発表要旨 - 西洋中世学会

個別自由発表
1
要旨
小林繁子
「三聖界選帝侯領における魔女迫害の構造比較‐委員会・請願・コミサール」
神聖ローマ帝国が 16・17 世紀ヨーロッパにおける魔女迫害の中心となったことは、近世
領邦国家における司法・支配の実態を捉える契機として重要である。ドイツの学会におい
てルンメル、ラブヴィらの実証的地域研究が迫害に際して民衆の果たした役割の重要性を
指摘し、迫害現象の地域的多様性がますます明らかにされる一方で、魔女迫害研究を国制
史・社会経済史を横断する近世研究という大きな文脈に位置づけ、その意味を問う作業は
未だ端緒についたばかりである。そこで問われるべきは誰の政治的意思がどのようにある
特定の機関を利用して具体的に実現されたのかということである。本報告では領邦君主・
在地役人・民衆をそれぞれ独自の利害を持つ魔女迫害の主体的なアクターとして捉え、中
世末期から徐々に進められてきた近世的国家形成期においてどのような支配の実態が現れ
たのかを探る。
具体的にはトリーア・ケルン・マインツの三聖界選帝侯領を取り上げるが、この地域は
世俗領邦に比して領域の分散・法的分裂状態・家門的継続性と中央権力の欠如といった司
教領邦に典型的な問題を共通して抱えつつも、迫害現象においては共通性と差異の両方を
示す。トリーア選帝侯領では民衆組織「委員会」、マインツ選帝侯領では民衆の度重なる請
願、ケルン選帝侯領では学識法曹として在地での裁判運営を監督した「コミサール」が迫
害に際してそれぞれ重要な役割を果たした。これらを比較するために、いずれの地域でも
見られ、また民衆の意思を当局に直接伝えるほぼ唯一の手段であった「請願状」を分析の
中心とし、選帝侯法令などと合わせて検討してみたい。そこから魔女迫害を共同体と領邦
君主ないし在地権力との間の相互の応答関係=インターアクションとしてあぶり出すこと
が本報告の目的である。
2
杉山博明
「隠された実母 —『モーセとエジプト王ファラオの聖史劇』における笑いと予表—」
聖史劇とは、一三世紀から一六世紀半ばにかけてのイタリア各都市において、在俗信徒会の会
員によって制作された演劇的表象である。毎年、典礼歴に則って反復された上演の頻度、そして、
他の都市に信徒会会員が招聘されるという制作の地政学的広がりを鑑みれば、フィレンツェの聖
史劇が、同時代の表象文化研究の参照項として重要であることはたしかである。
しかし、同時代のフランスやドイツで制作された受難劇や宗教劇と比較すると、現在、イタリ
アの聖史劇の再構成は遅れている。そのもっとも大きな理由は資料的限界であろう。
『受胎告知』
や『キリストの昇天』、
『マギのフェスタ』という一部の演目を除くと、実際の演出内容を推測す
る資料が不足していることは事実である。ただ、近年の聖史劇研究の進境は著しく、同定された
上演台本の同定はその他多くの演目の再構成を可能にした。
そこで、これまで顧みられなかった聖史劇のレパートリィのなかから、
『モーセとエジプト王
ファラオの聖史劇』を採り上げる。とくに、この演目を考察対象として採り上げる理由として、
聖史劇の典型とも言える強い祝祭性が異教的場面に見られる点、さらに、とりわけユダヤ教色の
強い主題が他の演目と比べて特徴的である点が挙げられる。また、文献学的な事実や、テクスト
内外の特徴といった条件から、15世紀半ばに見物客の前で上演されたことが認められるこの上
演台本を、本発表では分析していくこととする。
この演目の原典となっている『出エジプト記』の記述との照合に加えて、当時のフィレンツェ
における文化状況や背景をあわせて検討することで、このテクストから浮かび上がるのは、見物
客の笑いを誘う演出と、キリスト教的な予表の表象である。この二つの特徴と、原典には存在し
た「モーセの実母」が、台本から姿を消したように見える点を重ね合わせることで、この祝祭的
表象が上演されるときに帯びた政治性を指摘したいと考える。
3
河田
淳
「15 世紀末の北イタリアにおける聖ロクス図像の形成について」
14 世紀にモンペリエで生まれ、ローマ巡礼の帰路で没したとされるロクスは、15 世
紀から 19 世紀にかけて、ペストから人びとを守護する聖人としてヨーロッパ各地で崇
敬されていた。本発表では、その信仰が盛んになった 15 世紀末にとりわけ多くの作品
が制作された北イタリアにおいて、ロクスが図像として形づくられた過程を美術史的な
観点から跡づける。というのも、ロクスはペスト除け聖人としては比較的遅くに登場し
たにもかかわらず、絵画作品において、マリアやセバスティアヌスといった古くからの
守護聖人と並ぶ存在として表わされた点で注目に値するからである。
ロクスに関する研究はこれまで、その伝記や賛歌、芸術作品を対象として個別的に行
なわれてきたが、2004 年 2 月には聖人研究で知られるアンドレ・ヴォシェを中心とし
てパドヴァで学術会議が開催されるなど、近年、領域横断的なアプローチがとられてい
る。この会議において主に信仰の規模を表わす資料として扱われたロクスのイメージを、
図像学的に裏づけることは、より深い議論を可能とするだろう。
発表ではまず、ロクスへの信仰が拡大した契機となった 15 世紀後半に流行したペス
トの状況を示す。つぎに、フランチェスコ・ディエドによる『聖ロクス伝 Vita Sancti
Rochi』(ミラノ:1479 年)などの聖人伝と図像がどの程度イメージを共有しているかを
明らかにしつつ、ロクスが「太ももの横根を見せる巡礼者姿」として描かれるようにな
ったプロセスをおう。そして、ロクスの図像が他の聖人像の特徴的な要素を断片的に用
いられて構成されたことを指摘する。
以上の考察からは、既存の聖人を補完する存在として形づくられたロクスの図像に特
徴的である機能が浮き彫りとなるだろう。
4
籾山陽子
「中世・ルネサンス期の英語テクストによるイギリス声楽作品のディクション(発音
法)」
中世からルネサンス期にかけて、英語は他の言語にも増して大きな発音の変化が進行
中であった。特に英語史の最近の研究では、単語によって発音変化の時期が異なり、そ
の過程で複数の発音が同時に存在していたとされている。しかし、ちょうどこの時期に、
印刷技術の発達により綴り字が固定され発音と綴りの乖離が起こったため、当時の発音
を特定することは困難である。従って、この時代のイギリス声楽作品の歌詞についても、
テクストのみでは当時の発音を特定することは不可能に近い。
一方、実際の音楽の演奏では、英語のディクションにはあまり関心が払われず、学問
的な対象にもなっていない。この時期の声楽作品について、発音推定をした先行研究は
わずかにあるが、歌詞として音楽と関連付けて研究された例はほとんどない。
本発表は、以上のことを踏まえて、この時期のイギリスの声楽作品について、英語学
からの考察に加えて、音楽面から音楽構造や歌詞と音楽との関係も考察することにより、
複合的な観点から作曲当時の発音を推定できることを示すものである。
たとえば、英語史の研究から二重母音と単母音の両方の可能性がある語について、対
応する箇所の音型から、緊張が持続するのか、緩んで次に進むのかなどを考慮して、相
応しい発音を選択できる。また、単語に割り付けられている音節数により、英語の発達
における、子音から母音への変化、母音の消失あるいは挿入などの変化の前後を判定で
きる。
以上のように、音楽作品の歌詞であることを活かして、英語の発達、歌詞の韻律、押
韻に、音楽面からの考察も加えて、当時の発音に近いものを推定できることを示す。
この研究成果により、従来多くの場合口頭伝承により受け継がれてきたディクション
に対して、学問的な裏付けのある、作曲当時に近いものを提示でき、表現の方法に新た
な可能性を与えるとともに、英語学の研究にも新たな視点を加えられることが期待され
る。
5
保井亮人
「トマス・アクィナス『ロマ書註解』における信仰(fides)の問題」
本論はトマス・アクィナス『ロマ書註解』(Expositio super Epistolam ad Romanos)に
おける信仰の問題について、当著作の 105-108 節に依拠し、それを他の箇所(392, 635 節)
や『神学大全』第 2 部の 2 第 1-16 問によって補完することで論じるものである。Torrell
によると、当著作はローマ滞在時代の 1265-68 年に講解の形で成立しているが、トマスは
ナポリ滞在時代の 1272-1273 年に最初の 8 章を註解として書き直している。本論で扱われ
る箇所はいずれも註解に属する部分であり、トマスの最晩年の思想を反映するものと見な
すことができる。
第一に 105 節が検討され、信仰はいかなるものであるか(quid sit fides)が問われる。
それは確実性を伴うある種の同意(quidam assensus cum certitudine)であって、見られ
ざるもの(id quod non videtur)に関わり、意志によって(ex voluntate)なされるもの
である。
第二に 106 節が検討され、信仰が徳であるか否か(an fides sit virtus)が問われる。
カリタスによって形成された信仰(fides caritate formata)は徳であり、形相なき信仰
(fides informis)は徳ではない。さらに 392 節に即して、信仰を徳たらしめるカリタス
が神のわれわれに対する愛とわれわれの神に対する愛との二つの側面から考察される。
第三に 107 節が検討され、106 節において考察された不完全な信仰と完全な信仰とがいか
なる関係にあるかが問われる。両者は同一の習慣に属するものであり、不完全な信仰がカ
リタスによって形成されることは、同一人物が子どもから大人になるようなものとされる。
第四に 108 節が検討され、完全な信仰によるキリストの内住(habitatio)について考察
される。これに関連してさらに 635 節に即して、霊的人間(homo spiritualis)に関する
トマスの言明が参照される。