東京 文 ・生書院 北川清一著・奥泉栄三郎編集 ﹃尖端を行く 社 : 会改革者信念の闘志 松松松松松永永永永永文文文文文雄雄雄雄雄牧牧牧牧牧師師師師師小小小小小傳傳傳傳傳﹄﹄﹄﹄﹄ 第一回 1(︶ 3頁 4頁 5頁 6頁 1頁 1頁 田園生活即トレンチ生活 前号6頁 開祖族等の跳梁 前号6頁 前号7頁 地主延之助の援助 胃癌︱入院︱召天︱噫! 前号8頁 五 遺族の現況及故人の逸事、遺訓 前号8頁 前号9頁 四人の遺児頭角を現わす 深夜のうめき声 前号9頁 聖化の臨終 前号10頁 遺体解剖︱信念の偉大さ 前号11頁 淡として水のごとし 前号11頁 12頁 社会的感化の発露 個人的感化の典型 形見の遺髪 一粒の麦 付録 世界大戦と義勇兵 加奈陀同胞発展大鑑より 抜粋記録文 遠藤菊男 ﹃在北米日本人の記録﹄ 第一期刊行ご案内 ﹃在北米日本人の記録﹄ 第二期刊行ご案内 ﹃私の回想記﹄ 目 次 一 先覚者追悼記念日に当たり 前々号16頁 二 晩香坡教会赴任時代 前々号18頁 三 混乱せる同胞社会 前々号19頁 邦字新聞の相剋 前々号19頁 日本人会の越権と専横 前々号20頁 前号1頁 新聞広告撤回運動 加奈陀日本人青年会創立 前号1頁 同胞義勇兵暴動事件 前号2頁 前号3頁 四 紐育修道会より臨終まで 新旧日会合同して平和来復 前号3頁 紐育教壇刷新と文章伝道 前号4頁 前号4頁 エリス島移民局抑留 悲劇︱破鏡︱別離 前号4頁 The Bulletin of the Publication Project for Japanese in North America (JINA) [奥泉栄三郎 ]: Publisher/ No.‚7 (March, 2007) Editor/Okuizumi Eizaburo[ 奥泉栄三郎] ] Bunsei Shoin Tokyo,Japan [小沼良成 小沼良成] Yoshishige Onuma[ 本誌は弊社刊行の「初期在北米日本人の記録」第2期 第2期の刊行に際して、可能 な限り配本に併せて発行しようとするものであります。 下記にご意見ご 感想をいただけますれば、本誌に掲載いたします 叉原稿をいただけます れば、本誌に掲載いたします。掲載の採否などは弊社にお任せください。 〒 113-0033 東京都文京区本郷6−14−7電話:81+(0)3-3811-1683 Fax:81+(0)3-3811-0296 e-mail: [email protected] 北川清一著・奥泉栄三郎編集 ﹃尖端を行く 社 : 会改革者信念の闘志 松松松松松永永永永永文文文文文雄雄雄雄雄牧牧牧牧牧師師師師師小小小小小傳傳傳傳傳﹄﹄﹄﹄﹄ 第一回 社会的感化の発露 五 遺族の現況及故人の逸事遺訓 する社会を善導したなら、或は隔世的な新社会、理想 的な神の国が建設され、血と涙の苦難犠牲によって実 を結んだ尊い供物を、 神の祭壇に捧げ得たであろう に、神の摂理と、聖旨は彼をして紐育に遣わし給うた のであった。 個人的感化の典型 加奈陀トロント市在住の退役救世軍大尉山田昌則 晩香坡伝道三ヵ年、七十五名の受洗者が出来た。そ の中には教会とは最も縁遠い正反対の実業家の多くい ︵マサノリ︶氏を、個人的感化の典型として紹介した た事は注目すべき点で、その外、来たるべき社会を指 い。彼は晩香坡社会改革運動当時の革新同盟会︵後日 導すべき学生や、青年などであった。一方牧師の崇高 英領北米日本人会となり、更に従来の加奈陀日本人会 なる人格と精神に、衷心より尊敬を払う求道的人物も に合流した︶の幹事となって尽瘁せし人、受洗者七十 多く出来た。こうして精神的感化の浸透が社会の表面 五名組の一人であったが、松永牧師より受けし感化は に、日常生活の実体に如何なる形式で現れたかと言え 実に徹底的であった。遂に恩師昇天後七年目即ち一九 ば、師の在任末期頃は、同胞社会は完全に安定し、感 二九年二月、大決心のもとに実業界を去り、社会的情 謝の悦び、平和公明の一色で塗りつぶされていた。故 実を一切排し、一家族七人挙って、加奈陀救世軍晩香 に浮田領事官邸に於ける集会、日本人会事務所、商業 坡第一小隊に入隊した。 組合、青年会等、凡ゆる集会で祈祷が捧げられ、聖書 彼は鹿児島の産、堅忍不抜の人、城南健児型とも 朗読あり、讃美歌が高唱され、恰かも教会の延長の如 き感を与えた事は、実に驚くべき現象といえよう。だ いうべきか、加うるに松永精神と共に、烈々たる信念 が、強いて愚痴を言うならばもし牧師があと二三年頑 を以って、社会悪と闘いつゝ救済事業に従事する事十 張って、この深刻な社会的覚醒の声に呼応し、その真 二ヵ年、太平洋戦争勃発と同時に、合衆国の太平洋沿 剣な集団的精神の転換期に直面して、立ち上がらんと 岸同胞が総立ち退きを強制された如く、カナダ同胞も △ 次男 山田藤美君︵三五︶BC大学文科及び商 科各卒︵文学士・商学士︶・トロント市のレビ・オー トパート会社総支配人 一九五五年現在に於ける彼等の経歴を語れば・・・ △ 長男 山田長政君︵三九︶晩市ブリタニヤ・ハ イスクール卒・自動車技師・戦時中より現在までトロ ント市の一大グラージ会社の中核技師 ロッキー山脈を越えて、奥深き敵国人収容キャンプへ た。例えば豚骨三斤十仙。鮮鮭の頭一個五仙、B或は 押込められるまで孤軍奮闘血と涙の伝道事業を続け C級の小鶏卵一打十八仙、ベーコン・エンド︵切屑︶ た。彼は言葉よりも実行、説教よりも実行主義を以っ 三斤五仙、二三日の売残りブレッド三個十仙、野菜ス て伝道し、同胞の日常生活と取り組み、使命感に燃え ピニチの廃物一箱三十五仙等々をシコタマ背負いつゝ 凱歌をあげて帰宅、 飢餓にあえぐ一同を蘇生せしめ た熱血の士であった。 た。 さて五人の愛児の教育はどうしたか? 彼には妻 毎年夏季伝道旅行をなし、 BC州一帯の製材所及 びキャナリ会社、漁村各地のキャンプ等を巡回した。 子を顧みる余暇さえなかったのであるが、その方は全 そこで最初に着手した事は何であったか。 何人も嫌 く神に委ねて﹁神様、私は同胞達のために一日中働き い、顧みる者なき共同便所の掃除であった。洗いスク ますから子供の教育は全てお任せしますから、どうぞ ラップして清潔にする事であった。然る後彼等の訴え よろしくお願いします﹂と祈るのであった。それで神 に答え、求むる者には与え、悲ある人を慰め、道を説 は彼等に明晰にして、聡明な頭脳と善良な魂を与えて 育英されたと私は信ずる。その証拠に現在彼等が受け き、魂に光明と希望を満たすのであった。 た教養と、職場から見て、偏に神の業として讃美せざ るを得ないからである。 彼の家には常に食客や、居候が押しかけて居った。 加えるに腕白盛りの、食欲旺盛な餓鬼坊が五人も居っ た。そうして月給は僅か八十弗だったが、しかも満足 に支給された事は一回もなく、一年平均して月収五十 弗くらいであったとは、伝道者ならでは堪えられぬ生 活、人の知らない神のみ見給う愛の行者生活である。 そこで一つの妙案を練り出した。五十弗の月給を以っ て七人の家族と、食客達を栄養失調から救うための方 法はこうであった。彼は場末のマーケットへ閉店まぎ わに駈けつけ、 最も安く栄養価あるものを漁り廻っ △ 三男 幼少にして夭折 △ 四男 愛世サムエル君︵三〇︶オンタリオ州ロ ンドン市ウエスターン・オンタリオ大学生理学科卒・ 博士︵理学︶・ストックホルム大学留学・中国系の夫 人も生理学専攻の哲学博士 △ 五男 肯徒フランシス君︵二七︶トロント大学 工科卒・会社勤務・ブラジル在住 △ 六男 常勝ジョシュア君︵二五︶トロント大学 文理科卒・秀才の誉れ・トロント市マルトン空港内の 航空機製作会社研究課勤務 ﹁われむかし年若くして今老いたれど義しきの者の すてられ、 或はその裔の糧こひありくを見しことな し﹂ ︵詩篇三七・二五節︶ 形見の遺髪 松永牧師の葬送の悲しい日が終ると、 すぐに後始 末にとりかゝった。農園の処分、遺児達の身のふり方 等につき大掘篤牧師と協議を重ねた結果、当時十七才 の長男巌君はメーン州のベーチ・カレジに入学十四才 の信君は隣村バウンドグループ・ハイスクールへ、大 堀牧師宅より通学し、他の十一才の順君、八才の美恵 子は大阪の母の許へ帰ることになった。三人の兄弟に 比べて、一番可哀想な運命児は美恵子であった。二才 の頃に晩香坡から母につれられて、 順君と共に帰朝 し、五年の後、サンマービルの孤村に父を訪ね、一年 余の間こそ彼の生涯最も楽しい想出の郷里で、一家団 樂のホームライフを心から楽しんだのであるが、父の 入院と同時に高見ドクター家庭の一人となった。そし て温い同情と愛に包まれた四ヶ月の生活を送り、遂に 父の死別となり、再び日本へ帰ることになった。だが 如何なる訳かは知らぬが、美恵子だけが横浜のオリエ ンタル・ホーム生活を余儀なくされ、次に叔母さんの ガンドレット恒子女子邸へ移転し、母の愛に育くまれ た真の生活は六年後で遂に大阪女子大学英文学科を卒 業して竹崎家へ嫁し、三人の愛児の母となった。 別府市竹崎医院の夫人が ﹁松永牧師を想う﹂ の記 事を読んだ時の驚きと、 感慨はどんなものであった か、その紐育の﹃北米新報﹄所載の通信の物語こそ、 この父にして、 この子ありの讃辞を寄せざるを得な かった。三人の子供を連れて旅順に至り、開業した事 は人生の幸運に、初めてめぐり遇ったというべきか。 そして、その盛運を満喫せんとする終戦の頃、突然ソ 自分は牧師の子供であるというプライドを覚える 連の襲撃に遇い他の同胞達と同様着のみ着のまま、命 からがらで内地へ引揚げた。それ以来今日の生活安定 時、その尊さ、お恵みを感ずる時、新しい力がこみあ を築くまでの苦難は、言語に尽くせない血と涙の、い げて来た美恵子の如く、吾々も亦、吾れこそは神の子 ばらの坂道をよろめきながら攀じ登るねであった。こ であるというプライドを感じ、無条件で吾々を愛し給 うした時、いつも力となり、励ましてくれた声は﹁あ う主の御恩寵に感謝して、新しい地平線に伸び上らね なた方の父は牧師であった。あなた方は牧師の子供で ばなりません。 ある事を終世忘れてはなりません・・・﹂と私︵筆者︶ が言った言葉と、それから﹁お別れの際頂いたパパの 一粒の麦 遺髪・・・﹂ 。これは、私︵筆者︶が病院を去る時、ひ 私は過去三十三年間、 幾度か教会の教壇から祈祷 そかに恩師の遺髪をひとつまみ切り取って置いたもの を、彼ら兄弟が東と西に別れる際、父の形見として、 会の席上で、或は家庭集会や、個人的に、時と場所に 彼等兄弟に分け与えたものであった。 ﹃それをいつも より断片的にまたは全貌を語った。その都度ひしひし 肌身につけて、パパを想い、パパと語る気分になる時 と魂の奥深くまで、くいこむ不思議な力と感化が、遂 は、実に不思議な気力が湧き出て、私を慰め元気つけ に聞く人々をして、新しく命に満ちた信仰人として、 起たしめることである。鉄は鉄によって鍛えられ、魂 てくれます。・・・﹄ は魂に触れて強く鍛えられる。松永牧師の存在は単な る日本人のみの問題でなく、全人類の問題であった。 この意味に於いて、 ﹃北米新報﹄に記載したものを、他 日英文に訳して二世に贈り、彼等の先輩にかゝる義人 があった事を識らせ、或いはまた米人に伝えて、神が 我等に賜りし尊い贈物を共に分けあって、 魂の向上 と、信仰飛躍への糧とし、その結果幾百倍の実を結ん で、神の栄光が現われる事を将来の奇蹟として、楽し み待望している。 ﹃僅か一年余の楽しかった田園生活中、あの優しい パパの言葉と面影、私を無条件に愛して下さった人間 は、この世でパパ一人です。そして父を通して神様を 知る事が出来たのです。今まで歩んで来た凡ての苦難 は、今の生活の為の備えであり、神様のお恵みであっ たのです。今は総てを捧げてイエス様の愛に生き、そ の十字架をがっちりと背負い切るようになり、感謝に 絶えません。・・・﹄ 希くはこの伝記を読む人の魂に大なる反省と蘇生 の力を賜らん事を。 一粒の麦、地に落ちて死なずば、 唯一つにてあら ん、もし死なば多くの実を結ぶべし 松 < 永牧師小伝本 分完 > ︱︱付録︱︱ 世界大戦と義勇兵 ﹃加奈陀同胞発展史﹄︵第三︶ 大正十三年晩香坡市 大陸日報社編纂 ﹁世界大戦と義勇兵﹂の項目中の一節に曰く 一九一六年六月、欧州の戦場へ向け出征した同胞 義勇兵百九十六名中、五十四名は、欧州の地に戦死者 として残り、加奈陀へ帰った者は百四十二名であった が、しかもその大半百三十名は名誉の負傷兵で、完全 な者は僅か十二名であった。この数字を見ても、日本 人義勇兵が、如何にカナダの為に戦ったかが判るであ ろう。 加奈陀日本人会は義勇兵後援会の事業を継い で、 、その決議の如くスタンレー・パークに記念塔を 建て、義勇兵の功績を永久に記念する目的で、寄付金 の募集に着手したのであった。諸方面からの同情は翕 然として集り、遂に一万五千五百有余弗を投じた記念 塔は、同パークに建てられ大正九年四月十九日、ヴイ ミーリッチ大戦の記念日を期して盛大なる除幕式が挙 げられたのである。 合衆国に於て第二世界大戦に際し、 日系人第四四 二大隊が立てたる燦然として輝く武勲の結果、これが 直接、間接の原因となって、吾等同胞に有利な幾多の 権益が与えられ、且つ日米親善友好の促進に拍車をか けた如く、 彼等義勇兵の犠牲と、 愛国殉死の至誠に よって難問題が解決され、その恩沢に浴しつゝあり、 更に注目すべきはこの記念塔が日加親善の楔となっ て、仲介役の労を果している一例を紹介したい。 トロント市﹃大陸時報﹄紙転載 一九五四年九月二十六日、 吉田首相と随員一行十 名は予定の如く午後三時半より市内見物の途中、スタ ンレー公園に立ち寄って、日本人義勇兵記念塔に、黄 中山氏は旧日会派即ち大陸派の闘士で、 参謀本部 の策士の一人であった。従って斯る人が、彼等の仇敵 と目した松永牧師の略歴をどんなふうに執筆したか、 苟くも後世に残す社会記録を書く者は、史家の態度で あるべきである。最も厳正を要し、公平無私の観察の 本文の原稿を、東京の印刷会社へ送附後、 トロン ト市在住の山田昌則氏から、﹃加奈陀同胞発展大鑑﹄よ り抜粋した松永、山田、両氏及び筆者の記録文を送っ て来たので参考として茲に転載した。その理由は社会 改革運動を中軸として、社会は二つの陣営に分離せし ことは記述の通りであるが、主義主張の言論界より、 一般社会上の問題や、日常生活の各層までに、彼は旧 日会派だ、あれは新日会派なりと、偏見的敵対感情が 浸透していたのであるが、この付録文もこうした概念 が一読なす時、あの当時の社会状態を語る適切な証左 としての文献であるからだ。 中山訊四郎著 ・・・・・昭和四年五月七日 第三版印刷 松永文雄氏略歴︱︱三二六頁 山田昌則氏略歴︱︱ 三五頁 此川清一氏略歴︱︱二八四頁 色の大菊花輪を捧げた。久し振りの秋晴に輝く記念塔 ﹃加奈陀同胞発展大鑑﹄ より抜粋記録文 の前で首相一行を歓迎するカナダ人と、同胞約一千人 が参集し、総理は同胞に向って、日本語で一場の挨拶 を述べた云々。 私︵筆者︶はこの記念塔の写真を特に友人に依頼 し、スナップとして本書に掲載することは我等民族の 最も誇とする。この尊い活きた事実を広く世に知らし め、もって英霊を慰め、衷心より感謝の意を披瀝した いからである。 Vancouver, British Columbia This War Memorial, located in Stanely Park, was dedicated on April 2, 1920, to honour the Japanese Canadians who fought in World War I. A smaller plaque, attached later, honours those Japanese Canadians who died in World War II and the Korean War. 下に、良心的で聊かも私情を交え、社会の情実に依っ て曲筆売文を敢えてすべきでない。 ﹃加奈陀同胞発展 史大鑑﹄の如く、永久に伝わる大冊を編纂せんとする 場合、先ず同胞社会の中心地たる晩香坡市に重点を置 き、而して最も大なる存在者の一人であった松永牧師 の略歴を綴るにあたり、彼は日本人メソジスト教会の 牧師であった、尊い職席を失念してか、故意にか明記 していない。もしそれ社会改革問題に於ては、敬遠主 義を以って申訳的に数行を割いて概念を記述し、核心 に触れず不徹底である。牧師が紐育へ赴任後は恰かも 一介の留学生か、道学者の如く取扱い﹁紐育大学に於 て研鑚中であると聞く﹂と書いている。紐育生活が如 何に変転し、最後まで知りぬいて居る彼中山氏が、何 故かゝる曲筆を弄し出鱈目を書いたか、彼こそは同志 の吉江三郎氏等と共謀して、移民局にブラック・メー ルを出し、紐育着後一年半にして、移民局病院生活を 余儀なくせしめた。卑劣極まる徒輩である。その心事 の陋劣なるまさに睡棄すべきものがある、と断言して 置く 帰国せる先輩有志の事歴 ○松永文雄君︵三二六頁所載︶ 東洋英和学校長平岩氏の推薦により赴任し、 大正 三年五月晩市に上陸す。東京府下目黒村字下目黒に原 籍を有し、妻女ノブ子との間に三男一女あり、頗る自 信力に富める活動家なり。曾て米国に在りたる経験あ り︵注神学校在学の意︶移民地の事情に精通し、従っ て総ての行動に円滑を欠かざりしは、独り布教上に便 宜ありしのみに非らず、在留同胞の受けたる感化も偉 大なりき。殊に君は重きを社会矯風に置き、所︵初︶ 志貫徹の為には、 如何なる障碍をも怖れざるの慨あ り。尚保証権専属問題より惹起せる、両日本人会の紛 擾に関しては全力を注ぎて平和の解決に力めたり。此 故に一時英領北米日本人会長の任に膺り、而して平和 促進を図りたる事ありしが、両日会併合の後、君は勉 学の意志を擁きて米国に入り、目下紐育に在りて同大 学に研鑚中なりと聞く。 会社商店地方有力者の営業状態欄にて ○山田昌則︵三五頁所載︶ 土地売買にて相当の資産を得たりと云われたるも、 中途経済的打撃を受けて稍や頽勢に傾き、今反跳︵撥 の意?︶的意気を揮うて通弁し、土地売買業の傍ら満 州旅館を経営す。人格の人、小︵少︶壮活動家たり。 彼の前途刮目に値せんか。 在留同胞人物観欄︵二八四頁所載︶ ○此川清一君 嘗て当市共進会場に於て、 精巧なる飛行機模型の 陳列されたるを見たる者あるべし。而して市は同機に 対して、多大の賞与と感謝状を贈り、尚現在ブリタニ ヤ・ハイスクール陳列所に参考品として保存せられ、 斯道研究家の時々参観を乞う者あるを記憶するなら ん。是れぞ即ち此川清一君の工夫斬新なる機械軸に少 からず喫驚せしめられたる白人の何人も、之が一日本 人青年の頭脳に依って作成去れたるを意外に感じたり という。此の無上の名誉を担える君は、富山県下新川 郡下立村字下立出身にして、白人家庭に働きつゝ余暇 を利用して英語の研究に勉めたるが、君の工業に対す る智識と、先天的発明の天才とは絶えず各方面に発揮 せられしが、尚進んでビーシー州飛行機学校に入学し て、造詣一般の深さを加え、今や自己発明の飛行機に 就て一の難関に逢着し、その按排工夫の為に殆んど寝 食を忘れつゝありと云う。是より先、君は盛本商会に 入り、その総支配人並に会計として勤務し、本店の外 支店三ヶ所を有する同商会の繁劇なる業務を処理して 違算なく、よく多数の使用人殊に十余人の白人使用人 を監督して、些の杵格なからしめたる手腕は、盛本氏 の人を見るの明ありしと共に、世人の激賞して措かざ る所なりき。加之君は美以教会役員並に日曜学校々長 を兼ね、公共に尽くすこと少なからず、年歯なお未だ 若く、勤勉正直にして而も活気充溢、商略に富み、何 事に対するも研究態度を捨てざる所、当に将来有為の 好男児たり。青年の行動意に満たざる事多き移民地に 於て、君の如き有為の人材を有するは、吾人の意を強 うする所以なり。 ◇◇◇ ◇◇◇ 大正八年遊学の目的を以て東部に去れり。 思うに 君が天賦の英才と多年の研究とは、更に幾多の修養を 積みて一段の光輝を発し、偉大なる貢献を齎らすべき は、今より期待しても違うこと無かるべきを信ず。願 くは大成の日の一日も早からんことを。 ︵原文のまゝ︶ ◇◇◇ 右の如く中山訊四郎氏は、私の経歴を針小棒大に、 しかも好意的激賞を以って記述せし点多とすべきが、 事実多少相違があるので、茲に訂正し、同時に必要を 補足説明して、その全貌を明らかにして置く。更にま た私の社会的立場を鮮明にしたいため、抜粋記録文を 原文のまゝ掲げ、読者各位の批判を請うことにした。 大鑑史に記載されてある如く、私は盛本商会の社員と して身に余る責任と義務があり、加うるに教会関係の 飛行機と、その技術的将来性に対しては、 何人も 刮目期待した如く、若人の意気に燃えつゝ、新天地に 飛躍の第一歩を踏み出した。青年の理想的集点も、そ こに結集されたのは当然であったろう。かくて欧米の 飛行書籍や雑誌と取組んで、余暇の全てを捧げて、克 明に研究したのであった。初期の飛行機はブレリオ式 や、ライト式などの如く、全部機体エンジン等の骸骨 を、さらけ出していたが、それを近代的の如く全部機 体を包んで、気流の摩擦面を殺滅し、複葉式より単葉 式に改良して、清楚なストリームライン型を創案した のは、フランスのニューポール式であった。この革命 的花形飛行機の原型そのまゝを、十二尺大に縮小製作 し、それに小型エンジンを据付けて、共進会場内を円 活動と、 ・B 飛 C 行学校へ時々通学のため、他を顧みる 余暇がなかったので、 時局問題の圏外に立つ主義で あった。しかし両派の主導者と接触し、意見交換の機 会もあり、問題の表裡を知る地位にいたのである。毎 年開催される ・B 州 C の共進会に、一九一三年即ち私の 渡米後三年間を研究した実績を社会に展示したのは十 二尺大のニューポール式単葉模型飛行機であった。当 時我国では徳川陸軍大尉と、滋野海軍大尉が、フラン スで飛行術を習得して、所沢飛行場で練習中という、 祖国飛行界の揺籃時代であった。 ところが、時代が急転して一九一四年第一世界大 戦となり、一九一六年に英国義勇飛行隊が、飛行家養 成の目的で、 ・B 飛 C 行学校が創設され、第一回入学志 願者十六名を募集した。然るにカナダは勿論、合衆国 からも応募者が押しかけ、シヤトル市邦人飛行家高左 右氏︵後に帰朝し大阪鳴尾飛行場で墜落した民間飛行 家最初に犠牲者︶等々、その数二百七十名と称された。 幸い市の学務局や、有力者の後援があった所以か、私 も第一期生に抜擢され、巨万の賞与にも優る栄誉を得 たので、東京の大新聞も︱︱天晴れ英国義勇飛行隊 へ、加奈陀邦人唯一の入隊者︱︱とばかりに大きく取 扱ったのであった。 形に飛揚させる計画であったが、会場内の都合で中止 し、単にプロペラの回転と上下左右の舵の操作を感覚 に展覧したのであった。かくの如き単純な事でも、当 時の社会では、最も新しい斬新な事として、新聞記者 が好奇心に駆られ、大々的に報道したのである。 ﹁市 が多大の賞与と感謝状を贈り云々﹂と中山氏は書いて いるが、それはデマそのもので、捏造記事であり、ペ ニーも与えられなかった。しかも閉会後私は市の学務 局へこれをブリタニヤ・ハイスクールに陳列して、一 般市民に参観せしめた。 英国皇帝ジョージ陛下の令弟コンノート殿下が、 遠藤菊男 ﹃私の回想記﹄ 晩香坡市に御立寄の節、我等第一期生一同が、ホテル・ ヴァンクーワの貴賓室で、拝謁の光栄に浴したが、特 に私を見て﹁君は日本人か、大いにやってくれ﹂と激 よく会員から戦争中の経験を聞かれたことがあっ 励のお言葉を頂き、微笑を浮べながら握手を賜ったの た。又、ニュースに出したらと勧められたので、一寸 であった。 三十年前の事を記憶して居るままに書いてみたが、多 少場所年月日の間違いもあろう。 しかし惜しいことに、飛行学校は中途にして経済 上の低気圧に圧縮され、飛行不可能、墜落状態となっ 私は六才の時日本に行き、 小学中学を経て一九二 たが、四苦八苦の努力の結果、漸く悪気流を離脱し、 六年に︵米国へ︶返り、一九三一年に加州大学薬学部 遂に猛訓練も終り、将に戦線へ勇躍出征すべく、動員 を卒業し、同年加州の免許を取った。生まれ故郷のサ を待機していた時、平和の鐘の音は終戦を告げ、歓声 リナスで薬局農事を営んで居た。サリナスは米国のレ は全市に響き渡った。 タスの中心地、グリーン・ゴールド・バレーと呼ばれ た所で、桑港の約百里南方で、ホオート、オードモン トレイ・クアメルの近くだ。例の十二月七日の朝、ゴ 著 者 此 川 清 一 ルフから店に来たら何か町が一寸静かだったが、その 発行所 北米合衆国紐育市東九十一街百九番 時は何とも気にしなかった。私の来るのを待って居た 109 East 91 Street 友達が、ラジオを聴いたかと声をかけてきた。彼は中 に入るとラジオをかけた。 何んと真珠湾攻撃最中 New York, 28, N.Y. で、実況生放送だった。二人はただ互いに見つめ合っ U.S.A. 一九五六年六月十日 定価 五十仙 て居た。二,三ヶ月前から大洋丸や浅間丸事件、又、 東京・渡辺美術印刷株式会社印刷 野村大使のワシントン行きなどで、 日米国交が悪く なって居る事は知っていたが、戦争になるとは夢にも 考えられなかった。あの時は、丁度地獄の底にでも突 き落とされた様な気がした。 初めの一から二週間は色々なデマが,飛んだ。 モ ントレイ、サンタモニカが砲撃された、ユリカに日本 軍が上陸したとか、南加の日本人が大騒動を起こして 居た。戦争が始まると同時に日本語新聞がなくなり、 一世の家では短波ラジオや凶器を没収された。戒厳令 で日本人は旅行や夜八時以後の外出を止められたの で、他地方の日本人たちとの連絡が絶えた。日本娘が フィリピン人に強姦されたとか、ロスやフレズノで日 本人が銃殺された、などとうわさが立った。FBIは 日夜を問わず、一世の家宅捜査をし、主人を引っ張っ て行って行方がわからなくなった。 六ヵ月位経って 他の一人が戻されて、初めて皆の行方がわかった。未 だFBIが来ない家では、来る日も来る日も、自分の 番を待って居た。又、ある人は、恐れて、自分の手紙、 本、写真などを皆焼き捨てた。店の窓は、破され、サ リナス出身の米国国防隊がマニラで全滅したニュース が入り、町の空気は一層悪化した。 フィリピン人は沢 山居るし、 酔っぱらいの兵隊が居るなどで、 我々は 戦々恐々とした。店の方や他人の世話で忙しくて、私 はほとんど︵家を︶留守にしていた。 私の父や妹が 小田原に住んでいたので、 日本からの手紙類は沢山 あった。家内のアルバムの中には、勲章を一っぱいつ けた親戚の軍人、南、えの本石いさん︵部分的に意味 不明︶写真なども沢山あった。家内は三人の子供を守 りながら、そんな物を一人で始末して居た。 その当 時の彼女の心境を思うとぞっとする。 日本人社会には指導者 ︵が︶なくなった為、日系 市民協会が日本人会に変って、日本人社会の面倒を見 る事になった。先ず第一に、日本人の立場を新聞紙上 に明らかにした。裁判、警察問題、困った家族の世話 など仕事が山の様にあった。その時は気がつかなかっ たが、日頃日本人は寄付を一番よくしたが、 戦争に なって︵も︶誰ひとり、ウエルフエヤ︵厚生・福祉事 業︶の厄介になった人がなかった。 我々は四ヶ月も 収入が無くて、どうして切り抜けたか、自分ながら不 思議に思う。・・・あの時は夢中で暮らしていたのだ ろう・・・。 戦争が悪化するにつれ、︵世間の︶空 気も悪化し、加州では土地法採用、又、酒のライセン ス没収を始めた。 一月に入って太平洋沿岸の日本人 立ち退きのウワサが出た。 土地の有力者達はそんな 馬鹿な事は出来る訳がないと慰めていたが、三月末に はいよいよ実施され始め、サリナスでも立ち退き令が はり出された。 私は十日間の間に店は二束三文で売 り払い、キャンプで必要な物は荷造りし、後から送っ てもらう様にした。他の物は物置きの中に入れ、言わ 11 れた通りに着がえ一つ、毛布一枚、ハブラシ一本、あ とは手に持てる荷物だけで、 四月初めのことサリナ ス・ロデォ場の仮兵舎に入った。 次の日、キャンプ長に約束の配給品を催促した所、 ﹁そんな事は知らぬ。必要品は外から買え、残して来 た品物の差し入れは禁止﹂との事。 で、二千人余り の人がここに集められた。 建物は仮兵舎で一むねが 四つ︵20x20︶の室に切ってあり、一間に一家、 九むねに食堂、男女便所、風ろ場,洗たく所があった。 朝、便所に子供を連れて行った所が、すでに鳥の様 に並んでこしかけて居た。その時は︵気が︶カットし たが、今となっては笑い話だ。 湯場は兵隊用のシャ ワーで女や子供には、高すぎて使えなかった。 食べ 物はKラション︵?︶で、一ヶ月位しても、依然とし て粗末な物で量も少ない。夜は腹が減って、友達の所 へ遊びに行く元気もなく早くから床に入って居た。 一ヶ月の内に百ポンドから百三〇ポンドの体重が減っ た。ある朝の事、八才の長男が急に体がひきつけて、 二、三分の間、棒の様になった。すぐ群立病院に送っ たが、付き添い見舞いは許されなかった。栄養不良か らおこった小児麻痺で、 幸いにも大した悪い所もな く、十日位で退院した。その病気はポストンのキャン プでも起こり、加州大学から調査隊が来た。その頃は、 軍の管轄で入り口や塔に銃を持った番兵が、見張って いた。随分ひどい生活だったが、でもサンフランシス コのタンホラン競馬場のくさい馬小屋で、二ヶ月も畜 生生活をした人よりはましだった。 > サリナスは涼しい所で夏でもセーターが必要だっ た。七月四日に最後の組みで、米国一暑いアリゾナ州 のクボストンに向かった。汽車に暖房が入っていて気 持が良かった。三時間ばかりして山を越え、サンオキ ンに出た所が、そこは暑い所で、ボロ汽車で暖房が切 れず汗だらけになり、翌日にはバアカアに着いた。汽 車に持ち込んだ弁当は臭い腐り、サンドイッチとオレ ンジ各一個づつで二日間を過ごした。暑さ百二〇度の 炎天にあった冷房なしのバスで、ポストンまで十里。 暑さとほこり、その上に出発前夜の食中りに悩んだ。 汽車の中でほとんど二日間食べていないので、キャン プに着いた時は女子や子供は半死の状態。前に来てい た人達がぬれたタオルを持って出迎えてくれて幾分よ みがえった。 次 < 号に続く 12 第一期 全34冊 奥泉栄三郎 監修 Publications of Early Japanese in North America 1. 蒙古事件 / 北米墨土哥植民案内 / 在米同胞発展史 ¥19,425 2. インターマウンテン同胞発達史¥23,100 3. 南加州同胞発展写真帖 ¥19,950 4. 南加州と鹿児島県人 ¥16,800 5. 在米岡山県人発展史 / 岡山県人 海外発展略史 ¥11,550 6. 最近の在米同胞 7. 在米日本人人名辞典 ¥23,625 8. 米国西北部在留日本人 発展略史 ¥8,400 9. 奮闘の第一線 ¥23,100 10. 加州人物大観 ¥17,325 11. 在米広島県人史 ¥25,200 12. 加州と福島県人 ¥18,375 13. 在米日本人史観 ¥16,800 14. 在米福島県人史 ¥22,050 15. 在米闘士録 ¥23,100 16. 在米宮城県人史 ¥16,800 17-18. 対米移民問題ニ関スル日米 交渉経過英文付属書 ¥46,200 19-20. 対米移民問題ニ関スル日米 交渉経過 ¥38,850 21. 在米甲州人奮闘五十年史 ¥19,425 22. 在米福岡県人ト事業 ¥25,725 23. 在米邦人の観たる 米国と米国人 ¥15,750 24. ハリウッドの畸人田中柊林 ¥15,750 25. 米国に住む日本人の叫び ¥14,700 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 新布哇 明治 41・2 年布哇邦人活躍史 布哇日本人発展史 布哇活動の大和民族 / 布哇 開国史 ¥33,600 ¥23,100 ¥29,400 ¥18,900 布哇同胞発展回顧誌 布哇日本人史 大日本海外移住民史 布哇日本語教育史 布哇邦人野球史 ¥21,000 ¥31,500 ¥23,100 ¥24,150 ¥33,600 【初期在北米日本人の記録】 第一期 :別冊 ①ー③ 第一期: 2006年6月20日発行 1. 2. 3. 416 頁 ISBN 4-59253-311-4 定価 ¥6,300(税込) 1600 余名の日系人・日本人の人名録 . 385 名の肖像画(計 452 枚)付 288 頁 ISBN 4-89253-312-2 定価 ¥4,725( 税込 ) ¥4,725(税込 税込) (初期在北米日本人の記録 - 全 34 冊の総目次集) ¥3,675 (税込) 3 冊組セット ISBN 4-89253-310-6 定価 ¥14.700 310 頁 ISBN 4-89253-313-0 定価 刊行番号 <<< 既刊 全 30 冊 ¥390,820>>> 冊数番号 分冊数 定価 ( 再版 ) 27 海外活動之日本人 海外活動之日本人( 再版) [27] 2 冊 ¥12,600 在米同胞人物月旦 ( 第 1 篇) 在米同胞人物月旦( [28] 29 復興線上に躍る歸還同胞 [30] ¥12,075 31 角里伏爾尼亜開化異聞 [32] ¥6,835 32 ヤキマ平原日本人史 [33] ¥12,600 ( 渡米の志るべ 43 渡米のしるべ 渡米のしるべ( 渡米の志るべ) [48] 2 冊 ¥11,550 新渡米法 [49] 在米日本人寓真帖南加州の部: 26 在米日本人寓真帖南加州の部 [26] ¥12,600 :其 1 30 平和記念寓眞帖南加在留代表的日本人 [31] ¥26,250 42 新渡米北米事情日本人成功策 [45] 3 冊 ¥16,275 続 新渡米 北米事情日本人成功策 [46] (価格変更) 渡米之栞 (1902) 増補訂正版 渡米之栞(1902) (1902)増補訂正版 [47] 44 學生渡米案内 [50] 3 冊 ¥12,180 績渡米案内 [51] (価格変更) 渡米之秘訣 [52] 47 My New York life 紐育生活 [57] 2 冊 ¥9,450 紐育之日本 ( 紐育の日本 ) 紐育之日本( 紐育の日本) [58] 48 学生の見たるアメリカ [59] (価格変更)¥13,650 49 民族発展の先駆者 [60] ¥17,325 ( 英文 ) 46 日本婦人 日本婦人( 英文) [55] 2 冊 ¥10,500 日本婦人 [56] (価格変更) 50 米国加州日本語学園沿革史 [61] ¥11,550 51 米加に於ける第二世の教育 [62] 2冊 ¥15,540 海外二世教育の体験を語る [62+1](価格変更) 曄子 ) 52 AKIKO( AKIKO(曄子 曄子) [63] (価格変更)¥10,395 英文 ) 53 千代の帰国 ((英文 英文) [64] (価格変更)¥9,765 54 あめりか生活 [65] (価格変更)¥13,440 ( 北米文人著作集 ) 67 北米文藝選集 北米文藝選集( 北米文人著作集) [84] ¥15,750 布 10 オハイの蔭 [11] ¥8,400 布 11 ハワイの印象 [12] ¥10,290 布 15 布哇島一周 布哇島一周 (2006/12 価格変更) [18] 2冊 ¥17,010 布哇 [19] [21] ¥13,650 布 17 実業之布哇創刊 30 周年記念号 :加哇編 布 21 布哇群嶋誌 第一巻 第一巻: [27] ¥15,750 69 日米通信文一名米国事情 [86] ¥8,610 R. A. の米国 : 付在米日本人の産業 [102] 81 N. N.R. R.A. A.の米国 の米国: ¥14,700 82 墨西哥国石油業大観 [103] ¥11,550 日本人土地所有と農園経営法(2006/12 価格変更) [104] 5 冊 ¥16,380 83 日本人土地所有と農園経営法 米国と人種的差別の研究 [105] 借地権、 収穫分配契約、 ㈱株券所有禁止二関スル米国大審院判決集 借地権、収穫分配契約、 収穫分配契約、㈱ 株券所有禁止二関スル米国大審院判決集[106] [107] 米国加州排日の実情 加州日本人の農業 加州日本人の農業 (2006/12 追加) [107+1] 84 通俗米國移民法講話 通俗米國移民法講話:一名・渡米できる日本人[108] ¥11,550 85 米国の排日 [109] 2冊 ¥12,600 排日問題の真相 [110] 詳細は http://www.bunsei.co.jp/denshi/2kiList02.htm ご参照 『在北米日本人研究の栞』The Bulletin of the Publication Project for Japanese in North America (JINA) No. 7 2007 年 3 月 22 日発行 編集人:奥泉栄三郎 発行人:小沼良成 ㈱文生書院 発行 〒 113-0033 東京都文京区本郷 6-14-7 電話(03)3811-1683 Fax(03)3811-0296
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