マスカタイン『ジャーナル』紙宛 1854年2月17、18日・ワシントン特別区

『マーク・トウェイン書簡集』翻訳 1854 年 2 月 17・18 日
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マスカタイン『ジャーナル』紙宛
1854年2月17、18日・ワシントン特別区
(マスカタイン『ジャーナル』紙、54 年 3 月 24 日掲載)
ワシントン、1854 年 2 月 18 日
ワシントンの景色を見たいと思い、今朝通りに出てみると、地面は完全に真っ白でした。
天が空になったかと思えるほど雪が降り、しかも極めて短時間のうちに降りました。雪は
激しく降り、通りの向こう側がほとんど見えませんでした。連邦議会議事堂に向かって歩
き始めましたが、歩道も見分けがつかず、一足ごとに足首まで泥と雪に埋まりました。や
っと議事堂まで着くと、11 時まで議会は開かれず、1、2 時間ワシントンをぶらぶらして
過ごします。1
財務省の建物は正面に柱が長く並んで立ち、美しい建物です。大統領府からは 1 区画ほ
ど離れて建っています。ホワイトハウスの前の公園に入り、クラーク・ミルズが創った乗
馬姿の大きなジャクソン像をながめて楽しみました。この像は美しい像で、荒れ模様の日
に歩いて見に来るだけの価値は十分あります。2 ワシントンの公共の建物はどれも見事で、
見本となるような建築物です―そのような建造物はニューヨークのような都市であれば装
飾となるものでしょうが、こちらではホッテントット族の村に多くの宮殿があるようで、
悲しいことに場違いです。道路は本当によくできていて―広く、まっすぐで、床板のよう
に平らです。しかし建物はほとんど一様にみすぼらしいものです―2 階か 3 階建てのレン
ガ造りで、かたまって点在しています。ペンシルヴァニア大通り以外には、こじんまりし
た広場もほとんどありません。家並みは散在していて、ブロブディンナグの紳士のような人
物が袋から放り出し、落ちる間に風でばらばらに散り散りになったように見えます。舗装
道路もほとんど無く、唯一の大通りのペンシルヴァニア大通り以外にはガス灯も無いでし
ょう。ですから、州議会議事堂かどこかに行きたいという願望にとりつかれたら、乗り合
い馬車がゆっくりとやって来るまで 15 分あまりも顔に雪を受けながら、水溜りの中で立
っていることになります。馬車がやっと 1 台来た時には、大抵車内には 19 人の乗客がお
り、車外には 14 人がつかまっているのです。乗り合い馬車の運転手は同情のまなざしを
向けてくれますが、自分が濡れ布巾そのものだ(まさにそのとおりだと感じているのです
が)と知り、そして 15 分間も濡れそぼっていながら何にもならなかったと分かり、得も
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言われぬ気持ちになるのです。そしてこぶしをズボンのポケットの一番奥まで突っ込んで、
悲劇俳優だったら成功しそうな足取りで、しかめ面をしながら、がっかりして歩き去るの
です。「怒った」顔をしていると、浮浪少年の一団が道のあちら側で「キーキー」笑うのです。
これが人生です。これがワシントンです。
議事堂はとても立派な建物です。でも今まで何度も語られてきた建物なので、ここで再
び説明はしません。議事堂を飾っている彫像類はとても美しいです。しかし私はそういう
道の玄人ではないので、これにも触れません。上下両院議場を結ぶ大きなホールには数多
くの大きな絵画が飾られ、合衆国歴史上の有名な出来事を描写しています。その中の一つ、
「巡礼者メイフラワー号乗船」という絵は、とても印象的で、生き生きとして、真に迫った
ものでした。「ボカホンタスの洗礼」も気品のある絵で、その場に値するものです。3
1 日 8 ドルの給与とちょっとした栄誉のために、見識と博識の恩恵を国民に施す人々を
見に、上院議場に入っていきました。今の上院を構成しているのは、かつてのような人々
とは違います。その栄光はなくなりました。上院では<ヘンリー・>クレイや<ダニエル・
>ウェブスターや<ジョン・>カルフーンのような人物の声は響いていません。そのよう
な人々は役割を終えて、壇上を去りました。別の人々が今ではその地位にありますが、物
足りません。上院議員たちは、しかるべき質素な服を着て、誰も見栄を張らず、発言せね
ばならなくなるまで発言しません―ところが、下院議員についてはそうは言えません。[ル
イス・]カス氏は立派な身なりの老人です。<スティーブン・>ダグラス氏は「若きアメリ
カ」と呼ばれていますが、弁護士事務所の事務員のようです。<ウィリアム・>シーウォド
氏はほっそりとして黒っぽい顔のやせた人で、かなりの風に吹かれて田舎から出てきた人
のようです。4
議会の中では、共和国の救済が重くのしかかり、それを軽くしたいと、ほとんどすべて
の人々が切に望んでいるようでした。それで、大体 6 人ほどが議場内で集まると、「議長!
議長!」という声が議場の四方八方から響いてきます。その騒音の中で<トマス・>ベント
ン氏は、まるで猿の小屋に閉じ込められたライオンのように、黙って不機嫌そうに座って
います。このライオンは自分が優れているのを感じているので、猿のおしゃべりには耳を
貸したがらないようです。5
2 月 19 日
スミソニアン博物館は大きくて立派な建物で、ニューヨークのトリニティ教会と同じ様
式の建造物です。あちらの建築物と同じ石でできていて、なかば教会、なかば城のようで
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す。スミソニアン博物館には立派な図書館があり、広い絵画展示室もあります。ほとんど
毎晩講演が行われています。6 今日の晩はパーク・ベンジャミンが講演します。7
ワシントンで訪れる価値のある所があるとしたら、特許庁博物館です。そこはいつでも
無料で入場でき、合衆国内の興味をひく物が最もたくさん集めてあります。この巨大な建
物の 1 階には、特許製品の模型が並べられています。2 階は博物館になっています。私は
ここに収められている何千もの多くの驚くべき物を見て、4 時間もの間本当に楽しい時を
この場所で過ごしました。8 あるコーナーには、ペルーのとても古いミイラがいくつかあ
りました。髪の毛は完全に残り、数世紀前のもののように編まれたままで残っています。
ですが肉体は黒ずんで、干からび、ぼろぼろになっていて、生きていた時の顔の表情は判
りません。というのも、もはや形も無くなった皮と肉の塊しか残っていないからです。フ
ランクリンが約 120 年前にロンドンで使っていた印刷機は注目すべきものです。組み版を
置く平らな版盤は木製で、とても浅い箱のようです。この印刷機の圧盤は版盤の半分の大
きさしかないので、一つ折りのページ全部を印刷するのに 2 回圧力レヴァを引く手間が掛
かります。印刷術は何と巨大な進歩をしたことでしょうか。この印刷機は 1 時間に一つ折
り版を 125 枚印刷できます。これを見た後で、ホウのすばらしい印刷機が同じ 1 時間で
20,000 枚印刷できるのを見て、今までに無い興味を抱きました。9 他の展示ケースの中に
は、ワシントンがアメリカ軍最高司令官の任務を辞する時に着ていた制服が展示されてい
ます。ジャクソンがニューオリンズの戦いで着ていた外套もありました。ワシントンの剣
と戦時用テント、調理器具、ナイフ、フォーク等々、野営用装備一式ありました。合衆国
とトルコとの条約(東洋の文字はぞっとしますが、その見本です)、 10 独立宣言原本、ボ
ナパルトと何人かのヨーロッパの王様の署名、異教の神々の像、アタワルパ<インカ帝国最
後の王>とコルテスの衣服、これらと同じくらい興味深いその他何千ものものがありまし
た。
ワシントン記念塔は目下のところ 150 フィートの高さの白大理石のオベリスクにしか過
ぎません。出来上がればきっと本当に美しいものになります。完成すれば鉄の梯子が頂上か
ら 25 フィートの高さまで達することになっています。550 フィートの高さになる予定です。
議会が記念塔建設資金 200,000 ドルを承認すれば、このお金と人々の寄付金を使って 4 年
で建つそうです。11
フォレスト氏が昨夜国立劇場で『オセロ』を上演し、観衆も満足しました。12 この劇場は
とても大きな劇場で、ワシントンで唯一立派なものです。
W.
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議会は 1854 年 2 月 18 日土曜日には招集されていなかった。クレメンズの「散歩」は、実
は 2 月 17 日のことだった。
2 ミルズ(1810 年~83 年)作の像は、1812 年の米英戦争でジャクソンが奪った青銅の砲
弾を鋳直して作られたもので、1853 年 1 月に献じられた。この像は後ろ足で立った馬にジ
ャクソンが跨り、帽子を取った姿をうつしている。
3 丸屋根の連邦議会議事堂の 8 枚の壁のうち、2 枚の壁に飾られていたのは、それぞれ、ロ
バート・W.・ワイア(1803 年~89 年)とジョン・G.・チャップマン(1808 年~89 年)
の絵であった。
4 クレメンズが言及している人物は以下のとおり。ミシガン州選出の民主党上院議員ルイ
ス・カス(1782 年~1866 年)。イリノイ州選出の民主党上院議員スティーブン・A・ダグラ
ス(1813 年~61 年)。この議員は 1852 年に民主党議員の中の「若きアメリカ」派から支持
され、大統領候補の指名を得ようとしたが、失敗した。ニューヨーク州選出のホイッグ党[ア
ンドリュー・ジャクソンの民主党に対抗する党派として 1834 年頃結成され、1855 年まで
活動した党派]上院議員ウィリアム・H・シーウォド(1801 年~72 年)。当時上院ではダグ
ラスが提案したカンザス・ネブラスカ法案をめぐり熱心な議論が行われた。この法案は
1854 年 5 月に議会を通過したが、1820 年から 21 年のミズーリ協定<成立は 1820 年>を
取り消し、奴隷制度の拡大を制限した。<1854 年>2 月 17 日クレメンズが傍聴していると、
シーウォッドがミズーリ協定を支持する演説を 3 時間行った。
5 2 月 17 日の議会の出来事は、カンザス・ネブラスカ法案の議論に前後して行われた、異常
なほど多くの口論と議事手続きに関する激しい論争で有名になった。約 14 年後、クレメン
ズはこの手紙のこの部分で書いた場面を思い出しながら、議会の様子を次のように生き生
きと再現している。
1
大抵の議員達は、頭が空っぽの、思い上がった、つまらない奴等の集まりで、絶えず動議を
提出し、果てしなく修正案を提案し、議事規則を守るようひっきりなしに起立して抗議す
る、このようなことのためだけに議会に来ている者だ。彼らは演説をしている人よりも傍
聴席に目をやる場合が多い。まるでビール工場にいるかのように机の上に足を乗せている。
彼らは群れになったミヤマガラスよりも騒ぎ立てる。彼らは実際に誰かが知っているより
も多くのことを知っているような振りをし、ひょっとして誰かが知りえるかもしれないこ
と以上に知っている振りをする。
トマス・ハート・ベントン(1782 年~1858 年)は 1821 年から 1851 年までミズーリ州選
出の民主党の上院議員で、下院も 1 期(1853 年~55 年)務めた。
6 赤い砂岩で出来た「モールの城」はノルマン建築様式で設計されていた。
1849 年から人が
住んでいたが、1855 年まで未完成であった。クレメンズが訪れた時、この建物には約
32,000 冊の蔵書を持つ図書館と美術館、2,000 人収容の講堂があった。
7 パーク・ベンジャミン(1809 年~64 年)は編集者で、批評家、出版者、詩人であった。そ
の上有名な講演家で、韻文でも散文の形でも、滑稽で風刺的な娯楽読み物を得意とした。2
月 17 日に彼はスミソニアン博物館で、衣服やほかの流行りものの様式を嘲笑した「流行」と
いう詩を朗読した。彼の次の講演「アメリカ語法」は 2 月 20 日に予定されていたが、吹雪
のために 1 日延期された。
8 合衆国特許庁の建物はローマのパルテノン神殿をもとに設計された。当時は特許庁に加
えて、内務省と国立博物館がこの中にあった。
9 リチャード・M・ホウ(1812 年~86 年)の発明した回転式印刷機は、1846 年にフィラデル
フィア『パブリック・レッジャー』紙で最初に使われ、その後首都の他の新聞社でも広く採
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用されるようになった。クレメンズがワシントンの新聞社でホウの印刷機が動いているの
を見ていたということは、彼が仕事を探していたことを示すものだろう。
10 トルコ語による条約は 1830 年 5 月 7 日にコンスタンチノープルで署名され、合衆国と
オスマン帝国との間の通商と航行の指針を定めていた。アメリカの外交官はフランス語に
翻訳された条約に署名し、オスマン・トルコ帝国政府代表が署名したトルコ語原本と交換し
た。この条約は合衆国とオスマン・トルコ帝国との唯一の条約で、1854 年発効した。
11 1833 年 9 月全国ワシントン記念協会が組織され、ワシントンの記念館を建てるのに一般
からの基金を集めることを目的とした。この計画は 1783 年以来議会が議論しながらも、結
論を出せなかった計画であった。しかし 1848 年の 7 月 4 日になってやっと記念塔の礎石が
置かれた。1854 年 3 月までに 230,000 ドルの費用を使ってオベリスクは 153 フィートの高
さになったが、資金難から 2、3 ヶ月建設が中断していた。200,000 ドルの歳出承認が議会に
提案されたが、1876 年まで資金は使えなかった。その理由はいくつもある―協会内の意見
の対立、既に完成している建造物の全体像についての疑問、そして南北戦争―が主なもので
ある。この記念塔は 1884 年 12 月 6 日に最終的に完成し、総費用は百万ドルを超えた。1885
年 2 月 21 日に除幕式が行われ、当時世界一の高さの建物になり、555 フィート以上の高さ
を誇った。
12 エドウィン・フォレストは、「最初にして最後の機会」となるオセロ役を 2 月 17 日に国立
劇場で演じた。