2016.8.7 私にも及んだ神の恵み ヨハネ6

礼拝メッセージ
メッセージ
ヨハネ5:1-18
「私にも及んだ神様の恵み」
〇
8 月 6 日の 8 時 15 分頃、日本の反対側のブラジルリオでオリンピックの開会式のこと、
素敵な演出がありました。日本からの移民を表す赤と白の衣装を着た人たちが舞を披露し
ていました。それは地球の反対側だけれども、この時の悲しみを決して忘れていない、世
界が平和になりますように。そんなメッセージがあったのだと思います。
さて、先週今のイスラエルの安息日の過ごし方を少し話しました。
さらに少し話します。
食卓に二本の赤いロウソクがあります。安息日の夕食、つまり、金曜日の夕食がはじっ
まるときに、家族が一同に介しています。そして目をつぶってお祈りが献げるときに、
そっとそのろうそくに灯がともる。それを天使が降りて来たと表現するのだそうです。カ
ップが回され、食事が始まる。楽しい時の厳粛な始まり。
今日のテキストで、ベテスダの池の言い伝えがでてきます。
天使が降りて来て、水もを動かすとき、最初にその池に触れる人が癒やされると言い伝
えられていたのでした。誰かが言い出して、ベテスダ信仰のようなものがあったようです。
わたしたちは、天使の存在を聖書から信じています。しかし、天使は救い主ではありま
せん。まことの神様を信じるものに、神様が遣わしてくださる人間に仕える霊
*1
です。目
には見えませんが、助けてくださいます。
ある本を読んでいました。牧師である著者が夜運転していると、反対車線を走るはずの
車が、自分の前の車線に入ってきているではありませんか。突然のことです。思わず、
「主
よ助けてください」と叫んだときに、不思議なことが起こったのです。何事もなかったよ
うに、元のレーンに戻った。その車とすれ違うときに、なんとその運転手が寝ているでは
ありませんか。その時に、神様が天使を遣わして正面衝突から守ってくださったと知った
のです。ハレルヤ。
このように、天使は存在し、私たちに仕えてくれています。当時のイスラエルでベデス
ダの池にちなんだ言い伝えがあったのでした。
*1 ヘブル 1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため
遣わされたのではありませんか。
-1-
今から 2000 年前、神様の恵み、癒やしをもとめて、多くの病人がそのベテスダの池の
そばに来ていたのです。神様の恵みをどのようにして受けることができるのでしょうか。
今日は「神様の恵みがわたしにも及んだ」と題して話します。
○
ベテスダの池のあるところには 5 つの回廊がある大きな場所でした。そこには様々な病、
苦しみをもった人たちがいました。
どんな人でしょうか。病気の人、目の見えない人、足の不自由の人、体の麻痺した人、
痩せてしまっている人などが大勢来ていました。多くの人は座っていることも辛く、横に
なっていたのでしょう。
今日最初に三つの事を話をします。
1,一人の孤独な人
2,イエス様との出逢い
3,解放され、証し人となった人
1,一人の孤独な人
・ベテスダの池の周りには、沢山の病人がやってきていました。
その症状の程度もいろいろです。最近ちょっと足が調子悪い、耳の聞こえが悪くな
ってきた、目がかすんできた。そのような人も、栄養不足でやせ衰えた人もいたのでしょ
う。ここにいる人たちは、ベテスダの池で水面が揺れたときに、水面に触れたら直ると思
っていたから、そこにいました。私は思うに、最初に水触れなくても、おこぼれではあり
ませんが、その時池に手を入れて、水のしずくを足や、耳や目に持っていったら効能があ
ると思っている人もいたかもしれません。私の頭には浅草寺の境内で香が焚いてあるとこ
ろに人々が行って、その香を掬うようにして手のひらを、痛む所、病めるところ、良くな
りたいところに持っていって、なでるようにしている光景が浮かんでいます。
あのベテスダの池で早めに池まで降りていける人はまだ体が動く軽症の人たちです。
一方では、起き上がるのもやっとの人、ゆっくり歩けない人、いいえ、ずっと寝たきり
という重症の人もいたのです。
ベテスダの言い伝えは、時々天使が降りて来て、水面が動くときに、一番最初にそこに
行った人が癒やされるというものでした。いろいろ医者に診てもらったけれども、どうに
もらちが明かない。
さあ、水面が動いたというのは、池の一部ではなく、こちらからもあちらにもあったと
思います。木の葉が落ちるとか、下からメタンガスが出てきて水面が動くのか、もし魚が
そこにいたら、魚の動きで水面が動くのか、理由はいろいろですが、水面が揺れたときに
最初に池についた人は、神様の恵みである癒やしを自分でつかむことができる。人々はそ
う信じていたのです。
神様の恵みは、人を押しのけても、奪い取れるものなのでしゅか。
神様の恵みは自分でつかむ。そしてつかんだ人が勝ちなのでしょうか。もしそうであれ
ば、それはこの世の競争社会そのものです。別に信仰は要らなくなってしまいます。
その競争社会に疲れ切った、孤独な人がいました。
彼は 38 年も病気で自分では動くことができないほど重症です。
-2-
軽症の人は、池のとこまで階段で降りていって、水面のすぐそばで待っていられるので
す。しかし、彼は動く事が出来ないのです。
いつごろから、彼がここに来ていたのかは書いてありません。
ただ 38 年病気であったとかかれています。
いつか直る、天使が降りたときに、最初にそこに行ったら癒やされる。
そう信じて、彼はこのベテスダの池に来るようになったのです。
でも、水面が動いたと思ったら、すぐにその池に降りて行く人がいる。
いつも、取り残されている人。
一縷の望みで、とにかく、池の近くに横たわっていた人です。
この病気になって 38 年です。
この中に 38 歳に近い方がいると思いますが、そのくらい長い病気なのです。
本当に長い時ですね。
そんなに長い時なのに、彼はどうすることもできないのです。恐らく病状はどんどん悪
くなって、体重はこれ以上痩せられないというほどに減っていたでしょう。
神様の恵み、癒やしを待っているのですが、自分より先に水のところに行ってしまう人
達。その人たちの中には、「直った!」と叫び、喜ぶ人たちもいたでしょう。
取り残されるという思いは、深い孤独感を感じさせます。
皆さん、彼のような孤独感を感じることはありませんか。
自分だけ取り残されているような思い。
また、
神様の恵みは自分から奪うようにして得るものなのでしょうか。
もしそうであれば、孤独な彼は幾ら願っても、誰よりも早くベテスダの池にいけないの
ですから、彼は神の恵みを決して受ける事の無い人となります。
まるで、神様から見放されているかのような思い、そんな孤独を彼は感じていたのでは
ないでしょうか。
皆さん、そのような孤独を感じたことはありませんか。焦燥感(しょうそうかん)を感
じたことがありませんか。
2イエス様との出逢い
ベテスダの池にイエス様が来らました。そこにいる病める人達、苦しむ人たちをご覧に
なって深くあわれまれたと思います。
そして、深い孤独を引きずっている人をいるのを知って、その人に近づかれました。
その人は横たわり、38 年という長い間病気であること、いつでも誰かが先に行ってし
まう、私には神の恵みに与れない、今日こそ、今日こそと思いながらも、ずるずると日が
過ぎていった人です。その先にあるのは、失望とやがて来る死です。
イエス様は「良くなりたいか」と言われた。
答えとしては普通こうでしょう。
「良くなりたいです」または「良くなりたくありません」
Yes か No
でしょう。
ところが、あまりにも長いこと孤独だった彼の答えは、悲愴なものでした。
-3-
主よ、水がかき回されたとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。
わたしが行きかけると、ほかの人が先に降りて行くのです。
・今だというときに、自分を池まで運び、入れてくれる人がいない
助けてがない
・這って移動しようと思うときには、他の人が降りて行ってしまう。
競争に負ける
その結果私は駄目だ。
イエス様に自分の現状をこのように訴えているのです。
彼は自分の力で神の恵みを得ることができない、どうすることもできないのです。
神の恵みそのものである、イエス様が、彼の所に来てくれたのです。
神の恵みというのは、受けるに相応しく無いもの、とても受ける事の出来ない人に
神様の方から与えてくださるものです。
皆さん、焦燥、孤独を感じ、自分には神の恵みが届かないと思っていませんか。神様
はどうすることもできなくて、もがいているような私たちのところにこそ恵みを与えてく
ださる方です。
3,解放され、証し人となった人
イエス様は直りたいかと聞かれているのに、直りたいと言わず、自分を助けてくれる人
がいない、いつも先を越されてしまうと訴えていたのです。
予備校の時に、漢文の多久先生がこんな話をしてくれました。
四面楚歌という漢文があります。ある大学生はこの四面楚歌を覚えていました。
ある試験の時に、頑張ったつもりでも、とても及第点に行かないのが分かった女学生は、
四面楚歌、
援軍来たらず
我、敗戦す。
という意味のことを漢文で書きました。
試験が帰ってきたら、そこには「合格!」と書いてあって
我援軍にならん!
と漢文で書かれてあったそうです。
ほほえましい師弟関係ですよね。
ところが、38 年病気だった人には、もう誰も援軍になってくれるような人はいません。
泣き言のように聞こえることをイエス様に言っている人に、イエス様は何と仰いました
か。
-4-
「もっと頑張らなければいけない。
根性が無い、もっとしっかりしなさい。
人に依頼しないで、自分の事は自分でやって、神の恵みを自分の手で取りなさい
日頃の行いが悪から、
もっと悪い人もいるのだから、あなたはましなほう。
歯を食いしばって頑張りなさい。」
と仰ったでしょうか。いいえ、軽くあしらうことなどせず
「起きて、とこを取り上げて歩きなさい」とおっしゃいました。なんとイエス様は素晴
らしいお方でしょうか。
新年聖会のときに、司会の小川先生が、pokémon go のことを話されました。世界中で
人気になっている、スマートホンを使ったゲームです。画面にポケモンといういろいろな
キャラクターが出てくるのです。それが部屋の中で、道を歩いているときにも出てくるの
ですね、ある操作をしてそのポケモンを捕まえることができるのです。これを get といい
ます。教会学校の子ども達もよく get しています。
よく歩かなければ行けないので、子
ども達がよく歩くようになったと聞いています。
小川先生は神様の恵みは、自分の力で get するものではなく、神様の憐れみで受けるも
のなのです。と仰っていました。まさしくそういう面があります。
救いという恵みもそうです。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から
でたことではなく、神からの賜物です」(新約聖書
エペソ2:8)
賜物はプレゼントとうことです。救いは自分の行いによって得られる恵みではありませ
んね。
イエス様が 38 年も病の人に、もっと頑張って、努力して、修行をし、真面目になって
神様の恵みを受けなさいと、叱咤激励をしたら、彼は心を閉ざしたでしょう。恵みそのも
のである主イエス様が彼に近づかれこうお言葉をくださったのです。もう一度書きます。
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
でも、皆さん恐らくこれは彼ができない事ばかりだったと思います。
起き上がるどころか、はうようにしてやっと動いている彼、
床を担ぐ等できない彼
歩きなさいと言われても、歩けないからここにいる彼。
ムリ×ムリ×ムリ=絶対ムリ!?
先週学びましたね、一方の手のなえた人に「手をのばしなさい」と仰った。
彼は健常な方の手では無く、なえた方の手を出そうとし、その時に元通りになった。イ
エス様は私たちの本当に抱えている問題を持ってくるように仰るのです。その時に、私た
-5-
ちは応答すると、神様が助けを与えてくださいます。
*1
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
38 年間病であった彼にはとても無理のようなことでした。ところが奇跡が起こったの
です。
そして彼は、すぐに良くなって、床を担いで歩きだしたのです。ハレルヤ
この後、イエス様はもう一度彼に会ってくださったときに、イエス様が自分を癒やして
くださったということを知り、イエス様が癒やしてくださったと、ユダヤ人たち、ここで
は律法学者、パリサイ人のことですが、彼らに告げたのです。
癒やされた自分でなく、癒やしてくださったイエス様を証ししたのです。
イエス様が神の恵みを私にも与えてくださって、私を癒やしてくださった。
〇
年末になると、ショッピングモールで福引きをしますね。
ガラポン抽選器を回すと、小さなボールが一つでます。
その近くにいるときに、小さな女の子がガラポンを回して良い色がでたとき、「おめで
*1 このところで、少し注をいれます。
イエス様が手のなえた人に「手を伸ばしなさい」と仰って、彼がなえた手を出すかどうか、
彼の信仰を試されたと思います。彼の信仰に答えて癒やしてくださったと診ることができ
ます。
私たちは神様から「何を望んでいるのか、何が問題、課題なのか」と言われるときに、差
し障りの無い問題を持っていって、本当に扱ってもらわなければいけない、あるいは、扱
って欲しいものをとっておいてしまうということがあります。
では、現代、病気で片手麻痺の方に対して、私が「手を伸ばしなさい」といった時に、彼
がなえた手をだそうとしても、直らない。その時、その病気の信仰が足りないからなおら
ないのでしょうか、それとも、私の信仰がたりないのでしょうか。そうではありませんで
しょう。今直らないけれども、その弱さを用いて神様が栄光を現してくださいます。
「わたしの力は、弱さの中に完全に現れる」(Ⅱコリント 12:9)大いなる力を神様は持っ
ておられます。ジョニー・エレクソンさんも、星野富弘さんも頸椎損傷。直るように祈ら
れたでしょう。でも直らない。彼らの信仰が足りないからでしょうか。いいえ、神様はそ
の怪我からくる後遺症の「弱さ」に神様の力を完全に表してくださり、それぞれ口で絵を
描き、多くの方に感動を、勇気、慰めを与えておられます。一方、病気の癒やしを私たち
は真剣に祈ります。マルコ 11:24
「祈って求めるものは、何でも、すぐに受けたと信
じなさい。そうすればその通りになります」
マルコ 3:24「するとすぐにその子の父は
叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください』
私たちは何でも信仰をもって、大胆に祈ることができます。そして主のように「わたしの
思い出はなく、あなたの思いがなりますように」という謙虚な思いをもって祈りましょう。
-6-
とうございます。2 当です」カランカランとベルがなる。嬉しそうな女の子におめでとう
と、拍手を送りたくなったことがありました。
38 年も病で苦しんでいた人が、癒されたのを見たとき、そのあたりにいた人たちの多
くは、神様の御業だと思わず拍手したり、ハレルヤ(主をほめたたえます)を言ったでし
ょう。
ところが、そこには、面白そうにしていない人たちが互いに目くばせしたのです。
この日は
安息日でした。
先週、10の教えから、ユダヤ人は安息日に労働に当たることをしないということを話
しました。
真面目すぎる律法学者、パリサイ人は
聖書には書かれていないことまで考えて、安息
日を正しく守ろうとしていました。
今も、エルサレムにはベテスダの池が遺跡として残っています。それを見るとベテスダ
の池の回廊からベテスダの池に行くには階段を降りていかなければ行けないようです。
その階段の上り下りは労働に当たらないけれど、もうベテスダの池のそばにいる必要が
なくなったので、床を上げて帰ることは労働になって、その行為は神様が喜ばれないこと。
普通に考えても「おかしい」と思えることなのですが、そう堅く信じている人たちが、律
法学者、パリサイ人でした。
前回は、いやしという行為が安息日に行われたので、パリサイ人、律法学者がイエス様
を非難したところみました。
今回は、イエス様にではなく、癒やされて立ち上がり、床をたたんで運びだそうとして
いる人に向かって文句を言っています。床をたたんで運びだそうとしているその行為が安
息日を犯している。だれだ、あなたを癒やしたのは誰だ。と言い始めたのです。
彼らの口には「よかったね、おめでとう」の一言も無いのです。
自分の息子が、死にかかっていて、安息日に医療行為を受けて元気になったとしたら、
きっと喜んだでしょう。
病を癒やされた人は、癒やしてくださったがイエス様という名前であるということをし
りませんでした。イエス様はそこを立ち去られていたからです。パリサイ人、律法学者の
人たちにいろいろと問い詰められ、床を取りたたんで運ぶことは違法だといわれていたひ
とを、宮でさがしてくださり、声をかけてくださいました。
・もう良くなった。もう罪を犯してはいけない。
・もう罪を犯していたらもっと悪い事が起こる
と仰いました。
イエス様は安息日に医療行為をし、また直った人に
床を上げて歩きなさいと言った、
つまり彼らからすると、二重の律法違反をしている。労働をしてはならない聖なる日に、
癒やし、床を上げて歩けと命じた。
パリサイ人、律法学者、ここでユダヤ人と言っている人たちは、癒やされた人に、福引
き抽選に当たった人に思わず拍手たくなるような思いではなく、とんでもないことをした
と苦々しく思ったのです。
そこでイエス様は
-7-
5:17
イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。です
からわたしも働いているのです。」
と仰いました。。このことばが、怒りの炎に油をそそぐことになったのです。
パリサイ人、ユダヤ人たちは、
1,安息日に父なる神様は働いているから自分も働いている。・・・安息日の癒やし OK
太陽も、月も、地球も神様が動かしてくださっている。安息日にも
私たちに空気を与えてくださっている。
神様はまどろむこともなく、眠ることもない。
イエス様も働いておられる。安息日にも。安息日の主が癒やしてくださる。
2,父なる神は、私の父
・・・自分を神と等しい
イエス様は別の所で仰っています。 わたしを見た者は、すでに父を見たのだ。
*1
わたしと父とは一つです。 と仰いました。
〇
神を否定し、キリスト教を撲滅させようとしていた人がいました。
ルー・ウォレスという人です。金沢教会の牧師だった萩原先生が彼のことを書いてい
ます。引用しますね。*2
「ルー・ウォーレスという人がいます。無神論者の彼は、友人たちの前で誓いました。
「私
はキリスト教を抹殺するために、キリストを否定する本を書くのだ。」と。
5年間、彼は夢中で研究を続けました。山のような資料を集めて本を書き始めました。
その第2章を書き進んだとき、彼は突然、イスから崩れ落ちるようにして、跪き、こう祈
ったのです。「わが救い主よ。わが神よ。」と。何か、「手で触って確かめなければイエス
・キリストの復活を信じない」と言った、11弟子の一人のトマスと同じような告白でし
た。
それまで、ルー・ウォレスの心には、二つのことが引っかかっていました。
一つは、十字架の上でのイエス・キリストの祈りです。
ルカ23:34前半
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、
何をしているのか自分でわからないのです。」
*1 ヨハネ 10:30 わたしと父とは一つです。」
ヨハ 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいる
のに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。ど
うしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか
*2http://blogs.yahoo.co.jp/elisha_hagiwara/4666897.html
-8-
もう一つは、イエス・キリストが十字架で死んだとき、あんなに臆病だった弟子たち
が、後に急に大胆になり、自分のいのちをかけて、伝道を始める者に変えられたという事
実です。
彼、ルー・ウォレスは、その日、突然、素直にキリストを信じる者となり、それまで
の原稿を破り捨てました。新たにペンを取って書いたのが「ベン・ハー」です。
来年リメイクされて公開されるようですよ。見に行きたいですね。
私には神はいらない。神などいないと全面的に取り組んでいた、ルー・ウォーレス
神様は神様を否定るような人にも、恵みを与えようと近づいてくださり、目には見えま
せんが語り掛けてくださったのです。
皆さん、神様の恵みはどこか遠いところにあって、自分には届かないと思ったとしたら、
神様が私たちに恵みを届けてくださることを知ってください。
今頑なにイエス様を否定し、教会を否定する人もいます。
でも祈りましょう。だって私たちだって救われたのですから。
聖霊は働いてくださって、ルー・ウォレスを救いに導いてくださいました。
ですから愛する方々救われ、一緒に幸いな生涯を、祈り、喜び、感謝しつつ歩めるよう
に。やがての日にはともに天の御国に行くことができるように祈りましょう。
神様の恵みは神様から頂くものです。
救いの恵みもそうです。
神様の恵みを受ける準備をいつもしていましょう。
聖餐
主と一つ、兄弟姉妹と一つ
聖書
日々の聖言
お祈り
感謝、讃美、告白、執成し、自分のため
思い巡らす
祈りはなつかし
集会
恵みの機会
互いに恵みを分かち合える
(ご健康などの都合で集会に来られない方には、主の格別な見守りがありますようにお
祈りをしましょう。)
昨日、夜寝る前にお祈りをしていました。
あの 38 年も病気で苦しみ痛みを感じていた人は、どんなにかお辛いところを、
やるせなさ、どうせ駄目、無理、頑張ろうにも力がでない、いつの間にか、この病気の
人になったような思いがしていました。自分もどうせ駄目と思い、周りも期待していない、
どうせ駄目と言われるような中、どんなに辛かっただろう。
祈りの中で主が近づいてくださるようにして、「大丈夫だよ」そう何度も語りかけてく
ださるのす。「大丈夫、大丈夫」主が共にいて下さるから大丈夫。アーメン。そう祈って
おりました。
-9-
横になりながらこう神様とこうお話をしていました。「イエス様は、私が私がクリスチ
ャンになる前は・・・えっとなんだっけ、何か否定的なことを毎日言っていました。イエ
ス様、こうして考え無いと出てこないほど、過去の事なんですね。そうそう、思い出しま
した。「むかつく」です。この言葉を一日何度も言っていました。私にも神様救いの恵み
が訪れ、それを受けとめ主イエス様を信じてからはいつの間にか「むかつく」は、考え無
いと思い出せないほど、死語になってしまいました。今は「感謝」「ハレルヤ」が私のク
リスチャンから毎日何度となくでます。私にも恵みが及んでいることを感謝します」と祈
っている内に、いつの間にか休んだのでした。
孤独、何か取り残されているような思いがするときこそ、お祈りの機会です。
そして祈りつつ、できる最善をしていくとき(自分のベスト)、神様は残り(レスト)を
してくださいます。祈りに応えて力を与えて下さる方です。
最後にヨハネ5:17を一緒に読みましょう。
イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。です
からわたしも働いているのです。」
今も働いていて下さるイエス様は、皆さんのすぐそばに来て恵みを届けてください
ます。主イエス様を信じ、感謝し、喜びつつ、この一週間を主とともに歩みましょう。
- 10 -