マスカタイン『ジャーナル』宛 1853年12月4日・ペンシルヴァニア州フィラ

『マーク・トウェイン書簡集』翻訳 1853 年 12 月 4 日
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マスカタイン『ジャーナル』宛
1853年12月4日・ペンシルヴァニア州フィラデルフィア発
(マスカタイン『ジャーナル』1853 年 12 月 16 日掲載)
フィラデルフィア、1853 年 12 月 4 日
今、世情を騒がせている重大な情報はほとんどありません。数日前に到着予定だった蒸
気船がまだ着いておらず、何かあったのではないかと懸念されています。1 アイルランド
系の愛国者のミッチェルは、今やニューヨークで有名人です。彼はもうすぐこちらへ来る
そうです。2
フィラデルフィアは連邦の中で一番健康的なところの一つです。空気はきれいで新鮮で
す―まるで田舎に居るようです。今週の死亡者数は 147 人です。3
1682 年頃にこの都市の基礎は敷かれました。最初の移住者は、「サラとジョン」キャプテ
ン・スミスという名前で、その 1 年前にやって来ました。フィラデルフィアは今ではサザ
ワークからリッチモンドまで―約5マイル—デラウエア川からシュルキル川まで―約2マ
イル強―に拡大しました。通りは広くてまっすぐで、直角に交差し、東西南北に走ってい
ます。ペンのもともとの考えでは、フロント通りは空いたままにしておき、何も建物を建
てさせないつもりでした。そうすれば美しい遊歩道ができ、デラウエア川がよく見えたこ
とでしょう。しかしこの計画は実行されませんでした。今では曲がったドック通りになっ
ている所がかつては美しい川で、都市の中心部を流れていました。昔はこの運河を3番目
の大通りまで船があがって来ました。
チェスナット通りには昔の議会議事堂があり、よそ者には大いに興味を引くものになっ
ています。幾度も修復されてはいますが、議事堂はかつての構造と外観を今でも保ってい
ます。堅固なレンガ造りの建物で、その最初の建築費用は 5,600 ポンド(28,000 ドル)で
した。1 階の東の部屋であの重要な独立宣言が 1776 年 7 月 4 日に議会を通過しました。
よそ者が初めてこの部屋に入ると、得も言われぬ畏怖と尊敬の念に襲われ、目に映るす
べての過去の記念品が神聖な所に足を踏み入れているのだ、と囁きます。その通りです。偉
大な人物たちがかつて立っていた所に今自分が立っていることを、その古いホールのすべ
てのものが思い出させるのです。まわりを見るとフランクリンやアダムズが目の前に現れ
て来るようです。この部屋には懐かしの「独立の鐘」が展示されています。この鐘は人々を
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呼び集め、独立宣言が読まれるのを聴かせようと鳴らされました。また粗末なベンチもあ
ります。これはワシントンとフランクリンとホワイト主教がかつて座ったものです。
フィラデルフィアは楽しいことがたくさんあって、退屈しないところです。土曜日の夜
には「のん気な集まり」と呼ばれる宴が酒場で開かれます。のん気な集まりでは、司会者が指
名され、司会者はどのグループにも歌や演奏を求めます。歌手やとうとうと喋る人が沢山い
て、誰でもほんのちょっとしたお金で身を捩じらせるほど笑えます。4
オール・ブルとジュリアンとゾンタークが演奏を披露し、帰って行き、5 あとに二人の太
った婦人を残しました。一人は 764 ポンド、もう一人は 769 ポンドの体重で、「この土地の
人々をびっくりさせ」ました。先日の夜、この二人のうちの一人の婦人を見に立ち寄ってみ
ると、失望しました。彼女はとても大きな肉の塊で、自慢するようなものではありません。
それでも食人諸島ではかなりの価値をもたらすと思います。彼女は結婚しているんです!
もし私が夫だったら、ふさわしいだけの不屈の勇気をもって天の配剤に身を任せられると
思います。もしも神が限りない徳で彼女を連れ去るのがふさわしいと思ってくれたらよい
のですが。この象のような人類と一緒に「スイスのヨーデル歌手」もいました。なんと。彼が
自分の故郷を初めて目にすることがありますように、心から望みます。6
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この蒸気船は、SS<蒸気船>ヨーロッパ号(イギリス・北アメリカ間王立郵便汽船所有)
で、ニューヨークに向け 11 月 19 日にリヴァプールを出航した。12 月 2 日以降フィラデル
フィアの新聞はこの船が延着していることを繰り返し伝えた。この船は最終的に 12 月 6
日朝無事入港した。
2 ジョン・ミッチェル
(1815 年~75 年)は、アイルランドの民族主義者で新聞の編集者で、
1848 年に王に対する反逆罪で 14 年の流刑を言い渡された。1853 年の夏に彼はタスマニ
アから脱出し、オーストラリア、サンドイッチ諸島、タヒチを経て、サンフランシスコへと逃
れてきた。11 月 29 日にニューヨークに着き、民衆の熱狂的な歓迎を受けた。クレメンズの
言葉使いは、フィラデルフィア『パブリック・レッジャー<住民基本台帳>』紙の「ジョン・
ミッチェルは今やニューヨークで有名人です」という表現を繰り返している。フィラデル
フィアでは彼の歓迎会を少なくとも 3 回計画(1853 年 11 月 26 日、同年 12 月 5 日、1854
年 1 月 3 日)したが、ミッチェルがフィラデルフィアを訪れた明確な証左はない。1854 年
1 月、ミッチェルは自ら設立した週刊新聞のニューヨーク『シチズン』紙で堅固無比の奴隷
制支持論を発表し多くの支持者を遊離させた。
3 1854 年 1 月 6 日付フィラデルフィア『パブリック・レッジャー<住民基本台帳>』紙は、
「最低の計算値の 400,000 という数値に対する死亡者の割合は、毎年 41 人当り一人の割合
になり、合衆国の他のどの大都会よりもよい数値であった」と伝えている。クレメンズがこ
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こで述べていること、ここに書いた多くの事実、12 月 24 日付のマスカタイン『ジャーナル』
紙宛の通信文に含まれていること、これらの元は、R. A. スミスの『ありのままのフィテラ
デルフィア、1852 年』であり、ローチが 1946 年に最初に確認している。
4 これらの大衆娯楽では、食べ物、演芸、富くじ、「ラベット氏、有名なハンドベル奏者」な
どが提供された。
5 ノルウェイのヴァイオリン奏者オール・ブル(1810 年~80 年)は 10 歳のソプラノ歌手
アデリナ・パティ(1843 年~1919 年)とピアノ奏者モーリス・ストラコシュ(1825 年~87
年)を従えて、フィラデルフィア音楽基金ホールで 11 月 2 日と 4 日に演奏会を開いた。こ
れらの演奏会はノルウェイ人の農業植民地オレアナの苦難の救済のために開かれた。この
植民地は 1852 年 9 月から 1853 年 9 月までブルがペンシルヴァニアに築こうとしたもの
だが、不幸にも土地が農業に適さなかった。11 月 9 日から 21 日までフランスの派手な指揮
者で作曲家のルイ・アントワーヌ・ジュリアン(1812 年~60 年)はフィラデルフィア・コ
ンサートホールで 11 回の入念な「管弦楽と声楽の演奏会」を開いた。彼は P. T. バーナム
のもとで合衆国中を演奏旅行していた。一般からも批評家からも要請があり、彼は 12 月 1
日から 3 日までの追加公演のために戻ってきた。ドイツのソプラノ歌手ヘンリエッテ・ゾ
ンターク(1806 年~54 年)は、神童といわれたヴァイオリン奏者ポール・ジュリアン(1841
年~66 年)と共に音楽基金ホールで 10 月から 11 月にかけて何度も演奏した。このよう
な演奏会のおかげで、多くの民衆がアメリカの都市にやって来て、古典音楽とヨーロッパ
の演奏家への関心が高まった。
6 18 歳で体重 769 ポンド<約 349 キロ>の「巨大アメリカ少女」ハンナ・クルーズは 12
月の初めに「ブルーマ姿」の「集まり」を「午前 10 時から午後 10 時まで 9 番通りとチェ
スナット通りが交わるすぐ北側のきれいで広々とした部屋で」開いた。彼女の近くにはス
イス人のヨーデル歌手がいた。この人物の役割は「ユダヤの信条に曲をつけたものを、鳥の
声をまねたヨーデルの伴奏をつけて、聴衆を喜ばせ、驚か」せることであった。これに対抗
する呼び物は、クレメンズが「立ち寄った」ものだが、「世界最大の女性」ショリー夫人であ
った。彼女は体重 764 ポンド<約 347 キロ>で、異なる(あるいはどこにでもいる)スイ
スのヨーデル歌手と一緒に、「町で一番華やかなチェスナット通り 142 番地のウッド大佐」
の家で、「昼と夜」姿を現した。
7 「W」は多分「W. エパミノンダス・アドラスタス・ブラブ」を縮めたものだろう。この筆
名をクレメンズは 1852 年 9 月に(時に W. E. A. B.と省略して)ハンニバル『ジャーナル』
紙で使っていた。「W.」という署名は―53 年 12 月 24 日、54 年 2 月 3 日、54 年 2 月 17
日・18 日の 3 通の手紙で繰り返され、すべてマスカタイン『ジャーナル』紙宛で―ブラブ
の名前で旅行通信文を書くとかつて同紙上で約束したものを果たそうとしたものであろう。