椹木野衣著『戦争と万博』 波潟 剛 「 戦 争 は ま だ 続 き、 万 博 は 繰 り 返 さ れ る 。 戦 前 に 計画 さ れ た 紀 元二 六 〇〇 年博 と一 九七〇 年の大阪万博 を 結 ぶ、 都 市 EXPO'70 計 画 家 、 建 築 家 、 そ して 前衛 芸 術 家 た ち の 、 終 わ りな き 「 未 来 」 へ の 夢 の 連 鎖の な か に 「 環 境 」 の 起 源 を た ど る タ イ ムト ラベ ル 的 異色長編評論。」(本書帯より) た しか に 本書 は 戦 争 、 万 博 、 そ して 前 衛 芸 術 の つ な が り を ス リ リ ン グ に た ど った 「 タ イ ム ト ラベ ル 的 異色 長 編 評 論 」 で ある 。 本 書で 次々 と明 らか にさ れ る 事 実 は 、 こ れま では 点と 点 で し かな か った よう に 思 え る 三 者 を 結び 、 そ れ は や が て線 、 そ し て 面 とな っ ま ず 私 に と っ て 興 味 深か った の は 、 一 九 七 〇 年 の 大 阪 万 博 に 関 て浮かび上がってくる。 与 して い く 芸術 家 や 作 家 た ち と 戦 争 、 と く に 「 原 爆 」 と の 接 点 が 少 な か ら ず 存 在 す る と い う 点で ある 。た とえ ば、 第 一 章 で 取 り あ げ ら れ る 小 松 左京 の 場 合、 代表 作 『 日 本 沈 没 』 に 展 開 さ れ る 終末 論 的 思 想 が 、 原 爆 投 下 直 後 の 広 島 で 救 助活 動 を した 建 築 家 浅 田 孝 の 思 想に 影 響 を 受 け て い る と い う 指 摘 が あ る 。 また 、 第 五 章で は 建 築 家 磯 崎 新 の 「 未 来 都 市 は 廃 墟 で あ る 」 とい う テ ー ゼ が 、 広 島 や 長 崎 の 爆 心 地 の イ メー ジと 重 な って くる と い う 点 が 、 イ ン ス タ レーション『電気的迷宮』 (一九六八年)を介して言及されている。 浅 田 孝 と い う 人 物 が大 阪万 博の 基 本構 想を 打ち 立 て た と い う 事 か っ た と い う 意 味 で 非 常 に重 要で ある 。 し か し 私は 浅 田の 影 響 が 実 は 、 こ れ ま で の 大 阪 万 博 に 関す る 研 究 で は指 摘 さ れ る こ とが な った 指 摘 に よ り 興 味 を 覚 えた 。 ま た 、 磯 崎新 に 関 して は、 ポ ス ト 小 松 左 京 ば か り で な く 、「 日 本 列 島 改 造 論 」 に ま で 到 達す る とい ・ モ ダ ン 論 全 盛 だ っ た 大 学 時 代 に 、「 つ く ば セ ン タ ー ビ ル 」が 廃 墟 に な った 写 真 を 講 義 で 何 度 も 見た 記 憶 が あ り、 講 義 が 終 わ っ て か ら し ば し ば 歩い て 見 に 行 った この ビ ル が、 古 代ギ リ シ ャ や 中世 ヨ ーロ ッ パ の イ メ ー ジ ばか りで な く 、 爆心 地の 風景 とも つ な が り こう した 戦争 と万 博と 前 衛 芸 術 と をつ な ぐ 「 線 」は 、 万博 芸術 が あ る か も し れ な い と い う 点 を 知 り 非 常 に 感 慨 深 か った 。 が実 は戦 争 美 術 なの では ない か という 刺激 的な 問 題設 定に よっ て 著 者 の 問 題 意 識 が 、「 一 九 七 〇 年 の 岡 本 太 郎 は 、 い わ ば 一 九 四五 さら に奥 行きを 増し「 面 」となってゆ く 。た とえ ば第 二章では、 年 の 藤 田 嗣 治 を 反 復 し て い る 。」 と 、 端 的 に 表 現 さ れ て い る 。 こ の 一 文 に 示 さ れ て い る の は 、「 万 博 以 後 、 美 術 界 が 万 博で の 活 動 閑 に 付 さ れ た こ と と 対 応 し て い る 」 と い う 認 識 で あ る 。 国 策 芸術 に 触 れ な く な った こ と は、 敗 戦 後、 戦 争 記 録画 の 問 題 が 長 く 、 等 と は 対極 に あ る は ず の 前衛 芸 術 家 た ち が、 な ぜ 一 九 七 〇 年 の 大 阪 万 博 で 結 集 し た の か 。 こ う し た 問 い は 前 衛 芸術 を 糾 弾 す る とい う 芸術 が 終 わ りを 告 げ た と 宣 告 して い る わ け で はな い 。 著者 は そ の 要素 を 持 っ てい る 。 だ が 、 本 書 は た ん に 一 九 七 〇 年に おい て 前 衛 問 い を 、 実 は 「 戦 争 画 こ そ が 万 博 芸 術 ( 博 覧 会 芸 術 )の 反 復 」 な の で あ る と い う 発想 か ら 解 き 明 か そ う と して い る の で あ る 。 173 戦 争 美 術 = 万 博 芸 術 と い う 問 題 設 定 は 、 大 阪 万 博 に 関す る 興 味 深 い 事実 に 光 を 当 て る 。 第 八 章 に 次 の よう な 部 分が ある 。 の 軌 跡 を 追 っ た 第 三 章、 第 四 章、 あ る い は 、「 石」 や「 穴 掘 り 」 と い った 斬 新 な 切 り 口 か ら 一 九 六 〇 年 代 芸 術 論 、 そ して 大 阪 万 博 戦時 統 制下 に あ って なか なか 「 理 想 」を 実 現 でき ない 前衛 的 っ き ょ く は 万 博 に参 加す る「 誘 惑 」 に 勝 て な か っ た よ う に 、 い る 点 で 、「 原 爆 」 と 一 九 六 〇 ~ 七 〇 年 代 の 「 文 学 」 を 考 える た 万 博 」 と い う と き の 「 戦 争 」 が 、「 原 爆 」 を 非 常 に 強 く 意 識 し て 本 書 を 「 原 爆 文 学 」 と の か か わ り か ら 考 え る な ら ば 、「 戦争 と ル」は飽きる ことがない 。 論 を 展 開 す る 第 六 章、 第 七 章 な ど 、 万 博 を め ぐ る 「 タ イ ム ト ラ ベ な 建 築 家た ち に と っ て 満 洲 は 、 政 治 的 に は 大 き な 問 題 を 抱 え に は 、「 万 博 」 と い う 一 大 イ ベ ン ト と 「 文 学 」 と の 関わ り を 改 め め の 示 唆 を 与え て く れ る の で は ない か と 感 じ てい る 。 ま た 個 人的 磯 崎 が、 その 国 策 ゆ え の 問 題 性 を 頭 で は理 解 し な が ら 、 け にちがいない 。 な が ら も 、 本国 の し が ら み か ら 自 由 に な れ る 新 天 地で あ った 喩 に と ど ま ら な い 。「 電力 館 」 を 設 計 し た 板 倉 準 三 や 、 万博 の 事 割 は 、 小 説 にく らべ て か な り 比重 が高 い 。な ぜ 小 説 が 映画 化さ れ 映画 の場 合、 原 爆に よ っ て 顔 に ケ ロ イ ド を 負 っ た 女性 の 果 たす 役 同じ組み合わせで一九六六年に映画『他人の顔』を製作している。 四 〇 時 間 』 と い う 映画 を製 作 し た 勅 使 河 原 と 安 部 公 房は 、 や は り て 問い 直 す 必 要 性 を実 感 し て も い る 。 大 阪 万 博 の た め に 『 一 日 二 務局スタッフなど、「大阪万博の会場計画」は、「ある意味、かた る 時 点 で「 原 爆 」の 問 題 が 前 面 化 し て く る の か と い う 問い に 関 し 「 満 洲 国 」の 建 築 と大 阪 万 博 と の オ ー バ ー ラッ プ は た ん な る 比 る ほ ど 、「 満 洲 国 」 と の か か わ り を 残 し て い る 。 戦 後 の 文 学 ・芸 て 、 ま だ 答 え が 見つ か ら な い 。 しか し、 本 書 を 読 み す す め て い る ち を 変え て 『内 地』 に 折 り 返 さ れ た 満 洲 国 の 復 興 像 」 とも 思 わ せ な か で 、 随 所 に ち り ば め ら れた 問い が、 手 が か り を 示 し て く れ て 二八〇〇円+税) 阪 万 博 と「 満 洲 国 」 と の 接 点 は 、 正 直 考 え た こ と が な か った 。 次 三四九頁 術 運動 と満 洲 と の 接 点に つ い て 自 分 な り に研 究 し て は い た が 、 大 二〇〇五年二月 い る の で は な い か と感 じた 。 (美術 出版社 々と投げかけられる本書の問いに、章を変えるたびに圧倒された。 い ま ま で 紹介 して きた 内 容 以外 に も、 「環境」や「新陳代謝 (メ 」 と い っ た 用 語 か ら 、「 実 験 工 房 」 や 「 ネ オ・ ダダ 」 タボリズム ) 174
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