三ヶ年伝道基本方針総主題《 神 の 家族 》 年伝道基本方針総主題《わたしたちは神 わたしたちは 主日礼拝 主日礼拝説 礼拝説教「鍛え上げられた平和 げられた平和の 平和の使者に 使者年 に月」 日〔平和月間〕 日本基督教団藤沢教会 日本基督教団藤沢教会 平和月間〕 【使徒書日課 使徒書日課】 日課】ヘブライ人 ヘブライ人への手紙 への手紙 章 ~ 節 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人 たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 ま た、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、 子として受け入れる者を皆、 鞭打たれるからである。」 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として 取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子 であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる 肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従 して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思う ままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神 聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というも のは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になる とそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 また、足の不自由 な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を 歩きなさい。 【福音書日課】 福音書日課】マルコによる マルコによる福音書 による福音書 章 ~ 節 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼 を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 もし片方の手 があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地 獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。† もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足が そろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよ い。† もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の 目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る 方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 人は皆、火 で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あ なたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そ して、互いに平和に過ごしなさい。」 2014 12 3 8 17 13 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 9 42 50 42 43 45 47 48 49 50 「キリストの平和」 キリストの平和」 「平和月間」の 月、 時からの早朝礼拝では冒頭で必ず歌っている「キリス トのへいわ」という讃美歌があります。「キリストの平和が、わたしたちの心の すみずみにまで、行き渡りますように。キリストの光が、わたしたちの心のすみ ずみにまで、行き渡りますように。キリストの力が、わたしたちの心のすみずみ にまで、行き渡りますように。キリストの命が、わたしたちの心のすみずみにま で、行き渡りますように。キリストの赦しが、わたしたちの心のすみずみにまで、 行き渡りますように」と歌う讃美歌です。シンプルで、とても印象的な讃美歌だ と思います。夏期学校でも繰り返し歌いましたから、教会学校の子どもたちの中 には、何でもないときにこの讃美歌を口ずさんでいたりする子もいるほどです。 この讃美の歌を、心の中に行き渡らせているのです。早朝礼拝で使う『改訂版こ どもさんびか』にある讃美歌ですが、残念ながら、わたしたちが普段使う『讃美 歌 』には入れられていません。けれども、ぜひ皆さんにも、おぼえて口ずさ んでいただきたい一曲です。 「キリストの平和が、わたしたちの心のすみずみにまで、行き渡りますように」。 キリストがお教えくださった平和、キリストがわたしたちのために実現してく ださった平和、キリストがわたしたちに求めておいでの平和は、まず何よりも、 わたしたち自身の心を満たすもの、わたしたちの心を覆い尽くすものです。 もちろん、外面的な争いのない状態も、平和にはちがいありません。この国に 生きる者として、 月を迎えるたびに、世代を超えて誓ってきたことは、互いの 間で起こる紛争を、武力や暴力といった力によって解決しようとしない、非暴力 を貫くという意味での平和であったでしょう。そのような平和を保つ努力は、わ たしたちがどのような宗教を持とうと、あるいは持たなかろうと、変わらずに求 められることに違いありません。無論、わたしたちキリスト教会が、そのことを 他の者に優って徹底的に求め、率先して実践すべきことは、当然でありましょう。 けれども、そのような平和の実現に向けた行動が、本当に真実なものとしてな されるためには、もっと根源的な平和を知らなければならないでしょう。実際に、 国家にしろ、個人にしろ、平和を口にし、平和を求める人々が、しばしば、実に 好戦的で、意見を異にする者に対して攻撃的なのです。表面的、外面的な平和だ けが求められるならば、それこそ「武力による平和」という論理が通用してしま うのが、この世の考えなのです。キリストの時代、キリスト教会が誕生した時代、 地中海世界を支配していたのは、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」でした。 ローマ帝国の軍事力によって保たれた平和を、多くの人が良しとし、そこに甘ん じていたのです。しかし、それでよいのか。 キリストは、「ローマの平和」の時代に、それとは異なる土台を持つ「平和」 を実行し、お教えくださいました。「神の国の平和」です。天の御父のお与えく ださる「平和」です。その「平和」を、キリストは、わたしたちにお与えくださ ったのです。「キリストの平和」が、わたしたちの心を支配するように、御自身 を差し出し、御血を注いでくださったのです。 8 9 21 8 2 小さな者の一人に 7 年ぶりに CS 夏期学校に同行してみて、あらためて、神から託された子ども たちに対する責任の重さを痛感させられました。夏期学校はたった二泊三日です が、この三日間に、子どもたちは、確かに多くのものを心に注ぎ込まれ、決して 小さくはない人間形成のときを過ごすのです。もちろん、毎週の教会学校の営み でも同じことです。毎週の積み重ねによって、子どもたちの心に刻まれていくこ とが、たくさんあります。ただ、夏期学校は、普段にも増して、子どもたち自身 が、自分の心に注ぎこまれてくるものに気づき、自ら受け入れたり拒んだりとい う応答をすることが求められるという意味で、特別なときになるのです。そのよ うな機会に、わたしたちが、どれだけ細心の注意を払って、子どもたちに与える べきものを用意し、子どもたちの心に注がれるものに配慮できるか。それによっ て、大げさに言えば、その子どもたち一人ひとりの将来が変わってくるでしょう。 わたしたちの願いは、そのときに、「キリストの平和」が子どもたちの心に満た されるようになることです。決して「人間の秩序」や「人の要求」が子どもたち の心を支配するようになることではない。 福音書の御言葉で、主イエスがおっしゃいます。「わたしを信 わたしを信じるこれらの小 じるこれらの小 さな者 さな者の一人をつまずかせる 一人をつまずかせる者 者 は 、 大 きな石臼 きな 石臼を を 首 に 懸 けられて、 けられて 、海に投げ込ま をつまずかせる 石臼 れてしまう方 れてしまう方がはるかによい」。そうおっしゃられた主イエスは、直前に、弟子 たちの集まる中で一人の子供を真ん中に立たせ、抱き上げられて、言われたので す。「わたしの名 わたしの名のためにこのような子供 のためにこのような子供の 子供の一人を 一人を受け入れる者 れる者は、わたしを受 わたしを受 け入れるのである」(9:37)。子どもたち、小さな者たちを、受け入れなさい。つ まずかせてはいけない。それが、主のご命令です。主が願われていることです。 わたしたちにお求めのことです。その子どもたちに、小さな者たちの一人ひとり に対して、わたしたちが、どれほど大きな責任があるか。その一人ひとりに、教 会が、教会に連なるわたしたちが、何を与え、何から遠ざけるべきなのか。 わたしたちは、自分が得たものしか、人に与えられないのです。自分が持って いるものを、他の人に与えることになるのです。だからこそ、わたしたちは、ま ず、自分自身が何を持つのか、何を捨てるべきなのか、問われる。「もし片方 もし片方の 片方の 手があなたをつまずかせるなら があなたをつまずかせるなら、 つまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」と言われる。「もし 片方の 片方の足があなたをつまずかせるなら、 があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」と言われる。 「もし片方 もし片方の 片方の目があなたをつまずかせるなら、 があなたをつまずかせるなら、えぐり出 えぐり出しなさい」と言われる。 主がそうおっしゃられるのは、わたしたちを罰するためではありません。わた したちを、不自由な者にするためでもありません。わたしたちが、本当の命にあ ずかるためです。わたしたちが、神の国に入るためです。本当に大切なことだけ が、わたしたちの持つべきものとされるように、余計なものが火で焼かれ、塩で 清められるためです。そうして、まず、わたしたちの心が、他の余計なものでは なく、ただ「神の国の平和」で満たされるようになる。「キリストの平和」で満たさ れるようになる。わたしたちは、ただそれを、子どもたちに与えるのです。わた したちの周囲の小さな者の一人に、それを差し出し、受け取ってもらうのです。 3 霊の父に鍛えられて そのような者とされるために、わたしたちは、日々努力して、自らを信仰的に 鍛えなければいけないと思うかもしれません。一所懸命に聖書を読み、熱心に祈 り、キリスト者らしい実践をし、終わりの日にキリストに「よくやった」とおほ めいただけるような毎日を送らなければいけない、と思うかもしれない。 確かに、わたしたちは、聖書を読み、そこに語られている神の御言葉を聴きと ることを大切にしています。できれば毎日少しずつでも聖書を読み続けるように と、わたしの立場で言えば、皆さんにお勧めすべきでしょう。また、わたしたち は、祈ることも大切にしています。毎日、できれば朝夕、家庭で家族そろって祈 ることができれば、これほど幸いなことはない。せめて食卓の祈りは欠かさない ようにしたい。あるいは、キリスト者らしい実践を、もっともっと積極的にでき ればと願います。わたしたちの生活は、この世の煩いにからめとられて、キリス ト者らしく生きることから引き離そうとする力ばかりが働いているのですから、 なおさら、それに抵抗してキリスト者らしく生きられるようになりたいと願うの は、当然だと思います。 けれども、わたしがここで申し上げなければいけないのは、わたしたちにとっ てどうしても不可欠なのは、そういう自己鍛練ではない、ということです。自分 で自分の理想像を描いて、それに向かって自分を鍛える、目標を実現する、とい うことは、本質からすると、キリストの教えとは異なる考え方です。キリストが お教えになられたのは、御父が人間のあるべき姿を御存じで、それに向かって人 間を鍛え導き、神の国に生きるご自分の民、神の家族を実現なさる、ということ です。ヘブライ人への手紙は、まさにそういう御父の鍛錬、霊の父がご自分の計 画をお持ちで、ご自分の目的実現のために、わたしたちを鍛えてくださっている、 訓練してくださっていると、言っているのです。 霊の父はわたしたちの益 はわたしたちの益となるように、 となるように、御自分の 御自分の神聖にあずからせる 神聖にあずからせる目的 にあずからせる目的でわ 目的でわ たしたちを鍛 たしたちを鍛えられるのです。 えられるのです。 キリストが、わたしたちに先立って神の子として歩んでくださったのは、わた したちが、そこに続くためでした。キリストは、わたしたちが歩むべき道を、先 んじてくださって、道を拓いてくださったのです。それは、この手紙では「天の 故郷」( と呼ばれるところ、つまり「神の国」に至る道です。キリストは、こ の地上の生涯のうちにあって、すでに「神の国」に生きる道を拓いてくださった のです。そのために戦わなければならなかった罪と戦って血を流してくださった のです。罪とは血を流して戦わなければいけなかった。「神の国の平和」は、そ のキリストの流された血によって贖い取られたのです。 その道をまっとうできるように、キリストの道に従い続けられるように、御父 は、わたしたちを教会にお集めくださり、御自分の鍛錬の意味を明らかにしてく ださるのです。わたしたちを鍛え上げてくださるのです。キリストと共に、「神 の国の平和」をこの世に告げ知らせる、すべての人の心に注ぎ入れる、平和の使 者として、わたしたちを自ら歩む者としてくださっているのです。 11:16) 4
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