかなければならない。し
かし、日本にはそれがなかった。
2、東郷茂徳外相は念頭訓示で省内幹部に終戦工作の研究を命じた。しかし、それは実際
には「国策」を立案するという立場ではなかった。したがって、大本営が出席する重要会
議にその研究が報告されたということはない。
3、吉田茂の近衛文麿スイス派遣は、内大臣の木戸幸一に伝えられた私案であり、それは
「国策の決定」とはまったくかかわりがない。
4、昭和23年3月当時、外相だった重光葵(まもる)は中立国スウェーデンの駐日大使
バッゲと接触したが、結局は日本側の無条件降伏を期待する旨伝えられてきて、5月に東
郷外相が中止させたのが真実である。
5、政府主導の独ソ和平工作は確かに日本では検討されたが、両国政府になんらの意図も
伝えられていない。
6、「しかし、米国には早期和平の意思はなく、ポツダム宣言まで、交渉の機会が訪れる
ことはなかった」は、事実に反する。むしろ、「米国」の部分を「日本政府」、あるいは
「日本の統帥部」としたほうが事実を正確に語っている。
7、この説明文の結論は、日本がポツダム宣言で示された条件を受託しての講和までの7
年間、占領軍の支配下で再建への道を模索する以外になかったというのだが、「模索する
以外に道はなかった」という断定はあまりにも独断である。これでは戦争終結の意図を持
たなかった日本の責任が隠蔽されている。』
『 わずか240字足らずのこの説明文についてもその一行ずつに誤解や改変、捏造(ね
つぞう)が見られる。この説明文を読むと、日本は早期和平交渉を進めたにもかかわら
ず、「米国には早期和平の意思はなく」、やむをえずに日本は戦争を続けたかのようであ
る。』
『 3年8ヶ月の太平洋戦争のうち昭和16年12月から19年7月までの2年8ヶ月
は、東条英機内閣によって担われた。この内閣で、和平交渉など検討されたことはいちど
もない。それどころか東条内閣は「和平」や「終戦」を口にしただけで弾圧したことはあ
まりにも多くの史実が示している。東条内閣以降、小磯国昭内閣、鈴木貫太郎内閣と続く
が、これらの内閣にあっても大本営の軍事指導部は「和平」や「終戦」に目を光らせてい
て、ひたすら「本土決戦」「聖戦完遂」を呼号したのは、昭和史に関心を持っている者な
らすぐに理解できることである。』・・・と。