サミット

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サミット
第 6 回全米創作すしコンクール・セミナー
主催 北加日本食レストラン協会
後援 全国すし商生活衛生同業組合連合会
ワシントンDC支部
場所 California Culinary Academy
日米タイムスに紹介されました
2005年5月21日
第 6 回全米創作技術間クール優勝作品
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パナマの新聞に、すしの大使と報道されました
パナマ共和国
SUSHIセミナー
2005 年 5 月 27 日
主催 パナマ共和国在日本大使館
場所 Academiade ArtesCulinarias
2005 年 5 月 31 日
主催 JETRO クラブ・ユニオン
2004年1月21日、北カルホルニア日本食レストラン協会の依頼で、すしの衛生セミナー
をさせて頂き大変好評であった。本年度はワシントンDCの働きかけで技術コンクールも加
わり、一層のイベントである。
昨年は、現地のすしの衛生に関し、危惧を感じた当銘会長と小峰副会長に、セミナーをワ
シントンDCで依頼され、訪問をさせて頂いた。最初は果たしてイベントが出来るのかと言
うくらいの関心が低かったが、1週間ほど前から大変な盛り上がりを見せ、イベント当日は
広い会場が全部埋め尽くされ、2階席にも立ち見も出ていたのを思い出す。そして翌年も
必ずイベントをしたいと、再度の訪米の依頼をされていた。本年度のイベントは当初4月3
0日の開催計画であったが、5月30日となった。本年度は全米での6回目の技術コンクー
ルとなる。それに伴い日本から全国すし連を代表して、山縣正専務理事、国際渉外部を
代表して嶋宮勤委員長。昨年に引き続き、衛生セミナーの講師に風戸正義副委員長、吉
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田健作副委員長、松田春喜副委員長が参加。ワシントンDCからは、安武会長、瀬川組
合長近藤さんが参加。
現地サンフランシスコでは、技術コンクールの参加者が思うように集まらず、大変苦慮して
いる様子を伺っている。
平成17年5月18日(水)
成田空港にて吉田、松田、風戸の3人
はANAのVカウンターにて搭乗手続
きを済ませ、ラウンジで出国まで待機。
海外用携帯の設定を済ませながら打
ち合わせをする。ラウンジを出て、出
国手続きの場所からもっとも遠いA63
搭乗口に向かうが、吉田さんの手荷物
が大変重く、カートに荷物を乗せて歩
く様は、老人が歩行機を頼りにカート
を押し、後に続く松田さんは、足のな
い動物のようで面白い。自分だけがジーンズの似
合う若者のようで心苦しい。定刻の時間に搭乗を
待ことしばし。しばらくすると機内の座席整備と言う
事で、30分ほど遅れて搭乗となった。機内に乗り
込むと窓に滴が流れ、望む路面は濡れていた。ボ
ーイング777は離陸すると3時間ほどで闇の中を
飛行。日本時間の23時過ぎに、左の雲海の果て
が赤くなり始めて来た。後3時間ほどでサンフラン
シスコだ。隣で寝ていた吉田さんが目を覚まし2人
で天ぷらうどんを注文する。到着は現地時間 10 時
10 分であるが、到着まで1時間位の所で、機内アナウンスが流れ、現地の気温は 17 度、
小雨が降っていると言う。これから暖かいと言うか暑い所に行くのだが、やはりジャケットを
持って来て良かった。昨年温度変化に体が追い
つかず、体調を崩した想いが頭を過る。それから
10 分程したであろうか、再度機内アナウンスが流
れ、機長が空港到着は現地時間 11 時頃と伝え
た。サンフランシスコの空港は横風が強く、使え
る滑走路が 1 本だけとなり、着陸待ちで大変混雑
していると言う。飛行機は無駄な旋回をして時間
調整をしている。定刻よりも 1 時間遅れの現地時
間 11 時過ぎに着陸。入国検査では黒人のハー
フが、私のお母さんは千葉の柏市生まれですと、大変流暢な日本語で対応してくれて助
かった。只、手荷物検査場で再度検査を受けたのは、観光客としては荷物が多かったか
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らであろう。関所を通り吉田さんは、ロス行きの為に乗り継ぎのゲートに向かった。松田さ
んと私は吉田さんの荷物もカートに乗せてロビーに向かう。ロビーでは日本食レストラン協
会副会長の小峰さんとCCA(California Culinary Academy)の講師のブレンダさんが手
を振って出迎えてくれた。ようやく心地良い外気
に触れてアメリカを感じた。やはり外は日差しが
眩しい。車は南サンフランシスコを抜け 30 分ほど
でサンフランシスコのダウンタウンに入った。日本
街には 10 分ほどで、ダウンタウンを抜けて到着。
見慣れた昨年宿泊のMiyako Innにチェックイ
ン。夕方の 19 時に食事に行く約束をして部屋に
入り、シャワーをして体を休めることにした。寝不
足で眠たいのに、横になってもなかなか寝付け
ない。うとうとを何回も続けている内に、約束の 21
時になり、小峰さんがホテルに迎えに来た。サンフランシスコでも1・2を争う「アクア」と言う、
金融街のレストランでディナーである。奥行きのあるレストランで、小峰さんブレンダさんと
4 人で食事だ。お客様も私のようにラベル?の高い人が一杯で、空席がまったくなかった。
料理はシーフードで、とても繊細に調理してあり素晴らしかった。アメリカの料理は量的に
多く出て来ることを予測していたが、日本の懐石のように少しずつ出てきた。最近はアメリ
カのフレンチも様変わりをして来ている。
5 月 19 日(木)
朝日本街を歩く。2 つのブロックを中央の公園を
挟んで細長い建物の中に、日本の商店が入って
いる。松田さんと 2 人で、コーヒーショップで朝食
をとる。20 ドルを会計の時手渡すとしばらく天井
に掲げて透かしを見ている。松田さんの顔が窃
盗団に見えたのだろう。午前中は予定がないの
で、ゆっくりとしてホテルに戻ると、名畑さんがロ
ビーにて待ち受けていた。それから新聞社 2 件と
雑誌社などを廻り、名物のケーブルカーで観光。落ちそうな客席で、スプリングの効かな
い振動を楽しみながら、昨夜食事をした金融
街にケーブルカーは到着した。再び日本街
に戻りいつもお世話になっている「月間もん」
の木村社長に合いお話をする。日本街の大
西会長と合い、22 日急遽日本街のイベントに
参加をする事となった。時間の経つのは早い
もので、すでに 19 時過ぎになっていた。金融
街に続くフェリーターミナルの近くの超有名店
を数件視察し、フェリーターミナルの素晴らし
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いレストランを見学。ベトナムからボートピープルで来た一人の青年が、今では超繁盛店
を作り、200 人の客席のレストランは客待ちで溢れていた。オーナーのCharles Phan氏
は我々を快く歓迎し、厨房まで案内してくれた。帰ろうとすると引き止め、飲み物と生春巻
きを出して、ウエイティングの席でご馳走してくれた。世の中にはこのような成功者がいるも
のだと感心した。その後アジアンレストランで食事をしてホテルに帰る。
5 月 20 日(金)
カリナリーアカデミーに
て授業を行う。教室に
入る前に新設の、姉妹
校を視察。とてつもない
大きな規模で、生徒は
1400 人入るとの事。本
校と分校で 3000 人の
生徒である。授業料が
年間6万ドルなので、
学校と言うよりも企業で
ある。教室のセミナー
に遅れて行ったので、
生徒は首を長くして待
っていた。教室で教え
ると生徒は次第に目を
輝かせ、食い入るように見ている。魚をおろすのを見ることの少ない生徒は、包丁の切れ
味の凄さに驚いていた。
いつものパホーマンスで、胡瓜を女の子の腕の上に乗せて、包丁で一刀両断にすると、
彼女はゴメンナサイと片言の日本語で脅えていた。授業も終わり打ち合わせをしていると、
ロスに行った吉田さんと、嶋宮さんと山縣さん、ワシントンDCの3人が学校に合流。明日
の打ち合わせをした。夕方小峰さんと当銘さんの店を見学、そ
の後ベイエリアのイタリアンで夕食をした。店の向かいは開け
た湾で、遥か向こうにベイブリッジが望めた。帰りにゴールデン
ゲートブリッジの脇の高台で、橋を望みながら夜景を楽しん
だ。
5月22日(土) メインイベントだ。8時にホテルを出て、学校に
向かう。すでに学校では準備も済み、協賛商社のブースに商
社が出展の準備に追われていた。
第6回全米創作すしコンクールにエントリーする選手は、9時に集合し下準備を始めた。1
0時に競技は始まり、6人の選手はさまざまな作品にトライしている。米国では常にチャレ
ンジしている中国系のアンディは、ひときわ包丁の冴えを誰よりも見せていた。審査員は
米国人3人を含め8人で行われた。規定の時間で全ての選手が作品を仕上げ、審査員の
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質問に答えた。米国での創作すし
であるので、作品は様々である。
優勝は作品のバランスと、一つの
魚で色々な味が楽しめるすしを作
った、すし蘭の日下部光紀氏であ
った。11時30分から選手の表彰
や挨拶などが行われ、メインイベ
ントのセミナーに入ったのは1時
間後であった。あまりにも前置きが
長かったためか、肝心のセミナー
で会場の参加者の関心を引くの
が大変であった。10分に1回は笑
いを入れ、胡瓜を腕の上に乗せて、
包丁で一刀両断に切るパホーマンスも入
れて、会場の関心を引きつけた。本来で
あれば時間をとって詳しいセミナーをする
のであるが、会場の様子を見て多少短め
に切り上げた。主催は北加日本食レストラ
ン協会であるが、各方面への配慮もあり、
非常に主催者は辛い運営を強いられた
のではないかと言う印象を受けた。
5 月 22 日(日)
山縣さん親子と、嶋宮さんを朝ホテルで
第 6 回創作すし技術コンクールの評価説明をす
る 嶋宮国際渉外部長
見送る。我々より先に帰国だ。
今日は急遽決まった、日本街の「すし
セミナー」のイベントだ。外にはアジア
ンデーの様に、アジア各国のテントが、
歩行者天国のように道路の両脇を埋め
て、1 キロほどの賑わいを見せている。
道路に沿った日本街のモールの中に、
空いた店舗スペースがありそこがイベ
ント会場である。イベント開始は 13 時で
あるが、11 時を過ぎたところで、日本食
の飲食店や、建物内の日本人店舗に
挨拶に行った。皆さん大変有効的にエールを送ってくれた。12 時過ぎに会場に入ると、
気の早い年配のご婦人が 2 時間も待っているんだから、良いのよと席に着いている。開始
の30分前には50人ほどの人が席を埋めて、開始を楽しみに世間話をしている。開始の1
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3時には立ち見客で
会場は埋まった。日
本街大西会長の挨拶
の後セミナーは始ま
った。すしセミナーと
言っても、1時間程で
すしの話と最後に2
貫ほどのすしのプレ
ゼントである。簡単な
すしの歴史と衛生の
話と、作り方を楽しく
パホーマンスも交え
てのセミナーである。
会場の前席はお年寄
りのご婦人達が、楽し
そうに我々の話を聴
いている。会場の立
ち見は若い人達が、対象的に真剣に話を聴いている。中にはすし職人をしている現地の
若者も見学をしている。最後に握りの講習をして、3人が握ると会場が大変盛り上がって、
皆さんの目は釘付けとなった。すしのサービスをすると、まさかすしを食べれるなんてと喜
んでいる。1時間の楽しいセミナーが終了し街に出ると、先ほどの年配の人達に声をかけ
て頂き、大変良い雰囲気である。私達3人は日本街から感謝状を頂きホテルに帰った。年
配の人達はこの土地に入り、大変ご苦労をされたと聞いている。その人達が会場で喜ん
でくれたあの笑顔が忘れられない。
5月23日(月) アメリカに来て今まで、
忙しく仕事に追われてばかりいたの
で、たまには観光と言うことで、世界
遺産のヨセミテ国立公園の観光をす
ることになった。朝9時にホテルを出
親不孝なクライマー
て3時間ほど走ると、マリポサと言う公園入り口の最
後の街に着いた。気温は 35 度くらいで大変暑く、西
部劇に出てくるような街である。昼食にピザをとり 1 時間ほど走ると、川の流れが急流にな
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り豪音を立てている。谷間に森林が続いていたが、しばらくらくすると木々の間から壮大な
一枚岩の壁が姿を表わした。その見上げる一枚岩の頭上から、雪解け水が滝となって落
ちて来ている。ガイドさんにあの岩を登っている人がいるはずですから、探して見て下さい
と言われ、目を凝らすと蟻のように、小さな黒い粒が少し動いているように見えた。デジカメ
を800倍の望遠にして覗くと、いたいた人間だ。結構荷物を持って壁にへばり付いている。
この壁を2日間かけてクライマーは登るそうだ。途中で寝る道具も持ってのクライマーであ
る。サルでも登れない岩を登るなんて凄い。でも親不幸だと思う、その点自分は高所恐怖
症の気があるので親孝行である。歴代大統領が宿泊すると言うホテルを見学し、ロスから
の入り口となる街に向かった。途中ハーフドームも望める景勝地で写真を撮り2000メート
ル程の高い山道を車は走り、1時間ほどでオーカストの街に着いた。ここが今日の宿泊地
である。シーズン中は、ヨセミテの中は前年からの予約で一杯である。山間の街であるが
公園の入り口としてレストランやホテル、スーパーマーケットが結構あってちょっとした街で
ある。中に日本食レストランも3件ほどあ
った。
サンフランシスコと比べると暑い街であ
る。しかし山間部なので朝夕は冷える。
5月24日(火)
再びヨセミテ国立公園に戻る、途中レッ
ドウッドの森を見学。樹齢3000年近い
高さ100メートルのセコイア杉が、深い
森の中に息づいている様は、太古の自
然に触れた感じがする。ここは山火事も
多く発生するらしく、レッドウッドの肌が
焼けているのも多く見られた。倒木のレッドウッドも多く見うけられ、自然のスケールの大き
さに驚くばかりだ。レッドウッドの樹皮は害虫
も寄せつけず、消火剤の原料にもなる成分で
今まで生き延びてきたらしい。再びヨセミテ
渓谷に戻り、昨日の岩肌のクライマーを探
すと、すでに登頂したらしく探してもいなかった。しかし昨日の岩肌の下に挑戦者がいるの
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が望めた。サンフランシスコまで4時間の走行だが、途中はまたオレンジやブドウ畑が延々
と続いた。日差しが本当にまぶしい。サンフランシスコに戻り松田さんの息子を空港にお
ろし、日本街に帰る。レストランを経営する田中さんのお招きで名畑さんとイズミヤさんに
行きご馳走になる。
5月25日(水)名畑さんと、新聞社を訪問し我々の活動を掲載している新聞を頂く。9時半
から北米毎日放送のスタジオでラジオ録音。司会はカリナリー・アカデミーのセミナーで、
通訳をしていただいた中川淳子さんだ。30分ほどで録音も済ませホテルに帰って、小峰
さんのホームコースのゴルフコースで、ゴルフにチ
ャレンジ。3人ともスコアーは人に言えないもので
あったが、小峰さんはさすが素晴らしいスコアーで
ある。夕刻当銘さんのお店に寄ってご馳走になり、
次の目的地パナマへと向かう。サンフランシスコか
らロサンゼルスまでは1時間の飛行だが死んだよう
に寝て
いた。ロ
スから
今度は
パナマ行きのターミナルまで疲れた体を運ぶの
は大変苦しかった。深夜2時パナマ行きのコパ
航空のB737は飛び立った。飛行時間6時間
後、パナマの空港に我々は降り立った。携帯の
電源を入れたが圏外となっている。やはり役に
立たない。飛行機からゲートに入ると、日本大
使館の下荒地修二大使と増田さん奥村さんが迎
えに来て手を振ってくれた。大使にねぎらいの言
葉を頂き、その上の荷物を持って頂いた。入国
検査も大使とお二人が付きっきりで、スムースに
荷物検査もフリーパスである。2台の車で大使公
邸のあるパナマシティーに向かう。30分ほどで
汗ばんだ街に入り、高級住宅街の奥の海辺に日
本大使公邸はあった。大使公邸に各自3部屋を
頂きシャワーをする。2階のテラスからは庭先の
海が手に取るように近い。あいにく曇った空は湿
度80%以上と言うので、海の色も済みきった色
ではない。それに加える事、この街は下水施設がまったく整っていないらしく、川が下水
代りとなって、汚水が直接海に垂れ流しになっているので、外洋から入り込んだ湾はひど
い臭気が鼻を突く。大使からメールで聞かされていたが、日本では考えられない事である。
中米と言うから海辺にはナイスバディの女性が一杯を夢見ていたのに、これは最初から当
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てが外れた。松田さんは唯一水着を持って来たので、汚水の湾で泳ぐ事を進めたが、最
後まで挑戦することは無かった。強情な人である。
昼食をして、現地の食材状況を知る上で、魚市場見学と大型スーパーを3件ほど回り、中
国人経営の食材店を下見。その後最後の、会員制クラブのイベント会場を下見。クラブ・
ユニオンと言う高級会員制クラブで、大使も入れない閉鎖的な場所と言う。JETROが主
催するので、現地の加藤辰也所長も、大使館員と一緒に捻蜜に下見と打ち合わせをする。
その後翌日のイベント会場の料理学校に打ち合わせに行き、公邸に帰ったのは19時を
過ぎていた。夕食はパナマ運河を作った時
早朝の野外魚市場
の、浚渫作業の残土で繋いだ島でパナマ料
理を頂く。直前にスコールがあったので店の
オープンテラスは濡れていたが、店内の冷房
があまりにも強かったので、外で多少蒸し暑
い夜のウエルカムディナーを頂いた。
5月27日(金)
朝4時起きで、魚市場に向かう。市場は日本
が7億円の費用を投じて作った物で、建物に
入れない人達が外でも魚を箱に乗せ
て売っている。かっての日本の市場の
ように活気があり、人がぶつかり合うか
のように忙しく動いている。しかし臭い。
魚を氷で冷やしていない。暑いのに水
だけ掛けて売っている。鮮度を調べる
のに手に取って見たが、腹は柔らかく
死後硬直している魚などは全くと言っ
て無い。側の海の臭さだけではなさそ
うだ。それでも中から青鯛のような魚と
島アジ、レッドスナッパーを買う。早々氷を
入れたクーラーに収め市場を後にした。公
邸に帰って部屋に入るとなんだか臭い。着
ている服まで臭いが染み付いているようだ。
又シャワーをして服を洗う。公邸のベランダ
に洗濯物を紐で干す。公邸始まっての珍
事であろう。
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朝食を済ませて、魚の下処理をしたが不
安の残る今日のセミナーである。レッドスナッパーは鮮度が悪かったので、急遽太巻き用
のソボロに変更。とにかく綿密に魚を処理して、料理学校に運ぶ準備をする。
セミナーの対象は、現地で活躍している30名ほどの有名調理師なので専門家相手なの
で仕事もやりやすい。但し、日本の料理の原点は食材の旨味を味わう料理なので、季節
感の無い旨味と言うには程遠い鮮度落ちした魚を使うセミナーは辛いものがある。下荒地
大使も参加されて、15時からセミナーは始まった。流石現役の調理師だけに、真剣な視
線が注がれる。セミナーの説明は風戸が担当、実技は吉田と松田が流れに沿って行い、
阿吽の呼吸で進める。通訳は現地でお医者さんをしているMEGUMIさんで日系二世で
ある。この国は食品の輸入制限が厳しく、日本食は本当に難しい。しかし調達可能な現地
食材を使ってのセミナーを行った。プロ相手のセミナーなので、すしの原点の仕事を、現
地事情に合わせて披露し説明を付け加え
た。終わりにすしを握り参加者に振舞った。
セミナーが終わり参加者に感想を伺うと、
すしの形などは、理解していたつもりであ
ったが、調理の基本や衛生とその処理な
ど、考えてもいなかった事を学べて大変
参考になったと、この国でも有名なシェフ
が語っていた。
5月28日(土)
クーラーボックスに氷と塩水を入れ、今日
も朝5時に市場へと向かう。本日は現地の
奥様達へのすし教室だ。昨日と同じ魚を同じ場
所で買うが、今日はゴム手袋を持参して、汚物を
触るかのようだ。中でも比較的ましな物を選んで
早々に帰宅。1秒でもあの臭い所には居たくない
のが本音だ。昼の11時から奥様達の料理教室
が大使公邸で始まった。現地で日本食に興味の
ある、ご婦人20人ほどが集まり魚を捌いたり、真
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剣にこの国での魚の調理を学んだ。最後にちらし寿司を皆さんで作り試食を行った。ちら
し寿司の中に入れる魚は、醤油漬けにして殺菌と味付け効果をするなど、現地事情に合
わせた調理方法を披露した。参加者の半分は、親日化のパナマ人主婦で、関心の深さを
覗かせた。皆さんとても楽しそうであった。
夕刻日本の海上自衛隊の練習船が
寄港しているので、歓迎船上レセプ
ションに同行。同乗させていただい
た大使の車は、停泊している練習船
のタラップの所まで横付け、整列した自衛隊の敬
礼を受けて乗船した。船上は寄港地の政財界のV
IPや日本人の商社関係の駐在者などで、パーティ
ーは大変賑わっていた。護衛艦と練習船の 3 艘で世界を一周するのだそうだ。この船に
乗れる隊員はエリートか、運の良い人の様である。練習艦隊司令官の柴田雅裕氏に、帰
りがけに翌々日の大使公邸での、すしパーティーの魚が不足しているので少し分けてくれ
る様に御願いした。
5 月 29 日(日)
朝 9 時に公邸を出て、下荒地大使の案内でカリ
ブ海までドライブ。
15 分ほどで街を抜けると、熱帯特有の景色が
延々と続く。高速道路はまだ無く、簡易舗装のよ
うな路を車は疾走する。めぐる景色は、フィリピン
の田舎町を走っているようにも思える。暑い所特
アルフレッド・マルティス駐日大使
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有の景色である。1 時間ほどで大西洋側のコロンの町に着いた。水面はカリブ色である。
パナマシティーの汚染された海とは随分と違う。沖合いには大型船が停泊している。海岸
の公園から望むと、現地の若者が真剣な顔つきで釣りをしている。釣れたら分けてもらおう
と思ったが、釣れる様子も無い。この町は失業率が高いので治安が良くないらしい。帰り
がけ町の市場のような人混みの中を、車が進んだ時、吉田さんがカメラを車から出して写
していると、下荒地大使が控えるように諭した。
来た道を又帰り、パナマシティーに近づいてから運河に続く林道に入った。昼でも薄暗い、
熱帯雨林を車は走る。林を抜け途中高速道路の、工事途中の道に交差。高速道路の工
事が上手く進んでいないのは、アメリカ軍の演習場後を通過する為、不発弾がかなりの数
あるとの事。危険地帯である。
パナマの名所であるパナマ運河に到着。運河を一望する建物の中 3 階にレストランがあっ
た。太平洋側はミラフローレンス閘門
で、運河は 3 つの閘門で船を航行さ
せている。コロンブスは 1502 年にパナ
マに到来、その 8 年後にスペインが植
民地にしたと言う。1534 年にスペイン
王が、運河のために地形測量を指示
したと言われているが、それから 3 世
紀後にフランスが工事を行い失敗。
1914 年アメリカが運河を開通させたと
言う。運河の閘門の幅は、想像していた幅と
随分違い短く思えた。あの大型船がこの中に
納まるのかと不思議に思えた。運河の長さは
80 キロである。
レストランで昼食をしているが船が見え
ない。大使に教えていただいたが、船は午
前中この閘門を太平洋側から入り、午後は
大西洋側から入ってくると言う。昼過ぎか
らは反対側からこの閘門に来ると言う。14
時過ぎに我々がレストランを後にしよう
とする、ととてつもなく大きな貨物船が、
遥か向こうに山を背負って見えて来た。
ミラフローレンスを後にして、パナマシテ
ィーが一望できる小高い山に車は向かう。
山の頂上は展望台になっており。先ほどの
運河の閘門に大型貨物船が入っていた。反
パナマ第一副首相
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対側に向かうとパナマシティーと湾が一望出来絶景である。遥か向こうは日本であ
る。大使公邸に戻り今夜の招待先へのお土産の寿司を作る。
夕方料理学校の先生の招待先へ向かった。場所は空港に向かった場所で以前は湿地
帯だった所で、新しい高級住宅地だと言う。さすが近づくと余裕のある敷地に大き
な豪邸が幾つも望めた。入り口でガードマンの許可を受け住宅地に入った。目的の
家はかなりの豪邸で、日本円で 3 億はするであろうと思う屋敷だ。プールもあり違
う世界の暮らしである。この国の事情を考えるとその差に困惑する。招待客には現
日本駐在のアルフレッド・マルティスパナマ大使も顔を見せ楽しい一時を過ごした。
料理はたいしたことは無かったが、厨房はレストランより豪華であった。食前のカ
クテルがとても美味しかった。それよりも大使館の増田さんの血は、蚊がとても美
味しいと言って随分と吸っていた。
5 月 30 日(月)
今夜は大使公邸のパーティーである。朝 5 時に市場に行き魚を仕入れる。今日は魚
屋が人の足元を見て、法外な値段を吹っかけて来る。結局そこでは買った品物を返
して買わなかった。違う良心的な所で注文の品を買い公邸に引き返す。9 時過ぎか
ら、今夜の準備に入る。公邸料理人の越智さんは一人で忙しそうに料理を作る。我々
は 3 人であるが、勝手の違う魚と格闘である。夕方 7 時頃招待客が顔を揃えパーテ
ィーは始まった。パナマの大統領は年金問題でどうしても来れなかったが、第一副
首相と第二副首相を始め、政界財
界のVIPが顔を揃えた。大使も
これだけの人が揃うのは珍しいと
大変喜んでおられた。海上自衛隊
も 10 人ほどお客様で見えられた
が、日本人はほんの一握りで、後
は現地のVIPばかりであった。
にぎりすしは人気であっという間
に無くなり巻き物も高評であった。
但しチラシも大皿に一杯作ってあ
ったので、2 皿ほど余ってしまっ
た。
5 月 31 日(火)
今日はクラブ・ユニオンの「すしナ
イト」である。朝から準備に入るが
昼食に大使が館員を連れて、公邸で
昨夜の残りのチラシを食べたいと言
う。冷蔵庫に入れてあった昨日のチ
ラシは、ご飯が硬くそのままでは旨
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く無い。そこで関西寿司
の仕事の蒸し寿司を思い
出し、作る事になった。
冬場に見習いの頃良く準
備した寿司である。蒸し
器はあるが、専用の蒸篭
が無い為、銀ホイルで昨
日のチラシを等分に分け
て包んだ。中身は椎茸・
マグロのヅケ・シマアジ
の醤油ヅケなどが入って
いる。仕上げに錦糸卵と
絹サヤで彩を付けた。ま
さか暑いパナマで蒸し寿
司を作るとは想像もして
いなかった。16 時過ぎ準
備も整い、迎えの車でク
ラブ・ユニオンに向かう。
会場の下の調理場を借り
て、巻き物を切って盛り
付ける。最初は怪訝な顔
をしていた調理師達であ
ったが、吉田さんが調理
師の腕の上に胡瓜を載せ
て切るとびっくり。やら
れた奴は何度も自分の腕
を見ていた。私が料理長
の毛深い腕に、ソープを
塗って小出刃で毛を剃ると、皆目を丸くしていた。そこで一気に打ち解け、調理場
は和やかになった。会場はかなりの広さで、丸テーブルが 20 ほどあり、後ろにビ
ュッフェの料理が置かれるテーブルがあり、両脇には大型のプラズマテレビが映像
を映し出すようになっていた。ステージは一段高く、調理台はテ−ブルクロスで包
まれ、その両脇には大型スクリーンが置かれてあった。随分と気合の入ったイベン
トである。
参加者は 150 人限定で、JETROとクラブ・ユニオンの主催である。
19 時開演の予定であったが、のんびりした土地なので 30 分ほどずれ込んで開演。
今日は遊び感覚で行こうと、暗黙の確認をしてイベントスタート。調理学校とは違
うので楽しい寿司イベントを進行した。1 週間前のサンフランシスコの日本街での
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イベントと同じ感覚だ。
海外で大小を含めると 20
回以上の活動なので、そ
の場の雰囲気で進行を変
える技も身に付いた。そ
してどの様にしたら受け
るかも 3 人は阿吽の呼吸
を知った。開演に先立ち
講師紹介で、寝たきり老
人とぼけ編を、吉田さん
が見せて受けを狙った。
終始和やかで笑いのある
イベントに、関係者の皆
さんからも喜んで頂いた。
最後に会場の参加者全員
で手打ちを行い、心を通わせたイベントであった。終了後JETROの和田さんに、
労いの食事をご馳走になり長い一日と、パナマでの仕事に終止符を打った。
6 月 1 日(水)
朝ゆっくりと起きた、大使館の奥村さんが、料理学校で取材の、朝刊を持って来て
くれた。新聞に目を通しながら、パナマ運河のミラフローレンスに向かう。新聞の
一紙面全部が我々を寿司大使として紹介している。20 分ほどで到着すると、調度大
きな貨物船が閘門の中で、カリブ海側に向かっていた。船の両脇を 4 両のジーゼル
車が引き、自走で船は進行して行く。船の幅すれすれがなんとも凄い。これと言っ
たお土産を
買わなかっ
たのでお土
産屋さんに
行き、公邸に
戻り帰国の
準備をする。
昼に帰って
来た下荒地
大使より、3
名が感謝状
を頂き名残
りを惜しん
だ。
昼食は越智
さんのカレ
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ーライスがたまらなく美味しかった。
一週間の短い滞在であったが、色々な貴重な経験をさせて頂いた。
夕方増田さんと奥村さんに送られ、空港に向かう。時を同じくして大使も合流。来
た時と同じ様に、搭乗口まで付き添って頂き、名残おしいパナマを後にした。
耳慣れないコパ航空で 7 時間のフライトで深夜の 1 時LAに到着。吉田さんの息子
さんの出迎えを受け、夜食をラーメン屋さんでする。その後吉田さんの息子さんの
「すし健」
に寄り深夜の 3 時に再びLAの空港に送られ朝 7 時のフライトを待った。
6 月 2 日(木)
LAを定刻に発ち、サンフランシスコで 4 時間の乗り継ぎ時間を過ごし、ANA6
便で日本に向かう。今まで窮屈な座席であったが、今度は来た時と同じビジネスク
ラスなので、苦しい思いは無い。しかし座ると床に足の付かない松田さんは、尻が
痛いとしきりに嘆いていた。
今回も多くの人に支えられ、教えられ学ばせていただいた海外出張でした。
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人と接し、人と和し、人と喜し、日々を過させて頂いた事に深く感謝します
風戸正義
風戸様、吉田様、松田様
日本までの長い道中大変お疲れ様でございました。吉田様から皆様が無事に日本に到着した旨メールにてご連絡
いただきました。
皆様のパナマ滞在中は、色々とご迷惑をおかけし、また、食材など問題も多かったにもかかわらず、素晴らしい(かつ
とても面白い)セミナーを開催してくださってどうもありがとうございました。お三方の臨機応変かつ柔軟なご対応には
頭が下がる思いでした。
とくにクラブ・ユニオンでの「寿司ナイト」の反響は大きく、風戸さんのお寿司に関するお話の内容の面白さと寿司の
美味しさに対する声のほかに、皆様のひょうきんかつ絶妙なかけあい漫才(?)に対する評判をあちこちで耳に致しま
す。日本人はもっと真面目一辺倒かと思っていた・・・という声をあちらこちらで聞きます。
皆様に改めて心より御礼申し上げます。今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
在パナマ大使館 増田智恵子拝
風戸正義さま
このたびは、本当にありがとうございました。大変な反響で、とにかく大成功です。もう一度やってほしいという声ばか
り聞いています。
また、すしセミナー報告書もありがとうございました。いつもながら楽しい筆致で、サンフランシスコ、当地での様子が
活写されており、楽しく読ませていただきました。
パナマより
下荒地 修二
風戸正義様
ジェトロ・パナマ事務所の加藤です。
当地でのイベント開催で大変お世話になりまして、どうもありがとうございました。劣悪な(?)環境にもかかわ
らず最大限の努力を頂き、さすがプロの皆さんであると感服した次第です。
また、報告書の方も楽しく読ませて頂きました。今後、各地のジェトロ事務所もお世話になることがあろうかと
思いますので、引続きよろしくお願い申し上げます。
加藤辰也
風戸さん、吉田さん、松田さんへ:
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在パナマ大使館派遣員の奥村です。
その後いかがお過ごしでしょうか?
もう少し早くメールを出したかったのですがこのように遅くなってしまい、恐縮です。
本当にその節はありがとうございました。そしてお疲れ様でした。
日本でのお仕事もお忙しいなか、サンフランシスコに続いてパナマくんだりまで(?)来て頂き一同大変感謝しておりま
す。
お三方の見事なチームワークと技、そしてすしネタだけでなく、笑いのネタも豊富なデモンストレーションは見る者を惹
きつけるものがあります。皆様の華麗な「ショー」とも呼べるような舞台にパナマの人達の目が釘付けになっているのを
見て、このようなすばらしい文化を持つ日本人の一人として何だか誇らしい気持ちにさえなってしまいました。
お寿司に関する知識も色々と教授して頂いて、勉強になりました。
何より、皆様が今まで研鑽なさってきた「匠の技」を目の前で見ることができたのは幸運というよりほかありません。
実際、見ることができただけでなく、つまみ食いやら試食やらで舌で味わうこともでき非常に幸せでした!パナマであ
のようにおいしいお寿司が食べられるなんて思ってもみませんでした。本当にありがとうございました。(そしてごちそうさ
までした。)目で舌で楽しんで、満足・満腹・感激でした!!
そして、パフォーマンスもさることながら、皆様大変バイタリティーがおありで驚いてしまいました。さすがに何カ国も回っ
ているだけあって、皆様外国慣れしていらっしゃいますね。そして何よりお三方の仲が良いこと!これからも無敵の3
人組で、世界中に正真正銘の日本の「寿司」を紹介・普及していって下さればと思っております。何しろ、皆様は
「寿司大使」ですからね。これからも様々な国でまた新たな挑戦があるかと思いますが、頑張って下さい!応援して
おります。
最後になりますが、私の個人的なデジカメで撮った写真をヤフーのアルバムで見ることができますので、こちらは別メー
ルでお送りします。ご覧下さい。
それでは、皆様の益々のご活躍を祈念しております!
在パナマ大使館
派遣員 奥村真理