平成26年度第10回医報編集委員会 次 第 日時 平成27年1月27日(火) 場所 午後7時30分 秋田県医師会館 会議室 1.開 会 2.挨 拶 3.報 告 4.協 議 (1)2月15日号、3月1日号の編集について 資料1~4 (2)秋田医報1500号について 資料5 (3)その他 資料6 5.閉 会 平成26年度 No. 号 締切 巻頭言 (2400字) 1443 4月1日 〆3/15 小山田会長 1444 4月15日 〆4/1 高橋理事 1445 5月1日 1446 5月15日 〆4/15 五十嵐常任理事 〆5/1 奥山理事 郡市医師会報点描 『美味礼賛』から;石田晋 之介 私の理想の死;小泉亮 面接の感想;朝倉健一 糖質制限食;工藤研二 後発品;伊藤久美子 1448 6月15日 〆6/1 長谷川理事 ワンポイントアドバイス; 佐々木範明 1449 7月1日 〆6/15 佐藤常任理事 湖東総合病院Now;中鉢明 彦 1450 7月15日 〆7/1 小山田会長 ロボットのいる人間社会; 佐々木静一郎 1451 8月1日 〆7/15 坂本副会長 1452 8月15日 〆8/1 西成副会長 1453 9月1日 〆8/12 小笠原理事 相棒;小林真 自作パソコン;柴田忍 鉄子の誓い;豊田知子 伊藤委員長 岩崎副委員長 矢野博子(秋田厚 生_総合診療部) 営農三十三年;木曽典一 さらば寝台特急;作左部昇 後藤委員 柳谷委員 蓮沼委員 新秋田県立美術館;荒井嗣 山菜四天王;齋藤宏文 上小阿仁村に来て;柳一雄 開業9年目で思う;楊国隆 〆10/1 島常任理事 由利本荘市周辺の観光地に ついて;松田武文 1457 11月1日 〆10/15 井田理事 ことば;孫七狸 1458 11月15日 パーマヘア;蒔苗公利 医療クラーク;佐々木康雄 安岡委員 外川亮(山本組合 _研修医2年目) 1456 10月15日 シリーズフェチの告 白;加藤倫紀 1460 12月15日 熊、遭遇時における、夫婦 関係考察;伊藤久美子 伊藤委員長 岩崎副委員長 鬼塚裕美(秋田厚 生_初期研修2年 目) 聾唖の夫婦との出会い;葛 美術館へ;水沢広和 西亜希子 皆川嘉左衛門;清水靖 井田理事 佐藤常任理事 吉田達哉(市立秋 田_消化器内科) 1459 12月1日 〆11/15 佐藤理事 後藤委員 柳谷委員 田中菜摘子(中通 _2年目研修医) 1461 1月1日 〆12/15 小山田会長 蓮沼委員 安岡委員 1462 1月15日 〆12/26 坪井理事 川連塗りの沈金体験;加賀 義章 1463 2月1日 〆1/15 大山常任理事 新病院20年;朝倉健一 1464 2月15日 〆2/1 長谷川理事 1465 3月1日 〆2/15 小泉常任理事 〆3/1 三浦理事 井田理事 佐藤常任理事 大高 新 (秋田厚生) 裸参りまでの足跡;谷合久 坂の上の…;立木裕 バイクの楽しみ;田面木友 憲 久 1466 3月15日 蓮沼委員 安岡委員 円山尚子 (秋田大学) 〆9/15 大澤理事 〆12/1 小玉常任理事 深呼吸 (1000字) 柳谷委員 野鯉釣りPart2;佐藤知 1455 10月1日 〆11/1 鈴木常任理事 若手医師 (2000字) 佐藤結香 (秋田組合) 慶長遣欧使節;佐々木静一 郎 〆5/15 伊藤常任理事 〆9/1 佐藤常任理事 休診日 (2000字) 学術講演会荒らしはもう止 しょうのない話;辻野 めて;長沼雄峰 守泰 1447 6月1日 1454 9月15日 資料1 執筆担当者(案) 若狭悠介(大館市 立_外科) 曲げわっぱの弁当箱; 鍋島隆司 井田理事 佐藤常任理事 関根悠哉(日赤研 修センター) 伊藤委員長 岩崎副委員長 伊藤周一(市立横 手病院) 後藤委員 平成27年度 No. 号 1467 4月1日 1468 4月15日 1469 5月1日 1470 5月15日 1471 6月1日 1472 6月15日 締切 巻頭言 (2400字) 執筆担当者(案) 郡市医師会報点描 休診日 (2000字) 若手医師 (2000字) 〆3/15 坂本副会長 〆4/1 稲村常任理事 柳谷委員 三田基樹(秋田大学) 〆4/15 吉原理事 〆5/1 五十嵐常任理事 蓮沼委員 安岡委員 平松翔(雄勝中央) 井田理事 〆5/15 島田理事 〆6/1 伊藤常任理事 深呼吸 (1000字) 佐藤常任理事 曽木靖仁(大曲厚生) 伊藤委員長 1473 7月1日 〆6/15 作左部理事 岩崎副委員長 1474 7月15日 〆7/1 小山田会長 後藤委員 1475 8月1日 〆7/15 小笠原理事 柳谷委員 1476 8月15日 〆8/1 西成副会長 蓮沼委員 1477 9月1日 〆8/12 佐藤常任理事 安岡委員 1478 9月15日 〆9/1 大澤理事 井田理事 1479 10月1日 〆9/15 島常任理事 佐藤常任理事 1480 10月15日 〆10/1 井田理事 伊藤委員長 1481 11月1日 〆10/15 鈴木常任理事 岩崎副委員長 1482 11月15日 後藤委員 〆11/1 佐藤理事 1483 12月1日 〆11/15 小玉常任理事 柳谷委員 1484 12月15日 蓮沼委員 〆12/1 坪井理事 〆12/15 小山田会長 1485 平成28年1月1日 安岡委員 1486 1月15日 井田理事 〆1/1 大山常任理事 1487 2月1日 〆1/15 坂本副会長 1488 2月15日 〆2/1 長谷川理事 1489 3月1日 〆2/15 小泉常任理事 1490 3月15日 〆3/1 三浦理事 佐藤常任理事 伊藤委員長 岩崎副委員長 後藤委員 2月15日号(案) 表 紙 巻 頭 言 論 壇 ・ 解 説 代 議 員 会 名 簿 理 事 会 報 告 座 談 会 講 演 県 医 師 会 か ら 特 集 逝 去 会 員 委 員 会 報 告 県 医 報 告 日 医 報 告 東 北 医 連 報 告 報 告 会 長 室 か ら 郡市医師会トピックス 郡市医師会だより 郡市医師会報点描 開 業 し ま し た 若手医師のページ 投 稿 本 会 員 の 声 連 載 各 委 員 会 か ら 通 達 ・ 文 書 通 達 ・ 文 書 か ら 医療センターだより 医 師 国 保 だ よ り 放 送 ・ 講 演 会 等 県 医 師 会 掲 示 板 お 知 ら せ 帰 ・ 去 ・ 来 深 呼 吸 (未) (未) 長谷川仁志理事 第11回理事会報告 第147回臨時代議員会の開催について 平成27年1月の動き (未) 臨床研修医1年目(仮) 関根悠哉(日赤) 平成27年1月1日~31日受付分 (未) 伊藤委員長 3月1日号(案) 表 巻 論 代 名 理 座 講 県 特 逝 委 県 日 東 報 会 郡 郡 開 休 投 壇 議 事 頭 ・ 会 談 解 員 報 医 師 会 か 去 会 員 会 報 医 報 医 報 北 医 連 報 長 室 か 市医師会だよ 市医師会報点 業 し ま し 診 紙 言 説 会 簿 告 会 演 ら 集 員 告 告 告 告 告 ら り 描 た 日 稿 (未) (未) 小泉ひろみ常任理事 (未) (未) 本 会 員 の 声 連 載 各 委 員 会 か ら 感 染 症 発 生 情 報 通 達 ・ 文 書 通 達 ・ 文 書 か ら 医療センターだより 医 師 国 保 だ よ り 放 送 ・ 講 演 会 等 県 医 師 会 掲 示 板 お 知 ら せ 深 呼 吸 平成26年12月分 (未) 岩崎副委員長 2/15若手医師のページ 資料2 はじめまして。秋田赤十字病院臨床研修医 1 年目関根悠哉と申します。臨床 研修医となってまもなく 1 年になり、時間の経過の早さに驚いております。熱 意あふれる上級医の先生、気が置けない多くの同期・先輩、多くのコメディカ ルのスタッフの皆様に囲まれて日々充実した研修医生活を送っています。拙い 文章ですがお付き合いいただければ幸いです。 私は秋田の生まれではなく、茨城県水戸市に生まれました。実家は水戸のは ずれの田園風景広がる田舎で、春は山にふきのとうなど山菜を取りに行き、夏 は畑でとれたスイカやとうもろこしを食べつつ虫取りに励み、秋は栗を学校の 帰り道に拾い赤とんぼを捕まえ、冬は周囲が真っ暗で満天の星空を眺めるよう な四季がはっきりとした環境でした。そんなのんびりとしたところで育ったお かげか身長も 185cm を超え、物理的に一番目立つようになりました。よく人混 みで目印にされます。 高校まで地元で過ごし、東京で 1 年の浪人生活を送り、縁あって秋田大学医 学部へ入学しました。地元は冬でもスタッドレスタイヤを履く車は少なく、雪 が 3cm も積もれば休校になるような雪にほとんど縁がない環境だったので、受 験のとき秋田新幹線に乗り、車窓に流れる雪国の風景を眺めつつ秋田駅に降り たときはこんなに雪が多いところで果たして生活ができるのかと不安に思った のを覚えています。いまとなっては食事やお酒が美味しく、自然食豊かで多く の友人・知人ができたこの県が大好きになり、初期研修も地元ではなく秋田で 行うことにしました。 大学では硬式テニス部に所属し大学時代のほぼすべてをこの部活と共にしま した。練習は週に 6 日あり、オンシーズンは土日のたびに試合やイベントがあ り、忙しいながらも毎日が楽しくあっという間に過ぎて行きました。部活の最 大の目標は夏の東医体で、毎年山梨県の山中湖で行われていました。硬式テニ スはレギュラーが男子 7 人、女子 4 人しか試合に出場できないので、部員の大 半は応援に行く形でした。私はレギュラーではなかったのですが、毎年レギュ ラーの活躍に感動していました。 私が 4 年生の時に何年ぶりかでベスト 8 まで勝ち上がったことがあり、興奮 したのを今でも鮮明に覚えております。東医体ではたいていの大学がなぜかレ ギュラー、幹部は髪を派手な色ないし髪型にして目立ちにかかる?というのが 昔からのお決まりのようで、私は例年目立たないようにしていたのですが、こ の時はばかりは避けられず、髪を青に染めてみました。自分でも驚くほど鮮や かに仕上がってしまいました。山中湖まで車で移動だったのですが、途中のサ ービスエリアや飲食店で周囲の方々の明らかな冷たい視線を感じるはめになり ました。山中湖に到着してしまうと周りにもっと目立つ学生がいたので、浮い ている感じがなくなってほっと一息ついたのを覚えています。試合の審判をし ているとあいつはレギュラーじゃないのかと他校の学生に言われたりもしてい ました。 去年も時間ができたので秋田から山中湖まで旅行がてら同期 5 人で応援に行 きました。特別な場所に変わりはなく、ただもう学生ではなく純粋に楽しめる 立場でなくなったことが寂しく思えました。試合の方は男女ともにベスト 4 ま で勝ち上がり、数十年ぶりの快挙に OB・OG が歓喜しました。そういったわけ で東医体の祝賀会が昨年 9 月に開催されました。私は秋田大学 39 期生なのです が、1 期生の先生を始め OB・OG が 25 人参加しました。秋田県内を始め遠方 からもいらっしゃる OB・OG も多く、縦のつながりが非常に強い部活であるこ とを再認識しました。また別で年末に先輩方と男のみ 11 人で忘年会が開催され、 学生時代に戻ったかのような錯覚からか痛飲し、非常に楽しい思いをしたので すが、翌日に非常な二日酔いに襲われました。今後もこのつながりを大切にし ていきたいと思っています。 話しは変わり、現在勤めている秋田赤十字病院の研修医について紹介させて いただきます。1 年目研修医は 10 人、2 年目研修医は 7 人と人数が多く、活気 にあふれています。同期 10 人のうち秋田県出身者は 2 名のみで他県出身者が多 いのが特徴かと思います。秋田大学のほか岩手医科大学、自治医科大学、慶應 義塾大学、新潟大学とひとつの大学で固まってなく、それぞれの考え方を共有 できる環境も面白いところと勝手に思っております。 最後に私の今後ですが、まだ将来の専攻は決めていませんが、臨床研修後も 秋田で医師として成長していければと思っております。ご迷惑をお掛けすると 思いますが、ご指導、ご鞭撻いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いし ます。 筆者:右より 2 番目。東医体会場にて同期と。 点描候補、休診日候補 資料3 資料4 投稿 ※医報約12頁分 C’est la vie セ・ラ・ビ これもまた人生 故 高橋久先生を偲び(写真 1) 由利本荘医師会 黒川博之 ★1 我らは同じ船に乗り・・・ 高橋久志先生、君のような名士、秋田県県南の仙北大曲地方で名眼科医として聞こえて いた君が死ぬと「自分こそが故人と一番親しかったのだ」と称する人が追悼するのが常で ある。私は君と特に親しかったわけではない。ただ「御縁」という言葉があり、君とは互 いの人生の節目において長い言葉を交わす偶然ともいえない時間があり、それを忘れない うちに記録するつもりになった。私は仙北組合総合病院の屋上からあしかけ 27 年間ずつと 高橋久志眼科医院の盛況ぶりを眺めてきたし、医師会やなにかの会ではずっと君の背中を みてきた。 大体、あの人はどんな人間だった、などとごく最近までいたって元気に活動していた君、 同窓生の君に定規をあてるのは僭越だ。就中、私は君が亡くなったという実感が今の今ま でも全く無い。ただ君はしばらく旅行しているだけで、ほどなく帰ってきていつの間にか 診察室の眼底カメラや OCT の椅子に腰掛けている気がする。 これは思いもよらない順番が狂った死去である。君の喪失感はまだまだ先のことだろう。 今朝、君とはよく遊んだという黒木君がメールしてきた。思い出すことは時間が必要だと。 彼が想像したように君は最後までエネルギッシュに生きた。 私の年になれば周囲には死の山が至る所に出来ている。世間ではやれクリスマスだ、ア ベノミクスだ、オリンピックと騒いでいるが私の周りはもう秋風落莫だ。特にこの二三年 は大切な竹馬の友の知人親類の急逝にあい人生の底の底まで見えてきた。 「死ぬのはいつも 他人ばかり」というマルセル・デュシャンとかいう人の言葉がある。 さらに昔に遡ると二千年以上前にギリシャのエピクロスは「我々が存在する限り死はな く、死が存在するときには我々はもはや存在しない」のであるから「死はわれわれには無 関係だ」と快楽主義哲学元祖らしき言葉を残している。とはいえ、しかし煩悩の我々には 現実性がない。世間では死は忌み嫌われるし死の不安は人並みに老年を迎えている私の念 頭から消えない。 しかし君の死は私そして私達三期生にとり心の一部を欠けさせたのは確かだ。 61 歳でこの世をさるのは今の時代にあまりにも早過ぎるのだが書き綴るにつれ君は君ら しい幸福な結末を遂げたとも思う。今年 3 月の僕の病院定年退職の送別会で、同窓の高津 君、塩谷君、福田君、菅原君達とにこやかに歓談していた君と酒を飲むことのなくなった ことで、もう伝えようのない激しい悲しみと怒りを感じるときはもっと先だろう。 この雑文ももっとずっと先に記したいと思っていたが私も歳で何時お迎えがくるか。記憶 が新鮮な裡に逃がさないよう君をここに閉じ込めておこう。追悼や埋葬は悲しみを忘れる ためにあるともいうから・・・。 書き綴っていて、君の存在は大きくここで世辞や御へつらいを述べる必要のことのないの は嬉しい。 ★2 なにがうそでなにがほんとの寒さかな(久保田万太郎) 高橋久志君が亡くなった。大仙市唯一の火葬場、大曲仙北中央斎場は丸子川を渡った県道 近くの丘にある。私はそのかつて知った、今年 3 月まであしかけ 28 年間走った道路を師走 の 3 日午後、吹雪の中を由利本荘市から大仙市にと懐かしい思いで車を走らせていた。 本荘市と大仙市境の山中で激しく雷がごろごろと鳴った。初冬に雷が鳴る。海岸にハタ ハタがくる。ハタハタを連れてきて久志君を連れ去ったと思った。「ごろごろ」は秋田の祖 先は「はたはた」と聞こえた。雷が「なる」とはいわず、「はたたく」といい、雷は「はた がみ」といい神であった。 午後 2 時予定の火葬に大雪をみこんで早めに 1 時 15 分に斎場に到着したら(写真 2)葬儀 社の社員が三名だけきていて「ご家族達は今自宅を出られたようです。まもなく到着しま すので中でお待ち下さい。ご几帳もお願いします」 。窓から丘の墓碑群のみえる外で激しく 降りしきる雪の勢いはますますつよくなっている。天気予報では明後日のご葬儀は大雪に なるだろう。一時半に読経がはじまった。その後に御棺の彼と対面した。私は白い箱に横 たわっている彼に「もういいだろう、冗談はこれぐらいで目をあけろ」と何度も何度も心 の中で呼びかけていた。「人騒がせなことをやめて、起きないと焼かれてしまうぞ」とも。 私は彼の頭の方に立ち尽くし、その頬をすすり上げながら撫でているご息女と御棺の向こ うで彼の右の頬をさする美子さんに、祭壇の高橋久志先生の写真を共に眺めながら「この 3 月に私の送別会に出られた時はまつたくお元気でしたのに」 。と尋ねた。 「そうです。あたくしもまるで亡くなったという気がしません。倒れた日の午後一時に メールで主人とやりとりしていました。その日は手術日でした。午後2時から準備をして 正確に午後2時半にはいつも手術室に入る彼が姿を現さないというので、先生はまだです かねと、スタッフが見に行ったら彼が倒れていたそうです。それから病院にすぐ運んだそ うです」 。声を押し殺して小さく告げた。コンクリートの火葬場はますます冷えてくる。久 志君はあたしという言葉が嫌いで家族にも「あたし」でなくて「あたくし」と云うように 強要していた。久志君の生家は横手の「植田の麹屋」として味噌と麹の製造で知られた旧 家で言葉遣いには厳しく育てられた。 私が勤務していた、今年から大曲厚生医療センターと名を変えた旧仙北組合病院は彼の クリニックから車で一二分の距離にある。搬送には時間はかからない。だが「だからその 間に胸部大動脈破裂があったのでしょうが、どの時間帯で発見されたのであれ主人は助か らなかったと思います」 。壇上から視線を私に移して「先生も信じられないことでしょうが、 あたしも今も信じられません。あたしはその前の晩にもいつもと変わりなくワイン、シャ ブリを彼と飲んでいたのですよ。数日前はデパートで買い物を一緒にしましたし、いつも となんの変わりなかったのに」 。 学生時代から元来、彼はいつも柔らかい微笑を頬に浮かべ、しかしそれ以外はあまり表情 を変えず声も抑揚をつけず瞬きの少ない大きな目で視線はこちらの眼に固定し ET かロボッ トのように話した。彼は今も悲しむなかれと壇上から微笑みかけてくる。半袖の白衣姿の 君は若々しく四十年以上前に出会ったときからやや童顔で 40 歳程にしか見えない。拝顔の 最後に突然玄関から四五十代の慎太郎刈りの男がいかにも慌ただしく黒服に今袖を通した ような姿で飛び込んできた。そそくさと記帳して私の前を足早にとおりすぎて御棺に近づ いたが、棺の直前で突然反り返って、ああ、うう、はあーとうめき声を乾いた唇から漏ら し、大きな両手で顔を蔽って足を多々良に前に後ろに踏み、五分ほどもそうした動作を繰 り返しとうとう拝顔は果たせなかった。遠くの誰かがみていたらきっとジルバでも踊って いるように見えただろう。誰も一言も発せず周囲は冷えて寒かった。吹雪は怒ったように 降りしきった。後に知ったが彼は行きつけの居酒屋の店長で亡くなる10日ほど前にも久 志君はそこで呑んだそうだ。 「ではご遺体は火入れをいたしますので少しお手伝い下さって御棺を持ち上げて下さい」 私はご長男と相対する形で彼を炉に入れた。そしてかすかな燃える音と共に炉の小さな窓 の向こうはちらちらと赤く揺らめいてきた。寒い火であつた。 彼が今、私の目の前の炉の中で焼かれている。彼が燃えているその時間ですら、私はお よそ彼が亡くなったという実感は湧かなかった。夢のなかに佇んでいるような心持ちで今 もそうである。45 年前に逝去した玉川芳春先生のご夫人が「今でも主人がスツト玄関の戸 を開けて、ただ今と帰ってくる気がいたしまして・・・」とこの秋の「高橋睦正先生、玉 川芳春先生をしのぶ会」で語った。それは私にこれまで何度も電話口で語られた言葉であ る。私自身もこの二三年にかけがえのない人々の死に遭遇したが、ちっとも彼ら彼女らが 死んだ気がしないのである。ましてこの 12 月 2 日の午後、晴天の霹靂でこの世を突然に去 った高橋久志君の死は事実とは別に感覚的に全く信じられない。 私は棺に横たわる彼の顔を焼き付けた。それは在学中にこれも突然の自死を遂げ真冬の手 形山で発見された渡部君、ガス自殺だった真部君の頬と寸分変わらない赤みを帯びて生き ているような表情だった。過労死のような「くも膜下出血」で死去した、久志君の高校時 代からの友、大友公一君のことや、入学して二週間ほどで仙台の自宅で突然死した熊谷君 ―朝食に呼びに行った母親が寝床で死んでいるのに気づいたという、今風にいうとブルガ ダ症候群だろうーのにこやかな笑顔も思い出された。熊谷君は母一人子一人の家庭でもあ りそのため東北大学を来春に再受験の勉強中であつたとう。 しかし、高橋久志君はその短い人生をこれ以上ない密度で圧縮して生きた。彼には挫折と いう言葉がもっとも似合わない。彼は昭和 28 年、花のニッパチ組で 1 月 23 日の生まれで ある。卒業後は母校の眼科医局で櫻木教授のもとで研修した後に昭和 62 年に横手市の平鹿 病院に勤務して一年後に開業した。能代市の同期生、三田重人君も少し前に開業した。三 田君は秋田大学医学部卒業生の開業第一号である。どのような死に方がしたいかの質問に ゴルフのロングパットが決まった瞬間にパタリと死ねばいいという人が多いそうである。 それは望んで出来るものではない。人はいずれ死ぬ、となれば苦しみのないほうがいい(ド ン・キホーテ)に決まっている。高橋久志君の死に方も瞬間的な死で苦しむ時間は短くて よかったといえる。 ★3 雪激し 思うこと多き 冬の稲妻 12 月 3 日早朝に施設入所者の百歳をこしたばかりの●●さんが亡くなった。親類がだれ一 人もいない中で施設職員とその看取りした後、午前九時、由利本荘市の施設長室で回診の 準備をしている私に電話がきた。 「成人病センターの太田さんという人から電話です。つな いでいいでしょうか」麻酔科の太田助十朗が「クロちゃん、訃報だよ。びっくりするぞ」。 「誰だ」 「びっくりするなよ」 「・・・」 「高橋久志だよ」私は信じられないのでまるで驚か なかった。 「実はね、俺の家内が眼科医だろう。それで昨夜に連絡がまず家内にきてそれか ら俺が知ったわけだ。 」死因は当初は肺塞栓という話だったが、今年 3 月まで勤務していた 仙北組合病院に電話して胸部大動脈破裂と確認した。それから後は午後遅くまで電話とメ ールで、数十人の同期生に久志君の急逝を知らせた。 その夜に田中康範君から返信してきた。田中君は沖縄で病院院長をしている。 「解剖もBSTも俺と田近、高橋久志、竹内、辻の 5 人組でしたかね?(写真 2,3)高橋久志 先生は実直、質実剛健な人のように感じていました。またさっぱりした性格で義理堅い印 象を強く持っています。三期生の中では最も大人だったような気がします。 彼の周囲は変人、奇人が多かったように記憶していますがその中で巻かれることなく 常に自分のペースを崩すことなく生きていました。要するに我々?と違い学生の頃から冷 静な大人でした。そんな彼には尊敬の念、畏敬の念を禁じえません。 中略―学生時代はスマートな体型でした。診療中の写真は少し太って見えますが?(写真 1 に同じ:葬儀) 今般の件については只只、残念です。言葉もありません」 。私は田中康範君は今でも自分は 正常人だと思っていることが今わかった。自分のことは気がつかないものだ。三期生は奇 人でない人がまことに少なかった。そして互いに貶しあうことをよしとしていた。正常人、 奇人を交えてその他の同窓生たちのメールが数時間おきに時間表のように次々と画面にな らんでいく。彼の死に到底信じられない、仰天した、ホントですか、ショックだ、前から 病気でもしてたのか。後に送信した葬儀の久志先生の遺影については「元気だったのだね」、 と「やや疲れて見える」があった。 しかし、流石に医師になり、もう四十年になろうとする彼らの反応には、熊谷君、間部君、 渡辺君の学生時代の急逝時の感傷の過ぎた動揺とは違い、静かな諦念にちかい受容があつ た。 久志君はあの頃、どこかベビーフェイスの外面に反して入学時期から「おとな」だったと 思う(写真 5 入学時)。私と彼との記憶の一番目は入学して早々の手形キャンパスの噴水前 の路上の出会いで大友公一君や吉河君と挨拶したように記憶している。関西弁を吉川君の 影響を受けてか、喋っていた大友と違いできれいな標準語をよどみなく喋った。高橋久志 君は大友君の急逝の際にはその葬儀や遺児募金などで奔走した。高橋久志君からは都会的 な印象が最初からあった。倒れる前夜はシャブリを楽しんでいたという。高橋先生は欠点 の見当たらない人で開業後は最強の同期生といわれていた。つよすぎると敵ができるもの だが彼は愛された。学生時代にはアパートの部屋中に天知真理のポスターを何枚も貼り、 彼女のレコードを聴いていたというから親近感も宿していても、また、大人でもあった。 ポスターの話は黒木君から聞いた。しかし奥様によれば南沙織が好きだったようだ。 斎場の待合室で塩谷君と座り込んで話していたら(写真 6)、その傍らに長女の瑛梨子さん がきた。 「いやあ、久しぶりどころではないですね。久志君からときどき話は伺っていまし たが、まだカナダですか」 「いえ、カナダでなくてアメリカですよ、それにずっと前の話で す。今は横浜です」 。私は彼女が幼児期の時に大曲北幼稚園の運動会で見たきりであった。 幼児期のときとは見間違える秋田美人に成長した彼女は大分前に帰国していて、今は神奈 川県の T 大学医学部の四年生であるという。 「父がこんなことになりましたのでいずれ秋田 には帰ろうと思います」。 「そうですか。こんなこともありますし、先のことはわかりませ んが、いずれ二年はあっというまですよ。すぐにきます」 。 傍らで塩谷君が笑っていた。久志君の一番の仲良しは塩谷君である。 久志君は器用な人で工作が得意でプラモデル作りが趣味でパソコン、コンピューターの 知識は豊富だったそうだから基本的に理数系の人だった。高橋君はパソコン作りが趣味と メールに塩谷君が書いてきた。プラモデル作りの間違いだろうと思ったが、それは本当だ った。長女は「本当にパソコン作りは好きでした。部品を購入しては組み立てまた組み立 ての繰り返しでしたがマニァック過ぎて家族には理解できず誰も喜びませんでした。そん な感じでプラモデル作りも自宅を散らかすと母に怒られるので院長室で作成していました。 院長室には完成品か何台か飾られています」 。と彼女もメールに書いてきた。 瑛梨子さんは、 父には小さいときから多くの旅行に連れて行ったもらい(写真 7 親子の写真)、 旅先では子供のためならと苦手なこと、シュノーケリング、ダイビンク、乗馬にいっしょ に挑戦したよき父であったこと、家族で酒が飲めることがすごく楽しみであったこと、ワ インはいつもおつまみを柿の種で味わっていたことなどを語ってくれた。 同窓の宮内君は、彼の麻雀は強く、うまく、きれいな麻雀であつた・ドラ、裏ドラを期待 することはなく、ツキ麻雀でもない。とにかく強くて周囲は彼との手合わせは避けていた そうで、塩谷君は、豪快で勝ちっぷりも負けっぷりもすごかった、と書いてきた。 いつか、秋田市のクラブのことだ。秋田市で開業して二三年の福田健「久志は随分はや っているらしいから今度あいつを麻雀にさそうか」 。福田君は開業したばかりでその頃は今 と違いはやってなかった。塩谷「逆に巻き上げられるのじゃないか」 。全員が片端から返り 討ちになった。富める者はますます富み、貧乏人はますます貧しくなるという聖書の言葉 どおりに。 ★4 「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」(久保田万太郎) 彼と卒業を間近に控えた昭和 53 年 3 月の午後新築されたばかりの付属病院のピロテーで、 ばったり会うと「黒川さん、おれ眼科にいきますわ。誰も入局しないようだし」と国家試 験対策委員長らしきことをしていた私に律儀に告げた。三期生のなかで最後に彼が進路を 決めた。当時は外科に二十名近い入局者があり。内科系にも十人はらくに超す卒業生の入 局者があつた。覚束ない記憶だが卒業時は八十人を越す卒業生のなかで六十名近くが大學 医局に残った。そんな時代でもマイナーを志望するは少なかった。眼科は彼一人だった。 彼のその後をみると彼はベストの選択をした。医局の多くの優秀な先輩から可愛がられ て濃密な卒後教育を受けたとおもう。トランクの時代には、その恩師の中には横手市の山 田先生がいる。彼は山田先生を全国的にも有名な先生で仕事ぶりも凄い。朝から晩まで一 言の口も聞かずに診察するのだよ、と非常に尊敬していた。横手市十文字町出身の彼が開 業を横手市にしなかつたのもそんな遠慮というか配慮があつたとある時に夜汽車の中で語 った。勿論、開業の土地である大曲市の決定には業者を交えて慎重なマーケツト・リサー チもしたことをいちいち数字をあげて加えた。田沢湖で昭和 63 年の夏の夜のことだった。 私はその年の 1 月 1 日づけで仙北組合病院の放射線科に勤務していた。それまでは秋田を 離れて福島県会津若松市の竹田総合病院に3年、郡山市の南東北脳神経外科病院に2年あ まりいた。 そして久志君は 1988 年 7 月に「高橋久眼科」をスタートした。この看板の命名も彼から聞 いたが紙幅の都合で割愛する。後に開院記念日は 1988 年 8 月 8 日としたようで彼らしい。 開業日に私は祝辞を述べさして貰った 「高橋久志先生の将来は間違いなく順風満帆ですが、ただ一つだけ」その時彼は壇上の私 をややいぶかしそうに微笑を浮かべて見上げたが「ただ一つ健康のみには十分にご留意く ださい」としめくくり彼はああと頷いた。その言葉がなんと今月に現実になった。後に「眼 科はね開業医でも大學レベルとさほど違わない診療ができる。僕の診療所の検査器具は組 合病院よりいいよ」 。あとで S 先生にきくとそのとおりですよ、と羨ましがっていた。 二番目の卒業を間近に控えたときは上に記した。 三番目は上に既に書いたが昭和 63 年の夏、奥羽線でー当時新幹線はまだない-私は秋田市 から大曲市に帰る途中であつた。 座席に座り窓を開放し汗を拭いているとドアを開けた彼とすぐに視線があつた。 「どうして ここに」 「それはこちらこそ聞きたいよ、黒川さんは福島にいるのじゃなかったか、・・・ そうか秋田にかえってきたの。今年から大曲の仙北組合病院にきたわけか」と久志君が納 得し彼は今度はこちらが驚くことを告げた「いや、実は来年に開業することにしてね。土 地を見に行くところだよ」 「君は平鹿病院ではなかったか」「 「うん、そうだけど来年 4 月で やめて開業するよ、実はね」と一時間近く話した。平鹿病院では朝八時半から夜は八時頃 まで診療していて、それも特別にスタッフの協力があって出来たのでこの先を考えると開 業した方がましかと思う、思い切って開業に踏み切ることにしたよ」 。 「開業場所の選定は一番大事な要素でしょうが」 「うん、土地はもっと国道沿いがよかった のだけれどもそうなると倍以上の高さで、まあ駅からは近いからなんとかね」。駅から彼の クリニックが見える。多くの同窓生が彼の医院を新幹線こまちの車中から眺めていたのを この度のメールで知った。 三度目は翌年春の大曲北幼稚園運動会の櫻咲く木の下で「どうだね」 「うん、秋の11月ま で手術予約があるよ」「まるで問題ないね」「いや、勤務医と違い従業員のこといろいろな 人間関係があるから経済的なことだけでもないよ」そのストレスは慢性的にあつたのだろ う。13年前に心筋梗塞の診断を受けている。そのことは今に知った。時折あう高橋先生 はまるで病気を抱えているようにはみえなかった。1 日平均約200人を診療していた久志 君はその疲れが三十年になろうとする勤務の裡に蓄積したろう。 4、5年前に毎日新聞「明日へのカルテ」に書かれた記事を一部中略して掲載する。 「外科など激務とされる科の医師不足を巡っては、医師が増えている眼科などとの「診療科間 の偏在」も問題視されてきた。実際、眼科の医師数は1万2627人(08年)で、12年前よ り15%増えた。だが実は、眼科でも医師不足が深刻な地域が出始めている。 「白内障の手術を1年以上待ってもらう患者さんもいる」。秋田県大仙市の高橋久志眼科医院 の高橋久志院長(57)は嘆く。 医師は高橋院長1人で、1日に診る患者は約200人。「通院回数を減らすため、1回の診療 で2~3回分の薬を出している。そうでもしないと、とても回らない」と話す。 患者急増のきっかけは、近くの仙北組合総合病院で07年10月に常勤の眼科医がゼロになっ たことだった。岩手医科大から派遣されていたが、同大の医師不足で引き揚げられた。 大仙市内で眼科の手術をする医療機関は2カ所だけ。高橋医院に通う同市の男性(75)は「2 時間待たされることもあるが、先生の体も心配だ」と話す。 背景には、眼科医は都会への集中が特に激しいことがある。日本眼科学会によると、人口10 万人当たりの眼科専門医数は、最多の東京(13・01人)と最少の青森(4・66人)で3倍 近い差がある。秋田(5・72人)もワースト5位だ。また、眼科の病院勤務医は08年は47 22人で、12年前(4936人)より減り、十分ではない。 さらに、眼科医は女性の割合が約4割に達し、診療科別で2番目に多いことも影響している。 同学会常務理事の石橋達朗・九州大教授は「女性は出産や子育てのため第一線を退かなければな らない場合もあり、眼科は医師数と実働者数の差が大きい」と指摘する。」 この記事を読み長女の瑛梨子さんは医師を目指してT大學医学部に編入した。 さらに久志君は日本眼科学会社会保健委員、東北眼科医会連合会常任理事、秋田県眼科 医会副会長でもあり多忙であった。医者が忙しいのは当然だという現代の風潮にあり、躓 いたことのない君、管轄な規則正しい歩調で歩いた君に世界は広くてよく見えないことも あったろう。まして自分の中身はみえなかった。 「心筋梗塞の方は 12,3 年前から A 先生に 診て貰っていましたが検診はここしばらくサボっていましたから」と奥様は唇を火葬場で かんだ。栄養士の資格をもつ長女が「お父さんそれだめ」とか「その狸みたいなお腹はや ばいよ」とか「健康診断にいけば」とか注意しても「だった忙しいし~」で逃げられた。 塩辛いものが大好きでいろんなものに醤油をジャブジャブとかけていた。寿司は中トロが 好きだったらしいがいれも醤油の中でおよいだろう。 ★5 日本海 今日も荒れて 冬ごもり 火葬の日は偶然であるが放射線科の忘年会が午後六時に予定されていて、参列した後、 病院に駆けつけた私は12月2日午後三時37分に撮影された彼の画像を確かめ絶句した。 彼の死は瞬間の死だったろう、後に知った彼の死亡時刻は 3 時 30 分になっていた。発症 日の画像のみで彼の既往歴の蘭には画像は一枚もなかった。 12 月 7 日の大雪の日曜日に施行された君の葬儀が施行された(写真 7)。参列者一般参列者 名簿に記帳されただけで 285 人を記録している。福田健君によればもの凄い人でH君の参 列は確認できなかったよ。とメールしてきた。 同窓生の参列者は塩谷、小棚木、高津、芋田、西野、朝倉、福田健、水口、菅原、太田助 十郎と水口、宮内で大抵はその前日のメールに出席が確認されていた。 三期生としては入学直後に熊谷君、在学中に真部君、渡部君。卒後に大友公一君、佐倉健 人君と逝去された。十数年間の闘病生活を送った佐倉君以外は突然に近い死去であり、高 橋久先生は久々の悲しい突然の下船となった。塩谷君は久志君の結婚式の司会をしたがこ の日の弔辞も読んだ。この日はいつもの同窓生、福田健、菅原厚君を含めた麻雀大会が予 定されていた。 弔辞に触れる。 弔辞はまず秋田県眼科医会会長、故人の秋田大学医学部時代のオーベンで当時は講師の酒 井先生、大曲医師会会長の池田先生、同窓の塩谷先生と続いた。池田先生、塩谷君の弔辞 は以下に掲載した。 池田先生の弔辞 既に送った(別の添付文章)参照して下さいー筆者 塩谷先生の弔辞―これは後半は涙声で聞こえなかった (既に送りました(別の添付文章)してください)筆者 故人を思うことは今も生きている私にとっていつも暗示であり、自身に向ける冷笑である。 「駅前に開業した高橋久志眼科はホントニたいしたものだべよ。凄い患者数だ」 。私は昭 和63年の春、当直をしていた時、守衛室の B さんがとうとうと仲間に喋り散らしていた のを耳にしてじつと黙ってきいていた。 開業の成功は評判というとらえようのない非情で、非人間的な怪物の気まぐれに左右され る事が多い。これにも実力者の彼は無縁で開業前からゆうゆうと高度飛行ができた。 医者の思うよりは、庶民は鋭い批判力の持ち主である。裸の医者の姿を落語に読み取れ る。「藪医者の玄関」の医者はハエの生まれ変わりで、手をもみ、足をさすり、頭を撫で、 少なくともその時代の医者はもう商売人丸出しである。医療過誤の問題も今に過誤が増え たからではない。民衆が無知でなくなりごまかされなくなっただけだ。眼科医で先端医療 の機器をそろえて理論的工学的に診療していた久志君はこういう姿とは無縁でいられた。 また、厚生省は病院のベッドがどれだけ塞がっているかで社会的必要性を測定し、現代の 健保制度では一時間以上患者さんの話をきいても三分で切り上げてもタクシーのメータと は異なり料金は同じだ。 私はBST研修で秋田県のY病院のK内科部長から往診における医者の心得をたたきこ まれた。安っぽい口はきくな、ごく簡単に立派な言葉で返答しろ、座布団がでたら遠慮せ ずすわれ、羊羹などの菓子類がだされたらそんなものは食い飽きているという顔をして手 をだすな、じろじろ見てもいかんぞ。と。彼はこういう擬態にも無関係の世界にいた。 いや、しかし、しかしだ、彼は忙しすぎた。死ぬまで忙しかった。「でもね、俺の仕事って あんまり患者の生死には関係ないからその点は少しもの足りないよ」という贅沢な感慨を 私はその年の医師会忘年会だかに聞いた。かつて、フランスのことわざに「これを信じて 水を飲め」というのがあるが、彼は実力に加えてその温厚で気取らない人柄で信徒を多数 つかんだ。 ★6 年々歳々 人同じからず 同窓会 大分昔の同窓会で、塩谷君が「これから死ぬのも出てくるからさ、同窓会の周期は五年 よりもっと短く三年毎とかにしよう」そのわきから「じゃあ、だんだんと一年ごとになり、 半年ごとになり、最後は数週間毎になるのだね」と耳のいいピアニストでもある石田研一 郎がいつものように挿入句をいれたが、私は塩谷君は自分自身と黒川は死ぬ数には入れて いないことはわかったので、とっさに「最後の三人になるまでは同窓会を続けましょう」 と酒の勢いで吐き出した。 「その三人はこの三人だよ」と続けて・・。 あれから三十年がたった。死は最初からそういうふうに決まっていたんだという宿命論 者的な考え方が最近僕に出来た。 セラヴィには「これもまた人生」 、というほかに「人生には不条理なこともあるさ」とい う意味もある。 死もうそれきりだから人が忌み嫌う。若いときは死を美化することもあるし、憧れること もある。死を美化して切腹した三島もいたが庶民はぽつんと死ぬだけだ 死んだら無と思 うことでさばさばする生き方もあるし、あの世を信じることで楽しく先に逝った親類や友 と積もる話をする楽しみもある。人の死は最初からそう定まっていたという運命論者であ ることで私は自らを慰めている。生物は死ぬことを大前提として生きている。 ★7 Time to say good bye 他人の死にこれほど書くことに渾身の力を入れたのは初めてだ。 つまりは、ひどい人だよ君は。 君がいなくなって私は寂しいですむが、しかし君に行か れて困ってる家族と多くの大仙市民がいるぞ。冗談はおしまいにしてはやく帰ってこい。 自分でもよくわからない「ものぐるほしきこと」を綴った変な追悼文はこれで終わり。 追記 高橋久志君の思い出についてご教示を戴いた多くの三期生一同に深謝いたします。 また写真提供、ご高閲を戴いた高橋美子様 高橋瑛梨子様 塩谷隆信君についても此の紙 面でお礼を申し上げます。 平成 27年 1 月3日 最終稿として黒川博之 弔 辞 高橋久志先生は横手市十文字町のご出身で、横手高校 から秋田大学医学部に進まれ昭和五十三年に秋田大学医 学部をご卒業。当時は今のような初期研修医制度もござ いませんでしたので、同年、秋田大学眼科学教室にご入 局されました。昭和六十二年からは平鹿総合病院眼科に ご勤務、医学博士号を取得された後、昭和六十三年か ら、当時は大曲市でしたが、駅前の現在地に高橋久志眼 科医院を開院されました。 その後、医院は本当にご盛業で、久志先生はあまりに お忙しすぎて、とても医師会理事就任などはお願いでき ませんでしたが、当地の学校医懇談会などで眼科関連の 諸問題をご教授いただいたことも数多くございました。 また、何よりも数多くの学校の眼科学校医をお勤めい ただきました。本年度も旧大曲市内では大曲小学校、大 曲中学校などの大規模校を含め総計六校、また、西仙北 小学校や西仙北中学校、更には大曲高校、大曲農業高 校、大曲養護学校など、実に十一校の眼科学校医をお勤 めいただいておりました。感謝以外の言葉がみつかりま せん。 先生は眼科医会でも八面六臂のご活躍でした。日本眼 科医会の社会保険委員会では東北ブロックでただ一人の 委員でございましたし、その関係でしょっちゅう上京し ておいででした。また、東北眼科医会連合会の常任理 事、秋田県眼科医会の副会長としてのご活躍は多忙な眼 科開業医としてのご診療をこなしながらのことで、本当 に頭の下がる思いでございます。 また、ご自院には常に最先端の高額な医療機器を多数 そろえられ、地域住民の皆様のために最先端の眼科医療 を提供し続けてこられました。本年四月には秋田大学眼 科学教室から、昆野清輝先生を自院に迎えられ二人体制 で高橋久志眼科医院を切り盛りしておいででした。 昆野先生がおいでになられたことで久志先生も楽にな られるだろうと喜んでおりましたが・・・まさか先生が 急逝されるとは、昆野先生に託されたのはなにか予感が あってのことだったのでしょうか?今後に予定してい た、昆野先生とお二人でやりたい最先端医療がたくさん あっただろうにと考えますと、やるせない気持ちでいっ ぱいです。ただ、久志先生亡き後も高橋久志眼科医院が 高橋久志先生のお名前と共に当地の眼科医療の要として 継承されていくことが、唯一の救いで有り確かな事実で ございます。 先生は秋田大学医学部の三期生で、当地に肺疾患勉強 会講師としておいでいただいている秋田大学医学部保健 学科教授の塩谷隆信先生、市立角館総合病院院長の西野 克寛先生、当地でご開業の高津洋先生、4月に仙北組合 総合病院を辞された黒川博之先生とは大学の同期でござ いました。 私も久志先生が医院を開設された昭和六十三年に秋田 大学第二内科から当地に戻ったことや、同門の先輩であ る塩谷先生との関係で当初から久志先生には大変親しく おつきあいいただきました。夜の酒席も何度となく同席 させていただいております。 先生のお酒は最初にシャンパンを開けられ、飲み過ぎ ることもなく会話を楽しまれるという、紳士的でアーバ ンな雰囲気のお酒でした。自分で作成されたリナックス コンピュータのこと、カメラのこと、旅行のこと、車の こと等、本当に博識で楽しそうにお話いただきました。 特にご礼室の美子様と連れ立ってお飲みになられる事が 多く、本当に仲むつまじいご夫妻と感じておりました。 私自身、ご令室の美子さまにも本当にお世話になり、 美子様のお心を考え、残されたご家族様の落胆のお気持 ちがいかばかりかとお察し申しあげるに、ただ、心痛く 悲しみが際限なく増えるばかりでございます。 先生はお二人のお子様に恵まれておいでです。ご長男 の翔一様はミュージシャンとして中央で存分にご活躍中 でございますし、ご長女の瑛梨子さまは東海大学医学部 に在学中でございます。これからが本当に楽しみなとこ ろで、ご夫妻ともお子様のことは本当に楽しげに話して おいででした。亡くなる前日にもお二人で晩酌をしてお いでとも伺いました。 「胸部大動脈瘤破裂」、本当に突然の予期し得ない病 魔でございます。先生とお会いした際に、以前のご病気 の事を話題にあげ、きちんと定期的に検査しています か、胸部X線写真は撮っておいでですかと、お話できて いればと悔やまれてなりません。 ただ、一番悔しいのは久志先生ご本人であろうかと存 じます。 嘆いても悲しんでも時はもどりませんが、大曲仙北医 師会として高橋久志先生がなされて来られたこれまでの 医師会活動や地域医療に関するご尽力に心から感謝し、 個人として先生と一緒の時代を生きてこられたことを感 謝し、今後は残されたご家族様のお力添えになれるよう 努力してまいりたいと存じます。 先生のご冥福を心からお祈り申し上げお別れの言葉と いたします。 高橋久志先生やすらかにお眠り下さい。 平成二六年十二月七日 大曲仙北医師会 会長 池田 芳信 高橋久志先生を偲んで 秋田大学医学部保健学科 ~思い出は麻雀だけじゃないけど~ 塩谷隆信 秋田大学医学部 3 期生の同期生であったこと、私が久志先生の結婚式の司会 をさせてもらったことなどを縁にして、今日まで、私ども夫婦は、久志先生、 奥様の美子さんと家族ぐるみで、大変に親しくお付き合いをさせていただいて いました。 12月3日の朝携帯がなりました。美子さんの声で、 「昨日、久志が.......」, 「え?、え?」と何度も聞き返しました。あまりに突然過ぎる訃報に言葉が続 きませんでした。 葬儀である今日12月7日,そしてこの午前11時は、久志先生を含めた仲 間で秋田市において麻雀大会をする予定の時間でした。私が、18年前、現在 の職に就任した際に、同期の菅原厚先生、福田健先生といっしょに久志先生が 発起人となり、記念だからということで、この麻雀大会を企画してくれ、一年 に一回秋田市の「蘇州」に集まって行なっていました。この会は、大学の同級 生や友人が集まり、朝から夜まで、食事とお酒をいただきながら、麻雀をして 過ごすという、まるで学生時代にタイムスリップした時間を過ごすものでした。 妻や美子さんは,長い時間不在となることへの言い訳として持って帰る参加賞 としてのアップルパイを楽しみにしていました。久志先生は、その聡明な頭脳 と度胸のよさから、麻雀大会では、いつも勝ち組でした。反対に、私と芋田強 先生はいつも負け組でした。大会が終わって帰るとき、久志先生が大曲まで帰 る途中ということで、愛車のレクサスに乗せてもらい、やさしく慰めてもらい ました。 大学生時代,久志先生は大変に優秀な学生だったにも関わらず、私を含めた 同期生が久志先生を麻雀仲間に誘い、授業をさぼっては、医学部の近くにある メディックという雀荘で朝まで過ごしました。一番強かったのは、小野陸君と 鉱山学部の白岩さん。角南昌隆君、山口登君も雀荘「メディック」でやるとき は強かった。故人になった大友公一君と自分は、何とか徹夜麻雀に持ち込み、 朝方皆が眠くなった頃に逆転を狙うというタイプでした。久志先生はだいたい 勝ち組でしたが、久志先生がめずらく負けた時のことでした。 「今日は、ちょっ とお金が足りないから、」と、実家からの「味噌」で支払ってもらったことがあ りました。今まで、いろいろな支払いを受けたことがありますが、 「味噌」で支 払ってもらったのは、あとにもさきにも久志先生だけです。きっと、実家には だまってもってきたのではないかと思われます。ご実家の皆様にこの場をかり て深くお詫び申し上げます。 大学時代の久志先生は非常に器用でした。いつも大きなそして細かいプラモ デルを作っていたのを思い出します。眼科医として手術が非常に上手であると、 本日の先輩の先生方からのお話でしたが、こうしたプラモデル作りの才能が、 大変難しいとされる眼科手術にも生きたのだと思います。 旧大曲市の生まれの私ですが、実は、秋田市に移り住んで40年以上になる ために、大曲に来ても相手をしてくれる人が少ない中、久志先生にはいつもお 付き合いをしてもらいました。夜は、 「ブルーバー」によく連れて行ってくれま した。ワイン、シャンパン、ウイスキーなどをたくさん飲ませて頂きました。 しかし、会計は毎回久志先生でした。このため、私は、今でもお店でワインが 一本いくらするのかが分かりません。 ハイライトが好きだった久志先生。今回の病気にはきっと好きだったタバコ が影響していると考えられます。美子さんのお話によると、 「自分がタバコをや めるのは死ぬ時だ」と豪語していたそうですね。しかし、本当にそうなってし まった。 「喧嘩をしてでも止めればよかった」と、今は、深く深く後悔していま す。そして、 「久志先生はもうここにはいない」という現実をまだ受け止めるこ とができません。 久志先生、大変に失礼な弔辞になってしまいましたことをお許し下さい。 久志先生、安らかにお眠りください。心よりご冥福をお祈り致します。 平成26年12月7日(日) 友人代表 塩谷 隆信 2(卒業圧縮)B 3(卒業アッシュク)C 7(家行)修正 DL000025 - コピー (子供の七五三) 1 (卒業アルバム) A DL000014 - コピー DL000016 - コピー 資料5 秋田医報 創刊1500号記念誌 【スケジュール】 ・平成27年1月 検討開始 ・平成27年11月 28年度の予算に計上 ・平成28年3月 代議員会 28年度予算 ・平成28年6月中旬 執筆依頼 ・平成28年6月下旬 代議員会 27年度決算、選挙、新執行部発足 ・平成28年7月上旬 常任理事会 新医報編集委員(案)協議 ・平成28年7月15日号 新会長巻頭言 ・平成28年7月中旬 〆切 ・平成28年7月下旬 理事会 ・平成28年8月12日 新医報編集委員(案)承認 1500号発送 【検討事項】 ・記念号を発行するかどうか → 構成、執筆を依頼する範囲など ・祝賀会等を開催するかどうか → 開催時期、出席を依頼する範囲など ・このままいけば平成28年8月15日号は銷夏随想号となる。随想を前号か次号9月15日号にずらす、 あるいは掲載しない。 ・平成27年11月頃の予算編成の時期までに計画を立てる。 ・平成28年6月の代議員会、選挙で執行部が変わる可能性がある。 ・委員も変更になる可能性がある。 ・ 【参考】 ・秋田医報1000号のときは、記念号の発行と、関係者を招いての祝賀会が開催された。 http://www.akita.med.or.jp/ihou/1000.pdf (サイズが大きいのでご注意ください。約60MB) ・秋田医報500号 http://www.akita.med.or.jp/ihou/500.pdf ・関係資料 http://www.akita.med.or.jp/ihou/1500data/ (7.3MB) h26.12.16第9回医報編集委員会 ☑1000号の実物探す →現物は残っていない(データのみ)。 ☑1000号の予算調べる →60万円 ☑祝賀会の予算調べる →70万円 ☑1500号の銷夏随想は秋9/15に遅らせる ☑医師会記念誌を委員が見れるようにする □スケジュールを理事会郡市医師会長協議会1月の常任、1月の理事会に諮る。 →1/28 □祝賀会を開催するか理事会郡市医師会長協議会1月の常任、1月の理事会に諮る。 □1500号の執筆依頼の範囲は1000号に準じる予定 □座談会のテーマを1500号にする ML ☑開始シリーズ、廃止シリーズ調べる 1000号から1500号までの間に、新しく始めたシリーズ、廃止したシリーズ 兎の耳 ~1361.11.1 会員の声 随時掲載、近年掲載なし 特集 准看問題を考える 1052.12.15~1040.6.15 特集 カルテは誰のもの? 1072.10.15~1074.11.15 全国会報ウォッチング 随時掲載、近年掲載なし 郡市医師会報点描 1017.7.1~ 医師の再就職情報窓口 1096.10.15~ ホームページ掲示板から 1115.8.1~1124.12.15 医報に一言 随時掲載、近年掲載なし 郡市医師会トピックス 1166.9.15~ 休診日 1165.9.1~ 若手医師のページ 1180.4.15~ 帰去来 1166.9.15~ 開業しました 1313.11.1~ 東日本大震災 1372.4.15~1375.6.1 郡市医師会&会誌紹介 1371.4.1~1393.3.1 →1/28 資料6
© Copyright 2024 Paperzz